繰り返される劇場型政治

先日来「不毛な国会運営」について見ている。変化を嫌う有権者に支持された与党と院内活動家として嫌がらせに走らざるをえない野党が劇場型の不毛な争いを繰り返す中で、次第に問題解決はおろか現状把握すらできなくなってしまうという光景である。




この様子を観察していると、「ああ日本人には議論はできないのだなあ」という諦めに似た気持ちが芽生えてくる。さらに二大政党制の歴史について研究する本を読んむと劇場型政治は政党政治とともに始まったことがわかる。今回は筒井清忠という人の昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)という本を読んでみた。そもそも日本人に議論をさせてはいけないのである。

先日見た小西洋之議員の「クイズ型国会質問」は劇場型政治の一つであると考えられる。これは国会が国民世論の調整機能を失ったということを意味している。もともと国会は「裏ネゴ」で意見調整をしており会議には本質的な意味はなかった。これが安倍晋三という日本の伝統を理解できない首相が政権をとってしまったために裏側での調整ができなくなり、表に出てきてしまったのである。劇場型政治というと小泉純一郎を思い出す。言い切りで世論を挑発し選挙に勝つという手法である。安倍政治はその劣化版である。選挙という限られた期間劇場が開催されるのではない。毎日の議会が大騒ぎなのだ。

ここで、劇場型政治はいつ始まったのだろうかという疑問が出てくる。小選挙区制度のもとで劇場型政治が始まったのならそれをやめればいい。だが、筒井は「普通選挙が始まる時期にはもう劇場型政治があった」としている。

大正デモクラシーの結果、庶民を政治に組み込むことが必要だと考えた政府は、普通選挙制度の実施を決めた。が、その直前に朴烈(パクヨル)事件が起きた。朝鮮人のパク・ヨルが天皇の暗殺を図ったとされる事件である。だがこの事件は意外な展開を見せる。獄中でパク・ヨルと内縁の妻が寄り添っている当時としては「たいへん不適切な写真」が流出した。政権を転覆しようとした反対派が騒ぎを大きくするために写真を流出させたとされているそうだ。週刊誌がなかった当時の新聞がこの問題をセンセーショナルに取り上げ、実際に政権は退陣直前まで追い詰められたのだが、大正天皇が崩御し「政治休戦」になった。

この事件が政治問題化したのは「普通選挙を実施しないと国民が納得しない」というほど大正デモクラシーが盛り上がっていたからだ。だが、政治に関与したことがない国民は政策論争には興味を示さず「破廉恥な写真のスキャンダルを政治家がどう処理するのか」という肌感覚で政治を見つめた。世論を味方につけようとした政治家たちは、天皇を殺そうとした不逞の輩が獄中で内縁の妻とふしだらな関係を持っていると騒ぎ立てたのである。今でも政治的な失敗で国会議員のクビが飛ぶことはないが、不倫などの女性問題はすぐに進退に直結する。日本の政治状況は今も昔もそれほど変わらないのである。

この後も、政党は一つにまとまって議論をすることはなく、自分たちの勢力争いのために地域をも巻き込んだ罵り合いを始めた。大分県では、公共事業、医者、旅館、消防警察とも二系統に分かれていたという。ヤクザも二系統ありついに殺人事件が起きるのだが、それを阻止したところ両陣営から感謝されたらしい。あまりにも対立が激化し両陣営とも「ヤクザを持て余していた」というのである。

知識人たちは政党を見限り、第三極になりそうな無産政党に希望を持つことになるのだが、それもやがては見限られてしまった。最終的には「結果を出す」人たちが支持されることになる。それが軍部なのだ。日本は戦争に勝った結果大陸に権益ができた。軍部はそれを守る必要があったが財政が苦しくなっていたことから議会は軍縮に傾く。世界でも日本の軍縮を求める声がありロンドン軍縮会議が行われていた。結果的に軍部は単独でことを起こし満州事変が起きた。

マスコミも文化人も軍部こそが問題を打開してくれるとして応援するようになる。当初朝日新聞は満州事変に懐疑的な見方をしていたのだが、朝日新聞の満州事変の取り扱いが気に入らないとして不買運動が起こり購読者が数万人単位で減っていった。代わりに大阪毎日が拡大するのを見て焦った朝日新聞は満州事変支持を会社の方針とする。山本武利の研究によると、朝日新聞の購読者は日清日露の両戦争で23%づつ増えそのあと減少していた。朝日新聞が満州事変支持に転じると27%も購読者が増えその後そのトレンドは続いたのだという。つまり、一般の人たちは議会ではなくもう一つの劇場を戦争に見出したのである。当初日本人は戦争を「自分とは関係のないところで行う派手なショー」だと思っていたことになる。それが間違いだと気がつくのはずっと後のことで、その時にはもう取り返しがつかないことになってしまっていた。

議会は対立に陥り地域をも巻き込んだ全面対決があった。ちょうどTwitterで人々が罵り合っているのに似ている。日本の対立構造は表面化すると抑えが効かなくなる。リーダーになる人がいないので「誰にも止められなくなってしまう」のである。だが、この騒ぎは最終的に収まった。犬養毅が軍人に暗殺され萎縮した政治家たちは軍人に内閣を仕切らせたからだ。こうして政党は軍部を追認する大政翼賛会を作る。つまり不毛な対立は誰にも止められず首相が命を落とすことで怖くなってやめてしまうのである。

大正デモクラシーという改革によって生まれた普通選挙制度下の二大政党政治は何の成果を出すこともなくすぐに萎縮した。そのあと揺り戻しとしての軍閥内閣から大政翼賛会への道が開かれた。対立に嫌気をさした人たちは「軍国政治」という正解を賞賛する道を選び、国民もこの劇場型の政治を支持したということになる。原敬の最初の政党内閣は1918年、成人男子普通選挙法の成立が1925年、五・一五事件が1932年である。原敬から数えると14年、普通選挙法下ではわずか7年だった。

このことからわかることはいくつかある。一つは日本人が「表で議論」を始めるとそれは決してまとまらないということである。そして「最も成果が出ている」ところに流れてゆくか、正解がわからないとして延々と議論が続くことになる。つまり現在のような不毛な劇場型の<政治議論>が続いているということは正解を見失っており、軍部のように一発逆転してくれる大正解がないということである。もともと日本人は観客として派手な劇場に関わることと正解を叫ぶことが大好きであり、正解のない地道な議論には耐えられないのだ。

今回の国会議論を聞いていても「足元の数字をきちんと確認してもう一度考え直そう」という議員たちがいないわけではない。だが、彼らの声は派手な劇場型を求める人たちと正解を賞賛したい人たちにかき消されてしまう。クイズ番組化した質問や答弁者への恫喝が蔓延する国会中継は「この劇場型」の表れなのだが、こうした退屈なショーに飽きた国民が「さあ議論しましょう」と言いだす可能性は低い。リーダーシップが働かなければ国民はさらに派手なショーを求め、さらにわかりやすい正解を賞賛することになるだろう。

安倍政権が「停滞する国内経済を活性化するために勝てるチーム(米軍中心の同盟)で中国をやっつけたい」と考えていることは明白である。これは多くの日本人が持っている「何か派手なことをして勝ちたい」という気分を象徴している。だが、実はこれに反対する平和主義なはずの人たちも「とにかく派手なショーを演出して勝ちたい」と考えている。個人ではおとなしい日本人は集団の対立構造を提示されると「とにかく勝ちたい」として戦いをエスカレートさせてしまう悪癖がある。日本人はみんなで正解を模索するという退屈な行為には耐えられないのだ。

法の支配と法治主義の対義語は何か?

院内活動家の小西洋之先生が安倍首相にクイズを出して悦に入っていた。安倍首相は法の支配という言葉を使っているがその反対語は何のかと問うたのだ。中継が入っている大切な国会の時間をクイズ番組にして何が楽しいのだろうかと思った。




ところがこれに安倍首相が頓珍漢な答えをしたことでこのクイズに意味が出てきてしまった。安倍首相は、インドなど法の支配を原則にしている国で「力による現状変更」を封じ込めたいと言い出したのである。これはすなわち中国を指している。言葉には出さないが中国を非難するために使っている言葉なのだ。

ちなみにQuoraで聞いたところ「情の支配」の韓国と対比している人がいた。つまり、背景には中国や韓国のような新参者の国がいくら経済的に台頭しようが、それはそれだけのことであって日本のように立派な議会政治の伝統のある国とは比べものにならないのだという侮蔑の意識がある。このようにそもそも使い方が異なっているためあの議論は全く噛み合わないのである。

この後、安倍首相は小西さんが何を言おうとしているのかサッパリわからないと言っていた。多分本当にわからなかったのだろう。この人は自己流の解釈で政治や憲法概念を勝手に歪めてしまうところがある。一方小西さんは大学の授業で習った「法治主義」の講義をそのまま覚えているのだろう。大学では日本型の意思決定システムのようなことは教えないだろうから、なぜ日本で法治主義が広がらないのかという理解をしないまま、Twitterで「自民党の政治家も知らなかった」といってさらに悦に入っていた。

ここでふと疑問に思った。本当に法治主義の反対語は小西さんがいうように「人の支配」なのだろうか。ではその人とは何なのか。この質問に答えるのは実はそれほど簡単ではないようだ。そして、この質問を考えることによって、なぜ国会が「安倍・小西」の劇場型クイズ番組になってしまうのかということがわかってくる。

元々の「法治主義」は権力者の意思決定に透明性を与えるという概念であるらしい。この大陸的な考え方は必ずしも「王権・帝権」を議会と法が縛るという意味にはならない。法治主義と人治主義(人の支配)が対立概念になるわけではなく、形式主義か非形式主義という違いなのである。

法治主義と法の支配は全く別の概念だ。王様が勝手に税金を決めるのを防ぐために「王様の権利を制限して法律に従ってもらおう」としたのが法の支配であり、日本では「憲法が首相を縛る」というような使われ方をしている。護憲派の理論である。だが、この考え方の前提は議会と権力者の対立である。王様に選挙はないが議院内閣制では首相は立法府の代表なので実は首相は国民の側にいる。だから、法によって選ばれた総理大臣が「勝手に支配者になる」ことはない。

議会政治が機能不全を起こしているのは日本の天皇が政治的実権を持たないからである。このため選挙に勝った国民の代表が天皇から監督されず暴走するという極めて不思議な現象が起きる。これは天皇に統制されていたはずの軍隊が勝手に暴走したのに似ている。小西さんは「法治主義」ではなく「法の支配」について言っているので、反対語は人治主義(元の意味では王様が自分の頭の中にしかない体系で国民を支配すること)でではなく独裁ということになる。だが、「小西理論」は多数派工作に失敗した少数派のルサンチマンでしかない。安倍首相は独裁をしているわけではなく自民との多数派が「安倍さんが便利だから」担いでいるだけだからだ。

普通に考えると、クイズを出した人も騒いでいる人も実はなんとなくしかこの単語を理解していないことになる。つまり、どっちもどっちなのである。

以上で「安倍と小西の戦い」の論評は終わりになってしまうのだが、そもそもなぜTwitterの人たちは小西さんを応援するのだろうか。それは日本人が話し合いによって問題が解決できるとは思っていないからである。それどころか一旦対立が表面化するとその対立を喜んで消費するようになる。日本人は集団で運動会をやるのがとても好きな民族なのである。このため一度運動会に陥った議会はそもそもの調整機能を失う。

日本型の暴走についてはすでに散々観察した。誰が意思決定しているかがわからなくなり集団で暴走するのが日本型である。第二次世界大戦は「誰かがリードした」わけではなく、気がついたらそうなっていて誰も止められなかったというのが正しい。議会政治も自民党側は統制が取れているが野党はすでに分裂してしまった。だが、自民党もやがて分裂期を迎えることになる。現在借金で賄われている「ばらまく地位」と「ばらまく金」がやがて尽きてしまうからである。

安倍首相を独裁者に仕立てたい気持ちはわかる。小西さんとそのお友達は「全ては安倍のせい」という安倍暴走=独裁理論がある。彼らはそのゴールに向かってボールを蹴っているのだが、実はそんなゴールはどこにもない。誰も何も決められなくなるというのが日本型の議論の一つの終着点だからである。

こうしたことはすでに第二次世界大戦の前にも起きており劇場型はその兆候だ。次回はその様子を観察したい。

修正エンゲル係数という欺瞞

修正エンゲル係数が富裕層優遇だという話がTwitterで流れてきた。ちょっとこれは言いがかりだなと思ったのだが、個人が書いているらしいのでそれほどムキになって反論するような話でもないのかもしれない。が、これを調べてみるといろいろなことがわかる。




修正エンゲル係数とはエンゲル係数を算出するときに貯蓄なども「消費」として計上した値である。このエンゲル係数の上昇は2012年から始まっている。ちょうど安倍政権が始まった時なので「アベノミクスがうまくいっていない証拠なのではないか」とも言われる。

アベノミクスはそもそも通貨の価値を毀損することにより円安誘導するのが目的だった。国民に我慢してもらって企業に儲けてもらおうという政策である。つまり、ドルベースの国民の収入や円建て財産の価値を毀損してでも企業の交易条件をよくする企業救済策なのである。だからそれで国民の生活が苦しくなったとしてもそれほど不思議ではない。

だが、実際にはなぜ2012年からエンゲル係数が上がり続けているのかということはよくわからない。団塊の世代が定年退職する時期にあたり人口動態に変化があった可能性もある。安倍政権には野党転落した経験があり、その「悪夢のような」恐怖感から「現状をごまかしてでも現政権の政策を正当化したい」という<犯罪動機>がある。だから、不都合な変化について現状を調査しようという気持ちにならないのだろう。

実際に経済統計に詳しい人が書いている記事を読むと、問題はそんな程度のものではないようだ。そもそもこの統計は高齢化社会の実情はわからないというのだ。

しかし、修正エンゲル係数にも問題があります。小職の先の記事でも指摘していますように、最近のエンゲル係数の上昇の主因は高齢化なのですが、修正エンゲル係数では実は高齢化要因を把握することができません。なぜなら、家計調査では所得に関する計数は勤労世帯のものしか公表されていないからです。つまり、修正エンゲル係数は、主に現役世代の懐具合を表しているのであり、高齢者も含めた全国民の平均的な懐具合を表すことができないのです。

修正エンゲル係数」という忖度?

そもそもこの政府統計ではそもそも高齢世帯の経済実態はわからないとしている。つまり、統計のあり方を議論しないと実態はわからないのだが、これを議論すると政府の失敗を隠蔽する方向に話が流れてしまうということだ。憲法改正にも言えることだが、政府の不純な動機が議論そのものを妨げているのである。

この記事では消費性向からエンゲル係数分を取り除き2015年までは確かにアベノミクスの効果はあったが、それ以降は経済が不調に陥っているのだろうと分析している。この分析は鈴木明彦の「戦後最長の経済成長」は嘘だったのではないかという観測とも合致する。こちらでも、2015年からは景気後退期で2017年からまた小さな山があったと分析している。つまり、当初のアベノミクスに効果があったとしてもそれは賞味期限切れなので新しい施策が必要なはずなのである。しかし、それを議論しようとすると今度は「消費税を上げるべきではないのでは?」という野党議論にぶつかり、話し合いそのものができない。

大塚耕平参議院議員は統計について安倍首相に具体的な質問をしていた。大塚さんによると「景気判断」というのは数値を参考にした恣意的なものであり議論が紛糾した期間があるという。さらに、調査統計のうち「どうやって出しているか」が公表されていないものがあるそうだ。大塚さんは算出基準を明確に出すように予算委員会に求めていたのだが、これが実現するかは不透明である。内閣のメンバーがこの意味をきちんと理解していない可能性が高いからだ。

この日の質問では院内活動家の小西洋之議員が安倍首相を監督する責任があると言って尊大な態度を取っていた。実際の監督責任とは正しい資料をもとに判断することであって上から目線で首相を叱責することではない。だが、不幸なことにまっとうな大塚議員の主張はあまり野党内では人気がないようだ。「勧善懲悪的な歌舞伎要素」に欠けるからだろう。NHKの国会中継は国民のルサンチマンを晴らすエンターティンメントになりつつある。

さて、こんな国会議論の前に、NHKのあさイチでは「一般家庭の家計が苦しくなっている」という特集をやっていた。同じ手取りでも可処分所得は減っているとしている。このため家計を引き締める必要があり、ローンの借り換えなどを行わなければならない。教育費や親の介護で負担が増え自己破産も多いそうだ。社会保障費は上がり続け、実際に支援が必要な人たちには回って行かない。ただ、柳沢さんがいなくなったあさイチではこのプレゼンテーションに疑問を持つ人がもういない。

結果的にNHKのこの特集は「生活が苦しいなら自己責任と工夫で乗り切りましょう」というプロパガンダになっている。生活が苦しいのは工夫が足らぬからだという自己責任論である。NHKは地上波離れを意識して通信分野への権益拡大を狙っており、政府を忖度しつつ生活実感に即した特集を組んでいるのだろう。これが結果的に大本営の失敗を隠す「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」キャンペーンになっている。

NHKは「なぜ手取りの収入が減っているのか」ということは説明しなかった。社会保障費負担が伸びており実質的に負担増社会になっているということは無視されてしまったのだ。野党も政権を取れば手取りの減少と現役世代の減少という条件を変えられない。だから彼らは抜本的で具体的な提案をせず院内妨害活動に勤しむしかない。Twitterを見ている限り大塚議員への応援はなく、森ゆうこさんや小西洋之さんといった院内活動家にばかり拍手が送られる。

こんななか、偽薬効果も含めてアベノミクスの効果は薄れており、諸物価が上がり始めた。これから社会保障費の増大、将来不安への備えに加えて食費の上昇が起こる。しばらくはアベノミクスの元でも豊かさが実感できないのは工夫が足らぬからだという自己責任の時代が続くことになるのだろう。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」は花森安治が考えたという戦前の有名な標語だが、日本はまた戦前さながらの「支援がなくても文句を言わずに精神で乗り切る」時代に入った。こうしていつ乗り込んでくるのかわからないGHQの登場を待つのだ。

国会というよりアメフトに近い参議院の<論戦>

一時間だけ我慢して福山哲郎さんの質問を聞いた。結論から言うと「院内妨害活動」の一環であり、見なくてもいいやと思った。全く議論になっていなかったのである。




福山さんは辺野古の基地建設について聞いていた。安倍政権は「沖縄は勝手に住民投票をやったが、俺たちは基地建設を進めるもんね」と言っている。住民自治の原則を踏みにじるものでありこれ自体は許されるものではなさそうだ。だが同時に「最終決定するのは有権者」というのも民主主義の原則である。これを深掘りしても意味がない。安倍総理は国民の大多数がこの件に関心がないことがわかっていてやっているから反省など引き出せないのだ。

次に福山さんは「沖縄県が埋め立て承認差し止めをしているのだから工事を差し止めるべきでは」と言っていた。これも筋論としては正しい。これに対して防衛省は「決定の不服申し立て」をしているのだが、不服申し立ては住民が県に対して行うものであって行政府が行うべきものではない。が、これも司法は行政に手出ししないだろうという見込みの元に行われている。なので、これも不毛な議論に終わった。

福山さんが持って行きたかった結論は「想定外の事情(軟弱地盤の改良)が出てきたので工事に十年以上かかりそうですね」というものだったようだ。防衛省の担当者は数十分の不毛なやりとりの末にこれを認めたのである。福山さんは最終的に試合には勝ったのだがかなりの時間をこれに使ってしまった。

福山さんが安倍首相に「これは実質的な普天間基地の固定化なのではないか」と問い詰め、色をなして「民主党時代には何もできなかったのではないか」と感情的な反論をして議論は終わりになった。その間具体的な問題は何一つ解決しなかった。

この間行われているのはゴールのない「アメリカンフットボール」なのである。野党側が押し、与党側は「ここまでだったら下がっても良い」と作戦会議をしている。アメフトは前進後退を繰り返して最後にゴールにボールを持ち込めば決着がつく。だが、国会のアメフトにはゴールがない。つまり、前進と後退をただ繰り返すだけなのだ。

福山さんのやりたかったことはNHKのカメラの前で安倍政権の負けを晒すことだった。一歩前進すればよいのだ。だが「この時間にもっと別のことを聞きたかった」と思っている国民は多いはずだ。日本社会は解決されていない多くの問題を抱えている。それは全く解決していない。ただ、野党が一歩前進したことを喜ぶ応援団は多少はいるだろう。

日本人が議論を嫌がるのは「勝ち負け」を嫌うからである。負けは議論に負けたということを意味するのではない。全面的に人格が否定されたということを意味している。だから、いったん試合が表面化するとどちらも後に引けなくなってしまう。対立構造が固定化してしまうのである。改めて、日本では勝ち負けがはっきりした政権交代は難しいなあと思った。

否定された側は全面的に人格否定されたと感じ「一切の協力」を拒絶するようになる。そしてもう一度政権交代が起こると「前の政権は全てダメだった」という。結局、政党というグループに別れた運動会になり国民を巻き込んでしまうのである。戦前の政友会・民政党系による二大政党制の時代にも不毛な議会運営が横行し、それがのちの大政翼賛会や軍部の暴走につながってゆく。日本人は戦前に起こったことを再現しているのだが、それを忘れてしまっているのである。

ここまでを書き終えても、福山さんの質問はまだ続いている。今度は、厚生労働省の毎月勤労統計の問題で、樋口委員長が「自治体ヒアリングの議事録はあるが手元にないから答えられない」と言い出した。これを指示しているのは自民党側の筆頭理事である。これはもう国民の代表である議員を愚弄する「違法タックル」そのものである。多分安倍監督が理事に指示を飛ばし選手である樋口さんが「メモがないからちゃんとしたことが言えないや」と言わされている。日大の違法タックル事件との違いは「樋口さん違法タックルした選手のように反省しない」という点だけだろう。

このタックルの効果はてきめんだった。一時間半経ったところで一旦休憩となり裏で作戦会議が始まった。せっかくNHKの中継まで入っているのにわざわざ「議事録の記録が残らずカメラも入っていない」ところに隠れて、裏で試合を始めてしまったのである。日本人は表で対立が表面化すると後に引けなくなる。彼らの後ろには大勢の応援団がいるからだ。だから、後ろに隠れて作戦会議をするのだろう。国会のアメフトはルールさえきちんと決まっていないのだ。

裏でこそこそやるなら、もう議会なんかなくてもいいのではないかとさえ思う。出来損ないのアメフトもどきの試合にいくら金をかければ済むのかという憤りしか残らないからだ。この参議院の<論戦>は専門性がなくゴールすら明確でない議論ほど無意味なものはないということを再確認させられただけだけにおわった。

櫻井充参議院議員の質問は安心して聞いていられたのだが……

櫻井充参議院議員の質問を1時間ほど聞いた。国民民主党・新緑風会の質問時間だった。安心して聞けた。




安心して聞けた理由は簡単だ。櫻井議員は「児童虐待」の問題から科学技術予算といった幅広い問題を質問していたのだが、どれも現場の声に従った具体的な提案だったからだ。さすが良識の府である参議院と思わせるものだった。なぜこんなことができるのだろうかと思ったのだが「この前診断書を書いた」と言っていたので、未だに医師としての活動をしているらしい。つまり、現実社会との接点があるのだ。

職業政治家は現実との接点を失ってしまうので、どうしても普通の国民の耳目を集めるために何らかのパフォーマンスに走らざるをえない。不毛なビジョンや計画のオンパレードがあり、それを過剰に褒めて利益配分にあずかろうとする下手なテレビショッピングのMCのような政治家が現れたり、逆に何か不具合を見つける「院内活動家」に変わってしまうのであろう。午後には自由党の森ゆうこ議員が質問に立っていたが聞くに堪えないものだった。著作権の問題については最終的に「自民党でしっかり検討してください」と投げやりになり、委員会で失笑されていた。

前回のCOBOLの話でも思ったのだが、日本人は自分のドメインについてはとても強い。中長期的なビジョンも立てられるし問題点もきちんと把握している人が多いのである。参議院では維新の藤巻健史議員なども質問自体は安心して聞くことができる。日本はスペシャリストと職人の国だ。

ところが、イデオロギーや全体の傾向というような枠組みの変更が絡む話になると途端にパースペクティブが失われ議論が明後日の方向に向かってしまう。つまり、日本はジェネラリストがいないし育てられないという致命的な欠陥を抱えている。

本来政治家はビジョンを示し専門家をまとめるべきなので、政治にはビジョンを持ったジェネラリストが必要である。だが、そんな人はほとんど出てこない。であればそれを認めて、せめて参議院だけでもいいからスペシャリストの議会にして欲しいと思う。参議院の政治家は全て兼業にしてもらえれば、森さんのような院内活動家は減り、まともで緊張感のある議論が生まれるだろう。

普段から「日本の問題」についてあれこれ上から目線で語っているわけだが、スペシャリストや職人に関しては文句のつけようがない。だが、現行の制度だと「政党」に別れなければならないので、どうしても所属政党のイデオロギーや方針に引っ張られることになる。櫻井さんも専門外の出口戦略について質問をさせられていた。政党というものをなくしてしまわないと「本当に良識がある人たちだけが集まる」ということができないのかもしれない。特に集団での勝負に熱中してしまう傾向のある日本人にとって政党にはデメリットが多い。

舟山議員という人が櫻井さんに続いて質問をしていた。が、専門的知見がない(農林水産省の官僚出身のようだが農業そのものは知らないのだろう)ので専門的質問ができず、いつものように日米FTAの問題について「茂木大臣のやり方はおかしいし、内閣の政策の決め方は気に入らない」というようなことを言って噛み付いていた。そんな話は居酒屋でするべきで、議会ではもっとちゃんとした質問をして欲しい。櫻井さんは普段見ている「なかなか対処してもらえない現実の問題」について語れるのだが、官僚出身の舟山さんは問題を作り出そうと躍起になってしまうのである。つまりスペシャリティのなさが「院内活動家」や官僚をいじめるショーマンを作り出してしまうのだろう。

もちろん、専門家のみだと「業界内の常識」がパラダイムを縛ってしまうという問題もある。例えば、厚生労働省の統計問題を取ると、統計のために紙で情報を集めそれを一括して中央で一括処理するという古いパラダイムのままでは問題の根本は解決されないし、専門家に聞いても問題点は掘り起こせないだろう。専門家が慣れ親しんだ考え方に基づくのは当たり前のことなので、これに疑問を呈するような人たちが一定数いる必要がある。衆議院の存在意義は多分そこにある。ジェネラリストとスペシャリストの両方が必要なのだ。

もちろん安倍政権にもビジョンはあるのだが、そのビジョンはどこかいびつな形をしている。安倍首相は党内で数センチ浮いている(あるいはお友達に担がれて足が地面についていない)のでビジョンが作れない。もともと日本の議院内閣制は、それぞれの議員のアンテナに引っかかってきたものをボトムアップで上げて行き、議員の中から選ばれた代表者である総理大臣がまとめるという思想で作られていると思う。実はアドミニストレーション(行政)と議会の間にはチェック関係はないのだ。

この合意形成型の議会のあり方は我々が習ってきた「議会を行政府がチェックする」という思想とは異なっている。チェックアンドバランスは議会と大統領が別の選挙によって選ばれる二元代表制の考え方である。現在の議会制度は「戦前を踏襲しアメリカが改良した」ものなので日本の社会習慣には合っていない。その証拠に日本の政党は「国民から信任を失う」ことに心理的に耐えられない。穏やかな合議制の国なので否定されることに慣れていないからである。

今回は二つの事例を挙げて「文化的な違い」について考えた。こうした文化的な違いを織り込まずに「政党同士がコンペを行う」という小選挙区制度を導入してしまったせいで、政党の力ばかりが強くなった。その結果議員がボトムアップで政策を上げてゆくという本来的なあり方が取れなくなった。政党幹部に公認権を握られた立法府が官邸の追認機関になってしまったのである。その結果、我々が見せられているのはビジョンを作る能力のない官邸が大統領府のように暴走し、それを専門性のないショーマンや院内活動家が破壊するという考えうる限り最悪の議会のあり方なのである。

厚生労働省の受動攻撃(説明責任のサボタージュ)も政党間の争いに巻き込まれて、現実的な対応はしてもらえず、さらに伏魔殿呼ばわりされてしまうという被害に巻き込まれた結果なのだろう。このままでは行政府は本来の働きができないままなのではないだろうか。

ここから理想の形を仮まとめすると、まず衆議院がボトムアップで吸い上げてきた問題をパラダイムの転換ができるビジョンを持った複数のリーダーが吸い上げて政策を作り、それを政党とは関係がない専門家の集まった参議院で再検討してもらうという形にしたほうがよさそうである。そのためには対立姿勢に陥らない政党が複数連立を組んだほうがいい。金権政治を克服できなかった自民党をみればわかるように一党独裁は必ず腐敗が起こるし、現在の与党対野党対立が起こる小選挙区制度では議会が不毛な運動会になってしまう。

これまで憲法や選挙制度はいたずらに変えないほうがいいのではないかと考えてきた。しかし、こうした不毛な議会と壊れつつある行政組織の問題を見ていると、今の政党ベースの議会というのはあまりに問題点が多すぎるのかなと思えてしまう。本来保守と呼ばれる人たちは「日本人がどのような思考形式にしたがってきたか」という知見を持ち、それを現実的な提案に置き換えられる人たちなのだろうと思うのだが、日本中のどこを探してもそんな人たちは見つかりそうもない。政治のインサイダーから早くそういう人が現れて、議会制度改革をしてくれないかと思う。外から見ていると問題はかなり明白なように思える。

戦いに夢中になり問題が見えなくなった立憲民主党

先日、COBOLについて調べていて気になる記事を見つけた。IWJなので岩上安身さんのところだと思うのだが、タイトルが「厚労省・屋敷次郎氏「COBOLで集計されている部分がある」!? 立憲民主党・川内博史衆院議員「COBOL言語での設計図をください!分析しますから」~1.23賃金偽装問題 野党合同ヒアリング 2019.1.23」となっている。これを読んでどんな感想を持つだろうか。COBOLに何か問題があると思わないだろうか。




今回は日本人がどうして問題を解決できないのかを見る。キーワードは村と競争である。

実際にビデオを見てもらうとわかるのだが、立憲民主党は「仕様を渡せないならソースから追う」と言っている。つまり、彼らが問題視しているのは「厚生労働省が仕様を渡さないこと」である。なぜ厚生労働省が情報を渡さないのかはビデオを見るとわかる。ものすごい勢いで恫喝されているので身をすくめてしまうのだろう。

だが、ビデオを見ないでタイトルの前半部分だけを見ると「COBOLそのものがなんだか悪い」ようにも思えてしまう。つまり、IWJは立憲民主党が何を要求しているのかということをあまり理解しないままでこのタイトルをつけたのではないかと思える。これが伝言ゲームの素地になっている。こうした誤解を生みそうなタイトルを簡単につけるところを「メディア」としては信頼ができないなと思う。

前回見たようにCOBOLには問題がある。中にいると気がつきにくいのだが、中央集権型(ホストコンピュータという)は陳腐化していて制度設計からやり直さないと次世代に大きな禍根を残すことになるだろう。そのためには中長期的な予算化が必要だ。「部外者がわいわい騒ぐ」ことで状況が余計にややこしくなってしまい、一体何の議論をしているのかわからなくなってしまう。

前回は「村人」と「第三者」という分類をしたのだが、ここで第三類型が出てきた。つまり、隣の村の問題を自分たちの問題に利用しようとする人たちがいるのである。

  1. 村人
  2. 知識のある手出しができない他人
  3. 隣村の問題を利用しようとする人たち

日本人は利益共同体のことは中朝的視野に立って判断ができ、利益分配もできる。が外の変化に気がつかなくなり取り返しがつかなくなるまで村を温存しようとするというところまではなんとなくわかった。

しかし、この厚生労働省の問題を見ると、立憲民主党の人たちは明らかに「仕様書」とか「コンピュータのアーキテクチャ」といった足元の問題にはまるで無関心である。ところが今彼らは「血眼になって」安倍政権を潰せる材料を探している。ビデオを見てみるとわかるのだが、彼らを叩いて「材料を自白させよう」としているのだ。叩かれたら人は本能的に逃げたくなるので、厚生労働省の中に「改心して状況をただしたい」という人がいたしてもとても協力する気にはならないだろう。ましてや民主党系の政党はかつて厚生労働省を「伏魔殿扱い」していたという前科がある。

立憲民主党は「永田町の権力争い」という彼らの村の戦いに夢中であり、実際のガバナンスにはあまり興味がない。多分彼らが政権を取ったら民主党政権時代と同じ過ちを繰り返すのは明らかだが、村人たちはそれに気がつかず「厚生労働省を血祭りにすれば有権者は付いてくる」と信じている。そして誰もついてこないと「騒ぎ方が足りないのでは?」と考えるのだ。

それに追随している「フリージャーナリスト」たちも「記者クラブから排除された」という彼らなりの戦いがある。だから「実際に何が話されているか」ということにあまり関心がない。だから目新しいキーワードに疑惑という言葉をつけてそのままリリースしてしまうのだろう。こうして問題はネットの片隅に追いやられてしまう。

厚生労働省が「紙ベースで情報を集めてきて、それを中央集権的なシステムで処理している」誰の目にも明らかなので、まずこれをなんとかすべきである。そのためには厚生労働省の現場の人たち(つまり官僚ではない)に信頼してもらい情報をもらわなければならない。が、立憲民主党もフリージャーナリストたちも全く信頼醸成には興味がない。

このままでは生産性も上がらない(税金の無駄遣いだ)し、担当者がいなくなったりサーバーが供給されなくなったら国の統計インフラはめちゃくちゃになってしまうだろう。この解決先にはいろいろあるだろうが、例えば分散型のシステムに置き換えるために予算を出すか、それともCOBOLのエンジニアを国で育てる(つまり国で伝統文化的に保護する)というような対応策を今すぐに話しあう必要がある。

厚生労働省は受動攻撃状態にあるが、その裏には「政争に利用され見せしめにされてきた」という恨みがある。政権交代が起こるたびに過去の政権の否定が起きるので、この受動攻撃状態が終わることはないだろう。特に穏やかな村を温存したい人たちにとってこれはほぼ戦乱に近い。

我々の社会は「それぞれの戦いに夢中になるあまり、問題がわかっている人がいてももお互いに協力できない」という深刻な問題を抱えているようだ。村によって争いの構造が違い、それによって問題を組み替えてしまう。だからオリジナルの問題がわからなくなってしまうのである。このため多くの人たちは「自分たちが政治や社会の問題に関わってもどうせ潰されるだけ」として諦めてしまうのだろう。

何もしない人たちとCOBOLの村

これまで「日本人の政治姿勢」を見てきた。今の所「採集できた」のは次のような類型である。




  • 何もできないことがわかっていて受動攻撃性に走る人
  • 正義が実行されないとして怒るが、受動攻撃者の餌になってしまう人
  • 受動攻撃はしないが怒っている人を見て楽しんでいる観衆

なかなか荒んだ光景ばかりが集まったが、これは問題ばかりを見ているからである。問題だけを見ていると、状況がまずくなる前になんとか手が打てなかったのかとも思うし、日本人が全て愚かなバカに見えてしまう。しかし、その前段階には「問題の芽」があるはずだ。そこで、今問題になりつつある現象を眺めてみたいと思った。それがCOBOLである。

厚生労働省の統計偽装問題で「COBOLプログラム性悪論」が出てきた。COBOLは一般的には古びたコンピュータ言語と見なされており、日本のITが世界にキャッチアップしていない象徴とされることも多い。国会で統計偽装の問題が取り上げられた時「RではなくCOBOLが使われている」と非難していた国会議員もいた。汎用機でバッチ処理を行う話をしているのに、なぜRなのだろう?とは思ったのだが、多分質問者はよくわからないまま又聞きしたことをあたかも自分が発見したかのように話しているのだろうと思った。これを立憲民主党なども問題視しておりコンピュタの仕組みを知らないフリージャーナリストが面白おかしく拡散する。週刊ダイヤモンドIWJなどで中途半端に取り上げられているのが見つかった。

そこで現場はどう思っているのだろうと思って聞いてみた。先日思い立って官公庁ではなぜCOBOLが使い続けられているのかを聞いてみたのである。これだけ世間に叩かれているのだから現場もさぞかし吹き上がっているのだろうと思ったのだが、それはとんでもない間違いだった。現場はいたって平和なのである。

Quoraには大勢のCOBOL関係者がおり彼らに質問を送った。だから、当然COBOL擁護の声ばかりが書き込まれることになった。面白かったのでぜひリンク先を読んでいただきたいのだが「十分に使えるものをなぜ入れ替えるんだ」という声が多いらしい。経営者はなぜちゃんと動いているのに新しいものにするのだと入れ替えに渋い顔をし、担当者も何かあったら責任は誰が取るんだと言われると下を向いてしまうということのようである。そもそも現在の設計思想ではうまく動いており、機能的にも十分に支えているという。平和な村の声を聞くと「あれ、世間はなぜCOBOLを悪者にするのだろう」と思えてくる。ただ、問題が出てくると今度は逆に「なぜ今まで放置していたのだ」と言われてしまい「俺はコンピュータに詳しいぞ」という人たちがいきり立つのだ。

ただ、この村の意見に一人だけ違ったことを言っている人がいた。当然バッチ処理の世界にも「新しい要件」はあり、これを現場の工夫で乗り切ってきていたという。しかしそれが局所依存になっており「新しい仕組みに乗り換えるのにどれだけお金がかかるかわからない」ことになっているらしい。つまり、経営者の無関心の他に、現場が良かれと思って工夫をしてきたことが足かせになっているのである。

こんなことになってしまう理由もわかる。COBOLは「中央集権的」に全てのデータを一つの所に集めてくる仕組みになっている。大量の単純なデータを一括処理するにはとても優れている。しかし、仕組みが大きすぎるので「ちょっとずつ入れ替え」ができない。一方今のコンピューティングは分散型といい「いろいろなことをいろいろなところで行う」ことになっているので、パーツごとの入れ替えが(容易とは言わないまでも)可能なのである。つまり、設計思想が全く違うのだ。

こうした中央集権的な仕組みのため「担当者がいなくなったら中で何が行われているのかが全くわからなくなった」ということになる。だが改めてこの中央集権から分散処理という流れを踏まえて回答を読み直すと、中にいる人は「マイグレーションができればCOBOL自体は問題がない」と言っており、この時代転換(よくパラダイムシフトなどという)に全くついてこれていないことがわかる。だから問題が捉えられない。

一方外から見ており問題点を指摘した人は「ハードの供給がなくなりつつありこれからどうなるのか見もの」と言っている。部外者だから問題が見えるが、この人にも対処はできない。インサイダーではないからだ。

このように「村」ができると中からは村の問題が見えず、外からは手が出しようがないという問題が生まれる。今実際に問題が起こっている。最近、新幹線の予約システムが止まった。日経系の伝えるところによるとMARSで時刻表を組み替えた際に不具合が起き、鉄道情報システムが不具合を起こしたらしい。どのようなプログラミング言語が使われてるかはわからないが、中央集権的なシステムなので、中央が不具合を起こすとJRが全てが止まってしまうのである。

日本人は基本的に「村を作り昔と同じことを繰り返す」のが好きだ。現場の声を聞くとわかるように「新しい仕組み」に乗り換えようというと様々なやらない理由が考案され改革は潰され、それを一人ひとりの善意と職人技で乗り切るということになっている。COBOLは長い間(1959年に作られたので今年で60周年だったそうだ)安定的に動いており地味な裏方として使われていたために更新が遅れたのだろう。そして、いよいよ持ちこたえられなくなると「村がなくなるか」というような騒ぎが起きてしまう。しかしそれをまた村人の職人技で乗り切ろうとするので「結局何も変わらなかった」となり、最後は座礁してしまうのである。受動攻撃性の原因はこの「諦め」だが、実はその前段階には「村の平和」があるということになる。

さて、今回はかなり絶望的な前駆状況をみたのだが、興味深い発見もあった。かつてと違い、現場の生の声がマスコミの情報なしでも手に入るようになったということである。今回の話は加工もしていないし知見はすべてたった4人から集めてきたものだが、問題の輪郭がかなりよくわかる。よくインターネットの情報はゴミばかりだという人がいるが、実はそれは全くの誤りなのだと思う。必要なものは全て手に入るのである。ただそれをまとめて解釈して社会改善に生かせる人がいないのである。

ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。

セブンイレブンが行うべき遵法闘争

セブンイレブンが揺れている。フランチャイズ店のオーナーが団体で「24時間営業をやめさせて欲しい」と申し入れたのだが、本部側がこれを断ってきたというのだ。セブンイレブンのフランチャイズは団結して「受動攻撃」すべきではないかと思う。




受動攻撃という耳慣れない言葉を聞くと「それは何だ?」と思われる可能性があるのだが、実は日本人はこれまでも管理された組織的な受動攻撃を行ってきている。それがサボとか遵法闘争である。サボるという言葉の語源になったサボタージュは大正時代から行われているそうだ。また、遵法闘争は、戦後になっても公務員の間で行われていた。国鉄がマニュアルを律儀に守りダイヤを遅らせるという手法がとられた。

こうした受動攻撃の怒りを沈めるために、私たちの社会は終身雇用と家族的労使関係という「温情的」な労使関係を作ってきた。が、それも高度経済成長期が終わると簡単に忘れ去られてしまった。つまり、私たちは新しい時代を迎えているわけではなく過去の「本来の形」に戻りつつある。それは「村の外は全員敵」という社会である。

本来、こうした闘争は資本主義社会では必要がない。セブンイレブンフランチャイズオーナーは契約形態が気に入らないのなら別の系列と契約を結べばいいだけの話だからだ。それができないのは、新しいアイディアを手に入れられなくなった各コンビニ系列がフランチャイズを搾取する構造に依存せざるをえなくなっているからだろう。つまり、閉鎖的な経済空間ゆえに、トもできなければ自由主義的な市場経済メカニズムも働かないという不思議な「失敗した市場」が生まれているということになる。

コンビニエンスストアはマニュアル労働なのですべてのことはマニュアルに書かれている。これを杓子定規に守ることで営業成績を落とすことができる。すべてサボタージュしてしまうと売り上げにも響くのだから「本部が政策的にやっている」ものだけを止めてしまえばいい。例えば(どうせ売れ残る)恵方巻きを大量に仕入れるというようなことはやめても良いだろう。コンプライアンス流行りなので「食料廃棄は減らせ」というようなルールもあるはずなのでそれを守ればいい。

24時間営業にしても、お客と協力して「夜中は開店休業にします」と宣言してしまえばいい。形式的に開けておいて何もしなければいいのである。本部のいう通りにするためにはバイトをたくさん雇う必要があるのならそれもやめればいい。問題なのは、本部に言われたことを全部やってしまうことなのである。この辺り「決められたことはきちんと守り顔を立てたい」という高度経済成長期の美風がかえって仇になっている様子がわかる。だがこれは労働が長期的に報われていた時代の文化であり、残念ながら過去の遺物だ。

もちろん、こうした受働攻撃性には問題がある。社会のすべてが「ちょっとずつ」頑張れば社会は少しづつよくなる。が、社会のすべてが「ちょっとずつ」反抗すれば、社会は少しずつ悪くなってゆく。だが、社会は問題を認めようとしないし、その環境から逃げ出せもしないという環境では他にやりようがない。

Twitterを10分くらい巡回すれば、今の日本社会には選択肢が少なく受動攻撃性とその怒りで溢れている様子が観察できる。安倍首相も厚生労働省も虚偽を認めながら決して反省はしない。小池百合子東京都知事は築地は守るが市場は作らないと言っている。アイヌ民族は存在せずあれはアイヌ風文化だ主張したマンガを載せた雑誌が売られる。また、女性がセクハラ被害を訴えるのは気持ちに余裕がないからであり、子育てをママが一人でやるのは昔からやってきた当たり前だと言われる。村に守られなくなった日本は慢性的な受動攻撃社会になり、その怒りが新しい炎上を生む。

いったん受働攻撃性が溢れ出すと怒り出すことはとても虚しくなる。この怒りそのものが「受働攻撃者の餌」になってしまうからである。他人が怒っているのをみて「気分がスッとした」経験をしたことがある人は意外と多いのではないか。「あなたは私が問題を指摘した時にはいうことを聞いてくれなかった」だから「今回は私たちの番なのだ」ということであり、これは報復合戦である。こうして管理されない受動攻撃性は社会を徐々に蝕みSNSに乗って拡散する。

今回ほのめかした「受働攻撃性」は行き場のなくなった怒りが自覚のないまま漏れ出てくるという悪性の報復合戦になり得る。例えば今流行っている「バイトテロ」は仲間内だけに見せる反抗が悪意の第三者によって拡散したものなので、これは悪性の受働攻撃性と言えるだろう。自分たちのワンクリックで社会が混乱する様子が面白い人たちが大勢いるのだ。

これを防ぐためにはもう「合理的なサボタージュ」くらいしか道が残っていないのである。選択肢のない閉鎖された社会で我々に残された選択肢は管理された受動攻撃性と管理されない受動攻撃性の二つしかないのかもしれない。

組織的病気に陥った厚生労働省の受動攻撃性

今回、厚生労働省の問題について扱うのだが、これまでのように気軽に論じられない気がする。ヤバさが違うからである。厚生労働省はすでに組織として健全な状態ではないと思う。多分、このまま放置していると取り返しのないことが起こるだろうし、すでに起きているかもしれない。そしてそれは政府だけでなく社会全体に広がるだろう。というよりもう広がっているかもしれない。




その病理とは受動攻撃性である。受動攻撃症に罹患した組織には2つのことが起こる。それはサボタージュと怒りである。そしてその2つの症状のために組織は中から崩壊する。そしてサボタージュによって引き起こされた怒りもまた新たな受動攻撃性を生む。そうして組織は中からどんどん壊れてゆくのである。

まず、心理学用語としてのPassive Aggressionについて見ておきたい。これを日本語で受動攻撃性と言っている。この状態になった人はわざと反抗的な態度をとるのだが、その態度が表向きは反抗に見えないのが受動攻撃性の特徴である。わざと無視して見せたり、すぐには気がつかないような嫌味をいうのが典型例だ。

この記事(英語)によると受動攻撃性を防ぐ手段はなく、できるのは無視することか関係を切り離すことだけなのだそうだ。切り離せない場合は毅然とした態度をとるべきだというアドバイスをする記事もある。表立って社会との摩擦があればそれを治療する口実が作れるのだが、受動攻撃者は表向きは何事もなかったかのように振る舞うので、別の軋轢が生まれるまで対処できないのである。そして症状は大抵相手の方に出る。

こうした受動攻撃性がなぜ生まれるかはよくわからない。組織のトップではなく中間管理職的な人に現れやすいとする人もいる。彼らは表立って反抗することはないので攻撃が表面化することは少ない。が、わからない形でサボタージュを働く。やるべきことをせず、内側から組織が弱体化する。自尊心が低く不安にさらされているからこうなるのだという人もいるが、今では人格障害とは見なされず行動様式の一つとされているそうだ。

受動攻撃者は明らかに不満を持っているのだが、自分からはそれを口にしない。相手が怒って問題行動を起こすのを待っている。行動を起こすのは相手なので非難されるのも相手だ。

また「受動的攻撃行動をする目的は、こういった行動をして“正気を失わせてしまう”ことである。」とスコット・ウェツラー博士は説明する。博士はモンテフィオーリ・メディカルセンターの副所長で、「Living With the Passive-Aggressive Man(受動的攻撃性の人間と共に生活する)」という本の著者でもある。「あなたは今起こっていることは実際に起こっている事とは違うと教えられ、意思疎通をすることを控えてしまうことになる。何が起こっているか知っていても、彼らはそれを否定するのだ。」と博士は述べる。

受動的攻撃性の人と付き合う秘訣(ハフィントンポスト)

のハフィントンポストの受動攻撃性の記事を見て「安倍政権」について想起した人は多いだろう。森友加計学園問題では明らかに問題行動が起きているにもかかわらず安倍政権はそれを隠し続けている。しかし、重要なのはそこではない。政府は「問題行動を起こしている」ことを隠していない。麻生副総理を見ているとわかるがニヤニヤ笑って問題発言を繰り返すことで「多少の無茶は許される」という万能感を得ている。しかし政権運営に失敗し二度と首相になれそうもない麻生さんにはそれしかできることがない。

国民は最初は苛立つがやがて「政治に関わっても仕方がない、選んだのは我々だ」と思うようになる。それが受動攻撃者の狙いだ。国民の無力感は政権にとっては勝利なのである。「一度は俺たちを政権から追い落としたくせに結局お前らは無力だったではないか」という彼らの高笑いが聞こえるようだ。

東京新聞の記事によると厚生労働省は野党に対して「嘘の手紙」を書いて承認が証人喚問に来られないと偽装したそうだ。嘘をついたのが問題だと誰しもが思うのだが、実はポイントはそこではないのかもしれない。この嘘は本人に確認すればすぐにバレてしまうという点が実は彼らの狙いなのだろう。すでに立憲民主党はいきり立っている。しかし、そこで世間は立憲民主党に「でも今回も問題を解明できないんですよね」と言う。自らの運命を政治家に握られていて何もできない官僚たちを癒すのは野党の苦痛に満ちた表情だけなのだ。

総務省統計委員会の西村清彦委員長が多忙を理由に国会審議に協力しない意向を示したとする文書を、総務省職員が西村氏に無断で作成し、野党に示していたことが二十五日、明らかになった。西村氏は不快感を示し、石田真敏総務相は衆院予算委員会で陳謝した。

「統計委員長 国会に協力しない」 総務省、無断で文書作成(東京新聞)

これをこっそりやれば嘘はバレなかっただろう。ここまでは通常のサボタージュである。しかし、それをすぐにバレる形でやることで「お前らのいうことは聞かないよ」という攻撃性を誰かに向けている。おそらくそれは野党ではなく観客席にいる国民だろう。厚生労働省には損害はない。「組織的隠蔽が疑われるが組織的隠蔽とまでは言えない」としてごまかしてしまえばいいからだ。明らかに無茶苦茶を言っているが、厚生労働省は「それでも国民は厚生労働省に頼らざるをえない」と思っているだろうし、選挙で争点を作りたくない政治家も自分たちを守ってくれるはずだと考えるだろう。それは彼らが唯一手に入れられる勝利なのだ。韓国にとっての竹島みたいなものである。

安倍晋三という人が無力感から受動攻撃性を国民に向けていることは間違いがない。彼は小泉純一郎元首相に祭り上げられて政治家になりトップに立った瞬間に国民と自民党の身内から「首相の器ではない」と拒否された人である。怒りを持ってもそれほど不思議ではない。だが、安倍首相は自らの受動攻撃性を認めないことで、世の中にある受動攻撃性に満ちた人たちを解放してしまった。いったん「蜜の味」を覚えた組織はそれを手放さないだろう。

それではなぜ厚生労働省はこのような受動攻撃性を身につけたのか。ここにもやはり長年受けつづけた自己否定という原因がありそうなのだが「加害者」である国民はそれを忘れている。

「伏魔殿」厚生労働省との闘いという記事を見つけた。書いたのは長妻昭さんだ。短い内容をいくら読んでも厚生労働省を粛清したり征伐をしたりした様子はないのだが、少なくとも外向けには「伏魔殿」呼ばわりをしているわけで、恨まれても不思議はない気がする。ただ、この伏魔殿という言い方も自動化された言い方のようだ。つまり、それ以前に伏魔殿という言葉が使われていたのである。

民主党時代の前の安倍政権時代から片付かない年金問題の犯人探しが行われていた。2007年9月の厚生労働大臣記者会見ではすでに「市町村こそが年金問題の伏魔殿である」という言い方がされている。当時盛んに犯人探しがされており、それに関連して伏魔殿という言葉が使われていた可能性がある。ちなみにこの「伏魔殿」発言をしたのは、安倍第一次政権改造内閣の厚生労働大臣である舛添要一さんのようだ。

記者:増田大臣に調査を依頼される際に市町村が伏魔殿だという表現をされていたと思うのですが、実際に刑事告発をされていないのが68件、処分がされたのが22件。この数字自体はどういうふうに受け止めましたか。

閣僚懇談会後記者会見概要(2007.9.21)

官僚は多分、旧民主党系の人たちに恨みを向けることで自分たちの無力感を直視しなくて済む。当然改革は進まず政府は内側から腐り続ける。そしてこの問題の一番厄介な点は受動攻撃を向けられた我々国民が「もう日本の政治にはよくなる見込みがないのだ」と考えてしまう点だろう。すでにそういう気分は蔓延しているのではないか。受動攻撃性を持った人には関わらないのが一番良いのだが、厚生労働省に関わらなくても良い人は多分それほど多くない。

しかし、この問題の一番のポイントは多分「自分たちの無力さに直面しないためには誰かを怒らせるためにサボタージュするのが一番だ」というような空気が全体に広がってしまうことだ。誰かが怒って声をあげているうちはまだ対処ができるのだが、いったん火が消えてしまうとそれは対処不可能になる。急性症状が消えて慢性化するようなものである。そうなったらもう取り返しがつかない。