人格の発展

概要

ユングは「万人にとっての究極の目標と願望とは人格と呼ばれる生の充実を極めて行く事にある」かということについて検討している。子どもの人格を高めたいと思う親は多いが、その人格は完成されたものだろうかという問題だ。親の人格も実は完成しておらず、大人が考える子どもらしさを、子どもに押し付ける。そしてそれは完成すべき全体のほんの一部でしかないだろうというのだ。自分たちができなかったことを子どもに押し付ける場合すらもある。故に教育は人格者への道ではあり得ない。

ユングは、人格とはその人が生まれながらに持っているその人特有のものを最高度に実現させて行く事であると言っている。しかし「その人が生まれながらに持っているもの」は善いものなのか、悪いものなのか、その最初の時点では分からないものだ。その成長の原点は、内面と外面から生まれる必要性だ。気まぐれによって恣意的に選ぶ事ができるものではない。極めて個人的なものだとユングは主張するのだ。つまり教育によって押し付ける事はできない。

「人格の発展は聖なる贈り物ではあるが、呪いでもある」とユングは続ける。大衆は無差別性、無意識性があるのだが、ここから目覚めると意識的に不可避的に大衆からの分離を意味するからである。これは孤立を意味する。これまで周囲と馴染んでいた人であっても、社会、家族、地位も何もやくに立たなくなってしまうからだ。

このように人格の発展は厳しい道のりだ。故に多くの人は、集団的因習に従う道を選ぶ。集団的因習は多くの人にとっては必要なものなのだが、同時にその人自信の全体性を犠牲にするという意味で理想的ではあり得ない。人格を発展させるということは、集団性(恐怖、信仰、法則、機構)の中から自己を解放することである。

さて、ある人に自分の道を選ばせるものは何なのだろうか。それは<使命>である、とユングは主張する。非合理的な要因が、群衆から、そして踏み荒らされた道から、その人を解放するように運命づけるのである。人は、従わざるを得ないから、その道に従うのである。

この使命は、集団の中に埋没してしまいがちだ。大抵の場合、個人の心の問題として片付けられてしまう。その動機は無意識から来るので「単なる空想だ」と片付けられてしまうことすらある。

いったん集団の因習から自由になったとしても、こんどは社会との問題が出てくる。集団は全体を意識的に統合する機能はないので、全体を統制のない自然法則のように無意識的に進行して行く。ここに異質な人格者が関与すると、時には破壊的で、集団にパニックを引き起こす場合がある。内なる声を意識的に識別できる場合もあれば、そのまま集団の無意識の中に埋没して破滅してしまう場合もある。

ユングは、自分の法則に従わず、人格にまで高めて行かない程度に応じて、人間は自分の人生の意味を逃してしまうと断言する。ある人に神経症的な問題があるとして、その神経症的な問題が使命を意識することによって解消されることがある。内なる声が十分に意識されないうちは、それが「圧倒されるような特別な危険」を意味しているからだ。ある場合には、その声に飲み込まれて破局を迎える。部分的にでも受け入れれば、内なる声を同化することが可能になる。

善は永久に善ではあり得ない。もし、仮にある時点で善が完成してしまえば、それ以上の善というものがなくなってしまうからだ。それに挑戦するものは最初は悪という形で立ち現れる。道のないところに踏み出すわけだから、それは生を失うかもしれない危険な行為であるといえる。しかし、こうしたリスクをとる形でしか新しい道を追求することはできない。踏み出したからといって、それが善い道に続いているとは限らない。

人格とは中国哲学でいうところの「タオ(道)」と同じようなものである。タオは、完成、全体性、到達した目標、実現した使命、始めと終わり、そして生まれながらに持つ存在の意味の完全な実現を意味している。

まとめと考察

ユングの考察は、極めて内向的な人の成長論であると思われる。社会(集団)と人間を対立構造で捉えている。外向性の人が同じような考察をした場合に、内なる声に従うべきだと考えたかどうかは分からない。社会に貢献することが人格を磨く道だと考えたかもしれないのだ。この論文の「集団の因習」が個人の成長を脅かすという点に理解を示せない人も多いのではないだろうかと思われる。

特に、教育や指導的立場にいる人にとって、この成長論は受け入れがたいのではないだろうか。子どもの自発性に任せるといったとしても、それが結果として社会を破壊してしまうかもしれないのだ。論文の中には、英雄を待望する人たちの様子が出てくる。当時のヨーロッパ(特にドイツ圏)の事情が関係しているものと思われる。熱狂的な英雄待望がヒトラーやムソリーニといった人たちを登場させることになる。

人格の成長がどうして起こるのかということを探してみたのだが、成長の動機付けがどこから来るのかという明確な記述はついに見つけられなかった。それは内部から無意識的に立ち現れるのである。自分の内部から来るのか、神のような説明の付かないものに与えられるのかということもよく分からない。極めて個人的なプロセスだとしながらも、人間は周囲と同じようなものだからという理由で社会とつながっている。同じように「善」「悪」も容易には識別できない。次の善につながりそうなものが、悪の形で現れる場合もあるし、善いように見える事が、悪である場合もある。

この文章には書かれていないのだが、個人の内部では意識していることと対立する動きが無意識で起きている場合がある。故に、こうした内なる声を長年無視していると、その声に支配されてしまうことがあり得る。「もう手遅れ」になる場合すらあるというわけだ。この対立構造をねじ伏せたり、清算することによって問題を解決するわけではない。問題に直面するうちに、その対立を越えた解決策に到る、固有の(つまり一回性の)道が見つかると、ユングは考えたようだ。

最後に、善や集団性の因習がどうして時代を経て古びて行くのかということも詳しく書かれてはいない。人が成長をせざるを得ないということはどうやら正しい考察のようだ。さもなければ、狩猟で日々の糧を得ていた人たちが、高度に洗練された文明を構築する事はなかっただろう。しかしどうして人はこのように「成長するのか」ということについては、言及されない。

この成長欲求そのものが「人類にとっての呪い」である可能性すらある。人は永遠に現状に満足する事はあり得ないのである。

現在には「社会的な枠組み」が破綻しつつあり、新しい道を探さざるを得ない状況がある。同時に、こうした成長に目覚めてしまう人もいるわけで、二重の意味で変化に晒されているものと思われる。中年の危機に陥った人が抱えている問題は、こうした成長にともなう痛みである場合がある。そしてこの論文が書かれたときと同じように、極めて個人的で心理的な「問題」だとされてしまうのが常である。

内部に対面するのはとても恐ろしい体験だ。どこに行くのか分からず、それが経済的な成功をもたらすかどうかも分からない。これは誰にでも起こることかもしれないし、選ばれた人のみが陥る体験かもしれない。しかし、いっけん個人的に思えるこうした体験が、人類の成長をもたらすことは十分に考えられる。

つきつめてみれば、集団は個人の集まりだからだ。

タイプ論と補償

昨日までの文章をもとに、エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学を読み直した。タイプ論は、ユングの臨床的経験から演繹的に導き出されたようだ。つまり、いろいろな臨床経験をまとめ、それを体系化した。体系化する上で単純化も起こっているだろうから、これを「私はこのタイプ」というように、人を分類するために使うべきではないと言っている。単純に内向性感覚型という人はなく、バリエーションが存在するから

である。後に成長に関する議論が出てくる。このプロセスを個性化というのだが、もはや個別のタイプについて言及されることはない。ここで重要なのは、偏った態度が別の態度によって「補償される」つまり心はバランスを取るだろうという自己調整に関する仮説だ。なぜ、補償されるかは良くわからない。ただ、そう考えると臨床的な現象が説明できる、というように記述される。

心の態度には「対立」が観察される。一方を優等とするなら、もう一方は劣等機能だ。これを同時に満たす事はできないように思える。しかし地上にいると対立するように見えるものが、上空から見ると一つの景色を形成していることがある。こうして、人格を一つのものとして見る事ができたとき、両方をバランスよく扱うことができるわけだ。

ここまでは個人の問題だ。ここから先に「善・悪」と言ったような問題や「社会が因習に支配されているのに、自分なりの道を歩み始めた孤独な人格者」というような問題が出てくる。社会が意識されるようになるわけだが、次第に共時性(シンクロニシティ)や宗教との関わりが出てくる。ユングの興味深く、同時にオカルトめいた分野だといえるだろう。

さて、タイプ論に話を戻す。このエセンシャルユングには詳細なタイプ論は出てこない。ほとんどが内向外向について言及されており、思考・感情、直感・感覚については短く触れられているのみだ。

  • 思考:それが何を意味するものかを教える。
  • 感情:その価値を確認する。
  • 直感:どこから来て、どこへ行くのかを推測する。
  • 感覚:存在するものを確認する。

ユングはこうまとめる。

あまり考えすぎると、自分がどう思っているのかが分からなくなる。故に極度に考える癖を持っている人は感情を疎かにするようになるだろう。この人にとって感情は劣等機能だ。同じように直感はアウトラインを掴む機能なので、細かなことは覚えていられない。「赤いつやのある口紅をして、髪には緑の髪飾りがあって素材はシフォンだった」と考える人は、却って全体像を良く覚えていないものである。

こうした態度の違いを「性格」と呼んだりする。MBTIテストではこうした違いを把握して、コミュニケーションの円滑化にいかそうとする。性格テストのよい所は、手軽に人の癖を把握できるところだろう。しかし、実際には問題はこれほど単純ではない。

タイプ論の中に45歳のアメリカ人実業家の事例が出てくる。この人は若くして成功し、莫大な事業を築き上げた。そして引退して贅沢な生活を送ることにする。乗馬、自動車、ゴルフ、テニス、パーティーなどなどである。しかしそうした贅沢なトロフィーは彼の人生にとって全く無意味だということに気がつく。怒りに任せて行動するようになる。不安に襲われ、死にたいと考える。で、あればと考えて仕事に復帰したのだが、彼は仕事がもはや彼を満足させないことに気がついてしまっていた。

ユングはこの人が「ほとんど廃人になってしまった」と書いている。結局、仕事に邁進したのは「もう死んでしまった母親への注意を引きつけるため」の置き換えだった。思考優位で生きて来た間に、彼の身体感情はなおざりにされていた。生活環境が変化したのをきっかけにこの「劣等」の何ものかが表出したということなのだろう。

ユングは、抑鬱と心気症的幻覚が示す方向へ従い、そうした状態から生じるファンタジーを意識化できれば救済への道になるだろうといっている。内側に浸れということだろう。また同時に、ここまで状況が悪化してしまったらあとは死だけがこの問題を解決するだろうといっている。

中年の危機の恐ろしい側面が描かれている。この人の場合、人生の初期に母親との関係と仕事の間にある種のバランスと「取引関係」が生じている。それが一応の完成をみる(もちろん、「リストラ」などの挫折という形で終わるかもしれない)のだが、完成を見たが故に、いままで劣等だった部分がてなずけられない形で顕現する。するとその人はその劣等の側面に支配されてしまうのである。

現代であれば、この問題はどう解決されるのだろうか。心理学や精神医学は格段の進歩を見せている。脳内のセロトニンの問題だと見なされるかもしれない。鬱病と診断され投薬治療されて終わりになる可能性もある。精神医療は「心の奥底で起こっていることは、うかがい知ることができないのだから」という理由で、あまりこういった無意識の領域には立ち入らない。

確かに、我々は意識のレベルでこうした無意識の問題をはっきり認知することはできない。できるとしたら想像や夢の中に隠されているだろう声にならないメッセージを汲み取ろうとすることだけである。しかし、投薬が有効だとしても、過度に投薬治療に頼ることでこうした内に向かい合う機会が奪われることもあり得る。

現状の維持に力を注げば注ぐ程、それが破綻したときのエネルギーは大きいものになる。これは多分、個人も社会全体も変わらないだろう。社会にも特性があり、それに即した発展をしている。しかし内面が変化したり、環境的な変化に直面すると、劣等だった機能が我々の社会を苦しめることになるだろう。

ユングの心理学を読んでみても、どうして個人が個性化や成長を目指す(あるいは目指さざるを得なくなるの)は書かれていない。とにかくそこを目指してしまうものなのだとされる。人はバランスを取るように進んで行くというのだ。しかし、それはどこに向かうのか分からない経験だ。もしかしたら、社会を変える活力になるかもしれないのだが、社会を破壊してしまう恐ろしい経験になることもあり得るだろう。

ユングのタイプ論と補償

エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学を読み直した。タイプ論は、ユングの臨床的経験から導き出されたようだ。つまり、いろいろな臨床経験をまとめ体系化したのだ。体系化する上で単純化も起こっているだろうから、これを「私はこのタイプ」というように、人を分類するために使うべきではないと言っている。

単純に内向性感覚型という人はなく、バリエーションが存在するからである。後に成長に関する議論が出てくる。このプロセスを個性化というのだが、もはや個別のタイプについて言及されることはない。ここで重要なのは、偏った態度が別の態度によって「補償される」つまり心はバランスを取るだろうという自己調整に関する仮説だ。なぜ、補償されるかは良くわからない。ただ、そう考えると臨床的な現象が説明できる、と説明される。

心の態度には「対立」が観察される。一方を優等とするなら、もう一方は劣等機能だ。これを同時に満たす事はできないように思える。しかし、地上にいると対立するように見えるものが、上空から見ると一つの景色を形成していることがある。こうして、人格を一つのものとして見る事ができたとき、両方をバランスよく扱うことができるわけだ。

ここまでは個人の問題だ。ここから先に「善・悪」と言ったような問題や「社会が因習に支配されているのに、自分なりの道を歩み始めた孤独な人格者」というような問題が出てくる。社会が意識されるようになるわけだが、次第に共時性(シンクロニシティ)や宗教との関わりが出てくる。

さて、タイプ論に話を戻す。このエセンシャルユングには詳細なタイプ論は出てこない。ほとんどが内向外向について言及されており、思考・感情、直感・感覚については短く触れられているのみだ。

  • 思考:それが何を意味するものかを教える。
  • 感情:その価値を確認する。
  • 直感:どこから来て、どこへ行くのかを推測する。
  • 感覚:存在するものを確認する。

ユングはこうまとめる。

あまり考えすぎると、自分がどう思っているのかが分からなくなる。故に極度に考える癖を持っている人は感情を疎かにするようになるだろう。この人にとって感情は劣等機能だ。

同じように直感はアウトラインを掴む機能なので、細かなことは覚えていられない。「赤いつやのある口紅をして、髪には緑の髪飾りがあって素材はシフォンだった」と考える人は、却って全体像を良く覚えていないものである。

感覚型の人は、直感型の人と折り合わないかもしれない。マーケターとウェブプロデューサが「派手な感じで作っておいて」という脇で、ウェブデザイナーは、このバナー部分にはどんな画像を入れて、赤はどの赤を使おうかと悩む訳である。1日ディテールを逡巡した挙げ句、プロデューサに持ち込むと、パッとみただけで「何となく違うんだよね」と言われて終わりになる。プロデューサの直感が正しくないとは言えない。しかしデザイナーから見るとこの人は「大雑把でちゃんと指示をくれない」人ということになる。

こうした態度の違いを「性格」と呼んだりする。MBTIテストではこうした違いを把握して、コミュニケーションの円滑化にいかそうとする。性格テストのよい所は、手軽に人の癖を把握できるところだろう。しかし、実際には問題はこれほど単純ではない。

タイプ論の中に45歳のアメリカ人実業家の事例が出てくる。この人は若くして成功し、莫大な事業を築き上げた。そして引退して贅沢な生活を送ることにする。乗馬、自動車、ゴルフ、テニス、パーティーなどなどである。しかしそうした贅沢なトロフィーは彼の人生にとって全く無意味だということに気がつく。怒りに任せて行動するようになる。不安に襲われ、死にたいと考える。で、あればと考えて仕事に復帰したのだが、彼は仕事がもはや彼を満足させないことに気がついてしまっていた。

ユングはこの人が「ほとんど廃人になってしまった」と書いている。結局、仕事に邁進したのは「もう死んでしまった母親への注意を引きつけるため」の置き換えだった。思考優位で生きて来た間に、彼の身体感情はなおざりにされていた。生活環境が変化したのをきっかけにこの「劣等」の何ものかが表出したということなのだろう。

ユングは、抑鬱と心気症的幻覚が示す方向へ従い、そうした状態から生じるファンタジーを意識化できれば救済への道になるだろうといっている。内側に浸れということだろう。また同時に、ここまで状況が悪化してしまったらあとは死だけがこの問題を解決するだろうといっている。

中年の危機の恐ろしい側面が描かれている。この人の場合、人生の初期に母親との関係と仕事の間にある種のバランスと「取引関係」が生じている。それが一応の完成をみる(もちろん、「リストラ」などの挫折という形で終わるかもしれない)のだが、完成を見たが故に、いままで劣等だった部分がてなずけられない形で顕現する。するとその人はその劣等の側面に支配されてしまうのである。

現代であれば、この問題はどう解決されるのだろうか。心理学や精神医学は格段の進歩を見せている。鬱病と診断され投薬治療されて終わりになる可能性もある。精神医療は「心の奥底で起こっていることは、うかがい知ることができないのだから」という理由で、あまりこういった無意識の領域には立ち入らない。

確かに、我々は意識のレベルでこうした無意識の問題をはっきり認知することはできない。できるとしたら想像や夢の中に隠されているだろう声にならないメッセージを汲み取ろうとすることだけである。しかし、投薬が有効だとしても、過度に投薬治療に頼ることでこうした内に向かい合う機会が奪われることもあり得る。

もう一つの問題は、彼の体調の問題が、彼の個人的な問題だということになってしまうところにあるように思われる。私たちの社会は利益や安全といった問題について社会的に団結しているように見える。しかし、その内側をよく観察してみると、そこに向かう心の問題は顧みられないことが多い。個人は健全であることが求められる。

ここでいう健全とは、社会の目標に向かって全力で立ち向かえるような強さを持っているということである。その準備をしておくのは個人の責任だ。そこからはずれてしまうと、生産性に向けて回復するまでの道のりは「自己責任」ということになる。

社会の側からは「生産的」「非生産的」という分類がされる。つまりそこから逸脱することは「不正解」であり「役に立たないことだ」ということになる。逸脱は特に最初の段階では、後に役に立つのか(つまり生産性に寄与することになるのか)そうならないのかが分からない。生産性を優先して、非生産的な逸脱を抑圧してしまう。それが現れたとしても投薬で抑制する事もある。

現状の維持に力を注げば注ぐ程、それが破綻したときのエネルギーは大きいものになる。これは多分、個人も社会全体も変わらないだろう。社会にも特性があり、それに即した発展をしている。しかし内面が変化したり、環境的な変化に直面すると、劣等だった機能が我々の社会を苦しめることになるだろう。

ユングの心理学を読んでみても、どうして個人が個性化や成長を目指す(あるいは目指さざるを得なくなるの)は書かれていない。とにかくそこを目指してしまうものなのだとされる。人はバランスを取るように進んで行くというのだ。しかし、それはどこに向かうのか分からない経験だ。もしかしたら、社会を変える活力になるかもしれないのだが、社会を破壊してしまう恐ろしい経験になることもあり得るだろう。

カール・グスタフ・ユングの時代

カール・グスタフ・ユングは1875年にスイスで産まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。Wikipediaには触れられていないが、母方には心霊術的なバックグラウンドを持つ人たちがいた。
カトリックは教会が一つの家族のようになっている。故に神父は家族を持つことはない。修道女も同じく結婚しない。しかしプロテスタントは必ずしも聖職者の結婚が許されていないわけではない。

改革派はカルバンによってはじめられ、主にスイスで発展したのだそうだ。カトリックとの違いは地域のことを地域で決めるという政治形態だ。また、産まれたときに洗礼を受けても、成人時に改めて信仰告白をする必要がある。

カトリックは、教皇を中心とした権威が聖書の解釈を決めている。トップダウンの政治形態を持つ。一方、改革派のキリスト教徒は、長老と呼ばれる人たちによって管理され、常に信仰告白(ドクトリンと呼ぶそうだ)を通じて、自らをリフォームすることになっている。

ユングは、この父親からあまり影響を受けなかった。ユングが聞く聖書の解釈にあまり自信がなく「決まっているからそうなんだ」というような姿勢に落胆していたようだ。父親は生活の為に牧師になったとも言われていて、生活のために宗教があるような状態だったのかもしれない。一方、母親には優しい表の側面となにかしら怖い裏の側面を見ていた。母親が心霊的なバックグラウンドを持っていたこともあり、ユングの最初の論文は「夢遊症と霊媒現象」を持つ少女の研究だった。

そのころの北ドイツはプロイセンを中心にプロテスタントドイツ圏が統一されつつあった。1866年にはオーストリアとの間で戦争がある。1867年には北ドイツは統一され、1870年にかけてドイツ帝国が成立する。次の統一対象は南部ドイツだった。こちらはカトリックが中心だったので「ドイツ語」を話す人たちを、ドイツ人と定義した民族主義が「発明」された。

しかし、ドイツ語を話すが、多民族国家だったオーストリアは枠組みから排除された。だから、ドイツ民族にとっては、自分たちは何者であるかということは一筋縄で片付けられる問題ではなかった。そこには、言語(ドイツ語)、民族(ドイツ人というより、ゲルマン人という意識が芽生え始めていたようだ)、国家(ドイツ、スイス、オーストリア)、宗教(カトリック、プロテスタント)という事情が絡み合っていたのだ。オーストリアは、1867年にハンガリーを含む多民族国家を成立させる。

このドイツの民族主義は次第に周辺各国とぶつかり合うようになる。ユングはある夢を見るのだが、ヨーロッパには緊張が高まっていた。このときユングはオーストリア人のフロイトに接近する。ユダヤ系だったフロイトは、ゲルマン人だったフロイトを自らの学派の後継者と見なしていたのだ。

ユングの心理学とフロイトの心理学はちょうど鏡合わせの位置にあるように思える。フロイトは心理学にエネルギーや力学といった科学的な要素を組み込んだ。実際に実験で証明できないので、純粋に科学とはなり得ないのだが、これは当時としては画期的なことだっただろう。ユングも統計を使って言葉に対する反応速度を探る科学的な手法を考案するのだが、一方では心霊のような証明できない事象も排除しなかった。

フロイトは幼少時のトラウマ(母親の愛情不足や父親の抑圧的な態度)が生涯の性格を決めると考えていたのだが、ユングは必ずしも全てを幼少時の性的な体験に結びつけるべきではないのではないかと考えていた。幼少時の父親との関係も違っていた。フロイトの意識は外を向いていたのだが、フロイトは自分の内面を見つめる(つまり内向いている)という違いもある。

最大の違いは、内面にある意識が及ばない領域に対する扱いの違いだろう。フロイトにとって無意識は人々を苦しめかねない存在だった。しかし、ユングにとってそれは成長しつづける、創造性の源泉になっている。フロイトにとって精神的な病は、幼児期に原因があり、治療すべき異常な状態だ。しかしユングは、人が成長する上である種、精神的にアンバランスになることがあり得るのだと考える。

1914年までヨーロッパは、ドイツ、フランス、ロシアなどの各国がお互いの緊張状態を利用しつつ、結果的に均衡を保つという危うい状態を維持していた。結局、オーストリア=ハンガリーの皇太子がセルビアで暗殺されるという事件をきっかけに戦争状態に突入した。この戦争は1919年まで続き、第一次世界大戦と呼ばれるようになる。1916年にユングはフロイトと決別する。結局、ドイツは敗戦し共和制に移行した。これがユングの40代だった。

ドイツは、この第一次世界大戦の敗戦から立ち直る過程で、民族意識を過剰に高揚させてゆく。使える理論は全て使い、一つの方向に向かって邁進した。ヒトラーは1889年生まれのオーストリア人だった。しかしなぜかドイツに流れ込み、1933年に首相になり1939年にポーランドに攻め込んだ。そしてこれが、第二次世界大戦のきっかけになった。

この時代を説明するものはいろいろある。中産階級が台頭して、小さな君主国家の枠組みが崩れさったこと。そうした諸邦を統一するのに言語に着目した「民族」という意識が産まれたこと。宗教権威が崩れつつあり、代わりに「科学」が台頭しつつあったことなどだ。新しい枠組みが作られつつあったのだが、まだその秩序がどのようなものになるかという形は全く見えていなかった。

一方、オーストリアは多民族国家を成立させた。この事が多様性を生む。たとえばイノベーションで知られる、ヨーゼフ・シュンペータは1883年生まれのオーストリア人だ。シュンペーターの理論は、均衡を停滞と捉え、均衡が何者かによって崩されることで市場全体の活気が保たれるという理論で、これを創造的破壊と呼ぶ。つまり一定の枠組みのもとで、動的に動いているのが「活気」の源だと考えられていたわけだ。

ヨーロッパにはもはや、領主やカトリック教会の元で秩序ある暮らしをするというような状態にはなかった。枠組みは常に崩されており、対立関係が至るところに見られた。こんな中で「個人がどう時代に対応するか」ということはとても大切なテーマだったに違いない。マネジメントの父と呼ばれることになるピーター・ドラッカーは少し遅れて1909年にウィーンで産まれる。この人もユダヤ人だ。ドラッカーはユダヤ人迫害を怖れてアメリカに逃れる。社会の一方の極を支配しはじめていたのが「企業」と「アメリカ」だった。

オーストリアにはいまのグローバリズムに似た状態があった。混乱と多様性が、経済学と心理学を生み出したのである。

暗い夜の海を行く

このブログの人気のあるエントリーに「中年の危機」がある。Googleで上位に上がっていることもあるのだろうが、エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学をアフィリエイト経由で買って行く人もいる。今回は、この「中年の危機」について考えたい。

「中年の危機」という言葉にはネガティブな含みがある。そもそも「中年」はもう若くないということだし、スーツを着て定年までの日々を数えるサラリーマンといったイメージがある。理想の40代といえば、いつも若々しく、シゴトはできるのだが、失敗も怖れないというイメージだ。一般的には、中年を迎えずにいつまでも若々しくいることができる人が成功した人だと考えられている。
近年自殺が増えている。Chikirinの日記「自殺に見る男女格差」によると近年増えた自殺のほとんどは男性のものなのだそうだ。そして自殺原因のほとんどは「経済・勤務」の問題である。健康問題も自殺の大きな原因なのだが、病気をしてしまうと経済的にも行き詰まるのだから、日本は男性がお金の問題で周囲に助けを求めずに死んでしまう社会だといえるだろう。

一般的に、勤務先や仕事はその人のよりどころ(つまりアイデンティティ)になっていて、周囲に助けを求めることは女々しいことだと考えられている。リストラされる、あるいは経営していた会社を失うということは、拠り所を失ってしまうということだ。
ここで、これが果たして挫折なのかという疑問が湧く。規範は変わって行くものだし、変えて行くこともできる。

たとえば、大昔には殺人は「悪」ではなかった。殺さなければ殺されてしまう可能性があったからだ。また、奴隷制も悪ではない時代があった。女性に参政権がないのも当たり前のことだった。社会に合わなくなったということは、その人が失敗してしまったということにはならない。しかし黒人系の南アフリカ人がパスを持たないと逮捕されてしまう時代には、パスを燃やす事は「社会への反逆者」になることを意味した。20年以上も刑務所に入れられても文句が言えないほどの重罪だったのだ。

エッセンシャル・ユングによると、ユングは社会的な目標は人格の縮小という犠牲を払うことのみによって達成されるといっている。ユングは「その人らしくあること」と「社会に適合してゆくこと」はお互いに相容れないと考えている。社会的な目標(たとえば、会社の社長として尊敬されたい)がその人を一生満足させる目標足り得るかどうかは分からない。

当時の臨床経験からユングが大切だと考えたのが40歳くらいの年齢だ。日本ではちょうど厄年にあたる。うまく成熟が進むと、このあたりの年齢で違和感を感じ始める。そしてその違和感を無視したまま50歳を迎えると、さまざまな支障を来す事がある。エッセンシャルユングには、それまで熱心に教会活動を行っていた人が、ある日「自分のやっている事は、本当に下らないどうでもいいようなことだった」と考え、無気力に落ちいるという例がでてくる。それまで彼を支えていた正義が音を立てて崩れてしまうのだ。

この経験を「失敗」と捉えるのか、それとも「成長」と捉えるかで見えてくる風景はだいぶん違ってくる。22歳くらいで働き始めるとして、20年も働いてくれば社会がどいうい仕組みで動いているのかということが分かるようになる。若い時がピークで、あとは衰えて行くのだと考えると、残りの人生では勝ち得たものをできるだけ失わないように生きて行こうと考えることになるだろう。若いときに得たような好条件はもう二度と現れないからだ。

一方、人間はその後も成長してゆくのだと考えると、社会の仕組みが自分に合わなくなるということもあり得ないことではない。前者では人間を消耗品として扱っている。若くて消耗が少ないことがよいことだ。一方後者では経験は蓄積である。この違いがつもると「新しい経験」に対する態度の差となって現れる。前者は新しい経験に対して抑圧的で、後者は変化を促進する。

リストラで職を失ったり、病気で退職を余儀なくされた人が、家や病院に取り残される。するとアイデンティティを喪失し「自分が何者か」が分からなくなる。これは大変なストレスだ。経済的な見通しが経たなくなり、人によっては家族も失う。

一方、留まる人たちも「明日は我が身」として脱落した人を意識する。ある種、彼らとは鏡の関係にある。この人たちも「成功の中に引きこもらざるを得なくなる」わけである。こうした人たちは不得意なことはやらないだろうし、変わることは難しい。
加えて成功者には別の試練もある。「私はうまく立ち回ったから、成功することができた」と考えると、何が正しい事なのか分からなくなってしまう。組織によっては正常な判断力を失い自壊してしまったりする。ある種の傲慢さだが、他人を追い落とすから悪なのではなく、自らを滅ぼしてしまうから悪なのだといえる。

中年の危機は、成長から来る産まれ直しだ。人間はまず0歳で「産まれる」。そのあと、親、学校、社会の価値観を刷り込まれつつ20歳くらいで独立し、社会に産まれる。40歳の誕生はだれも「産んではくれない」という意味でそれまでとは異なっている。一人で価値観を選び、自分で自分自身を産むという体験をしなければならない。このことが孤独を生む。しかし、この産まれ直しの経験をすることで、社会規範と自分が合わなくなったときに、どう変化して行けばいいかということを経験できる。これ故、中年の危機は「夜の航海」に例えられる。
(2012.11.26:リライト)

非デュシャンヌの笑い – 偽りの笑顔

親戚に女の子がいる。いま1歳。この子がかわいい。多分血がつながっているからだろう、とは思う。この子がかわいいのは、時折見せる笑顔のせいだ。この子に限らず子どもの笑顔はかわいい。大抵、あかちゃんは見つめると笑い顔を返してくれるのだ。しかし顔は口ほどに嘘をつくによると、この笑顔生後10か月を過ぎると「人が近づくと自動的に」笑うのだそうだ。
人間が作る事ができる表情は10,000程度。意識して動かせるところと、意識しなければ動かせない筋肉がある。笑ってみるとわかるのだが、笑い顔に関係する筋肉は2つ。口の周囲と、目のまわり。口は意識して動かすことができる。しかし目は楽しくないと動かないのだという。赤ちゃんの笑い顔にも2種類があって、母親に笑うときには目と口が動く。知らない人(たぶん親戚のおじちゃんも含む)への笑いは口だけだ。
あかんぼうが嘘をついているとは思えないのだが、別に楽しいから笑っているわけでもない。別に誰かに教えてもらったわけでもないのだが、とりあえず笑ってみる。すると回りが和み、襲われる危険が少なくなる。こうやってあかちゃんは身を守っている。襲われないどころか、遊んでもらえたり、運が良ければ食べ物がもらえたりする。
怒りや不安は「完遂しない経験」だった。完遂しない経験が積もり積もって、悪い場合には世代間を越えて伝わるのだった。一方、笑いも何もない所にうまれる。とりあえず、笑ってみる。すると場が和み、私たちが本来持っている「可愛がりたい」というような感情が刺激される。するとさらに場が和む。このように、感情には、スパイラルの起点としての役割がある。
こうした、目が笑っていない状態を「非デュシャンヌの笑い」(non duchenne smile)と呼ぶそうだ。Wikipediaによると、デュシャンヌの笑いは不随意筋である目の回りが動くので「純粋な笑い」であると考えられている。一方非デュシャンヌの笑いは口角だけで笑っているのだから、本当に楽しい訳ではない可能性がある。つまり嘘が介在する余地があるというのだ。
笑いのトレーニングに「口角を上げる」というものがある。割り箸を使って口角を上げる訓練をしろというのだ。残念なことに口角だけを上げても、目が怖いままでは笑っているようには見えない。笑顔のトレーニングに割り箸を使うのは口角が意思の力でコントロール可能だからだ。つまりお愛想笑いの練習ができるわけである。
口角を上げるトレーニングが重要なのは、筋肉がこわばっていて半分しか上がらなかったり、右か左のどちらかしか動かなくなっている場合が多いからだと思う。普段使わなくなっているか、抑圧されていて笑えなくなっている場合には、こうした訓練は重要だろう。しかし実際にこの練習をしてみると、楽しくないのに笑うことに違和感を感じるようになる。そして訳もなく落ち込んだりする。口をかたく結ぶのは「緊張」の現れだからだ。緊張が続くと却って弛緩してしまうのだ。怒りは完遂しない経験だ。本来は怒るべき場面で笑っていると怒りの経験が完了しないから、お愛想笑いは有害かもしれない。
一方、目を使った笑いは楽しい事を思い浮かべないと作れない。これは緊張を緩和するのに役に立つ。実際に笑いには緊張の緩和という役割がある。たとえば、誰かがスピーチでとんでもないことを言う。一瞬何が起こったのか分からない。緊張がその場を支配する。誰かが「わはは」と笑うと、それが冗談だったということが分かる。この場合人は楽しいから笑っているわけではない。緊張が臨界点まで高まり、それを緩和するために笑うのだ。そして笑うとだんだん楽しくなってきて緊張があったことを忘れてしまう。
雑誌などでいろいろな人の笑いを観察すると、口角だけを使った笑いは到る所に見られる。たとえば選挙のポスターは、たいてい口角だけの笑いだ。不自然にならない程度に目尻が下がっていたりする。これが失礼にならないのは、笑いが相互作用によって成り立っているからだ。
たとえば私がまじめに話しているのに、あなたがデュシャンヌスマイルを振りまいたら、きっと私は怒り出すだろう。それは私はまじめに話しているのに、あなたがそれをまじめに受け止めなかったと考えるからだ。しかし口角だけを上げて微笑みながら聞いてくれれば、私の興奮は収まるかもしれない。それは「楽しいから笑っている」わけではなく、その場を円満に納めるための笑いだからだろう。このように人はノンバーバルコミュニケーションを通じて感情のコントロールを行いながら会話を進める。
Twitterではこうした非言語のコミュニケーションチャネルが塞がっている。だからオフラインのコミュニケーションに慣れている人は、Twitterを不完全なチャネルだと思うだろう。一方、Twitterに慣れている人は、言語的な要素(たとえばエモティコン :-))を使って感情を捕足するのに慣れているか、こうした感情的な要素を排除してニュートラルな会話ができる人ということになるだろう。たぶん、感情を排除しているのではないかと思われる。最近はウェブカメラを使って非言語的なコミュニケーションを導入することが可能なのだが、こうしたやり取りは却って「生々しい」と敬遠されることが多いからだ。
生々しい会話に慣れている人は、こうした会話を「ぱさぱさして」抑圧的だと感じられるのではないかと思う。これは都市と農村の人間関係に似ている。農村の人から見ると、都会の人間関係は稀薄で「ぱさぱさしているように」見えるだろう。しかし都市の生活に慣れた人にとって農村の人間関係は濃厚すぎて煩わしいと感じられるはずだ。これは群れの密度と交換される情報の多さに関係しているのであろう。農村よりも都市の方が人口密度が高い。交換される情報量も多いので、農村と同じ密度で情報を発信するときっと疲れてしまうに違いない。同じようにインターネット上を流れる情報量は飛躍的に大きく、濃密な関係を不特定多数と結ぶと疲れてしまうのかもしれない。
コミュニケーションの中に「笑い」をうまく織り込むと、効果的に意思を伝え、対立を解く事ができる。楽しいから笑う場合もあれば、笑うから楽しくなるということもある。そして、笑いは状況によって意味が異なり、不適当な時や場所で笑うことが侮蔑の意味に捉えられたりする。オンラインメディアではこうした非言語を使ったコミュニケーションがうまく使えない場合があり、それを代替する機能が必要になるかもしれない。

甘えと日本人

アメリカ人がうんざりする日本人の特性といえば「日本人特殊論」だ。この二つの国には共通点がある。どちらもシングルカルチャーだと言う点だ。アメリカ人は自分たちが世界から集って来た多様な民族により構成された多文化社会だと信じているのだが、英語が暗黙の共通言語になっていて、かなり強烈な個人主義を「アメリカらしさ」だとして信奉している。一方、日本人も日本語が暗黙の共通言語になっていて、日本教といってもよいような独特な社会慣習のセットを持っている。

アメリカ人が嫌いな日本人のヒトコトに「我々の文化は独特だから…」というユニーク・ジャパンという概念がある。アメリカ人は「我々の文化は世界各国の移民からよりすぐられたものだ」と信じているので、日本人は独特であなたたちには理解できないのだということを認められないわけだ。しかし日本語でしか表現できない概念もある。やはり雰囲気は伝えにくいのだ。何でも話して説明しなければならないというのはかなりしんどい。気分を察してほしいと思う。しかしアメリカ人には伝わらないことが多い。それでは伝わらないのは一体何なのだろうか。

土居健郎は英語で論文を書いていて「甘え」というコトバにぴったりくる日本語がないことに気がついた。英和辞書を見ると「子どもっぽく振る舞う」とか「依存する」と書いてあるのだが、英語ではかなりネガティブな含みのあるコトバだ。日本では必ずしもネガティブな意味では使われない。それどころか、上司が部下に対して「もうすこし甘えてくれてもいいのだよ」と言ったりする。さて、この甘えるというのはどういうことなのだろうか。

土居や斉藤が指摘するように、甘えているときに、子どもが「僕はいま甘えているのだな」ということはない。甘えは無意識に行なわれる行為だ。甘えている状態とは、気兼ねなく相手に受け入れられていると考えられることだと思われる。これに対する大人のコトバは必ずしも明確に定義されていないのだが、「気を配る」だろう。気とは何かということを考えてみると、「注意や意識を向けている」「非言語を読み取ってほ何が求められているか拝察する」という事だ。これは昨日見たアクティブリスニングに似ている。アクティブリスニングと違う点は言語が介在するかどうかだろう。斉藤孝は身体性にこだわる学者なので、この総合の関係が持っている「非言語性」に注目する。甘えが存在する関係では「話さなくても分かる」のである。

いったんこうした関係が成立すると、その内に「甘える人」と「甘えられる人」の被我がなくなる。気分の「気」は様々な意味に使われる。気を配るとは「注意を向ける」ということだから、気は自意識を表現していると言ってよい。しかし雰囲気や空気といった気はその場に漂う意識のことであり、それは必ずしも私の気とは限らない。このコトバを無理なく受け入れられるのは私たちが自分の意識と相手の意識、さらにはそこにいる人たち全体の意識を区別していないからだろう。

ともかく、許容されることが種になって、相手を許容するようになる。こうして話さなくても分かる文化ができ上がる。しかしこうした文化ができ上がるためには、時間をかけて子どもを甘えさせてやる必要がある。悪い事をしても叱らないで配慮する、危ないものがあったらよけてやるといった具合だ。この間子どもはこれを意識しない。しかし、この後「アダルトチルドレン」で取り上げようと思うのだが、甘えにも健全な甘えと不健全な甘えがある。また、家庭の中では甘えられているのに、外では甘えられないということになると、重大な問題が起こる。それが「引きこもり」だ。

甘えは非言語に依存している。話さなくても分かってくれるのは、相手が常に自分に注意を払って非言語的なシグナルを読み取ってくれているからであり、相手と自分の文化が共通していて「だいたいの場合類推が当たる」からだ。つまり、忙しすぎて相手が自分に注意を払ってくれなくなったり、共通性がなくなりお互いが類推できなくなると甘えの関係は崩壊してしまうのだ。
一つには共働きが増えて、子どもが十分に甘えられる環境がなくなってきていることが問題になっている。また終身雇用が崩壊して親の側の見通しが立たなくなると、相手に十分に注意を払うことが難しくなる。そして十分に甘えられなくなった子どもは20年も立つと親の側に立つようになる。すると甘えのない状態が再生産される。どう甘えていいか分からないのだから、どう甘えさせてよいのかが分からないのだ。

次に挙げられるのは、情報が過剰に流れてくることに関連している。青少年期には盛んに情報を吸収して、その後の精神的な姿勢を決める。

喫茶店や居酒屋の会話は形骸化した甘えの発露の場だ。全員に共通しているのは「聞き手にはなりたくない」という気分だろう。誰も聞いてくれないから勝手にしゃべっている。しかしその場では何を言っても許される。無制限に受け入れられているという点では甘えの場なのだし、それが至る所で観測されるのは我々が「甘え」を求めているからだ。日本でTwitterが否定的に捉えられるのは、誰も本当には聞いていないからだ。形骸化された甘えの場がオンラインに拡張されているからだということになる。

このように「甘えさせてくれる人」が貴重なリソースになると「甘え」の奪い合いが起こる。一人ではやって行けないわけだから、自意識を慰めるためのさまざまな手段を準備する必要がでてくるわけだ。こうした一連の行為がすべて「非言語」で行なわれる。相手にも説明できないということだが、自分にも説明できないということになる。だから、こういう状態では、我々がどうしてこうなったのかということがよく分からない。

この状態が不快なのだと考えるようになったとき、解決策は2つある。一つは社会を「甘え」がふんだんにあった時代に戻す事。本来は父親が家にいて子どもの面倒を見てもよいわけだが、たいていは母親が家にいる。また、定年(これは子どもを育ててからしばらく余裕のある十分な甘えの時間を提供する)までの見通しが明確に立っている。地域が一体になって子どもを見守る。家族は他人(近所のおじいさんやおばあさん)の干渉を受け入れるという社会だ。そしてもう一つは言語が介在しない甘えの関係を乗り越えて、言語的に分かり合う社会を作る事だろう。そのためには「私」と「あなた」が明確に分離された社会を作ることになる。普通の日本人の感覚では、これはとても「水臭い」関係だ。

甘えとは相互依存関係を構築するということだ。子ども時代と違って部下は上司に意識的に甘える。それは同時に相手の影響力を受け入れるということになる。しかしそれはやがて双方向的な依存関係に発展する。上司は時々部下を居酒屋に誘い「無礼講」と言って部下に愚痴をこぼして甘えたりする。ここで部下が甘えないと、上司も部下に甘えることができない。見方によっては部下は「甘えてやっている」のだ。
ここまで書いて来て、こうした相互依存的な関係は30代より下の日本人の間にはなくなって来ているのではないかと思った。少なくとも派遣社員と正社員というように会社に対する態度が異なる人間関係では成立しにくい。この関係はどこか疑似家族的で、両者が日本的な「甘え」を体得していることを前提にしているのだろう。

さて、ここまでは「相手と自分の問題」を分離する個人主義的な解決方法と、相互依存的な環境を作って非言語的に折り合いを付けて行こうというアプローチを見た。相互依存的な関係は、機能しているときには非常に心易い関係なのだが、ともすると不健康なものに転移しやすい。悪い相互依存「共依存」について見て行く。何が共依存を作るのだろうか。

アクティブリスニング

アクティブリスニングは問題解決のための対話

アクティブリスニングは積極的に聞く技術なのだと説明される。しかしネット上のアクティブリスニングの解説には部分的なものが多い。また、結局の所「相手に話を聞いてもらえたと考えてもらえたら勝ち」とか「相手は学習の宝庫なのでトク」といった損得、勝ち負けに落とし込んだアクティブリスニングの解説も見られる。実際に、アクティブリスニングの原典の一つであるトーマス・ゴードンの本ゴードン博士の人間関係をよくする本―自分を活かす相手を活かすを読むと、どうもそれが誤解なのではないかと思えてくる。アクティブリスニングは問題解決のための対話手法の一部らしい。

子どものカウンセリングから生まれたアクティブリスニング

トマス・ゴードンは子どものカウンセリングを行なっていた。しかし子供たちが口を揃えて「問題があるのは親の方だ」ということに気がつく。親にカウンセリングを受けさせるわけにもいかないので、親業とはリーダーシップであるという路線で、親に「聞く技術を教える」ことにしたのだという。あいづちをうつ、距離を取る、批判をしないなどという個別のメソドロジーについては、様々なウェブサイトや解説本が出ているので割愛する。

操作しないことが重要

キーになるのは、相手の話を聞くふりをして「相手を操作しないようにする」ことの重要性だ。たとえば会社を辞めたいと言っている人にたいして「僕はそういう人は好きじゃない」と自分の価値観を押し付けたり、「世の中はそんなに甘いものじゃないんだよ」と説教したりすることが他人を操作することにあたる。また「僕に相談されても…」と話題を変えてしまうのも聞かない行為だろう。ゴードンはこうした一連の行動を「非受容の言語」と言っている。アクティブリスニングでは、相手を「好ましい方向に向かうように援助」したりもしない。この行為そのものが操作に当たるからだ。
相手は自分で問題を解決する。聞き手はそのための手助けをするだけだ。それではどうして相手は人に話をするだけで問題を解決できてしまうのだろうか。

経験を完遂する

人が怒りや不満を持つというのはどういう状態なのだろうか。それはある感情が完了しないことから生まれるようだ。つまりその感情を整理し、それがどこから来ているのかを捉えるか、別の経験が起こりその感情が上書きされてしまえば、怒りは消えてしまうということになる。経験を完了させてしまえばいいわけだ。他人に何かを話すことでこうした経験を(少なくとも頭の中では)完了することができるのだ。
ここで非受容の言語を聞いてしまうと、話し手は自分の経験を完了できなくなる。そればかりか自分の言い分に対して防衛をはじめてしまう。すると問題が解決できなくなってしまう。するとイライラが募るので、いつまでも怒りや不満を抱えたままである。
たとえば女性が何人も集って喫茶店で話をしている。相手のいうことを聞いているようなのだが、実は全く話を聞いていない。大抵「それでさあ」といいながら全く関係のない自分の話をはじめる。このように、誰かに聞いてもらえるだけで満足してしまうのである。居酒屋でも同じことが起こる。愚痴を言い合っているだけなのだが、それでも参加者はなんだかすっきりした気分になる。こうした時に「自分の価値観を押し付けるのはよくない」し「自分が聞き手に回っては疲れるだけ」である。しかし無反応なのもよくない。相手のいうことを聞いてやる必要はない。ただあいづちを打てばいいということになる。話をすることで「経験を完遂している」ということになる。
アクティブリスニングはそれだけでは「対話」ということにはならない。なぜならば、相手は一方的に自分の話をしているだけだからだ。

アサーティブ – 自分のことは明確に伝える

アクティブリスニングは実はもう一つの技術と対になっている。それは自分の問題を明確に伝えることだ。トマス・ゴードンの本には出てこないのだが、これを「アサーティブ」とか「アサーティブネス・コミュニケーション」と言ったりする。私の気持ちを「私」を主語にして伝えるのだ。つまりアクティブリスニングとは、ただ聞き手に回るだけの技法ではないのだということになる。喫茶店や居酒屋の会話とは違っているわけである。
大抵の場合この二つは別々に言及される。だから「アクティブリスニング」だけを見ていると「ただ聞き手に回る技術」だということになり、「アサーティブ」だけを見ていると、ただ自己主張しているだけということになる。しかし実際はコミュニケーションなので、相手のことは相手に話させる、自分のことは自分で伝えるという二局面が一つのコミュニケーション術になっている。

相手と自分の問題を切り分ける

自分の問題を解決できるのは自分しかいない。トマス・ゴードンが強調するのはこの問題の切り分けだ。相手を操作してしまうのは、相手が抱えている問題をつい自分のモノだと認識してしまうからなのだ。聞き手が相手の問題を解決してやれるのは、その人よりも一段高いところに立って、問題を俯瞰的に見ているからだろう。逆に「我々」の問題について、相手の言い分を一方的に聞かされるのはかなり苦痛だろう。さらに悪い事に、相手に自分の意見を伝えるのはさらに苦痛だ。だから利害関係がある会話においては、ついつい相手の話に自分の考えを紛れ込ませてしまうことになる。ここに相手を操作する余地が生まれる。
本では「私が持っている問題」「相手が持っている問題」という図式がくり返し使われる。そして「自分が持っている問題」について許容できない場合にはそのことを相手に自分の問題として伝えることが大切だと、ゴードンは主張するわけだ。
つまり、アクティブリスニングを使ったコミュニケーションでは、相手と自分の問題を切り分け、さらに問題が何なのか(つまりどんな経験が完了していないのか)を明確にすることが重要なのだ。

個人主義社会と集団主義社会

この「誰が問題のオーナーか」という概念はかなり受け入れがたい。理解するのに「ん」と一呼吸置かなければならない。これはなぜなのだろうか。
個人主義であるはずのアメリカでさえ、相手の問題に絡めて自分の願望を伝えてしまうことがある。英語は主語がある言語なので「私」「あなた」という切り分けは容易にできるはずだ。しかしながら実際には彼らにとってもそれは難しいことだということが分かる。まして、我々が日本人と日本語のコミュニケーションを考えるときには「私」と「あなた」がなく、「我々」とか「世間では普通は」とかいう主語(しかも隠しながら使う事ができる)の存在が問題になる。そもそも言語的なコミュニケーションがどれくらい重要なのかという視点も出てくる。
日本人のコミュニケーションを考えるにはまた別の視点が必要なようだ。それは、相互依存的で「私」と「あなた」がない世界だ。明日は、英語にはこうした相互依存の関係性を肯定的に現すコトバはないのだという主張を交えながら、日本人のコミュニケーションについて考える。こういった信頼関係は一度でき上がると非常に強固なモノなのだが、作り上げるのに時間がかかる。アクティブリスニングは、バーバルコミュニケーションを軸にヒントとしてノンバーバルコミュニケーションを使う。しかし、日本人の関係性構築は「ノンバーバル」が中心なのである。こうした一連の特徴が多分、日本人を「コミュニケーションべた」にしているのだろうということが洞察できそうだ。

リーダーとは何か

集団は権限の一部をリーダーに委譲することで自分たちを外敵から守り、協力関係を築くことができた。しかし政治的リーダーだけをみてもその種類は一つというわけではない。外に打って出るための組織に必要な父性的リーダー、内部調整のための母性的リーダーが存在するのであった。また、破綻しかけの組織にはコドモ型リーダーが出現するかもしれない。例えば自民党末期の麻生太郎さんはコドモ型リーダーだろう。このようにリーダーの性質を見ると、その組織がどんな状態にあるのかをも見る事ができるかもしれない。リーダーには国際的なバリエーションもあるようだ。アメリカのような個人主義・平等な社会のリーダーと、中国のように集団主義・権力格差が大きい国のリーダーでは期待される役割が異なるはずだ。
さて、ここまで考察してきたところで、教科書的なリーダー像について勉強してみよう。ハーバード流リーダーシップ「入門」を使った。リーダーシップに必要なものは2つ。ビジョンとコミットメントだ。リソースを適切に管理して、プロセスを円滑に進める人たちをマネージャーと呼ぶ。ただプロセスがうまくいっているかを見るのが監督者である。このように指導者だからといってリーダーというわけではない。ある目的を設定して、そこに導くのがリーダーというわけだ。一方、コミットメントとは「本気で取り組む」こと。コミットメントを示すためには、言動が常に一致していて、熱意があり、言動と行動が一致している必要がある。
さて、ビジョンが明確で、理にかなっているものであれば自動的に採用されてもよさそうである。しかし、実際には、人はビジョンだけでは動かない。どうにかして、このビジョンが本物で信頼に足るものだということを納得して貰わなければならないのだ。コミットメントが重要なのはそれが人を動かすからだ。
リーダーの性質は生まれついてのものと考えられがちである。これをカリスマ性と呼ぶ。しかし実際にはカリスマ性がなくてもリーダーになる人たちがいる。リーダーはいくつかの資質を使って人々に影響を与える。

  • カリスマ
  • 専門知識
  • 地位や立場(地位が先にあってリーダーシップを発揮することがあると筆者は指摘する。逆に地位があってもリーダーでない人たちがいるということになる。もう一度、マネージャー、監督者、リーダーの違いについて考えてみよう)
  • 成功実績(過去うまくいったから、未来もうまく行くだろう)
  • コミットメント
  • 共通の価値観(人は、共通の価値観を持っている人をリーダーに担ぐ傾向がある)
  • 共感(話を聞いてくれる人はリーダーとして受け入れられやすい。聞き出すために、アクティブリスニングという手法が用いられることがある)

リーダーとは何か

この本は、MBAの学生向けにリーダーについて書いている。本の最初の部分はこのようにリーダーについて定義しているのだが、後半はキャリアマネジメントについて書かれている。MBAを取りたいと思う学生はリーダーの地位を熱望してマネージャーのキャリアをスタートさせるわけだ。この点が日本と異なる点ではないかと思われる。日本人の場合、給料が上がるから管理職になりたいと思う人は多いだろうが、必ずしも責任を伴うリーダーのポジション(そう、リーダーには権限だけではなく、責任も伴うのだ)を熱望する人は多くないのではないかと思われる。
また、リーダーの役割が比較的狭義に解釈される。それは集団を今いるところから他の場所に移すのがリーダーだという考え方である。常に変化していない集団はそのまま衰退に向かうだろうということである。これが現状維持を求める日本の集団との大きな違いだ。集団が変化に対する消波ブロックのような役割を果たすと、リーダーに求められる資質は異なってくるように思える。
アメリカに比べると日本は集団性が高い。個人の資質ではなく集団の総意が重要な社会だ。集団内に権力格差が大きければ「偉い人の言う事を聞く」という文化が生まれる可能性があるのだろうが、日本人は中国人程は権力格差を持っていない。故に結果的に突出したリーダーが出る事を嫌い、コンセンサスを重要視する文化が生じるのではないかと思われる。
強いリーダーを求めない集団では(これは日本だけではなく)、ビジョンを元に強力なリーダーシップを発揮しようとする人がいると引き摺り下ろしが始まる。引き摺り下ろされないようにするには、相手のいうことを聞いた共感型・調整型のリーダーになるか、畏怖心を抱かせる(あの人に逆らうと怖い)になる必要があるように、いっけん思える。

リーダーシップとは取引ではない

しかしリーダーシップについての議論をもう一度見ておこう。リーダーシップはビジョンを通して人々に影響を与えるということだった。これは取引とは異なる。取引は「〜してあげる代わりに」「〜してくださいね」といって支持を取り付ける事だ。一方リーダーシップは「一緒に〜に行くといいことがある」と納得させることなのだ。リーダーシップは取引することなしに、相手を動機付け(モチベーション)、規範を示すということが言えるだろう。
集団が老化現象を起こすと、変革の意欲がなくなってしまう。ここでR/C(レベニューとコスト)に対するモニタリングが利いている組織であれば、やがて失敗の少ない事業しか行えなくなり、やがてはコスト削減しか取り得なくなる。顧客に影響を与えることなしにRを変化させることはできないが、従業員は自分たちの支配下にあるからだ。すると変革に対するリーダーシップを取り得る人材は外に流出する。すると自己変革ができなくなる。これが死のスパイラルを形成する。
自民党では別の事が起こった。自民党にはR/Cモニタリングは働いていない。組織がうまく動いていた頃には、複数の候補者が血みどろの勢力争いを行いリーダーを決めていた。小泉純一郎のように「変革します」というような人たちもいた。しかし組織が老化するに従って「みんなで仲良く決めよう」というようなことになり、自分たちの権益を侵害しなさそうな穏やかな人たちをリーダーとして頂くようになる。すると自己変革ができなくなる。自民党には顧客はいないのだが、有権者がそれに当たる。自己変革して「ビジョン」を示さないと、変化した有権者の欲求には応えられない。そして「みんなでやろうぜ」から「みんなで逃げよう」に移行して、最終的な分裂がはじまった。組織には「形式を維持しよう」という機能と「自分たちを変えて行こう」という機能があるのだろう。これが微妙な均衡が働かなくなったときに組織の死が訪れるのかもしれない。
民主党はまた別の経過を辿っているように思える。「ビジョン」に当たるものはマニフェストだったのだが、2009年のマニフェストを見ると「どのように利益を分配するか」という取引のリストになっていることが分かる。農村にいくら、コドモを持っている母親にいくら、沖縄にいくら、高速道路を使う人たちにいくらといった具合だ。自民党は成長期の政党だったので、アメリカ型ではないにしても「ビジョン」を作る機能を持っていたのだが、民主党は低成長ないしは縮小期の政党でありビジョンを作る機能がビルトインされていなかったのだろう。結果的に取引に長けた党のリーダーと、理想は語るけれどメンバーの権限を制限しない「お飾り型」のリーダーが管理する体制に落ち着いた。
「民主党にはもともとリーダーシップはなかった」と言えるかもしれないし、「国民はリーダーシップなど求めていなかった」と取る事もできる。もう変化はいいよというわけである。国全体が小泉純一郎さんの作ったビジョンにうんざりしている。フォロワーたちは分かりやすいビジョンに飛びついたが、結果的には搾取されるだけだったからだ。同じ事が企業にも言える。1990年代の終わり頃、低成長期に入ったころ「変革しなければ、淘汰されてしまう」というようなビジネス書が氾濫した。結局これでトクをしたのはコンサルタントの人たちと一部のIT産業だけだった。そのあと起こったのはコストカットの嵐だったわけだ。今20年程たって、あのときにミドル・マネージャだった人たちが、企業のトップに立っているのだが、彼らが変革に対して懐疑的なのはむしろ当たり前といってもよい。
さて一体何が悪かったのか。多分「変革」をどう行うべきかという議論が欠けていたからだと思われる。ビジョンは変革するために作られる。故に変革に失敗したビジョンは組織のトラウマを残すのである。次回は変革管理について見て行きたい。

リーダーシップの国際比較


リーダーシップについて、教科書的なことを調べる前に、日本の立ち位置を見ておきたい。例によってホフステードの指標を使う
ハーバード流リーダーシップ「入門」によると、リーダーシップには似たような概念がもう2つある。マネージメントと監督だそうだ。マネージメントは、目的を設定してそこに行き着くための算段を整えることなのだそうだ。これについては後日まとめる。

日本はリーダーシップ後進国?

送信者 Keynotes

まず、このグラフを見ていただきたい。日本は集団指向が強く(IDVが低い)、集団の力関係が平等ではない(PDIが高い)。故に、不平等な上下関係に基づいた関係が温存されやすく、個人が先頭に立つ形でのリーダーシップが形成されにくい。つまり日本はリーダーシップ後進国なのである。だいたい日本人は…。

落ち着いて全体像を見る

まあ、というのが、大方の見方かもしれない。これは日本人が国際比較を行うときに欧米と比較をするからである。立ち位置を見るためには全体を見なければならない。

送信者 Keynotes

クラスターの数は便宜的に5つに分けた。どうやらIDVとPDIには相関関係が認められるようだ。この線に沿って「赤」「緑」「オレンジ」がある。そこから離れたところにオーストリア、イスラエル、デンマークがある。他のヨーロッパに比べると集団生活に慣れた個人主義者といったようなポジションだ。また対局には集団性が強く、権力格差が著しく高いフィリピンのような国がある。
東南、東アジアの他の国々から見ると、日本はより個人主義的で平等性の高い国ということになる。

「グループ」の見方

これだけでは何のことか良くわからないので、指標を個別で見ておく。個人主義的な指向が高い国の人たちをマネージメントするのに必要なことは何だろうか。ここでは3つを挙げておきたい。一つ目に必要なことは個人の役割を明確に設定しておくことである。これをジョブ・ディスクリプションと呼ぶ。もう一つはその仕事をすると個人にどういういいことがあるかということをはっきりさせることだろう。つまりモチベーションの持たせ方が異なるわけだ。集団指向の強い国では、集団にどのようないいことがあるかを明確にすれば、人々は自ずから従ってくれる。しかし個人主義の国ではそうはいかない。最後はこの2つの裏返しだ。つまりマネージャーになっている人たちが個人としてどう思っているかを常に明確にしておくことだ。「私はこう思う」「私はこうしたい」というのが「私たちはこうあるべきだ」よりも大切だということになる。
だいたいこの3つを明確にしておけば、ヨーロッパやアメリカではうまくやって行けるように思えるし、アメリカ人の部下を持ったときにも安心だろう。逆に集団指向の強い国では日本のような「私たちはこうあるべき」というやり方でマネージメントができる。より濃密な人間関係が求められるかもしれない。国によって文化依存があるはずなので、その表現の仕方は異なるだろうし、日本人がアメリカで感じるように、心を開くまで時間がかかるかもしれない。アジア系の人たちと対応する場合にはこの原則を心に止めておくとよいよいに思える。

「Power Distance」の見方

PDIは直感的に見るのが難しい。平たく言うと、俺はあなたよりエライといったような上下関係がより強固な社会ということになる。アメリカでは人は生まれながらに平等だと思うのだが、PDIの高い社会ではそうではないのである。インドのPDIは77だし、中国も80だ。ここに入った日本人は「より偉そう」に行動する事が求められるかもしれない。周囲がそうあるように期待するわけだ。
このインデックスの難しいところは、例えばイタリアと日本を比べるとあまり差異がなく、中国とインドを比べるとあまり差異がないところだろう。にも関わらずイタリアは赤群でインドは緑群である。イタリア人は日本人と同じ程度に上下関係にうるさいということになる。しかしクラスターを作るにあたって個人主義も指標に入れているので別のグループに分類されているわけだ。

リーダー、マネージメント、監督

オレンジ群や黒群の人たちは、「目を離す」と権力的な行動に出るのではないかと思える。例えば集団の財産を自分のもののように扱ってしまったり、目下の人たちに尊大な態度を取ったりするかもしれない。これは権力者だけの特質ではないだろう。社会全般に、自律性・自発性が期待しにくい。かといって「自律的に行動してください」と求めることもできない。もともと社会とはそのようなものだと思っている可能性があるからだ。こうした社会では「監視・監督」が重要な役割を果たす。一方、アメリカで監視・監督というと「独裁者が出ないようにリーダーを監視する」というように使われることが多い。
また、自律性が低い人たちと一緒に働くためには、一つひとつのインストラクションを明確にする必要がある。必要なリソースを使う許可を与えて、プロセスごとに明確に支持をするわけだ。このリソースとプロセスの管理はマネージメントを特徴付ける機能なのだが、同じことをアメリカ人に行なうと「マイクロマネージメント」と拒絶反応が起こるのは目に見えている。アメリカ人をマネージするためには、大まかなゴールと報告点について指示を与え、プロセスは管理しないことだ。難し目のコトバを使うと「ゴールとマイルストーンと設定して…」ということになる。
ここで、今まで話題にして来た「リーダー」の役割が、リーダー、マネージャー、監督者に分かれることが分かって来た。ここでは出てこなかったが、利害がコンフリクトした時の「調停者」という役割を加えると、だいたい指導的立場にある人たちが何をやらなければならないかということが見えてくるように思える。

国際比較の大切さ

これから見て行くリーダーシップ理論はアメリカで作られたものだ。故に、リーダーシップそのものの定義がアメリカ的だ。アメリカ的とは「グループ全体の目標を設定して、それに向かって平等な個人を動機づける」というリーダー像だ。この目的をビジョンと呼ぶ。しかし、これが日本に当てはまるかどうかは分からないし、中国や韓国のようなアジア各国で使えるかどうかは分からない。
アメリカから見た日本の特徴は「コンセンサスを大切にするので、集団の意思決定に時間がかかる」ということなのだそうだ。これをマトリックスから理解すると、日本は個人主義ではないので個人のビジョンやモチベーションに頼った意思決定が出来ず、かといって中国のように権力者が支持した通りにも動かないというように理解ができる。この平原のちょうど真ん中にあり、意思決定を迅速に働かせることができないわけだ。逆にそれがレギュレータとして働いているともいえる。じっくりと考えた末に集団に都合のよい意思決定だけを取捨選択するということである。これがうまく働くかどうかは、外的環境にかかってくる。リーダーシップが求められるのは、外的環境が劇的に変化し続けるからだそうだ。外的環境が劇的に変化するのは、情報とお金の2つが流動性を増してきているからで、これを「グローバル化が進んでいる」と表現したりする。
指導者の役割は一様ではない。変化に対応するためには、中国のように強い権力者が指示をするやり方か、アメリカのようにコミュニケーションを通して他人に影響力を与えるやり方に自らをシフトしなければいけない。

運用注意

最後に蛇足として運用の注意事項を。ここではアメリカとか中国というような言い方をかなり不用意に使っている。僕が知っている例では「アメリカで勉強したタイ人のデザイナー」とか「日本での生活歴が長いアメリカ人のマネージャー」といった人たちがいる。この人たちは、日本では日本人のように振る舞うのがよいということを知っているので、集団的なコンセンサスを大切にしたりする。タイ人なのだが、個人主義的な価値観も理解する。このように人間は複数の価値観を理解して振る舞うことができる。また外資系に慣れた個人主義的な日本人と、日本企業で定年まで勤め上げた日本人は同じ価値観を持っているとは言えない。
また、このことが差別的な感情を生んだりもする。どちらが優れているとか劣っているというように受け止められてしまうわけだ。これを乗り越えて行くのはとても難しい。アメリカに対して過剰な劣等感を持っていたり、アジアに根拠のない優越感を持っている人もいるかもしれない。