写真から色を取って洋服のデザインに活かす

20140101一度やってみたかったのだが、意外と簡単にできたので、発表してみる。写真からカラーパレットを抜き出して、Illustratorで使える人形に色をつけるプログラムだ。

まずは、Illustratorなどで人形を作り、それをSVGにして出力する。SVGファイルは直線だけで作る必要がある。

次に、写真を読み込んでパレットを出力するプログラムを使って、パレットを抽出する。使い方は簡単で、イメージのURLを読み込むだけだ。PHPとGDライブラリが必要。

さらに、jQueryを使って、パレットをドラッグ可能にする。ドロップできる箱を準備して、そこにチップをドロップするとSVGのクラスの属性が変わるようにする。

今度はPinterestなどを使って、きれいな画像を集める。この画像を読み込むと、中で使われている色から上位25が抽出される。

あとは、好きなように組み合わせて人形に色をつけて行く。

「簡単に使える」とは言っても、ブラウザーの制約を受ける。例えば、jQuery-uiはiPadなどでは動かない。また、SVGをHTMLに読み込めるブラウザーも限られているらしく、手元で試したところではSafariでは動いたが、FirefoxやOperaでは動かなかった。

光がある条件下にある時のパレットが「調和してみえる」という特性があるらしい。また、サラダなど「おいしそう」に見えるものにも調和してみえる特性があるようだ。カラースキームは補色などをつかって説明されるのだが、実際は視覚的な記憶が調和色を作ってみるものと思われる。

図の写真はPinterestで見つけたもの。もともとはアフリカの日暮れだそうだ。このパレットをAfrican Sunsetなどという名前で登録する事もできる。MacintoshにはWebサイトをプリントするようにしてPDFで出力する機能がある。このファイルをIllustratorで開くとパレットを読み込むことができる。

ちなみに、写真には著作権があり、人形のシェイプにも著作権があるはずなので「右から左へデザインが作れて便利ですね」と主張するつもりはない。しかし、美しく見える写真からインスピレーションを受けることは可能なので、学習に使ったり、コラボレーションの一貫として利用するにはよいのではないかと思う。

下記はWikipediaのサラダの写真から抜いたもの。トマトとサラミの赤がきれいだ。

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アーティストと狂気

ある夜、夢を見た。とても怖い夢だ。ただし、夢には形がある。感情に彩られて言葉にできないイメージが抽象化したのだろうと思う。これを形にしたいという欲望がうまれた。粘土なんかがあれば「狂ったように」作業したかもしれない。しかし、そのまま狂ってしまいそうになったので、代わりにぶるぶると震えながらお祈りをすることにした。しばらくすると、時間の感覚というかリズムのようなものが戻ってきた。

一瞬、狂いかけたのだと思う。その後眠れなくなったので、アートについて考えた。まだ、少し狂っていたのかもしれない。

アーティストになる基礎知識 (BT BOOKS)』という本が出ている。本の冒頭では村上隆さんが後進の指導をする様子が紹介されている。すでに、欧米や中国で高い支持を受けている村上さんは、若者に社会性を植え付け、ディテールをつめるように追い込んで行く。そして、できるだけ長くアーティスト活動が続けられるようにと、プロジェクト管理の手法を教えるのだった。さらに、本には留学してアーティストビザを取得する方法などが紹介されている。つまり、アーティストになるためには、海外に留学するのがよいみたいだ。

面白いことに、本の内容がITプログラマーが日本を飛び出して海外で起業するという本にそっくりなのだ。多分、そのような時代的な背景があるのだろう。どちらも「最新の職業」であり、才能によって成功できるかもしれない可能性がある。

ここで、半分おかしくなりながら考察(あるいは妄想)したのは、アートについでだった。村上さんの方式では、テレビや映画などの共通の情報から「オリジナル」を作り出すという方向性で作風を確立しようとしているように見える。これは、古いアートの方向と変わりはない。西洋の画風というものがあり、そこにどうやって到達するかというのが、日本の画壇の最大のテーマだった。今では安定した社会ができていて、多分派閥のようなものもあるのではないかと考えられる。

例えば、狂気から出発した場合、方向性は全く逆になるだろう。狂気は人それぞれのカスタムメイドだ。つまりは、嵐の海で漂流しているようなものである。そこにイメージだけがあり、形になっていない。だから、扱い損ねて、狂ってしまうわけである。それをアートと呼ぶか狂気と呼ぶかは別にして、いったん取り憑かれてしまえば、形にしようと努力していない限りそのイメージの持ち主が精神の平衡を取戻すことはない。そして、同じ狂気を経験したという人に巡り会った時点で、漂流は終るのである。文章で言うところの「投瓶通信」に似ている。多分「オリジナルだ」という喜びはなく、他人と同じであるということを知った時点で安心するのではないかとすら考えられる。

考えついた結論は、どちらも「馬には違いがない」というものだ。西洋芸術を模倣していた時代には、西洋で見た美しい馬を自分でも飼ってみたいというようなものだったのだろう。一方、暴れ馬がいてそれを家畜化したのが、テレビや映画などの大衆芸術だ。そこから、馬を一頭連れ出して、野生に戻して行くのが現在のアートである、という具合である。

100x100しかし、どちらにせよ昔は野生だったわけで、それを飼いならそうとしている人もどこかにいるのではないかと思う。そういう人は、単に「気が変になった」のと考えられて終るのか、それとも飼いならすチャンスを与えられるのかということについては良くわからないし、安定した職業にして継続的にやってゆこうという境地にたどり着けるのかといったこともよく分からない。

自閉症と表情の読み取り

朝日新聞に面白い記事が載っていた。『自閉症、ホルモンを鼻に噴射して改善 東大チーム』

この記事を読んで面白いと思ったのは「経度の自閉症」と呼ばれる、意思疎通に問題を抱える人の症状についてだだ。記事によると彼らは、他人の表情や声色を読み取るのが苦手らしいのだが、その率は健常者の84%もある。これを0.96 X 0.84と計算してよいなら、正解率は8割もあることになる。もちろん「経度の」ということなので、個人差はあるのだろう。それでも「症状として認知される」くらいだから、問題は顕在化しているのだろう。つまり、今の社会で「お互いの表情を読み合う」能力はかなり高くなければならないということになる。

朝日新聞では東京大学の研究を掲載しているが、ネットでは金沢大学の取り組みがヒットした。オキシトシンと自閉症の関連を最初に見つけたのは金沢大学のようだ。金沢大学のページによると、オキシトシンによって表情読み取り以外にも生活の質が向上する事があるらしい。

この記事を読んで別の疑問も生まれた。最近では「自閉症」という言葉への理解が深まり、発見される率も増えてきているのだろう。しかし、例えば戦後すぐにうまれた人たちの中には、こうした「問題」を持ちつつも、自閉症という診断名を持っていない人もいるのではないかと考えられる。アメリカで自閉症が「発見」されたのは1943年の事だそうだ。また、知能が正常程度だがコミュニケーションに問題がある高機能自閉症はそれよりも遅れて認知されたらしい。(Wikipedia

こうした人たちは、他人の言っている言葉の意味が良くわからない。例えば、にやにや笑いながら、親愛の情を示すつもりで「バカだなあ」などと言われたときに、本気で怒り出してしまうということも考えられる。また、愛着が他のひとよりも薄い可能性がある。

男性の場合「男は黙っているべきだ」という価値観があるために、こうした問題は表面化しないだろう。しかし、表面化しないので「あの人は冗談が分からない」とか「家庭での何気ない会話(こうした会話は会話自体にはほとんど意味がない)に混じれない」といった、弊害があっても顕在化しないかもしれない。その弊害といっても経度の場合は、わずか2割程度の微妙な会話が分からないだけなのかもしれないのだ。

女性の場合には別の問題があるだろう。かつては「女であれば子どもさえ生まれれば即座に情愛が湧くはずだ」とされていたわけで、「子どもがカワイイと思えない」(オキシトシン不足なのだから当然なのだが)とか「子どもが自分に愛情を向けているのか分からない」などと言った問題が出てくる可能性がある。つまり「母性に目覚めない」のだが、それを「個人的な問題だ」と感じていた人がいただろうということである。

この記事では「既に自閉症だということが分かっている人」と「オキシトシン」について書かれているのだが、実際には「自閉的な傾向を持つものの、それが生涯発見されなかった人」と親子関係を持っている人が「親だったら当然持っているであろう親密な関係」を築けなかったという可能性も示唆しているのだと思う。

100x100戦後「家」は社会的制度からより親密でプライベートな存在へと変化してきた。このため、プライベートな空間で親密さを築けないことは、重大な問題になりえる。また、社会生活においても「表情を読み合う」必要性が増しており、ちょっとした表情が読めないことが深刻な問題になり得るのだ。

宗教と憲法改正議論

接触できる情報が増えると却ってそれが私達を不安にする。地震の後の原発管理、中国からの大気汚染、さらに、北極の氷も溶けかけていることも我々を不安にさせる。

この「リスク」を解消する役割を期待されているのが政府だ。国民は政治には参加したがらないが、出力は期待する。

そもそも、心の安心・安全ということを考えた場合、政府の役割は限定的なはずだ。そもそも、私達は自分や家族がどこから来てどこに行くのかということを全て知っている訳ではない。これを解決する1つの手段は科学だ。西洋では「神の意志」を研究するところから科学が出発している。もう1つは、内面と対話したり、個人を越えた大きな枠組みについて考えるという行為だ。これは宗教そのものである。つまり、多くの社会では、政府ではなく宗教が「安心・安全」分野をカバーしている。

ところが日本では、個人が特定の宗教について語ることは、ほぼタブーだと見なされている。そもそも国民の多くが無宗教だとされていて知識が少ない。また、集団主義的な傾向があり、従順な人が多い社会なので、宗教の権威に飲み込まれやすい人が多いのも事実だろう。

個人は宗教に飲み込まれやすい。「地下鉄サリン事件」を通して、高学歴の人でも容易に洗脳されてしまうことが分かる。後から考えると寄せ集めにすぎない教義だったが、それでも多くの人が信じたのだった。また「イスラム過激派」という言葉と共に、宗教は怖いものだと考える人も多くいるだろう。

一方、既存宗教側も常に現世的な問題に悩まされている。お寺は家業になっている上に営業活動をするわけにもゆかない。一方で、家族を食べさせなければならないし、後継者問題もある。「非課税だから儲かっているのだろう」という見方もあるかもしれないが、必ずしもそういうお寺ばかりではないだろう。ここで「既存顧客」である檀家に依存しようとすると却って離反されてしまう。一般の人の中には「お寺はお金儲けなどするべきではないのに、いつもお布施の話ばかりしている」と考える人もいるに違いない。宗教と一般の人たちの距離は遠くなるばかりだ。

例えば、いくつもの仕事を掛け持ちし、最低時給で子どもを育てるという離婚した母親について考えてみよう。確かに、この人を救うことで「一生懸命子育てをしている『普通』の母親を差別していることになる」とか「子どもを持たない女性の税金をシングルマザーに使うのは不公平だ」という議論が生まれるだろう。これは、ある個人の選択を別の個人と比べて損得勘定をしている。だが、個人の損得勘定が行き過ぎると、さらに不安が広がるだろう。

「集団への依存」を宗教だと考えたとき、今一番「宗教化」を目指しているのは日本の政治家たちだと言えるだろう。やたらに家族の価値とか国家への忠誠などといった集団を示すキーワードが出てくる。

宗教教育には規範がつきものだが、倫理・道徳教育で国家主義的な思想を広めようと考えている人は多い。特に、老年期にさしかかり「人の人生を越えるもの」を考え始めた時に、こうした規範について考えるのは不自然なこととは言えない。

ところが、日本人には宗教の素養がないので、その時についつい自分が持っている規範やその人自身を「一段高いところ」に祭り上げようとしてしまう。個人の闘争を引き継いでいるので、支配の道具として考えてしまうのかもしれない。一般的には「個人の規範の神格化」だと考えられる。そして自分の持っている知識の範囲内で理論構築をする。だから、ついつい戦時体制への回帰のように見えるのだろう。

このように考えると、自民党が模索している憲法改正は「日本を再び戦争できるような国にする」という大それた目的の為に行われているわけではないかもしれない。つまり「個人がバラバラになってしまった」という認識の元に、自分が持っている知識だけを頼りに、日本の宗教化を目指しているのだ。
ここでは「宗教は悪いものではない」という議論をしているので、特に「宗教化を目指す」という動機が悪いものだと主張しているわけではない。出発点は悪くないかもしれないが、どこかで破綻するのではないかと思う。その場で誰かの上に立ったとしても、それは永続的なものではなく、安心・安全な感覚は得られないからだ。その上、そもそも国家が特定の思想(それを宗教と呼ぶかどうかは別にして)を国民に押し付けることができるのかという議論もあるだろう。

朝日新聞の考える戦争とは何か

「特定秘密保護法」の成立が現実味を帯びるに従って、朝日新聞がヒートアップしている。「今は、新しい戦前だ」という扇情的なフレーズも飛び出した。

民主主義への懐疑は至るところで表面化しつつある。今日現在も、タイとウクライナで「民主的に選ばれた政権」がデモで攻撃されている。国際情勢が流動化するに従って様々なリスクが表面化してきた。東アジアでは中国がアメリカ中心の均衡を打破しようと試みている。

国民は情報を集める事はできるが、それをうまく解釈することができるとは限らない。また、好きな情報だけを取ってくることができるようになると「お気に入り」の情報ソースを持つことになる。

現代はリスクにあふれている。具体的な問題と単なる可能性がごっちゃになった世界だ。

ジャーナリズムの責任は大きい。「漠然としたリスク」をより広い視野で、具体的な問題に落とし込んで行く責任があるだろう。

安倍政権は民主主義を重要視しておらず「支配者気取り」で政治権力を意のままにしたいと考えているようだ。その割には当事者能力が低く、いざとなったらアメリカの意向ばかりを気にする。各方面に様々な約束をしているため収拾がつかなくなっている。コメの問題ではアメリカとJAのどちらの肩を持つのだろう。また、第二次世界大戦当時に先祖たちが受けた扱いを不当だと感じていて、その名誉回復を模索しているだけかもしれない。つまり「世が世なら自分たちは支配者階級だったはずなのに」というわけだ。

戦前の「限定的な民主主義国家」に逆戻りしそうな雰囲気はある。しかし、いくらなんでもこれを「戦争」に結びつけるのは拙速だろう。

第二次世界大戦は政治家と軍人だけが成し遂げた戦争ではなかった。国の情報コントロールがあったことは確かだろうが、新聞社や国民も「成果」を挙げる軍人と戦争を支持した。また、当時の日本は緊密な国際通商の恩恵を受けておらず、世界的に孤立しても「失うもの」が少なかった。さらに、当時は帝国主義の時代であり、現在とは状況が違っている。

ところが、朝日新聞に出てくる識者たちは、懐古的な政治家たちの動きを心配しつつ、あたかも第二次世界大戦に再突入するかのような懸念を抱いているように感じられる。このような「正体が分からない」ものを怖がるのは幽霊を怖がるのに似ている。「だから根拠がない」というのではない。正体が分からないから不安が増幅する。こうした正体の分からない不安は、当座は人々の興味を引きつけるだろうが、やがては「見ないようにしよう」という感情を生む。つまり、疲れてしまうのだ。

朝日新聞は「明日にも戦争が起こる」と言っている人に対して「その戦争はどのようなものなのか」と具体的に説明するように求める必要がある。単に主張を繰り返して怒り出す人は相手にしなくてもよいと思うが、「左側の人たち」は真面目な人も多いので、彼らは考え始めるだろう。具体的なことが分かれば、検証ができるし、あるいは怖くなくなるかもしれない。

「リスク社会」というように、現在は様々な「可能性としての脅威」が情報として直接国民一人ひとりに飛び込んでくる。このため、心配ごとを抱え込もうと思えば、いくらでもネタを見つけることができる。その一方、リスクに怯えていると、実際に現実化しても疲れて対策が取れなくなってしまう。

「リスクに疲れた」国民は、次の選挙でより簡単な解決策にしがみついてしまうかもしれない。これこそが第一次世界大戦後にドイツ国民が犯した間違いだ。つまり漠然とした不安こそが「次の戦争のきっかけ」になる可能性があるのだ。

おせち料理の歴史的変化

ファッションにおける権威と民主主義について考えているうちに、 このプロセスが巡りしたらどうなるのだろうかということが知りたくなった。ファッションを見ていてもよい事例が浮かばないので、考えついたのが「おせち料理」である。

お正月は日本の伝統を感じさせてくれる数少ない機会だ。その伝統がどこから来ているかは分からないが、なんとなく朝廷料理から来ているような印象がある。つまり朝廷料理を基本とした「本物のおせち料理」というものがあるはずで、そこから逸脱した「偽物」もありそうだ。

冷泉家のお正月料理について記した本には次のような記述がある。それによると、ごまめ、カズノコ、タタキゴボウ、黒豆、くわいなどがお膳に載っている。また、塩鯛が1人に1匹付く。さらに、四重の重箱があるが、煮しめ以外には決まり事がない。つまり、おせち料理にとってお重はあまり重要ではないらしい。

聞き書・ふるさとの家庭料理〈20〉日本の正月料理この正月料理を考察している。全国調査によると、うどん・スシ・小皿料理などで、年始客をもてなす地方も多いらしい。重箱(これをお重詰めという)を使うのは名古屋と近畿圏が中心だ。「祝い箸」といって正月の間だけ箸を新しくするのは、京都と大阪でしか観測されない。さらに箸袋に名前を書くのは大阪だけだ。

この本の考察によると、正月料理には、年末の年取り膳、飾りの組重、正月のお膳、雑煮がある。このうち、関東で「おせち」と呼ばれていたのは、組重ではなく正月のお膳だ。今、私達が「おせち料理」と呼んでいる三段や四段のお重のことを、関西では昭和三十年代頃まではお重詰めと言っていたのだそうだ。

現在でも天皇家には正月に来客があり「お膳」が振る舞われる。しかし、その内容は質素なようである。そもそも普段の食事から質素なようで皇室の食卓によると、食べている魚も大衆魚だ。

今見られる豪華なおせち料理は「宮廷の儀式料理がルーツになっている」と主張する人たちも多い。これは、実際に口にする料理(お膳)と神様にお供えする飾り物(食積/重詰め)が混同されているからである。関西では三が日は鯛を食べずに重箱に詰めておく「睨み鯛」という習慣が残っている。この重詰めが、江戸や大坂の料理屋で洗練されて江戸時代には原型になるようなものが完成したとされる。つまり、現在のおせち料理の直系の先祖は料理屋の料理なのである。「皇室が権威だ」と考えるのであれば、豪華な料理は神様にお供えし、自分たちが食べるものは質素なものにしなければならない

では、今のような重箱詰めの「おせち料理」が完成したのはいつなのだろうか。関西でお重詰めが「おせち」と呼ばれるようになった昭和30年代から40年代頃なのだろうか。昭和50年に発行された土井勝の四季の献立 – おもてなしから毎日の献立まで (1977年)に出てくるおせち料理は、重箱料理ではなく大皿料理だ。土井勝はNHKの「今日の料理」に初期から関わっており、NHKが重箱詰めの料理を「おせち料理」として広めたという説も成り立ちそうにない。

となると、残るのはデパートだ。戦後核家族化が進み、テレビで「伝統料理」を学ぶようになり、徐々に本来あった正月料理が忘れられて行く。そして残ったのが、江戸時代の料理屋が枠組みを作り、デパートが継承した「おせち料理」だったというわけである。

100x100今でもおせち料理の本を読むと「おせち料理には決まりはない」と書いてあるものが多い。伝統を重視した場合「おせち」とすら言わず、「正月料理」と書いてある。にもかかわらず、再構成された伝統を見ている私達は、なんとなく正解のようなものを持っていて「中華風のおせち」とかお膳に盛られた「新作おせち」のようなものを見て眉をしかめたりするのである。

扁桃体が生み出すブルーのインク

NHKの『病の起源』は鬱病を特集していた。

鬱病は扁桃体の暴走によって「ストレスホルモン」が過剰に分泌されることによって引きおこされる。この結果、脳が萎縮する。意欲などを司る部位が萎縮すると「体が鉛の鎧を着せられたような」感覚に陥る。このメカニズムは魚などの初期の無脊椎動物にも見られる。もともとは敵に対する防御メカニズムだが、ヒトは孤独や個人的な危機体験に加えて、仲間からの「情報」によっても扁桃体の活動が起こる事が確かめられている。ただし、ヒトには扁桃体の暴走を抑止するメカニズムもある。平等な社会では扁桃体の暴走は抑えられる、また、規則正しい生活や運動によって脳の神経組織が回復することが知られている。また、扁桃体に電流を流す事で暴走を抑止する治療法も考案されている。

前回のエントリーでは「幸せの黄色いインク」について考えた。比較的平等な社会で規則正しい生活を贈ると、ヒトの気持ちが安定するのだということが分かる。また「ブルーのインク」の正体は扁桃体の暴走らしい。外部からの脅威を認識すると「逃走」か「闘争」という選択がある。『病の起源』では逃走について考えていたが、実際には「戦う」という選択肢もあるはずだ。扁桃体が活発に活動すると、筋肉組織に信号が送られる。より発達した動物には「戦う」という選択肢もあるはずだ。サルを使った実験では「コルチゾール」というストレスホルモンの存在が知られているが、『病の起源』はストレスホルモンの名前については触れられていなかった。群れの下位にいるサルはコルチゾールに支配されていて、母親がコルチゾールに支配されると子どもにも伝わる。また「コルチゾール・不妊」で検索するとこの2つには関係があるのだという記述を見つけることができる。

『病の起源』には注意してみなければならない点もある。あのプレゼンテーションを見ると「平等な社会が理想だ」という風に結論づけられると思うのだが、実際には平等な狩猟採集型の社会はマイノリティだ。「理想的」ならば、なぜ平等で狩猟採集型の社会が維持されなかったのかという疑問が湧くだろう。

次に「平等」についても考察が必要なはずである。冒頭にIT企業で営業を担当していた人が鬱病を発症する場面が出てくる。ここから「自分の意志で働く事ができないと、鬱病を発症するリスクが高まる」という統計につながる。とても明確なように見えるが「なぜ、ITの営業職」が「弱者」のポジションにおさまるのかということは語られない。「なぜか」が分からないということは「解決ができない」ということだから、すなわち「ITの営業職には就くな」という結論が導き出されてしまう。

実際には組織に所属する人たちには「それぞれの期待値」があり、それが満たされないと孤独やプレッシャーを感じるのではないかと考えることができる。IT営業の場合には「エサを取ってきたら群れに取り上げられ、さらにプレッシャーが強い任務を与えられる」ということになる。つまり「営業活動はなんらかの罰」に過ぎないのだ。IT営業には「この商談をまとめたら、何かいいことがある」というのがモチベーションになっているはずだから、それが与えられないと苦痛を感じるようになるのだ。企業という組織が、従業員の期待に答えられなくなっているのではないかという可能性があるということになる。期待に対する報酬の多寡が「不平等」である。そして報酬がお金であるとは限らず、集団への帰属欲求のようなものが含まれるのだろう。

「不平等」な対応を受けた人が鬱病を発症するというのは分かりやすいが、彼らを搾取する人たちが同じような不利益を被るかどうかは分からない。『病の起源』の中では、不平等状態では、少ない利益を得た人も、多過ぎる利益を得た人も同じように扁桃体が興奮するということが語られている。ここから「平等な社会の方が良いですよ」という結論が仄めかされる。しかし、実際に搾取している側の人たちが扁桃体を活動させるかどうはか分からない。例えばITの営業職を搾取して獲物を取り上げる経営者たちは「自分たちは優秀なのだから、分け前が多くて当然だ」と考えるであろうからだ。時々、企業経営者がアルバイトに対しても「会社に帰属意識を持つように」とけしかけることがある。アルバイトも「帰属したい」という欲求は持っているだろうが、それは「搾取されつづける自由」を意味しない。つまり、搾取される側にとっては「不平等」でも、搾取する側にとっては「極めて正当」だということがあり得るのである。

今回はインターネットが悪口で満ちあふれ、人の悪口コメントを生産する評論家に需要があるのはどうしてかという疑問を考えている。その答えは「ブルーのインク」にありそうだというのが前回までの結論だった。この問題には「逃走か闘争」という観点があり、両方を考慮しないと結論が出ないようだ。敵の脅威に晒されないところで、相手を攻撃してダメージを与えることができれば「闘争」が成功するのである。これが匿名で相手を攻撃したり、悪口が書かれた雑誌を読んで溜飲を下げるという行為につながっているのではないかと思われる。それがある種の退避的な感覚(他人の問題を見ているときだけ、自分の問題を考えずにすむ)を含むと「逃走と闘争」を両方充足させることができる。

100x100こうした行為は「安価な代替手段」であり、弱い地位に置かれた人たちにとっての最後の頼みの綱だといえるし、それなしでは鬱病を発症するまで追い込まれる人たちも多いのではないかと考えられる。ただし、人間が他人の情報から扁桃体を活性化するということを考え合わせると「安価な代替手段」には大きな副作用がある。フィードバックが無限ループすることになるからだ。

そこからさらに発展させて考えると、ではインターネットで創造性を発揮したい人たちはどうすればよいのかということになる。当座の答えは「安価な代替手段」に巻き込まれるのを意識的に避けて「無限ループ」から抜け出す努力をした上で、お互いの期待値にできるだけ平等に応えるための場を作るべきだということになるだろう。

「幸せ」の黄色いインク

最近「ネットがつまらない」についてよく考える。知らない人と協同したり、問題解決のための議論ができる媒体なのだが、どうも人の悪口や不幸ばかりが盛り上がっているようにすら思える。ついつい、立ち上がり当時の状況を懐かしんだりする。一部の人たちの媒体だった当時のインターネットでは、簡単に珍しい趣味の仲間を捜す事ができたのだ。

こういうときは個人的な経験から考え直してみるに限る。

「人の不幸」や「転落」が面白い理由を2つ思いついた。1つは本人がそれ以上の悩みを抱えている場合だ。この時に他人の幸運を見ても面白くない。頭の中が「ブルーな」モードになっているし、他人の幸せよりもそこに行き着けない自分のことを直視しなければならなくなるからだ。他人の不幸を追いかけている時だけは自分の問題を感じなくてもすむわけである。もう1つは「喜び」などの感情が一切欠乏している場合である。良くわからないが、頭の中から「セロトニン」が抜けてしまったような状態である。この時には、幸せに関する感度が極端に落ちているが、不幸にたいする感度は上がっている。

感情をプリンターに例えると、そのプリンターにはいくつかのインクがある。1つは「心配や不安」で、もう1つは「幸福感」のインクだ。前者を青、後者を赤で例えたい。前者はブルーのインクに支配されている。後者は色そのものが抜けかかっている状態だ。

「他人の不幸」に対する感度が上がっているときというのは、目の前が「ブルー」に見える。心配事に支配されている状態である。これとは違った状態もある。世の中から「色」が抜けたような感覚だ。「ほとんどやる気がしない」ので、膝を抱えてその場に座り込みたいような気分になる。ここまで来ると他人の不幸さえ何の感情も呼ばなくなるだろう。「グレー」と呼んでもよい。だから、やはり「人の不幸に需要があり、それが持続する」という状態はある種の刺激が与えられている状態だといえるだろう。問題は外部からの刺激らしい。それに合わせて頭の中の彩りが変わるのだ。

他人の不幸に需要があるということは、グレーではなくブルーだということだ。どぎつい青の人もいるだろうし、ほとんどグレーでうっすらと青味がかかっている人もいるだろう。つまり、なんとか平常の状態を保っているが、ネガティブな感情に常に支配されているということだ。お金を出してまで人の転落や悪口が読みたいという人が多い社会というのは「ブルー」な社会なのだろう。

こうした状態から脱却するためには「快感」が役に立つ。快感は「グレー」を瞬間的に赤に変える働きがある。その間だけは脳が「ピンク」の状態に変わる。例えば、もう歩きたくないときに「目的地についたらシュークリームを食べよう」などという目的を置くと、その間だけ気分が軽くなる。しばらく砂糖を食べていない時に味わう砂糖の刺激というのは格別なものだ。実際に脳の血流があがり「しびれる」ような感覚すら味わえる。

ところがこの刺激はあまり長く続かない。また、その刺激には中毒性がある。日常的に摂取しつづけると、その内に刺激は効果を失う。また砂糖の取り過ぎは肥満や糖尿病の原因になる。つまり、刺激体験には副作用が存在する。いわば麻薬中毒のような状態だ。

さらに、最初はシュークリームを見ただけで幸せな気分になれるのだが、その内にそれだけでは足りなくなるかもしれない。「絵ばかりを見せられるのに一向に脳内に砂糖が入ってこない」ということを脳が覚えると、快感は発生しなくなり、代わりに怒りが生じる。

反対にブルーのインクからも幸せを感じることができる。つまり「それが避けられた」とか「ある行動を取った(取らなかった)」ので、嫌な思いをしなくてすんだというものである。これが他人の不幸を見て「ああ良かった」と感じる元になっているのではないかと思える。これにも副作用がある。これはやはり刺激性の体験なので、幸せが欠乏してしまうと、さらなる「不幸」を探してしまうのだ。その不幸は前のものよりもどぎついものでなければならない。

こうした「刺激」は人々の感覚をおかしくする。例えば洋服や家電を手に入れるのは「快感系」の体験だ。ところが物があふれると「手に入れる快楽」を得る事ができなくなる。そこで「人よりよいものを得た」というような快楽が欲しくなる。しかし、いつも他人が褒めてくれるとは限らない。そこで行き着いたのが「いつもより安く手に入れる」という体験である。

赤と青は「刺激性」の行動要因であり、刺激はさらに強くなる。この刺激には耐性限界があり、それを越えるとヒトの脳は壊れてしまうようにできているのではないかと思う。

幸せをインクの色で例えてきた。あと残るのは「黄色」である。どちらかといえば「のんびりしてているときに発生するほんわかとした感情」のようなものだ。洋服や家電でいうと「使っているときの満足感」である。

だが、よく考えてみると「どうやったらほんわりとした幸せに包まれる」のかは分からない。それは刺激性でないので「外部刺激的な条件」によって達成できるものではないからだ。また、マーケターは買わせるまでは熱心に活動するが、買ったあとのことは気にしない。もしかしたら「早く壊れるように」「早く破れるように」と願っている可能性すらある。そうしたら次が買ってもらえるからである。

ただ「人がグレーになる」のは、赤や青の刺激を求め過ぎ疲労を起しているような状態だと考えられる。結局「黄色いインク」が欠乏しているのだといえるが、普段からあまり関心を払っているとはいえないのではないだろうか。

100x100ブルーやピンクといった色は外から与えることができる。しかし、その刺激を与えすぎると中毒が起こり、効果が薄くなる。また、思わぬ副作用にも襲われる。一方、黄色いインクは外から与えることはできない。相手を観察して、どうやったら自発的に穏やかで満足した状態になるのかを観察する必要がある。いわば「共感」だ。

ブルーに彩られた社会はこの「共感」が苦手な社会なのではないかと結論づけることができる。

ホットケーキとパンケーキは違うのか

フライパンを使って焼くケーキのことをパンケーキと呼ぶ。パンケーキには、ホットケーキやフラップジャックなどという別名がある。国によってはベーキングパウダーなどの膨張剤が入っていることもあるがこの違いは本質的なものではないらしい。膨張剤が入らないものもあるということは、小麦粉でできたクレープも基本的にはパンケーキの一種だということになる。ガレットは「ソバ粉を使ったフランス風のパンケーキなのだ」という言い方ができる。

とにかく、英語のホットケーキとパンケーキは概ね同じ事を意味するらしい。この英語の記事は「パンケーキとホットケーキは全く同じものを意味している」という前提で始まっており、「にも関わらず、日本では違うものだと認識されている」と言っている。

ホットケーキは「昭和の味」と呼べるようなものだ。厚くて甘い。それは「おやつ」や「子どものお昼ご飯」だとみなされている。格安だがボリュームがある。一方、「平成の味」であるパンケーキは薄い。生地自体にはあまり味がついていない。そして、甘いジャムやクリームなどの他に、サラダなどを乗せて食べることもある。つまり、食事としての要素が入っているのがパンケーキだと見なされているようだ。

いろいろなネットの生地を調べてみると、ホットケーキという言葉が一般的になったのは、森永製菓が出している「ホットケーキミックス」の影響が大きいらしい。発売は昭和32年だ。「粉もの」系は本格的な食事だとは見なされず、お菓子扱いされる事が多い。なぜ、森永がパンケーキを「ホットケーキ」と呼んだのかは不明であるが、東京のデパートの食堂で提供されていたからという情報がある。フライパンのパンと食パンのパンが混同されるのを避けたのかもしれない。もともとホットケーキミックスは「無糖」だったが、砂糖入りのものが出てから普及したというエピソードからも、食事としてではなくお菓子として認知された状況が分かる。

現在森永製菓は砂糖の入っていないパンケーキには、朝食としての価値もあるというマーケティグを行っているらしい。このため「お菓子として食べるのがホットケーキで、朝飯として食べるのがパンケーキだ」という認識もうまれているようだ。

ここから伺えるのは、日本人が持っている「新しいもの好き」という側面と「保守的な」側面であるといえる。東京のデパートでしか食べられない「ハイカラな」食べ物をありがたがる一方、食事には極めて保守的な障壁が存在する。そこで「ポジション」をお菓子にすると無事に導入できる。しかし、今度は「ホットケーキはお菓子」という強い印象が付いてしまった。海外からの「食事系」のパンケーキが受け入れられたのは小麦粉食が当たり前になった世代だ。今度は「食事系のパンケーキ」というマーケティングがなされるのだが、ホットケーキとパンケーキは違うものなのだという印象がうまれるのである。

ホットケーキミックスは小麦粉をさらさらに加工し、そこに膨らみやすい成分と油(多分、さくさくとした感じが出せるのであろう)を加えたものである。だから、実際にはワッフルやドーナツなどの他のお菓子にも応用できる。しかし「ホットケーキの粉」という印象があるために、ドーナツを作ってもらうためには別のマーケティングが必要になる。

「朝飯の保守的なバリア」と言っても、無理矢理に防御しているというわけではないだろう。朝飯というものは自動的に決められるので、わざわざ別のものを試そうという気持ちにはならないのではないかと思われる。一人暮らしでない限り、何かを「変革しよう」と試みても、家族を説得しなければならない。

そこで強いメッセージを使って新しい製品を導入しようという試みがなされる。メッセージが強ければ「そういうことになっている」と言えるので、家族を説得しなくてもすむ。ところがメッセージが強過ぎると却ってそこから脱却するのが難しくなるだろう。しかし、いったん脱却が進むとそこには「未開の可能性」が広がっている。結果的には、マーケティングには大きなチャンスなのだが、なかなか一筋縄ではゆかない。

100x100食べ物の好みが形成されるのは、かなり幼いうちだろう。例えばメープルシロップも「ホットケーキにかけるもの」という認識が残っており、それ以外のもの(例えばヨーグルトの甘味料)などに利用しようとは思えない。干した果物も「レーズン」が一般的だが、干したオレンジなどはなかなか広まらない。レーズンはお菓子の部類に入っているが、実際にはサラダに入れてもおいしい。しかし、サラダは塩味で食べるものという認識があるために、甘いレーズンをサラダに入れると、家族の中に拒否する人が出てくる可能性もある。

このバリアも崩れつつあるようで、パンケーキの流行の次はグラノーラだと言われているそうだ。甘いドライフルーツを朝から食べるという行為も戦後長い時間をかけてようやくバリアを乗り越えつつあることになる。

雑誌のフォントについて考える

さて、ファッション雑誌について考えている。手持ちの雑誌から要素を取り出す。主にモデル写真、アイテム、ヘッダー、記事本文を準備する。その他に特集のロゴを作って「適当に」並べると…

雑誌は作れない。代わりにできるのはシロウトが作ったチラシみたいなものになる。特に難しいのはフォントの選び方だ。パソコンにはたくさんのフォントがインストールされており、何を選んでよいか分からない。

20131014_font日本語のフォントには「明朝体」と「ゴシック体」と呼ばれるものがある。基本になっているのは明朝体である。もともと漢字には秦の時代に完成した隷書体と呼ばれる書体があった。そのあと筆で書かれるようになり、行書・草書と呼ばれる書体ができた。さらに、一文字づつ独立するようになり楷書が成立する。この楷書を単純化したのが明朝体だ。

楷書を木に彫って活字が作る。最初は職人が彫っていたが、やがて線が単純化された。明朝の時代に完成する。このように中国では古くから活字が使われていたことになる。現在の系譜につながる活字は中国で布教していた外国人が長崎に持ち込んだ。1869年のことだ。そのまま「明朝体」として定着する。

マッキントッシュにはヒラギノ明朝と呼ばれる書体が付属している。雑誌向けに縦でも横でも組めるように作られたのだそうだ。すこし「モダン目」な見た目がするらしい。だから、この書体だけを使って雑誌を作る事ができる。一口に明朝体と言っても、その見た目はかなり進化している。プロとスタンダードという2つのセットがある。プロがプロフェッショナル用というわけではなく、文字の数の違いだそうである。だから、日本語の場合「ヒラギノ系」だけを使っていれば間違いがないのではないかと思える。

日本語の活字はひらがな、カタカナ、漢字まじりになっている。ひらがなはもともと連続して書かれることが前提でデザインされているのでコンピュータでそのまま使うとバランスが悪くなる。このためデザイナは一文字づつ調整するか(デザインの世界ではこれが正当とされている)すべてツメてしまう。これをそのまま放置すると「シロウトのチラシっぽい」印象がうまれる。ヒラギノは、ツメなくてもそれなりの印象になるようにデザインされているとのことだが、見出しに使う場合には調整する人が多い。明確なルールはなく「長年デザイナーをやっているが、どう調整するのかいつも悩む」という人もいる。

デザインの学校では、「本文は明朝体でタイトルはゴシック体」と教わる。もともと欧文フォントにはサンセリフしかなかった。まずはGaramondのようなオールドフェイスと呼ばれる書体がうまれる。その後印刷技術が発展し、トランジショナルと呼ばれるフォントが発展した。Baskervilleなどが有名だ。そして、装飾性が高いモダンと呼ばれる字体が作られた。DidotやBodoniなどが知られている。モダンフォントはファッション雑誌などでよく使われている。ArmaniやVogueなどはDidotだ。

そのうちインパクトがあるエジプシャンと呼ばれる字体が作られた。さらにそこからヒゲ(これをセリフと呼ぶ)が除かれてサンセリフと呼ばれる書体が作られた。これがアメリカ合衆国でゴシックやグロテスクなどと呼ばれた。日本ではこの呼び方が定着し、欧文フォントのサンセリフに対応する「ゴシック体」と呼ばれるフォントができた。つまり、ゴシック体はもともと東洋系の字体にはなかったことになる。

学校通りの「本文は明朝体でヘッダーにのみゴシック体」を使うというやり方は中高年が読む週刊誌以外では見られなくなっている。新聞系のAERAでは明朝体の太いものを見出しに使ったりしているが、ファッション雑誌の中には明朝体が絶滅しているものもある。

フォントやタイポグラフィーの本を読むと、ゴシック体を毛嫌いする人たちも多いらしい。なんとなく「叫んでいる」感じがするのだという。もともと、線が細い明朝体と比較して、太い線が使われていたからだ。しかし、それがマーケティングで多用されるようになる。新しい感じがしたからではないかと思われる。また、携帯端末では識字性を考慮してゴシック体が使われるので、ゴシック体こそが日本語フォントの基本なのだと感じる人たちがあらわれても不思議ではない。書文字からも筆跡が消えていて丸文字と呼ばれている。一方、活字であるはずの明朝体も書文字のお手本になっている。このように、口語だけでなく、書文字も徐々に変化しているのだ。

実際に雑誌を見ると「細い線のゴシック体」に「太い線(ウェイトが太いと言う)の明朝体」という組み合わせも見られる。ちょっとした混乱状態である。チラシや店頭のポップなどを見ると、さらに混乱していて多様なフォントが使われていることが分かる。DTPが発達しているので特に意識しなくても多様なフォントが使えるようになっているからではないかと思われる。

20131014_chap古い書体である隷書体は「伝統的で東洋的」なニオイがするらしい。活字に起されて牛丼店のチャプチェ牛丼ののぼりに使われていた。

しかし、こうした様々な印刷物を観察したあとで、中高年向けの雑誌を読むと「とても退屈な」気持ちになる。英語版のVogueにもセリフやサンセリフのフォントが混在している。教科書的な使い方をふまえた上で時々冒険しないと退屈な紙面になってしまうのだろう。ただし、やりすぎるとアマチュアがつくったチラシみたいなものができてしまう。なかなかバランスが難しいところではある。