我慢という公害

先日珍しい体験をした。カートを持った店員が「どうぞ」といって道を開けてくれたのだ。とても驚いた。

何のことかわからないという人もいるかもしれない。最近の店員たちはとても忙しそうにしており、カートを押して走り回っている光景をよく見かける。当然客がいても御構いなしである。実際に彼らは忙しいのだろう。少ない人件費で余裕なく働かされているからだ。かといって、それを責める気にはならない。価格だけで行く店を決めているこちらも悪いのだ。

このように忙しく働く彼らには援助がない。例えばユニクロでは悲惨な顔をした店員さんたちが忙しく駆けずり回るのが名物になっている。ここで在庫を聞こうものなら大変なことになる。システムがうまく作られておらず在庫が確認できないのか、バックヤードを走り回ることになる。一度、ユニクロに潜入したライターの記事をネットで読んだことがあるが、システム対応がうまくなされておらず、店員は疲弊しきっているらしい。

店員が疲弊していても店側は容赦がない。不機嫌な店員が増えるとお客から「対応してもらえなかった」というクレームが来る。すると店側はシステムを作ったり人を増やしたりといった援助をしないで、単に「お客さんを場所まで案内するように」という指示を出して終わりにするのである。

ところが、不機嫌な店員たちもそのままで済まさない。「忙しそうに、不機嫌そうに」対応してみせる。不機嫌にカートを押してお客の前を横切って見せたり、店の決まりで棚のある場所まで案内しなければならないからいやいややってるんだよという表情をあらわにしたりするのである。

今回珍しい体験をした店は、この近辺では珍しいファッション雑誌の取材が入ったりするおしゃれ園芸ショップだ。扱っている植物も鉢も高価なものが多い。つまり高付加価値のお店なのである。さらにインスタ映えを意識して「写真撮影してもよい」としている。つまり、ある程度体裁を気にしている「劇場型」のお店である。店員だけでなくお客さんもこざっぱりした格好をしており「キャスト」のように振舞っている。

こうした店は地域にいくつも作れないのだから、店員が機嫌が悪いのは仕方がないことだ。たいていの場合、お客は値段で品物を選んでいてサービスなどどうでも良いと考えている。おしゃれ園芸ショップは例外的にしか作れない。そこで働いている人も企業の言う通りに働かなければ雇ってもらえるないのだから我慢するしかない。いったんこうした空気が醸成されると、今度は愛想のいい店員が周りから攻撃されることになる。「自分だけがいい格好をしているのだろう」というわけである。

日本人は「我慢することが美徳だ」という教育を受けているので、我慢してお客に仕えることが良いことだと考えがちである。しかしながら、我慢する人がそのまま我慢し続けることはない。たいていの場合、こっそりと誰かに付け回している。露骨にすると問題になるので、普段から不機嫌にしてみたり、お客が困っているのに気がつかないふりをしたり、私にはわからないなどと突き放してみる。

この時に人は少しづづ「利子」を付ける。

一人ひとりがかける利子はほんの少しなのだろうが、これが社会全体に蓄積するとどんなことになるのかを考えてみると良い。誰かの我慢は利子をつけて別の人に付け回され、それを受け入れた人がまた別の人に利子をつけて返す。このようにして社会全体では不機嫌さが回収されないまま蓄積され続けることになる。これが現在の社会を覆っている「不機嫌さ」の原因なのではないかと思う。

もちろん、誰かが自分の欲求を伝えてやりたいようにやればこの利子を回収することは可能だ。しかしながら、みんなが我慢しており、なおかつ我慢するのが唯一の解決策だと言われて育ってきているのだから、いまさらやりたいようにやるというのも難しいだろうし、自分だけがやりたいようにやれば、周りから総攻撃されるのも間違いがないところである。だから、不機嫌は利子付きでどんどん増えてゆく。不機嫌さを汚れた大気だとすると、これはもはや不機嫌の公害である。

であれば自分が我慢しても相手に八つ当たりしないようにすればよいようにも思える。しかし、今度は我慢という人間ピラミッドの最底辺に置かれることになるかもしれない。一億総不機嫌社会では常に犠牲者が求められるからである。

ということで、防衛上不機嫌に利子をつけて返すのは仕方がないことだと思う。せめて、我慢は社会を悪くすることなのだという意識を持つのが大切なのではないかと思う。つまり、間違っても自分が我慢強い人だというのを自慢してはいけないのである。

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