日馬富士暴行問題から日本人が学べること

テレビを見ていたらまだ日馬富士暴行事件を扱っていた。当初からちょっと変わってきたのは在日モンゴル人に取材が入るようになったことである。これを見ていて、日本人として学べるところがあるなと思った。

どうやらモンゴル人特有の事情があり、日馬富士は貴ノ岩に謝れなかったようだ。年上の人が年下の人に誤ってしまうと、年下の人の運気を下げてしまうという。東洋的な面子の問題かもしれないし、別の行動原理があるのかもしれない。その代わりに非言語的な謝罪表現があり、それもモンゴル人から見ているとわかるということであった。

この「非言語的表現」は他の文化からみると違う意味に取られるか無視されることが多い。多分日本人は「日馬富士は言葉に出して謝るべきだ」というのだろうが、これは彼らの非言語的なシグナルが読めないからである。

そして、同じことは日本人にも起こる。日本人は誰かに指名されるまで会議の席ではおとなしくしているのが礼儀だと考える。これは教室で先生のいうことを聞くのが良い生徒だと見なされるという事情があると思うのだが、アメリカでは「会議に非協力的」か「無能である」と取られることが多い。日本人が会議に非協力的ではないことは、盛んに司会者にうなずいたりすることを見ればわかるのだが、このような非言語的なサインはアメリカ人には見逃される。

さらにアメリカ人が「日本人は会議の時おとなしいから積極的に話すように」などと指示をして、日本人がニコニコとうなずいたのに、結局会議では話さなかったということがあると、中には怒り出すアメリカ人もいる。わかっていなかったのかというわけだ。だが日本人は相手を遮ってまで自分の主張を話すことが「会議への貢献であり、自信の表れである」などとは思わない。

ところがアメリカ人が怒り出しても、普通の日本人は申しひらきができない。第一に自分たちが特殊であるということを知らないし、知っていたとしても「自分たちが会議に消極的に参加する文化を持っている」ということを言語的に説明できないからである。日本人を会議に参加させるためには会議の時に指名するか、発言者を遮って発言する練習をさせるべきなのだ。

さらに、白鵬らモンゴル人力士は極めて特殊な立場にある。彼らは確かに「モンゴル人性」を持っているのだが、その上に日本の文化を受容するような社会的・組織的圧力がかかっている。この日本性には表向きの「品格を持ちなさい」という言語的・意識的ものと「先輩から後輩への可愛がりという名前の暴力があたりまえにある」という非言語的・無意識的な側面がある。

実はモンゴル人力士が置かれた状況は、極めて現代の日本人に似ている。日本人にも意思決定やコミュニケーションにおいて「日本人性」があるはずなのだが、戦後アメリカ式の自己主張型民主主義を受け入れたためにかなりミックスされた状態になっている。どちらかを意識して身につけたのであればまだ整理ができるのだが、実際にはごちゃごちゃになっていて「何が日本人的で何がそうでないのか」がよくわからない。

ここから類推すると白鵬らモンゴル人力士も「何がモンゴル的であるか」ということが明確にはわからなくなっている可能性が高い。だから文化的な軋轢があってもそれを理論的に説明できないので、誤解されることになってしまうわけだ。

日本人とモンゴル人はコンテクストを共有していないので、日本人がこれを知ることは不可能であり、従って日本人の文化コードによって一方的に「裁かれる」ことになる。だから正当な判断のためには文化コードをモンゴル人に説明してもらう必要がある。しかし、当のモンゴル人がこれを整理できないということは、誤解が解けることがないということを意味している。

モンゴル人が日本人に申しひらきができないということは彼らの問題なのだから、彼ら自身が解決すべき問題だとは思う。だが、同じことが日本人にも起こりうる。日本人が考えている民主主義は西洋人が考えるところの民主主義でない可能性が高い。だが、日本人はそもそも元になった日本性をうまく説明できないのだから、その上に乗っている西洋性もうまく説明できないはずだ。さらに、この二つはケーキのスポンジとクリームのように層になっているわけではなく、混ざり合っているはずである。

つまり、外国文化に対して自分たちの立場を説明し弁護できないということは、日本人にも起こり得る。白鵬から学ぶのはこの点で、つまり日本人もその日本性が何なのか言語的に説明できるようにしておいた方が良いということになる。

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