排除の論理の論理

小池百合子東京都知事が排除の論理を言い出した。これにたいして「政党は同じ考えを持った人の集まりであるから政策による排除があっても当然」という擁護論を見かけた。ただ希望の党が躍進すると日本はかなり悲惨な状況に陥ることが予想される。

  • 国民は希望の党が後日決定する法律に無条件に従え。
  • 国民は希望の党が後日決定する税を無条件に支払え。
  • すべての結社は禁止され、ガバナンス庁がこれを監視する。

だから、小池擁護に回る人は間違っているのだが、それが「間違っている」という反発意見にもどこか説得力を感じない。それはこの議論には一つ大きなものが欠落しているからだ。あまりにも大きすぎるので却って見えにくいのかもしれない。

もともと政党は同じ考えの個人が仲間を募るというものだ。例えば、平等な世の中を作りたいと考えている人は共産党を組織するし、宗教団体が政治に影響力を与えたいと考えると公明党ができる。

こうした政党の理念にはそれなりの説得力があるので、有権者に影響を与えて自発的に賛同者が集まる。現在この過程が進んでいるのが立憲民主党である。本当は演技なのかもしれないが「草の根的に盛り上がった」という演出をしており、それなりの共感が広がっている。

人々は自分で考えて納得した主義にはより従いやすいので共感は重要である。ある考え方や組織に共感して自ら従うことをコミットメントという。人々がコミットするように働きかける人をインフルエンサーと呼ぶ。枝野さんはリベラルな人に「影響力がある」インフルエンサーであると言える。

ところがよく考えてみると、インフルエンスにもコミットメントにも適当な日本語の訳がない。先日見たリベラルが混乱して受け止められているのを見ると、インフルエンスもコミットメントも理解されていない概念なのかもしれない。

そもそも、日本には人々は自分の信念に基づいて自発的に協力するという概念がないので、それに関連する日本語がない。だから小池百合子さんが自分の主義を押し付けて議員をコマのように使ってもそれほど違和感を感じないのかもしれない。

しかし、このトンネルには裏側がある。それは「日本型の合意形成はどのように行われていたか」という視点である。

日本人は個人には意見がないと考えている。まず小さな組があり、その組がより大きな組を作る。最終的には集団が代表を出し合って、中央にいる空白を祭り上げながら意思決定を行う。つまり、誰も何も決めず、従って誰も排除されないという構造を作るのである。集団主義などと呼んだりもするのだが、どこまでも集団がつきまとうのが特徴である。

ここで重要なのはこうした意思決定の構造を温存するのが「日本型の保守である」ということだ。意思決定は利益の追求と分配のための装置だから、日本の保守は思想ではなく、いわば生業のようなものである。いずれにせよ、保守が成り立つためには日本人がどのように意思決定しているのかということを理解するか、意思決定を支えている構造を丸ごと温存する必要がある。前者は暗黙知の形式知化であり、後者は暗黙知をホールドする装置の温存である。

小池百合子の排除の理論が間違っている理由はこの2つの通路から説明ができる。第一に西洋型の民主主義を理解していないという批判ができる。次に、古くからある日本型の意思決定プロセスを理解していないと言える。

日本の政治団体を見ていると末端の人たちはそもそも信念に基づいて行動しているわけではなく、たまたま近しいからという理由で政治家を信じているに過ぎないように見える。今回民進党はいったん前原さんのいうことを信じたが「組織がそう動く以上従わなければならないと思った」と考える人が多いようである。加えて地方組織には情報が全く降りてこなかったようだ。これは民進党が西洋型の意思決定を行っていなかったことを示している。

いずれにせよ、第一の通路から小池さんを批判することは難しいように思える。もちろん立憲民主党が西洋型の民主主義正統になる可能性はあるのだが、草の根は選挙向けの演出にすぎないという可能性は捨てきれない。

ゆえに、希望の党は日本型の意思決定を逸脱していると考えた方が、批判としては説得力がありそうである。だが、残念ながら民進党右派の崩落はとてもわかりにくいものになっている。小池さんの政治手法は希望の党だけを見ていてもわからないが、都民ファーストの会と合わせると次のような特徴があることがわかる。

  • 都民ファーストの会では派閥の設立につながるような食事会が禁止されている。
  • 都民ファーストの会では議員が個人で有権者とつながるようなSNSの利用が制限されている。
  • 希望の党では明示されない「党の(とはいえその党が何を示すのかがわからない)方針」に無条件で従うことが求められている。
  • 希望の党ではガバナンス長が設置され、議員の思想と行動がチェックされる。
  • 希望の党では明示されない「党の求める金額」を収めることが要求される。党が誰なのかは明示されないし、金額も提示されていない。

この一連の方針を見て思う疑問は次のようなものだ。

  • 小池新党はどのようにして利益を分配するのだろう。
  • 小池新党はどのようにして意思決定し、どのようにして利害調整をするのだろう。
  • なぜ人々は小池新党に従うべきなのであろう。

一つだけ確かなのは、小池さんは日本型の持続可能なガバナンスについて何も理解していない。日本型の意思決定はとても複雑で冗長なので、前近代的で無駄なものに思えてしまうのだろう。と、同時にそもそも意思決定をしてこなかった民進党右派の人たちも日本型のガバナンスについての理解がない。

自民党は派閥主導の集団指導体制であり、集団は各種の利益団体によって支えられていた。つまり小池さんがしがらみと呼んでいるものが実は意思決定においては本質だったのである。

集団が代表を定期的に交代させることによって、ある集団が暴走せずすべての党員が意思決定に参加できるようになっていた。ところが、ある時点からなぜか党派同志の対立が吸収されなくなってゆく。すると場外乱闘が起き、小政党ブームの一つの要因になった。

保守はもともと思想ではないので、利害関係の調整と大きく結びついている。だから、政党が党員に利益を分配できなくなると保守思想そのものが消滅してしまう。そこで着想されたのが特区構想なのだろう。もともと小池さんは女性であるという被害者意識のために利益分配してもらえないという疎外感を持った人なので、保守的な意思決定をネガティブに捉えているのかもしれない。

こうした保守機構のアウトサイダーだった人たちが作ったのが希望の党であり、どういうわけか独裁・全体主義化してしまった。それは「無条件に私に従え」とか「私が指定する金額を貢げ」というようなものだ。前者は意思決定に関わっており、後者は利益分配に関わっている。

これが国政レベルで展開すると、個人は集団に無条件で従えという社会が構築されることになる。そしてそれは保守の完成形ではなく保守の残骸だ。議員に要求される項目を社会に展開すると次のようになる。

  • 国民は黙って私が指定する税を支払え
  • 国民はガバナンス庁が監視せよ。
  • 国民は私が指定する法律に賛同し無条件に従え。

よく、小池新党系のこうした約束を反社会組織になぞらえる動きがあるのだが、これは実は当然である。彼らも社会のアウトサイダーではあるが形式への信仰は保持している。同じような形式は新興宗教にも見られる。小池さんを「組長」とか「教祖」に置き換えてもそのままの形で通用する。実は日本型組織の残骸としては極めて一般的でありふれたものなのだ。

このような問題が起こる理由を考えてみたい。第一には保守を支える利益分配の仕組みが国レベルで壊れつつあることを意味している。次に日本の保守には「正統な」という思い込みがあるので、何が日本の保守であるべきかということを考える人がいなかった。だから、形式に内臓されている暗黙知が崩れてしまうと、保守思想そのものが再現不能になってしまうのだ。

左派リベラルには抑圧され差別されているという被害者意識があるので「では日本流の左派リベラルはどのようにして存在し得るのか」という認識を持てる。つまり、リベラルと保守を比べた場合、保守の方がより危険な状態にあるということがわかる。

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