自民党が籠池理事長らの参考人招致なんかできるはずがないだろうと思う訳

Twiterでは安倍首相が疑念を持たれないためには籠池理事長を参考人招致すべきだという声がある。しかしそれは無理だと思う。そんなことをしたら自民党そのものの自己否定になってしまうからだ。

自民党はある意味宗教政党だ。明文化された教義はない。では自民党は何を崇拝しているのだろうか。これをテレビやソーシャルメディアで知るのは難しいのではないだろうか。

ちょっと前に地元の市議会議員に話を聞きに行ったことがある。自民党の現役の先生は相手してくれなかったのだが、先代が話をしてくれた。きっと暇だったのだろう。千葉市は東京圏から家を求めてやってきた人に土地を売って潤った歴史があり、不動産売買は政治家の大きな利権だった。

それでも売れ残るような評価額が低い土地は市に買い取らせた。例えばゴミ処理場とかモノレールの基地などは浸水しやすい場所にある。もともと地元の人たちは高台に住んでいて、川沿いの田んぼに耕作にでかけていた。火山灰が降り積もってできた土地なので、水に削られた谷があるのだ。そこを造成して住宅地にした上で「〜台」という名前をつけて売るのだが、それでも浸水するところが出てくる。公共工事で治水対策をし、それでもどうしようもないところはできるだけ高い金で市に買わせるのだ。「いかに知恵を絞って高く土地を買い取らせるかが腕の見せどころだった」そうである。

先代はこれを「自慢げに」話していた。高度経済成長期なので国や地方自治体にはお金があり、人口も増えていたので将来の税収に困ることもなかった。自民党はイデオロギーベースの政党ではなく既得権を持った利権集団の集まりなのでこういうことが「自慢」になるのだろう。おじさんがバブルを自慢するのと同じようなメンタリティなのかもしれない。

つまり、自民党の宗教は高度経済成長だったということになる。

こうしたマインドセットはその後も変わらなかった。民主党が政権を取り「公共事業はいけないことだ」という雰囲気になった時にも、自民党の人は、みな判で押したように「公共事業にはいい公共事業もある」などと言っていた。その調子は「政治なんか知らない素人のあんたに教えてやろう」というような調子だった。同じような顔の人をソルトレイクシティで見たことがある。モルモン教徒の人も「お前は無知だから神の道を知らないのだ」と言っていた。

かつての成功を懐かしむ気持ちもなんとなくわからなくもないのだが、自民党が推していた市長が収賄容疑で逮捕された時期だった。それでも公共事業と土地を回して潤うことを否定されるのが許せなかったのだろう。土地への強い執着がわかる。

そう考えると、森友学園が自民党議員に働きかけて土地を安く手に入れるなどということは、別に今までもあったことなのだろう。そもそも土地の取得に違法性がないということからわかるように、いろいろな制度は自民党に都合よく作られているはずだし、そこから政治家にキックバックするというのもそれほど珍しいことではないのではないだろうか。

森友学園の話を「倫理的でない」とか「違法ではないが不適当」と認めることは、共産党がマルクスが間違っていたと認めるのと同じようなものだ。これに群がっておいしい思いをした人もいるはずで、つまり国民も一方的に犠牲者とは言えないということになる。

だが、これはかなり悲劇的な状況だ。自民党はもともと高度経済成長期に最適化した政党なのだから、その存在意義も失われたということだ。そこで新しい教義を作ろうとした結果が戦前回帰だったのだ。既存の高度経済成長という宗教に取って代わったのが森友学園に代表される狂った宗教だ。

しかし、自民党だけを責める訳にも行かない。そもそも日本そのものが高度経済成長に代わる価値を見つけることができなかった。だからいまだにありもしない教義にしがみつかざるをえない。民主党は自民党の公共事業という宗教を否定したが、それに代わる宗教を見つけられなかった。いまだに原発のない国という宗教を教義に加えるかどうかで逡巡しているようだ。

それでは新しく自民党が見つけた宗教は何なのだろうか。それは「公」を語りつつ人々を従わせて搾取するというのがその教義だ。

政府の言い分では「学校は公共性が高いから」という理由で土地売却を急いだということになっているが、実際には国有財産の私物化と個人的な滅茶苦茶な価値の押し付けを「公共性が高い」と堂々と宣言しているにすぎない。かつての古い自民党が公共事業を推進していた時には、曲がりなりにも地域が発展するという名目があった訳だが、自民党の考える「公」はここまで劣化した。自民党は新しい憲法でこの「公」が個人の人権を凌駕すると言っているのだが、彼らが言う「公」とは実際には仲間内の利益でしかないわけで、その意味でも「国家の略奪」を堂々と宣言していることになる。

それでも日本人は民主党の失敗を懲りており「まがい物でもいいから宗教に頼って生きていたい」と考えているのだろう。

鬱積・行き詰まり・書くこと・時期

先日「魂の殺害者」というエントリーが多く読まれた。調べてみると2009年の記事だったのだが中身はほとんど忘れていた。こういう記事は他人が書いたものとして気軽に読めるし、自分の記事なので書き直しも自由だ。てにおはや語尾を直したりしたが、なかなか面白かった。

「魂の殺害者」は精神病を患った人の話なのだが、背景には父親の抑圧があり、さらにその背景には時代の空気がある。第二次世界大戦前のドイツの話が今読まれるのは、こうした時代背景が現代と共通していてある程度の切実さがあるからだと思う。

数年前の記事なので下手なのかと思うのだが、文章としては今のものより面白い。一冊の本を読んでじっくりと書かかれていて、誰かに読ませようと思って書いていないのだ。そのため、よく思われようとか、相手に印象付けようという無駄な自意識が全くない。

ここに至る前は「社会はくだらない」というような話を書いていた。切実に読んでほしいと思っていたが、需要も文章力もなかったのだろう。全く読まれなかった。今ある穴から抜け出したいという気持ちもあったのだ、もちろん何も起こらない。

今「魂の殺害者」の感想みたいな文章は書けないなあと思う。理由はいろいろある。個人の移ろいというのももちろんある。書物の実力はあまり進歩しないが、プログラムは過去のロジックやライブラリーが溜まってくるのでできることが増えてゆく。するとじっくり何かを読むよりは、手を動かして何かを作ったほうが楽しくなる。

個人の変化だけでなく、時代背景も大きい。2009年は民主党政権ができた時期で人々は「これで誰が(つまり政治家なのだが)がなんとかしてくれる」と思っていた。だが実際に民主党で関係者の話を聞いてみるとディテールが曖昧でいい加減な人たちが群がっていた。これは早晩破綻するだろうなと思っていたら案の定3年ちょっとで思った通りに破綻してしまった。

つまり、その頃に個人の行き詰まりを書いても誰も共感してくれなかった。しかし、現在は政権がわかりやすく行き詰っているために不満が渦巻いている。政府や地方自治体の言っていることは明白にでたらめなので、それを「落ちる」言葉で説明するだけで需要が生まれてしまうのだろう。「なぜ日本人が複雑なプロジェクトを扱えなくなったのか」という疑問も多くの人に共有されている。これ自体は実行は難しいが説明自体は簡単なので、大した知識がなくても書けてしまうし、それが驚くほど多くの人に読まれることもあるのだ。

多くの人がフラストレーションを感じているかもしれないのだが、これは闇市に多くの人が集まっているような状況だとも言える。所得倍増計画前の状況に似ていて、先見性のある人なら「これを活かせば活力を取り戻すのは容易だろうなあ」と思える。さらに他人とつながること自体はとても簡単になった。ソーシャルメディア技術が発展して、発信したり人の意見を聞いたりできるからだ。ここまでの技術は数年前には見られなかったし、そもそも観客になる人たちがいなかった。

面白いことに、不満が内部に鬱積している状況で感情に出口がないという状況は無駄にはならない。個人の不調というのは時代が追いついていないだけでやがて共有されることになるのだと思う。逆に鬱積した時期でないとできないことも実は多い。それを他人や政権のせいにしても仕方ないとは思うのだがその感情も無駄にはならない。結局「他人を責めても何も変わらなかった」と実感しない限りその先へ行けないからだ。その意味ではそれは穴ではなく別の通路の始まりだったことになる。

ただし、こういう記憶は容易に失われる。たとえば本を読んだことも覚えていなかったし、その時何を感じたかということも記憶になかった。文章を誰でも読むことができるところに残しておくと、誰かが見つけて思い出させてくれることもある。つまり、書いて記録を残しておくという行為も決して無駄になることはないのだ。

野党が国会審議の中断を申し入れる

民進党の福山議員が委員会審議の中断を申し出る異例の事態となった。Twitter(最近反安倍の人がタイムラインに増えている)はことの順番がわかっていないとご立腹だ。

委員会の中断を申し入れたのは良い判断だった。野党は自民党と安倍政権を追い詰めたい(他に話題もない)のだが、さすがにミサイルが飛んできているのにそれを差し置いて攻め続けるわけにもいかなかったのだろう。もしそれをやっていれば「節操がない」と言われていたはずである。

しかし、それ以上に心配なのが安倍首相のマインドだ。首相側から「北からミサイルが飛んできたから国会を休ませて欲しい」などと言えば「隠蔽だ」と言われかねない。法律は無理やりに通してしまえばいいのだが、さすがに民意が相手ではコントロールが難しい。そこで、委員会を休ませて欲しいと言い出せなかった可能性がある。

これは裏を返せば、北朝鮮よりも森友問題の方を深刻に受け止めているということだ。北朝鮮からのミサイルは秋田県沖350km圏内に飛んできているので状況はある程度は緊迫しているように思える。だから、考えられる可能性は2つある。

一つは「北からのミサイルを脅威」と言っているが、本音では「アメリカが対処してくれるので大丈夫だ」とタカをくくっている可能性だ。つまり普段の言動は「フェイク」ということになる。次の可能性はミサイルの緊迫性はわかっているのだが、それよりも森友問題の方に(政権にとっての)危険性が高いというものである。

安倍さんは国民のことを第一に政治をしてくれていると思いたいが、政権の維持が自己目的化しているように思える。

そうすると民進党から国会審議の中断を言い出したことの空恐ろしさがちょっと垣間見える。つまり、総裁選挙を控えた安倍さんの頭の中は森友問題一色になっており、国防上の問題を正しく判断できなくなっているのではないかと思うのだ。

NSCは20分ほどで終わったようで、委員会開催を全く中断しなければ開けなくなるようなものではなかったようだ。アメリカが状況を把握する(そして日本にどこまで状況を教えるかを決めるまで)は何もできないはずで、トランプ政権がどのような挙動を取っているのかも含めていろいろと不安が募る。

どうしてもTwitterのタイムラインのようにワイワイと騒ぐ気にはなれない。意外と深刻なことになっているのではないか。

奥野総一郎議員の辻立ち

愛生町の道端で民進党衆議院議員奥野総一郎さんが辻立ちしていた。先週も殿台のローソンの前で拝見したので多分週末にはやっているのだろう。こういうことでしか日本は変わらないんだろうなあと思いながら通り過ぎた。

この話、当初は「希望はないけど、だったら気持ちが大切なんだよな」という筋で話を考えていたのだが、一晩寝かせてみて「意外とチャンスなのでは」と考え直した。ポジティブなアイディアというのはとても重要なように思える。

さて、話を元に戻す。正直言って民進党には全く期待していない。信号待ちの間の一分くらいで聞いた内容は「明治期に戻って人に投資すべき」という内容だったのだが、ぱっとしない内容だ。民進党のこの「人に投資しろ」はその後消費税の増税議論につながる。しかも自分たちで言い出すつもりもなく自民党にやらせてがっかりした有権者の票をもらおうというさもしささえ感じさせる作戦なのだ。日教組がバックの議員もいるので、教育現場に利益誘導するつもりではなどと考えてしまう。

にも関わらずこの辻立ちがいいなと思ったのは、多分誰にも知られないような活動だからだ。多分、駅(田舎とはいえ、駅くらいはある)とかショッピングモールみたいなところで演説したほうが効率的なわけだし、場所を決めて予め告知するともっと集客ができるだろう。人気がある議員や著名人を呼んでくるという方法もある。

ではなぜそういう演説会がつまらないのか。それは「安部打倒デモ」みたいな内容になることが大いに予想されるからである。この「安倍倒せ」は一部では猛烈に盛り上がっているが一般的な広がりは一切ない。つまり、予めトピックを決めてしまうと、想定の範囲にしか話が広がらない。

であれば「国会議員なのに、こんなところにも来るんだ」という驚きがある。一回や二回では変わらないかもしれないのだが、続けているうちに少しづつ印象が変わるかもしれない。

今の民進党には「何も期待しない」という人が大半だろう。蓮舫代表になってから「民進党って口先だけだよね」感は増した。多分テレビ的なパフォーマンスはできるんだろうが、全く驚きがない。テレビ慣れしすぎた人を起用したのはよくなかった。「地道さ」とか「実直さ」は今の民進党にもっとも足りない資質だろう。

Twitterを使って民情を煽るという方法ももちろん考えられるし、これは有効に使ったほうがいい。しかしTwitterは破壊行為には向いているが建設的な議論はできない。それは人々が「予め想定された範囲」でしか発信もリアクションもしないからだ。

さて、ここまでが寝る前に考えた話の筋である。驚きと実直さのアピールからはじめるのがよいのではないかというものだ。しかし一晩寝て考えがちょっと変わった。

これに車載(自転車で回っているのだが)カメラとPCと通信装置をつければライブ配信ができるわけだ。これをYouTubeなどで流しておいて人を集めるという手があるよなと思ったのだ。国家議員YouTuberという人はいないと思うのだが、国会議員に言いたいことがあるやつはここに集まれなどとやれば、ライブイベントの出来上がりである。

この国会議員YouTuberのメリットは、今までにないアイディアや不満などが直接聴取できるというところだろう。民進党は「言いたいことだけいう」という一方通行的な政党なのだが、彼らがいうことを誰も聞いてくれないという状態にある。

Twitterに欠けているのは「話を聞いたり、読んだりしてくれる」受け手だ。辻立ちは人の話を聞くよいチャンスなのだが、単にのぼりをもって演説している人に話しかけるのはなかなかハードルが高い。ライブ配信はイベントとして楽しそうだし、話しかけるきっかけになるのではないか。

意外と地道で地味な活動が最先端に近いのだなあと妙に感心した。まあ、民進党の議員がやるかどうかはわからないが、街頭演説をやっている議員は多いので、そのうち誰かが始めるだろう。

 

リーダーシップ不在の国

安倍首相がトランプ大統領と「防衛費1枠を打ち破る」と密約したのではないかというニュースが飛び込んできた。このニュースを見てつくづく残念に思うと同時に、戦後の民主主義教育はこの国からリーダーシップというものを破壊してしまったのだなあと思った。

安倍首相がこれほど嫌われるのは、すべてを密約で決めてしまうからだろう。今まで周りが大切に守ってきた約束を破ることで「自分は強いリーダーだ」ということを誇示しようとしているのではないかと思う。オバマ大統領との間では「北朝鮮からミサイルが飛んできたら日本が守ってやる」と大見栄を切りその後安保法制を巡る大混乱が起きた。

このマインドセットを想像するのは難しくない。「ママがだめ」といったことをやって強がる子供にみられる心理状態だ。大人がなにかが分からない人は、ママに反抗することで「僕ってもう大人だもんね」という実感を得る。こうした経験は誰でもあるかもしれない。

では、人はどうして大人になるのか。責任を取らされる立場になることで「大人って責任を取る人なんだな」ということを学ぶわけだ。「ママがダメっていうからやらない」のではない。それがどのような結果を生むかということを考えて(あるいは考えざるを得なくなって)選択することを学ぶわけである。

ということは安倍首相は「責任を取る」ことを学ばないで大人になったのではないかと考えられる。かといって戦後の民主主義社会にはリーダーのロールモデルがないので、それを外から学ぶ機会もなかった。

安倍首相は嘘をついて安保法制を通したので、日本はかなり悲惨なことになっている。周囲の大反対を押し切って派兵した南スーダンに自衛隊を駐留させておく前提条件は崩れている。しかし安倍首相は失敗を認められないので南スーダンからの撤退を言い出せない。そのため部下たちに「南スーダンは戦争状態ではない」という嘘をつかせている。

こういってしまった以上、日本は南スーダンの和平実現のための枠組みには加わることができない。世界中の国々が南スーダンの失敗を認めているのだが、日本はこの大人の会議には加わることができないのだ。たいした理由はない。安倍首相が大人になれていないからだ。

こういう人ほどリーダーについて語りたがる。石原慎太郎がそうだったが、責任を取ることを考えていないほど気軽にリーダーシップについて語ることができるのだろう。安倍首相もいろいろと力強い約束をしてくれているが、守られたものは何もない。保育園政策を力強く推進するといっていたが、すでに悲惨な統計が出ることが分かっているので「6月までに新しい約束」を取りまとめるのだそうだ。

保育園生活一つとっても責任感のある担当者ほどつぶされてしまうだろうということが容易に予想できてしまう。反対に「政府がなにもしないんだから、目の前で泣いているお父さんお母さんがいても私のせいじゃない」し「そういう政府を選んでいるのは有権者なのだから自業自得だ」と考えたほうが楽だからだ。

悲しいのはリーダーシップのロールモデルが存在しないために、有権者も無責任な約束や子供みたいな蛮勇が「リーダーシップではないのか」と錯誤してしまうことだろう。石原慎太郎が高齢者に熱烈に支持されていたことから分かるように、大人でも何がリーダーなのかが分からない人が多いのだ。

石原慎太郎的なものはこの際徹底的に粛清されなければならない

石原慎太郎氏の記者会見が終わった。見終わってこの人は徹底的に粛清されるべきだなと思った。個人をターゲットにするのも下品なので「的」をつけた。とはいえ、彼が粛清されるべきなのは彼が悪人だったからでは必ずしもない。どちらかといえば無能だからだ。

石原氏は記者会見で「難しすぎてよく分からないけどハンコは押したと思うよ」と主張した。石原氏にしてみれば「豊洲は小さな問題」で関心は薄かったようだ。

当時石原氏は銀行を破綻させており、金儲けのために「オリンピックを招致しよう」と言い出したとも語っている。つまり頭の中にはお金のことしかなかったのだ。

石原氏の置かれていた状況は次のようなものだ。人気者として祭り上げられた社長が誰かの口車に乗せられて金貸しを始めた挙句に失敗し、金策で頭がいっぱいになった。だが会社は既存事業もたくさん抱えている。そこで専務や部長連中とか外部から雇った相談役たちに「ハンコは好きに使っていいよ」といって仕事を任せた。

もちろんよい部長もいただろうがそうでない人もいただろう。「ちょっと金儲けしてやろう」と考えている相談役もいたかもしれないし、老後の不安から天下り先を探していた人もいるかもしれない。だが、自分は責任を取らされることはない。他人のハンコを使うのだ。もうやりたい放題だろう。

小池都知事も指摘するように、これは「コーポレートガバナンス」の問題だということが分かる。東京都は議会と都民に対してエージェントと呼ばれる立場にある。エージェントは専門性を持っているので「情報の非対称」が生まれる。これを制御するのがコーポレートガバナンスだ。

企業統治に詳しい人などはエンロン事件などを引き合いにコーポレートガバナンスの失敗について語ることができるはずだ。エンロンはエネルギーや通信など専門性の高い事業を手がけていた。よい成績を収めていたように見えたのだが、実際には会計をごまかしていた。だが事業が複雑すぎて出資者にはその全容が見えなかったのである。

エンロンやワールドコムの事件を受けて、アメリカでは企業倫理を徹底させたり、罰則を強化したりする動きがあった。株式市場の透明性が損なわれるのを恐れたのだろう。

エンロンと豊洲の問題の共通点は何だろうか。それは専門性が高くて「常識」だけでは判断ができないという点である。現在のプロジェクトは複数の高い技術の集積なのでこういう問題がよく起きる。ここで意思決定に穴があると「誰もが責任を取らないし取れない」という状態が生まれるのだろう。

とはいえ「仕方がないね」では済まされないので、エクセキューター(実行者)のトップ(企業ではCEOと呼ばれる)が責任を取ることになる。つまり、CEOは複数の専門技術をオーケストレーションする専門職でならなければならないのだ。

そのように考えると、石原慎太郎氏というのは古い日本型のリーダーということになる。かつてのリーダーは常識(都民の良識)で判断をしていれば務まったのだろう。石原氏は会見の中で何回も「科学の最高権威が豊洲を推薦している」などと言っていた。かつては確かに「だいたい常識で考えると正解が一つしかない」という世界だったのかもしれないが、現在は「確率(プロバビリティ)」の世界なので、動いてゆく状況をにらみながらそのときに必要な判断をしてゆくことが求められる。

現在の官庁組織がこうした部門横断的なプロジェクトに対応できないと。官庁は自分の持ち場に手を突っ込まれることを嫌うのだが、こうしたやり方では問題は複合的なプロジェクトは解決しない。だから国も都も複雑なプロジェクトのハンドリングに失敗し続けている。

都民や国民の税金を湯水のように使えて、失敗してもなんとかなる時代であれば石原さんのような指導者でもよかったのだろう。しかし、現在は一つの失敗が取り返しの付かない損出を生むことも多い。つまり石原さんのような指導者は政治の現場からも企業からも一掃される必要があるのだ。

石原さんが失敗したのは、彼のウヨクのマインドセットのせいだ。「最高権威の専門家は豊洲を安全といっている」と主張していたが、多分彼の周りにいる人の意見しか耳に入っていないのだろう。濱渦さんのことはいまだに信頼しているようだ。ウヨクは多様な意見を集約することができない。情報の重み付けを外的な構造に依存しているように聞こえた。その構造は内的に序列付けられていて固定的である。

だがその内的世界は実は外からくる情報に操作されている。「自分が意思決定に関わっていないはず」の豊洲移転を「ぜひ進めるべきだ」という信念を持ってしまっているのがその証拠だ。外から入ってきた情報が信念体系を作っているのだが、それを自分が元から持っていたものだと錯誤しており、なおかついったんできた信念を疑うことができない。

石原さんは、構造が絶えず動き、多様な価値観が錯綜するような動的なプロジェクトは扱えなかったのだろう。だが根拠のない自信を持っている。石原さんは不得意な複合プロジェクトを自ら発案してその後の状況をさらに混乱させた。それがオリンピックだ。

さて、まとめると次のようになる。

  • 現在のプロジェクトは専門性の集積である。
  • 100%確かな事実はなくすべての事象は確率的に捉えられる。つまり一回裁可したら終わりというものではない。
  • トップリーダーは情報が非対称な中でプロジェクトをまとめてステークスホルダー(特に出資者)に説明する責任がある。
  • ゆえにリーダーはこうした動的な複雑さを扱うことができる専門家でなければならない。

東京都はこうした変化に対応できないままで複雑なプロジェクトをいくつも抱えてしまった。銀行の設立には失敗し、魚市場も作れず、オリンピックの予算は青天井で膨張した。確かに石原さんが悪いというわけではないし「みんなで責任を取れば」という気持ちも分からないではない。であれば何もやるべきではなかった。つまり東京都は専門知識を動員して複雑なプロジェクトを動かすことができない組織なのだから、そういう複雑なことは言い出すべきではなかったのだ。

特にオリンピックは銀行の失敗をカバーするためにお金儲けの手段として提唱されたことが明らかになった。しかし所詮は「金持ちのビジネス」でさらなる出費と混乱が予想される。今すぐ返上すべきだろう。

もうこうしたことが起こらないように石原さんは見せしめとして厳しく罰せられる必要がある。運が悪かったと言われればそうなのかもしれないが、身を賭して社会に奉公するのが愛国者というものではないだろうか。

アッキード事件と議事録

瑞穂の国安倍晋三記念小学院を扱ったいわゆるアッキード事件で不思議なことがある。なぜ守るほうも責めるほうも「議事録」をそんなに気にするのだろうか。

議事録がないと誰が何を決めたかが分からないということは、意思決定が集団で行われているということを意味する。だから議事録がないと誰が売却価格を設定したのかということが分からないのだ。

だが誰かが何かを決めたのは明白だ。同じ価値の土地が豊中市に高値で売却されており、なおかつ地下埋設物の撤去費用は豊中市が支払っているので、森友学園側に有利な計らいがあったことは明らかなのだ。

当初このことを考えたとき「西洋流のジョブディスクリプションが決まっていないから議事録でことの経緯を追うしかないのだろう」と考えたのだが、役所なのでジョブディスクリプションはしっかり決まっているはずだ。

つまり、集団の中でなんとなく物事が決まってゆくというのは実は普通のことではない。プロセスは法律で厳格にで決められており、責任者が何重にも管理しているはずの組織だ。しかし、そこまでやっても誰が何を決めているのか分からないわけで、日本人の意思決定の強い癖が分かる。

官僚システムは「誰も責任を取らない」。官僚は普段は法律で決まったことしかやらないと言い張ることで責任を取ることを回避している。しかし、法律がすべてを想定できるわけではないので、想定外のことが起こると外部からプレッシャーがかかり、責任を分散させて「なんとなく」物事を決めてしまうのかもしれない。

国会は形式が遵守されなかったことを問題にしているのだが、もし本当に役人が法律できまったことしかやらなくなれば役所は全く何の仕事もしなくなってしまうだろう。そこで「責任を取るから」と介入するのが国会議員の仕事になっている。その国会議員たちが「役所が決まったことを逸脱した」と騒いでいるのだから救いようがない。

なぜこうしたことが起こるかというと日本人が絶対に「個人に権限を渡して任せるが、何かあれば説明してもらうし責任を取ってもらう」ことをやらないからだ。。一方で中にいる人も責任を取らされる立場には立ちたくないので、このような環境を甘んじて受け入れてしまうことになるのかもしれない。

だが、森友の件にしても豊洲の問題にしても「大事なことがなんとなく決まってしまい、あとで大騒ぎになる」という事例が散見される。

森友の件は「安倍を追い落とせ」とか「そのうち沈静化してサヨクが悔しがって飯ウマ」などというように語られているのだが、実際にはもっと深刻なことが起きているのではないだろうか。

官僚は「いざというときには政治家が責任を取ってくれるから」という理由で情報を上げたりいうことを聞いてやったしているわけだが、実際には最近の政治家は責任も取らないしいざとなったら逃げ出してしまう。すると政治家には利用価値がないわけだ。いうことを聞いてやる理由はなく、そのまま機能不全に陥ってしまうことになるだろう。

気になるのは、こうした「責任を取らない」政治家が増えているという点だ。組織が肥大化するとドメインが固まるので、そこに手を突っ込んでこない人が好まれるのだろう。適当に祭り上げていれば気持ちよくおみこしに乗ってくれるような人たちだ。

だがおみこしに乗ってくれるような人たちは責任も取ってくれない。何か問題が起こると、膨大な時間をかけて「誰が責任を取るべきか」という追求が始まり、その間必要な議論はすべてとまってしまう。

しかし、時間をかけて追求しても実際には明確な責任者がいないままでなんとなく物事が決まったということが分かるだけなのかもしれない。これは第二次世界大戦への参戦を決めた責任者が誰もいないというのと同じことだ。

とういことはつまり「結果責任を取らせる」という方法を取るのがよいのではと思う。フェアでない裁定が分かれば、政治家の関与などを一切考慮せず、ジョブディスクリプション上の責任者を裁いてしまうのだ。GHQは議事録を見て「戦争はなんとなく決まったんだね。仕方なかったね」などとは言わなかったわけで、フォーマリティだけを問題にするなら、それを徹底すべきだろう。

つまり見せしめにして再発防止を図れということだが、本当にこれしか責任をとらせる方法がないだとしたら情けない気持ちになる。