どうでもいいかもしれない「個人」と「村落規範」の問題

先日来、日本の村落構造について考えている。その中で日本人は個人を徹底的に嫌い内的規範を持たないと書いてきた。しかし、あることを考えていて「内的規範がない」わけではないかもしれないぞと思った。ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、気になったので短く書いてみる。なおこの話には結論はない。

気になったのは、情報系の番組で出演者が出された食べ物を残した時に「あとでスタッフが美味しくいただきました」というテロップが出るという問題である。これは「あの残した食事がもったいない」というクレーム電話が来るからなのだろうと思う。

ではなぜクレームが来るのか。それは「出されたものを残してはいけない」という規範意識を持っている人が多いからだろう。これは完全に内的に受け入れられていて生活にも根ざしているので、その人の価値の中核をなしていると考えらえる。つまり、この話の由来がどこにあるかは別にして、この人は「規範が内部にない」とは言えない。

しかし、内的に規範が存在するということとテレビ局の電話番号を調べて抗議の電話をするという行為の間にはかなりの開きがある。この人はテレビで「食べ物が無駄になっているのだ」と考えて居ても立っても居られない気分になりわざわざ電話番号を調べて電話したことになる。しかし電話をしたからといって修正されるかどうかはわからない。また、テレビ局から「規範に優れた立派な人」として讃えてもらえるわけでもない。完全に匿名の行為なのでその行為は無駄になってしまう可能性が極めて高いから他人の目を気にしてやっているとは言えない。

にもかかわらずそれを言わざるをえなかったのはどうしてか。それは彼(彼女)が持っている内的規範が守られないことに対して「いてもたってもいられない」気分になったからではないだろうか。例えば、自分の右手が自分と違った行動を取ればその人は「思い通りにならない」といって腹をたてるだろう。心理的に自己が同一性を保持したいと思うのは自然なことだ。

つまり、この人は「自分の内側に起きていること」と「外で起きていること」の区別がついていないということになる。認識されていない可能性もあるが、最初からない可能性もある。

同じようなことがドメスティックバイオレンスでも起きる。ドメスティックバイオレンスを働く男性は(あるいは女性でも)自分の家族は自分と同じようなものだと考えており、予測と違った行動を取ることが心理的に許容できないのだろう。これを「支配」だとみなす人はいるだろうが、もしかしたら当事者はそうは考えていないかもしれない。あくまでも「期待通りに動かないから、それをただしただけ」と感じるのではないだろうか。これを言い換えると正義になるのだが、本質的にはもっと別の問題だと考えているのではないだろうか。

もちろん、自分の手が自分の思い通りに動かなくてもあまり気にしない人もいるだろうし、別のことに気を取られて気にしない人もいるだろう。例えば、抑うつ状態に駆られている人が部屋を片付けなくなったり、何日も同じ服装で過ごすという場合もある。だから「何かが自分の考える規範通りに動かなければ気が済まない」という人はむしろ社会的には「きっちりした仕事ができる良い人だ」と捉えられている可能性すらある。しかしその一方で、支配したがる人は自我と社会の境界が曖昧であるとも考えられる。自分が生活を律するのは良いが、それを他人にも要求してしまうからだ。

このような気分になったことがないので、どうして他者が自分と違った行動を取るのが許容できないのかがわからない。同一性が阻害されることで世界が崩壊するような気分になるのかもしれないし、違った価値観を持つ人たちが自分を侵食してくると感じるのかもしれない。日本人と接しているとこの「気の小ささ」を感じることが多い。自分の知らない人が隣に座っているだけでなんだか落ち着かなくなる人がとても多い。欧米だとこんな場合アイコンタクトをとって微笑みかけてくる。別にその人が「良い人だ」ということではなく、なんとなく敵愾心がないか確認しているのだ。アジア系の留学生でも同じような人がいた(違う人もいて「馬鹿にされたのでは」と感じている人もいるようだ)ので、文化的な違いはありそうだ。

ここまでをまとめると支配したがる人は

  • 規律正しいいい人である。
  • 自分と他人の区別が付いていない。あるいは自己というものが(少なくとも西洋と同じ意味では)存在しない。
  • 気が小さいが緊張の緩和の仕方を知らない。

という三つの仮説が成り立つことがわかる。これが正しいのかを聞いてみたいところだが、多分このような人たちはうまく自分の気持ちを言語化できないのではないかと思う。

確かめようがないものの、こうした人たちはそもそも「自分」と「環境」を不可分なものと考えており、そもそも「個人」というものが存在しないということになる。いわば赤ん坊が母親との間に境界を持たないようなものだ。つまり、個人の中に価値観がないのではなくそもそも個人がないということになる。フロイトの発達段階にはない生育の仕方だし、多くの日本人心理学者が「甘え」の社会構造に着目したことがよくわかる。環境の中で違和感のない生活をするのが理想でありそれが自然なのだろう。

多分、Twitterで政治に関するつぶやきが多いのは、実は社会には多様な考え方をする人がおりそれが許せないという人が大勢いるからなのだろう。しかし、裏を返せばそれまでの人生で自分の価値観と異なる人たちと接したことがなかったということになり、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。

ということはTwitterで流れてくるような情報が気に障ってついついブロックを多用する人はTwitterなど使わないほうが幸せに暮らせるということになる。その人は多分甘えられる環境を持っているはずだからだ。

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