個人主義は利己的でわがままなのか

現行憲法はアメリカから押しつけられた個人主義をもとにしているから、日本人は戦後利己的でわがままになったと主張する人がいる。つまり、個人主義は利己的でわがままだというわけだ。これは本当だろうか。

中国人と仕事をしたことがある人はよく「中国人はわがままで個人主義的だ」という。ところが国際的な企業文化を調べたオランダの学者ホフステードによると中国は集団主義の国なのだという。集団主義社会では自己は「我々」と表現され、集団に忠誠を尽くす傾向があるとされる。確かに中国人は自分の集団には忠誠を誓うが、会社は単なる金儲けの場に過ぎないと考える。そこで、企業にいる中国人がわがままに感じられるのだろう、と考えられる。

公共の概念が発達しにくいのも集団主義の国の特徴だ。街中で行儀が悪いと言われる中国人観光客だが、これは公共圏を自分たちで管理しなければならないという感覚が薄いからだろう。韓国も集団主義的な社会だが、電車の中に読み終わった新聞紙をくしゃくしゃに丸めて捨てて行く「わがまま」な社会だ。

中国人や韓国人は血族が集団の基礎になっている。そこで権力者が血縁者に利益誘導を図ったり、血族単位で蓄財をしたりすることがある。日本人から見ると「わがまま」な行為だが、家族は安全保障の単位なので、彼らの論理に従えば当たり前のことだ。

これらの事例を読んでも、それは単に中国と韓国が文化的に劣っていて「民度が低い」のでわがままなだけなのではないかと思う人がいるかもしれない。

個人主義のアメリカ人も日本人が「わがままだな」と思うことがよくあるそうだ。現代の日本人は横に忙しい人がいても手伝わない。これがアメリカ人から見るとわがままに見えるそうである。いわゆる「縦割り」が進んでいて、自分と違うチームに属している人に協力しようという気持ちにならないのだ。この傾向は今に始まった事ではない。戦時中の日本人を観察したアメリカ軍の記録の中にも「隣の部隊が忙しそうに仕事をしていても暇な部隊が手伝うことはない」という記述があるそうである。(現代ビジネス

個人主義でわがままに見えるアメリカ人だが、代わりに「チームワーク」や「リーダーシップ」を発達させた。さらに個人主義の度合いが高まるほど、公共圏を自発的に維持する仕組みが整う。どうしてこのような傾向が生まれるのかはよく分からないが、一人ひとりの考えで動く事ができる社会の方が自律的な調整機構が働きやすいからではないかと思われる。

もし本来の日本人が強度の集団主義者だったら、日本人は時代にあった集団を自らの手で作り出す事はできなかったはずだ。すると、長州や土佐から脱けだした人たちが主の意思に背いて独自の同盟を築くことはできなかっただろう。また、企業のような仮想的家族システムも作られなかったかもしれない。

日本がアジアで唯一自力での近代化に成功したのは、この国が中庸な個人主義社会だったからだということになる。

自衛隊はどのように暴走するか

ついに安全法制の参議院審議がストップしてしまった。共産党が防衛省統合幕僚監部から独自に資料を入試した資料の存在を中谷防衛大臣が知らなかったのだ。野党はシビリアンコントロールができておらず、軍部が暴走していると糾弾した。

この件が「軍部の暴走」なのかどうかは分からない。参議院で審議が中断しても60日ルールで法案は可決できる。参議院審議など政権にとっては儀式にしか過ぎないのだ。防衛省が官邸と図って計画を準備していたとしても不思議はない。

一方で、自衛隊幹部にトップマネジメントへの不信感を持つ人がいるのは確かそうだ。誰かが漏らしたのでなければ共産党に次々と資料が渡るはずなどないからだ。防衛省では「犯人探し」が始まるだろうが、これは避けるべきだ。情報は隠蔽できるかもしれないが、自衛隊員の不安や不満を解消するきっかけが失われてしまう。この不安や不満を放置すれば、本物の「軍部の暴走」につながるだろう。

士気が高く優秀な人材が集った自衛隊が暴走するはずがない、と熱心な法案支持者であればそう思うはずだ。ところが、実際には士気が高く優秀なチームの方が危ないのだ。

こんな話がある。

マサチューセッツ州ボストン近郊のナットアイランド下水処理場では80名のチームが働いていた。給与水準は低く注目されない職場だったが、使命感に溢れ、士気は高かった。その一方で管理当局からは充分な予算を与えられず、マネジメントは政治的課題にばかり気を取られて、現場には関心を寄せなかった。

外からの保護が得られない現場は外部からの干渉を敵視するようになり閉鎖的になった。不十分な装備しかないにも関わらず援助を求めず、ローカルルールを発展させた。その結果、処理しきれなくなった大量の汚染水を海に放出するようになった。

この事件は、ハーバードビジネスレビューに取り上げられ、ナットアイランド症候群として知られるようになった。

安保法案は国民の理解が得られないまま成立するだろう。すると、政府は「自衛隊が派遣されるのは安全だ」とことさら主張するようになるはずである。仮に現場が安全でない地域であったとしても、政府は現場からの報告を無視するかもしれない。

加えて政府は自主判断ではなく「アメリカや他の国とのおつきあいのために自衛隊を派遣するのだ」と考えている。自衛隊は優秀な組織なので黙って任務に耐えてくれるはずだ。だから、自衛隊の置かれている状態について高い関心を寄せるとは思えない。

充分に安全確保できない現場で何が起こるかは目に見えている。現場は独自のローカルルールを発達させるはずである。日本本国の指示よりも現場の他国軍隊との連携の方が重要視されることもあるかもしれない。現場が危険になればなるほど、独自ルールは極端になる。特に死と隣り合わせの現場でどんな不測の事態が起こるかは分からない。生存本能は軽々と法律を越えるだろう。

あまり考えたくないことだが、それは市民の殺戮かもしれないし、非正規軍化した現地の武装勢力との衝突かもしれない。

繰り返しになるが、内部文書が盛れるというのは、組織がひび割れる最初の兆候だと考えてよい。犯人探しは止めて、何が動揺の原因になっているのかを冷静に調査すべきだ。これまでの答弁を見ていると中谷大臣には当事者能力がなさそうなので、政府はマネジメントに長けた大臣を宛てるべきだろう。

自民党が否定する天賦人権論

自民党の新しい憲法案にはいくつかの特徴がある。その中の一つが基本的人権の制限だ。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(改正案十二条)として、公益及び公の秩序による制限をかけている。

西洋の民主主義国家は、人間は生まれながらに神(天)から与えられた人権を持つと考えてきた。これは誰も侵す事ができない権利である。これを天賦人権論と呼ぶ。この考え方は今でも多くの民主主義国家で支持されてており、日本の現行憲法も天賦人権論に依拠している。

片山さつき議員は、天賦人権論があると日本国民は「権利ばかりを主張し義務を省みない」から自民党はこれを否定したと主張して、ネット上で非難を浴びた。つまり日本国民はわがままだというのである。

一方、西田昌司議員の説明はもう少し「理論的」だ。

西田議員は、日本の独自性を説明するのに「国体」という概念を用いる。日本の歴史的継続性を概念化し、これが「私」や「国民」に優先すると考えている。このようにしないと日本に住んでいる外国人やその子孫に対しても人権が認められてしまうので、日本人が日本を支配する正統性が得られないと信じているようだ。

国体論は科学的に見れば「ユニークな」考え方だろう。日本人の祖先は複数のルートで日本列島以外からやってきた。つまり、我々は全て移民の子孫だ。突き詰めると、多くの国民には「人権」がないことになる。天皇家は高天原から光臨した神の子孫であり、もともと土着ではない。だから、天皇家には「日本人の権利がない」という結論を導くこともできるだろう。

自民党の憲法案の主権者は天皇ではないことを考えると、自民党は国体の主体を天皇だと考えているわけではないらしい。国体に主体がないので、権力に一番近い人が「国体の守護者」を僭称して、他人の権利を制限する口実が生まれることになる。国体は自明だと考えられるので、権力者は自らの権威を正当化する必要がない。その一方で日本国民の人権はその「国体」の下に置かれてしまうのである。

皮肉なことに、外国人の排除を例に挙げて国体人権論を導入しても、実際に制限されるのは日本国民の人権だ。

なお、自民党改憲案には「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」(第十一条)という天賦人権論に沿った記述もあり「国体人権説」を取っているのか定かではない部分もある。

いずれにせよ、自民党議員の手にかかると、これがさらに単純化され、自分たち意思決定の正当化理論に使われてしまう。一つの典型は武藤貴也議員の「戦争に行きたくないと主張する人は利己的」論である。「日本の国体」が危ういにも関わらず「戦争に行きたくない」と考える人は利己的であると武藤議員は「信じている」。国体論に沿って考えると、個人の人権は国体の維持より優先順位が低いので、戦争忌避者を戦場に放り込むには、ただ「そう信じる」だけでいい。決めるのは権力を持った国会議員だ。

面白いことに自民党の議員たちは「国体が自明」だと考えている割には、それがいつも脅かされているという危機感を持っているようだ。そして、一般の国民が同じ危機感を共有しないことにいらだちを抱えている。

この裏には何か精神的なトラウマが関係していそうだが、それが何に由来するのかはよく分からない。自民党の改憲案が発表されたのは自民党が野党だった時代なのだが、自民党を追い落とした国民や民主主義に憎悪の気持ちがあるのかもしれない。

オバマ大統領が原爆投下を謝罪をしない理由

8月になると広島や長崎の悲惨な映像や写真を目にする機会が多くなる。こうした映像を見るたびに「アメリカはなぜ謝罪をしないのだろう」と思う。ところが、アメリカが謝らないのではなく日本が謝罪を拒否しているのだという噂がある。

以下、ウィキリークスの暴露を基にした「噂」に関する日本語と英語の情報をまとめた。

2009年4月にオバマ大統領はプラハで核廃絶を訴える演説をした。これが評価され10月にはノーベル平和賞の受賞が内定した。ウィキリークスによると、大統領は8月頃に日本政府に対して広島を訪れて謝罪する用意があると伝えていたらしい。ところが、11月の来日時には広島には行かず、鎌倉で抹茶アイスを食べた後で、天皇陛下に深々とお辞儀をしただけで帰ってしまった。

ウィキリークスによるとルース駐日米国大使はクリントン国務長官に宛てた秘密電報で「オバマ大統領の広島訪問と謝罪は時期尚早で成功の見込みがない」と報告したようだ。断ったのは薮中三十二外務事務次官だという。

薮中外務次官が政権と話をしていたかどうかは不明だが、この時期はちょうど麻生政権から鳩山政権への切り替え時期に当たる。会談が行われたのは8月28日なので麻生政権の末期に当たると指摘する人もいる。

ウィキリークスがこの件を発表した後、英字新聞のJapan Timesが伝え、アメリカでは少し話題になったそうだ。ところが、日本では朝日新聞以外は取り上げなかった。また、2014年に山田宏衆議院議員が政府に対して質問をしたが、政府は「不正に取得された外交文書なのでコメントできない」として答弁をしなかった。ABCはウィキリークス暴露に対してアメリカ当局に確認したが、当局は「アメリカが日本に謝罪する計画はなかった」として噂を否定した。

なぜ外務省が米国政府の提案を「握りつぶした」理由は定かではない。電報から読み取れる点は2つある。大統領の広島訪問が国内の反核派を高揚させる危険があることを政府は懸念していた。彼らはオバマ大統領のプラハ演説に高い期待を寄せていたからだ。さらにすでに政権交代が起こることが予想されており、政治日程が立て込んでいるという理由もあったようだ。

電報の中では薮中氏は一貫して「外務副大臣」と紹介されている。駐日大使やクリントン長官は官僚である薮中氏の意思を政治家の意思だと勘違いしていた可能性もある。

オバマ大統領の広島長崎訪問は核廃絶に向けた大きなメッセージになったはずだ。ところが、それを妨害したのは、唯一の被爆国であるはずの日本の政府だった。日本政府にとって、8月6日と9日の記念式典は単なる形式的な儀式にしか過ぎない。これは長年原爆教育を続けてきた地元の市民を裏切るものだろう。

その後、日本では福島第一原発で大きな事故が起こった。反核運動が盛り上がり、全ての原子力発電所が停止に追い込まれた。

イラン核合意 – 外交か戦争か

このところ、ツイッターでは安保法制に関して賛成派と反対派が罵り合っている様子を眺めながら、別の問題に興味を引かれる。それが「Iran Deal」である。日本語では「イラン核合意」などと呼ばれている。テレビでの報道は少ないが、ツイッターでこの問題をフォローしている人が少なからずいるのだ。

イラン核合意は、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、ドイツの6か国とイランの間で結ばれた。イランは当面の間核開発をせず、国際的な監視を受け入れる。その代わりに国際社会はイランへの経済封鎖を解こうというものだ。交渉は難航し合意までに2年間かかった。

ケリー国務長官は「この案を受け入れなければ、アメリカは戦争に引きずり込まれる」と議会を説得している。オバマ大統領は「外交か戦争か」という二者択一を迫った。

政府の説得にも関わらず、9月に議会が再開されると合意案は否決されるものと見られている。議会で多数派を占める共和党が反対しているからだ。大統領は拒否権を行使するが、議会の2/3が反対すれば拒否権は覆される。従って、民主党議員のどれくらいが合意に賛成するかによって合意の成否が決まる、と言われている。

反対派は合意の内容に異議を唱えている訳ではないようだ。共和党議員の多くは単に「イランを信用できるはずがない」と信じている。また、オバマ政権に反対して次の大統領選挙を有利に進めようとする思惑もあるようだ。国際問題でありながら内輪の論争に発展して行く様子は日本に似ている。

共和党を中心とするアメリカの議会は、イラクとアフガニスタンの戦争を経験した後も戦争も辞さない態度を取り続けている。イランを制裁するのにどのような理屈で攻め込むべきかという議論はない。いつものように集団的自衛権を持ち出せば各国がついてくるだろうと思っているのかもしれないし、アメリカは特別だから戦争するのに理屈は要らないと考えている可能性もある。

その一方で、ヨーロッパには厭戦気分が強いようである。経済を拡大し地域を安定させるためにはイランの経済制裁を早く解いて貿易を活発化させたいのだろう。ケリー国務長官は「イラン核合意が否決されれば、イランへの経済制裁の枠組みは破棄されるだろう」と言っている。アメリカの独断で敵国を封じ込めることはできなくなっているのだ。オバマ大統領やケリー国務長官もこうした国際社会の空気をを理解しているのだろう。

国際社会の指導者がどうにか戦争を避けようとしているなか、ただ1人安倍首相だけが「アメリカは戦争を望んでいるのだ」と考えて、平和指向の強い国民の気分を変えようとして近隣諸国の脅威を煽っている。

背景にあるのは、アメリカの提示する国際戦略に沿っていれば自ずと大義を得られるだろうという見込みであり、冷戦時代の感覚とそれほど変わりはない。安倍政権はアメリカについて行く為には、憲法を少しばかり無視しても構わないと考えているようだ。

安倍首相の言う「我が国を取り巻く環境は大きく変化した」というのは概ね正しい意見だ。しかし、それは「中国の脅威が増し、北朝鮮がミサイルを持った」ことを意味するのではない。東西冷戦の時代のようにはっきりした構造があった時代が終わり、アメリカだけが正義だったという時代も終わりを迎えつつある。

武藤貴也議員と考える自衛戦争の大義

自民党の武藤貴也議員の「戦争に行きたくないという人は利己主義だ」という意味のつぶやきがツイッターで反発を呼んだ。議員は発言を撤回しなかった。

世間からは「この人はなにか勘違いをしているのではないか」と思われている。「暴論だ」という人もいる。しかし、どうもそうではないようだ。自民党の方針を正しく理解しているからこそ、こうした発想に至るのである。

自民党改憲案は基本的人権に「公益及び公の秩序」による制限をかけている。背景には、基本的人権はGHQによってアメリカから押しつけられた思想であり、日本にはなじまないという考えがあるようだ。武藤貴也議員は既に削除されてしまったブログ記事の中で、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義が日本精神を破壊すると主張しているので、主義としては一貫している。

自民党改憲案が制限する基本的人権の中には「表現や結社の自由」などが含まれる。SEALDsのようなデモも反政府的で公の秩序に反すると認定されれば制限されることになる。何を「公の秩序」と見なすかはその時の政府の恣意的な判断によるだろう。

武藤議員の発言を感情的に批判するのは簡単だが、少し考えてみると不思議な倒錯に気がつく。この人は自らが寄って立つ正統性を否定しているのだが、それに代わるものを提示していないのだ。

現行憲法は、日本国民が幸福を追求する権利を守るために、国民一人ひとりから民主的に選ばれた政府が、例外的に自衛的な武力行使を認めていると解釈されている。自衛戦争の大義は「民主的に選ばれた政府が国民の基本的人権を守る事」だと理解することができる。

武藤議員は、国民主権は日本精神を破壊すると言っているので、民主主義によって選ばれた政府に対する正統性を認めない。また、基本的人権も日本精神を破壊するので認められない。故に「何の為に自衛戦争をするのか」という大義がない。強いて言えば、何をさすのかよく分からない「日本精神」を守るのが大義が、その権威が何に由来するのかは特に説明されない。

だから武藤先生は「日本精神という何だか分からないもの」のために命を差し出せと学生たちに主張しているのだ。そしてそれに反抗するのは個人のわがままに過ぎないのである。

「日本精神」というのは便利な言葉だ。言葉が空虚であればあるほど、自分の価値観を乗せやすくなる。日本人であれば誰しも自身の価値観を推進するためには他人の権利は制限できると考える事ができるのだ。

衝突がなくお互いがなんとなく共存できる世界では、こうした空虚さを中心に置く事でうまく折り合いをつけることができるかもしれない。これが問題になるのは、周辺に強力な他者がいて競合関係にある時である。

民主主義国家ではない中国共産党でさえ「日本から中国人民を解放した」という理由で自分たちの支配を正当化している。ところが武藤議員の考えでは、自民党が存在するためには、国民の支持という大義は必要がない。支配の正統性という意味では明らかに劣っている。しかも、その支配の安定性さえアメリカに守ってもらうことで辛うじて保たれているに過ぎない脆弱なものだ。

武藤議員は「核武装をしても日本を守らなければならない」と考えているらしいのだが、この国が戦後70年間よって立つ基本的な価値観を否定してまで守らなければならないものとは一体何なのだろうか。

真の愛国者はだれか

安倍政権はいま「仮想の敵」の存在をほのめかし、自衛隊の守備範囲を広げようとしている。国民が納得できないと思ったのか、中国や北朝鮮の脅威を示唆するようになった。政策を支持する人たちは、平和主義者を指差して「彼らは売国的で愛国心がないのだ」と非難する。「戦争に行きたくない」という学生を「利己主義だ」と非難する国会議員まであらわれた。

ところが、誰が愛国的なのか分からなくなる出来事が起きた。ウィキリークスがアメリカ政府が日本政府や企業の通信を盗聴していたと暴露したのだ。これまでも疑いはあったが、今度は実際に盗聴された内容が書かれてあるので、当人たちに確かめれば真偽は分かるだろう。

これまでの間に、日本政府がアメリカに抗議したり調査を依頼したという話は聞かない。この事件は日本の主権や独立性が脅かすような事態だといえる。政治家たちはアメリカを怖れていて動かないのだろう。

2013年にドイツの盗聴が発覚した時、メルケル首相は即刻オバマ大統領に直接抗議をした。東ドイツ統治下での秘密警察の記憶があるのかもしれない。国民の間に拒絶反応があるのだろう。ヨーロッパの各国もアメリカ政府に対して同様の抗議をしている。背景には「国の主権や権益を外国に侵させてはならない」という当然の意識がある。放置すれば国内の愛国主義的な人たちを刺激しかねない。

一方で、日本にはこうした「愛国的な」人たちがいない。ネトウヨと呼ばれる自称愛国者たちは中国や北朝鮮の脅威を煽りつつも、実際に国家主権を侵害されるような出来事が起きても黙って見ているだけだ。彼らはそれほど独立国の主権に興味がないか、臆病で声を挙げられないのだろう。だから、右翼と呼ばれる人たちは愛国者ではない。

沖縄の新聞社を懲らしめろと言っていた自民党の若手議員たちも、アメリカが相手だと何も言わない。威勢のいいのは目下だと思っている勢力をいじめるときだけだ。しかも、表立っては言えないので徒党を組んで騒ぐのだ。

真の愛国者でもない人たちから「売国的だ」とか「愛国心がない」などと非難される筋合いはない。今後、安倍政権が「国益」などという言葉を持ち出しても、今後一切信頼すべきではない。ただ、嗤ってやればいいだけだと思う。

もし本当の愛国心というものがあるのなら、外国の主権を侵すような行為に対しては断固抗議の声を上げるべきだろう。

山本太郎参議院議員はバカなのか

山本太郎参議院議員が安保法制について質問に立った。これに対して池田信夫氏が「山本太郎は左翼が知識層であるというイメージを粉砕した」と指摘した。これが左翼にダメージを与えたのだという。この指摘は当たっているのだろうか。

池田氏が指摘するのように、山本太郎議員が「バカ」なのは確かだろう。左翼勢力に対する破壊につながったのも確かかもしれない。しかし「バカ」というのは実に恐ろしいものである。

山本太郎議員は今回の質問に際して専門家の意見を聞いているようだ。これは「バカ」すなわち知識がないからである。結果的に自衛隊が人道復興支援名目で米軍兵をイラクに輸送したことを安倍首相から聞き出した。このときの法整備では米兵の輸送は主目的ではなく「など」という例外的な扱いだったのだという。

今回の安保法制では「一般に」という答弁が多い。これは例外があることを想起させる。山本太郎議員の質問を照らし合わせると、あらゆる抜け道を使って、アメリカ軍の行動を(それが例え違法ぎりぎりだったとしても)黙認する可能性があることが、直感的に分かる。

さらに「バカ」なので、後先を考えない。これは民主党と違っている。民主党は安保法制に対してバラバラな意見を持っており党内がまとまらない。さらに野田政権下では集団的自衛権行使容認について議論したこともある。だから「対案が出せない」のだが、拳は振り上げて見せる。これがどうしても「お芝居」に見えてしまう。国民の支持が広がらない一因だろう。

山本太郎議員がバラエティ番組なら、民主党の行動は歌舞伎に似ている。残念ながら視聴者が引きつけられるのは伝統的な歌舞伎ではなく伝統芸能が「バカにする」バラエティ番組だ。

インターネット前の時代であればこうした「バカ」は選挙には受からなかっただろう。テレビや新聞の「賢い」人たちがフィルターアウトしてしまうからだ。ところが、インターネット時代では、有権者と「バカな」候補者が直接つながる。そして永田町で「バカの目」で疑問を抱き、専門家と直接つながることもある。それをネット上の「バカ」たちが直接視聴するのである。2013年の東京選挙区にはこの「バカ」な議員に共感した人が65万人もいるのだ。

山本太郎議員の2日間の質問を見ていると、つい「応援したくなる」なってしまう。それだけ複雑で「賢い」議論に疲れ果てているのだろう。議論が硬直化し複雑化しても内部からでは気がつきにくい。そこに「バカ」が置いてあるだけで、システムのほころびが否応なく浮かび上がるのだ。これが「バカ」の破壊力の一番大きなものだろうなと思う。

この破壊力が「良いもの」か「悪いもの」かは分からない。多分、それは結果論でしかないのだろう。

先制攻撃は違法なのか

2015年に書いた「先制攻撃」についての記事。今読み返しても状況はあまり変わっていない。最近では、トランプ大統領が国際的な手続きを守らずにシリアを叩いた。「旧西側」はこれを許容する態度表明をしたので「お咎めなし」なのだろうが、空気を読み間違うとたいへんなことになりそうである。安倍首相はいつものようにトランプ大統領に賛成表明をした。(2017.4.9)


2015年7月28日、参議院の特別委員会で民主党の議員が「相手国が攻撃の意思表明をしていないのにこちらから攻撃することがあるのか」という趣旨の質問をした。これに対して、安倍首相は「あり得る」と言い、岸田外相は(これは)「先制攻撃だ」と説明した。

これに対して、共同通信は「攻撃意思を推測し行使と首相 集団的自衛権、参院特別委で」という記事を配信した後に削除した。また、「日本は先制攻撃も辞さないのか」という非難めいたツイートが飛び交った。先制攻撃は、国際法上違法ではないかという指摘があるのだが、結論だけを言うとこれは「違法とはいいきれない」そうだ。

すでに相手がピストルを構えていた(攻撃行動が起きている)場合、まだ撃たれていなくても反撃することができる。形式上は先制攻撃だが、これを「先制的自衛(もしくは自衛的先制攻撃)」と呼ぶ。これは合法的な自衛だそうだ。一方、まだ攻撃行動が起きていないのに自衛名目で攻撃することは「予防的先制攻撃」と呼ばれて非合法とされる。

先制的自衛に関しては、過去何度も政府見解が出ており、Googleで検索すればいくつかの資料を見つけることもできる。だから、軍事や防衛を勉強した国会議員は知っているのだろうが、質問した民主党議員がわかって質問したかは不明だ。

一方、先生的自衛には問題点もある。

まず、「自衛的先制攻撃」と「予防的先制攻撃」の間には主観的な違いしかない。故に、事後的に「違法だ」と判断されてしまう可能性がある。緊迫した状態では、極めて短い時間に様々な判断をする必要がある場合が多く、実際の現場では切り分けは難しいだろう。つまり「絶対に国連から事後承認されるだろう」と考えるのは危険だ。

また、「自衛的先制攻撃」は濫用される可能性がある。例えば、イラク戦争は「大量破壊兵器を持っている疑いがある」ことが自衛戦争の根拠になっている。しかし、後に大量破壊兵器は発見されなかった。ブッシュ大統領は(多分意図的に)自衛的先制攻撃の幅を拡大解釈したのだろうと考えられる。ポケットに何か入っているらしいので「それは銃に違いなく、あいつは間違いなく俺を撃つつもりなのだ」と見なして相手を撃ち殺したのがイラク戦争だ。

さて、ここまではあくまでも「個別的自衛」と「自衛的先制攻撃」の関係についての整理だ。政府答弁は集団的自衛権を合憲とした上で、個別的自衛時代の答弁を踏襲して「他国軍隊への攻撃を自衛隊への攻撃とみなす」と拡大している。一方、「集団的自衛」が憲法違反なら、「アメリカへの攻撃を自国攻撃と見なす」こと自体が、憲法違反ということになってしまうので、これ以上の議論は無意味である。いずれにせよ「集団的自衛」が容認されると、自衛隊だけではなく他国の軍隊が防衛の対象になる。つまり、状況はより複雑化することになるだろう。

答弁した側の首相や外相は「軍事の素人」だ。細か違いを理解しないまま軍事行動を行えば、容易に戦争犯罪者になってしまうだろう。間違った状況判断で戦争に突っ込めば、巻き込まれるのは国民だ。

首相にはブレーンがついているから大丈夫とおもいいのだが、この点で安倍首相には懸念がある。ホルムズ海峡の例から分かる通り、安倍首相が国際状況に関する知識は非常に疑わしい。さらに「火事の模型」の例で分かるように、抽象思考能力にも問題があるようだ。

今回の例では、安倍首相が「自衛的」か「予防的」かどちらの意味で「先制攻撃もあり得る」と言ったのかを確認する必要がある。さらに、野党はそれに留まらず安倍首相に対して具体例を交えた「知能テスト」を徹底して行うべきではないだろうか。

集団的自衛権と有権者の意思形成

無関心期

長らく、アメリカの保守派やジャパンハンドラーは日本政府に対して集団的自衛権の行使容認を訴えてきた。安倍晋三は第一次政権時代から集団的自衛権の行使容認に意欲を見せていた。当初は憲法を改正して、集団的自衛権の行使を容認する計画を持っていたものと思われる。その後、民主党の野田政権が集団的自衛権行使容認を議論した。

一方、集団的自衛権に関する国民の関心は強くなかった。一部の右派系雑誌が中国の脅威と絡めて日本の軍事的プレゼンス強化を訴えるのみだったが、雑誌の部数が少なく、議論の広がりはなかった。

その後、第二次安倍政権が発足し、2014年7月1日に憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認を決定する。しかし、国民の関心は必ずしも高くなかった。安倍政権は2014年12月に「アベノミクスの成否と消費税増税の延長」を争点として衆議院議員選挙を行った。自民党のマニフェストには小さな字で集団的自衛権について書いてあったが、大きな争点にはならなかった。

コンテクストの不在

第三次安倍政権は2015年になって、アメリカの議会で集団的自衛権の行使容認を含む約束をした。公の場でコミットメントしたために、その後妥協の余地はなくなった。

その後、10の安保法案に1つの新しい法律を加えて国会に提出した。この頃から新聞での報道が多くなったが、国民の大半は「分からない」と考えていた。支持率は25%から30%といったところだ。

安倍政権は、中国の脅威とアメリカの依頼という重要な2つの文脈を国民に説明しないままで安保法制の説明をした。コンテクストが不明だったので、多くの国民が唐突な感じを持ったのではないかと考えられる。安倍首相は「敵に手のうちを明かす」という理由で、国民への説明を拒んだ。

権威ある第三者の登場

「潮目が変わった」のは、6月4日の憲法審査会だった。安保法制とは関係のない審査会で、自民党が推薦した憲法学者を含む3人が、安保法制は違憲だと表明した。これをきっかけに、安倍政権が秩序に挑戦しているのではないかという疑念が広まった。これを表現するのに「立憲主義に違反する」とか「憲法違反だ」という表現が使われるようになった。安保法制の内容に反対しているのか、安倍政権の態度に反対しているのかは判然としない。

態度を決めかねている有権者は、意思決定のために党派性のある意見を使わなかった。憲法学者は政治的に中立なポジションにいるものと信じられており、権威もあったので、態度を決めるのに役に立ったのだろう。

その後も「賛成派」や「反対派」の立場の人が国会の内外で自説を述べたが、世論には大きな影響を与えることはなかった。そもそも安倍首相が「敵に手のうちを明かすから」という理由で説明を拒んだために、賛成派も反対派もそれぞれの理由付けをして自説を補強しただけだった。

新聞とNHK

長い間日本では新聞は中立だと考えられてきたが、今回の安保法制では意見が別れた。政権に好意的な新聞(読売、産経)と批判的な新聞(朝日、毎日)である。態度が決まっている人は、同じ意見を持っているメディアを紹介する可能性が高い。故に、中立を装うよりも、ポジションを明確にした方が一定の読者にアピールする可能性が高まるのだろうと思われる。

NHKの評価は芳しくない。中立を装いつつ安倍政権を擁護しているのだという見方が一般的だ。NHKへの「言論封殺」が直接指示されたわけではないものの、結果的にNHKは萎縮した。安保関連の企画が通らなくなったという声もある。このため、政府にとって有用な説明もなされず、賛成派にとっては必ずしもよい結果をもたらさなかった。

これまでの観察から類推すると、メディアには党派性があるために、態度強化の役には立つが、態度変容のためには役に立っていないのではないかと思われる。

政党離れ

安保法制への反対が増えるに従って、反対表明をしている共産党や民主党への支持が増えてもよさそうだが、支持は広がらなかった。60%程度が無党派になっている調査もある。この点についての調査や分析は行われていない。

民主党は野田政権時に集団的自衛権行使容認を目指したのだが、現在は反対を表明している。また、民主党の中にも「反対派」と「実は賛成派」が混在しており、ツイッター上で自説を述べ合っている。対案が出せないのは民主党内の意思が表明されていないためと思われる。

安保法制を「戦争法案だ」と考える主婦や学生が「戦争反対」のデモを開始した。賛成派はこれを「共産党の影響を受けている」と攻撃したが、デモを主催する人たちは「共産党とは関係がない」と反論した。

一連の出来事から、既存の政党への拒否反応が広がっている様子が感じられる。政治的なイシューと政党が必ずしも結びつけて考えられていないのである。特にデモを起こして反対する人たちにとって「党派から独立していること」が重要だと考えられている。

ツイッター上の部族とニュースイーター

安保法制の議論がエキサイトするにつれ、ツイッター上では「賛成派」「反対派」が明確になり、相手を攻撃するような光景も目にするようになった。このことから、ツイッターのフォロワーは必ずしも賛意を意味するものではないことが分かる。反対の意見を持った人を監視し、攻撃するためにフォローする人が少なからずいるのである。

一方で、態度を決めるためにツイッターを利用している人も多くはなさそうだ。むしろ、ツイッターは態度強化の為に利用されている。賛成派と反対派では、もともとのストーリー構成が違っている。このため、部族が異なると、相手の言っていることがよく分からないのだろう。いったん意見表明してしまうと自分の発信に対するコミットメントを深めてしまうので、態度変容が難しくなる様子も分かる。

一方で、態度を折り合わせるために共通のストーリー作りを目指すという声は聞かれなかった。

ごく少数ではあるが「事実はどこにあるのだ」という当惑の声も聞かれる。ここでも「中立性」が求められている。ストーリーによって見方が異なるので「ただ一つの真実」というものはないのだという見方をする人は少ない。つまり、比較が重要だということ を考える人はほとんどいない。

もう一つの顕著な層は「ニュースイーター」と呼ばれる人たちである。この人たちは、折々のニュースをフォローすることに興味があるが、自身の意見を持っているかどうかは分からないし、態度強化や態度変容を目指して情報収集しているかどうかも分からない。ニュースはタイムラインを流れて行くものなのだ。

Faceboookはニュースイーターを多く抱えているものと思われる。サイト解析から見ると、年代は30歳代より上が多い。今回の場合「安倍君と麻生君の例え話」や「火事と生肉の例」など、テレビで話題になった事案に引きつけられることが多く、必ずしもニュースの本質的な議論に興味があるわけではなさそうである。

「強行採決」

支持率が急落し、賛否が逆転したのは、法案が衆議院議会で採決された7月15日前後だった。法案の中身よりも「世論が納得していないにも関わらず」法案を押し通したという点が、反発されたのではないかと思われる。

この時期になっても賛成派は約25%とそれほど変わっていない。安倍首相自身がテレビに出て安保法制について説明したが、火事になった家の例は国民を困惑させただけで、視聴者に態度変容をもたらすことはなかった。