大変な中で万歳というのはおかしいという横審がおかしいよ

白鵬の千秋楽での振る舞いが波紋を広げているようだ。一つは「日馬富士と貴ノ岩を土俵に上げてあげたい」という発言だ。これは暴力事件なのでどちらも無事で終わるということはないだろうが、同胞を守りたいという気持ちはよくわかる。

もう一つの問題は「万歳」である。これに横綱審議委員会の委員長が噛み付いた。しかしこの発言を聞いて「おかしいのは横審の方だろう」と思った。以下理由を説明する。

確かに日本人としてあの万歳を見たときに「何やってるんだ」と思った。では、万歳がおかしい理由は何だろうか。これを説明するのは実はなかなか難しい。

日本は一つの巨大な村である。だから村で問題が起こると問題そのものよりも「村の平穏が乱された」ということが非難の対象になる。村は平穏無事であるべきだからだ。今回の問題でも協会は「日馬富士が暴行してごめんなさい」とは謝罪しないが「皆様をおさわがせして申し訳ない」とはいう。

相撲協会のいうガバナンスとは何か。ファンは相撲は日本の国技だと主張したい。自分たちは相撲をよく知っているので「日本の伝統をよく知っている人」として威張れるからである。これがプロレスだとそうはならない。プロレスでは威張れないのだ。何か問題が起きると威張れなくなるので、ちゃんとブランド価値を守るために何も起こらないようにしておけよと言っているわけである。

日本人は言葉を信頼しないので、下を向いて反省をしているように見せて村が問題を忘れてくれるまで待つ。もしここで下を向いて反省しているポーズを取らないと大変なことが起こる。日本人は反省しない人には何をしても構わないという極めて他罰的な文化コードをもっている。つまり、反省したフリをしていないとバッシングの嵐にさらされてしまうのである。

だから、問題について実際に反省していなくても構わない。重要なのは体裁と周りの評価である。そして善悪はそのときの周りの反応によってなんとなくふわっと決まる。

よく考えてみると、これはとても複雑な文化的パッケージである。しかし、日本人はこれを外国人に説明できない。そもそも意識していない上に「とりあえず頭を下げておいてほとぼりが冷めるのを待つんだよ」などとは格好悪くていえないからである。言えないから「品格」という格好の良い言葉で包むのである。

白鵬がどのような気持ちで万歳したのかはわからない。本人に聞いても理路整然とした説明は難しいかもしれない。モンゴルにも似たような行動があるのかもしれない。「モンゴル・万歳」で検索するとモンゴルには「フラー」という兵士の士気を高める万歳のような掛け声があり、これがロシアとドイツ経由で英語化したという説があった。本当はモンゴル人らしく「フラー」をしたかった可能性はある。

しかし大方の日本人は田舎者なので「神聖な相撲の土俵でモンゴル人らしさを出すなどとんでもない」などということを平気で口にする。これを説明するのに「大リーグで日本の選手が日本人らしさを出したらきっと大変なことになるに違いない」などという説明をしている識者がいた。大リーグでジャパンデイなどのイベントがあるのを知らないのだろう。民族アイデンティティの発揚は人権の一部なので、これを制限するのは厳密には人権侵害なのである。

もしくは日本人が気持ちを一つにするときに「万歳をしている」のだから「万歳をすれば気持ちが一つになるだろう」という思い込みがあったのかもしれない。つまり、表層的な行動は模倣できるが、その裏にある行動原理をコピーするのはなかなか大変なのである。

モンゴル人を見ていると、強いときには強さをアピールし、喜んでいるときには喜びをアピールしたいという素直な心情が垣間見られることがある。ある意味人としてはこちらの方がストレートな対応だろう。しかしながら日本人はそもそも権力格差を極端に嫌うので待遇が得られるようになればなるほど、その待遇を行使することを嫌がる。「待遇は与えたがそれは表向きのことであって、自分に向けて使うのは許さない」とか「お前が待遇されているのは、その権威を利用して俺たちの気分を高揚させるためなんだよ」などと考えたりする。極めて集団制が高く、集団の中での格差が少ないという独特の精神世界がある。

そこで「強い人には品格が必要」という。品格というのはいわばブレーキの役割を持っていると考えるわけである。

しかしよく考えてみると「強くなればよい待遇が得られる」という表面的な文化コードと「待遇が得られたらそれを使ってはいけない」というその裏にあるコードを理解するのはなかなか難しい。普通の日本人ならば「どうせ責任が増えるだけだし、そこそこ長く稼げた方がいいや」と考えるはずで、余程の物好きではないと頑張って横綱になりたいなどとは思わないだろう。

横綱審議員がおかしいのは、自分たちが異文化からきた人たちに何を求めているのかということがわかっていないのにもかかわらず、問題があったときだけ「違っている」といって騒ぎ立てているということである。説明しないことがわかるはずはないのだが、それを怒っている。これは身勝手この上ない。

モンゴル人なしには相撲は成り立たないのだから、これを相手に合理的に説明するか、モンゴル人に頼らずに相撲好評を成立させるべきだ。しかし、若い次世代の日本人にさえ「品格」を説明するのは難しいのではないだろうか。自己実現が容易で個人が評価してもらえる格闘スポーツは他にもたくさんあり、何も封建的で遅れた相撲を選ぶ理由などない。

この苦しさが横審委員長の次の発言に現れている。

負傷のため4場所連続休場した稀勢の里、鶴竜の両横綱については、万全にして奮起を求める声が出た。北村委員長は「稀勢の里はこの状態が続いていくと横綱としての地位の保全をできるのかという問題にならざるを得ないので、しっかり体を治して次の場所に備えてほしい」と話した。2人の進退を問う意見はなかったという。

鶴竜についても触れられているのだが、本音では品格について説明する必要のない稀勢の里に頑張って欲しいのだろう。しかし、稀勢の里は「横綱の品格」を意識するあまり無理を重ねて怪我がなくならない。やはり品格で全てを説明するのはもはや不可能なのだ。