竹下亘大先生の精神を崩壊させかねない日本の同性愛的な伝統

竹下亘先生が、同性愛は日本の伝統ではないと言っている。竹下さんが日本の伝統について知ることになればおかしくなってしまうのではないかと思った。産経新聞によると発言は次の通り。

フランスにオランドさんという大統領がいて日本に来て宮中晩餐(ばんさん)会があった。オランドさんが連れてきたのはパートナー。女性は奥さまではない。天皇、皇后両陛下と並んで座るのでどう対応しようかと宮内庁は悩んだ。その時はパートナーとして宮中晩さん会にお入りになった。

問題はここからだ。もしパートナーが同性だった場合どう対応するのか。日本国として近い将来必ず突き付けられる課題になるのではないか。

私は反対だ。日本国の伝統には合わないと思う。それぞれ皆さんの人生観の中でご判断いただければこのように考えるわけだ。

これについてネットで反論の声が出ている。一つ目の反論は「世界では同性愛者の結婚が許容されはじめているので、時代錯誤的で恥ずかしい主張だ」というあまり面白みのないものだ。辻元清美議員は国会で追求すると大真面目である。

が、もう一つの声はなかなか面白い。日本は伝統的に同性愛がタブーとされていなかったというのである。この例としてフランシスコ・ザビエルが書いた文章を引用している人がいる。フランシスコ・ザビエルは日本のことを褒めているのだが、唯一許せないのは同性愛などの性風俗の乱れだと書き残している。キリスト教的な道徳観念のなかった日本では一夫一婦制も厳格には遵守されていなかったし、同性愛や少年愛もおおっぴらに行われていた。

山口の大内義隆は美少年をたくさん囲っており、これを咎めたザビエルは山口では布教を許されなかったとのことである。大内は美少年を囲うことを、特に恥ずかしいことだとは思っていなかったようだ。

このことから、日本には同性愛者という概念すらなかったことになる。つまり、男性を愛しつつ女性を愛しても構わないということである。実はどちらかに決めなければならないというのも、どちらかといえば西洋的な思い込みなのかもしれない。禁止されているのだから「それでもあえて男性を選ぶ」という男性が「カムアウト」せざるをえない。しかし、日本にはそのようなタブーはなかったので、子孫を残しつつも、美男子も好きという人がいたということになる。

武士道では男老師の「友情を超えた関係」を許容する動きさえあった。「葉隠」には同性愛についての記述があり、浮気をしてはいけないとか若いときにはこのような経験をすることがあるから心得が必要だと書かれているという。「葉隠」は戦時中に大義のために死ぬという側面が戦争に利用されたのだが、同時に同性愛についても書いてあるのだから、保守と呼ばれる人はぜひ実践しなければならないとさえ言える。だが、実際には「国のために死ね」という保守はいるが、一生をかけて一人の男性を愛する(が、女性は複数いても構わない)と公言する保守の人は見たことがない。

ユダヤ人はもともと少数民族なので子種を無駄にすることを嫌ったのではないかと思う。同性愛も自慰行為もいけないということになっている。これがキリスト教に流入したのではないかと(勝手にではあるが)思っている。

さらに修道会には男性しかいないのだから男色行為が広まると何のために貞操を誓ったのかわからなくなってしまうどころかさらに深みにはまることになる。実際にアメリカのキリスト教会では少年への性的暴行が問題になっていて、wikipediaに専用の項目までできている。つまり、頑なに禁止していないと防げないほど魅力的な行為だったのだろう。

日本人は明治維新で開国した時に「西洋人に笑われないために」としてさまざまな「伝統」をでっち上げたのだが、同性愛の禁止もこの時に広まったのではないかと思って調べてみた。しかし、実際には明治時代の初期を覗いて刑罰で禁止されるようなことはなかったようだ。それでも一夫一婦制が徹底されることはなく妾なども一般的だったので「家族は一人の男性と一人の女性が作るものだ」という厳格な一夫一婦制は戦後の<伝統>なのかもしれない。

いずれにせよ、マスコミは「西洋では同性愛も認められつつあり、グローバルスタンダードに反する」などというつまらない反論をするのではなく、日本の男色は普通のことだったのだから、保守はこれを実践するべきだと竹下さんに聞いてみてはどうだろうか。

保守派が歴史を知らず知性もないというのは別に驚くべきことではない。夫婦別姓について調べた時に散々同じような話をさんざん書いたような気がする。最近の興味はむしろなぜ保守派は歴史に無関心なのに「日本の伝統」を盾にして自分の価値観を押し付けたがるのだろうかということである。

これは護憲派にも言えることだ。護憲派は「戦争はいけないから憲法第9条を守れ」といい「憲法第9条があるから戦争ができる国になってはいけない」という循環話法を得意としている。これは護憲派に守るべき価値観や原理原則ではなく「システムとして存在するから」という理由で現状を肯定しているということを意味している。だから「では、憲法を変えれば戦争をしてもいいんですね」という反論が生まれると、それに反論できない。だからこそ「絶対に変えるな」と変化そのものを拒否するのである。

同じように、保守派という人たちも、多分自分たちが知っている家族像というものがあり、それを肯定するためにありもしない日本の伝統というものを持ち出して平気な顔をしている。保守の場合には男性が優位に立てる家族を「日本の伝統的な家族」と呼んでいるにすぎないのだが、専業主婦がいる家族は一般的でなくなりつつあるので、制度だけを守っても彼らが憧れるような家族制度は復活しないだろう。

彼らにとって伝統とは彼らの憧れを正当化するための道具にすぎないので「日本は昔から男色が行われていたんですよ」などということを言っても「伝統だから」という理由で男色推進派になったりしないのである。

本来、民主主義は、何らかの目的や原則を達成するために法律を利用する制度だと考えられる。しかし、日本でそれを当てはめようとすると行き詰まるケースが多い。もともと所与の「あるべき状態」というものが存在し、それを弁護することが行動に目的になっていると考えた方がわかりやすい。

護憲派は天賦人権に基づいた民主主義と平和主義という建前を是認することで相手から優位に立とうという企てであり、いわゆる保守派は男が威張っていられる社会を是認する立場であると考えるとわかりやすい。それを守ることが自己目的化しているのだから、そもそも議論は成り立たない。

さらに所与のシステムの肯定なのだから、変化には対応できない。護憲派はアメリカの関与が減り日本も対等なメンバーで参加している国連の関与が増えているという国際情勢を認識もできないし対応もできない。それは彼らが実は世界平和にはなんら関心を持たないからである。と同時に保守という人たちも男性の経済的な支配力が弱まっているという状態には対応できず家族という<絆>さえ強めれば自分たちの憧れが実現するのではないかと夢想しているのである。

実は日本人にとってのイデオロギーというのは、彼らが認知できる範囲のシステムの自己肯定ということになる。こうしたシステムはお互いに矛盾していても「すでに何らかのバランスをとりながらある」のだから、日本人はそれが何らかの寄せ集めであってもそれほど戸惑ったりはしないのかもしれない。

日本人を理解するための鍵はこうした<ホリスティックさ>にあるのではないかと思う。

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