泰明小学校の狂気

この件について冷静に問題を分析するのは良いと思うのですが、子供に被害が出ているようです。辺野古の話のところでも書いたのですが、どうして弱い人のところに攻撃が向かうんでしょうかね。


泰明小学校が炎上している。アルマーニの制服を標準服に採用したがそれが高級すぎるというのである。最初の印象は「アルマーニってもうこういうことでしか評判にならないんだ」という絶望感だった。アルマーニは歴史的に男性服を「あるお約束事」から解放することで、男性性に新しい意味合いを持たせたブランドなのだが、日本ではついに「ブランドの高いお洋服」としてしか理解しなかったということである。

だが、このニュースを考えているうちに狂気は別のところにあると感じた。当事者である校長が社会を成立させるために必要な「あること」を忘れており、社会もそのことを指摘できないという狂気だ。そして、それは文字通り「社会の衰弱死」に直結している。

そもそも教育の目的とは何なのだろうか。「社会」どんなものであっても構成員を養ってゆくだけでは不十分だ。社会が存続するためには次世代を産んで育てて行かなければならない。これが実現できるのであれば教育はどんな制度でも構わないし、この機能がなければ社会を維持することはできない。

これまで日本の村落のデメリットにばかり注目してきたのだが、もちろん日本の村落は次世代を育てるためにそれなりのしくみを持っていた。家を中心とした「なりわい」という事業体が子供を産み育て訓練を施して次世代の担い手を作っていた。なりわいは主に血族集団から成り立つのだがある時は思い切ってよそからの血も取り入れたという特徴がある。

このニュースを読んで、まず特認校という制度に疑問を感じた。公立小学校は誰でも義務教育にアクセスできるように設けられているわけだから経済的な理由で排除される人がでてきてはならない。そもそも特認校など作ってしまっては地元の子供が教育を受ける権利が奪われてしまう。これは憲法違反ではないかと思ったのだ。

このニュースの反応を見ていると銀座というブランドに人が群がっていることもわかる。つまり中央区はブランドを生かして選民だけを教育する場所を作ろうとしているのではないかと思った。ハフィントンポストの和田校長のインタビューを読んでその印象は確信へと変わる。校長の説明はだいたいこんな感じである。そこにあるのは選民性と排除の理論だ。

  1. 泰明小学校は銀座にある特別な学校である。
  2. 生徒の中にはその特別さがわかっていない人がいるので、生徒たちに自覚を持たせなければならない。
  3. だからブランドで服を作ることにした。

もちろん、説明が全て嘘であるという可能性はあると思う。つまり松屋やアルマーニと和田校長が結んでいる可能性があるからだ。アルマーニはブランドとしては日本では忘れ去られかけている。斜陽産業であるデパートも含めて制服事業に乗り出したいと考えても不思議ではない。ランドセルのように「子供のためならいくらでもお金を出す」親は多いだろう。

特別さがわかっていない生徒に高級ブランドの服を買わせると選民意識が生まれると考える時点で何かしらの社会常識の欠落が感じられる。アルマーニといえばバブルの印象が強い。経済的に選ばれた人たちの服を使って、そうでない人たちを排除しようとしているのではないかと思えてくる。

ここまでを読むと「特認校制度」というのは学校のブランド化を進めるための中央区の狂気に満ちた制度なのだなと思える。つまり中央区と校長は結託して、金儲け主義に走ったブランドと組んでいるという図式である。中央区は銀座を抱えているのでそこに住んでいる人たちも足立区や北区とは違うという鼻持ちならない自己意識を持っているのだろうなどと思うわけだ。

ところが、この「選民意識」という前提は必ずしも正しくないようだ。

中央区の特認校について調べてみると、実際にはドーナツ化が進んだ都心部の学校に生徒を割り当てるための制度であるということがわかる。該当するのは日本橋、銀座、東京駅の4学校である。そもそも「銀座の子は特別」というような制度ではなく過疎対策なのだ。

特認校制度とは、この通学区域を前提としながらも、施設に余裕のある学校を「特認校」として指定し、その特認校には通学区域に関係なく、希望により就学できる制度です。平成30年度は4校を指定しています。(全16校から自由に選択できるものではありません。)

この地域は見かけ上は繁栄しているのだが、実は滅びかけている。なぜならば銀座で個人が店を構えることはできないからである。なりわいが成立しないので、地域で子供を産み育てることなどできないのだ。そもそも特認校は地域の子供達を受け入れて「余裕があれば」よその地域から子供を受け入れるという制度なので、すべての子どもが「銀座の特別の子」になる必要などない。

だが、これは校長の問題だけでもなさそうだ。ハフィントンポストの別の記事を読むとなりわいを維持できなくなり高齢化したコミュニティはそれでもプライドを持っており、それをよそから来た普通の子供に押し付けている様子がうかがえる。

「先生の表情もどこか少しずつ険しくなっていきました。最近は子供たちよりも周囲の関係者にどう思われるか、という事ばかりに目がいっていたように感じていました。『登下校時に街中を走るな』とか『校外でも泰明小の児童らしく振る舞え』とか、学校からは、そればかりが話に上るようになりました」

いずれにせよ校長の説明は全部間違っているのである。

経済的な癒着があればある種の合理性は感じられるのでむしろ安心ができる。なんらかの理由で「僕は特別な学校のえらい校長先生になるんだ」などと思い込んでいるとしたらこれは狂気である。優秀なお金持ちの生徒を通じて「えらいぼくになる」ということだからだ。

そもそも教育は、その教育母体や人が持っている「何か特別なもの」を受け継いでもらいつつ、生徒の中にある特別なもの(これを個性という)を掛け合わせることで、その人らしい生き方を追求する基礎を作ることである。

このニュースを見ていても先生の教育観は感じられないのだが、この図式はもう見慣れたものとなった。いわゆるネトウヨ性というのは自分の中にないものを壮大な物語や他者を通じて見つけようとする無謀な試みだからである。自分の中にないからこそ物語は際限なく膨らみ、やがて暴走する。今回はそれが9万円の制服だったのである。

この校長が感じたのは「銀座にはブランドのお店がたくさんあってなんだか誇らしいな」というような幼稚な特別感だけである。これをイオンモールに置き換えるとわかりやすい。村にイオンモールができてなんだか誇らしかったのでその学校の校長が「うちの生徒はイオンモールが似合う子供にならなければならない」などと言い出したらどうなるだろうか。その校長先生は頭が変になったと思われるだろうし、村の人たちは村にはイオンモール以外にもいいところがたくさんあると呆れるだろう。

 

そもそも「自分たちは特別である」という万能感が狂気なのだが、その万能感を持たせるための道具立てが「高級なブランドのお洋服」でしかなかったという点である。さらに付け加えるとしたらアルマーニの思想についても理解しておらず「どこでもよかったけど、あそこだけ話を聞いてくれた」と説明していることからもその薄っぺらさがよくわかる。

 

これをまとめると次のようになる。自分の中になんら尊敬できる個性を見つけられなかった先生が、生業が消滅してコミュニティの内部で次世代を育てられなくなった集落に赴任する。そんな中で目にした外国のきらびやかなお洋服に魅せられて、意味はわからないもののこれを着せれば自分たちは特別になれると信じるようになる。だがそれは笑われるどころか、東京中にいる同じように思い込んだ人たちをひきつけ最終的に九万円ができあがった。よくはわからないが高いから良いというわけだ。だが、もともと公立の特認校というのはそのような制度ではないので、制服とも呼べず標準服と言っている。

この問題は地域コミュニティがその基本である次世代の再生産という機能を果たせなくなったことが出発点になっている。これが問題にならないのは日本人が自分たちを産み育てたコミュニティについてさして関心をもたなかったからなのだろう。少子高齢化、地方大学の衰退、次世代技術者や研究者の育成制度の不具合など、あらゆるところで再生産に絡む問題が起きている。成長するどころかコミュニティを維持することすらできないのだから、この問題を単にブランドもののお洋服の話にしかできないようではやがて日本は本当に滅びてしまうだろう。

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