豊川信用金庫事件

1973年12月、愛知県の豊川信用金庫に大勢の預金者が押し掛けた。「豊川信金が危ないらしい」というニセ情報を聞きつけたからである。ウィキペディアによるとわずかの間に26億円が引き出された。この事件は日本におけるデマの研究でよく引き合いに出される。警察が捜査を行ったので詳細が知られているのだ。

事件の経緯は次の通りだ。電車の中で女子高生が「豊川信金は危ない」という話をしていた。これが口づてに広がる。この中に情報のハブになる人(美容院やクリーニング店)がおり、主婦の間で評判になった。たまたま「豊川信金からお金をおろせ」と言った人がおり「やはり危ないのか」ということになる。ここまでは豊川市とは離れた土地での出来事だった。

これがアマチュア無線愛好家に伝わり、噂が広範囲に広がる。実際に預金を引き出す人があらわれた。これを見た人たちの間で噂は「危ないらしい」から「今日潰れる」とエスカレートしてゆき、実際の取り付け騒ぎが起きた。

「口伝えの情報はデマになりやすい」と言われているが他にも理由はある。

第一に1973年にはトイレットペーパー騒動があり消費者の間に潜在的な不安があった。次に、噂は離れたところで発生し情報のハブを経由してアマチュア無線で遠隔地に広まったので、情報の多くは曖昧なものだった。曖昧だからこそ情報を埋めるように聞きかじりや空想が練り込まれた。と、同時に単純化も起きる。「〜らしい」は「〜だ」になった。

噂が広がる背景には曖昧さと単純化がある。

噂には構造がある。ハブ、遠隔地への伝播、曖昧さ、単純さ、潜在的な不安などである。

ネットジャーナリズムと新宿焼身自殺未遂

6月29日の午後2時頃新宿南口で集団的自衛権行使容認に反対の演説をしていた男性がガソリンのようなものをかぶり焼身自殺を図った。行使容認への抗議と見られるが詳細は不明だ。このニュースからネットおよびテレビのジャーナリズムの距離感が分かる。

テレビはストレートニュースで伝えたが、その後東京・埼玉・千葉などでゲリラ雷雨のニュースに置き換わった。逆に反応したのはハフィントンポストやTwitter・YouTubeといったネット系だ。検索するといくつもの画像やビデオが閲覧できる。YouTubeにはわざわざCGで作りこんだものもある。

この人の政治的背景が分からないとテレビではうまく伝えられないようだ。右翼や左翼の可能性もあるし、「単なる自殺」なのかもしれない。テレビのような公共性の高いメディアでは男の背景が分からないとうまく伝えられないようだ。

興味深いのは取り上げ方によって全く違って見えるという点だ。「繁華街で焼身自殺するのは迷惑だ」という伝え方と「集団的自衛権行使容認は焼死自殺者が出る程のひどいものだ」という伝え方では、行為の意味が全く違って見える。テレビでは短く伝えられただけなので「全く知らない」という人もいるだろう。

ネットメディアは発信者の責任で好きなように情報を流すことができる。また記録として残る「アーカイブ性」もある。このような利点がある一方、欠点もある。SNS人口は約5,000万人程度と言われており、それ以外の人たちには伝わりにくい。また、最初から発信者の主義主張と結びついており、その人のたち位置によってまったく違った情報として伝わる可能性がある。異なった意見が集らないので問題解決に結びつきにくい。

最も危険性が高いのはこれが噂やデマを引き込みやすいという点だろう。改めて日経新聞の記事を読むと、男の身元や動機などが分からない。曖昧な情報は拡散されやすい(豊川信金事件を参照のこと)ので、元々の意図とは異なったデマになりやすいのである。

一部ではあるが海外のニュースには三島由紀夫や切腹文化を引き合いに出したものもある(New York Post)。

パソコンからFacebookは古くさいのか

ここ最近、ウェブプロモーションの主流はスマホでLINEということになっている。Facebookは時代遅れなのだそうだ。これは本当なのか、調べてみた。

まず、スマホユーザーだが、増加してはいるもののウェブ人口(9,600万人程度)の過半数には届いておらず、4,000万人弱なのだそうだ。

いずれかのソーシャルネットワーキングに加入している人は5,000万人弱でこれもネット人口の半数である。LINEの登録ユーザーは3,000万人(アクティブユーザー)程度。また、FacebookやTwitterのユーザーは2,000万人程度である。数字だけで見ると、未だにPCユーザー(5,000万人ほどいるらしい)の方が多く主流といえる。また、全ての人がソーシャルネットワーキングに参加しているわけではない。

にも関わらず、スマホが主流だと言われるのにはいくつかの理由がある。Facebookのユーザーの80%以上はモバイル経由でアクセスしている。プライベートはモバイルという人が多いのだろう。LINEはさらにFacebookよりもプライベートで使われるのだろう。ユーザーも女性の割合が高く、10代での利用が増えている。情報に敏感で影響されやすい人が使うのがモバイルメディアだと言えそうだ。

ダンカン・ワッツによると、噂が広がるためにはインフルエンサーよりもフォロワーの質の方が重要なのだそうだ。言い換えると、火を放つためには、マッチの質はさほど重要ではない。むしろ、回りに燃え広がりやすい藁(わら)を敷いてやるとよいということになる。自分で判断する理性的な人たちよりも、影響されやすい人たちの方が噂を広めるには重要だということらしい。

塩村文夏都議と男社会

鈴木議員が「早く結婚しろ」というヤジを認めたことで、都議会のヤジ問題が収束した。随分ひどいヤジで、こうしたヤジは公共の場で許されるべきではないだろう。

一方で違和感もある。2020年にオリンピックを開く東京の議会が田舎議会のようで恥ずかしいというのが主な論調のようだが、本当にこうした終り方で良かったのだろうか。

外国プレスとのインタビューの席である記者が「こうした問題点をなくす為に自ら働きかけるつもりはないのか」とか「他議会とネットワークを組むつもりはないのか」と質問した。これに対して塩村議員は「党が対応するので自らは動かないし、東京都の問題に集中したいので他の議会と協調するつもりはない」と対応した。みんなの党が「再発防止に努める」という後ろ向きな改革案に賛成したことを踏まえると、かなり後ろ向きの対応を言わざるを得ない。

違和感の原因は塩村議員がセクハラの被害者にしか見えないということだ。実際には議員の一人であって、議会運営を変えうる人の一人なのだ。つまり彼女は「都議会議員」ではなく「女性議員」だという前提がある。「女子アナ」と同じ使い方だ。

都議会は想像以上に男社会らしい。東京都を含めた地方の議会はどこも前時代的だ。あまり全国ネットで取り上げられる事もないので、自浄作用が働かないのだろう。つまりは、長く議員を経験した人たちは「まあ議会とはこんなもんだろう」と思うようになる。つまり「女性議員」である塩村議員も徐々にこうした文化を受け入れることになるだろう。そして、何十年か先には「これくらいは当たり前なのだ」とか「私もこういう辛い経験をしたことがあるのだ」と後輩の女性議員を諭すことになるかもしれない。

つまり、今なんとかして意識を変えないと、いつのまにか女性が女性の敵になってしまうのである。

ノームコアとは

Wikipedia、ニューヨークマガジンの記事などから抜粋。

ノームコアはトレンド予測を手がけるK-Holeが提唱したユニセックスのファッショントレンド。気取らず平均的な衣装が特徴。用語は「普通」と「ハードコア」を組み合わせ。K-HOLEによると、ノームコアの特徴は以下の通り。

  • 条件に応じた
  • 決めつけない
  • 適応する
  • オーセンティシティに関心が無い
  • 他人に対する共感
  • 向上心を越えた態度

ニューヨークマガジンのコラムは、ファッショントレンドへの異議申し立ての意味が含まれるとしている。

自分たちを洋服で差別化したいと望まない人たちがノームコアのスタイルを支持している。手元にある服を何となく着ているわけではなく、意図的に服によって目立たないように服装を選ぶ。ファッションのトレンドがめまぐるしく変わりファッショントレンドが飽和してしまった結果に対する反応だと考える人もいる。2013年の秋から、お洒落な人とそうでない人の区別がつかなくなりつつある。ニューヨーカーのスタイルはお上りさんの服装と区別が付かなくなった。

ノームコアなアイテムはTシャツ、パーカー、半袖のシャツ、ジーンズ、チノパンツなどだ。逆にネクタイやブラウスなどはノームコアではない。こうした格好は男女共通で、結果的にノームコアはユニセックスのスタイルになる。

もともとはK-HOLEが提唱したアイディアだが、彼らはファッショントレンドとしてノームコアを提唱しているわけではない。差違やオーセンティシティに重きを置かない新しい態度だ。

K-HOLEのエミリーセガルはノームコアはシンプルなファッションを意味するのではなく、個性が消失することにより人々がつながりやすくなること意味していると説明する。

めまぐるしく変わるファッションから人々を解放するのがノームコアだと主張する人もいるが、ファッションに煩わされることなく、何か新しいことに挑戦する時間を作りたいと考えるのがK-HOLEのノームコアだといえる。

インターネットとグローバリゼーションは、個性化という神話に挑戦している。お互いにつながる事は簡単になった。ノームコアというスタイルを取り入れると何も書かれていない黒板のようなまっさらな状態で他人とつながることができるようになるのだ。

普通が一番という価値観

マイルドヤンキー(36%)

博報堂が「うちらの世界」である都市近郊や地方などに住む人たちに支持される価値観を調査し、おおよそ若者の1/3程度がヤンキーのような価値観を持っていると結論づけた。

こうした人々が可視化される背景にはショッピングモールの充実がある。

提唱者は、今までマーケティングは東京で発案され、必ずしも地方の実情を把握していないと考えている。マイルドヤンキーは、トレンド情報にはあまり関心を持たず「うちら」の保守的な価値観を大切にしている。

セグメントは外向・内向軸とITツールの利用頻度で4つに別れている。流行に敏感な(すなわち外向的な)人たちが30%を占める。つまり、マジョリティに当たる人たちのうち、ITツールを使わない(すなわちリアルでの結びつきを深め、トレンドに対してはやや保守的な人たち)が「マイルトヤンキー」にあたるものと推定できる。

Normcore(ノームコア)

Normal +Hardcore = 筋金入りの普通。アメリカのトレンド予測機関 K-HOLEが提案。トレンドがめまぐるしく変わる中、「あえて」普通を指向する価値観。

背景にはネットの登場がある。かつてはコミュニティが先にありそこでどのように目立つかということが課題だった。現在はバラバラの個人がいてコミュニティを見つけなければならない。趣味でコミュニティを細分化すると、究極的にはお互いの意思疎通は不可能になる。このソリューションとして提唱されたのが、Normcoreだと考えられる。

いわば「脱トレンド」というよりは「脱差別化」なのだが、ファッション業界ではこれを単純化して「トレンドの終焉」と理解しているようだ。K-HOLEの資料によると、定番指向とNormcoreは別の概念のようだが、実際に日本に流れてくることまでには、単純化された概念に変わるのかもしれない。2014年のトレンドは「ノームコアだ」やダサイのが格好いいという見方さえも広がっている。

GHQの模索した「直接民主主義」と都知事選挙

かつて「自分たちで土地や労働力を出し合って暮らしをよくしよう」という政策があった。高度経済成長下でこうした政策は失われた。そして今、なぜか東京都知事選の隠れた争点になっている。

衛星放送のチャンネルでGHQが作成した啓蒙映画を見た。「腰の曲がる話」というタイトルだ。

女性蔑視が残る戦後の農村で、女性だけの寄り合いが持たれる。きっかけは子どもの病気だ。一家の主人は「子どもを医者にかけるとお金がかかるから祈祷師で充分だ」と主張する。しかし、一向に良くならず医者に見せる事にしたのだ。医者は医療環境を充実させるために、村に保健婦を置くのがよいと提案する。そこで村の女性たちは組合を作る。組合では保健婦の他にも「共同炊事場」や「着物の補修場」が提案される。

「面白いな」と思った。みんなで「協力して」必要なものを作る、いわば直接民主制的なやり方が「GHQのお薦め」だったのだ。政府に金がなく、農村の面倒を見る余裕がなかったのかもしれない。

こうしたやり方は次第に失われてしまった。今では直接民主主義(いわば住民自治)的なやり方は、教育委員会制度やPTAなど形骸化した形で残っているだけだ。自治会も理事のなり手がいないということで解散に追い込まれる例があるそうだ。唯一機能しているのは、都知事などの首長選挙である。だから、あまり東京と関係がない「国民の意思集約」が都知事選の争点になったりする。

農村では、人口が増加し都市近郊の農地が「住宅地」として売れるようになった。都市近郊には土地区画整理組合が作られる。そこで農地を売って住宅地に替えて価値を高める。このようにして、助け合いで農村を維持する必要がなくなる。住宅地提供がその土地の「主要産業」になった。

この流れで出てきたのが、田中角栄の「日本列島改造論」(1972年)などが有名だ。都市とその近郊が潤ったのだから、次は自分たちの番だというわけである。具体的には工場の誘致と高速道路網の整備などが掲げられており、原子力発電への転換についても書かれているそうだ。つまり、東京の小型版を地方に移植して、地域を活性化させようとしたのだ。

「日本列島改造論」は、高度経済成長下の都市では賄いきれないものを地方が肩代わりするという発想だ。この前提が崩れて久しいが、政策としては高度経済成長という大前提を崩すのが難しい。

安倍政権ではここから脱却する為に「公益」という考え方を取り入れて「国柄」を変えようとしている。これが憲法改正の論点の一つになっている。問題点は、では国が行うべき事業とはなにかという点なのだが、そこには答がない。

皮肉なことに、現在の東京都知事選挙の争点は、実は「日本列島改造論」に関連している。高度経済成長期のマインドセットを脱却するか、東京オリンピックの誘致を通じて高度経済成長を気分だけでも味わうかというような選択である。本来は地方が自分たちで考えた方がよい問題なのだが、なぜかまだ時間的に余裕がある東京で議論が進んでいるのである。

価値観がぶつかる – イルカ漁問題の「非人道性」

100x100看過できない問題を説明するために使われる「非人道性」。ところが「シリア内戦」や「無人機による市民の虐殺」など「非人道的」と見なされる行為は多く、ラベリングしただけでは問題は解決しない。

キャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使のイルカ漁に反対するコメントが感情的な対応を生んでいる。

『キャロライン・ケネディ大使がイルカ漁に反対声明、自民の佐藤正久氏「地元の伝統文化」と反論』(HUFF POST)

いろいろ考えて「日本人はコンテクストを重視する」という理論を考えたのだが、どうやらそれは正しくないようだ。逆に日本の首相や駐米大使が「日本政府はマクドナルドの非人道的な牛の大量虐殺に深い懸念を表明する」というステートメントを考えてみればわかる。多分、いろいろな憶測を生むだろう。

つまり、ケネディ駐日大使の発言は唐突であり、従っていろいろな反応を生んだものと考えられる。

例えば、駐米大使がアメリカ人向けに「マクドナルド発言」をすれば、アメリカ人はなんらかのアクションを予期するだろう。日本にあるマクドナルドの営業を停止するとか、アメリカからの牛の輸入を「非人道性」を理由に禁止するなどの措置だ。つまり、偉い人の発言にはそれなりの意味合いがあり、行動を伴う。

ところがケネディ駐日大使に「意図を聞いた」人はいない。誰も大使が何かするとは思っていないからだ。彼女の発言は「アメリカ政府を代表している」というよりは、彼女個人のその場の思いつきだと捉えられることになるだろう。

当初は、これを「彼女個人の」と考えたのだが、これも違っているようだ。例えばシリアで虐殺が起きていて、これを非難するヨーロッパのレポートにも「非人道的な」という表現が使われている。世界各国の非キリスト教国で様々な事態が起きている。例えばシリアの国内で殺し合いはとても看過できるような事態ではない。しかし現実には戦闘は止まないので「非人道的」という言葉が登場する。イルカ漁も駐日大使から見ると、シリアの大量虐殺と同じような「ゲームハンティング的イルカの殺戮」行為なのだ。

背景には「理解できない行為」を全て「人道的でない」と置き換える習慣があるのだということが分かる。ところが、アメリカ政府も「非人道的な」行為に手を染めている。例えば、「アメリカも外国に無人機を飛ばして戦争に関係がない市民をゲームのように虐殺しているではないか(CNN.co.jp : 米無人機が結婚式の車列を誤爆、14人死亡 イエメン)」と非難する事は可能だ。米軍側から見ると「意図してやったわけではなく、誤爆」なのだから非人道的ではないという理屈になるのだろう。

価値観の擦り合わせをしたいなら、大使に対して「イルカ漁を考え直す代わりに、非人道的な無人機による外国市民の殺戮を中止する用意があるか」などと冷静に聞いてみてもよいだろう。

このように「非人道性」を巡る議論は大変難しい。これを読んで「伝統的イルカ漁をシリアの大量虐殺と同列に扱うのはいかがなものか」という反発は当然予想される。また、日本の伝統を守りたいと考えつつも、アメリカとの同盟を大切だと考える人たちもいるだろう。そういう人たちは「話しをややこしくするな」と考えるだろう。

ところが現実的にはこれらはすべて「非人道的」というラベルが付けられているというのも事実なのだ。

ネットコンテンツにおける要約の大切さ

100x100要約は重要だ。文章の最初に要約を持ってきたところ、1.5倍から2倍程度ページビューが伸びた。たくさんの人に読んでもらいたい記事では気をつけたいポイントである。

ページビューが伸びた原因は「共感されやすさ」だ。要約を読めば結論が分かるので、Facebookの「いいね」が付きやすかった。結論はどちらでもよい。読者の中には幅広い価値観を持った人がいるからだ。

利点は他にもある。要約が最初についた記事は誤解を防ぐのに役立つ。ネットには「要約サイト」が出回っている。筋だけを使われて、結論を一般常識に合わせて変更される場合があるらしい。少しでも複雑な論は読み飛ばされてしまうようである。

このように利点が多い要約だが、問題もある。

すぐには答えが出ない問題を考えたい場合、結論を急ぎすぎると考察が先に進まない。「結論が出るまで発表しなければよいではないか」と思われるかもしれないが、公開することによって書くモチベーションが得られる。中にはよい知恵を持っている人が現れるかもしれない。

いずれにせよ、ネットの読み手は驚く程時間が足りないらしい。最近、こんな例を読んだ。

河野太郎(息子)が河野洋平(父親)と混同されて、「河野談話」で非難されることがあるそうだ。中には河野洋平が亡くなっていると誤認している人もいるそうである。「少し調べればわかる」はずなのだが、必ずしも期待はできないのだ。

さて、要約が大切なら「文章そのものを短くすればさらに読んでくれる人が多くなるのではないか」とも思える。ということで、前回の「ボーダー柄は太って見えるか」とこの記事(ネットコンテンツにおける要約の大切さ)は実験として文章を短くした。少なくとも今のところ「読む時間は同じ」らしい。つまり、長くても読み飛ばされるし、短ければもう少し詳細が知りたいと思うのではないかと類推される。

デザインする事と描く事

20131015_mock少なくとも描く事ができなければ、実行することはできない。デザインの現場では手描きを軽視するべきではないだろう。少なくとも描いたものと作ったものは合致しているべきだ。だから、スナップ全盛なら、スナップで使われるボディラインも描けるようにならなければならないということになる。

毎日のように服の記録を取っていて思ったことがある。直立姿勢を別にして(これはこれで難しいのだが)バリエーションを付けるのは難しい。写真を見ただけでは、どのように姿勢を作っているのかが分からないのだ。見よう見まねで作ってみるが、どこかぎこちない。すぐに動けなければ意味がないし、特定の場所だけでできても「できた」とは言えない。

いろいろと考えた結果、スタイルを暗記することにした。そこで紙と鉛筆を取り出す。標準的なものをいくつか選び、それを描いてみる。お手本があるとなんとか描けるが、なしで描くのは難しい。つまり、覚えていないわけで、覚えていないものは描きようがない。そして覚えていないことはできない。

この関係は、音楽と楽譜の関係に似ている。中には聴いただけで弾けるという人はいるだろうが、たいていの場合は音楽をそのまま暗記するのは難しい。だから、楽譜を見て覚えるのだ。

ファッションの場合、楽譜に当たるシステムはないと言いたいところなのだが、実際には人のポーズの描き方には決まりがある。丸、四角、円柱といった形を組み合わせて人体を形作って行く。特に肩のあたりに特徴があり、肩を柔軟に動かすことによってバリエーションが作れるようである。

描けるようになったからといって即座に実行できるというものでもない。しかし、最初の一歩にはなる。例えば、描いた通りにやってみてできないことがあるのだが、この場合、正面は描けていても横が描けないといった具合に理解できていない部分があるのだ。描けるということは理解ができているということなので、あとはその通りに実行できるように練習すれば良い。

このように考えてみると、新しく何かを作るということは、頭の中にあるものを「記述する」ことができるということであるということが分かる。記述するにはベーシックな決まり事があり、それを一つひとつ覚えて行かなければならないのだ。

「絵が描けない」という気持ちが強いので、とても抵抗がある。毎日少しずつ覚えて行けば、プロ並みとはいかないまでも「なんとかなる」くらいには仕上げられる。また、分からない形があったとしても基本的な形に落とし込んで行けば、理解の助けになる。音楽でいう楽譜のようなシステムが作られるのだ。

さて、この「手を使って描く」というのは、実はなかなか難しい。パソコンが導入されてしばらく経ち、デザインの最初から手描をしないということがあり得る。グラフィックデザインの現場でも「最初からPhotoshopで」ということはあり得るだろうし、そもそも先生が手を使ってデッサンが描けないということだって考えられるのだ。

何が何でも絶対に鉛筆でなければならないということでもなさそうなのだが、全てをIT化してしまうことも難しい。特に、身体的な行為が関係している場合、手を使って線が引けるということは、形を手が理解しているということにつながる。だから、手描きを軽視すべきではないだろう。

ファッションデザインには確立された「きれいな人体のフォルム」というものが存在するらしい。いわばバレエの基本ポーズみたいなものだ。しかし、ストリートやスナップが全盛の今「崩した身体」がきちんと描けるデザイナーというのは、どれくらいいるのだろうかとも思う。標準化されていないものをちゃんと描くのはなかなか難しいはずだ。