ビハインド・ザ・サン

ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。ビハインド・ザ・サン [DVD]は2001年のブラジル映画。原作はアルバニアの小説。
20世紀の始まりごろのブラジル。川が干上がってしまった荒涼とした大地。2つの家の間で土地の争いが起こっている。この土地を取ったり、取り返したりする過程で、殺し合いが起こる。殺し合いは様式化されていて、もはや家の名誉のかかった闘争になっている。まず長男が殺される。次男は長男の復讐のために相手の家のものを殺す。満月までは休戦協定があり安全なのだが、そのあときっと殺されてしまうだろう。
映画を見ている我々は客観的な視線でこの映画を見ている。だから「土地を巡ってこんな争いをしていては、いつかは一家は皆殺しになってしまうだろう」ということが分かる。逃げてしまえばよさそうなものなのだが、名誉がかかっているので逃走するわけにもいかない。逃げ出せば、きっと土地は相手の家に渡ってしまうにちがいない。つまり、解決策は「殺されること」しかないわけだ。
この映画のキーになっているのは、映画を見ているひとと同じ目線に立っているサーカスの2人(途中で「あの人たちはバカなことをしている」とつぶやくシーンがある)だ。人々が労働に勤しんでいる間、広場で楽しそうに祝祭に興じている姿はある意味ドロップアウトした人々だといってよいだろう。次男はこのサーカスの世界に触れる事で復讐に疑問を持つようになる。
もう一つは名前のない3人目の息子。まだ復讐に巻き込まれておらず、サーカスの女性から本を貰い、字が読めないのに本を読むことになる。(つまり、空想の中で、自分が知っている世界を再構成しつつ物語を創作しているわけだ)多分、この子どもに名前がないということが重要で、この子どもが「解決策」になる。ぜひ結末はDVDなどを見て確認していただきたい。

人殺しはなぜいけないのか

ヤノマミを考えたときに、なぜ人殺しはいけないことなのかということについて考察した。いったん命に値段をつけてしまうと、人の命をもってあがなえば何をしてもよいということになる。この一家の闘争の歴史はそれを象徴している。人の命に等価なのは人の命しかないので、いったん殺し合いが始まると、解決策は「逃げる」(ヤノマミはこうする)か「誰もいなくなるまで戦う」の二者択一ということになってしまう。この権利を人々から取り上げて、国が一括管理しようというのが死刑制度だといってよい。よく死刑制度を存続させる議論で「抑止力として死刑を残すべきだ」という人がいるが、死刑は抑止力にはならない。「私の命をかけて、相手を殺してしまおう」という人はいなくならないだろうからだ。国が「人々の財産を守るために殺し合う権利」を取り上げるという抑止力も、国対国の争いでは無効だ。ある程度様式化されていたり、兵士の人権に関する取り決めがあったりするのだが、やはり戦争は集団同士の人殺しなのだ。
闘争を止めることができるのは、関わっている人たち全員が「ああ、こんな事をしていても何も変わらない」と思う出来事だけだ。映画の中には少なくとも片方の当事者の間にはそれが起こる。すると、対立していた視点が一段上に上がる。それがサーカスの視点であり、映画を見ている人たちの視点だ。だから、この映画を見ると、俯瞰的な視点の重要性がよくわかる。
つまり命を取ったからといって、人殺しやその他の重大犯罪をあがなってもらったことにはならないのだと人々が思ったとき、はじめてこの手の犯罪がなくなる可能性が生まれるということになる。そう思った人たちは、罰として命を取ろうとは思わなくなるはずだ。
一方、こうした冷静で客観的な思考を持ち得るのは、我々が当事者ではないからである。もし子どもが殺されたとしたら、相手も命をもって罰してほしいと思うようになるかもしれない。しかし一方当事者の視点は問題を根本的には解決してくれないのだ。
解決策にはロジックはない。つまり議論から解決策は生まれない。我々が「ふ」と思うことだからだ。ロジックがないからといって、意味がないというわけでもない。

俯瞰する事

例えば同じことが、いろいろな論争にも当てはまる。例えば、基地の問題が解決しないのも同じことだ。例えば基地の問題を解決するためには、世界的な軍事の枠組みをどう変えてゆこうかという視点がないと根本的には解決しないだろう。そう考えると、核の枠組みについて話し合う現場ではもっと積極的に議論に参加してもよかった。
なぜこういう視点を持てないかということについて考えてみたい。「あの政党」が選挙に勝つ事を軸に意思決定をしているからだ。パイが拡大しているときには成長利益を誘導してくればよいのだが、パイが拡大しないと仮定すると、誰かがもっている利益を取り上げて持ってくるしかない。基地はマイナスの利益なわけだから、損の付け替えをせざるをえないわけだ。
現実の問題を解決するのは、当事者の視点を越えたリーダーシップから生み出される解決策か、我々一人ひとりが「ああ、当事者で闘争していても、何も変わらないだろう」と考えて行動を変えて行くかのどちらかだろうと思われる。
日々の議論の中で、我々は当事者的な視点から逃れることはできない。小説や映画といった創作物はそうした視点を脱するためのきっかけを与えてくれる。この映画の中では、3番目の男の子が持っていた本と、サーカスがそれにあたる。人々が本を読んだり、映画を見たり、テレビドラマを鑑賞するのは、こうした機能を持っているからなのだ。
ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。これがある限り、出版物が日々のつぶやきに取って代わられることはないだろう。逆に本が一冊残らず消えてしまったとしたら、出版物から普遍的にあてはまるテーマが消え去り、日々の闘争の中に埋没してしまったということなのだろう。

ウィリアム・ジェームズ – 死にたくなったら読む本

ウィリアム・ジェイムズ入門―賢く生きる哲学という入門書を読んだ。この本を読むまで「ウィリアム・ジェイムズ」という哲学者を知らなかった。そのあと、ウイリアム・ジェイムズ本人が書いた本も読んでみたのだが、それほどピンとこなかった。にも関わらず、あえてご紹介しようと思う。

とりあえず、まだ死にたい程でもないなあという方は天才はいかにうつをてなづけたかがお薦めだ。うつは外面と内面を統合する機会であるという主張だ。ストーはこれを創造のモチベーションのひとつだと考えている。

さて、ウィリアム・ジェイムズに話を戻す。彼のポイントは簡単だ。考えるのをやめて、実感に任せるということだ。ポイントは簡単なのだが、これを実現するのはなかなか難しい。

ウィリアム・ジェームズは1842年生まれ。家族の期待に応えるべく医学を学び、めでたくM.D.の学位を取得して医者になった。彼はその過程で「魂の病」にかかる。どうやら医者になりたかったわけではなかったわけだ。さまざまな身体症状が出た後、神経衰弱になり、鬱を経て、最後に自殺を図った。この経験のあと、医者になるのをやめてハーバードで心理学を教えながら、最終的に哲学者として知られるようになった。

ウィリアム・ジェームズ入門は、ウィリアム・ジェイムズは「復活」をテーマにしているのだという。これは、伝統的なライフスタイルが壊れた後の文化的な混乱の最中で、人々が陥っている、無気力、消極性、自己破壊的なシステムを克服することを目指すと説明される。これが今回、この本をご紹介する理由だ。私たちの社会も今同じような状況に置かれていると考えるからだ。

もちろん、哲学者にお説教されたからといって「消極性」や「自己破壊」が克服できるわけではない。最近よく聞く「日本を成長させるために、みんなが起業家にならなければならない」とか「就職して社会的に望ましいステータスを得る事ができないのは、個人が怠けているからで、これは自己責任だ」という、奇妙な集団主義的個人主義が蔓延している。こうした近視眼に陥った人たちに、欠けているものが、ウィリアム・ジェイムズを読むことで見えてくるように思える。

ウィリアム・ジェームズがよりどころにしているのは実感だ。人生の意義のようなものを観念で証明しようとすると、内的な破綻を来たすと断言する。つまり考えても無駄だったということだ。しかし、そんな中で彼は「それでもわきあがってくる実感」を感じたのだという。

考え抜いて、何もかも期待が消え去ってしまった。それでも、人間はわき上がった実感の喜びを経験することがある。そこで、はじめてその存在が当たり前のものではないということを知ったわけだ。考えてみても無駄で、考えるのをやめた時に何かが見つかった。それはそこにあるのだから「それを信じることを決めよう」というところに自由意志の入り込む余地があると考えているようだ。

仏陀のストーリーの中にも同じような記述がある。あらゆる修行をこなしたものの心理は見えてこない。そこで差し出された粥のおいしさに目覚め、そこから修行を再開することで悟りに至ったのだった。

悩むほど考え抜くことが「ムダ」だったのか、という疑問も湧く。考え抜いたからこそ実感が大切という洞察を得たのかもしれないし、そもそも考えすぎない方がラクに生きられるよということなのかもしれない。悩みの中に答えはないのだが、その体験そのものはムダにはならないかもしれない。

さて、日本語版のwikipediaでウィリアム・ジェームズについての記述を見ると、日本の哲学者や夏目漱石などの文学者に影響を与えたという点に主眼が置かれている。また言葉が力強いので「起業」「モチベーション」「人生の成功」と結びつけた名言として語られることも多いようだ。つまり積極性を得るための言葉として利用されているわけだ。

しかし、ネズミ車のような環境で日々のノルマに疲れ果てているサラリーマン、自己実現ができないと悩んでいる女性総合職のような人たちが、ウィリアム・ジェイムズがどうしてこのような考えに至ったのかという経緯を抜きにして、結果だけ聞かされると「とりあえずがんばれ」のようなメッセージになってしまうのではないかと思う。これは、もうエネルギーが切れかけて睡眠もとらなくてはならないのに、カフェインの力だけで走らせるようなものだろう。生きる実感は頭で理解できるようなものではないのである。加えて、積極性は強制できるようなものではないだろう。

つまるところ、積極性や生の喜びというものは「努力をしなければ手に入らない」というものでもないというのがこの考え方のポイントだと思う。時には、逆に全てを手放したり、自分の内面を探ることによって得られる場合もあるということだ。

全てを自分でコントロールしようとするネズミ車から抜けてはじめて「自分が喜びを実感できるのは何か」ということを考えることができる。しかし、経済が縮んでゆく中でこうした決意をするのは大変な勇気がいる。今まで「誰に受け入れられるのか」ということだけを考えて生きてきたわけだから(コンカツ、シュウカツの活は「受け入れられるように動く」ということだろう)生まれてはじめて考える「自分が何をしたいか」かもしれないのだ。

ウィリアム・ジェイムズの本そのものはあまり面白くなかった。いったん脱却してしまうと、当たり前に思えてくるからだと思う。ウィリアム・ジェイムズのやり方は、同じような内的な葛藤を味わい、実感を心理学に昇華したユングに似ているように思える。この時代の実感だったのかもしれない。ニーチェは1844年の生まれだが、この人は考えすぎた末に悲劇的な死を迎えている。ユングはそれを体系化してユング派心理学の基礎を作るのに成功した。一方、ジェイムズは体系化を望みながら実現しなかったのだそうだ。

ユングとジェイムズに共通するのは「スピリチュアリズムへの傾倒」だ。ジェイムズの場合「全てを投げ出しても、生きる喜びは実感できる」ということを「神の恵み」と同一視している。日本人は幼少期に宗教体験を持っている人が少ない。だから、この種の体験に忌避反応を持つか、逆に埋没することがある。こうした事情も我々がなかなか「考えすぎる」ことから抜け出せない理由になっているのかもしれない。

「場」を作る

Blogos経由でHatenaの記事を読んでいたら面白い記事を見つけた。記事にするのもどうかなと思い3分くらいで、ちゃちゃっとコメントを書いたのだが、まとまりそうなネタがないので、今日はこれをネタにすることにする。クリス・アンダーセンの「フリー」が良くわからないというのだ。この記事を分析すると、日本だけがどうしてデフレと不況に苦しむのかという理由の一つが見えてくる。
この本、昔本屋で立ち読みしただけ。だから書評として正しくないだろう。ここで分析したいのは記事の内容だ。フリー経済と対比させて「漁場で魚をとる」例を挙げている。この人は海にいる魚をとるのはタダだと言っている。六甲の水もタダだ。これを読んで思い出したのは「日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)」だ。日本人がユダヤ人のフリをして書いている本なのだが、この中に「日本人は水と空気はタダだと思っている」という考察がある。しかし実際には漁師たちは漁場を整備したり、水産資源が枯渇しないように調査をしているはずだ。旅館も山菜をとってくるのは無料かもしれないが、そうした山林を観光資源として守るためにはさまざまなコストを支払っている。これを「場を維持するためのコスト」と呼ぶことにする。
つまり、ビジネスには「場」が必要だということになる。しかしそれを無自覚に使うと将来的には「場の資源」が枯渇し、ビジネスが成り立たなくなる。しかし日本人の多くが「場」について無自覚になると、コストを支払うインセンティブがなくなり、最終的にはビジネスを成立させる環境がなくなってしまうのである。
例えばこういう例はどうだろうか。企業の成長のためには「優秀な人材」を育てる必要がある。故に企業は大学卒業者を教育し、こうした人材を育てて来た。しかし、その事に無自覚になると「今いる優秀な人材を使えばいいや」と思うようになる。(育てなくても、中途労働者の市場にそこそこ優秀なヒトたちが集っていたということもあるだろう)誰も次世代の人材を育てなくなり、将来的にイノベーションを担う若手が枯渇する。これは一例だが、こうした例はいくつも考えられる。
例えばフリーではないにしても、ほとんどフリーの実例として「格安バスツアー」とか「韓国10,000円」なんかがある。実際には地方や外国の土産物屋にお客を運んでいるのだ。運賃を格安に抑えることで「ビジネスの機会」を作ろうという戦略だろう。実はよく行なわれていることなのだ。
日本人がこのブログ筆者のような疑問を持つのは、戦後、あまり「場」を維持してこなかったからだろう。本当のところはよく分からないのだが、アメリカで儲かっているビジネスを日本に持ってくればよかったからという事情が大きいように思える。ましてや「場」を作るのはもっと苦手だ。新しい場を作る事ができなければ(難しい言葉では市場の創出とでもいうのだろうか)既存の市場はやがて収縮をはじめる。その内誰も利潤を追求することができなくなり、やがては市場は死に至る。
イノベーションにはいろいろな分類の仕方があるのだと思う。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)によると、既存技術の継続的に洗練する事、ローコストのソリューションを生み出す事、そして新しい市場を作る事だそうだ。継続的なイノベーションはやがて効力を失う。だからそれ(継続的なイノベーション)だけではやがて市場は死んでしまうのだ。これは家電と自動車の凋落を見ているとよく分かるだろう。
オープンソースについては興味深い洞察がなされていると思う。オープンソースのソフトウェアはそのままでは経済的な価値を生み出さない。これを実際の需要と結びつけるのが「格安のPCの販売」だろう。ここに「場を維持するコスト」という考え方を持ちこまないで、「無料なんだしせいぜい利用すればいいや」と考えるとオープンソースを担う労働力はただ搾取されるだけの存在ということになってしまう。オープンソースとはいっても開発のための環境や作ったソフトウェアを配布するためのサーバーなどは必要なわけで、儲けた企業は、オープンソースのコミュニティを維持するためにこうしたコストを分担しなければならない。こうした場ができると、エンジニアたちは自分たちの力量をアピールして次のシゴトにつなげることができる。つまりこうした企業は、シュンペータの言った「銀行家」の代わりにリソースを再配分しているということになる。
同じ「フリー」を見ても「場を作って維持する」ヒトと「場をタダで利用すれば後は知らない」ヒトでは感想が変わってしまう。日本人はいつのまにか、場に寄生するフリーライダーばかりになってしまったのではないかと思える。だからこそ、こういうビジネス市場を自分たちのコストで構築しようというヒトたちがものすごく不思議に見えてしまうのだ。
さて、最後の一言はかなり重みがある。こうして自分たちが場所を作らなかったがために日本の経済は縮小をはじめた。30代より下のヒトたちは、縮小している経済しか知らない。すると「小さくなった市場をより多くの人間でとりあうよう」になる。
そうした中で、フリーミアムを成立させるのはとても難しい。フリーミアムは、結果的に一部の裕福なヒトたちが、他のヒトたちの面倒を見るという形態だ。これについては別の記事をご紹介したい。アパレル企業のGAPは、10,000円くらいするジーンズを売りつつ、横で1,900円のジーンズを売っている。一応値下げしていることになっているが本当にそうなのかは良くわからない。もともと違うものなのではないかと思える。これは、プレミアムを支払ってでも買いたいヒトと、安くならないと買わないヒトを同時におさえる戦略だ。在庫処分ではなく最初から低価格の製品も作っているのではないかと思う。
例えば年収が1,000万円くらいあれば、別に10,000円のジーンズは高くないだろう。別に値下げまで待たなくても、仮に値下げ品があっても定価で値段で買ってゆくと思う。こうしたヒトたちが10%くらいいればこういう商売もなりたつ。このGAPの戦略には落とし穴がある。
一つは、このジャーナリスト氏が言っているように「本当の値段は?」と思い始めたときに起こる。日本は製造業の国だ。だから「モノには原価があり」それに「労働力」と「販売経費」を足したのが、正当な値段ということになっている。だから本当は1,900円で売れるジーンズを10,000円で売るのはよくないのだ。(仮にそれで満足して買ってゆくヒトがいたとしても…)
インド北部のような「ど商人」の国に行くと、正札という概念そのものがない。「いくらだ」と聞いて、本当に欲しいのでなければ値切っても構わない。商人が提示する値段は定価ではない。これくらいで売れるといいなあという願望にしかすぎない。1/10にして売ってくれるかもしれないし、5%もひいてくれないかもしれない。これはヒトによって払う対価が違っているということでもある。ヒトによって支払う金額は違うわけだ。しかし、日本人がこういう場面を見ると「本当の価値はいくらで、高い値段を支払うのは騙されているのだ」ということになる。だから値引かないと損だと考えるのだ。
二点目には、経済そのものが縮小し、誰も「場を維持するため」にコストを支払う余裕がなくなったときの問題がある。みんながフリーや格安に殺到すると、フリーミアムモデルは成り立たなくなる。場を維持する責任感がないとも考えられるし、そもそもそんな余裕がないのだとも言える。すると場が作られなくなり(ジーンズが格安でしか売れなくなればGAPは日本の商売を縮小して中国などの新興国に向かうだろう)、既存の場はやがて消失する。そうして経済がまた縮小してゆくわけだ。
確かに、フリーは目新しい概念ではない。目新しいのは、ネットが登場して市場を創出するためのコストが限りなく無料に近づいているという点だけなのかもしれない。しかし、場所を作るヒトや場所のコストを負担してくれるヒトがいなくなり、代わりにフリーライダーばかりになってしまうと、経済は確実に縮小する。
ところで、僕はもう結論として「だから日本人は場をつくるためにがんばるべきだ」とは言わない。こういうのは自分で実際にやってみる事だし、もしつくれないと確信したらそれができる場所に移住すべきと思うからだ。そもそも「誰かが場所を作る」のを待っていること自体がフリーライダー的だ。やってみると分かるが、自分で場所を作ったつもりでも誰かのアーキテクチャの上に乗っているだけということが多い。なかなか難しいし、最初は誰にも相手にしてもらえない。しかし、ここまで場所や機会がなくなると「もう自分でつくるしかないなあ」と覚悟を決めるヒトも増えるのではないかと思う。そうしたヒトたちが立ち現れることによってしか、新しい成長は生まれないのだろう。

派遣労働

「笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する」というオンライン上の論文の中に、派遣労働に関する記述がある。派遣会社が行なっているのは「付加価値の創造であるから、存在意義を認めよ」という主張だ。これだけを取り出して経済学的に論じると、このステートメントは「是」である。GDPを算出するにあたって、派遣会社のサービスは日本経済に付加価値を与える。
よかったね…これからも派遣労働を続けてよいよ。
とはならないと思う。ただ、こうした問題を真剣に考えなければならないのは「金融」のヒトではないとも思う。
派遣労働が好まれるのにはいくつかの理由がある。
一つ目は経済的な負担が減るからだ。整理解雇の時の退職上乗せ金、保険、年金などがそれにあたる。
二つ目は固定費の削減だ。特に製造業は設備が老朽化し、内需も外需も縮小してしまったために、余剰な設備を抱えている。これを整理しないままで「人間」を整理してしまった。儲かるときだけ調達してきたい。変動費化とでもいうのですかね。別の産業も興ってこないようだし、今まで工場で働いていたヒトがプログラマになれるわけでもない。プログラマすら余剰なのだ。
三つ目は終身雇用の維持だ。給料体系を別立てにすることで、結果的に終身雇用された人たちの給与を維持している。おまけに身分制度的な受け取られ方をする。中世的な「下見て暮らせ」政策だ。完全に経済合理性だけで派遣が使われていたとしたら、正社員の派遣イジメのようなことは起きなかっただろう。が、実際にはこうした問題が発生している。

対価

だが、それぞれに社会は対価を支払っている。
一つ目は会社が負担しなくなった社会保険は、誰か別のヒトが支払うことになる。最終的には国が支払う。国というと分かりにくいが、税金だ。つまりこれを読んでいるあなた(ただし、働いているヒトのみ)が支払うのだ。さらに、年金システムや国民健康保険にも悪い影響を与えるので、システムの維持が難しくなる。こうなると、年金受給者も他人事ではいられない。これを国債で調達することも考えられるが、これは長期的にみて(下手したら短期的に見ても)維持可能ではない。明日の票を心配する政治家はどうだかわからないが、社会の継続性を考える政治家はこの問題に取り組んだ方がいい。
二つ目は経済合理性だ。前回「レイオフは株価を押し上げなかった」という記事を読んで勉強したように、安易な解雇には経済的な合理性がなさそうだ。加えて派遣労働者を大量に採用するにはそれなりのコスト(新聞で労働者を募集したり、教育したり、営業マンがかけずり回ったり、履歴書を整理したり…)がかかる。「派遣を使えば固定費が削減できる」ということだけを見ると確かに合理性がありそうだが、経済全体での合理性は低いように思える。確かに付加価値なのだが、一つの労働にたいして関わるヒトの数が増えているだけなのだ。おかげで何か新しい仕事があるたびに企業はリソースの確保を行なう必要がでてくる。これは生産的な付加価値なのか。しかしこれを考えるのは金融屋のシゴトではない。経営者のおシゴトだ。
三番目はちょっと深刻だ。終身雇用制を維持するために「コアでない人たち」を派遣化した。例えば工場労働者は高度な技能を必要としない限りに置いてはコアでない人たちだといえそうだが、工場のちょっとした工夫が生産性を上げる可能性は排除されてしまうだろう。また、店頭のスタッフをアルバイトにすることはできるだろうが、彼らは顧客接点なので、これを単純労働力で置き換えるのは実は危険なことなのだ。「新しい発見」ができなくなりつつある。これが「モラル」とか「モラール」とかいう領域にまで踏み込むと生産性は確実に下がり始める。
この件に関してもう一つの問題は、人事部の生産性の問題だ。人事部は採用権限を持つが、かならずしも経営的な判断を行なうわけではない。彼らは派遣業者と接するときにはお客さんになる。お客さんは神様だから、かなり鷹揚に振る舞っているはずだ。何かあったら営業を呼ぶ。これが実はコストになっている。その他に現場とのやり取りも発生する。これがすべて料金に乗ってしまうのだ。さらに現場ではここから教育を加え必要な調整を行なう。明確なコスト意識がないと(多分コスト意識を持つためには当事者意識が必要なのだろう)ここを合理化するのは難しい。ここで値引きの交渉が始まると、営業マンや派遣労働者への支払いが影響を受ける。するとやる気がなくなったり、職場で不満を訴えるかもしれない。しかしそれを受けるのは人事部ではなく現場のマネージャたちだ。すると、さらに時間が取られ…。
結果的には、終身雇用すら怪しい状況が生まれているようだ。社員をリストラしたり、海外移転を避けられない会社が出て来た。新卒すら採用することができないし、いったん採用した人たちを恫喝して辞めさせるという(大学生からすると悲劇だし、企業側から見ると究極のムダといえる)この流れはさらに加速するだろう。変化を臨時雇用の人たちに押し付けたせいで、結果的に自分たちが変化するきっかけを失ったと言ってもよい。

処方箋

労働者側から見ると「ピンハネされていると思うなら辞めりゃいい」と思う。多分日本人はマジメ過ぎるのだ。ただ、最初にこうしたシステムにたいしてサボタージュを行なう人たちは大きな社会的圧力に曝されるだろう。周りに理解者がいないわけだから、個人を責めさいなむことになるかもしれない。自由は時に過酷だ。ただ、めちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれないが、マルクスだって「搾取反対」という主張を理論で固めた訳だから、頭のいい日本人にそれができないはずがない。要はヒトが納得できて、シンパシーを覚えることができる理論を構築できるかどうかにかかっている。ただ、本来社会に経済的な付加価値を与えるはずの労働者が反乱を起こした状態は、平たくは「資本主義の死」と呼ばれることになるだろう。
ただ、戦う相手は多分派遣会社ではないように思える。どうも日本の会社全体に蔓延している「コスト意識のなさ」が敵なのではないかと思う。「デフレなんだから生産性なんか上げたってさ」という気分である。これを解決するのは、強力なリーダーシップを持った企業家や起業家であるべきだろう。もし日本にこうした類いの人たちがいないのであれば「日本はオワタ」状態なので、そのまま停滞してゆけばいい。
次の問題はこうしたいびつな労働条件を導入しなければ延命できない企業の問題だ。努力すればなんとでもなると思うのだが、どうもそうではないのだという。こうした企業の中には「派遣労働がなくなったら海外に出てゆくしかありませんな」という人たちがいる。こうした企業に対峙して政治家達が「それは大変だ」と思ってしまうのは、日本は結局製造業しかできない国で別の産業など起こり得るはずがないという変な確信があるからだろう(まあ、平たく言ってしまえば自信を失っているわけだ)。もしそうであれば「日本はオワタ」状態であるので、そのまま停滞に向かうべきだ。イノベーターがあらわれないのも資本主義の死だ。
でも、それでいいのかねと思う。こうした状況を改善するのは、全体的な派遣の禁止ではないだろう。しかし、もし企業経営者たちが一人ひとりの努力でこうした状況を改善してゆこうという意欲を失っているのであれば「禁止」してやってもいいかもしれない。みんながやめないとやめられないというのは非常に情けない事態だ。
これはタバコやアルコールに似ている。飲むも飲まないも個人の自由だ。しかし、これなしで生活できなくなったとしたら、これは別の話だ。こうした状況を「中毒」という。肺がんになってもまだ喫煙をやめられないのであれば取り上げてやった方がいい。ただ、その前にもう一回考えてみるべきだろう。経営者には本当に自由意志が残っていないかどうかということを。
藤沢さんがこの説で言っていることは一つだけ正しい。自由市場では過度な政治的参入はない方がいい。しかし「みんなが派遣を使い倒すから俺も」と言っている社会が本当に自由市場なのかはもう一度考えた方がいいだろう。なぜならば、個人が考えられなくなった社会では、いろいろな局面で「親切な政府」が介入することになるだろうからだ。これは資本主義の死よりも恐ろしい。これは自由の死で、もしかしたらいつか来た道の再現なのかもしれないからだ。

個人の自立心が日本を強くするか?

起業家を支援するグロービスの堀さんが個人の自立心が日本を強くすると言っている。これについて考えてみたい。
まず「個人の自立心が大切だ」というステートメントだが、これは正当化できるように思える。経済が流動化しつつあり、自分の核をもっていないと状況に流されてしまう。情報が氾濫しているのもその一つのあらわれだ。「私の問題意識」を核に持っていないと、情報に押し流されることになるだろう。問題はそれをどうやって実現してゆくかということだ。
先日チリで地震が起きた。地震そのものの被害よりも二次災害の方が悲惨だったようだ。一つは地震の後に起こった津波だった。警戒システムが網羅されていなかったことで情報が行き渡らなかったようだ。次の災害は暴動と略奪だ。略奪に参加したのは荒くれ者ばかりではない。普通の市民に見えるひとたちも参加している。支援食料が届かないのだ。略奪は犯罪だが、飢えるヒトが目の前の食料をあさるのを責める気持ちにはなれない。今朝のNHKのニュースでは、最近の急成長の影響で貧富の格差が増大しており、この不満が爆発したのかもしれないという観測を伝えている。
阪神淡路大震災の時、こうした略奪は行なわれなかったといわれている。コミュニティの力が大きかったようだ。国の援助システムもチリよりは格段に整備されていたからかもしれない。
ホフステードの指標で日本とチリを比てみる。チリはラテンアメリカ諸国に一般的な傾向を持っている。集団性とUAI(リスク回避傾向)が高い。集団性が高いのは「日本と同じではないか」と思われるかもしれないが、日本の集団性は東アジアの他の国やラテンアメリカ諸国よりは低い。こうした国から見ると日本は「まだ」個人主義の国ということになる。PDIが高いので「ボスのいうことはなにがなんでも聞かなければならない」という傾向があり、男性化傾向は低い。(多文化世界―違いを学び共存への道を探るを参照のこと)
日本人が個人主義傾向の低い国(例えば中国など)の人たちを見ると「わがままだ」と感じることがある。集団主義が家族を核としているためだ。だからいざというときには地域社会や国家といった共同体的なコミュニティではなく、家族や地域のようなコミュニティに助けを求めるし、家族を防衛するために動くわけだ。日本が疑似家族としての会社や国家に対して忠誠心を感じるのに比べて、こうした国では家族が生き残ることの方が優先順位が高いといえる。同じような集団主義でも日本の集団主義は抽象度が高い。血族は取り替えが利かないのだが、日本人の集団は個人が選択する余地がある。
この特質の違いが防衛システムにもあらわれている。日本人は地域社会が協力しあって安定化をはかることにより震災後の混乱を防衛した。一方、チリは家族のような小さな集団を守るために平常時は反社会的と言われる略奪を行なってでも自己防衛を図っているのである。
さて、堀さんの議論に戻ろう。この議論には2つの面白いミックスが見られる。一つは「個人が自立しなければならない」というステートメントなのだが、注意深く読んでみると「個人の活力が結果的に集団としての日本の強さを生み出す」という別のメッセージが隠れている。堀さんは西洋的なコンテクストで教育された方なのだろうから、個人の活動が結果的に集団の活力を生み出すという考えには違和感を持たないだろう。アダム・スミスも同じようなことを言っている。個人のばらばらの経済活動が国家を強くするみたいなことで、国家が丸抱えで競争する重商主義を捨てて自由主義経済が生まれたわけだ。
しかし、これが日本のコンテクストに取り入れられると、おかしなことが起こる。それは日本人がこのステートメントを「みんなで一緒に自立心を持ちましょう」というように受け取る可能性があるからだ。これは集団主義的な考え方だ。
今朝のNHKニュースで面白い特集をやっていた。私らしさを表現するために15秒のコマーシャルを作りましょうというのだ。広告代理店と大学が共同でカリキュラムを作ったらしい。まず「私のいいところ」を100以上みつけ、そこからメッセージを作り上げてゆく。最終的にこれを発表させていた。簡単に100個見つけられる子もいれば、まったく思いつかない子もいる。先生がやっとの思いで1つのよいところ「7か月目から水泳をやっている」を選んだ子どもを見て「水泳みんなやってるよ。もうちょっと考えてみようよ…」みたいなことを言っていた。
自尊心が生まれるのは、自分の特質について「心からよい」と思えるからだ。怒られながら無理矢理見つけるものではない。この先生にしても「それはすごいねえ、どうしてそんなに続けられるのか教えてよ」くらい言えばよさそうなものだ。そしてそれを機械的に15秒のコマーシャルに落としてゆく。メッセージは瞬間的なものだから「キャラ」が立っていているものがクラスで承認されて終わりになることになるだろう。
自尊心がこうした機械的な作業から生まれるものかね、とも思うが、これが工業主義的な国の自尊心の育て方なのかもしれない。もしかしたら他のヒトが「ガンコ」と思っている特質が、本当のそのひとらしさであり美点なのかもしれない。しかし、先生が「ガンコはいいことじゃないよ」と指導してしまえば、それがそのヒトに刷り込まれることもあるだろう。
ここで起こっているのは、大げさに言えば「個人主義」と「集団主義」の対立だ。自尊心が自立心につながるわけだから、ここで「先生に受けそうなキャラを出しておこう」と考えると、結局自立心が育たないということになってしまう。
さて、ここまで書いて来て、じゃあいったい何が処方箋になるのか?と思われる方もいるかもしれない。
まず第一に、西洋的な社会に触れて「個人主義」の洗礼をうけた人たちがいる。この人たちを邪魔しないようにしなければならない。現実的にはかなり難しい。たとえば、國母選手は早くからプロになり、スノーボードのコミュニティでの交流も活発なようだ。こういうヒトが個人主義の社会で当たり前のようにやっていることを集団主義の社会で行なうと、おおいに叩かれることになる。どうも匿名でならいくら叩いてもいいと思うのは若い人たちの特質ではないらしい。我々の社会がもとから持っている特質が引き継がれているだけのようだ。根強い集団主義的な表現の仕方だ。
次に重要なのは、集団主義的な特質を闇雲に否定しないことだろう。NHKのCMの授業で見たように、社会は見た事がないものを再生することはできないのだ。これは社会には再生産の機能があるからで、故に一度獲得した文化は長い間大きく変わることがない。そもそも「みんなで一緒に変わりましょう」というのは個人主義ではない。また、セルフプロモーションはキャラ作りではない。自分の特質や得意なことを使って世の中に貢献するための作業だ。結局個人主義といってもそれは社会との関わりの中で作られてゆくべきだ。
日本のネット環境は「匿名性が高い」と言われて来た。アメリカでは、まず個人の発言が立ち上がり、それが社会的な影響力を持つようになった歴史がある。しかし、日本では別の歴史をたどりそうだ。まず個人のつぶやきとして始まり、それが匿名化した勢力になる。今はある程度「世論」としてのプレゼンスを持ちつつあり、社会にプレッシャーを与えるところまで来ている。この後どうなるかはわからないのだが、ここから次第に自尊心が育てばよいのではないかと思える。
ただし、これは我々一人ひとりが変わらなくてもいいという主張ではない。経済的な変化が大きくなると、一つの集団がその人の一生の面倒を見ることはできなくなるだろうからだ。しかしそのためには、我々の社会がどんな性質を持っていて、それがどのような機能を果たして来たのかを改めて見つめ直してみる必要がある。それができてはじめて自尊心が生まれる。自分がよいと思っているサービスが世の中に広まれば結果的に多くのイノベーターや起業家を生み出し、日本を成長させる原動力として作用するだろう。

パーソナルブランディングとウェブ

パーソナルブランディング 最強のビジネスツール「自分ブランド」を作り出すによると、セルフブランディングが必要になるのは、個人や小さな事業のオーナーだ。売り込みをやめて、向こうからあなたを探してくれるように自分を演出しようという目的のもとにコンセプトが組み立てられている。セルフブランディングが成功すると、お客さんがあなたを求めてやってくるばかりではなく、第三者があなたのことを「誇らしげに」宣伝してくれるようになる。

セルフブランディングを成功させるためには、ある領域(ニッチとも)で第一人者にならなければならない。例えばウェブデザイナーというだけでは不足で「バイク見せ方のうまいウェブデザイナー」とか「離婚調停ならこの弁護士」とか、そういった特化が必要なのだ。セルフブランディングは目的達成の最初の手段に過ぎない。一端ブランドを確立した後は、そのブランドが嘘にならないように全力で顧客の要求に応えなければならない。

この本の優れているところはブランディングについて語っている部分ではないと思う。具体的にどう行動すればいいのかということが記述の中心になっている。具体的にはDM、ウェブ、プロフェッショナルの集まり、異業種交流会などの「チャネル」の中から5つ程度を組み合わせてブランドを訴求させるそうだ。プロセスも明確で、まずブランドを確立し、洗練し、最後に展開する。一度展開をはじめると頻繁に変えてはいけない。だから最初のコンセプトメイキングは非常に大切だ。

どのニッチで活動するかを決めたら、まずブランドに関するステートメント(誰で、何をしていて、どんな価値を提供するか)を決める。次にそれを反映する外観(ファッション)を作り、プロにロゴ、ウェブサイトを作らせ、プロフィール写真などを撮ってもらう。DMやパンフレットも用意する。大抵のひとは素人っぽいウェブサイトを持っているので、グラフィックに工夫をこらしたウェブのポイントは高いだろう。

さて、ここまで読んでいて「なんだか面倒くさいや」と思わなかっただろうか。僕はちょっとそう思った。結局やっている事は会社がやっていることと同じだ。会社だと入社してすぐに営業にでかければいい。売れなければ「テレビのコマーシャルをちゃんと流してくれていない」せいだから、居酒屋で仲間と愚痴る。大きな会社に勤めていればブランディングは会社がやってくれる。時々名刺を持って同窓会なんかに参加すれば背広の胸のバッチを見て「あの人はあそこに勤めているのだからちゃんとしたヒトに違いない」と思ってもらえる。結局1人でシゴトをやるということは、これを全部独力でこなすということなのだ。この本の上手なところはマーケティングだ。企業向けのCIのノウハウを個人に向けて展開することで自分自身のニッチを確立しているのだ。

次に難しそうだなと感じたのは絞り込みだ。30代マジメにシゴトをやって来たヒトなら複数のシゴトはこなせるようになっているはずなのだ。いつシゴトが入ってくるか分からないのだから網は広めに張っておきたいと考える。ITもできるし、英語も話せますよ。管理もするし現場もこなせます、とついついセールスしてしまう。するとブランドがボケる。他人の記憶に残りにくくなり、逆効果になってしまうということなのだ。分かってはいるのだが、実行するのは難しい。本の中には「いちばんコアになるスキルは隠しておけ」というアドバイスが出てくる。

絞り込みができたとして、次にやりたくなるのは売り込みだ。しかし人間は売り込まれるとひいてしまう。明日の収入があるかどうか分からないのに「押し売りしない」これもまた難しい。

故に、それらの誘惑を乗り越えて、ブランディングを実行しようと思えたら、あとは簡単なのではないだろうかと思える。ステートメントを作り、それを名前が出るウェブサイトに貼付ける。イメージからパーソナルカラーを作り(これは先日書いた通り。色にはそれが与える印象がある)ロゴを作る。パーソナルカラーを想起させるような写真を撮り、Twitterのプロフィールなどに使う。一度提示したら頻繁に変えずに1年などの期間を区切って見直しを行なう。

さて、こうしたプロフィールは「嘘」になってしまうのではないかという疑念がわく。しかしWired Visionの記事を読むとそうとは言い切れないようだ。自分で自分のブランドを作っているわけで、案外自分の性格を反映したものができるだろうと考えられる。逆に、自分を殺して働くのであれば勤め人になった方がマシという考え方もできる。

Facebook上の性格は非常に現実に近く、一般的に、ネット上で初めて出会う場合のほうが、直接顔を合わせるよりも正確に性格を評価できることがこれまでの研究の結果からも言える、とBack氏は主張している。

こうしたブランディングがすぐにシゴトに結びつくということにはならないと思う。やはり地道な活動だ。最初のコアになる領域を決めるまでが大変かもしれない。このコンセプトはフリー以外のヒトにも役に立つのではないかと思われる。会社でも「この分野であれば、あの人に聞け」と思われるヒトになることは大切だろう。会社がスペシャリティを求めずひたすら労働力としての価値しか期待していないのであれば、外部のネットワークを通じてそうした環境を模索すればいい。

昨今の労働に関する議論を見ていると、日本の労働環境はすぐには改善しそうにない。また、重たい企業年金の負担に耐えかねて破綻する会社も出てくるだろう。こうした環境からすぐに多くのパーソナルビジネスが浮上してくることはあり得ないと思うのだが、水面下ではシフトが進むのではないかと思われる。そしてそれが一般的になってはじめて起業の文化が生まれるのだろう。

日本の男性ファッション誌

ファッション雑誌が嫌いだった。もともとオシャレに自信がないというのが根底にあるのだが、見てもよく分からない。最初はどうして分からないのかすら分からなかった。現在「服が売れない」と言われており、出版社も赤字続きなのだという。ということで、どうしたら新しいアプローチができるのか考えてみようと、今年の始めくらいからファッション雑誌を読み始めた。それに加えて、ちょっとオシャレな人と言われたいという密かな野望もある。いちどはそういうシゴトもしてみたい。
何回も繰り返して読んでみたのだが、さっぱり分からなかった。どういうアプローチを取ろうかと思ったのだが、2つ実践してみることにした。

  • 自分で買い物するときの参考書にする。
  • あるものを使って工夫できないか考えてみるなかで、参考書として使う。

すると、ところどころに使えるコンテンツがあるのがわかる。スカーフを使ってひと味加えるとか、色を揃えるとか、そういうのがところどころ混ぜ込まれている。だから、ところどころ読んでゆけばいいわけだ。
しかし、結局日本の雑誌は参考にしなかった。参考になったのはGQとEsquireだ。典型的なコンテンツがこれ。The 12 Styles of American Man。Webではスライド式になっていて、ときどき広告がはさまる。アメリカも出版不況なので、Webの広告が大きな収益源になりつつあるのだろう。10とか12のスタイルの中から、気に入ったスタイルが見つかったら右側にある文章を読む。要点が短くまとまっている。気に入ったのはThe Rake(レーキ)で、熊手の意味だ。要は女ったらしで熊手のように女性をかき集める男性だ。ブレザー、ドレスシャツ(ただし上の3つのボタンは開けておく)、大きな時計が特徴だそうだ。まあ、3,400ドルのスーツは買えないので見るだけだとは思う。
結局、こういうのが記憶に残るのは、ヒトが中心にいるからだ、と思った。それを念頭に入れて日本の雑誌に戻る。すると次から次へと新しいモノに関する情報が流れてくる。結局買い物するとしても選べるのはその内の一つか二つだ。いったい何が見所なのか分からなくなる。モノが中心なので記憶に残らない。これがトータルに組み合わせられることによって全体のスタイルが生まれるのだが、部品が散乱したカタログ雑誌みたいになっているのが、日本の現状なのだ。記憶に残るのはパーツではなく、全体の印象だ。所詮、買わせるための雑誌だからなのだという見方もできるのだが、通販サイトはもっと親切になっている。掲載されている情報が売れ行きに直接関わるのだから、雑誌よりも「選ぶのに役に立つ情報」だけが生き残って来た結果なのだろう。
どうしてこういう事になったのか、というのは一応説明ができる。多分、記事の大半がタイアップになっているのだろう。広告主の関心はその服をどう売るかであって、読者がどういうスタイルを持つかということではない。だからでき上がる記事はカタログのようになる。それに「最近服の売り上げは落ちている」という情報が入る。だから「思い切って浪費するのが大人買いなのだ」という特集記事まである。ちょっと共感しかねる。作り手の都合で、記事がつぎはぎされて、最終的に一貫性のない雑誌ができ上がる。それでも売れる雑誌は20万部以上出ているというのだからすごいものだ。
でも、もう一歩踏み込んで考えるとちょっと分からなくなる。それにしても日本人が徹底的に「人間」に関心を向けないのはどうしてなのだろう?アメリカ流のスタイルガイドは、読み手がいろいろなスタイルを持っているのだということを前提にしている。人種的なばらつき、職業、生き方などがあるので「これが正しい」というスタイルはない。日本の雑誌で、同じようなモデルが、同じような服を着ているのとは対照的だ。これは「日本人にスタイルがない」ということなのだろうか。
もう一つは、GQもEsquireもファッション雑誌ではないということだ。男性誌という枠組みで、Esquireにはヌードも出てくる。極端な話をすると、週刊文春や週刊新潮に本格的なファッション情報が出ているのと同じことだ。生活情報の中にファッションが組み込まれているということのようだ。だからこうした雑誌がファッションだけを延々と特集するということはあり得ない。普通のビジネスマンにとってもどう見られるかということは大切な知識の一つなのだろう。
よい風に考えると、日本人はとりわけファッションに関心が高く、ファッションだけに興味を持つ人たちが多かったのだというようにも解釈できる。どのような仕組みでこうした枠組みが維持されていたのかはよく分からない。しかしこれが崩れてしまうと、そこそこの価格で、とりあえずみんなと同じような、こぎれいな格好をしていれば安心という社会ができ上がる。
今日は取り立てて結論のようなものはない。最後に情報アーキテクチャ的な論点からこれを整理してみたい。こうした日本の雑誌の情報はある程度整理することができる。例えば、覚えていられる情報の量は限られているので、読者を調査して全体が把握できる情報量を精査する事は可能だ。また、分類方法を工夫することで、初心者向け情報と中級者向け情報を分かりやすく整理することも可能だろう。するとどこを読んで、どこを読まないかという分類ができるようになり、読者が情報の迷路のなかで迷うことはなくなるだろう。最初にオーバービューを定義して、ディテールに移るという紙面構成もできるようになる。
アメリカの雑誌が読みやすく、日本の雑誌が読みにくいのはこの情報アーキテクチャーが不足しているからだ。ウェブの現場でもそうなのだが、日本のインタラクティブ・デザインのコースでは、情報アーキテクチャについて体系的に教えてくれない。アメリカのコースではインターフェイスデザインは必須項目になっている。しかし、ウェブサイトのデザイナーはこれを勉強せざるを得ない。雑誌と違ってナビゲーションを自分で定義しなければならないからだ。Web情報アーキテクチャ―最適なサイト構築のための論理的アプローチのような本もあるので、これを読んで勉強したヒトも多いだろう。
多分、紙メディアで働く人たち、特に編集プロのような末端にいる人たちはこうした学問があることすら知らないのではないかと思われる。同じように、大学の経済学部あたりを卒業して出版社に入った人たちもこういう勉強をするチャンスはなかったのではないだろうか。
しかし、情報デザインは根本的な問題を解決することはできない。それは「ヒトを中心に情報を組む」か「モノを中心に情報を組むか」とか「ファッションだけで行くか」「総合誌にするか」といったような問題だ。情報整理以前のプロデュースの領域だ。多分、読者に聞いてみても「生活に必要な情報とより快適に過ごす情報が適度に盛り込まれた雑誌」を見た事がないわけだから、こうしたニーズを発見することはできないだろう。
このような一連の問題を整理する事で、今までファッション雑誌が分かりづらいと考えてきた人たちが体系的に買い物ができるような情報を提供することができるようになるはずだ。今持っている専門知識や広告主との関係といったビジネスモデル上の制約が、本来どうあるべきなのかという議論を難しくしているように思われる。

ボウタイと日本が忘れてしまったもの

グロービスの堀さんが、日本は「ものづくり神話」を捨てて「経営力」を磨けと主張している。いっけんまともな意見に見えるが、僕はこれには反対だ。「ものづくり神話」を闇雲に否定しても、経営力は磨けないだろうと思う。そもそも、ものづくりのどのあたりが神話だったのか、日本の経営者や現場の人たちは言語化して説明できるだろうか?
さて、15年程まえにアメリカでボウタイを買った。しかし、それを使うことはついになかった。理由は簡単でボウタイの結び方が分からないからだ。今年になって、ありものを組み合わせて着るというテーマのブログをはじめたので、ボウタイの結び方を練習することにした。いろいろサイトを調べてみた。ダイヤグラムを見ても、ビデオを見ても最後の部分がよく分からない。ビデオを観察すると、うらでこちょこちょっと何かをしているようなのである。結局、ダンヒルのサイトで見つけた「ボウタイは誰にでも結べます。靴ひもと同じやり方だからです」というのがヒントになって謎は氷解した。ボウタイは単なる蝶結びなのだ。ふとももに巻いてやったらすんなりとできた。どうやら右手の中指がフックになっているらしい。しかし首に巻いてもできない。鏡を凝視すること5分。で、疲れ果ててテレビをみながらやったら、すんなりとできてしまった。「あれ、どうやったの?」僕は未だにボウタイの結び方を説明することができない。でも、ボウタイは結べる。体が先に覚えてしまっていたのだ。
これについて後日考えてみた。つまり、できるけどどうやってできるかが分からないということが世の中には存在するのだということだ。一応出来ているのだから問題ないじゃないかと思った。本当に問題がないのか。これを考えるヒントは「ナレッジマネジメント」の中にある。
知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代 (ちくま新書)でなくてもいいのだが、野中郁次郎さんの話を読むと、暗黙知という概念が出てくる。これは言葉にあらわせない知識全般をさす。これが学問の一領域として認知されたのは、日本の製造業がその頃アメリカを脅かしていたからだ。「どうにかして日本に学びたい」とアメリカ人は必死でその神秘を探ろうとした。それが暗黙知だった。日本人は逆に暗黙知を形式化する必要があるとも指摘された。
説明ができなくても困ることはない。これが問題になるのは、それを学ばせる必要が出て来たときだ。師匠に当たる人は説明できないので「馬鹿野郎、技術は盗んで覚えるもんだ」という。弟子も一生そのシゴトをやってゆくしかないわけだから、下仕事をしながら必死で師匠を盗もうとするわけである。15年経ったある日、師匠は弟子にそのシゴトをやらせてみる。するとだいたいのことは分かっているので、あとは簡単な手ほどきだけで知識の伝達が終わるのである。これが暗黙知の教え方なのだ。
これができなくなるのはどのような時だろうか。考えてみるまでもない。ここ20年くらいで日本に起こったことを想起してみればいい。

  • 熟練労働者が派遣労働者に切り替わる。盗もうとしている間に、労働者が入れ替わってしまう。盗ませる側もいつのまにか引退する。
  • IT化が進み、見ても盗めなくなる。(笑い話みたいだが、これは結構大きいと思いますよ)
  • 技術の入れ替わりが激しくなり、一生をかけて一つのシゴトをするということができなくなる。

トヨタの場合には、もう一つ問題があったようだ。それは急な成長にともなって現地の会社にこうした暗黙の前提が伝わらなかった、もしくは最初から理解されていなかったのではないかということだ。日本人にとって当たり前のことが、外国でも当たり前とはいえない。日本人が暗黙知として理解していたものを、形式化して覚え込んでいただけなのかもしれない。こうしたことは、これから先、各地のビジネススクールで研究されるようになるだろう。新しいケーススタディの誕生である。
さて、日本人はマクドナルドやディズニーランド型のマニュアル運営をとても嫌う。職人シゴトが一生ものなのに対して、マニュアルを見ればできるアルバイトシゴトは「腰掛け」だからだ。確かにマニュアル化すると細かいニュアンスが失われる。最初のボウタイの例に戻ると、素材や襟の形にあわせて微妙な結び目を作る技はマニュアルには載せられない。日本には誰にでもできるようにすることを蔑視する土壌がある。もともと終身雇用で長く勤めている人がエライのは、それだけ暗黙知をたくさん蓄積しているか、シゴト上のネットワークをたくさん持っているからである。
しかし、経営者がこうした職人芸に頼るようになると何が起こるだろうか。1990年代、バブル景気のころ「工場のヒト」が優れた製品をつくるのは当たり前のことで、そんなことはスキルだとさえ見なされなかった。「本社のヒト」は、だからこそリストラのようなことができたわけだ。コアの人材さえ残しておけばスキルは残るだろうと思ったのかもしれないし、もともと何が起こるかということを考える余裕すらなかったのかもしれない。
グロービス堀義人さんのブログにもどる。経営学には「製造業=擦り合わせ」という暗黙の了解があるようで、まずこれが物事の理解をややこしくしていると思う。しかし、一方で製造業の現場が、モノ作り=品質だと考えているのが問題であることも確かだ。またボウタイの例に戻るが、暗黙知に基づいた経営での強みは「ごちゃごちゃいわなくても、一定の品質を持ったものが、すらすら作れる」つまりスピードだからである。からなずしも高品質がウリではないのだ。
堀さんは経営力を「経営力」とは、何か。それは、必要な改革を行い、「戦略」を描き、「実行」する力だと考えるとわかりやすいと定義している。しかしここには一つ大きな問題がある。それは現時点が問題だというためには、私たちの強みがかつて何であって、何が変わったのかという分析が欠かせないのだ。
もし、日本の会社が内向きになっているのであれば、もうそれを徹底的に活かしてみてはと思う。自分たちのことを知っていれば、何か起こったときにうろたえることはない。「本社のヒト」はもう「工場のヒト」が何をしているのか分からなくなっているのではないかと思う。だから、これ以上動かすことはできないのだろう。これが自信のなさにつながる。自信のなさが自己否定につながるわけだ。かつてはバカにしていた「韓国企業」に追い抜かれるのを見ると、もう内心は穏やかではいられない。
変革管理において、関係各者が自信を持つのはとても大切なことだ。競合を横目に「どうしてウチはあそこみたいにできないのかね」という社長は尊敬されない。「お前やってみろよ」と言われるだけである。
もし毎日靴ひもを結べていたのに、それがある日突然結べなくなったらどう思うだろうか、ということを想像してみればいい。かなりの自信喪失につながるはずだ。よく分からないままにマジックテープの靴に変えても「かつてはオシャレなひも靴だった」と嘆くことになるだろう。歩いていても楽しくない。
難しい言葉を使うと、今あるリソースを分析するところからはじめよということになる。多分、結構正しく認識されていないのではないかと思う。出来ているのに認識されていないということがあるはずがないと思うかもしれないが、実はそういうことは頻繁に起こりうるのだ。

社会脳

よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。

オンラインメディアに関する捕捉

バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。

色の好みを知ってクライアントを攻略する

フェイバー・ビレンは、色についての研究を進めるうちに、色と性格には関係があるのではないかと思い始めた。12色の色紙を好きな順に並べさせて、好き色と嫌い色を見つけさせる。それを「性格」と結びつけようというのだ。

この人がこういう研究をしたのは、色が占いやオーラの色といったようなスピリチュアルなものと結びつけられがちだからだ。もっと「科学的な」やりかたはないかと考え、このテストを探求したのだった。しかし一方で、1950年代の研究なので今の心理学と異なっているのも確かだ。

また、当時のアメリカの価値観を反映していることには注意をしなければならないだろうと思われる。

このテストいろいろな応用方法があると思うのだが、ここではクライアントと話をしているWebデザイナーが、どのような色を提案すればいちばん手戻しが少ないかという視点で説明して行きたいと思う。お客さんの中にはどういう色を選んでいいかわからない癖に、デザインを仕上げてゆくと「これ違うんだよね」というヒトが少なくない。それを見ていちいちむかついたりするわけだが、やはりお客さんのいうことなので聞かないわけにはいかない。ただ、なんちゃって理論なので失敗しても当局は一切責任を負わない。成功を祈る。

人間が好む色の傾向はたいてい決まっているそうだ。それは赤、青、黄色という原色だ。その中でも人気が高いのが赤。だから赤か青を選んでおけば当たる可能性が高い。情熱と興奮をあらわす。外向的な性格のヒトは赤を選ぶ可能性が高いという。そして、喜怒哀楽が激しいヒトは赤が好きな可能性が高い。なかにはおとなしいのだが、こういった外向的な性格に憧れる人たちがいる。そういうヒトも赤を好む可能性がある。

現に赤は欲求と関係のあるところで多く使われている。例えばマクドナルドは赤を使っている。食欲の赤だ。

一方、冷静に見られたい、理知的になりたいというヒトも青を選ぶ。なのでビジネスシーンではよく使われる色だ。アメリカの金融機関を見ると、スーツの青よりも、若干薄めな青が選ばれている。すこし若々しい感じを出したいのかもしれない。こうした輝度や彩度の違いはビレンの本には出てこないし、50年代にはこうした嗜好はなかったのかもしれない。

黄色

企画力があり、いろいろなことを知っている。しかし実行段階になるといろいろな調整はめんどくさいと思うタイプ。ビレンの黄色の項目を読んでいるとそんな人物像が浮かんでくる。黄色をメインに使うことはあまりないだろうと思うが、刺し色に使うことはあるかもしれない。企画会社とかで提案してみてはどうだろう。

オレンジ

ビレンはオレンジが好きなヒトは精神的な欠点がないといっている。オレンジのあるヒトには社交性があるのだという。IT企業でオレンジを使うところって結構あるような気がする。みんなと仲良くやってゆきたいタイプ。ビレンはアイルランド人と結びつけている。

安定を求めるタイプ。今の状態に甘んじたいという気持ちもあるのだそうだ。アメリカ人がいちばん好きな色だと書いてあるので、昔のアメリカにはそういう気質があったのかもしれない。今「エコ」がキーワードなので、緑は受け入れやすい色になっているかもしれない。緑が好きな人たちは変化を嫌う。

青緑

ビレンによればヒトは原色を好むのだという。青緑が好きな人は、後天的にこういう色が好きになったことを意味しているのだと彼は考えた。こだわりとナルシシズム。実際には増えてますよね、こういう色。単純な青で「ちょっと違うんだよね」と言われた場合にはつかえるかもしれない。

紫には神秘的、哲学者、芸術家といった、実務的な要素とはかけ離れた傾向がある。これがラベンダー色くらいに転ぶと家で悠々自適の生活をする主婦が好むような色合いになるそうだ。いずれにせよ難しい色には違いがないように思われる。

茶色

堅実派。しかし肛門期的な性格を示唆しているともいう。親に厳しく躾けられると、茶色で汚く絵を塗りつぶす子どもがいるそうだ。このようにビレンの分析には精神的な問題と関係している記述がある。多分この頃にはアースカラーという選択肢はなかったに違いない。

ピンク

主婦が好きな色。安穏な暮らしをしている。大人がこの色を好む時には純粋さを失いたくないという気持ちがあるという。例えば赤ちゃん本舗はピンクでした。

白が好きな人は純粋でいいヒトではないかと思ったのだが、ビレンは「わざわざ色が使えるのに白を選ぶのは怪しい」と考えている。自分の気持ちに正直でない、隠したいという気持ちを感じ取っているのだ。マックス・ピスターのカラーピラミッドの研究によると、統合失調症のヒトが作るカラーピラミッドには75%以上の確率で白が出てくるということだ。健康な人たちは赤、黄色、青を選ぶ傾向がある。

しかし、一方で白で構成されたサイトは写真で構成されるコンテンツを邪魔しない。何が来るか分からないところでは白は有効な選択肢になりそうに思える。

灰色

隠れて平安を求めたい色だとビレンは言っている。このモノトーン系、よくアルマーニでは使われる色合いだ。色を使っても彩度が低い傾向にある。多分ウェブサイトで灰色を前面に押し出すということはないと思うのだが、洋服などではよく使われる。別のところに興味深い記述がある。人間は最初色に反応を示す。鮮やかな色であればなんでも好きなのだ。やがてその傾向は崩れ始め、形への興味へと変わってゆく。大人になっても色に執着を持つ人たちには何か問題があるに違いないという。

アルマーニはシルエットで見せる服だ。これが大人の洗練を演出するのだろう。逆にモノトーンを使うということは形やプロポーションに対して関心を払わなければならないということになるように思える。

黒が好きな人には世間を呪いたいという気持ちがあるのだとビレンは言う。しかし一方で、都会的で洗練されたヒトも黒を好む。こういう色が好きになるのは後天的なものではないかというのだ。ビジネス指向。濃紺のスーツがどんどん暗くなると、どんどん黒に近づいてゆく。別の本によると、黒の人気は年々高まっているのだそうだ。これが隠遁したい気持ちを現しているのか、どんどん洗練されてきているのかは分からない。

例えば、Appleは年々使う色が少なくなって来ている。今では黒とメタリックなシルバーそして白が使われる。一方、画面の中では青や紫といった色が使われている。一方マイクロソフトは安心感を現す青を使っている。

まとめ

多分、デザイナーの人たちは既に分かっているはずだが、こうした色の中から同系統のものを使うと統一感がでる。ユーザーはコンテンツや中身に集中することができるだろう。一方、違った色を使うと「注意を喚起する」ために使われる。好きな色を聞くために「どんなウェブサイトが好きか」を聞いたりすることがあるが、意外と言葉では説明できない理由でそのサイトの色合いに引きつけられていることがあるのかもしれない。
色の研究は今では脳波を調べたり、カメラで行動を観察しながらユーザーのリアクションを取ったりというところまで進んでいる。しかし、普通のデザイナーがいちいちこのようなリサーチを行なう事はできない。ビレンの研究は初歩的なものではあるがいろいろなヒントを含んでいるように思える。