なぜテレビでキチガイと言ってはいけないのか

田原総一郎が朝生で「キチガイ」という言葉を使ったとかで、アクセスが伸びた。田原さんはテレビのルールを熟知しており、このエントリーを書いたときの小林さんとは状況が違っている。


小林旭がテレビでキチガイという言葉を使い、フジテレビのアナウンサーが謝罪した。この件についてネットでは「キチガイにキチガイといって何が悪い」という声があるそうだ。小林さんの言葉は「無抵抗の人間だけを狙ってああいうことする人間っていうのは、バカかキチガイしかいないよ」というものであり、なんとなくなるほどなと思うところもある。

テレビでキチガイと言ってはいけない直接の理由はそれが放送禁止用語だからである。民放は広告収入に依存している。広告を載せる以上は前提となるコードがあり、それに触れたのがいけないということになってりう。「テレビ局が勝手に決めた」という反論があるようなのだが、出演者たちは広告収入からギャラをもらっているのだからルールは守られなければならない。

だが、なぜそもそもキチガイは放送禁止用語なのだろうか。それは、日本の精神病患者が長い差別の歴史を戦ってきているからだ。もともと精神疾患は不治の病のように考えられており、いったん発症すると病院に閉じ込めて死ぬまで出てこれないように処置するのが当たり前だった。薬物治療ができるようになってもこの状態は変わらず、今でも社会的入院患者(受け入れ先があれば退院できるが、実際には入院している人たち)が18万人もいるとされている、これはOECD諸国では一番多い数なのだそうである。(#wikipedia「社会的気入院」)

つまり、よくわからないからとにかく閉じ込めておけという風潮があり、人権侵害の恐れが強い。このような差別を助長するので、精神病者や疾患保有者を示す「キチガイ」という言葉を一概に禁止していると考えられる。

例えば風邪のような病気を全て「病気」とひとくくりにして一度風邪に罹患したら一生社会に出てこれないという状況を考えてみると、これがどれほど異常なことだったのかということがよくわかる。だが、精神的な不調は外から見ても原因が観察できず、よくわからない。そこで「キチガイ」とひとくくりにされかねないのである。

このように正気とキチガイの境目はわかりにくくなっており、単に封じ込めておけば良いというものではなくなっている。

日本の例でいうと薬を処方されながら社会生活を送っているうつ病の患者が多くいる。つまり、薬があれば社会生活が送れる人たちがいるのである。うつ病だけに限っても100万人程度の患者がいるそうだ。こうした人たちをすべてキチガイの箱に入れてしまうと多くの人がキチガイになってしまう。

しかしながらうつ病の人たちはまだ診断名がついているという意味でわかりやすい存在である。BLOGOSによると最近問題になったラスベガスの銃撃犯はギャンブル依存に陥っており向精神薬の処方も受けていたようである。さらに薬そのものへの依存傾向があり精神科で薬をもらっていた可能性がある。さらに、正気の日常生活を送っており、フィリピン人の女性と交際もしていた。怪しまれずにホテルに宿泊することもできた。医者を含む人たちが彼を見ていたのだから、外見上はとても精神に異常があるようには見えなかった。このように、正気とそうでない人たちの間の線はかつてないほど曖昧になっている。銃撃した人を後からみると「なんらか精神に問題があった」ということは間違いがなさそうだが、だからといってそれを事前に察知することはできないのである。

アメリカではさらに状況が一歩進んでいる。パフォーマンスを上げるためにスマートドラッグという種類の薬を飲む人たちがいるのだ。。副作用はないということになっているようだが、現在は覚せい剤として指定されている薬も昔はパフォーマンス向上のために使われていたという歴史がある。さらに抗鬱剤のなかにもスマートドラッグ分類されているものがある。つまり、正常と異常の境界線はどんどん曖昧になっている。

小林さんが「あんなことをする人はキチガイに決まっている」という時、キチガイというのは外見からみて明らかに精神に異常をきたしている人だという前提があると思う。しかし、それはこのケースに関しては当てはまらない。実はこれがアメリカでこの事件が人々にショックを与えている一つの理由だろう、さらに、明らかに精神に問題がありそうな人がみんな人を殺すかどうかわからない。これは「精神に不調があればとりあえず閉じ込めておこう」という偏見のある日本では精神疾患を持った人たちへの差別につながりかねないという問題もある。

田原総一郎さんもかつてのように気楽な気持ちで「キチガイ」と言ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。小林さんは歌手でありそれほど社会問題についての知見は求められないが、田原さんには言論人としての経歴と責任がある。だから「アナウンサーが謝罪して終わり」にするのではなく、自らの口で説明すべきではないかと思われる。アナウンサーが「臭いものに蓋」と言わんばかりに謝罪して終わりにしてしまっては、言論人としての責任は果たせない。

いずれにせよ、民放はサザエさんのような「普通の社会」を前提としたスポンサーシップに支えられているのだが、実際にはその社会はもはやないと言って良い。これを民放の枠内で解消するのか、ネットメディアのように違った場所で解消するのかという議論派あっても良いのかもしれない。

誰が正常かというのは昔は自明のように思われた。ゆえに精神病を発症した人への差別があった。だから、いわゆる「正常な人たち」は、精神に問題がある人たちは閉じ込めておけば良いと無邪気に信じていたことになる。だから今でもテレビではこうした人たちを指す「キチガイ」は封印されてなかったことになっている。

小林旭がキチガイ発言をした番組は「ニュースを斬った」ように見せるエンターティンメントでしかない。政治ニュースですら消耗品として扱われており、そこに問題を解決しようという意欲はない。だから小林さんに期待されているのは、ぎりぎりの線を狙いつつ、本当に議論を呼び起こすような課題に触れないようにするというアクロバティックな技術なのである。一方で、田原総一郎氏の番組も言論プロレス的な要素がありこれをジャーナリズムとして位置付けて良いのかはわからない。

こうした問題が未だに議論を呼ぶのは、受け手も送り手も難しくて面倒なことはできるだけ考えたくないからだ。このため日本人はこうした厄介な問題を閉じ込めてしまいできるだけ見ないようにしてきた。隠蔽することで「自分がそういう状態になったらどうしよう」という不安を隠蔽してきたのだ。だが、こうした不調を隠蔽すると、実際に自分が同じような境遇に陥ったら社会から見放されるのだろうなという見込みが生まれる。

「テレビではこうした言葉を一切使わない」のも隠蔽の一種だ。一切見ないのだから知識も増えず対処もできない。実は、これが多くの人々を不安にさせているのではないだろうか。その意味では発言した人はそれなりの説明責任があると思う。単に謝罪して終わりにすべきではない。

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