道徳という名の化け物が……

道徳という名の化け物が合理的な政治を食い尽くそうとしている……今日はこのような大げさなことを考えたい。




考える直接にきっかけになったのは東洋経済の大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意という記事だ。どちらかが正義でどちらかが悪という二項対立的な構図が問題の本質を見えにくくしていると指摘している。この問題は「かわいそうな保育園の先生」と「無慈悲なマスコミ」という単純な形で捉えられ、それに芸能人が追随しているというのだ。

最近のワイドショーはこの二項対立を煽っているような様子もあり、自業自得なのではないかと思える。

例えば、最近話題になっている「小室圭問題」では小室さんへの嫉妬心が道徳感情という仮面をつけて暴れまわっている。小室さんは私人なのだが皇族と結婚しようとしているので「準公人扱い」して知る権利を振りかざしているのである。

しかしその背景にあるのは小室さんはずるいという嫉妬感情である。「結婚したら一時金が支払われる」とか「女性宮家ができれば小室さんにも公費が支払われるから」という理由で「それはずるいのでは?」という気持ちを煽ってもいる。結局、商売のために道徳感情を煽っていることになりポピュリストの政治家よりタチが悪い。

背景にあるのは取材費不足だろう。無料のコンテンツで構成しなければならないのだが、訴えられる可能性があったり、関係者筋から文句を言って来られる「コンプライアンス上の」リスクは困る。つまり「相手を見て」喧嘩を売っている。だが、言い返してこない、言い返せないとわかって喧嘩を売ることは日本語では普通「イジメ」という。つまり知る権利は元々の意味を失い単なるイジメの道具になっているのだ。

例えば、今回国会で扱われていた「幼保無償化」の話は主婦に関係のある話題であるにもかかわらず、ワイドショーで全く議論されることはなかった。唯一議論されたのは消費税が先送りになれば幼保無償化がなくなり損をするのでは?という懸念だけである。

道徳は政治が新しい権利や多様な行き方を認めないための言い訳にも使われる。新しい価値観が理解できない人も「道徳」という言葉を持ち出させば簡単に正当化の議論が作れてしまうからだ。少し前に聞いていたLGBT問題について回答があった。人権というのは共産主義よりタチが悪い道徳破壊・家庭破壊だと言っている。Twitterでこれを発信すると高い確率で炎上するだろうが、この人は実名でコメントしており、決して悪意からの言葉ではないのだろう。言葉に出しては言わないがそう思っている人は多いに違いない。

このところ、民主主義の原理が単純な道徳に置き換えられて行くというようなことを考えているのだが、社会が複雑になり利害関係がよくわからなくなると、手近にある道徳を使って「良い」と「悪い」に分けるというようなことが行われるようになるらしい。変化を認めないというのはまだかわいいい方だが、中には道徳心を用いて他人を裁いたり貶める人たちが出てくる。そしてそれが「エンターティンメント」にまで持ち上げられてしまうのである。

こうした症状が出てくると、社会は絶えず敵を要求するようになる。敵を攻撃している時だけかりそめの一体感が得られるからである。

知る権利を満たしたい気持ちが安易な方向に流れると却って知る権利が奪われるということが起こる。

ところがここから「良い知る権利」と「悪い知る権利」を分割することはできないのではないかと思う。それは我々が「良い判断力」と「悪い判断力」を併せ持っているからである。

このブログはかつて「村意識を残した日本人」というようなテーマをよく書いていた。既得権を持った人たちは村を維持し、そうでない人たちは路上に放り出されるというような筋立てだった。当時は「ここからどう社会規範を再構成してゆくのだろうか」ということを考えていたような気がする。しかし、気がつけば全く違ったところに出てきてしまったようだ。人々は現実の縛りから自由になり顔を隠した匿名の道徳意識だけが化け物のように暴れまわっている。

今見ているのは、現実に即した社会規範が失われ、かつてあった「他人から良い人と思われたい」という気持ちだけが暴走ているという世界である。そして「民主的な」政治議論をやればやるほど化け物に餌を与えることになる。

集団化して暴走する民主的な道徳が合理的思考を奪ってゆくプロセスにはまだ輪郭がつかめないところが多い。すぐにはわからないだろうが、これからも少しづつ考えて行きたい。

幼保無償化の問題についてまとめる

幼保無償化が決まる前に蓮舫議員が問題についてつぶやいていた。




彼女たちがターゲットにしている「困窮層」狙いだと思うのだが、どこかちょっとずれているような気がした。だが、それが何なのかはよくわからなかった。

そこで問題点を探してみたのだが、わかりやすく一元的に書かれている記事はなかった。法律は制定されてしまい、あとは10月の予算執行を待つばかりだ。今更ながらなのだが問題点を列挙していみたい。読後感として見えてくるのは安倍政権のビジョンのなさだ。

消費税増税と使い道の関係

まず、消費税は税の徴収方法(直間比率の見直しと間接税の簡素化)に関する議論であり、増税でもなければ使い道の議論ではない。だから消費税増税に合わせて幼保無償化を「期限ありき」で検討することがそもそも間違っていた。制度設計の拙速さについて触れた人はいたが、そもそも論を指摘した人は誰もいなかった。もう長い間マスコミも含めて「自己洗脳」にかかってしまっているのである。

少子化対策になっていない

大きな問題に興味がある人は幼保無償化のB/C(費用対効果)が気になるようだ。どちらかというと男性誌が好みそうな「大きな話題」であり当事者と問題意識が共有されているとは言い切れないのだが、大切な視点であることは間違いがない。

「幼児教育・保育無償化」の落とし穴はエコノミストらしいざっくりとした分析になっている。幼保無償化をしても恩恵を受けるのは子供を持っている家庭だけなのだから少子化対策にならず日本の構造的問題を解決できないと言うのだ。当事者たちにとってみれば「構造的問題など知ったこっちゃない」わけだが、大きな問題を取り扱う人たちにとってはこちらの方が重要なテーマなのだろう。

さらにこの制度は社会主義的な問題をもたらすことが目に見えている。国が補助を入れれば入れるほど潜在的な需要が掘り起こされ、供給過小状態が続き、なおかつ他に資源が行きわたらなくなるのだ。

困窮者対策になっていない

蓮舫議員が懸念しているのはこの点だろう。つまり一律に援助してしまうと結局高所得の人たちの方がトクをするという議論である。

言っていることはもっともだ。他にまわせるはずだった予算が幼保無償化に浪費される。しかし、幼保無償化はそもそも「消費税を払い損」と考える現役中所得層の不満の解消にある。彼らが自民党から離反して民主党系に取られないようにするための方策なのだから、この批判はあまり効果的ではないような気がする。日本の政党政治が成立しなかった理由がここにある。与野党は同じパイを奪い合ってしまうのだ。

子供を作らない(余裕がなくて作れない)人たちはこの問題については無関心なので、立憲民主党を支持しようとは思わないだろう。加えて、消費税対策にせよ子育て支援にせよ「中間層を支援し、それより仮想の人たちとの差別意識」を作るというのは、ポピュリズム政治家にとっては重要な活動である。困窮者が残り、一生懸命頑張っている自分たちが報われるという中間層の「メシウマ」感覚を助長するだけに終わりかねない。つまり、中途半端な反対はさらに中間層の「結束」を強めてしまうのである。

この議論は日経ビジネスの裏返しになっている。この一文はつまり「うかうか無償化すると貧乏人が押し寄せるぞ」とも取れてしまう。そしてこういう言い方のほうが「響く」という人が多いのである。

さらに、無償化することによって、子どもを預ける必要性がそれほど大きくない家庭からも潜在需要が掘り起こされて、待機児童の問題が一段と悪化するリスクが否定できない。

幼児教育・保育無償化」の落とし穴

質の向上につながらない

女性が指摘する問題点は男性とは異なっている。幼稚園・保育園の質の向上という視点があるのだ。東洋経済も同じようなタイトルの記事を作っているのだが、こちらは男性エコノミストが書いた記事とは違った視点になっている。

保育所の第三者評価制度や幼稚園の学校評価制度はあるが、いわゆる経営や監査ではなく、幼児教育の内容やプロセスの質を問うた評価制度にはなっていない。つまり、無償化の資金投入だけを続けても、質が高まる保証のないままに投入することになる。

保育園無償化が効果ゼロに終わる3つの理由

幼稚園・保育園を小学校に変えるとわかりやすい。つまり「小学校は無料にするが、どんな質なのかは入る小学校によって異なる」のと同じ状態になっているのだ。ちゃんと市町村の目が行き届いている小学校と机を並べただけ(あるいはそれすらもない)学校が混在しかねないということである。どちらに入れるかは運次第である。

また、給与格差(公立と私立で待遇が全く異なるようだ)をなくしたり、保育士の研修制度を充実させたりという工夫が必要なのだが、そもそもバラマキの一環なのでそのような検討は全くされないままで制度設計が進んでいる。

東京新聞の記事にはこの辺りを批判した一節がある。

だが、無償化は安倍晋三首相が二〇一七年の衆院選で唐突に公約として打ち上げた。だから十分な制度設計の議論がないまま泥縄式に制度がつくられた。政策の狙いに内実が伴っていない。

保育の無償化 子供たちが置き去りだ

東京新聞だけ読んでも何を言っているのかわからなかったのだが、東洋経済を読んだ後だと意味がわかる。

再び小学校の例を出すと「小学校を無償化するがその原資が足りないし、制度設計をしている時間などないから怪しいところもまとめて小学校にしてしまえ」と言っている。逆にいうと日本で小学校制度を作った人たちがどれだけ偉かったのかということになる。小学校がある程度質の揃ったユニバーサルサービスであるということを感謝する人など誰もおらず文句ばかり言っているが、これからそのありがたみを実感するはずだ。

このようにまとめてみると、無理筋で乱暴な議論が積み重なっており、制度自体が混乱しかねない要素を多分にはらんでいることがわかる。その基礎にあるのは「幼保教育をどこに位置づけ、どれくらいの割合で予算を作るべきか」というグランドプランが全くないという問題だ。今風にいうと安倍政権にはビジョンがないのだ。

間違った政治的判断が自分たちを苦しめる – アメリカ白人の場合

人の銃自殺者急増中、原因はトランプ大統領という記事を読んだ。ポピュリズムに動かされてトランプ大統領を応援してきた人たちが逆に追い詰められている。




ざっと書くととても理不尽なことが起こっている。

  • 移民が流入してきたことで白人の間に危機意識が生まれ、銃規制運動がしにくくなった。
  • オバマケアなどの社会福祉は「黒人が考えた」弱者向け政策であるとして反対されている。
  • このためセーフティネットに頼れなくなった白人も銃で自殺している。

ここで紹介されている本は机上の空論ではなく実際の調査に基づいて書かれているそうだ。自殺は考え抜かれたものではなく1時間以内に「決断」されたものが多いのだという。銃が野放しになっているので手っ取り早く銃で自殺してしまうのだ。

日本の例ではないのでやや冷静に分析できる。二つの点に着目した。

人々は論理ではなく道徳的にトランプ大統領を支持している

これは「ポピュリズムとは何か」の中でも書かれていたことだが、社会が複雑化すると政治家が道徳を訴えかけて人々の支持を得ようとすることがある。この文章の中では「ノームがまかり通る」という道徳とは別の言葉が使われている。社会のセーフティネットが十分に整備されていない地域では「とりあえず武装することが自分たちの身を守る」というような規範が整備されてしまう。カリフォルニアから来た人が「ノームがまかり通り」としているのは、カリフォルニア出身の人から見ても一種異様にに見えるからだろう。

敵味方思考

本来モラルや道徳を気にするはずのキリスト教原理主義者がトランプ大統領を支持している。「同性愛や人工中絶」などの敵をトランプ大統領が攻撃しているからだという。原理主義者にとって黒人のオバマ元大統領は敵なのでこれを攻撃してくれる人が見方に見えてしまう。ただ、このセーフティネットは自分たちも使えるのだということを彼らは忘れている。人種という属性によって敵味方思考が生まれ、文脈によって評価を変えてしまうのである。

論理による現状把握を諦め、敵味方思考に侵されてしまうと、実は自分たちにとって不利な条件でも受け入れられてしまい、間違った相手を攻撃し続けることになる。

トランプ氏支持率、最高の46%に ギャラップ社世論調査によると共和党支持者の9割がトランプ大統領を支持しており、民主党大統領候補者が割れている民主党支持者でさえ12%が大統領に「なびいている」そうだ。合理的判断能力が民主主義から失われ、集団で敵を攻撃するという快感の根深さを感じさせる数字だ。お互いに非難し合う民主党に嫌気がさしトランプ大統領に期待する人が出始めているのである。

心理学的にトランプ大統領を研究したという文献を読むと、トランプ大統領の演説は人々を感覚的に惹きつける能力に優れており、隠れた恐怖心や劣等感などをうまく刺激しているようだ。論理より道徳・所属意識。危機意識の方が訴えかける力が強いということにトランプ大統領は気がついているのだ。

これまで、北朝鮮・イラク・中国と見てきたが、トランプ大統領の敵を作り出す能力は内政ではとても受けているようだ。が、それが実際には目の前にある問題の解決を先送りにし、さらに国際政治上では危機を作り出しているわけである。日本から見ると、ポピュリズムに侵されつつあるアメリカに頼ることがどんどん危険になっていることがわかる。

トランプ大統領のDealが高めるイランの緊張

ポンペオ国務長官がイラクを訪れて対応を協議したというニュース(時事通信)が伝わった。イラン情勢が緊張しているようだ。イランも核関連活動の一部を再開(朝日新聞)すると宣言した。




今回緊張を高めているのはどうやらアメリカ側のようである。この二つの記事によると「イラクが軍事的な緊張を高めている」と主張して空母などを展開したのだが根拠は示していない。背景にはイラン原油輸出の全面禁止がある。日本も2019年5月末(つまり今月中)には全面禁止を求められるようになるという。これに対する軍事的な反発に備えて予防措置を取っているものと思われる。

この一連の記事を読むと「なぜこの時期なのだろうか」という疑問がわく。実は、アメリカがイラン核合意から離脱してから一年になるのだ。この枠組みにアメリカが復帰せずプレッシャーをかけ続けているので、イランもついに「対抗策を打ち出しますよ」と宣言する予定(時事通信)なのだ。

アメリカ・日本・韓国は北朝鮮に弄ばれているが、イランの状況は全く異なっている。見方を変えればトランプ大統領の頭の中には中東のことしかないのかもしれない。

イラン・北朝鮮両国に対するトランプ大統領の態度には一貫性がなく説明がつかない。あえて説明するとしたらトランプ大統領の「総合的判断」としか言いようがないのではないか。そう考えて1年前の記事を読んでみた。

いろいろな理由があるようだが、どれも彼の個人的な都合に楽観的解釈をまぶしたものに過ぎないようだ。平たく言ってしまえばめちゃくちゃなのだ。

  • イランはトランプ大統領を支援しているイスラエル(及びユダヤ系)と敵対関係にある。
  • 北朝鮮に「圧力をかけたから」北朝鮮が取引に応じたのだという単純な理解がある。
  • トランプ大統領が「大人の対応」を求めていたスタッフをすべて解雇し強硬派に置き換えてしまった。
  • イラン合意でイランを普通の国として扱おうとしたのがオバマ大統領であり、トランプ大統領はオバマ大統領を否定したい。

Nippon.comの鈴木一人さんの記事ではは「当面大した問題にはならないだろう」と分析していた。アメリカが離脱したが他の国は合意の枠組みに残ったからである。しかし今回アメリカが状況をエスカレートさせて「deal」をしかけたためにフランスも合意を離れれば制裁をせざるをえなくなると言わざる得なくなった(Reuters)ようだ。イランはまだ大人の態度を保っていて60日のマージンを作ってヨーロッパと交渉すると言っている。

「大人のヨーロッパ」がかろうじてつなぎとめてきた枠組みをアメリカ流の(あるいはトランプ流の)Dealが押し流そうとしている。そしてこれは突発的な事態が起こりやすくなっていることを意味し、地域の緊張が高まれば中東各国も核武装に向けて動き出すだろう。

トランプ大統領は中国に対してもDealをしかけている。関税の引き上げを仄めかし中国を恫喝した(日経新聞)のだ。もちろん中国経済に影響はあったが、アメリカの株価も極端に下がった。彼の考えるDealは世界を危険なところに連れて行こうとしている。

ポピュリストを弄ぶ北朝鮮の独裁者

北朝鮮が新しいなにかを打ち上げた。米韓日はこれを飛翔体と言っており、ミサイルとは認めていない。この状況を見て金正恩の方が一枚上手だなと思った。




国際社会は北朝鮮の調教に失敗した。吠えたら黙らせるために餌をやるというやり方で失敗したのだ。これからも北朝鮮は吠え続けるに違いない。関係各国は自分たちが調教に失敗したという事実を認められないので、あの犬は吠えているのではないといい続けるだろう。

各国がこれをミサイルと認められないのはなぜだろうか。二つの問題がある。まず、日経新聞が書いているように「弾道ミサイルと認めてしまうと国連安保理の決議違反になる」のでなんらかの制裁をしなければならなくなるという問題がある。

各国は北朝鮮との対話は進んでいると喧伝してきた。特にトランプ大統領は「北朝鮮はもうアメリカにミサイルは撃ってこない」とまで言っている。文在寅大統領も北朝鮮融和策を取っておりなおかつ軍事力がアメリカ頼みなのでアメリカとは違う判断はできないのだとテレビ朝日は伝える。彼らは国民に必ずしも事実でないことを伝えており、つじつまを合わせなければならなくなってしまったのだ。

特にアメリカの反応は露骨だ。ハンギョレ新聞が伝えるところでは、ポンペオ国務長官は日本海に向けて撃ったのだから韓国と日本に脅威はないと言いつつ国内向けの本音を漏らしている。「モラトリアムは明らかに米国を脅かす大陸間ミサイルシステムに焦点を当てたもの」だから今回のアメリカに届かないミサイルは問題がないと言っているのである。つまり、アメリカさえよければあとはどうでもいいと考えているのだろう。これをアメリカファーストという。

しかし、このポンペオの見込みは間違っている。実際の在韓米軍は危険にさらされるのである。韓国の軍隊は焦りの色を隠せない。中央日報は次のように書いている。

写真を見ると発射体がロシアの弾道ミサイル『イスカンデル-M』と全く同じ [中略] 朝鮮が打ち上げた発射体がイスカンデルの改良型だった場合、韓半島(朝鮮半島)に致命的な安保脅威になる

韓国軍「北の発射体」 韓国党「ミサイルをミサイルと呼べないのか」

ポンペオ国務長官は国内向けに「大したことはない」と言っているのだが、実は陸続きの韓国には脅威であるということがわかる。イスカンデルについては軍事ブロガーという人が記事を書いている。誘導性能があり固形燃料で準備が簡単ということだ。そしてこれは紛れもなくミサイルだそうだ。

半島に脅威が迫っており、海峡を挟んで隣同士の日本にもほぼ直接の影響があることを意味する。半島情勢が悪化すれば難民の一部は日本に押し寄せてくることになるだろう。だが、令和の祝福ムードで満たされた日本の報道はこのことを伝えなかった。日本の報道は「安倍首相が強い決意を持って北朝鮮と対峙する」という政府側の広報を伝えるのみだったようだ。

表向きの強い決意とは裏腹に、乗り遅れており相手にされていない日本はついに焦り出し「条件なしで話を聞いてやる」という線まで譲歩してしまっている。これも「吠えれば餌をもらえる」という学習になっている。条件をつけないということは拉致問題について話し合えなくても良いということである。

トランプ大統領もここに商機を見出しているようだ。北朝鮮と貿易交渉をリンクさせて日本に譲歩を迫ろうというのである。「良い会話だった」とご機嫌だ。安倍さんが泣きついてくれば「代わりに何をくれるの?」というのは当然といえば当然である。

安倍首相の「策なき外交」がどれほど日本の国益に反しているのかということがよくわかるが、日本のマスコミはもうこの今ここにある危機を直視できない。日本は自分たちの命運が自分たちで決められないので危機を煽ることしかできなくなってしまうからである。そしてこの手の問題で騒ぎそうなネトウヨも騒がない。彼らもまた「失敗者」と見なされるのを恐れている。

北朝鮮の金正恩はスイスに留学した経験があり欧米人がどのような志向様式を持っているのかよく知っているのだろう。民主主義国では政治家の約束は国を縛り政治家は約束に縛られるということを熟知しているのだ。

冷静に考えれば武器を使って恫喝を続ける独裁者が許されるべきではない。しかし、アメリカ・日本・韓国ともに劇場型ポピュリズム政治に半分足を突っ込んで抜け出せなくなっている。だからこそ独裁者が勝つというようなことが起きてしまうわけである。ポピュリズムはお話を作って大衆を手なづけるのだが、そこから抜け出せなくなってしまうのだろう。

人権の道徳化 – LGBTの視点から

ポピュリズムとは何か」の中で道徳について書かれている部分がある。政治家が「道徳を押し付ける」というのだが、面白いことに道徳とは何かということが全く書かれていない。このため日本人が人権を取り上げるときには注意が必要だ。注意して取り扱わないと人権が道徳化しかねないのである。




この本はポピュリズム批判(実際には多様性の否定を批判している)なので、道徳はネガティブな使い方をされているということになる。古びて硬直化した社会規範のことを言っているのだろう。ちなみにこの本を書いた人はドイツ出身でプリンストン大学の政治の先生をしている。

このことを思い出したのが、LGBTについて書いたこの記事を読んだからである。基本的にLGBTが生きやすい社会を作るのは大切だと思う。また、事実婚の容認のようにLGBTでなくても恩恵が受けられる制度もLGBTの中から育まれる。だが、この記事を読んで少し考え込んでしまった。

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由」というタイトルがついている通り、人権を道徳意識で片付けてはいけないとしている。ところがこれを読んでゆくと「西洋の進んだ人権思想」を取り上げるはずが、その理解が極めて日本的になっていることがわかる。日本的とは大きなものに寄りすがって100%の正解を作るというような意味だ。人権が「正解」になってしまっているのだ。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

ここでいう国連とは「国連のさまざまな委員会や人権理事会」だ。ここの人たちはヨーロッパ流の価値判断基準を持っているものと推察できる。つまり、ワールドスタンダードでは市民に責任を押し付けないと言っているのである。

最初に引っかかったのは、この「道徳」の取り上げ方そのものだった。日本人は政治は「人徳のある人がやるべき」とされているのではないかと思ったからだ。徳治政治という言葉もある。つまり、東洋サイドから見ると衆愚が自分たちの好き勝手主張を繰り返し社会を破壊する急進的な行為は慎むべきであり、徳を持った政治家が折を見て考えるべきだと言えてしまうのだ。

何が徳なのかということを孔子は定義していないとされている。五常という分類があるのだが、その定義は様々な具体例によってなされているだけである。ただ、これらの徳は「容易に届かないもの」とされているので、いわゆる「わかりやすい道徳」で人々を思考停止に追い込むような類いの道徳ではない。と同時に庶民を政治の世界から隔離もしている。道徳のような高邁なことは「どうせ庶民にはわからない」のだ。

一方で、西洋流の人権について書いた本を読むと、道徳=旧弊な判断というような使われ方をしている。例えば先に挙げたLGBTの文章から引用されたものを読むと「道徳を使って市民社会に責任を押し付けている」と書かれている。ここで人権が優れているのは、人々が多様な価値観を多元的に折り合わせてきたからだ。ゆえに多元性を失った人権は単に新しい道徳に過ぎない。

日本の道徳には「統治者からの押し付け」という含みもある。孔子の徳がどのようなものだったのかということにはあまり関心がなく、武士がたしなみとして学び、また統治に都合が良い理屈として「利用」した。教育勅語もそうだったし、学校教育で道徳が教科になった時にもそのような批判(東洋経済)がなされた。

道徳のチェックとはありていに言えば国家への忠誠心を学校が国家に変わってチェックして成績につけるということである。どうせ自分では考えられないから国家が教えてやるのである。そして大抵それは統治者の失敗の隠蔽と正当化に使われてしまう。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

多元性という前提があるとき人権はまだ受け入れ可能なような気がするのだが、このLGBT側の文章も読み方によっては「国に代わって国連という権威を使って自分たちの権利を広めたい」というように読める。これは戦前の教育勅語を国連に置き換えただけの事である。文章の最後は次のようにまとめられている。

世界人権宣言には、『すべての政府と人民が人権を守っていく』と書かれてあります。人権の当事者はすべての人です。実は日本は国連の分担金の第2位で、払っているお金の元は私たちの税金です。そういう意味でも、ぜひ国を監視し、人権を守らせるために、国連を使っていきましょう

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

このように置いてしまうと「国の権威」と「国連の権威」のどちらを優先するのかということになってしまう。多元的な価値観を折り合わせて行こうという本来の人権主義の視点からは外れてきてしまうのだが、この辺りが本来権威主義が好きな日本人のくせというか志向なのだとも思う。どうしても強くて大きいものを信仰するところから抜け出せず、他者の価値観を聞く気持ちにならない。

一人ひとりが生きやすいように社会を変えてゆくというのはとても大切だ。また、LGBTであるということを社会と折り合わせて行きたいと考える人たちの人権はもちろん守られるべきだ。

だが、国連と国家とどちらが強いのか?というように問題を置いてしまうと、それはそもそも最初にあった多元的なやり方からは外れてゆく。つまり、人権が新しい道徳になってしまうのだ。ここではLGBT忌避の人たちが何を恐れているのかを丁寧に傾聴して行かないといつまでたっても「どちらが正しいのか」という運動会になってしまう。

実際にイスラム世界の人たちは西洋が勝手に置いた人権が気に入らない。彼らは規範作りに参加させてもらえないからだ。人権にはどうしてもキリスト教世界からの「規範の押し付け」という側面があり、これを内側から絶えず取り除いてやらないと、生きやすい世界どころか諍いの元になってしまうのである。

日本がポピュリズムに陥らないわけ

時事ドットコムが「立憲、野党共闘路線へシフト=衆参同日選にらみ」という記事を出した。Twitterを見ているとこれは正しい判断のように思える。




枝野さんを支持している人たちの関心をTwitterで見ると「安倍政権の打倒」を求める声が大きい。つまり政治の諸課題に関心があるわけではなく、安倍政権を打倒して溜飲を下げたいという人が多いのだ。

その背景もまた、安倍首相が政権交代(再奪還)を正当化するために「あんな人たちの悪夢の時代」というような言い方を続けているからである。少なくとも浮動票の世界は劇場型政治型ポピュリズムに飲み込まれていることがわかる。これが組織票に頼らない二大政党制を模索した結果である。

同日選の背景には消費税増税延期の期待があるようだ。保守の人たちは増税を延期した上で選挙に大勝し「憲法改正」という勝利を手にしたいのだろうが、憲法はついでと言って良いのかもしれない。現代の日本の改革志向勢力はポピュリズムなので官僚政治への対抗意識が原点にある。東大卒でない安倍首相が官僚を従えて押さえ込んでいるという姿が好ましいのだろうし、消費税はその象徴となっているのだろう。野田さんのように財務省に屈するとたちまち嫌われてしまうのだ。

そんななか、4月12日に「4月の末には同日選の結論が出る」という自己実現型の予言が出ている。令和最初の選挙は、やはり「衆参ダブル」になると見る3つの理由というタイトルだが、実際には「ダブル選挙にしてほしい」という願望を述べたものだろう。こうした声がなくならないので枝野さん側も「フェーズ(局面)が変わった」と認識しているようだ。

与党・野党ともに消費税増税に反対であり、それに「政府・官僚が抵抗する」というよくわからない展開になっている。その中でどちらの陣営も矛盾を抱える。

安倍首相は総裁としては消費税増税には反対したいし憲法改正論者の政治家としても消費税増税に反対したほうが都合が良い。ところが政府の代表者という別の立場も持っている。リーマンショック級の出来事など起こるはずはないし、新しい約束は既に使ってしまったフレーズだから今更使えない。

野党共闘に乗り出した立憲民主党だが、こちらは安倍首相と対立姿勢を打ち出すと、政権を取った後の運営がやりにくくなるという矛盾を抱える。政権を取るつもりのない共産党と一緒にやっていても先はないのだが、かといって今の時点では乗らざるをえない。自分たちの政策への支持も期待も全く集まっていないからだ。

さらに、政治は闘争だと考える小沢一郎さんはもっとやっかいだ。プレジデントオンラインは「小沢氏にぶっ壊された国民民主党の残念さ」という記事を出している。国民民主党も政策への支持が集まらず、結局小沢さんの闘争装置になる道を選択した。

つまり、どちらも政策に期待は集まっていない。日本人の理解する政策は利益配分なので野党には「日本人が考える政策」が作れない。政府予算にアクセスできないからだ。だから結果的に政争だけが残る。

日本政治はこれまで政策なき選挙をやってきたのだが、それは実際の政権を運営を官僚がやってくれていたからである。しかし政治主導の名の下でそれを潰してしまったわけだから、後は自分たちでなんとかするしかない。でも、できないのだ。政党政治に残った声はこんな感じになる。

  • 消費税増税はとにかくいや。財務省に負けた気がする。
  • とにかくなんでもいいから憲法を改正したい。
  • 憲法を改正したら、たちまち日本の民主主義はめちゃくちゃになる。
  • 小沢一郎は嫌い。
  • 共産党はダメ。
  • 東京みたいになればすべての問題は解決する。
  • 東京は地方に金を回せ。
  • 教育を無償化しろ。日本が停滞したのは教育のせいだ。

とても課題が山積した国の政治風景とは思えない。マニフェスト選挙と言われたのは2009年だったわけだが、たった10年で「好き嫌い」だけが政治を動かすわけのわからない状態になってしまったのである。

ただ、こうした混乱状態が続く限りポピュリズム政治にはならない。ポピュリズムが怖いのは「あいつが悪い」という指がどこか一点に向いた時だが、お互いに取っ組み合っている間は絶対にそうはならない。つまり、小さな揉め事があるから大事故が起きないという状況になっている。これは不幸中の幸いと言えるのかもしれない。

政治議論をすればするほど堕落してゆくという可能性について考える

ポピュリズムの本と一緒に「文明はなぜ崩壊するのか」という本を借りてきた。心ゆくまでローマ帝国の崩壊過程などが読めるのかなと思ったが、途中からアメリカの政治批判みたいになってしまいいささかがっかりした。が、一応マヤ帝国の崩壊過程とローマ帝国の崩壊過程については触れられていた。




ローマについては、ジェセフ・ティンターという人の「複雑な社会の崩壊」という本が紹介されている。ティンターの本はよく引用されるらしいのだが、邦訳がないらしい。

農業生産性が落ちてゆき人口は増えてゆく。その矛盾を解決するためには土地を広げざるを得なかったと言っている。これについて調べたところ、ローマが初期の過程でさえ外国から安価な食料品が入ってきて中小農家を潰していたというような記事(東洋経済)が見つかった。つまり崩壊の芽は最初からあったことになる。

いずれにせよ、内側で食料が供給できないと、増えすぎた人口を維持するために外側に拡張して食料供給力を維持する必要がある。帝国が拡大するとそれを維持するために通信・軍隊・統治のコストが増す。そこに新しい問題(外国人の侵入)が加わることで帝国は分裂したというのである。

しかしローマ人は問題を解決しなかった。自分たちは拡大(成長)していたのだから優秀だと信じ、国の大切な防衛などを外国人に任せるようになっていったのだ。日本のバブル経済も崩壊直前まで自分たちの実力だと信じていた人が多かった。崩れてからもしばらくはバブルであるということに気がつかなかったくらいである。ローマがそうだったとしてもおかしくはない。

東洋経済の記事の別のページには農業生産を担っていた中小農家が凋落し生産さえも外国人に任せたというようなことが書かれている。ローマはこうして堕落して行ったのである。

今回はポピュリズムの話の中で「帝国の崩壊過程」について見ている。この二つを組み合わせると「複雑になり理解ができなくなると単純な解決策に頼るようになる」ということだ。そしてその崩壊の芽は最初から組み込まれている。

いずれにせよ物事が複雑化しすぎて対応できなくなると単純な解決策に頼るようになる。それを提示するのがポピュリストだ。

日本では最終的に「自分たちを信じて付いて来れば何も問題はないし、異議申し立てをしている人たちは自分たちの社会を壊そうとしているのだ」という主張に行き着いた。これは前回のポピュリズムの定義によると大衆先導による反多元主義であると言えるだろう。

Quoraの政治議論を見ていても、人々は問題の解決など求めてはいない。あらかじめ「消費税はダメ」とか「韓国は気に入らない」というような意見ができていてそれを延々と語り合っている。そこに合理的な回答を提出しても意味はない。ただ、彼らが気にいる答えを書いてもまたそれは無意味である。なぜならばうすうすそれが解決策ではないことはわかっているからだ。だから彼らは問い続けやがて疲れて何も考えなくなる。

多くの人たちが質問を投げつけられ続けると疲れ果てて考えることそのものをやめてしまうようだ。回答は単純化され、やがて質問されることに対して怒り出すようになる。アメリカ人は自分たちの主張が通るまでいつまでも叫び続けるが日本人はそれが社会の正解にならないと嫌になってしまうようである。

実は「ポピュリズムとは何か」の中にも同じような現象が書かれていた。複雑さ二疲れた人々は合理的に利害調整することをやめて「道徳的価値観」(良い・悪い)で物事を判断するようになるのである。トランプ大統領のTwitterの「this is good/this is bad」はその典型だろう。

このトランプ流のTweetが人々を引き付けるのは、問題をわかった!と考えることそのものに快感があるからだろう。問題の解決に快感があるとすると、人々が政治的な議論に参加すればするほど、政治議論は「堕落」してゆくことになる。人々は複雑な問題ではなく適度に「高次元の」問題把握と解決を選好するようになるだろう。そしてそれを覚えると政治議論そのものが「快楽装置」になり衆愚化してしまう。そうなると一つの破滅に向かって走り出すか、あるいはポピュリストたちに搾取される植民地化された存在になってしまうのではないだろうか。

「議論と対話は解決策へと続いている」と漠然と思ってきたのだが、実は議論をすればするほど堕落してゆく可能性もあるということになる。今回の結論はあまり楽しいものにはならなかった。

ポピュリストは国民投票をやりたがる

左翼も右翼もポピュリストがいっぱいだ。だが、誰が本当のポピュリストなのかわからない。そこで図書館で「ポピュリズムとは何か」という本を見つけた。少し古くて2016年に書かれた本である。




ドイツ人政治学者、ヤン=ヴェルナー・ミュラーが書いたこの本は「ポピュリスト」をかなり厳格に規定している。反エリート主義であるだけではポピュリストとは言えず、反多元的でなければならないと言うのだ。本を読み進めると、ヤン=ヴェルナー・ミュラーの要点はポピュリスト批判ではなく「多元主義(平たい言葉で言えば多様化)」であることがわかってくる。

反多元的という言い方はわかりにくいが、多様性の排除と言い換えても間違いではないと思う。例えば住民投票をやって51%が勝ったから「49%を排除して」これが100%の民意だという人がいるが、これは反多元的な考えた方である。そもそも49%の中にも多様な意見があるはずだ。ヤン=ヴェルナー・ミュラーはこれを民主主義の失敗と見なしているようである。

ポピュリストは大衆に向かって自分は100%大衆を代表しているというのだが、彼らの言う大衆はポピュリストが規定したものである。そしてそれを51%以上の人たちに確認させるために、多数派が「イエスと言いやすい」質問する。そしてそこから外れる人たちを攻撃し結束を強める。これがポピュリズムの排除の仕組みである。

だから、ポピュリストは国民投票(本ではレファレンダムと書かれている)をやりたがる。大衆がすでに持っている答えを提示してあたかも全体に対して同意を得たような演出を行い「みんなが私を支持しているのである」という言い方を好むのだ。

レファレンダムを好むのはポピュリストが議会による多様な意見のすり合わせを嫌うからだ。そして、ヤン=ヴェルナー・ミュラーはその欲求はやがて憲法の改変につながってゆくとしている。

ポピュリストは民主主義を否定して権力を引き受けるようなことはしない。現行の民主主義を「ハック」して(ヤン=ヴェルナー・ミュラーはハックとは書いていないが)利用する道を模索するのである。

ここまで読んでくると安倍政権のやり方があまりにもあからさまに「ポピュリスト的」なので思わず笑ってしまう。ただ、ヤン=ヴェルナー・ミュラー自身は「日本に関しては素人なので言及しない」としている。我々が今見ているように、安倍政権とは複雑化した問題に関する単純な答えであり、それゆえに「これまで政治がわからなかった」という大衆から一定の支持を受けている。つまり、有権者のレベルで複雑性への拒絶反応が広がっているのだろう。

この住民投票と憲法の項目に「道徳的な」という言葉が出てくる。人民を代表する勢力が永遠に国民を代表するのはいいことである(道徳的に正しい)というような言い方をする。この道徳による判断も複雑さの理解を諦めた時に人間が起こすリアクションの一つである。トランプ大統領もよく「GoodとかBad」という道徳的な価値判断を使いたがり、多国間協議のような話し合いを好まない。これも多元性排除である。ポピュリストたちはとにかく調整が嫌いだが、これは人間の価値判断の限界に原因がありそうだ。つまり、複雑な状況に直面すると人は合理的に判断するのをやめて、多数決や道徳に頼るのである。

ここまで見ると安倍政権はポピュリズムだから排除すべきなのではと思うのだが、この本を安倍政権の排除やトランプ政権の打倒につなげることはできない。ヤン=ヴェルナー・ミュラーはポピュリストを政治から排除することはできないし、やるべきでもないとしているからである。

ポピュリストたちが台頭してくる裏にはそれなりの問題があるわけで、それに耳を傾けて対応するのも民主主義の役割であろうと言っている。日本風に言えば「他人の土俵に乗るな」ということになるのかもしれないし、そもそも「多元性の維持」が本来の目的なのだからポピュリストたちもその多元性の一部ということになるのである。

ここまで見てくると、ヤン=ヴェルナー・ミュラーが日本の立憲民主党が影響を受けていることはわかる。

日本が高度経済成長期にあった時、憲法改正はそれほど重要な政治的テーマではなかった。うまくいっている時、人々はあまり憲法や政治システムを意識しない。

バブルが崩壊し自民党が自浄作用を失ってゆく中で浮動票を取り込まざるをえなくなる。結果的に「大衆」を規定しその枠内にいる人たちに敵を提示することで一定の政権浮揚を図ったのが現在の自民党である。つまり、現在のポピュリズムは原因ではなく結果なので、これを取り除いても脅威が去ったことにはならない。むしろ行き詰まりの根本原因を探るべきなのだろう。

しかし、行き詰ったシステムが意思決定をしているわけだから、そのまま動かして行けばやがて破綻するだろう。つまり、ポピュリズムゆえにシステムが破綻するのではなく、政治的意思決定能力を失ったシステムがポピュリズムを生み出し、それが全体を破綻させかねないのだということになる。

この本を読んでもいくつかわからない点があった。日本のポピュリズムは一定の広がりは持っているが、大きく燃え上がってシステム全体を飲み込んだりはしない。実際に国を動かしているのは現状を変えたくないという人々であり、ポピュリズムはそれに利用されているだけである。正義や民主主義的理想がポピュリズムを抑えているわけではないのだが、なんらかの抑制機能が働いていることは確かなようだ。だが、それがどこにあって、どんな形をしているのかということがよくわからない。

いずれにせよ立憲民主主義を擁護して多様性を大事にしたいという人はぜひ一度読んでみると良いと思う。「ポピュリズムとは何か」はそれほど長くない本なので読み通すこと自体はそれほど難しくないはずである。

平成改元時の新聞を読んでみた

令和令和とうるさい。「あれ平成改元時にはそんなことなかったのになあ」と思って、当時の1月の朝日新聞を読んでみた。




前回の改元が盛り上がらなかった理由はすぐにわかった。盛り上げる必要がなかったのである。

1989年は竹下内閣で、年頭所感で「今年は政治改革をやるぞ」と宣言されている。アメリカではレーガン大統領時代が終わりブッシュ大統領に切り替わるという時期である。アメリカは緊縮財政だったが、日本の景気は好調で貿易も黒字基調だった。

しかし内政には懸念もあった。好調な景気を背景にしたのか消費税増税が決まったばかりだったのだが、リクルート事件の新事実が次々に報道されており、月の終わりには山本経企庁長官が辞任してしまう。国民はこの報道にうんざりしていたのである。税負担を国民に押し付けて自分たちは株で儲けているのですかと考える人が多かったのだ。

そこで、竹下内閣は地方自治体に一億円づつ配りますよというふるさと創生事業を発表した。つまり、リクルート事件の金権批判をバラマキでかわそうとしたわけだ。

あとになって、この当時の好景気は土地価格の急上昇に支えられたバブル景気だったことがわかっている。しかし当時の人たちはそれに気がつかなかった。1月14日の新聞に「自民党が地価高騰対策の議論を先送りした」という小さな記事が出ている。自民党もマスコミも「金権政治批判」で頭がいっぱいになっており、まさかこの好調に足元をすくわれるとは思っていなかったに違いない。

そして1月9日に昭和天皇が崩御するのだ。国中に自粛ムードが広がり、若者からは「疑問の声」が上がる。上皇陛下が退位・譲位にあたってこうした自粛ムードを懸念したとしてもそれは当然のことだろう。東京オリンピックと重なることもないとはいえない。

今にして思えばこのバラマキで財政再建をしておいてくれればとか、土地に対して分析をしてくれていればなどと思うわけだが、新聞にはそのような問題意識は全く見られない。土地価格が高騰すると庶民が家を買えなくなるくらいの問題だと認識されていたようである。結局、自民党が問題を先送りしたので大蔵省が政令でなんとかしようとする。それが総量規制だが、これが原因でバブルがはじけ、その後失われた20年が続くことになった。

消費税に関して言えば自民党が増税を決めたのは実は1回もないそうだ。3%から5%にあげるのを決めたのは村山政権であり結果的に政権を維持できなかった。村山内閣を受けた橋本政権では増税凍結論争(President Online)があり「凍結していればもっと勝てた」という話があるそうだ。5%から8%にあげるのを決めたのも野田政権であるがこちらも政権を手放している。実施したのは光景の安倍内閣である。

一方で、元号に関しては今と似ているような<議論>もあった。第一の議論は平成という元号が首相近辺で独断で決められた元号でありなおかつ偽書によるという批判である。今ネット検索してもこのような情報は出てこないのだが、平成の出典になった書籍は出元が怪しい偽書なのだそうだ。実はWikipediaにもこっそりとそう書いてある。さらに大喪の礼については宗教的儀式なのでは?という批判があり、自民党と左派政党の間で駆け引きが行われている。

このように平成改元時は景気が盛り上がっておりわざわざ改元で盛り上げる必要はなかった。人々は自分たちの実力でここまで来たと感じていたのだから、時代に助けてもらおうとは思わなかったのだろう。だが、それは過信であり実際には加熱した景気がはじける寸前だったわけである。

それを考えて、改めてテレビの令和騒ぎを見ると無理に時代の変わり目を強調しようという演出が目立つことに気がつく。人々が閉塞感を持っておりこれを「一気に誰かに何とかして欲しい」と思っているからだろう。一方で、諸改革は先送りになっており、このうちの何かがはじけるのかもしれないし、実は好調に見えるものが災厄の先触になっているのかもしれない。