憲法9条改憲案 – 巻き込まれ不安と現状維持欲求

選挙期間には政治論戦はお休みになってしまうという奇妙なマスコミ習慣がある。何も書くことがないなあと思いながらテレビを見ていたらテレビ朝日で憲法第9条についてやっていた。木村草太教授が「主眼は集団的自衛権の追認である」という論を出していた。




これについて考えたのだが、集団的自衛権については大した考察は得られなかった。もともと日米安保は集団的自衛の枠組みであり、日本はそれに依存してしまっている。そこで憲法学者の人が「日本は個別自衛しかできない」と言っても「ああそうですか」としか思えない。ロジックとしては面白いが現実的な意味はおそらくない。

これについてつらつら考えていて、最終的には「日本人は政府も社会も信頼していないんだろうな」という跳躍した結論にたどり着いた。憲法第9条を改憲しても政府がしっかりやってくれれば良いし、裁判所が適切な歯止めを書けてくれればいい。しかし、多くの日本人はそんなことは信じていないのだと思う。

憲法第9条改憲について聞くと決めかねている人が多いという。(NHK/2018)なんとなく当たり前の結果なのだが、なぜ主権者が憲法を決めかねるのかを改めて考えてみるとよくわからない。

その直接的な理由は、憲法が文字通りに受け取られてこなかった歴史があるからだろう。最初から吉田政権は憲法を「アメリカが押し付けたルール」と考え、その精神をそれほど大切にしなかった。実に官僚的な面従腹背である。

最初の解釈改憲は解散に関するものだ。内閣がみだりに解散権を濫用しないように縛りがかかっていたのだが、吉田は形式的に内閣不信任案を可決してもらい解散に踏み切ったそうだ。これが1948年のことだった。

もともと憲法第9条はベトナム戦争に参加しないために自民党が持っていたお守りだった。これは岸政権でいったん対米協力路線に踏み切ったものを自民党内の反対勢力が制動したのだろう。それがいつしか護憲派の唯一の心の拠り所となったという歴史がある。国民の支持が得られなかった共産勢力にしてみれば安保反対運動で政権を打倒したというのが唯一の成功体験なのだ。

第9条の歯止めがなくなれば日本政府はどこまでも国民を不幸にするのではないかという漠然として不安があり、日本人はなかなか改正に踏み切れない。平和主義だけでなく「人権もいらない」という人たちが運営する政府が統計を隠したり事実と異なる説明をしているのは間違いがない。

護憲派も自分たちの市民運動がそれほど力を持っているわけではないということを知っている。司法もそれほどあてにならないので、唯一拠り所はアメリカが70年前にかけた歯止めだけという点にこの国の民主主義の危うさがある。

形式的にはアメリカと日本は主権国家同士なのだが、こと防衛になると日本はなぜか「アメリカに逆らえない」と思ってしまう。その意味では憲法第9条には利用価値があった。自分たちはアメリカに逆らっているわけではなく、アメリカの言うとおりにしているだけだからベトナムに行けないといえばよかったのだ。

憲法改正運動で目立つのは護憲派だが、実はそれほど数は多くない。「戦争はいけない」くらいのことを言える人は多いが、理論的に説明できる人はさらに少ない。多数の、決めかねている人たちは「軍隊が悪い」とは思っていないのだと思う。実際にQuoraで聞いてみたところ、ゴリゴリの護憲派は誰もいなかった。大多数は「変えなければならないほど困っていない」というばかりである。

ただ、憲法議論は一部の人に強烈な感情をもたらすようだ。最初に「わからない人が多い」と設問していたのだがこれに「捏造だ」と噛み付いてきた人がいた。実際には「わからない」ではなく「どちらともいえない」だというのである。ただ彼の言いたいことはそれだけだったようだ。憲法議論は不信感と自身のなさからいろいろな人のお守りになっている。つまりどちらかというと感情の問題になっているのだろうということがよくわかる。

変えたくない人と同時に変えたい人たちもいる。彼らは「自分たちは指導的立場に立つべきなのにそう扱われていない」という「失われた怒り」を持っている人たちである。中には憲法のような難しい問題は国民が参加すべきでないという意見を持つ人もいた。国民=衆愚であるという認識があるようだ。

彼らに共通するのは楽観的な見通しである。彼らは自分たちで戦争に行くつもりはないだろう。戦争に行くのは自衛隊であり基地の負担をするのは沖縄である。誰かの犠牲の上に自分たちの繁栄があるというのはずるいといえばずるいのだが、現実的な選択肢としてはまあ考えられなくもない。ただ、改憲動機の裏にあるのは「自分の意見を通したい」という欲求だろうが、その裏には「アメリカについていれば間違いがない」というさらに根拠のない見込みがある。

憲法第9条の議論は、憲法について議論しているわけてはない。憲法を通して相手に不信感をぶつけて叩いているのである。どちらもそれほど根拠がない見込みに基づいて相手を攻撃しているが、そんなことは構わない。

ここcd「改憲派の立場」で憲法議論を進めるにはどうしたらいいのかを考えてみた。すると最終的には「信頼の醸成」が大切なのではないかとういう結論になった。ただ数十年かけて積み重なってきた不信を一瞬で解くのはほぼ不可能に近いのだろう。

そこで、日本人はどれくらいシステムを信頼しているのかということが気になった。調べたのがタンス預金である。2017年の記事には30兆円のタンス預金があるらしいという記述がある。これは2008年の日銀の調査だそうだ。しかし2019年の記事ではこれが50兆円になっている。つまり10年ちょっとで20兆円増えたことになる。現金の供給量は50兆円ということなので半分は退蔵されていることになる。

これは日本人は政府を信頼しないというようなレベルの話ではない。日本人は金融機関も信頼していないし、将来頼りになるのは手元の現金だけだと考えているのだ。

こんな中で憲法議論をやるのはほぼ不可能だと思う。日本人はもともとシステムをそれほど信頼していなかった上にさらに信頼しなくなっているのだ。

ニューヨークタイムス紙によると日本は独裁体制を彷彿とさせる国らしい

The NewYorkTimes(ニューヨーク・タイムズ)が面白い記事を書いている。望月衣塑子記者を官邸と戦う記者としてフィーチャーしているのだ。「記者が日本でたくさん質問をする。それは日本では普通ではない」というようなタイトルである。




朝日新聞は好意的に書いており記者クラブ制度については触れている。ただタイトルだけ読むとThe NewYorkTimesが政権批判したと読み取れるのだが実際に批判されているのは新聞そのものである。また、朝日には削った箇所がある。それが「男性中心の秩序に挑戦している」という部分だ。彼らは日本人は英語が読めないであろうと考え印象操作してしまっているのだが、あるいは自分たちの認知不協和を癒そうとしているのかもしれない。

サンケイスポーツはずいぶん煽った書き方をしている。望月記者は国民的英雄であり独裁政権のように振る舞う政権に挑戦していると言っている。逆に反発心を煽ろうとしている感じがする。

だが記事が「独裁体制を彷彿と(reminiscent of authoritarian regimes)」と言っているのは確かである。

記事は東京新聞の望月記者の攻めた報道姿勢は市民の間に支持者が多いと言っている。国連報告者のデビッド・ケイもその姿勢を「意味のあることだ」と積極的に評価する。この辺りは、反政権的な姿勢の人たちにも好意的に受け止められそうである。だが記事はそこでは終わらない。

東京大学の林香里さんは「望月記者は男性中心社会を攻撃している」と言っている。つまり望月記者は「報道の自由」だけでなく「男性社会に挑戦する」ヒロインと捉えられているわけである。これはアメリカ人が持っている典型的な日本人像である。つまり日本は女性が男性に従うだけの封建国家であると考えられている。

記事を読むと「日本はアメリカ占領時代に作られた憲法があり報道の自由が守られた民主主義国」のはずだが、男性中心の古臭い人たちがそれを拒もうとしていて、女性差別もその一環であるというような印象で書かれているように思える。

記事をだけを読むと、日本の報道は男性の絆で維持されたジャーナリズムは封建的な(これは記事には出てこない言葉なのだが)体制の維持に協力してきた協力者であるという印象を持つだろう。記者クラブは地方の警察署のような小さな組織から首相官邸まで記者クラブがあり会員以外を排除しようとしているというのはアメリカ人から見れば言論統制だからだ。

外国人記者は記者クラブ制度に入れてもらえない。そのため外国人特派員協会を作ったり記者クラブ制度の廃止を訴えている。ジャーナリストといえどもやはり「中立」にはなりえないということがよくわかる。ただ、これだけでは不十分なので「抑圧された女性」という別の視点を入れて記事を補強しているのだ。伊藤詩織さんの時もそうだったが「旧弊な体制に立ち向かう勇敢な女性」というのは心情的にわかりやすい。だからこそ記事になるのだが、それだけ危険でもある。

これは日本人が中国や香港の民主化運動を極端に持ち上げるのに似た姿勢だ。日本も自分たちは中国よりマシな民主主義国だと思っている。そこで「中国の人民は無知ゆえに騙されているのだろう」と考えると同時に、体制に反抗する人たちを過度に持ち上げてしまうことがある。アメリカ人は民主主義や民衆の知る権利を至上のものと考えており、そうでない社会が崩れて変わってゆくことを求めている。ある種のスーパーマン願望を持っているのだ。

多分、この記事を日本語で読むと日本人の中には嫌な気分になる人が多いに違いない。例えば政府に対して疑問があっても「日本は男性社会であり」という部分に抵抗感を持つ人もいるだろうし、アメリカ占領時代に民主主義を与えてやったのに権威主義的な体制を維持しているという上から目線の論調に辟易する人もいるだろう。

実はアメリカでもこうした「上から目線」にうんざりした人たちが増えているのではないかと思う。The NewYorkTimesはアメリカでは有名なクオリティペーパーだが、同時に「エスタブリッシュメントの代表」だと思われている。オバマ大統領は立派なことを言っていたが結局何もしてくれなかったと考える人が、わかりやすいトランプ大統領になびき、バーニーサンダーズ大統領候補のわかりやすい言葉に親しみを感じている。

つまり彼らが高邁な理想主義を掲げれば掲げるほどそれに反発する人が出てくる。スーパーマンはもうヒーローではいられなくなってしまい今度は批判の対象になるのである。

朝日新聞もある程度まではこの記事や望月記者にシンパシーを持つだろう。記者クラブは政府の広報機関になっており自分たちの正しいはずの理想主義が共有されないという苛立ちはありそうだ。しかし、それでも彼らは男性中心の編集姿勢に踏み込まれれば反発するだろう。みんなに感謝されるスーパーマンが家では抑圧的な男尊女卑主義者だったというのは彼らには受け入れられないだろう。だから朝日新聞は記事のその部分を紹介しなかったのかもしれない。

ということでこの記事は全文読んだ上で分析するとなかなか面白い仕上がりになっている。The NewYorkTimesは登録すると毎月何本かの無料記事が読める。

遅れてやってくる経済実感と消費税増税。そして何も提案しない野党の作戦。

いろいろな人の質問を見ていると「消費税増税を延期して景気を浮揚させたほうがいいのでは?」という感想が多く出てくる。これを見て「今は景気が悪い」とみんなが思っているんだなと気がついた。




まず、日経新聞に税収のグラフが出ている。2009年ごろを境に上昇に転じている。所得税は右肩上がりになっている一方で消費税でフラットになっていて税率が上がることで引きあがっている。つまり消費は伸びていないが所得税は上がっているようだ。ここで総賃金について見たくなる。所得が上がれば税金が上がっても構わない。

ところが「統計偽装」の影響がありこれがどうなっているのかがよくわからない。一応政府統計を信じるとこれも上がっている。政府を信頼すればなんとなくバランスは取れていることになるが、今度は「わざわざ消費税を上げなくてもよかったのでは」と思えてくる。実はこの辺りに偽装の動機があるのかもしれない。

いずれにせよ「経済はそれほど悪くなっている」という証拠はない。

実は大企業の景気判断もそれほど悪くなかった。こちらは時事通信が日銀短観をまとめている。これも2009年ごろに深刻に落ち込んでいて、そこから急速に回復している。この記事は都度都度に書き換わるようだが2019年7月現在それほど落ち込んでいるというわけではないということがわかる。

これを総合的に見ると、日本の景気は2009年ごろが底になっていてそこから回復しているといえそうだ。この落ち込みはリーマンショックによるものであって麻生政権が引き起こしたものではない。

しかし、実際に不景気になると政権に攻撃の矛先が向かう。「なんとかしろ」ということになるのだがどうにもできない。すると選挙区で突き上げられてそれが政党を動揺させるのである。回復期は民主党政権の最初の時期に重なるのだが、民主党政権が政権運営に不慣れであり地震や原発事故も起こった。そこで人々の記憶に「経済が混乱していた」という印象がついてしまったのだろう。広報の失敗だが経済政策の失敗ではない。

では、民主党政権が景気をよくしたのかと問われるとそれも違うように思える。つまり混乱が収まると自然に景気が回復に向かった可能性が高い。ここから言えるのは「人々は景気変化を遅れて実感する」ということと因果関係を「目の前にある政権と勝手に結びつけてしまう」ということである。人間は動いている事象について因果関係を正しく判断できないのだ。特に選挙運動が始まってしまうと「落ち着いて過去を見直してみましょう」などという悠長なことをいう人は誰もいなくなる。

ここで注目すべきなのは日銀短観が2019年に入って下がってきていることである。下がっているのは製造業であり、サービス業も追随して下がり始めている。これは外国の状況とリンクしている可能性が高い。トランプ大統領が「利上げ批判」していたのだが、FRBも利下げを仄めかしているそうだ。貿易戦争から景気が下振れする可能性もある。確実に経済が下がるとまでは言えないが、不確実性は増している。

ただ後から見ればこの開始時期のズレは小さなものとして無視されるだろう。消費税増税が10月にある。ここで経済の下振れが顕在化すれば人々は消費税と経済下降をリンクさせるはずだ。

前回の民主党の<失敗>は景気の底で政権を引き継いでしまったことだった。いろいろアイディアは出していたが実現可能性が低いものも多かった。ということは安倍政権が景気の底にぶつかるのを待ちながら「自分は何も提案しない」方が得なのである。そして消費税の増税と景気の底が重なれば「それを消費税のせい」にすることもできる。

それはもしかしたら消費税増税とは関係がない景気の悪化かもしれないのだが、あとは「悪夢の自民党政権」とほのめかすだけで良いことになる。やられたらやり返せだ。何も提案しないことは国民にとってはかなりのマイナスだが、国民が冷静に政党の実力を判断してこなかったのもまた事実である。

今回の参議院選挙に目立った争点がないのは実はそのせいかもしれない。みんな景気が悪くなるのを実は待っているのかもしれないのである。

現場に権限を渡さないことで崩壊しつつあるセブンイレブン

セブンイレブンが24時間営業の件に続いて7payで大炎上した。不正の原因はまだわかっていないらしいが、現在までの被害額は5500万円ということである。中国人が何人か捕まっているが犯人の全容もよくわかっていない。NHKニュースはひたすら「自分の身は自分で守るように」と言っていた。




24時間営業の件と共通しているのは「帝国の崩壊」である。24時間営業問題ではオーナーを締め付けて近隣に店を作り本社の利益を優先した政策を実行してきた。これは店舗を植民地とみなして搾り取る方策であり、オーナーとは名ばかりの小作である。セブンイレブン側が小作問題を鎮圧できたのは、セブンイレブン側の方が知識量が上だったからである。

一方で今回の場合はIT知識のなさが深刻な打撃を与えた。IT産業では現場エンジニアが知識を持っており経営者に知識がないということが実は珍しくない。Twitterでは日本オラクル、NEC、NTTデータ、NRIなどという名前も言及されており、これが本当であれば日本は「総力戦」で負けつつあるということになる。どのコンサルティングも元請SIerも現場のエンジニアを粗末にしてきたのだろうと思える。

セブンイレブン側は銀行との入り口を遮断したので被害は止まったのだが、Twitterにはタレコミ情報が溢れている。どうやらセブンイレブンアプリの脆弱性は知られていたようだが「ハックしてもクーポンくらいしか盗めない」ということだったようである。つまり現場は知っていて黙っていた(あるいは言ったが取り合ってもらえなかった)可能性が高い。

セキュリティテストへの疑念もあった。これが形式的にしか運営されていないのだそうだ。どういう人たちがテストを運営しているのかはわからないのだが、現実には即していないようである。セキュリティテストは想定していない脆弱性は見つけてくれない。そんなことをしても余計な仕事が増えるだけだからだ。

ITバブルから10年以上現場を粗末にし続けた日本のIT産業は成長どころか深刻な機能不全に陥ろうとしているように見える。

それを念頭会見についての報道を見直すと「二段階認証が必要なアプリと比較される理由がわからない」というような発言をしており戦慄する。このちぐはぐなやり取りは「この会社大丈夫か?」と思わせるのに十分なインパクトがあったが、技術担当の重役がいればこんなことにはならなかっただろう。セブンイレブンでの技術担当者の地位の低さがわかる。

小林強社長は2004年に入社したようだがそれ以前の経歴が全くわからない。7payの準備期間は1年程度だったようなのでやる気になればちゃんとしたサービスが作れたはずなのだ。さらに彼らはNanacoという比較的堅牢な決済手段も持っていてQRコード決済にこだわる必要は実はなかった。だが、NanacoはカードごとのIDなので顧客情報を分析できない。

日本人には「横断歩道根性」がある。日本人は決して先頭に立って何かはやりたがらないが、一旦村落内で方向性が決まると我先に同じ方向に走り出す。怖くて一人では横断歩道を渡れなかった人がみんなで一斉に渡りだすのに似ている。今回は「購買履歴を取って客を囲い込みたい」という気持ちがあったのではないだろうか。他者に客を取られるかもしれないと考えた時、左右を見ないで横断歩道を渡ってしまったのだろう。だとすれば他の会社の決済システムも実は怪しいのかもしれないという気持ちになる。多分ベンダーやコンサルは同じ人たちかもしれないのである。

日本人経営者は仲間内でかばい合い根拠のない万能感に浸ってきた。その間現場の技術者を軽視し十分な予算と人を補充してこなかった。実際に手を動かす人たちは小作オーナーでありIT土方扱いされた。それが今回の惨状を作っている。

今後さらに消費税増税をめぐって「軽減税率対応」という難敵が待ち構えている。ギリギリまで仕様が決まらない「デスマーチ確定プロジェクト」である。ここで間違いが起これば「納税の公平性透明性」に大きな傷がつくだろう。小売大手のITプロジェクト管理能力がこの程度であれば10月に大混乱が起こるのではと思ってしまった。この心配が杞憂に終わることを望みたい。

政権は選挙目当てに国際的緊張を作り出そうとしたがどこかこじんまりしている

日本が韓国に対しての制裁措置を発表した。安全保障を理由にして半導体関連製品の審査を厳しくするという。いったん優遇国になっているのにそれを取り下げるのは異例だ。




表向きは単なる適正化だが、実際には徴用工問題に関する報復なのだろうと言われているそうである。日本が自主的にやっていたことなのでWTOの規制には引っかからないだろうといわれているという見込みがあるようだが、報復だと見なされればもちろんなんらかの判断が下る可能性はある。

今回は「韓国側の半導体産業に過失があるわけではない」ので合別の理由があるのではということが疑われる。ここに疑義があると日本も公平公正な国ではなく政治家の思惑で貿易ルールを歪めるという評判がつく可能性が高い。するとその他の裁定でも「日本はそういう国だから」となり結果的に損をする。

それを知っている元官僚の細川昌彦さんが「きっといろいろあったんだろうが政府は言えないんだよ」と説明してあげている記事を見つけた。細川さんの優しさなのかもしれないが、これを読むと「やっぱり選挙前だからなあ」と思ってしまう。

そこまでしてでも今回の措置に乗り出したのはこれが「溜飲を下げる」効果があるからだろう。つまり、相手が苦しがっているのを見て楽しいと思う人がいるということになる。いわゆるメシウマという感情だ。有権者の中には合理的判断ではなく非合理的判断で動く人がいるのだ。

朝鮮日報にも「報復で困るのでは」という記事が出ている。彼らも文在寅政権を叩きたいので「敵の敵は友」という感じなのだろうし、日本のメシウマメンタリティを理解していることになる。その意味では日本的というより東洋的な感覚なのかもしれない。なぜか朝鮮日報は漫画まで作って、心なしか嬉しそうに見える。

だが、実際にはWTO提訴の危険がある上に、日本の企業にも影響はある。さらにエスカレートすれば地方の観光産業などに打撃が出るかもしれない。観光客の減少につながるからだ。つまり、トランプ関税と同じように熱烈に支持している人たちを苦しめる可能性が高い。こうなると非合理ではなく不合理だ。

加えて、菅官房長官が「徴用工問題の報復」を仄めかし世耕経産大臣も同様のことを言っているようである。安倍政権のネトウヨ系支持者たちの中には消費税増税で不満をためている。憲法改正問題も進まない。つまりなんら勝ち点がないわけである。そこで日本人は誰かをいじめてそれを乗り切ろうとするわけだ。ここに不合理性がある。

いじめで徴用工問題は解決しないしWTOで提訴されるリスクも生まれる。しかしそうした損をかぶってでも相手にいたい思いをさせたいという「スパイト(嫌がらせ)行動」が日本人には見られる。絶対に相手をギャフンと言わせてやるという、そのスパイトさが内輪に向くのだ。

観光業が被害を被ると「うるさいだまれ反日が」という声が飛ぶ。もともと韓国と楽しくやっている人たちに嫉妬心がある上に、普段抑圧されている感情を半匿名で解放しようとする。そして問題の解決が遅れれば遅れるほど、その苛立ちは外ではなく内に向かうことになるだろう。

ここから安倍支持者の中のネトウヨと呼ばれる人たちが合理性とは別の世界に生きていることがわかる。うまくいっていない学級がいじめに走るような感じである。

これは様相としては戦中時に似ている。戦争という究極の閉塞感が打開できないと感じた人々は周囲を抑圧する側に回った。楽しみを見つけようとしている人たちを非国民と呼ぶ空気が蔓延した。つまり閉塞感がティッピングポイントを越えるとそれは戦中のような閉塞感を作り出すはずなのだ。

もちろん同じような姿勢はトランプ政権にも見られる。一番の違いは彼らが「具体的な成果」を求める点である。常に前進している感じがアメリカ人は好きなのだ。一方で日本人は具体的な前進がなくても構わない。相手が苦しんでいるだけで満足してしまい、自分たちが失点し始めてもそれが気にならなくなってしまう。潰し合いと牽制は外部に解放されるまで続く。解放されたら解放されたで、今度は口々に「あの空気は息苦しかった」と言い出す。

韓国の徴用工問題に端を発したこの日韓の意地の張り合いにはこのようないいようのない器の小ささを感じる。トランプ大統領は鳴り物入りのキャンペーンで大々的に「中国は困っている」と主張して拍手を浴びるのだが、日本では官房長官が薄ら笑いを浮かべて「まあ影響がなかったわけでもないですよね」と仄めかしてみせるのだ。

もともとは集団的自衛構想だった日本の防衛制度

先日トランプ大統領が「日米同盟は不公平だ」といったという話をきっかけにした質問を見た。「そもそもアメリカはなぜそんな不公平な義務を負ったのか」というのである。簡単そうに見えてなかなか奥が深い問題である。




結論からいうと当時のアメリカにはその必要があったからである。そしてその理由はもうなくなってしまった。

1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が再独立した時、アメリカは日本への継続駐留を望んだ。東アジアに共産化の懸念があったからだ。日本を足がかりに東アジアの共産化を抑え同時に日本の共産化・社会主義化を防ぎたい思惑あったようである。これを「瓶の蓋論」という。つまり、アメリカは日本を敵から防衛したいのではなく、日本と地域を共産化させたくなかった。それが防衛の意味である。

まず、鳩山一郎総理大臣がソ連に接近するのを「ダレス恫喝」で牽制した。さらに一時はA級戦犯として裁くつもりだった岸信夫をエージェントにして保守勢力を再編し自民党を作り上げた。社会党が団結したのに自由主義勢力はバラバラだったのを見て焦ったのかもしれない。

岸は吉田と違い「日本をアメリカと対等な国にしたい」と考えており、ゆくゆくは憲法改正をしたいと思っていたようである。エージェントというとスパイという感じがする。しかし、アメリカは他国の政治に介入し続けており占領保護国だった国の政治に関与することにそれほど罪悪感はなかっただろう。資金供与はその後もしばらく続いたそうである。これは秘密でもなんでもない。

面白いのは韓国やベトナムがアメリカの援助によってわかりやすく腐敗したのに比べ日本はそうならなかったという点である。日本は表向きはアメリカの援助を受けていたが、内心では複雑な思いを抱えていた。そのために抑制が働いたのだろう。

岸の「対等志向」のおかげで日米同盟は「日本の領域では日米は共同して対処する」というものになった。ところがその集団防衛体制は日本の領域の外には及ばなかった。つまり二国間のミニNATOのような存在だった。アメリカの政策はアメリカをハブにして各地に集団的自衛体制を作るというものだった。これを360度作れば「アメリカを防衛する体制」が他国との協力で作れる。単独防衛よりも合理的と考えられたのだろう。

もともとアジアにもNATOのような集団的自衛体制(太平洋集団安全保障構想)を作ろうという構想があったようだ。韓国、台湾、フィリピンなどがそれを望んでいた。しかし自治経験に乏しい地域が多く、互いの不信感からディールがまとまらなかった。日経新聞の別の記事にはこの旧日米安保条約が将来の拡張を見込んでいたような内容が書かれている。

51年9月8日に結ばれる旧日米安全保障条約も、第4条に「この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代わる個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする」とある。

日米安保につきまとう「瓶のふた」論 サンフランシスコへ(26)

将来的に別のスキームができた暁にはそのままそれが移行しますよということである。

岸信介は安保の改定が終わり小笠原が返ってきたら改憲に着手するつもりだったようだ。少なくともアメリカにそう約束している。自衛隊が軍隊になり、憲法が集団的自衛を認め、安全保障の領域ができれば、日本とアメリカはお互いに助け合う関係になるというような構想だったのではないかと思われる。つまり最初に憲法ができたときにあった国連中心・日本軍備封じ込めという構想は15年後にはガラリと変わっていたことになる。

このプランに共産党が反対するのは当然である。共産化を防ぐのが目的だからである。だが、自民党の吉田派もこれを苦々しく思っていたのではないかと思う。吉田派には「アメリカが岸に乗り換えた」ように見えたはずだ。結果的に、岸の説明不足は国内世論の反発を招いた。もともと革新官僚出身であり戦争を推進した側の人間んが、アメリカと結びついてまた戦争を始めるのではと思ってもそれほど不思議ではない。岸はアメリカからの援助で首相になったが、周りに味方はいなかったのだ。

岸の評価ははっきり二つに分かれる。「真の独立を求めた」という人もいるし「アメリカのいいなり体制を作っただけ」という人もいる。これは対米独立を志向しながら結局アメリカの支援を受けてそれを実現しようとしたというところから来た矛盾なのかもしれない。

吉田はその裏返しの面従腹背である。表向きは協力する体制を作りながらも決してアメリカの戦争にはコミットしなかった。そのために利用されたのが憲法第9条である。ベトナム戦争は1975年の三木内閣時代まで続いた。最終的に勝ったのは吉田側で、所得倍増計画を打ち出した池田勇人が国民に支持される。このため日本は専守防衛だという言い方が好まれそれが定着する。国民も余計な厄介ごとに巻き込まれたくないとしてこれを追認した。

日本の戦後初期の政治にはこのような屈折があるので、岸・アイゼンハワーがどのような形の日本を目指していたのかということは誰にもわからなくなってしまった。「改革」が途中で終わってしまった上に継承者がいなかったからである。

そのあと沖縄返還を実現した佐藤栄作は岸とは兄弟だったが吉田の流れを汲む政治家だったtぽい。佐藤は非核三原則を提唱し表向きは反戦的だったが同時に沖縄に核を持ち込む密約を交わしたことで知られている。ここでも面従腹背というか屈折が見られる。日本の政治家はこの辺りをうまく使い分けて綱渡りをしてきた。

アメリカとしては日本を守ってやることで「日本国民が資本主義を良いものと考える」だろうと考えたのかもしれない。しかしベトナムでは資金提供し続けた政府が腐敗しベトナム戦争が起こりそうになっていた。実際に日本人が求めたのは「アメリカの軍事力をできるだけ利用しつつアメリカの世界戦略には巻き込まれない」という複雑な政治的態度だった。つまり、顔では曖昧に笑っているが腹の底では気を許していないという極めて東洋的な路線である。アメリカはこうした空気を感じるのが極めて苦手であり、したがって沖縄の軍政もうまく行かず、ベトナムは最終的に共産化してしまう。

いずれにせよベトナム戦争を免れた日本は高度経済成長期を迎える。アメリカには日本の防衛義務が残ったが、基地の戦略的価値はなくなっている。アメリカに敵対するベトナムはもはやなく、中国との戦争はコンピュータとそろばんで行われ、大統領はついに北朝鮮の境界線を超えた。あとはこの防衛という負債をどうするかという問題が残っている。つまりアメリカから見ると日本の防衛というのは不良債権なのだ。

最初この話を調べ始めた時、当時の構想などがわかれば問題解決の役に立つのではと思った。それぞれの内閣の動機には汲むべき点もあるがあまりにも場当たり的である。根本的な解決のためには憲法を改正して自衛隊を正規軍にし、日米安保を白紙撤回し、沖縄の基地を解放して最初からアサインし直すしかないと思うようになった。集団的自衛体制を組み直してアメリカに巻き込まれないで周辺諸国との紛争予防の枠組みを作り直すのが好ましいが、現状の整理の方が優先順位は高そうだ。

しかし、実際にそんなことができる政治勢力があるとはとても思えない。自衛隊を軍にしろというと嫌がる人がいるだろうし、アメリカとの関係を白紙にしろなどと言えば泣いて暴れる人もいるだろう。このため、議会は自衛隊を憲法に書き込むかどうかで揉めている。我々はしばらく矛盾を抱えたままで行かざるをえないのかもしれない。

ジョークがわからない安倍首相とリアリティーショー化する政治

安倍首相が大阪城エレベータジョーク問題で炎上している。




Quoraでも様々な質問が出ていた。

確かに言葉尻を捉えているだけにも思えるのだが、エレベータに頼らなければならない人たちを傷つける可能性のある無神経な発言であるのは確かだ。トランプ大統領に注目が集まったヨーロッパではG20はほとんど話題にならなかったようで「この質問で発言を知った」という人もいた。

安倍首相は別のシーンで「選択式夫婦別姓にしても経済成長に関係ない」というようなことを言っていて、こちらも標的になっている。

この人の問題は「自分の発言によって他人がどう傷つくか」が想像できない点にある。配慮が出来ないというか周りの人のことが一切想像できない。

このことがわかるのは「大阪エレベータジョーク」を読み上げるビデオである。ジョークを読んでいるのだが、多分本人は「何が面白いのか」がわかっていないと思う。ジョークは内容・表現形式・文脈をずらすことで笑いを誘うという高度な芸術なので、共感力のない人には敷居が高い。

自国の首相に使うのもどうかとは思うのだが、彼のパーティージョークは「サル真似」に見えてしまい、外交の格式を下げる効果しかない。自信がないならやるべきではなかった。ジョークもサル真似なのだから料理も外交プロトコールもきっとサル真似だと思われてしまう可能性が高いのだ。

ジョークについて質問したところ「イギリスでは自分をネタにする」という話があった。詳しくは書かれていないがイギリス人の場合「澄ましてボケる」というか、顔色を変えずに話をするのではないかと感じた。ブリティッシュジョークというようだが身分差が大きな社会で結束を示すために「アウトサイダーにはわからない程度にほのめかす」のが好まれるのかもしれない。ジョークは効果的に使えば仲間内の結束を強めることができ、失敗すれば人間関係を冷え込ませる。

安倍首相は単に滑っているだけでなく、間を空けてどや顔をし「これおかしいから笑うところですよ」と言っているように思える。つまりジョークの機能が理解できていないことをカメラの前で露呈してしまっている。これが彼の滑稽さを一層際立たせる。

日本人はパーティーではジョークをいうべきだという固定観念があるがそれが何を意味しているのかがよくわかっていないのかもしれない。「とにかく何か変なことを言わなければ」とだけ考えているのだろう。そして、いつもは冗談に聞こえない冗談を笑ってあげているに違いない。

これはある意味日本の民主主義を象徴している。自民党の人たちは人権とか民主主義を理解してはいない。単に欧米のサル真似をしているだけである。欧米人のいる前では民主主義を装ってはいるが、ジョークと同じようにその中身を理解しているわけではないということになる。だから自民党の古い議員はマニュアルを配ったくらいでは失言をなくすことができない。

こうしたズレは国内で苛立ちをうみ、また奇妙な形で外交にまで影響を与えつつある。今回、トランプ大統領はG20の現場でひたすら「何か人々に大きなインパクトを与えなければ」と考えていたようである。G20ではひな壇芸人の一人にすぎないが、リアリティーショーを演出すれば主役になれるだろうと考えたのだろう。そして、G20の現場でキャスティングまでしたようだ。プロデューサーになったのは文在寅韓国大統領である。彼もまた政治的な行き詰まりを抱えており政治的ショーを必要としている。だが文在寅大統領には華がない。そこで裏方に回ることにした。

政治的ショーで権力を維持する必要に迫られた人たちにとっては切実なスキルである。彼らがこれまでも「共感力」だけを頼りに地位を維持してきたことがわかる。「周りがどう受け取るか」を想像して絵を作ることが世界のリーダーには求められている。日本が民主主義も共感力も理解できないでいる間に、世界の民主主義のレベルは一段上がってしまったのだ。金正恩朝鮮労働党委員長すらそれがわかっていてカメラの前でトランプ大統領に笑って見せたし、ムン・プロデューサはそのあと「朝鮮半島の歴史的な進展」を解説して見せた。

ところが日本の政治家たちはリアリティーショー化する政治について行けないばかりか、原稿がないと何も話せない。安倍首相は硬直化する日本という社会の古びたリーダー像を反映しているのだろうなと思った。せめてもっと優秀なスクリプトライターを雇うべきだ。

吉本興業が抱える法的リスクは将来日本が抱えるリスクだった

吉本興業の前近代的な芸人マネージメントについて考えている。前回は芸人には隙間も必要なのでは?という論調で書いてきた。しかし、この話には別の側面がある。それは法的リスクである。




仮に吉本興業所属の芸人が別の芸能事務所と契約を結んだとする。独占契約権を与える代わりにリーズナブルな出演料が得られるような契約である。ここでは、物販の権利は芸人側が保持しテレビ局からの出演料は折半するものとしよう。

吉本興業はこれを差し止めるのはなかなか難しそうである。なぜならば「契約書」を示せないからである。確かに口頭での約束はあったかもしれないし既成事実は積み重なっている。口頭契約や既成事実の積み重ねは法的に有効なのだそうだ。だが解除規定がないはずである。故に芸人側は口頭で契約を解除してしまえばいいのである。そこに書面を添えればもっと効果的であろう。

吉本興業はテレビとの関係を築いており、テレビに芸人排除を求めることはできる。できるのだが、また別の問題が出てくる。これは独占禁止法が禁止する「優位な地位の濫用」に当たる可能性が出てくる。この辺りをどう判断するかは個別の司法判断になるだろう。

実はこちらの方が根が深い問題なのかもしれない。契約については「多くの芸人が一斉に他の会社に流れる」ようなことがなければ吉本興業の地位が揺らぐことはないだろう。しかし、独占禁止の場合は「誰か一人でも」訴えてしまえば「テレビに圧力をかける」こと自体が禁止されてしまう。テレビ局も「コンプライアンス」を重要視しているのでキャスティングの透明化が求められるはずだ。闇営業ならぬ闇キャスティングという別のスキャンダルが生まれる。

ただ、こうした動きを芸人本人が行うのは難しいだろう。日本の問題は多分「プロダクションを超えた芸人の組合」が作られないところにあるのではないか。アメリカの俳優ギルドのようなものが日本にはないのだ。調べてみるとアメリカにもコメディアンの労働組合はないようである。俳優や作家には境界があるので意外な感じもする。

組合がないことはなんとなくプロダクション側に有利に思える。だがまた別の問題を思いついてしまった。

今回出てきた問題は所属芸人が法的に好ましくない人たちと関わったことが問題になっている。なんとなく「契約解除」などと言われているが、そもそも書面契約がないのだから契約を解除することも書面ではできない。さらに道義的責任というさらに厄介な問題も抱える。

道義的責任があるから「所属事務所の不始末だ」と非難を受けることになってしまうのだが、芸人には法的な知識がないのでコンプライアンス遵守とチェックができない。しかし吉本興業は生活保障をしないのでこれからも「違法営業」が排除できない。これをお互いに助け合って乗り切ることはできるはずだが、芸人をネットワークして相互扶助しようという考え方は日本にはない。

これは、一般の会社にも言える。正社員の身分保障ができず副業を認めるところが増えている。だから、マスコミは必ず「A社の社員が違法副業をしていた」と報じるようになるだろう。

生活保障を外すということは必要のない法的リスクを抱えるということを意味している。これを補助するのが「組合」だ。例えば落語家には協会がある。芸人も作ろうと思えば協会が作れる。しかしながら普通のサラリーマンだった人には「職能」すらない。実は一般社会はこれから「もっと吉本化」する可能性が高いのである。

面白いのは日本のテレビがこれを全く分析しないという点だ。日本人はその場その場の状況で「暴力団=いけない=やばい」と感じてしまうのだが、根本的にそれをどう改善すればいいのかということは語らない。多分、職能ごとの組合という考え方が一般的でない上に、生活のために副業をしなければならないという切実さがないからだろう。

しかし、例えば新聞社などは記者の生活保障ができなくなっている。記者が生活のために匿名で過激な文筆活動を始めた時、世間はどう思うだろうか。次に「吉本化」するのは新聞社なのかもしれないと思った。

日米安保条約の改定を求められていた安倍総理大臣

G20大阪会合が終わった。安倍首相としてはこれを片付けて「外交の安倍」を強調したかったに違いない。何も達成できなかったが決定的な決裂もなかった。あとはこれに適当な名前をまぶして選挙戦を戦えばいいはずだった。




だが、トランプ大統領が爆弾を投げ入れた。本人は全く気がついていないところがらしいといえばらしい点である。最初の爆弾は安保だった。

トランプ大統領は、「破棄することはまったく考えていない。不平等な合意だと言っている」と語った。その上で、「条約は見直す必要があると安倍首相に伝えた」と述べた。

安保条約見直し必要、安倍首相に伝えた=トランプ米大統領

これだけを読んでも、トランプ大統領が何を言っているのかはわからない。FOXテレビでは「日本はアメリカが攻撃されてもソニーのテレビで見ていればいいだけ」と言っている。つまり、日本もアメリカの防衛に参加しろと言っていることになる。

これを実現するためには日本は憲法を改正する必要がある。つまり集団的自衛体制に組み込まれることになるということである。現在は集団的自衛と個別自衛には重なる部分があるという禅問答で乗り切ってきた。その禅的枠組みでは純粋にアメリカが攻撃された時に日本が防衛出動することは不可能である。説明だけでは不十分だ。実際に行動してみろと突きつけられたことになる。

皮肉なことにこれに抵抗を示せば示すほど、日本人がこの問題をダブルシンキング(二重思考)で乗り切っていたことが露呈してしまう。自分たちとは関係がない沖縄を差し出しておけば「日本も負担している」と主張できると考えたのだろう。菅ロジックと呼んで良いと思うのだが、これは日本人がこの「日米沖」の枠組みを「オトクなディールだ」と考えていることを示している。だからアメリカを説得することはできない。

ところが、トランプ大統領はそのあと北朝鮮に行き金正恩と面会してしまった。選挙キャンペーンのために俺が主役になる派手な絵が欲しいと考えたのだろう。G20はうまくいったとお世辞を言ってはいたが「実はそんなものはどうでもいい」と考えていたということになる。

本当かどうかはわからないが、トランプ大統領がTwitterで金正恩に出演交渉したというような話も出ている。このことは彼が「極めて短期的」に「自分の利益」のために動いているということを意味している。つまり、菅ロジックで説得したり思いやりを示すことには全く意味がなかったのだ。

改憲派も中道派も現状にフリーライドしているという気持ちがありながら、それを認めてこなかった。結局沖縄に負担を押し付けているだけだったのだが「自分たちは過分な貢献をしている」などと自分たちを納得させてきた。

47Newsの記事はこれを端的に示している。また始まったトランプ氏「安保ただ乗り」論、沖縄の負担無視とは要するに日本は沖縄を差し出しているのにまだ足りないというのかというタイトルになっている。随分とひどい話だが、日本のマスコミはこれでなんとかなると考えてきたのだろう。

だが、この菅ロジックは内外で通用しなくなっている。トランプ大統領の例からは分かるのは民主主義社会の政治家が徐々に国益を考えている余裕を失っているということだ。おそらくこれは文在寅大統領にも言えるだろう。北朝鮮交渉の行き詰まりは政権の死を意味する。

相手が具体的な成果を求めるのだから日本人はそれを差し出すか、あるいは勇気を持ってできないことはできないと断るべきだ。そのためには国民が合意を形成する必要がある。しかし、指導力にかける安倍首相にはそれはできないだろう。

一方で、国内でも不穏な動きが出始めた。安倍応援団が政府批判に転じたという記事がある。こちらは日刊ゲンダイの記事なのでどこまで信憑性があるかどうかはわからないのだが、外国人受け入れと消費税という累積でイエローカードになったようだ。彼らもまた待てなくなっているのだろう。皆「話を聞いてくれるだけではだめだ」と言い始めている。彼らも具体的な成果をよこせというわけだ。それは安倍独断による憲法改正である。

安倍政権の計画は崩壊寸前だが、皮肉なことに護憲派と呼ばれる人たちはもっとひどい影響が出るだろう。自分たちに支持が集まっていないことは知っている。ただし、日本人のほどんどは現状維持派だ。だから、自分たちの無力が露呈しないためには「交渉のテーブルには絶対に乗らない」という作戦を採用していた。だから、これまで自分たちがどうしたいかは対して話し合ってこなかったのである。

日米安保条約は変えるべきだ――。トランプ米大統領の29日の発言に、米軍基地周辺の住民や平和運動に取り組む人たちの間には、疑問や当惑が広がった。専門家は「トランプ流の脅し」「改定はあり得ない」と冷静に受け止めている。

安保批判「脅しだ」 高い負担率、トランプ氏の理解に疑問

朝日新聞のこの記事は「冷静だ」と書いている。だた、そう書けば書くほど彼らの動揺が伝わってくる。宿題をしてこなかった学生が慌てているのと同じような印象がある。

自分たちはどうしたいのかを言わずにできるだけ負担を避けようという作戦は内外からの突き上げをくらい大きく軌道修正を求められているように見える。こうなったら腹を決めて自分たちの国益を追求するべきなのだが、日本人にそれができるだろうか。

我々は無数のグレーをなくし全てを漂白しようとしているのではないか

先日は裏の世界だった芸能界が、実業の支援(スポンサーシップ)を受けることで「きれいに」ならざるをえなくなっていった様子を見た。社会の漂白化と言って良い。だがこれは、実業が縮小すると漂白剤が切れて本来の黒い部分が見えてしまった。




アメトーーク!のスポンサーが次々と降りたということだが、思い入れのある番組であればそんなことはなかったはずで「枠で買わせる」という電通方式が崩壊しかけていることを意味しているのかもしれない。枠が崩壊すればスポンサーに思い入れのない夜のバラエティ番組は作れなくなり放送休止になるか社会正義を振りかざす情報番組に切り替わってしまうだろう。だが、スポンサーに思い入れのある番組というと「何か教養的で押し付けがましいものが多い」。世界遺産を眺めたり各地の鉄道旅行を楽しむという番組があっても良いが、どこを切っても同じようでとてもつまらない。

背景には前近代的な「契約書のない」社会もあった。つまり、根幹の部分では裏社会とそれほど変わらない契約体系になっていたのだ。これは吉本興業の出自と関係がある。

今回は、この契約のない裏経済が必ずしも「いけないことなのか」ということについて考えたい。例えばおれおれ詐欺はいけないことである。麻薬の取引もやってはいけない。では、芸能に裏経済的な要素があるということは、芸能も同じようにいけない仕事だということなのだろうか。

芸能裏経済は、表の世界に出られないような人たちの生活の支えになっていた。芸能はセーフティネットがない社会では生活保護的な側面を持っていた。

落語の徒弟制度はその典型だ。立川志らくが弟子を降格させたことは「生活の糧を奪うひどい行為」なのだが、芸能界が表の世界ではない以上許容される隙間がある。立川志らくが伝統に基づいて好きに食わせているのだから「煮て食おうが焼いて食おうが」ということになる。どちらも契約とは無縁な世界だ。

それよりもちょっと新しいのが多分たけし軍団だろう。どうにもならないような人たちが集まるような場所になっていて、ビートたけしが稼いだ金で彼らを「食べさせていた」。これはビートたけしの「浅草」という出自に関係があるのだろう。浅草システムは終身雇用制や1940年体制が成立する前からあるのだから、ビートたけしはその最後の支え手だったことになる。ただ、たけし軍団はオフィス北野という会社組織を作ったことでその意味づけに変化が生じている。つまり中間形態と言って良い。

吉本興業の問題点は会社が国家権力と結びついたり芸人を「文化人枠」で売り出そうとしたことにあるのかもしれない。つまり表に近づきすぎてしまったのである。だが、その前兆は随分前からあったのではないか。会社形式にしスクールシステムという近代的な育成システムを一部取り入れた。近代的システムに拠っているのなら芸人にも請負契約や雇用契約などを結ぶべきだった。ところが実際には社員と芸人、つまり近代と前近代という二つのシステムがある。これが問題を起こしている。

もともと「劇場で表から切り離されていた」ところに演芸の楽しみがあったのだが、テレビはこれをお茶の間に乱暴に放り投げてしまった。そして皮肉なことに芸能番組の方がなくなりつつある。お茶の間は日常の延長なのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。

その意味では報道・情報番組の芸人は非常に微妙な立ち位置にいる。日常の正義にどっぷり身を浸してしまうと「アナウンサー」になってしまい面白みに欠ける。かといってコメンテータのような専門性はない。どこか逸脱しつつ、かといって完全に踏み出さないという「綱渡り」を毎日しなければならない。あちらの世界に一歩足をかけつつこちらの社会にお邪魔するような感じだ。

だがそうしている間に「あちらの世界」が消えつつある。

もともと、映画や演劇の効用は「切り離された世界」そのものにあった。暗い世界に観客を誘い、その中で「現実にはありえない」ことを見せるというのが舞台芸術だった。我々はその中で現実ではできない体験をして現実世界に戻ってゆくのだが、何かを持ち帰る。その何かを「カタルシス(浄化)」と言ったりする。

カタルシスが成立するためにはある程度の時間と空間の区切りが必要である。私たちがスマホとSNSで失いつつあるのはそんなカタルシスが得られる区切りのある時間と空間である。非現実が「現実のきれい事」に侵食されてゆくという世界を我々は生きている。そしてあちら側の世界を「漂白しなければ」と思い込むようになった。

カタルシスが重要なのは、我々が心理的な抑圧を抱えているからである。こうした抑圧は罪悪感や社会通念によって何重にも蓋をされている。やがてそうした感情を認知することすら難しくなりやがて心理的不調や体調の不調を訴えることになる。つまり、我々は環境を漂白しても自分自身を漂白できないのだ。

我々は、白と黒の間の無数のグレーであり、この世の理屈が成り立つ空間とそうでない空間の間にも無数のシェーディングがあった。私たちが失いつつあるのはそういう自己認識だ。

犯罪的組織にもそれが言える。かつては極悪な真っ黒な人たちと正常な真っ白な人たちにの間には無数のグレーがあり、社会もそのことがわかっていた。だが、現代では普通に思えていた人たちがいきなり殺人事件を起こすと白が黒になったといっていちいち騒ぎになる。さらに、犯罪組織はどんどん暗い社会に追い詰められ凶悪さや狡猾さを増してゆく。我々は多様性を失って社会全体を漂白しようとしているのだが、果たして人間にそんなことができるのだろうかという疑問が残る。

いずれにせよ、我々は「厄介な部分を抱えた存在」ではあっても、それを晒すことを一切許されないという随分と難しい世界を自分たちで作っているのかもしれない。