「糸井重里」と感動マーケティングの終焉

このブログは政治ネタが多い。有権者はあまり政治に興味がないようだが、特定の人たちがおり熱心に政治課題について研究しているからだ。しかし、その中身は建設的な提案というよりは政権への批判である。この数年は安倍首相と自民党について書けばそれなりにページビューが集まり、それを止めると流入が止まるという状態が続いていた。




安倍政権はアメリカとの関係を強化することに腐心しており国会を無視して法案を通してきた。特定機密の件から集団的自衛権までがそれにあたる。オバマ政権下の出来事だったことを考えると、オバマ政権は大統領のクリーンなイメージとは裏腹に日本政府にかなりえげつない圧力をかけていたのではないかと思われる。これが一段落し正直なトランプ政権になったこともあり、安倍首相が矢面に立たなくても済むようになっているのだろう。

こうした客層の人たちは主にTwitter経由で流入してくるのだが徐々に別のターゲットを見つけつつあるようだ。その一つが糸井重里さんの炎上である。神戸のクリスマスツリーが発端になっているのだが、この炎上の中身をみていると少し様相が違っている。どうやら怒りというよりは静かに燃えているようである。

もともとこの問題は、西畠清順という人が発端になっている。園芸界ではプラントハンターとして知られた人なのだが一般の認知度は高くなかったはずである。にもかかわらず派手に燃えたのは背景に糸井重里さんのエンドースメントがあったからのようである。

150年も山奥で生きて生きた木を切り刻んで金儲けの道具にするのがけしからんというのが表面的な非難の理由だ。当初は、山間地域の人たちは林業で生計を立てることができないから山間地の人たちの声を説明すれば合理的に騒ぎは収まるだろうと思っていたのだが、そのレベルを超えてしまっているようである。

西畠さんが山間地の事情と植林事業について説明している媒体も見つけた。しかし、これはマガジンハウスのものであり、多分逆効果なのだろうなと思った。マガジンハウスはなんとなくふんわりとした感性を全面に押し出して価値観を演出していた会社だ。これがSNS時代に合わなくなっていることがわかる。

全く同じに見える現在のインフルエンサーマーケティングとかつてのおしゃれ系感性マーケティングだが、実際には全く異なっている。インフルエンサーは街の声の集積なのだが、おしゃれ系感性マーケティングは、最初に売りたいものがあり「みんながいいと言っていますよ」とか「銀座に通ってい人たちの間では人気ですよ」などと主張して消費者を納得させる手法だったからである。

SNSが発達し、実は「銀座に通っている人たちの声」というのが血の通わない作り物だということがバレてしまったせいでおしゃれ系感性マーケティングは終了してしまった。しかし、マガジンハウスの人たちはそれに気がつかずに、お互いを褒めあっている。これが上からで痛々しいと感じられるのだろう。

しかし、糸井さんに反対する識者たちの声をツイッターで聞いてみると、どうもそれだけではなさそうである。加えて、この声も実は一様ではない。

第一に糸井さんに反対している人たちは「あの界隈」の人たちである。世間では左派リベラルと呼ばれているのだが、実際には社会主義とは全く関係がない人たちなのだ。彼らは原発に反対し、憲法第9条は守られるべきだと考えている。また金儲けに懐疑的で、東京オリンピックにも反対している。これらは「連想」でつないでゆくことはできるのだろうが、彼らが反対しているものに対して改めて共通項を探そうとしても「よくわからない」としか言いようがない。これはネット右翼とも共通している。つまり、彼らにはなんらかの共通の文脈があり、それに引っかかったものは全て好きだったり嫌いだったりするのだ。

既得権益層が自分たちの利権を確保するために広告代理店(これはなぜか博報堂ではなく電通のことだ)を使って民意をコントロールしている。だから民衆は騙されており本当にあるべき姿に気がつかない。だから私たちの正義が実現しない。このままでは戦争になる。このコンテクストに当てはまるものはすべて左派リベラルの人たちに憎悪される。

やっかいなのは、彼らのいう「陰謀」がなんとなく当たっているという点である。電通がコンサルタントを通じてオリンピックの票を買ったのは間違いがないらしい。フランスでは捜査が始まっているが、日本の捜査当局は政府が嫌うようなことはやらないだろう。これがわかっていても誰も動かないので、似たようなものは全て攻撃されるということになってしまっている。つまり、実はクリスマスツリーに反対しているわけではなく、感動マーケティングそのものにアレルギー反応を持っているのだから、合理的に説明を試みても納得感が得られないのだ。

では糸井さんもこの線で反発を受けているのだろうかと思って見てみた。しかし、このような批判はあまり多くなかった。代わりに多かったのが「なぜか糸井さんは昔から嫌いだった」という声だ。理由がよくわからないようである。

そこで試しにTwitterでフォロー・被フォロー関係にある人に「なぜ嫌われるのか」を聞いてみた。「上から正しそうなことをいう」というような意見と「いつも正しいことを言っているが、ときどきとんでもないものをぶっこんでくる」という意見があった。

この「正しさへの反発」はインスタマーケティングなどの台頭で説明ができる。現在の商品をおすすめしている人は普通の生活を露出している。ゆえに完全に正しいということはない。むしろ、ちょっと抜けたところを配信して「気が抜けた瞬間」を演出している人もいるだろう。常に正しいのはポーズであり演技であるということがバレているのである。

だが、それだけでも説明ができない。「騙された経験があるが誰も騙されたことを言わないだけだ」という意見を教えてもらったのだが、糸井さんに騙されて何かを買った経験はない。だが「別にいいとは思わないのに嫌に自信たっぷりにおすすめしてくるな」と思ったことはある。

つまり、別にいいとは思わないし、いいと思う理屈もよくわからないけれど、みんながいいと言っているから、まあきっといいんだろうなという理解をしている人が多かったのではないかと思った。つまり、よくわからないのに「ああこれっていいんだよね」と取り繕っていた人は多いのではないだろうか。

糸井さんは好景気が終わって「なんとなく」ものが売れなくなると、インターネットに移って「ネット文化ってこういうものですよ」と言って生き残っていた人である。感想の中には「いろいろと逃げ切ってきた、糸井さんがついに逃げきれなくなった」というようなことを言っている人がいて「なるほどな」と思った。つまり、「銀座ではみんながいいよと言っているよ」と言っていた人が「ネット文化ではこうなんだよ」と主張して生き残ってきたということだ。

いずれにせよ今回の件で「実はみんななんとなく納得していなかった」ということがバレてしまったのかもしれない。それが違和感の正体ではないかと思う。その意味で今回の炎上は他とはちょっと違っている。

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