はあちゅうさんがしでかしたこと

はあちゅうという女性が、彼女の性的搾取の経験を実名で告発した。これをきっかけに日本でも#metooムーブメントが起きているのだとマスコミは伝えている。これだけを見ると、はあちゅうさんはいいことをしたように思える。日本で同じような被害にあっている人はたくさんおり、彼女たちに勇気を与えたからだ。しかしながら、このあとがよくなかった。はあちゅうさんは攻撃を受けており、後に続くはずだった女性たちは告発をためらうかもしれない。

この問題の背景には日本の人権教育の貧しさと社会の不安があると思う。このためはあちゅうさんのやったことは差別をなくす方向ではなく差別の激化につながりかねない。つまり、はあちゅうさんは性差別のない社会を作るどころか、日本をますます息苦しく不安定な社会にするかもしれない。

いわゆるリベラルな人たちの中には、はちゅうさんの童貞いじりと性的な搾取の告発を「分けて考えるべきだ」という人たちがいる。しかし、これは到底容認できない。

はあちゅうさんが<勇気ある告発>をしたあと、実は彼女自身も童貞を馬鹿にする発言をしていたということがわかった。これに関して、彼女とその支援者たちは「被害を受けた女性は立派な被害者として振舞わなければならないのか」とういう開き直りに近い弁明をしている。童貞いじりは、男性は性行為を経験しないと一人前になれないという価値観に乗っているという批判があり、童貞いじりの有害性に関してはこれ以上付け加えることはない。しかし、この文章は「問題を切り離して考えるべきだし、はあちゅうさんの謝罪は評価できる」と言っており、この部分はあまり評価できない。

こうした問題を考える上で大切なのは、問題を少しずらして考えてみることだろう。例えば人種差別を経験した黒人が黒人社会のようなものを作り組織的に白人を差別していたとしたらどう見えるかを想像してみると良い。きっとそれは人種間の対立を激化する方向に向いてゆくことになる。白人と黒人は、差別する側とされる側を示している。

差別されていた黒人が差別する側に回るというのは実はそれほど珍しいことではない。ご存知の方も多いかもしれないが、アパルトヘイト後の南アフリカにはそのような動きがあった。実は黒人の間にもさまざまな部族間対立があり、白人が支配権を失ったあとに黒人の間で権力争いが起こりかねなかった。このような複雑な事情があったために、ネルソン・マンデラは全勢力が融和するように常に心を砕いた。

ここで、ネルソン・マンデラは「立派な人」とされているが、実は当たり前のことを実現しようとしているだけだった。しかし、それは当たり前ではあっても27年もの間投獄されていた彼にとっては極めて難しいことだったであろう。マンデラは人生の失った時間を取り戻すために白人に復讐したいと考えても当然だった。だが、そうはしなかった。だからこそ彼はアパルトヘイト後の指導者になりえたのである。

はあちゅうさんたちは「ネルソン・マンデラみたいになれなくてもよい」と思うかもしれない。しかし、アラブ人との間に差別があった南スーダン人の事例を見ているとそれが必ずしも正しくないことがわかる。共通の的であるアラブ人がいなくなると、今度は南スーダン人同士で殺し合いを始めた。つまり、差別構造を残してしまうと、今度は別の争いが起こる。だから差別構造そのものから抜け出す努力をしなければならないのである。

はあちゅうさんがいた広告業界は「もてる女性ともてない女性」とか「クリエイティブな女性とつまらない仕事しかできない女性」などを分けている。生存をかけた生き残りに性的な経験やルックスなどを絡めているのである。だからはあちゅうさんが女性のルッキズムを男性に転用して話題作りをしたのは広告屋さんとしては極めて自然なことなのだ。

同じようなことはいたるところで行われている。例えば小池百合子東京都知事を見ていると、表向きは差別されているかわいそうな女性という演技をするが、その一方で男性たちを「排除いたします」と言っていた。全く違和感がなかったところを見るとそれが政治のあるべき姿だと思い込んでいるのだと思う。もし女性として「排除されることの苦しみ」を本当に知っていたならあんなことは言わなかったはずである。

はあちゅうさんは童貞をいじって話題づくりをしていた。そしてそれが社会的に非難されると「童貞は素敵な響きを持った言葉なので悪気なく使っていたのだが、結果的に傷つけたなら申し訳ない」と申し開きをした。これは男性が「私は好意を示すためにやったが、結果的にセクハラになっている」と捉えられているとしたら申し訳ないというのと同じであり、男性社会の醜悪な伝統を見事なまでに引き継いでいる。つまり、彼女も闘争の中に組み込まれているのだ。

彼女たちに共通するのはマウンティング意識である。つまり、差別でもなんでも利用してのし上がってやろうという気持ちで、差別されているという出自さえも利用しようと考えてしまうのである。これはいっけん正しく聞こえるかもしれないが、差別の構造を変えただけであり、差別の容認である。差別が悪だとすればサーロー流にいうと「絶対悪」であり実は彼女たちは「加害者」なのだ。

女性を容姿で差別しないというのと男性を性的経験で差別しないというのは同じことである。そしてそれは立派な行いではなく、当たり前のことなのだ。だが、その当たり前さを実現するのはとても難しい。

実際に日本では「性的搾取を多めに見る」ということが司法の場でもおおっぴらに行われている。TBSという権威を振りかざして女性に乱暴しようとした自称ジャーナリストが無罪放免になったり、慶応大学の広告サークルも結局不起訴だった。このように、法的に「この程度ならいいのではないか」とお咎めなしになってしまうケースが後を絶たない。これをなくすためには組織的で政治的な運動が必要だ。こうした運動を単なるトレンドとして話題づくりに利用しようとしたならそれはとても罪深いことである。

その背景にある差別の構造から抜け出さなければ同じことが繰り返されるだけだという認識を持つ必要がある。そのためには人種差別やその他の属性差別についてきちんと学校で教える必要があるのではないかと思う。

ハフィントンポストの記事で正直な高校生がいじめについて書いている。高校生の頃からルッキズムを含む序列付けは始まっていて、しかも笑いを絡めてごく自然に行われるそうである。

たった30人程度のクラスで、気付かぬほどの速さで「1軍」「2軍」「3軍」と身分が決まっていき、序列の中で卒業まで生きなければならない。序列は容姿、キャラ、得意の運動、頭の良さ、家庭のお金持ち具合など様々な要素で決まる。

クラスでこのようなカースト化が進行するのは、それが極めて不安定な閉鎖空間だからだ。そしてその不安定さや閉鎖性は大人になっても続く。こうした中で人々はカースト付けをごく自然なこととして認識してしまうのだろう。

たまたまアメリカで#metooムーブメントが起こり、海外から聞こえてくる性差別排除運動とごく自然に(多分加害者として)行っているカースト付けを別の枠で捉えたくなる気持ちはわかるのだが、実はこれは同じものだ。

はあちゅうさんの一番大きな間違いは、自分が置かれているカースト文化を温存したまま、ブームに乗って認知をあげようとしたところなのだろう。カースト文化を温存しているからこそ「道程いじりはちょっとしたユーモア」で「自分が岸さんにされたことは重大な暴力だ」などと言えたのであろう。これは小池百合子東京都知事が自分は笑って排除をほのめかしつつ、ガラスの天井があって男性たちに邪魔されているとパリで訴えたのととても似ている。

彼女たちは賢く世渡りしているつもりなのだろうが、それが却ってあとに続く人たちの機会を狭めていることに気がついた方が良い。

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