選挙とデモでわかったリベラルの課題

選挙が終わって2日間、なぜ自民党が勝ったのかということを考えていた。選挙日から政治系の記事に多くのアクセスが多く集まったからだ。日本人は表立って何かを言ったりはしないのだが、かなり集団的に動く。だから、一挙に動向が変わるのである。

アクセスが集まったものを眺めていると、あるべき姿と現実との間にギャップがあり、それが受け止められなかったのではないかと推察される。政治的ブログというのは自分の理想とする政治をプロモートするのが目的なのだろうが、その意味ではこのブログは政治的ブログではないのかもしれないとも思った。それよりも認知的な不協和を癒して悩みを癒したいという人の方が多いのだろう。

認知的不協和を修正するためには現実か自分の認知を変える必要がある。現実が変わらないわけだから自分の認知を変えるべきだろう。これが叶わないと怒りの感情が生まれる。

例えばTwitter上では「有権者は愚民だ」とか「バカだから」という声が渦巻いていた。気持ちはわからなくはない。安倍首相に政治家としての意欲があるとも思えないし、困った人を助けるのが政治だとしたら目の前で起こっていることはでたらめとしかいいようがない。安直な言い方をすれば「正義はない」ということになるだろう。

ただ、見たことがない有権者を愚民とか家畜などと罵ってみても状況は改善しない。却って離れてゆくだけだろう。

例えば、選挙に行かないような人たちを選挙に行かせて正義をなすように働きかけるにはどうしたらいいだろうかなどということを考えてみるとよい。例えばお昼頃のコンビニの駐車場にはたくさんの車が停車していて車内でぼんやりと過ごしている人が多い。多分、昼休みに食堂に入るお金もないのだろうし、そもそも立ち寄れる事務所すらないのだろう。1日誰とも話さないで黙々と荷下ろしをしている人もいるだろうし、誰も話を聞いてくれないのに知らない家のドアを叩いて売れるはずもない品物について話をしようとしている人もいるのではないか。同じようなことを毎日繰り返して対して希望も持てなくなっている人と話すために、トントンと車のドアを叩いて「愚民ども選挙に行け」などと言ったら何が起こるだろうか。多分殴られるかもしれないが、選挙に行ってくれる人はいないのではないだろうか。Twitterで「愚民」とか「家畜」などというのはつまりそういうことだろう。

かといって「立憲主義は素晴らしいもので、あなたには理解できないかもしれないが、日本の政治にとって必要である」と訴えたところでどうなるものでもない。「ご高説を垂れる賢いあなた」に対して敵意を向けることになるのではないかと思う。人は誰かが自分よりも賢いと認めるのが嫌いだからだ。

こういう人たちを選挙に行かせるためには多分なんらかの欲求を満たしてやる必要があるのだろう。これを外的インセンティブという。例えば、金券を配るとかみんなで(多分きれいな女の人なんかがいいだろう)褒めてやるとか、そういった類のことだ。しかし、それで「立憲主義がなされるような」政治が実現できるだろうか。とてもそうは思えない。権力を私物化したい側の人たちが同じことをすれば、外的インセンティブで動く人たちは容易にそちらになびくに違いない。

そもそも、どうして多様性が包摂されるような政治がなされるべきなのだろうか。この答えを導くのはそれほど難しくはない。アメリカやヨーロッパで繁栄している地域は包摂性が高い地域が多い。これにはいくつか理由があり、その理由を知ることで少なくとも「なんだかモヤモヤとした気持ち」を払拭することはできる。それを自発的に知って理解するのは大切である。

例えば多様性がある都市は付加価値を高めて高度な産業と才能のある人たちを惹きつける。こうしたことはリチャード・フロリダダニエル・ピンクなどの著作を読むと理解できる。また、ダンカン・ワッツなどもスモールワールド現象を引き合いにして「弱い絆」が成功のためには有益であるなどということを書いている。人々が出入りすることで新しいアイディアが生まれて成功しやすくなるからである。新しいアイディアを生み出すためには多様なインプットがあった方が良いわけである。

実際には多様性の推進というのは経済的実利に基づいた話であって、共産主義などとはあまり関係がない価値観なのだ。

同じように女性が働きやすい環境にあった方が経済が豊かになる。単純により多くの才能が経済に向かうからである。さらに消費者の半分は女性なので女性に受け入れられやすい商品やサービスが生まれる。これも特に左派思想とは関係がない。

問題なのは当のいわゆる左派リベラルの人たちがこのことを信じていない点にあるように思える。そういう社会を見たことがないからだろう。農業しか国の経済がない人に「映画や演劇を見せる仕事がありますよ」などと言っても信じてはくれないだろうし「何も用事がないのに車で遠くに出かける」ために車を買う人がいるのですよなどといっても笑われるに違いない。それはエンターティンメントやドライブなどという概念を見たことがないからである。同じように多様性を知らなければ多様性を信じることはできない。

加えて、リベラル=共産主義という思い込みがあり、さらに共産主義=社会から受け入れられないという決めつけがある。つまり自分たちで自分たちのことを縛り付けている。考えてみると奇妙な状態になっている。

何人かの人と話をしてみた。

ある人たちはデモをやっても何も変わらない現実に負けかけているようだ。原発反対のビラがなくなり、特定の政党を応援するポスターが消え、戦争法反対のポスターもなくなり、憲法第9条の勉強会も行われなくなった。彼らが抱えている問題は例えば姑の介護の問題とか、子育てをしている間は会社のキャリアからは脱落するとかそういうことである。しばらくお勉強会や抗議運動をしているうちに、社会に怒ってみてもその声はどこにも届かないし、自分が見放されている現実というものは変えられないという現実に直面してしまうのだろう。そこで「難しいことはわからない」と政治から引きこもってしまうのだ。

こうなると、気がつけば「安倍政治を許さない」というビラだけが扉に貼ってある。もう「許さない」ということしか訴えたいことは残っていないということになる。彼らがこの数年で学んだのは絶望することだけである。希望を抱くから絶望するのであり、だったら最初から期待しない方がいいということを学ぶのだ。

また別の人たちは自民党のおごった政治に辟易しているのだが、よく聞いてみると「自分と同じ考えの人がいないか」を街に出て確かめたことはないようである。だが言いたいことは色々とあるので、長い返信を書いてきたりする。こういう人たちはまだ絶望できていないということになる。

ここでできることは何だろうかと改めて考えてみた。第一には現実とありたい姿の間に乖離があるということを認めることなのではないかと思った。その上でどうしたいのかということを考えてみるべきだろう。

ただ、こういう鬱屈とした思いを抱えている人たちは大勢いるはずだ。だから、仲間を探すこと自体はそれほど難しいことではないのではないかと思う。仲間を探すのが嫌だと思う人は多様性や創造性について勉強してみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、まずは怒りや苛立ちについて見つめてみなければ、何をすべきかは見えてこないのではないかと思う。

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