保毛尾田保毛男の何が問題なのか

とんねるずの石橋貴明が演じる保毛尾田保毛男が炎上しているという。これを人権の立場から批判する人がおり、逆にエンターティンメント批評市場に参入したい芸人が反論するという不毛なことが起きている。

だが、この問題でもっと大切なのはフジテレビがメディア企業としての役割を終えようとしているという視点だ。フジテレビは仲間のふざけあいに終始した結果アンテナの感度が鈍ってしまい、最新のエンターティンメントが提供できなくなっているのだろう。そこで職場にあぶれそうな芸人が評論家として活路を見出そうとしているのだ。

この芸人は差別者がでるとそれに対抗することで被差別者の存在が浮かび上がると主張している。一番怖いのは無視されることであるというのだ。

この人は「ブスは恋愛対象としては無視されるが、だったら笑い者になったらマシ」と言っているように見える。典型的な日本のお笑いの光景である。弱い人や劣っている人たちを叩いて喜ぶ以上のエンターティンメントが出てこなかった日本のバラエティーの世界観がにじみ出ており、非常に痛々しい。

実際に差別されるというのはどういうことだろうか。例えば女性は企業の意思決定から排除されることが多いのだが、差別している方は「俺は差別しているなあ」などとは思わない。男性は「当然男性の方が優れているのだから、能力が高い人が高い役職について当然」と考えている。これが女性側にとっては差別なのである。同性愛の場合も、同性愛者は笑われる存在になって人を楽しませるのでなければ無価値であるというひどい偏見があるが、偏見を持っている方はそれを差別だとは感じない。生活がなりたっているからそれでいいだろうなどとのんきに考えている。

差別を「際立って目立っている」と規定するのは間違っている。ゆえにこの芸人の議論は丸ごと無効である。

にもかかわらずどうしてこの芸人はこのように突拍子もない意見表明をしてしまったのだろうか。第一にこの芸人は差別問題についてそれほど関心がないのだろう。次に何か炎上気味の極端なことを言わなければ目立たたず、評論家になれないと感じているのだろう。

アメリカのようにすでに多様な社会では「差別はない」ということにしておかないといろいろな厄介ごとが起こる。まず、すでに多様な人たちによって経済が支えられており、一方的な差別者・非差別者が存在しないという事情もある。だからポリティカルコレクトネスという嘘が必要なのだ。

例えば日本人(日系人ではなく)男性は、英語ができず白人社会から排除される可能性があるが、一方で女性差別者であるに違いないという偏見にもさらされている。見合いで結婚した女性を経済的に支配し、女体盛りで楽しみ、渋谷で若い女性を買うというステレオタイプだ。差別・非差別構造が複雑なので、それがないことにしておかないと社会が大混乱に陥る。

だからアメリカ流のポリティカルコレクトネスについて日本で話してもあまり意味がない。日本はマジョリティだと感じている人が多く、少数者をいじめても構わないとされる社会だからである。

だから日本のお笑いタレントは差別に立脚して収入を得ている。太っているとかブスであるという属性は「笑われるもの」だが、これを「いじられることでかろうじて社会に居場所を見つける」と変換した上で、それをショーにしたててコマーシャルと一緒に放送するのが日本のバラエティーだ。こうすることで平均点の(あるいは取るに足らない)容姿の人たちが多数派であるという満足感を得るという構図になっている。

日本のオカマビジネスもそのような成り立ちになっている。新宿や六本木にお店がありショーを展開している。そこにいる気持ちの悪いオカマが保毛尾田保毛男の原型になっているのだろう。実際にはラスベガスから直輸入したショーを見せる店などもあるのだが、それは「あまり面白くないもの」と考えられている。笑われる存在だけが取り出されて見世物として再消費されるのである。

これは平均的な多数派が少数者を笑い者にして満足を得るための装置だと言える。では、少数者が少数者に向けて作るとどのようなものができるのだろうか。そして、それには価値があるのだろうか。

日本の同性愛者にのマーケティング的価値はすでに試算されている。日本のLGBTマーケティングの市場規模は6兆円程度なのだそうである。リンク先には「LGBTに嫌われないようにするのが最低限である」というような控えめなことが書いてあるので、巨大ではあっても、まだ慎ましいセグメントなのだということがわかる。

だが、欧米はもっと先に行っている。同性愛者が同性愛者向けに表現した映画がある。トム・フォード監督の「シングルマン」である。

 

 

シングルマンはファッションデザイナーとして有名なトム・フォード監督の映画だ。トム・フォード自身も同性愛者として知られている。この中では同性愛者は知的で孤独なイギリス人教授として描かれていて、彼の性的対象も大学で文学を学ぶフワモコセーターが似合う美青年とか、スペインなまりがあるエキゾチックなイケメンなどである。つまり、同性愛者は知的に美しく描かれている。

この人たちは自分の存在を隠してはいないが、わざわざ笑われるためにさらし者になったりはしない。つまり、わざわざカミングアウトなどはしないのだ。こうした作品が成立し得るのは、同性愛者向けのマーケティングが確立しているからだろう。裕福で可処分所得が高い同性愛者が支持するデザイナーというものが商売としてなりたち、異性愛者の男性が着ても別におかしくない製品が存在するのだ。

日本のテレビは仲間同士のふざけあいで、視聴率という単一の指標で全てを測るという「一人区制」をとっている。小選挙区制なので多様な意見がこぼれてしまう。バブル期にはこうした「みんなが同じ価値観を持っているはず」でよかった。だが世の中が多様になってくると、こうしたマジョリティは成立しなくなる。だが、テレビ局は過去の成功体験だけを頼りにコンテンツを作っているので、これに気がつかない。特にフジテレビはバブル期に成功した人たちに占領されていて、彼らが持っている「こうすれば喜ぶだろう」という思い込みが、そのままテレビから垂れ流されている。

実はメディアが多様な意見をすくい上げられなくなっていることが問題なのであって、個々のコンテンツについて語るのはあまり意味がないのではないかと思う。つまり、みんながうるさく言うから面白いコンテンツが作れなくなったというのは間違った見方であり、実際にはテレビ局が世の中についてゆけなくなったから面白いコンテンツができなくなったと考えるべきなのだろう。

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