TPPについて考える

2011.11.03: かなり反響があったので、すこしだけ書き直しました。
試しに、Googleで「TPP Obama」と入力してみると良くわかる。20ページ目まで見たが、英語のエントリーは1つもなかった。多分、米国ではあまり話題になっていないのではないだろうか。(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementで検索するとニュージーランドとオーストラリアのページがいくつか検索できた)ということで、この話「アメリカとの貿易協定」と考えるなら、結論は簡単だ。「やめた方がいい」
議論を聞いていると、識者たちのアタマの中がわかっておもしろい。重要なのはほとんどの人が相手の言い分を全く聞いていないということだ。例えば、前提になる自由貿易のメリットすら理解されていないようだ。
「関税をかけずに貿易したほうがいい」という考え方の基礎にあるのは「得意なものは得意な人が作ろう」という前提だ。これを比較優位と呼ぶ。比較優位が依然有効かについては議論がある。資本流動が簡単に国境を越えるのに、人材はそれほど国際流動せず、財政は国ごとにバランスさせなければならない。だから、こうした比較優位が未だに成り立つかどうかという議論もある。しかし、たいていの議論は、単純な比較優位の原理さえ理解していないようだ。
例えば、米にかかる700%の関税の対価を支払っているのは日本人だ。つまり、日本人は高い米を買わされている。米の市場が解放されれば、確かに日本人にとっては「いい事」なのだ。このように自由貿易理論は経済学を学ぶ上で常識のように扱われている。故に経済を学んだ人は、域内の貿易を自由にすれば産業が活性化するだろうという前提を自明のことと考えて、TPPについて議論する。
しかし、これは枠組みの問題だ。域外に対しては排他協定になり得る。よく言われるのが中国やEUとの関係だ。フレームを「日本」にすると自由貿易になるのだが、もう少し引いてみると「保護主義」に映る。この事を指摘している人は少なからずいる。フレームを変化させると、推進者たちの議論がすべてオセロゲームのようにひっくり返る。なぜならTPPは域外に対して保護主義的だからだ。
しかし、それよりもおもしろいのは、議論を通じて、日本人のアメリカに対する屈折した思いが透けて見える点だ。まず第一に、アメリカはもう時代遅れの国だとみなされているらしい。アメリカは、イラクやアフガニスタンの経営に失敗し、イスラエルを暴走させ(国際社会はアメリカのイスラエルに対する態度を承認しているとはいえないようだ。最近、パレスティナがユネスコに加盟した。一歩間違えば国際的に孤立するのは実はアメリカの方かもしれない)、北アフリカでこっそり支援していた国々では革命が起こった。アメリカ国内では失業率が上昇、足元ではデモまで起こっている。「TPPのおかげで、日本がアメリカ市場に参入できる」と読み取る事も可能なのだが、誰もアメリカ市場には期待していないらしい。
それよりも深刻なのは、アメリカは不平等条約を押し付ける国と見なされていることだろう。アメリカが誘ってくる「deal(取引)」には必ずやアメリカが一方的に優位になる条件が盛り込まれていると信じられているようだ。韓国と結んだ協定が「不平等だ」と話題になっている。韓国国会では野党が大反対して国会が荒れているのだが、日本では大きく報道されなかった。TPPとは関係ないが、Amazonが出版者に送りつけたとされる契約書が話題になっている。東洋圏は「体面」と「関係性」を大切にする文化圏だ。だから、こうしたやり方は、少なくともアジア圏では嫌われる。このように、アメリカは中東圏だけではなくアジアとも文化摩擦を起こしている。
この協定をアメリカ側の立場から見ると次のようになる。最近失敗続きのアメリカの行政府が、起死回生を狙って既存の自由貿易協定に目をつけた。しかし空気を読まない(ある意味それだけ必死といえるのだが)強引な手法と、これまでの強気の姿勢が祟って、日本側から警戒されているということだ。これほど不信感が高まっている相手との協約を、国論を二分してまで議論する必要はないのではないか。
さて、このTPPを推進している新浪さんという人がおもしろいことを言っていた。曰く「普段、お客様と接している立場から、日本人は高くてもおいしい日本の米を買い続けるだろう」とのことだ。たしかに、日本の消費者の中にはこういう人たちもいるだろう。緊急輸入したタイ米が大量に余ったのは記憶に新しい。しかし、例えば牛丼のように味付けを濃くしてご飯を大量に食べるというタイプの商品はどうだろうか。独身のサラリーマンのように、コメの品質や産地にはあまりこだわらないという人はたくさんいる。新浪さんは、一般のサラリーマンのように、290円弁当を食べたり、牛丼屋さんには行かないのかもしれない。
この方、商社経由でサービス産業の社長になった方なのだが、多分市場開放の打撃が最も大きいのは、農業ではなくサービス産業だろう。生産効率があまりよくないのだ。
さて、ここまで書いて来ておもしろいニュースを読んだ。そもそもアメリカが言い出したことではなく、菅直人さんが「僕もTPPに参加したい」と言ったのだという毎日新聞のニュースだ。「対米従属」いう疑念の裏側には、戦後長い間、失敗した政策、性急な改革などを、すべて「アメリカの圧力だ」と説明してきた政府の態度もあるのかもしれない。推進論者が自明の事として、市場開放=善としているのと同じように、アメリカのイニシアティブ=悪と考えた人も多かったのではないだろうか。
菅直人さんがどうして参加したいと思ったのかはまったくわからない。情報の空白は「アメリカに利益供与することで…」という憶測で埋められるようだ。なぜ、アメリカに利益供与しないと日本の首相になれないのか、合理的な説明が求められる。
さて、これを当事国の立場から見てみよう。もはや本当のところが何なのかさっぱりわからないのだが、オーストラリアなど「本当に参加したかった」国は、落ち目のアメリカに議論をかき回された上に、ただでさえ議論が鈍いので有名な日本が参加するかしないかで結論を先延ばしにさせられていることになる。一方、オーストラリアがアメリカと結んで日本市場を狙っているという憶測もある。
秘密協議なので、こうした国々の不満は表面化しないわけだが、これ以上外国に嫌われないうちに、こうしたドタバタはやめた方がいい。「人様に迷惑をかけない」のも東洋的な美徳だ。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。