日本人は安心感をどうやって村落の外に持ち出したのか

聞くとはなく国会の代表質問を聞いていた。既にTwitterなどでご存知の方も多いとは思うのだが、安倍首相にはやる気が感じられず全ての答弁においてコピペ原稿を使い回していた。安倍首相は体調がすぐれないのか声の調子が悪く、ときどき水を飲むために答弁(というより官僚作文の朗読)が止まった。これだけを見ると、三選を目指す総裁候補とは思えなかった。

しかし、今回の話は安倍首相のやる気のなさとは全く関係がない。日本人が宗教を村落からどのように外に持ち出したのかというのがテーマである。

この筋を思いつくまで公明党と共産党という真逆に見える政党の類似点について書くつもりだった。この類似点は「宗教」である。彼らの信奉する宗教は村落的なコミュニティを外に持ち出して人工的に再構成するために利用されているようだが、不完全さを含んでいる。その不完全が何なのかというのが今回のテーマだ。

公明党と共産党はどちらも固定的な支持者を抱える政党なのだがその世界認識は真逆である

公明党は自分たちの支持者である信者に説明ができるようによく組み上げられた演説(質問の形をしているのだが実質的には演説だった)をしていた。創価学会には多分「人間は大切」という基本理念がありそれを発展させる形で様々な政策プランが提案されているのである。

公明党の特徴はプランの名前にありがたみのあるカタカナの名前が使われていることだった。これは既存の宗教に戦後流の科学的なコーティングをまぶした砂糖菓子のように見える。仏教はその普及過程で「難しい言葉を理解できなくてもこのお経さえ唱えれば極楽に行けますよ」という約束として理解されるようになるのだが、公明党のカタカナは現代のお経のように機能しているのだと思った。例えていえば、医学書を読んで聞かせれば癌が治療できるというようなものなのだろう。

一方で、共産党側は「とにかく全てがうまくいっていない」ということを言っている。彼らもまた自分たちの信じる宗教理念が掲げられさえすればたちどころに全てがうまく行くと信者に説明しているのだろう。全てを読み終わったあとで小池晃議員が仲間の議員たちと「言ってやったぜ」というように笑顔をかわすのが印象的だった。もちろん、彼らの経典というのはマルクス経である。イギリスで作られた科学的な思考は海を越えて宗教になったのだ。

この二つの全く異なった世界観について安倍首相は同じような原稿を読んで応えていた。「公明党のご協力で作られたプランを力強く推進する」し「共産党の言っていることは言いがかりだ」という二つのことしか言っておらず、その間を官僚がコピペされた文章で埋めてゆくという調子である。質疑という形を取っていながら質問も答えもない。そこに広がっていたのは全く無意味な言論空間だった。応酬も新しい情報もないのだから、報道は「言い間違い」と「ヤジ」にならざるをえないのだ。

自民党にはこうした宗教的な感覚はない。多分、自民党が村落を離れなかった人たちの集まりだからなのだろう。彼らはコミュニティを再構成する必要がなかったので宗教的なスローガンを必要としなかったと言える。一応、スローガンは使っていたが要するに「地方の中小企業に金を回せ」とか「地方の観光をもっと盛んにしろ」とか「高速道路を作れ」というような主張のために利用しているだけである。こう考えると自民党の作った憲法草案が「ああ、山が美しく四季が心地よいなあ」というものになってしまうのは当たり前である。自民党には政治的な理念はないが、美しい山ときれいな海に囲まれてさえいれば、そもそも理念など必要がないのである。

公明党は農村から都市部にでてきた人たちが作った宗教結社がその出発点になっている。共産党も都市労働者が作り上げた政党である。つまり、彼らには頼るべき農村コミュニティがなく、新しい理念を掲げなければならなかった。その時の最先端のコンセプトを利用しながらそれをご本尊にするというのが共通したやり方である。そして、いったんコンセプトができてしまうとそれを変えることができない。理解していないのだから変えようがないのは当たり前である。

これを他の政党に当てはめることができるかというのが次の課題になる。簡単に想起できるのが護憲経である。これは憲法第9条がご本尊になっている。憲法第9条を北朝鮮にかざせばたちどころに核兵器が退散するという宗教だ。ところが、この宗教はある悲劇に見舞われている。

福島瑞穂議員は安倍首相に「社会民主主義を信じれば救われる」というようなことを主張してスルーされていた。彼らは社会党から社民党になる過程で教義の変更を行おうとしたが、それを信者に浸透することができなかったのだろう。信者たちはもっとプリミティブな形で護憲を理解しているのではないかと思える。その意味では社会党から派生した宗教は術で中途半端に展開している。いわゆる立憲主義というのは少なくとも大衆理解の段階では「平和憲法さえ掲げれば全ての問題はなくなる」という宗教理念なのだが、立憲民主党の人たちの言っていることは「難しすぎる」ということになる。立憲民主党が宗教政党として成立するとすれば「憲法は安倍首相の魔の手から国民を守る護符であり決して手放してはならない」と言い続けなければならないのではないだろうか。

普通に考えると民主主義社会が成立するためには、国民がなんらかの政治的理念を理解した上で政策を支持する必要がある。しかしながら、つぶさに見てゆくと日本の政党の支持者たちが政治的な理念を理解した上で政党を支持しているとは思えない。むしろ、昔から知っているお家の坊ちゃんであるという安心感から政治家を支えていたり、何かありがたいものを掲げることで「全てが丸くおさまる」と考え違っているように思える。このため、教義は更新されず、更新されないから共有することもできなければ折り合うこともできないということになるだろう。

さて、これまでにでてきた仮説は次のようなものである。

  • 日本人は所与の村落を再構成する過程で、美しい山並みや浜辺の代わりに、なんらかの宗教的な教義を必要とする。村落を出ない人たちにはこのような教義は必要とされない。つまり、宗教的教義は狭く閉ざされた環境の代替物である。
  • 宗教的な教義はその時点で最先端の優れたものを取り入れてありがたみをます。そのありがたみは実は何でもよい。もしキラキラ輝くガラスのコカコーラの瓶が最先端であれば、コーラ教ができていただろう。
  • 日本人は教義の本質を理解することはないので教義が更新されることはない。

こうした「村落の再構成」はいろいろなことに見られる。例えば日本相撲協会の内実は単なる体育会系の暴力集団だが環境が変化することでマネジメントが破綻しつつある。それを再構成しようとする時に決して本質的にどうマネージするかということが語られることはなく、代わりに「日本は神の国であり、相撲は国体を支える儀式なり」というような教義が利用される。

これを自民党を支える新たな村落に当てはめてみたい。それは「国体教」である。日本は世界に類のない神の国であり、荒ぶる神によって守護されているという宗教だ。このように宗教的な教義で包むことにより「自主憲法を作ってアメリカの占領体制から抜け出したい」という願いと「アメリカの依存して中国を圧倒したい」という願いが矛盾することなく折り合うことになる。宗教は論理的に矛盾したものを包んで一つのパッケージにする力があるようで、これが都市や地方に住んでおりお互いに連帯する要素が何もない人たちを惹きつける。我々はこの一群の人たちをネトウヨと呼んでいるのかもしれない。

これは比較的新しくできた教義なので今のところ矛盾をすることはない。しかし、アメリカの勢力は衰退し始めていて、やがて現実と合わなくなる可能性がある。つまり、ネトウヨの信じる宗教もいずれは、マルクス経のような運命を辿ることになるのではないだろうか。

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