日本人男性はなぜセクハラ発言をやめられないのか

Quoraでまた面白い経験をした。外国人女性に「大人っぽいね」と英語で言うにはどうしたらいいのか?というのである。年に触れるのはいけないのかといっているところからなんとなく歓迎されていないことはわかっているらしい。外国人=英語としているところから少し年配の人だなと思った。この歳の人たちにとって外国人というのはアメリカの白人のことである。




Quoraが面白いのは思考過程がわかるところだろう。これが結論だけをぶつけて平行線に陥ることが多いTwitterとの違いである。この場合「ある年代の日本人のおっさん」の典型的な思考がわかる。彼らは相場を作ってその中で競って勝ちたい。そして絶対的な善悪の基準がない。そして村の経験が世界で通用すると思っている。さらに主題ではなく人格に反応する。

これについて、対象化という話を書いた。対象化というのはwikipediaのobjectificationを勝手に和訳したものである。日本語のエントリーがないところからもわかるように、英語圏では一般的に使われるものの日本ではあまり馴染みがない概念だ。この言葉は特に男性が女性を性的な対象物として従属的にみなすことを非難する文脈で用いられることが多い。

だが、回答を書いている途中に、日本人のこの男性はこの「対象化」という概念を受け入れられないだろうなと思った。これがプリンシプル(原則)概念だからである。日本人には原理・原則を受け入れない人が多い。内心がなく善悪の基準を持たないからである。が、なぜ善悪の基準を持たないのかということはよくわからなかった。

日本人は自分たちが民主主義を理解していないと言われると腹をたてる。経験上は「外国の事例を知っているからといって上から目線で反発する」とか「原理原則にこだわるお堅い人だ」といわれることが多い。原則の問題は人格の問題に置き換えられ、人格攻撃が始まるのが日本の議論の特徴だ。今回も「少しシニカルすぎるのでは?」と言われた。

理解できないと言われるとそのことに反発心を覚えるが「何が共有できていないのか」について聞き返してくることはない。日本人は個人としての相手には興味がなく集団の相場観で動きたがる。そしてその相場観はその人の経験値に過ぎない。例えば、このブログには執拗に独白的なコメントを書いてくる人がいる。感覚としてはアフリカにいるキリンの話をしているのに、想像上の麒麟について書いてくるように聞こえる。

今回もいろいろな人が「大人っぽいななどと言わないほうがいいですよ」と書いているのだが、それは全然響いていないらしい。つまり聞いたことを自分の経験でフィルターして合わないものを落としてしまうのである。しまいには、ゴージャスとかセクシーとかも言ってはいけないのかと重ねてきた。プロフィールを見ると1981年に三井物産に入社してバブル期を経験しているらしい。ちょうどバブル崩壊期に30代前半だったというような人であり男女機会均等法(1985年成立/1986年施行)以前の入社でもある。「ああ、これはダメだな」と思った。

この時代の駐在員の人たちは現地コミュニティとかかわらず村を作っていたので、現地の状態をよく知らないまま海外を理解していると思い込んでいる人が多い。また、女性がお茶汲みと呼ばれていた時代の入社なので「職場の女の子」にちょっかいを出しても構わないと思っている人たちだ。

別に釣っているわけではないのだがついに「毎回ベッドに連れ込めているわけではないが」などと言い出した。つまり俺はうまいことやったと自慢したいのだ。「これはTwitterとかで炎上するやつだろう」と思ってしまうのだが、日本人男性を相手にしているという気安さから打ち明けてきたのかもしれない。この回答が全世界に向けて公開されているということをすっかり忘れているようだが、こういうメンタリティの人はTwitterでは珍しくない。

自分の実名を出した上でベッドに連れ込んだことがあるということをほのめかしてマウンティングしているというのはどういうことだろうかと思った。大学生が女性経験を比較しようと友達に話を持ちかけるようなメンタリティがある。お前はひどい目にあったのでは?と書かれたので「素敵な武勇伝をありがとう」と返しておいた。

日本ですら女性を上から目線で評価して釣り上げたなどということは社会的に容認されなくなりつつある。ただそれは原理原則なので「抜け穴があってうまいことやっている人は大勢いるはずだ」という意識が働くのだろう。ただ行動原理はそれだけでもなさそうだ。多分、勝手に相場観を作った上で「自分はそこよりちょっと抜け出ているから偉いのだ」と自慢しているのである。競争の意識が働いているのだと思った。

日本は偏差値別に編成された学校で学び、同じくらいの実力のある人たちがちょっとした差異で競い合うという社会である。こうした経験を数十年積み重ねてしまうと外の世界のルールがわからなくなり、善悪の基準が自分で判断できなくなる。そしてちょっとした違いの中で勝つことが自己実現につながるのである。普段こうしたことを進んで開陳してくる人は少ない。その意味で彼らの思考形式がわかるというのはとても面白い。

日本は女性の社会進出が進んでいないと言われるが、それはこういうおじさんたちが社会の中枢にいるからだろう。つまりダメと言われるとそれに挑戦したくなるのである。コメントには「愛があれば問題にならない」とも書いている。よくセクハラ・パワハラの報道などでこういうセリフを聞くことがある。相手が裁判を起こすほど怒っているのに「愛のある指導のつもりだった」というのが典型例だが、あれは言い逃れではなく本当にそう思っているのだなと思った。周りがカンカンに怒っているのにそれに気がつかず、自己愛と顕示欲を満たそうと自分の愛の定義を押し付けようとするのだ。

このおじさんは「女の子をモノにしたいがどこまでだったら言っても良いのかということを知りたがっている」ということだ。日本のように集団圧力の強い国では、おじさんたちが勝手に「ここまではOK」で「ここからはダメ」だろうと決めてそれを職場の女性に押し付けても構わない。例えばインターンの女性を押し倒しても官邸とつながっていれば無罪放免になる上に武勇伝として仲間に喜んでもらえるというそんな社会である。

こうした考え方が蔓延しているので、日本では西洋式の民主主義が成り立ちにくい。民主主義とか人権というルールは西洋では守るものだが、日本では挑戦して破るものなのである。そしてルールを守って不利益を被った人には「うまいことやらなかたお前が悪い」と指摘して競争意識を満たすのだ。西洋ではカンニングは絶対悪だが、日本人は「やってもいいカンニングがある」と思っていることになる。そして、あまり悪気がなくそれを素直に披瀝してしまう。

イギリスが住民投票で決めたEUからの離脱を「決まったことだから」として進めようとしている。日本人から見るとそれは馬鹿げている。空気を読んで解釈を変えればいいじゃないかと思うからだ。だが、それは原理原則を重んじる人から見ればカンニングでしかない。

日本でセクハラがなくならず女性の社会進出が進まないのは、バブル経済を知っている世代のおじさんたちがいるからなのかもしれない。彼らは強烈な成功体験を持っていて「それが今でもなんとか成り立つのでは?」と信じつづけているのだろう。彼らは「今の時代はもうそういう時代じゃないんですよ」と言っても全く聞く耳を持たず執拗に抜け道を聞きたがる。そして周りの人を呆れさせるか怒らせてしまうのである。

厚生労働省の勤労統計ごまかし問題

新年早々また気分が悪いニュースが流れてきた。厚生労働省の勤労統計にごまかしがあったのではないかというのだ。だが、断片的にニュースが入ってくるので全体像がよくわからない。そこでこれまでの経緯をまとめてみた。組織的隠蔽の疑いが出始めているようだ。




勤労統計とは何か

厚生労働省は勤労調査の目的を「毎月勤労統計調査は、雇用、給与及び労働時間について、全国調査にあってはその全国的の変動を毎月明らかにすることを、地方調査にあってはその都道府県別の変動を毎月明らかにすることを目的とした調査です。」と説明している。職工の調査は大正12年から行われており、規模を拡大しながら現代まで来ているという。各種の給付金の算出根拠になっている他、国家予算を決めるための基礎資料のひとつになっている。国の法律に基づき厚生労働省が実施するが実際の統計は都道府県が行っているそうだ。

何が行われていたのか

法律によると従業員500名以上の会社は全数検査をしなければならないのだが、実際には全数調査ではなかったそうだ。日経新聞によると東京の場合は1400の事業所のうちで500しか調べられていなかったそうだ。最初の段階ではこれが恣意的にサンプリングされたのか、あるいはランダムにピックアップされたのかということがわかっていなかった。つまり、どの程度政策を歪める意思があったのかがわからなかったのでである。最初の時点でも中日新聞は「全数検査に見せるようにプログラムまで作られていた」と伝えている。つまり、厚生労働省の担当者は代々これがごまかしであるということを知っていたことになる。一部では2004年からごまかしがあったという報道があるが、厚生労働省は「いつからごまかしがあったのかよくわかっていない」としていた。その後、朝日新聞は「2018年の1月から調査方法を徐々に本来のあり方に戻そうとしていた」と伝えた。つまり、厚生労働省全体が問題を知っていて「これはまずい」と隠蔽を始めていたことになる。比較的給料の高い会社を統計から除いていたようだがこの目的はわかっていない。

何が問題なのか

公式の問題点は二つある。一つはこの調査が経済把握の基本統計であるという点である。つまり、統計が信頼できないとその統計に基づいて行った政策決定が間違っている可能性が排除できない。ロイターは消費税増税が正しい判断だったのかと指摘しているし、原則論的には間違った統計で意思決定はできないから予算編成も最初からやり直しにすべきだ。もう一つの問題点は問題が大臣に報告されてからも間違った統計が発表されていたという点である。つまり大臣まで間違っていることがわかっている数字を公式見解として出していたわけで、この間に審議があれば間違った情報をもとに国会審議しなければならなかったということだ。この件が表ざたになってからも統計資料には補足説明すらなく厚生労働省がこの調査を重く見ていなかった証拠ではないかと指摘されていた。ただし、朝日新聞の報道が確かならば厚生労働省は知っていてとぼけていた可能性がある。

しかし、この他に公式には問題にならないであろう重要な背景があると思う。一つ目は騒ぎになるタイミングだ。安倍首相はヨーロッパにいて官邸が動けないタイミングだったのだ。厚生労働省が官邸の介入を嫌って先に情報を出した可能性がある。また、中日新聞は「ごまかしがあったのはわかっていたが規則なので出した」という担当者のコメントを紹介している。例えて言えば「体裁さえ守られていれば別に嘘をついてもいいのだ」と考えていることになる。官僚組織は、安倍政権下の5年でやっていいことと悪いことの区別がつかなくなっているのだ。安倍政権で横行している「嘘の政治」の結果であり、有権者が政治に関心を向けなかったことの帰結だと思う。

伝える側の問題点

この報道で気になったのは伝える側の予断と忖度である。この調査は各種給付金の算出根拠になっているのだが、調査がデタラメだったのだから実情より高かったのか低かったのかはわからないはずである。にもかかわらず給付が低かった可能性を伝えている。安倍政権はいろいろな人を感情的に怒らせているので是が非でも政策が間違ったことにしたい人たちもいるはずで、調査そっちのけで官邸攻撃に走ることが予想される。するとヒューマンスキルに欠ける安倍政権は嘘をついてでも情報を隠蔽しようとするだろう。こうして実情はわからなくなり、今後の対応も立てられなくなる。

毎日新聞は「同統計を基に給付水準が決まる雇用保険や労災保険が過少給付されたケースがあることも判明し」と早くから書いていた。朝日新聞ものちにそう伝えている。つまりもうわかっていることがあるということだ。毎日新聞は「政府関係者によると、過少給付の総額が数億円規模に上る可能性もあるという。」と書いている(朝日は二千万人・数百億円と言っている)ので、この政府関係者が厚生労働省でないこともわかる。首相が知らなかったとは考えにくい。だが、ここで取材先への忖度が働き誰がなにを知っていたのかさっぱりわからない。さらに読み進めると「統計の平均給与額などは実際よりも少なく算出されていた可能性がある。」とされているので、確定情報なのか可能性の話なのかもよくわからない。さらに別の報道なども読むともともと手抜きのためにやっていたが、首相が「給料は上がっている」と強弁してきた手前サンプリングを修正した疑いもありそうだし、逆に給料は上がっていたのに保険給付を抑えるために恣意的に統計を曲げていた可能性もある。集団の中で嘘が蔓延し誰も本当のことがわからなくなっていた可能性があるうえに、報道に透明性がないのでそれが伝わらないというかなり救いがたい事態になっている。

厚生労働省は今まで何をやってきたんだろうか?

すでに書いたように、調査が間違っていることが判明してからも厚生労働省は「間違っていることはわかっていたが法律で出すように決められていたのでそのまま出しました」という説明をしている。カンニングした生徒が「カンニングは悪いことですが、提出しろと決まっていたから提出しました」と言ったら「この生徒は反省していないだろう」と思うだろう。民主党政権なら大問題になっているはずである。だが、国民はすっかり政府の嘘に慣れてしまっておりもはや何も感じない。ちなみに1月10日の重要なワイドショーの話題は吉田沙保里の引退と銭湯中年アイドルのドメスティックバイオレンス問題だった。すでにモラルが崩壊して国中が「狂っている」のである。

厚生労働省は2004年から間違った方法で調査がされていたという報道が出回っているにもかかわらず「本当のところはわからない」と言っている。これは、官邸に諮らないと本当のことが言えないということなのかもしれないし、すでに思考停止に陥っていて「上から何か言われるまで放置しておこう」ということだったのかもしれない。さらにタイミングを見ると官邸に悪者にされる前に情報を出してしまおうと考えた可能性もある。11日に根本大臣の説明があるということだが、安倍官邸は体裁のよい説明を行い、後から野党がそれを追求して予算審議に影響が出ることになるだろう。つまり発表があってからの方が報道が出にくくなるのではないだろうか。与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっており、モラルが崩壊した官僚組織のことなど誰も気にしなくなっている。

組織としての無力感からデタラメが蔓延しているのだとしたら厚生労働省ははかなり大変な状態に陥っているはずである。が、政治も選挙のことしか考えられず、有権者は難しいことは偉い人がなんとかやってくれるだろうと感じている。全体が「どうせ自分一人が頑張ったところでどうにもならない」という諦めの気持ちを共有しており集団思考に陥っているわけである。それを虚のリーダーである安倍晋三が「まとめている」という形だ。彼はこの件で表には出てこないだろう。運転手のいないバスが高速道路を突き進んでいるということになるのだが、乗客は「そのうち自然に止まるんじゃないか」と考えていることになる。

今後の影響は

NHKは今後の影響について書いている。統計調査が間違っているということがすでにわかっているので、このままでは新しい予算が立てられない。正しい統計がどちらにぶれるかでこれまでの政策決定が間違っていたことがわかるのでこれも野党の攻撃材料となるだろう。安倍首相のヒューマンスキルのなさから与野党はすでに協力して何かをやって行けるような状態ではなくなっているうえに、リーダーシップのなさから官僚組織もモラルが崩壊している。予算編成が難渋すればそれ以外の審議時間の確保が難しくなる。大きなものはもちろん憲法改正だ。すでに行事が目白押しで時事通信社は憲法改正の審議に「落ち着いた時間が取れないのでは?」と指摘されている。参議院議員選挙までは衆参で2/3が確保できているのだが、この統計問題のハンドリングに失敗して参議院選挙で負けてしまえば発議は絶望的になるだろう。

安倍首相はなぜ蛇蝎のごとく嫌われるのか

Quoraで安倍首相はなぜ蛇蝎のごとく嫌われるのかという質問があった。安倍さんが嫌いな人は書かないでくれと書いてあったのだが、ついつい回答を書いてしまった。




安倍首相が関わった問題はすべて泥沼化する。例えば森友・加計学園問題では「私が関わったらやめる」と言ってしまったために一年以上国会が紛糾した。韓国海軍との間ではレーザー照射問題が起きているがこれも泥沼化しつつある。さらに辺野古基地の問題も国防の問題ではなく環境問題として聖地化されつつあるようだ。

国会の質疑を見ているとわかるように安倍首相は支持者の言うことはすべて聞こうとする一方で自分が見下している人たちとの対話はすぐに打ち切ろうとする。個別の事例ばかりを見ているとよくわからないのだが、実は極端なへりくだりと見下しが表裏一体になっており、対等な人間関係がない。支持者の願いを叶えられないと大変なことになると考える一方で、自分が見下している人と対話すると自分が負けてしまうと思い込んでいると考えると説明ができることが多い。

安倍さんが見下しているのは、社会主義者、女性、韓国・中国などである。こうした人たちの価値観を頭ごなしに否定してしまい、弁解や関係改善の余地を一切与えない。否定された人は、問題ではなく人格を否定された気分になるうえに、その後名誉回復したり関係修復したりする道を絶たれてしまうので感情的になり怒り出す。だから安倍首相は嫌われるのだ。

安倍首相がどうしてこのような性格を持つようになったのかはよくわからない。わがままな坊ちゃん育ちだからだろうなどと片付けたくなる。だが、ここから先をちょっと考えてみたい。

例えば自分の能力に自信がある人は「このやり方ではうまく行かなかったとしても、別のやり方ができる」と思えるので相手に優しくできる。さらに、自分に自信があるので「一応ここまではやったがここから先は譲れない」とも言える。こういう人が相手を怒らせることは少ない。相手を怒らせるのは選択肢が少ないからなのだ。

例えば、幼い頃の人間形成が不完全だと相手と仲良くなるために妥協したり話し合ったりということができなくなるのではないかと思う。幼稚園でお友達とおもちゃを分け合うというようなところからそれは始まっている。「坊ちゃん育ち」で大人と育った子供はこうした経験を奪われてしまっているかもしれない。しかしそれだけでもなさそうだ。例えば、十分な職業経験があれば「とにかくこのフィールドであれば自信がある」というものができる。これが自信につながるのである。だが、腰掛けだけで父親の秘書になった安倍晋三青年にはそれもなかった。

専門知識がなく相手に頼るばかりでは何の自信も持ちようもない。自分では何もできないし、何も知らない。相手と協力する術も学んでこなかったし、自信を持って一人でできる分野もない。すると安倍首相のようになってしまうのである。

こうした人が危険なのは相手に気に入ってもらうためには無制限に相手のいうことを聞いてしまうという点であろう。協力して何かを成し遂げるということはできないから自分が持っているものを差し出してしまうのだ。だが安倍さんの場合それは全て他人のものである。例えば岸家の名声だったり国民の税金だったりする。だから安倍首相の外交はバラマキ以外は全て失敗している。北方領土交渉でプーチン大統領に笑われ、原子力発電所の売り込みもうまくいかなかった。「面倒な問題を考えたくない」と政治に関わらなくなった日本の有権者とそもそもまとまるつもりのない野党以外には彼は勝てないのだ。

しかし、こういう問題を抱えたトップリーダーは多い。日本の会社では経営者幹部候補者に3年程度のローテーションをさせるというようなことがある。特定の職場の色がつくとトップリーダーとして「使えなくなって」しまうからである。さらに経営者としての箔をつけさせるために「わざと花を持たせる」というようなこともする。実際には何もできない人に恩を着せてそのあとを有利に進めようとする人がいる。こうして育ったリーダーは会社の外では役に立たない。

日本のリーダーはお神輿に過ぎないので、存在感はあるが何もできないように去勢して育てるのが良いのだろう。神格化しても実際の権限は持たせないのが「正しい」やり方で、これは企業でも政治でも変わらない。こうして去勢して育てたほうが、周りの人たちにとって「便利な」道具になるからである。

安倍首相もそのようにして<育てられた>のだと思う。問題は彼が力強いリーダーであるという間違った自己像を持っているという点である。彼が政治的リーダーとして売り出す過程で「北朝鮮問題に毅然と対応する力強いリーダー」という売り出し方をしてしまったために、自己像と実力の間に乖離が生まれてしまったのではないかと思う。北朝鮮から拉致被害者が帰ってきたのは単なる偶然だった。だが安倍首相は嘘をついているうちにそれが実力だと信じ込んでいるのだろうし、周りにそう思っている人もいるのだろう。

安倍首相が関わった全ての問題で感情的なしこりが生まれるというのは、日本が現代化する過程で伝統を無視した西洋的なリーダーシップを指向してしまったために起きた悲劇なのかもしれない。そしてこの後も彼が政権に居座り続ける限り同じようなことが続くだろう。

辺野古基地問題の意外な広がりに驚く

辺野古の基地の問題が面白い展開を見せている。ハワイのロブ・カジワラ(ロバート梶原)という人がホワイトハウスに請願をかけたところで相が転移したようだ。軍事問題から環境問題に変わったのである。ついに世界的ロックバンドのブライアン・メイが署名を呼びかけるところまでゆき、これまでに20万人以上が応じているそうである。(東京新聞




この問題を日米同盟と中国の軍事的脅威の話だというフレームで見ている人から見ると「環境のような感傷的な問題にダウングレードするとは何事だ」と感じるかもしれない。また搾取される沖縄の象徴のように捉える人も「単なる環境問題」に落とし込むのは抵抗があるのではないだろうか。自分で書いた過去のエントリーを見ても「環境問題」としては捉えてこなかった。ところが後述するように環境問題というのは一定の地域ではかなりプライオリティの高い問題になりつつある。

安倍首相が絡んだ問題は、森友・加計学園問題も、韓国の哨戒機レーザー照射問題もこの辺野古の問題(沖縄タイムス)もすべて「言った言わない」の泥沼になってしまう。対人関係に誠意が感じられず後先考えない発言が多いからなのだろうが、リーダーとしての資質を著しく欠いている。相手の期待や価値観を踏みにじるという共通点があり触れた問題すべての感情的なしこりが残る。今回は沖縄と本土という対立に加えて、環境対開発という別の感情にまで触れてしまったことになる。これまでは国内問題だったが、最近では海外に延焼する事例もでてきている。この辺野古の問題と一年以上続くカルロスゴーン裁判は海外の高い関心を呼ぶだろうし、現在の日本政府は海外のレピュテーション管理は苦手である。

いずれにせよ、いったんフレームが切り替わると伝達速度が変わってしまう。まず海外セレブをお手本にした活動を行っているローラさんが賛同し、今回ブライアン・メイさんも賛同した。イギリス出身の元教師であり、天文学の博士号を持った動物愛護家ということなので、環境問題にも造詣が深そうである。

どうやら我々が考える政治的な問題は「異なるステークスホルダー間の対立(利害関係)」と「みんなの環境・人権問題」の二つに分かれてきているようだ。そして、環境や人権の問題は「みんなにとって大切な問題」であり、このエリアに限っていえばセレブは積極的に影響力を行使するべきだということになってきているのだろう。政治問題と言っても一緒くたにはできないし、利害対立を環境問題に変えると広がりが大きくなる。

日本人からみると取るに足らないと思える環境問題は意外に深刻な問題に発展しかねない。例えばカリフォルニアでは新しい対立が起きている。経済的に恵まれている海岸沿いの人たちは環境問題に敏感だ。経済的に少し不利になっても環境を守りたいと考えている。一方、企業誘致が難しくなり税金も高くなることに反対の人たちもいる。このため、カリフォルニアを分割する運動やアメリカから分離する運動などに発展しているのだそうだ。(Wedge)東西対立がなくなった今、環境は大きな政治課題なのである。

当初この署名活動を見た時には「日本政府を飛び越えてアメリカに話を持っていっても仕方がないのでは?」などと思っていたのだが、予想外に健闘していると思う。タイミングとしても美しいサンゴ礁の海がブルドーザーで汚されるというわかりやすい写真の方が安倍首相の嘘よりも伝わりやすかったのかもしれない。

問題は相手にぶつけてみるまではどんな反響があるかわからない。また、相手に響く文法は相手に聞いてみないとわからない。沖縄県知事たちがアメリカを訪れて地道に訴えてきても広がらなかった運動が別の視点から広がり始めたということの持つ意味は大きい。我々は、村の中でいろいろ言い合っていても外に伝わらなければ意味がないということに気がつくべきなのかもしれない。

テレビ局があなたの視聴データを盗む?

テレビ局が取得している番組視聴のデータを共有するとしてニュースになっている。IPデータ単位で誰が何を見ているのかということがわかるようになるということで「視聴者行動の覗き見」になるのではとTwitterで少し話題になった。(共同通信社




この件について眺めているとなぜ日本がIT技術に乗り遅れたのかということがわかる。理解が曖昧なままでわかったふりをしているうちにどんどん時代に乗り遅れてしまっているのだ。多分共同通信社の人も発表したテレビ局の人も自分たちが何を言っているのか、また何がしたいのかがわかっていないと思う。だからどこがダメなのかも当然わからないのだ。

このニュースの最初の「一部の」というところがあいまいだったので調べてみた。試しにデータ放送のメニューを探してみた。テレビ朝日とフジテレビはすぐに「ログ送信の中止」というメニューが見つかった。わかりにくかったのは日本テレビだ。ログインというわかりにくい項目の所にログ送信の中止メニューが隠れている。どうやらこの3局は視聴データを集めているらしい。

一方、テレビ東京とTBSではログ送信中止のメニューが見つけられなかった。テレビ東京には項目そのものがなく、TBSはログを収集することがあり警察などには提出することもありうるがプライバシーには配慮しますというようなことが書かれていて、一瞬たじろいだ。

共同通信社の記事にはどの放送局がデータを集めているのかを書いていない。だから、ログ送信の中止というメニューがわかりにくいところに隠されている(あるいは存在しない)のかログをとっていないからメニューそのものがないのかがわからないのである。特にTBSは報道ではリベラルさを唄っている放送局なので、もし勝手にログを取っていて中止操作もできないのならボイコットしろなどと書きたくなってしまう。だが、実際に視聴のログをとっているのかがわからない。画面をよく読むと「データ放送のアクセスログ」と書いており、視聴データを取っているとは書かれていない。

よく考えてみると、一部のテレビ局の一部の端末から番組視聴データが取れたとしても、それが何かの役に立つとは思えない。統計を問題解決に生かそうと考えれば、データ収集設計からはじめなければならない。「ここにデータがあるから持ち寄って何か使えないか調べてみましょう」というようなことはできないのである。依頼された方も困るはずだ。

Twitterでよく安倍政権の支持率調査が行われているが、ネトウヨの統計では安倍首相が熱烈的に支持され、パヨクの統計では安倍首相はすぐにでも退陣しなければならない。これは統計に応じた人たちにバイアスがかかっているからで、実際の支持率がどうなっているのかはよくわからない。仮にフジテレビを見ていたIPアドレスが日本テレビに移ったとして、そのIPアドレスが同一人物かはわからない(テレビが2つあったら別のテレビかもしれない)し誕生日などのデータもあったりなかったりするはずである。

一方、Googleは個人単位の情報が欲しいので「セキュリティの高いメールアドレスを無料で配る」という利便性を供与する(当然費用もかかっている)ことで情報を買っている。これは彼らがインターネットはIPアドレス単位の情報しか補足できず、そのままでは行動解析には役に立たないということを知っているからである。テレビ局はこの「IPアドレス単位のデータは役に立たない」ということが理解できない。多分、IPアドレスとアカウントの違いもわからないかもしれない。

日本の「偉い人たち」がIT技術についてよくわかっていないということは驚くには当たらない。しかし、実際には統計についてもちゃんと理解していないことがわかる。にもかかわらずわかったように発表してわかったように書いて、モヤモヤ感だけが残るような記事ができてしまうのである。

こうしたことが起こるのは彼らが自分たちが作ったのではない既得権益によって守られているからだろう。データが取れるらしいしGoogleなんかはそれで大儲けしているわけだから「自分たちもリスクを取らないで儲けられるのでは?」などと思ってしまうのだろう。テレビ局は成功した村なのだが、成功しているが故に徐々に時代から取り残されつつあるのかもしれない。

もう日本人が戻れる村はなく、かといって夢想している正解も存在しない

今回は、韓国人が序列を気にしておりそれに逆らおうと「文句を言い続けているのでは」という仮説を書いた。そして、どうやら日本人も「集団の空気」を気にしており、空気と不整合があると苦痛を感じるようだ。




日本人も韓国人もこうした不整合からくる居心地の悪さを自覚していないようだ。こうした不整合を背景にした議論は人々に苦痛をもたらし出口がない。問題解決を目的としているはずの政治的議論が苦痛になるのは、そもそも人々が何を求めているのかがわかっていないからではないだろうか。

そんなことを考えてどうするのだろうという人がいるかもしれない。実際にTwitterでメンション付きで「コミュニケーションの裏側について分析してどんな意味があるのだろうか」というつぶやきを見つけた。確かに背景を分析しても問題は解決できない。が、そもそも我々は問題解決という入り口にまだ立っていないのではないだろうかと考えることでようやく前に進むことができる。解決策が見つけ出せるようになるのはその先である。

ここで重要なのは、私たちが「村全体が一つになっていて自分たちがその正義と同一化している状態」に居心地良さを見つけるということである。ところが民主主義社会において「みんなの意見が完全に一致すること」などありえない。常に意見の相違が存在する上に、二大政党制だと常に半数近い人が「正義の側ではない」可能性がある。かつてそのような村があったのかという疑問もあるのだが「もう村はないのだから後戻りはできないのではないか」という問いかけが生まれる。

いずれにせよ、もう村がないのに村の一体感を求めるという欲求は様々な問題を引き起こしている。Twitter上では常に「負けている方の半分」が文句を言っている。2009年頃には公共工事がすべて悪だとされていたので、自民党支持者の人たちは居心地の悪さを感じていた。彼らは常に攻撃的で「なぜ公共工事には良いものがあるのか」という説得力のないことを言い続けていた。そして、現在では民主党を支持していた人たちが自民党政治について文句を言い続けている。こちらは民主主義の理想が実現せず、安倍首相が戦争に向かっていると主張する。

立憲野党支持者と呼ばれる人たちはうすうす自分たちの言っていることには根拠も説得力もないということに気がついているはずである。せいぜい小沢一郎のとっくに終わった政治闘争二利用されるか、共産党の活動に使われるだけであることもわかっているのではないだろうか。しかしそれでも彼らは闘争をやめられない。

日本の場合、こうした屈折した感情は大きなものに結びつくという特徴もあるようだ。世界平和、民主主義、二千六百年の日本の伝統、家族の価値観というような「ありもしない」ものが、当然実現されるべきものだと誤認されてしまうのである。経験上それは避けられないことだと思うのだが、大きな用語を使いたくなったら少し用心してみなければならない。

家族の価値観とは家族同士が「大切にしよう」と思うから維持されるものであって、家族制度を復活させ父親である家長に大きな権限を与えたからといって実現できるものでもない。同じように日本人が自分たちで戦争を防いで行こうと思わなければ憲法第9条には何の意味もない。だが大きなものに陶酔すると日々のこうした努力が何かくだらないことのように思えてくる。

東京大学を出て家庭教師もやっていた「優秀な」平沢勝栄議員も家族がどのようにして維持されててきたのかということについて考えない。東大の教育が正解を教えることに特化しており自分の頭で考える術を与えてこなかったことを、あのLGBT発言はよく表している。彼らは単に「自分が知っている正解ではないから目の前から消したい」と感じているだけなのであり戦後教育の悲しい暴走とも言える。

我々はもう失われてしまった村をいつまでも懐かしく思い、ありもしない正解を捏造してそれに固執している。それが様々な苦しみや軋轢を生んでいるのではないかと思える。ただ、そこから脱却するのかそれともそこに止まるのかは個人の自由である。少なくとも、立ち止まらずに相手を非難し続けることには商品的な価値があり、街の本屋にはそうした類の本が溢れている。少なくとも喉の痛みや鼻水を抑える風邪薬のような効能はあり全く無駄とも言えないのである。

LGBTばかりになると国は潰れるのか

平沢勝栄議員が「LGBTばかりになったら国は潰れる」と発言してニュース(毎日新聞)になっている。このニュースについて平沢議員を批判する立場から考えて行きたい。




第一にこの「ニュース」には怪しい香りがする。今後、議論が予想されると書いてあるところから「この毒にも薬にもならない議論で遊んでいてね」という含みを感じてしまう。本人は差別するつもりはないと言っており頭の悪さを感じる。自分が何を言っているのかわからないなら今後一切講演活動はしないほうがいいと思う。

第一にLGBTの割合は流行によって決まるようなものではない。だから社会がそれを容認したからといって数が増えたり減ったりすることは考えにくい。同性愛者は子供の時から「同性が好きかもしれない」と思うわけだし、異性愛者は放っておいても女性を追いかけるようになる。だから国家がLGBTを認めたからといってLGBTブームが起きてその結果みんなが同性愛者になるとは思えないのである。平沢さんは曖昧な情報をもとに話をしている。これは自分が「同性が好きだ」と感じた人たちにとって有害だ。社会に手本がない中アイデンティティを構築して行くことになるのだから、できるだけ「正しい知識」が必要なのである。特に自分は間違った性の認識を持っていると感じると自殺に行き着いたりすることもあるようなので、これは命の問題なのである。(一橋大学アウティング事件:Wikipedia

次の観点は多様性の容認だ。多様な空間には多様な人たちが集まる。だから同性愛者を容認したほうが社会が栄えるという研究がある。ただしこれは厳密には同性愛を容認しろという話ではない。同性愛者を社会の一員として認めるというのは他の多様性を認めるということである。いわば社会が開かれているというシグナルなのだ。こうした論調はすでに2000年代に語られている。クリエイティブ・クラスの世紀では、知的労働者は多様性を容認する都市に惹きつけられるというような主張がされている。異質な人たちの中には同性愛者だけではなく外国人労働者なども含まれる。だから渋谷区はその意味では先進地域なのである。

ところが日本全体では外国人労働者を社会の一員として認めるという機運もない。こうした社会がそもそも同性婚を認めるとは思えないし、多様な才能を受け入れることも、新しいアイディアを応援することもないだろう。だから、日本では魅力的なベンチャービジネスが生まれず、知的労働者は日本を目指さない。LGBTを認めることは多様性を認めることであり、多様性を認めるということは新しい可能性を認めるということなのであるが、平沢さんは「そういうのはよくわからないから考えたくない」と言っている。これはコンクリートに固執する自民党全体に言えることなのだろうが、自民党政権下の日本が成長しないのは、新しいアイディアを受け入れないからである。自民党政権が成長戦略に掲げるのは原発の輸出だが、原発はかなり旧世代型の技術であり、実はコンクリートの塊なので単純作業の多い公共事業型の建築と相性が良いのである。彼らは新しい価値観を受け入れないので、新しいアイディアもまた彼らをすり抜けて行くのである。

ここまではよく言われている話である。が、三番目はあまり語られていないのではないかと思う。自民党はとにかく考えることを面倒臭がるので「昔みたいなサザエさんの世界に戻せば問題は消えてなくなるんじゃないか」と思う人が多いようだ。ついでに自分たちが威張るために教育勅語を復活させようと考える人も多い。

ところがその家族自体がなくなってしまうかもしれないという衝撃の調査報告がある。マスオさんが見合い結婚したもののサザエさんに指一本触れないのでタラちゃんが生まれないという世界である。

日本では実は同性愛とは関係なく異性愛の方が危機に瀕している。相模ゴム工業が調査した結果、20歳代の童貞率が40%を超えたそうだ。若者のコンドーム離れという笑えない話があり、その基礎調査になっているのだろう。今回引用したリンク先には、男性が告白すると「SNSでさらされる」という話が紹介されている。恋愛どころか告白ですらリスクなのだから、結婚まで至るのはかなり難しそうである。

しかし、この調査はサンプル数が少ないので「何かの間違いかもしれない」と思う人も多いだろう。確かに確かめようがない。

去年から今年の初めまでの歌番組を見ていて面白いことに気がついた。女性が応援するジャニーズのアイドルは王子様的でありどこか中性的である。ところがこれがアニメになると男性らしさが前面に出てくる。2.5次元という新しいジャンルがあるらしく、キャラをかぶせると安心して「男性らしさ」が打ち出せるわけである。

これがどうしてなのかということに答えられる人は誰もいないのだろうが、男性らしさもある種のリスクになっている可能性があると思う。女性の社会進出が遅れている日本で女性が男性らしさを認めることは支配されることを容認することになってしまう。女性だけで子供を育てることも難しく女性のひとり親=貧困という現実もある。つまり、現実世界の男らしさはリスクでしかないのである。

この説明だと女性だけが男性らしさを忌避しているように思えるのだが同じことが女性アイドルにも起きている。アニメの声優がキャラクターとシンクロしているものが最新の流行らしい。もともとアイドルをヘタウマにしたのがAKB48だと思うのだが、高齢になるに従ってなまめかしさがでてきてしまった。端的に言えば指原莉乃は美人になりすぎた。そこで、年をとらないキャラクターが好まれるようになったのではないかと思う。

小林よしのりは「恋愛禁止」がAKB48を崇拝する理由だったと言っている。普通に考えると、一人に占有されずに「みんなの恋愛対象だから」アイドルとして成立しているのだと解釈したくなるが、恋愛がリスクだと考えると「トイレに行ったり恋愛したりする」ものはアイドルとしてふさわしくないと考える人がいたのかもしれないと思えてくる。

男女ともに肉体関係に踏み込んでこないものをアイドルとして消費している。男性と女性をくっつけておけばやがて子供が生まれたという昔とは違ってきている可能性があるのだが、なぜそうなったのが全くわからない。しかし一つだけ確かなのは波平さんは岩田屋での見合いまでは面倒を見られても夫婦の夜の生活までは指導できないということだ。

これは国家の危機だと言える。エンターティンメントはこの傾向をいち早く補足して新しいアイドル像を打ち出す。だが、ほのぼのとした年末の紅白歌合戦を見て「社会の危機だ」などと思う人はいないだろう。

その意味で、平沢勝栄議員はLGBTではなく紅白歌合戦について苦言を程すべきだった。韓流グループとLDH(EXILE系)を増やして男性らしさを流行らせるべきだったということになる。

どうせわかってもらえないと諦めるリベラル

Twitterで「日本がIWCを脱退したので海外から批判が集まりオリンピックが大失敗するだろう」というTweetを複数見かけた。一方、Quoraでは実際に捕鯨に対する反感が集まっており日本人に「なぜ日本人はクジラを殺すのか」という質問がぶつけられているので「日本語でちまちまとTweetするなら英語で反論してほしい」というようなことを書いて引用Tweetした。




実際には「日本人がクジラを食べたがっているわけではなく、安倍さんと二階さんの地元だと説明してほしい」と書いた。すると「自民党政権を政権につけている日本人が非難されるだけだ」という反論が戻ってきた。

この返答を見ていつかのことがわかった。まず日本人が世間とか世界を持ち出すとき実際に気にしているのは村の上下関係であって、村の外には実はあまり関心がないということだ。だが、それはすでに観察済みであってそれほど目新しいことはない。

この人は過去Tweetを見ると反自民党系の人らしい。アメリカ人に実際に説得してこういう答えが返ってきたのでなければアメリカ人がどう反応するのかは知らないはずだ。ということは、どこかから既知の「でもみんなが自民党を支持している」という答えを持ってきたはずである。つまり、普段からネトウヨに言われていることを気にしており、自分でもそう思っているのだろう。

日本のリベラルは自民党政権には勝てない。何を言っても「実は俺たちが何を言ってもみんなは賛成してくれない」と信じ込んでしまっているからだ。

前回「韓国が居丈高に対応するのは実は日本が怖いからではないか」と書いた。同じことが日本のリベラルにもいえる。つまりリベラルはすでに議論に負けているという自覚があるからより強い主張を繰り返すことになるのだろう。止まった瞬間に「自分が間違っていること」を認めてしまうことになる。

ただ、今回のリアクションを「リベラルの負け犬の遠吠え」と揶揄するつもりはない。自民党の支持者たちも2009年には同じようなメンタリティを持っていた。彼らは自分たちのどこが間違っていたのかと内省することはなく、公共工事にも良いものがあると言いつのり、天賦人権のために自分たちは政権を追われたと被害者意識を募らせてあのひどい憲法草案を作った。リベラルも「なぜ自分たちは支持されなくなったのか」と反省することなく被害者意識を募らせることになるだろう。

鬱積した気持ちという意味では韓国の「恨(ハン)」に近いのだが、日本の場合はこれが上から目線で語られる。自民党支持者は、今度はアメリカと戦争すれば負けないと思い、憲法という大きなルールを支配すれば勝てると信じる。民主党支持者は民主主義という正解にこだわる。これが負けた側の鬱積した感情を素直に表現する韓国人と大きく違っているところである。日本人は自分こそが本物の権威とつながっているという水戸黄門幻想を持っているのである。

日本人にせよ韓国人にせよ「上下関係」や「多数決」を気にする。みんなの意見が自分の意見より強い「集団主義的な」社会だからだ。自分たちの考える正義が空気に負けた時に屈折した感情として恨が生まれるのだ。だが、アメリカ人はそうではない。自分の意見や立場を伝えることが大切な社会である。そして「アメリカ人みんな」は存在しないから、言ってみないとどんな反応があるかはわからない。

実際にQuoraで「日本人がクジラを食べたがっているわけではない」などと言ってもそれにUpvote(いいね)がつくことはない。なぜならば質問をしてくるアメリカ人はもともと反捕鯨に関心がある人たちだからである。一方、アメリカ人がみんな日本人に反発しているわけでもない。人によって関心ごとが違うのだ。

反捕鯨の人たちが「日本人全体」を主語にしている間、彼らは日本全体を説得しようとするだろう。しかし、誰が原因なのかがわかればそれなりに対応するはずであり、どう行動するかは彼らの問題である。「私を捕鯨問題で説得しても仕方がないですよ」と説明することだけがこちら側の責任である。

トランプ政権で入管施設で子供が複数人亡くなっている。これに反発する人は多いだろうが、だからといってアメリカ人全体が移民の子供を殺したがっていると考える日本人はあまりいないだろう。つまり「アメリカ人全体がトランプ大統領のやっていることを全て承認している」とは思わないはずなのだ。しかし、もし仮にアメリカが日本の人権状況に文句をつけてきたら「アメリカだってこんな残酷なことをしている」と言い出すはずである。

ここからもう一つ面白いことがわかる。日本人は「自分が何かやりたくないこと」があるか、自分がやっていることに介入されて不快になると、「どうせそんなことは無駄だ」と言ったり、意見ではなく人格を否定する。「その人のいうことを聞かなくても構わない」ということを証明しようとするのである。これは、その人の人格を認めてしまうとそれは空気の一部になり「従わなければならない」と重荷に感じてしまうからだろう。つまり、人格と意見が不可分であり「人それぞれにいろいろな考え方がある」ということが理解できない上に、普段からやらない理由を探しているのである。それだけ自分の意思決定権に強いこだわりがあるのだ。

日本や韓国ではどうやら集団の雰囲気が個人の意見に大きな影響を与えているようだということがわかる。だが、言動ではなくちょっとしたリアクションを通して集団に対する恐れが時折ほの見えるだけで普段は全く意識されていない。

アメリカは自分の意見を表明し相手を説得しようとする社会である。だから合意された空気よりも合意形成のための意思決定プロセスを知りたがる。このため欧米型の異文化コミュニケーションの本は「意思決定プロセス」に強い関心がある。一方で他人の目を気にする日本人は世界で認められている日本に関心があり「日本人論」を書きたがる。最近Quoraで日本人は中国人のことをどう思っているのかということを聞かれることが増えた。その意味では他人の目を気にして承認されたがる文化は東洋に広がっているのではないかと思う。

自分の意見を述べることに慣れているアメリカ人はその人が何を言っているのかがわかれば何を目標にしているのかがわかる。しかし、集団の空気を読んで自分の意見を屈折させてしまう東洋的な人たちの政治的な意見は主張だけを聞いていても、彼らが何を気にしているのかが実はよくわからない。だから「リアクション」を観察することが重要なのである。

韓国のロックオン問題とネトウヨが陥る自虐史観

韓国の船が日本の哨戒機を「ロックオンした」という話がまだ尾を引いているようだ。この話を聞いていて「ネトウヨが陥っている自虐史観」について考えた。




どうやら話の全体像はかなり見えてきているようだ。韓国は日本海でなんらかの秘密活動を行っていたようだ。漂流する北朝鮮の漁船を助けていたのではなどと言われている。(読売新聞)北朝鮮はそもそも密漁しているわけだし、韓国はそれを知っていてこっそりと助けていた。となると見つかったら「怒られる」ということを予測していたことになる。見つかったら何をされても彼らは文句が言えない。そして韓国政府もそれを黙認していたはずである。

そこに日本の哨戒機が近づいてきた。Twitterではレーダーの範囲を出たり入ったりしていたのではという観測も出ている。そこでパニックに陥り攻撃姿勢を見せてしまったことになる。序列の厳しい文化的にもシステム的にも「現場が勝手にやった」とは考えにくいそうで、艦長判断だったのではという観測も出ている。

ところが、日本側がこの問題をエスカレートさせた。日本側というよりいきり立った安倍官邸が動いたようである。この精神的な稚拙さは驚くに値しない。安倍首相は国会審議でも後先考えずに行動してしまうことがある。与野党の攻防で「私がやっていたら総理を辞任する」とやってしまいそのあとの国会議論にかなり悪い影響を与えた。今回も表立って「どうなっているんだ」と相手政府に怒鳴り込んだのである。

ここで面子を潰された韓国政府が「いややっていない」とか「日本こそ威嚇していた」などと言い出して話が泥沼化している。艦長の威嚇行動を認めることは青瓦台が国際秩序に基づいて軍隊をきちんと統制できていないことを認めてしまうことになる。保守派からの攻撃が強まっており青瓦台はこれを認めることはできない。そうしてまた日韓の間に解けない結び目ができてしまった。

韓国は明らかにつじつまの合わないことを言っている。これは「嘘」なのだが、なぜ韓国は嘘をつくのだろうか。もともと敵対的な姿勢があったというよりは、韓国の後ろ暗さが嘘の原因のように思える。現在の政府は親北朝鮮の姿勢をとっている。だから、自力で飛行機を飛ばせるはずもない北朝鮮当局に「おねだり」されている可能性がある。ただ、兄弟から無理な頼みごとをされたら断れないのが「ヒョン」である韓国政府の情なのではないだろうか。だが、本当に現場の軍人たちが納得しているのかはまた別の話だ。建前上も実際のオペレーション上も北朝鮮軍と韓国軍は「休戦状態」にある敵同士なのである。

情報網が一体化している韓国軍はアメリカと独立して動けない。つまり、この隠密の作戦はアメリカも知っていた可能性が高いのではないか。さらに、自衛隊や安倍政権はこのオペレーションについて米軍から知らされていなかったのだろうという予測も立つ。アメリカは知っていて日本に伝えなかったはずだ。なぜならば、アメリカが日本のEEZを無視していたということになるからだ。

改めて安倍政権がいかに「蚊帳の外」にいるのかということがわかってしまう。かといって、韓国はバレたから日本に正直に伝えようという気持ちにはならないだろう。韓国は日本にたいして「ヒョン、ここは辛いところなんだ。わかってくれよ」とは甘えられない関係になっている。さらに中国も日本の近海(EEZ内)で活動をしている(朝日新聞)ようで、中国の進出と今回の動きもごっちゃになって受け取られているようだ。

この一連の行動の裏には韓国特有の「甘え」の感情があることがわかるのだが、実は背景にあるのは単なる甘えではない。日本は意外に大きくて怖い国なのだ。世界第3位の経済大国で、実は軍隊の規模も日本の方が韓国より上なのである。グロバール・ファイヤーパワーというところが出しているというランキングが載っている記事があるのだが、日本は7位で韓国は12位なのだそうだ。つまり、韓国は日本が怖いがかといって甘えられもしないという関係になっている。

日本人はアメリカには興味があるが韓国にはあまり関心がない。精神的にアメリカから独立できておらず今でもアメリカを怖がっている。安倍首相は「戦後レジームの脱却」などと勇ましいことを言いながらもアメリカが怖いようで「米軍は友好的だから大目に見て欲しい」とプーチン大統領に説明した(共同通信社)そうである。これがTwitterでは笑い者になっている。

アメリカと比較して卑屈になっているネトウヨ首相は実は自分たちのプレゼンスをアメリカと比較して過小評価してしまっているのかもしれない。バイアスに支配されたネトウヨがやたらに「より強い国」を目指すのはそもそも卑屈さの表れだ。彼らは自前で軍隊を持ちたいとはいうが、アメリカの庇護から離れると絶対に言わない。つまり、普段から「パヨクは自虐史観だ」と言っているが実は自虐史観にとらわれているのはネトウヨ側だということがわかる。相手を批判するということは実は自分の劣等感を晒す行為なのである。

日本は意外と大きな国だ。世界第3位の経済大国であり、1億人以上の日本語話者を抱える統一された市場もある。軍隊も世界で10位以内に入っており、第6位の海洋面積が中国の目の前に広がっている。実はこの「大きさ」に自覚がない日本人は多い。

今回の件は、例えていえば「やるな」と言われていたのに裏の空き地で草野球をしていた人たちが、ホームランボールを探しに庭に侵入したみたいなものだ。そこに影が見えたので「怒られる」と考えてついつい持っていたバットを振りかざしてしまった。しかし、非を認めると何をされるかわからないので「お前が突然飛び出してきたから殴られると思った」と開き直っている。だが日本は自分たちが怖がられていることには気がつかないし、逆に適度に甘えさせて時々びしっと言ってやることが彼らを満足させるということもわからない。

そう考えると韓国人の一部の人たちは要求し続けていないと自分たちの弱さに直面せざるをえないと考えているのだろう。が同時に甘えたいという感情も持っているはずである。さらに日本より大きな国になりたいがそこまでの大国になれないという諦めと憧れの感情もあるのだろう。ところが日本はこの揺れ動く感情が理解できないので常に行き違いが生じるわけである。この屈折した感情を「恨(はん)」というのだが、これを「うらみ」と捉えるうえに自分たちのことを実力以下の小さい存在だと思い込んでいる日本人には韓国人の心情がうまく理解できない

いずれにせよ「そもそも後ろめたいことがあり嘘もついている」上に「心理的に従わなければならない」という弱さを持っている人ができるのはめちゃくちゃな理屈を持ち出して嘘を吐き続けることだけだろう。だから、韓国は日本側が「証拠」を持ち出して解決を迫るたびに嘘を吐き続けることになるだろう。

他人を批判したり攻撃するという行動の裏には潜在的な恐れが現れる。何も言わないようではあるが、実はかなり雄弁にその人が持っている影を映し出しているのである。

Dolce & Gabbanaと中国の炎上騒ぎ

Dolce & Gabbanaのショーを見て、身長が様々なモデルを使っていることが気になった。「多様性を受け入れてこのようなモデルを使っているのだろう」と思ったのだが、実際にはそうではないようだ。今回はクリエイターに勝手な思いを重ねてしまいがちな我々の性質について考える。




Dolce & Gabbanaのショーには様々な人たちが出てくる。例えば2019年春夏のショーには高齢のモデルが多数採用されている。このような光景を見るとつい「多様性を受け入れているのだ」などと書きたくなる。

ところがこれを裏打ちしようとしても「SNSが主流になった現代の多様性を受け入れるために様々なバックグラウンドの人たちを登場させた」などという記事は出てこない。出てくるのは中国でDolce & Gabbanaが炎上したというような話ばかりである。

中国について、デザイナー2人は苛立っていたようだ。コピー商品の氾濫を防ぐためには本物を浸透させることが大切なのだが、あまり中国マーケットが好きではなかったのはないかと思われる英語のインタビュー記事を見つけた。「コピーでいいならコピーを着ていればいいじゃないか」というようなことを言っている。日本からもD&Gが撤退している。コピーが多かったことに嫌気がさしたのではないかという観測がある。

ただ、同社本国のクリスティアーナ・ルエラ常務取締役は、こうもコメントを寄せた。「日本市場に氾濫(はんらん)するD&Gの模倣品が大きな障害になっている」

http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201006010144.html

彼らはビジネスとして世界に自分たちの商品を売るよりもクリエイターとして尊重されたいという志向が強いようだ。

過去のインタビュー記事を何本か読んだのだが、Dolce&Gabbanaは過去に何回も問題発言を繰り返しているそうである。敵に回したのはアメリカのアンチトランプ、同性愛者などいわゆる「リベラル」な人たちである。デザイナー二人も長い間同性パートナーだった経験があるわけで、ついついリベラルに分類したくなるのだが、実はかなり保守的傾向が強いようである。メラニアトランプと親交がありトランプ大統領を支持している関係で、ショーに出演したモデルに反乱を起こされたこともあるそうだが、イタリア人なので政治に興味はないとこれを一蹴している。(HUFF POST

同性愛関連の発言ではエルトンジョンの怒りを買った。同性愛者だからといって全ての人がリベラルな家族観を持っているわけではないのだ。

「私たちはゲイの養子縁組に反対します。伝統的な家族が唯一のものなのです」。2人はことわざを引用してこう述べた。「化学的につくられた子供や借り物の子宮なんて必要ありません。人生は自然のままに。変えるべきでないものがある、ということです」

https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/16/elton-john_n_6875760.html

今回の中国では、このやんちゃぶりが政治議論の枠を越えてしまった。つまり民主主義的な意見対立ではなく、ついに民族的な騒ぎに発展してしまったのだ。デザイナー2人は、最初は謝罪するつもりはなかったがようだが、最終的にSNSで謝罪するという「かっこ悪い」対応になってしまった。(FASHIONSNAP.COM

経済的に自信が出てくると今度は名誉が気になる。これは日本がかつて通った道である。Quoraでも何回か「日本人は中国人をどう思っているのか」というような質問を目にした。国力はついてきたが果たして立派な先進国になれたのかという後発先進国型の自意識だ。日本が長い間欧米の目を気にしてきたように、国もこれから長い間先進国の目を気にすることになるのかもしれない。

Dolce&Gabbanaはキャリアの最初にモデルを雇う金がなく一般の女性にモデルなってもらったことがあるとWikipediaに紹介されている。モデルに様々な人たちが登場するのはこの辺りが背景になっているのかもしれない。決して「政治的正しさ」から来ているわけではなさそうだ。そもそも既存の服のルールを破ったり、ボロボロのジーンズをハイファッションとして仕立てているわけだから政治的な正しさの対極にあるということも言える。デザイナーとしては型破りさが求められるがビジネスマンとしては政治的正しさが求められるというのはとても難しい。また自身も同性愛者なのに保守的な考え方を持っているという点にも難しさがある。

我々は「成功したクリエイティブ」であるファッションデザイナーに政治的正しさを求めがちだ。今回抱いたのは「クリエイティブな人たちは多様性を支持するリベラリストだろう」という根拠のない期待である。しかし、彼らが成功したのは既存の価値観に挑戦したからなのだから、我々の期待通りに「いい子でいてくれる」とは限らないのである。