安倍君と麻生君の例え話

安倍首相が自民党のネットテレビで次のような例え話をした。集団的自衛権について説明したものと思われる。

安倍君(日本)と麻生君(アメリカ)が夜道を歩いている。そこで不良に絡まれた。一緒にいるのだから、麻生君がやられたら、一緒に反撃するのが当たり前だ。

いっけん当然のような例え話なのだが、いろいろ突っ込みどころがある。

もし、安倍君と麻生君がいつも通る道で不良に絡まれたなら、あるいは安倍首相の言い分も通るかもしれない。ところが、よく話を聞いてみると、麻生君はパトロールと称してわざわざ危ない街に遠征している。いままで安倍君はお母さんの言う事を聞いて麻生君のパトロールに付き合わなかったのだ。だが、麻生君の「お前は付き合いが悪いなあ」という言葉がプレッシャーになり、一緒に危ない場所に行く事にしたやさき、喧嘩に巻き込まれたのだった。

次に安倍君の過去が判明する。昔、麻生君と派手な大喧嘩をして負けた経験があったのだ。そこで、麻生君から武器を取り上げられ「もう二度と喧嘩はしない」と約束させられた。そればかりか、道を歩く時にはいつも麻生君が付き添うことになった。「ひとりで大丈夫だもん」と言ってみたものの、麻生君はついてくる。それどころか、なぜか麻生君は安倍君の家に間借りしている。もう喧嘩したのは大昔の話なのだが、なぜか今でも麻生君が付き添っているのである。安倍君はうすうす「不良に絡まれても助けてくれないかもなあ」と思っているのだが、麻生君はなぜか付き添いを止めない。

麻生君は近所で一番強い。だから、いろいろな街でたくさんのやっかいごとに巻き込まれている。ところが、安倍君は麻生君との喧嘩に負けて、麻生君と付き合ううちに、強い麻生君に複雑な憧れを持つようになった。最近は、麻生君とつるんでいると、なんだか自分も強くなったような気がしているのだ。その上、昔喧嘩をして痛い思いをしたことも忘れてしまった。

第一の例えから分かる教訓は簡単だ。危ない場所に出かけていってはいけない。特に「喧嘩はしない」と誓ったのだからなおさらである。

次の話から分かるのは、麻生君は人が良いから守ってくれているわけではないということだ。アメリカが日米安保を維持しているのは「アメリカがめちゃくちゃ気前が良いから」ではないはずで、アメリカなりにメリットがあっての行動だと見るのが自然である。

ここからは、個人主義社会と集団主義社会の違いも見えてくる。日本人は「守ってもらっているから、こっちもなにかしないと悪い」と思いがちだ。義理とか恩といった感情である。ところが、個人主義のアメリカ人が同じ感情を共有しているかどうかは分からない。個人主義の観点からみると「麻生君が安倍君と行動するのはあくまでも麻生君の意思」なのである。

さて、最後の例え話は今まで議論されていない点である。安倍君は、しばらく喧嘩をしていないのに、麻生君と一緒にいるうちに「俺はめちゃくちゃ強いのかも」と勘違いしてしまった状態だ。この状態の安倍君が近所の友達に喧嘩をふっかけたらどうなるだろうか。実はこれは麻生君から見ても、近所の友達(ここでは不良と表現されているのだが)から見ても好ましい状態ではないだろう。

安倍君が今どんな気持ちでいるのかは分からないのだが、もし実力以上の有能感に駆られて、うかうか外に出かけて行けば、ぼこぼこにされてしまうのがオチだろう。

他衛か自衛か – 集団的自衛権を巡る認識のずれ

依然として、国会は集団的自衛権議論で揉めている。一般的に議論が噛み合ないのは根柢に認識のずれがあるからだ。集団的自衛権違憲論の人たちの議論は聞いた。政府が根拠としている砂川判決は「米軍の日本駐留が違憲かどうか」を争った裁判であり、最高裁判所はその判断すら避けている。故に砂川判決は集団的自衛権を容認したことにならないというのだ。

ところが、政府答弁は「砂川判決が根拠になっている」と繰り返すばかりで、その根拠は分からない。首相や防衛大臣の答弁を聞いても分からないのは当然だ。彼らが考えた理論ではなく安倍首相のブレーンの発案だからだ。

ハフィントンポストが元駐タイ大使岡崎久彦さんのインタビュー記事を掲載している。ここに集団的自衛権の話がでてくる。

岡崎 自衛権は集団的と個別的の区別はないんです。最高裁の判決では。それはもう明快なんです。だからいかなる憲法解釈も砂川判決にはかなわない。だって憲法に書いてあるんだもん。みんなね、憲法を尊重するって言っているでしょ。

で、みんな憲法を守るなら、最高裁の通りにしないといけない。

要約すると「そもそも自衛権には集団も個人もない」と言っている。だから面倒なロジックは必要ないということになる。ごちゃごちゃ言うなというわけである。

記事を読むと、岡崎さんの説は勇ましい。そもそも戦争をするかどうかは首相が独断で決めるものであって、誰かがとやかく議論する(岡崎さんは「くだらない議論で手足を拘束されないようにする」と表現する)ような問題ではないと言い切っている。つまりは国会の議論すら否定しているわけだ。

一方、民主党は自民党案に反対するリーフレットの中で、集団的自衛権について「他国の戦争に参加すること」と説明している。リーフレットには説明がないのだが、第二次世界大戦後、集団的自衛権が東西冷戦、ベトナム戦争、アフガン戦争などを正当化するために使われていたことを指しているのだろう。

もし、自民党に議論するつもりがあるのなら、なぜ集団的自衛権が行使できないとされるに至ったかの経緯を調べて、それを覆す努力をすべきだった。一般的にはベトナム戦争への参加を嫌がった佐藤政権が集団的自衛権を行使できないという解釈を行ったと言われている。(日経BP

ところが、議論の元にあるのは「ごちゃごちゃ言わないで、俺に任せろ」というロジックだ。「俺(内閣総理大臣)が大丈夫だと言っているから大丈夫なんだ」と言われても安倍首相に懐疑的な人たちを説得する事はできない。

今回の法案は、岡崎さんのロジックを借りると「戦争権限全権委任法」であるといえる。

少なくとも民主党くらいは「死ぬ気で」反対しても良さそうなものだが、民主党が強気に出ることはないだろう。党内に岡崎さんの「集団的自衛権合憲論」に賛成する議員を抱えているからである。長島昭久議員はツイッターで、岡崎さんの理論を「パワフルな正論」と賞賛している。まともに安全保障の議論をすると民主党は分裂してしまうだろう。

Forced to Work

「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録を巡って韓国からクレームがついた。関連遺産群のいくつかで強制労働があったことを理由に遺産登録反対を訴えたのだ。当初日本が韓国の主張を全面的に退けたため、韓国は国際的なロビー活動を繰り広げた。その後、国際世論に押された形となった日本は徴用工がいたことを認めざるをえなくなった。外交的な駆け引きの後、日本は「Force to work」(労働を強制した)という表現で、実質的に徴用の事実を認めた。また、情報センターを作って包括的な歴史を後世に伝える努力をすると約束した。

この件に関して、両国政府は自国に都合の良い解釈を行った。岸田外務大臣は国内向けに「これは強制労働(forced labor)を意味するものではない」と説明した。一方、韓国側は「日本は歴史上はじめて強制があったことを認めた」と自国の外交的勝利を宣伝した。

このニュースにツイッター上では落胆の声が広がった。国内メディアを見る限り「韓国側が理不尽に反対しつづけたが、日本政府は強制労働について認めなかった」としか捉えられないのだが、韓国側メディアの「外交的な勝利だ」「日本が強制性を認めた」という主張も同時に入ってくる。韓国で賠償訴訟が起こることを心配する声もある。

外交的には日本の失点といえる。そのため、ツイッター上には「岸田外務大臣は辞任すべきだ」と主張する人もいる。

自民党の支持層の中には、日韓関係について勝ち負けにこだわる人たちがいる。どれくらいの人数がいるかは分からないが、少なくともネット上の存在感は大きいように見える。従って、彼らを落胆させると安倍首相の支持率が若干下がるかもしれない。しかしながら、今回の一件が支持率を大きく下げることはないだろう。この層は政治に強い関心を持っているが、横の連係や周囲への影響力は強くないように思えるからだ。文句が出たとしても一過性のものに終ってしまうのではないかと予想される。

興味深いことに、人権に敏感そうなリベラルな人たちから「朝鮮人に対する非人道的な扱いに抗議すべきだ」という意見は全く聞かれなかった。単にネット上に存在感がないのかもしれないし、自分の身の回りの問題にしか興味がないのかもしれない。

世界遺産は単なる観光名所として捉えられがちだが、負の側面を持つものもある。当然といえば当然なのだが、今回の一件はそのことを改めて思い起こさせることになった。今回の遺産はそのはじめてのケースのように思えるのだが、実際には前例がある。それが原爆ドームだ。

広島市議会が原爆ドームを世界遺産に登録するように請願した際、日本政府はアメリカ・中国・韓国の反対を怖れて登録に消極的な姿勢を示した。その後、日本政府の承認は得られたものの、アメリカは歴史認識の違いを理由に反発した。被害国の日本人は原爆投下を非人道的な行為だと認識するが、アメリカでは第二次世界大戦を終らせた肯定的な行為だと認識しているからだ。この他、中国は最後まで反対し採決を棄権した。

このことから、世界遺産登録の現場に政治的な意図が持ち込まれるのは今回がはじめてではない事がわかる。

ジュネーブ条約と自衛隊

ツイッター上で岸田外務大臣のジュネーブ条約についての答弁が話題になっている。

岸田文雄外相は1日の衆院平和安全法制特別委員会で、海外で外国軍を後方支援する自衛隊員が拘束されたケースについて、「後方支援は武力行使に当たらない範囲で行われる。自衛隊員は紛争当事国の戦闘員ではないので、ジュネーブ条約上の『捕虜』となることはない」と述べ、抑留国に対し捕虜の人道的待遇を義務付けた同条約は適用されないとの見解を示した。

ただ、拘束された隊員の身柄に関しては「国際人道法の原則と精神に従って取り扱われるべきだ」と語った。辻元清美氏(民主)への答弁。

「自衛隊員は戦闘行為に参加しないので、戦闘員として扱われない」「故に、ジュネーブ条約上の捕虜としての扱いが受けられない」という解釈なのだそうだ。そもそも敵に捕まる想定になっていないので、もし仮に捕まった場合、日本政府は自衛隊員を捕虜として扱うように、相手国に対して要望できない。だから、捕まった自衛隊員は見殺しにされてしまうかもしれない。

ただし、ツイッター上には異論もある。国際的には後方支援という概念はなく「兵站」と呼ばれる。兵站は戦闘行為なので、故に自衛隊は戦闘員として扱われるという説である。

自衛隊非戦闘員説の危険性は明白だ。第一に想定外の出来事が起きた時、自衛隊員の身の安全が確保できないかもしれない。

自衛隊戦闘員説にも危険性はある。国内議論では自衛隊は戦争に参加することになっているのだが、国際法ではこうした内輪の議論が通用しない事が明白になってしまう。国内議論の整合性が取れなくなってしまうだろう。

いずれにせよ、岸田外務大臣は自衛隊員が捕虜になる可能性を答弁することはできない。なぜならば、自衛隊が戦闘行為に参加する可能性があることを認めてしまうことになるからだ。そこで知らず知らずのうちに思考に壁を作ってしまうのだ。この思考の外側にあるのが「想定外」という世界だ。だから、私達が見ているのは「安全神話」が作られる現場なのだ。

政府答弁では、自衛隊は武力行使に加担することはないので、従って紛争の当事国にはならないという論が展開される。ただし、これが国際上の合意になるかどうかは分からない。政府が安心しているのは、日本がアメリカなどの先進国連合に追随することが前提になっているからだろう。国際世論を形成する側にいるという安心感があるのかもしれない。これも一つの「想定外」を作り出している。

 

共産党恐怖症

今日ツイッターで面白いつぶやきを見つけた。次世代の党の犬伏秀一太田区議員が、渋谷で安保法制に反対するイベントを主催したグループの学生を名指しした上で「彼は共産党の指令で動いている」と主張したのだ。これに名指しされた本人が否定し、ちょっとした騒ぎになった。議員がデマを流布したとしてネット上で非難を受けている。

面白いことに、共産党がなぜいけないのかということは全く説明されていない。にも関わらず、一応悪口として成立している。犬伏さんは「(学生たちは)誤った正義感で参加したようです」と書いている。つまり「共産党に同調する人たちは騙されている」というのが前提になっているのだ。

犬伏議員を批判する人の中には「名誉毀損だ」という人もいるのだが、仮に「共産党の指令」でデモを主導したとしても、犯罪行為に手を染めたわけではない。にも関わらず非難する方もされる方も「共産党はなんとなく悪い」という認識があるようだ。悪の手先や秘密結社といったところだろうか。

一方、維新の党の初鹿明博議員が党から処分を受けそうだという。「罪状」は、安保法制に反対するイベントに参加し、共産党の志位委員長と握手をしたことだという。維新の党では共産党と握手すると処分されてしまうらしい。本人のブログによると、支持者や同僚議員から非難を受けたらしい。本人は党内を混乱させたと否を認めてしまっている。日本では共産党と握手することは、世間を騒がす罪に当たるのだ。

この2つの例から、日本人は共産党はなんとなく悪いものだという印象を持っているらしい。ところが「それがなぜ悪いものなのか」というと本人たちにもよく分からないのではないかと思われる。

一般の有権者のレベルで、共産党に拒絶反応を持つのは、あるいは致し方がないことなのかもしれない。支持を広げるのは共産党の責任だ。独自のマーケティング活動を通して拒絶反応を払拭してゆけばよいだろう。

一方、政治家の場合は事情が異なる。民主主義は多様な価値観をすりあわせて解決を図るための仕組みだ。民主主義が単なる多数決でよいのならば、議会も政党も必要がない。単に多数決で全てを決めてしまえばよい。

日本が右傾化しているという議論があるが、この表現には若干の疑問がある。自民党の事情を見ても、この共産党恐怖症を見ても、日本の右派の人たちは、単に多様な意見を許容できなくなっているのではないかと思われる。つまり、民主主義的な手続きに疲れ果てているわけで、その意味では「単に劣化している」と思われても仕方がないのではないだろうか。

自民党の考える表現の自由

自民党の若手議員の勉強会で「意に添わない報道をする新聞社には経済的圧力を加えるべきだ」という発言があり、ちょっとした騒ぎになった。講師の百田さんは「冗談だ」と言っているが、参加した議員の中には「報道機関は百田さんの表現の自由を抑圧している」と真顔でツィートする人もいて、問題の根深さを感じさせる。

菅官房長官は新聞社の取材に対して「報道するのは許された自由だと思う」と述べた。()沖縄タイムス)ちょっと見逃してしまいそうな発言だが、表現の自由は「政府から許されて」得られるものではない。

少なくとも今の憲法下では……

現行憲法は集会、結社および言論、出版その他一切の自由は、これを保障する。ということになっている。(第二十一条一項)

ところが、自民党の発表した憲法案には、言論の自由その他に対して「公益及び公の秩序」を害してはならないという制限がつく。(改正案 第二十一条二項)

もちろん、これだけで「国民の自由を大幅に制限するものだ」とはいえない。具体的に何が「公益および公の秩序を害する」行為になるかは、法律で規定されるはずだ。故に、国会議員が高い見識を持っていて、有権者が適正に政治に関わっている限りにおいては、問題は起きないだろう。

しかしながら、一連の安倍シンパの人たちの「非公式な発言」を聞いていると、自分たちの意に添わない言論に何らかの圧力を加えるべきだという意識を感じる。菅官房長官はさらに「報道の自由というのは誰かに許可されるべきものだ」という認識を持っているようだ。

何もこれは自民党の議員に限った事ではない。2011年の民主党政権下で就任したての松本龍復興相は「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか? 皆さん。絶対書いたらその社は終わりだから」と新聞社を恫喝した。

国会議員になり権力を得るとついついうれしくなって「けしからん言論は潰してしまえ」と言いたくなるというのはよくあるありふれた願望なのではないかと思われる。国会議員と言ってもいろいろな人がいるのだ。

時間をかければ高い見識が得られるかと言えばそうでもないらしい。菅官房長官の「許された自由」というのは、どちらかといえば大日本帝国憲法の発想に似ている。戦前の憲法下では主権は国民にはなく、全ての権利は天皇から臣民に与えられていたものだったのだ。その点では自民党の憲法改正案は戦前への回帰を指向しているといえるだろう。

長い間永田町にいると、自分たちのことを統治者だと考えるようになり、有権者が臣民のように見えるのかもしれないが、それは現行憲法下では間違いだ。だが、彼らの考える「正しい憲法」のもとでは、間違っているのは我々かもしれない。

戦争は平和である。自由は屈従である。無知は力である。

自民党の若手有志が勉強会「文化芸術懇話会」を立ち上げ、ここで講師に呼ばれた百田尚樹氏自民党に批判的な新聞には経済的な圧力が加えられるべきであるという主張をした。これを受けたTwitterのタイムラインは朝から荒れている。「全体主義だ」とか「自民党は極右政党になったのか」という反応が飛び交った。ヒトラーユーゲントとかファシストとかいう言葉も見られる。

この会合は自民党とっては害悪だろう。

自民党が全体主義政党化しているのは間違いがない。一部が勝手に暴走しているわけではなく、党全体が全体主義を指向しているようだ。

全体主義を批判したジョージ・オーウェルの小説『1984年』に有名な一説がある。戦争は平和である。自由は屈従である。無知は力である。というフレーズだ。

安倍自民党は「積極的平和主義」を唱い、戦争は平和であるという主張を掲げている。さらに、アメリカ追従政策を追求し、日本の自立を指向しようと考えている。追従することこそが自由なのである。

安倍首相は国会答弁でよく「敵に手のうちを明かせないから、それは言えない」と主張する。「敵に手のうちを明かせないから言えない」のではなく、安倍さんには決められないし知らさられていないのではないだろうか。それを決めるのはアメリカの軍や政府だ。日本国民に知らせようがないから、分かりやすくもならない。

「無知は力」である。知らないほうが良い事もあるのである。

この一連のロジックに従うと、国民は何も知らせない方がよいことになる。故に、マスコミは自民党に翼賛的な報道をすべきではない。「マスコミは何も知らせないこと」が重要なのだ。自民党にとって幸いなことにテレビからは報道番組が消えつつある。政府が抑圧しているのではない。視聴者はニュース番組であってもお天気やグルメニュースを求めており、政治には興味がない。

興味がないところに、わざわざ興味を引きつけるような「ネタ」を提供する必要はない。周囲や世論に賞賛されていないと自分たちの政策に自信が持てないようでは、全体主義政党の次代を担う自覚が足りないのだと批判されても仕方がない。

この思想を拡張すると、改憲は無意味だ。どっちみち政治に興味のない国民が「判断」できるはずはないのだから、自民党が指導した正しい解釈(ただしそれは場合によって変わりうるが)を持っていればよいだけの話である。解釈が変わったら、その都度過去の教科書を修正して回れば良い。どっちみち最高裁判所は何も判断しないだろう。

さて、ここまで書いて来て大きな疑問が湧いた。全体主義の蔓延の背景には大きな混乱や危機がある。第二次世界大戦下のヨーロッパでは共産主義の台頭や経済の行き詰まりから民主主義では何も決められなくなった。日本では議会への不信感から軍部への期待が高まって行く。人々は複雑さに疲れ果てて、強い指導力を指向することになった。

ところが、現在の日本にはそれほどの危機は認められない。むしろ一番の危機として考えられるのは、増え続ける国債、人口減少、世界一急速に進む高齢化などだろう。非正規雇用が増えて中流層が崩壊してゆくというのも危機的な問題なのかもしれない。例えば、財政が破綻し年金制度が崩壊したりすれば、民主的な政府では何も決められなくなるかもしれない。

だが、これといった危機がないにも関わらず、政治だけが急進化してゆくのである。政治家は一体何と戦っているのだろうか。

安保法制の議論が分からないのは何故か

法律整備の手順がめちゃくちゃ

今回の一連の法律には2つの上位になる体系がある。1つは憲法であり、もう1つは日米安全保障条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」1960年成立)だ。日米安保条約の下位に日米ガイドラインがある。今回はまず、集団的自衛権の行使を否定してきた憲法解釈を閣議決定で変更し(2014年7月1日 ハフィントンポスト)、ガイドラインを改定(日本時間で2015年4月28日日経新聞)し、アメリカ議会で夏までの成立を約束してから(2015年4月29日 外務省)、法律を改正することにした。

そもそも憲法と日米安保に互換性があるかどうか議論のあるところに、法案を無理矢理当てはめた為にパズルを組み合わせたように複雑になった。これが、諸々のそもそも論の大元になっている。法案の背景にある論理が破綻しているという議員もいるし(柿沢未途)、他国の領域で戦闘行為は行わないとした安倍首相とできると答えた中谷防衛相の間に矛盾があるという指摘(田原総一郎)もある。また、集団的自衛権が違憲なのではないかといった議論があり、さらに日米安保条約の守備範囲からの逸脱も見られるのだという意見もある。

全体像が見えない

推進派(自民党の議員や読売新聞・産經新聞)の説によると、今回の法整備の目的は日米安保の更なる強化と平時から有事までのシームレスな対応などらしい。ところがこの説明を聞きながら国会中継などを見ているとつじつまが合わないところが出てくる。自衛隊が協力する相手がアメリカ軍に限定されておらず、オーストラリアやインドなどの名前が挙っている。7月1日の閣議決定(前出派フィントンポスト)を読むと「日米同盟の強化」を唱う一方で「どの国も1国で平和を守ることができない」と言っている。

アメリカ議会での演説を引くと、日米同盟の守備範囲が太平洋からインド洋にかけての広い範囲を自由で、法の支配が貫徹する平和の海にするらしい。

どうやらもっと広い協力体制の構築が念頭にがあるらしい。このような視点からインターネットを見ると、APTO – アジア太平洋条約機構(もちろん現在このような構想はない)とTPP体制について言及している人たちがいる。アメリカが主導して作る経済と軍事の国際的な枠組みだ。ヨーロッパのNATOとEUに該当し、中国の封じ込めを目的にしている。これを国民に説明せずに議論が進んでいるので議論が錯綜している。

APTOもTPPも国家主権の一部放棄につながる。この放棄が正しいかどうかは、枠組みが戦略的に合理的かどうかという問いになる。ところが全体像が見えないために、議論そのものが成り立たない。

この不整合を合理的に説明するために「安倍首相は現状が分かっていない」とか「おじいさま(岸信介)への思いから暴走している」と主張する人もいる。(佐藤優 リテラ

歴史的な経緯

日本の軍備に関する状況は、外的要因の変化が積み重なって、お互いに整合しないままなんとなく成立している。まず、第二次世界大戦後日本が再び地域の脅威にならないように憲法で再軍備が禁止される。その後ソ連と中国が台頭し、朝鮮半島情勢が緊迫したために、アメリカは日本に再軍備を求めた。しかし、吉田茂首相は、自衛隊の基礎になる組織を発足させたものの、憲法第九条を盾に、軍事費を最低限に抑えて経済発展を優先させる政策を取った。これを吉田ドクトリンと呼ぶ。結果的にこうした経緯が積み重なり第九条と自衛隊のねじれた関係が生じた。その後、冷戦が終わり状況が複雑化し、アメリカは日本に応分の負担(リスクと金銭的負担)を求めるようになったが、日米安保条約も憲法もそれに合わせた改訂が行われていない。

日米同盟強化を指向する人たちは、アメリカという極に寄り添っていれば、自動的に日本の安全が守られると推定している。しかし、この期待は裏切られるだろう。リスクの分担と応分の負担が求められているからだ。安倍政権は今回の法改正でリスクが高まることはないといっているか「嘘をついている」か「現状とアメリカの要求を誤認しているか」ということになる。どちらなのかは分からない。

日米安保は日本防衛のために必要な枠組みと説明されている一方で、日本の軍事大国化防止が目的だという見方がある。(ヘンリー・スタックポールの「瓶のふた」発言 日経新聞

こうした諸々の事情から、日本の憲法第九条を巡る議論は硬直化した護憲派と現状を認識していない改憲論者に支配されてきた。全体像が見えないために多くの国民は複雑な議論についてゆけず、無関心なままである。

分からないと何が起こるのか

護憲派(特に憲法第九条の)の現状認識は第二次世界大戦直後から変化していない。このため「現状認識が甘い」ものとみなされ積極的な賛成が得られない。中には、アメリカに反対するということは、対中追従だから反日である、という単純化した議論も見られる。

改憲派と現在の政権担当者は、歴史的に堆積し、お互いに整合性があるかどうかよく分からない体系に無理矢理現状を合わせている為に複雑な説明を強いられている。また、潜在的には「アメリカが押しつけた憲法やアメリカが押しつけた戦争観(東京裁判史観)を脱却すべきだ(自主独立派あるいは修正主義者とも)」という人たちと「現状を甘受し日米安保を堅持すべきだ(対米追従者あるいは現実主義者)」という対立がある。

国民の無関心は政権にとって好都合のように思えるが、政策についての理解が広がらず、従って積極的な賛成が得られない。誰も主体的な判断ができず、結局どっち付かずのうちに状況に流されることになるだろう。国民も政治家も主体的な動きができないので、戦争に巻き込まれるかどうかは運次第ということになるだろう。

バターが足りない

関東のスーパーマーケットの中には売り場からバターが消えた所がある。どうやらバターが足りないらしい。調べてみるとわからない点が多い。

バター不足の直接の原因は生乳の不足だ。生乳が足りなくなると本来バター作りに回すはずだった分が使われる。故に生乳が少なくなれば真っ先になくなるのがバターなのだそうだ。

生乳が不足しているのは、後継者不足が原因で北海道の酪農家が減っているからである。酪農家の減少は酪農の大規模化により補完されているのだが、それでも補いきれなくなっているらしい。また大規模化にも適正レベルがあり、ある程度以上大きくなると「スケールデメリット」が生じるのだという。

これを「酪農の構造的問題」と指摘する人たちがいる。(「バターが不足〜岐路に立つ酪農〜」)構造的問題とは、酪農家の減少、円安によるエサ代や電気代の高騰などが含まれる。後者はいわゆる「アベノミクスの副作用」である。

では、輸入すればよいのではないかと思われるが、バターには高い関税が課せられているのでそのままでは海外からバターが入ってこない。このため農林水産省は2014年度に2回もバターを緊急輸入せざるを得なかった。

バター不足の原因を見ると、自由貿易の問題が含まれることがわかる。自由貿易環境下では、円安が進めば「自動的に」国内の酪農家が淘汰されてしまうはずだが、海外の代替品が流入するのでバターの取引量と価格そのものは適正水準に維持されるはずだ。TPPのような自由貿易協定は「アベノミクスの第三の矢」である「構造改革」「規制の撤廃」に含まれる。

週刊ダイヤモンドによると、バターの値段は乱高下を繰り返しているという。単純に自由化すればよいというものでもないらしい。

お砂糖“真”時代推進協議会

お砂糖“真”時代推進協議会」がCMを流している。古めかしい作りのコマーシャルで「脳の栄養はお砂糖だけ」と主張する。その古めかしさから悪目立ちをしているようで、ネット上のでは違和感を訴える声が少なくない。

お砂糖“真”時代推進協議会に問い合わせたところ「10年以上前のコマーシャルらしいが、詳しい事は分からない」という。日本食料新聞の「お砂糖“新時代”協議会キャンペーン概要決定(1998/05/11)」は8年目のキャンペーンだと書いており、一番古ければ1990年のコマーシャルである可能性がある。

このコマーシャルの違和感の原因は「意図が不明確」な割に頻繁に流されているという点だろう。何か特定の商品を売ろうとしているわけではない。そこで気持ち悪さが残り、解説を求めて検索してしまう。だが、コマーシャルを受けるウェブサイトがあるわけではない。「かゆいのにかけない」みたいな感じである。

調べてみるといろいろな事が分かる。糖尿病患者のように砂糖を控えなければならない人たちや医師が「コマーシャルは有害だ」と指摘している。そもそも、砂糖を取らなくても脂肪分から栄養を作り出して脳に栄養を送ることができるのだそうだ。中にはJAROに訴えた人もいるらしい。その結果、CMには読めそうもないような小さな字で「ケトン体も栄養になり得る」と書かれている。いずれにせよ門外漢には何のことだかさっぱり分からない。

さらに検索すると、ある独立行政法人が菓子ならびに砂糖需要喚起対策についてという文章を出しているのを見つけた。世の中にはお菓子があふれているように思えるのだが、なぜ、さらに需要を喚起する必要があるのかはよく分からない。「お砂糖“真”時代推進協議会」にはお菓子メーカーなども加盟していて、日本人がさらにお菓子を食べるようにキャンペーンをやっているようだ。

こうしたことから「原子力村」のように「お砂糖村」が作られて、税金が投入されているのでは?などと思ったのだが、その点については検索では確認できなかった。砂糖はいわゆる「聖域」の一つで、TPPが成立しても関税がまもられることが決まっている。「コメ・砂糖・麦は関税維持 TPP日米きょう閣僚折衝」によると、砂糖の関税は328%だそうだ。国内のサトウキビや甜菜業者を守る為に関税が設定されているわけで、砂糖は意外にも政治的な作物なのである。故にこのコマーシャルは間接的に「国内生産のお砂糖を使いましょう」と言っていることになる。