学校はみなさんがいじめられても飛び降りるまで何もしないですからね

いじめの話がなくならない。今度は神戸でおきた自殺未遂事件だそうだ。机が悪口を書いた紙切れで覆い尽くされていたのだが、当事者は写真を撮影しただけで何もいわずに授業を受け続け、そのあと公園の石垣から飛び降りたのだという。

この話が拡散したのは、机の写真があまりにも非日常的でインパクトがあったからだろう。これを「生徒同士のじゃれあい」と感じていたそうだから、感覚がかなり麻痺していたことがわかる。

この事件には2つの問題がある。一つは学校側が「学校に何か物申すなら命を捧げよ」というかなり明確なメッセージを出しているという点で、もうひとつはそれを敏感に感じ取った学生が「学校は何もしてくれないのだから身を守るためにはいじめに加担しなければならない」と感じているという点だ。

学校は何もしないことで「もし深刻ないじめだと感じるならそれなりの行動を起こせ」と言っている。「それなり」というのは命を賭けて抗議をしろということである。学校のような神聖な秩序にチャレンジするのだから、それなりの対価を支払うべきだと言っているのだ。いったん自殺や自殺未遂が起こると今度はプロトコルに従って「調査委員会」が作られるが、それまでの間紛争を処理する仕組みはない。先生は秩序に反して仕組みを作ろうとは思わないので、自動的に放置されるというわけだ。

このプロトコルは日本人を考える上で重要な概念だ。例えば家庭内のいじめの対応には社会的な二つのプロトコルがある。一つは児童虐待でこれは児童相談書で「処理」される。もう一つはドメスティックバイオレンスでこちらにも専門の仕組みが用意されている。つまり、それ以外の暴力(例えば親子間とか兄弟とか)には適切な仕組みがないので、例えば高齢の親を子供が殴ったなどというケースには行政は介入しない。制度がないのに動くと調整が面倒だからだ。

同じように学校には生徒間の紛争を事前に処理する仕組みがない。法律に従って重大インシデントに対応する仕組みはある。これに合わせるには飛び降りるしかないのである。カフカの「城」を思い出させるような話だが、実際には学校も「お役所」の一つになっていると考えられる。

もう一つの問題は相撲や企業不正について観察した時に見た「世間を騒がせる」罪である。本来平和であるはずの教室にいじめが起こっているということを告発することは、担任教師のマネジメント能力に対する疑問なので慎まなければならないし、同僚の教科教師が疑問を挟むこともできない。さらに生徒がこうした秩序を「飛び越えて」教育委員会や第三者委員会に強訴することは決して許されないという学校内封建秩序である。

この話を聞いて思い出したのは佐原惣五郎の話である。「伝説だ」という話も多いようだが基本的な路線は次のようなものである。

佐倉藩の農民は重税に苦しんでいたのだが聞き入れられず家綱に直訴した。願いは聞き入れられたのだが、佐原惣五郎は処刑されてしまう。本人だけではなく妻も男子の子供も処刑されたという。つまり、一家根絶やしになってしまったのである。

この背景にあるのは、個人が体制に文句をいうことは決して許されないのだが、もしやるとしたら一家が根絶やしになっても構わない覚悟でやりなさいということである。直訴を許してしまうと、気に入らない時には直接幕府に訴えればよいということになってしまい、幕藩体制が揺らいでしまうからだ。

学校を一種の封建社会だとみなすと、生徒の人権というのはそれほど大切なものではなく、学校の秩序維持が重要だということになる。もし訴えたいことがあるならば、命をとしてやりなさいということで、飛び降りる生徒というのはその仕組みに従っただけということになる。こうした社会秩序が前提にあるのに「命は大切だから」などと訴えても全く説得力はない。

このブログで自殺や死にたい人について考える時に、常に「訴える手段として自分の命を使うな」と言っている。時には「訴える側にも意地になっている側面があるのではないか」といって反感を買ったりすることがある。つまり、自分がいじめられているということを社会に認知させるためには死ねば良いという「正解」が出てくると、そのことで頭がいっぱいになり、自分が何を犠牲にしているのかということがわからなくなっているのではないかと思うのだ。

このような問題を防ぐためには、第三者の恒常的な介入は欠かせないのではないだろうか。また、生徒が気軽にノーコストで「直訴」できるような仕組みを作り、それが当然の権利であるということを丁寧に教えこまなければ、似たような問題はなくならないだろう。結局のところ「死ぬほど悩んでいるのか」ということは当人にしかわからないからだ。

その意味で、この学校と教育委員会のやり方は許容されるべきではないと思う。

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なぜテレビでキチガイと言ってはいけないのか

田原総一郎が朝生で「キチガイ」という言葉を使ったとかで、アクセスが伸びた。田原さんはテレビのルールを熟知しており、このエントリーを書いたときの小林さんとは状況が違っている。





小林旭がテレビでキチガイという言葉を使い、フジテレビのアナウンサーが謝罪した。この件についてネットでは「キチガイにキチガイといって何が悪い」という声があるそうだ。小林さんの言葉は「無抵抗の人間だけを狙ってああいうことする人間っていうのは、バカかキチガイしかいないよ」というものであり、なんとなくなるほどなと思うところもある。

テレビでキチガイと言ってはいけない直接の理由はそれが放送禁止用語だからである。民放は広告収入に依存している。広告を載せる以上は前提となるコードがあり、それに触れたのがいけないということになってりう。「テレビ局が勝手に決めた」という反論があるようなのだが、出演者たちは広告収入からギャラをもらっているのだからルールは守られなければならない。

だが、なぜそもそもキチガイは放送禁止用語なのだろうか。それは、日本の精神病患者が長い差別の歴史を戦ってきているからだ。もともと精神疾患は不治の病のように考えられており、いったん発症すると病院に閉じ込めて死ぬまで出てこれないように処置するのが当たり前だった。薬物治療ができるようになってもこの状態は変わらず、今でも社会的入院患者(受け入れ先があれば退院できるが、実際には入院している人たち)が18万人もいるとされている、これはOECD諸国では一番多い数なのだそうである。(#wikipedia「社会的気入院」)

つまり、よくわからないからとにかく閉じ込めておけという風潮があり、人権侵害の恐れが強い。このような差別を助長するので、精神病者や疾患保有者を示す「キチガイ」という言葉を一概に禁止していると考えられる。

例えば風邪のような病気を全て「病気」とひとくくりにして一度風邪に罹患したら一生社会に出てこれないという状況を考えてみると、これがどれほど異常なことだったのかということがよくわかる。だが、精神的な不調は外から見ても原因が観察できず、よくわからない。そこで「キチガイ」とひとくくりにされかねないのである。

このように正気とキチガイの境目はわかりにくくなっており、単に封じ込めておけば良いというものではなくなっている。

日本の例でいうと薬を処方されながら社会生活を送っているうつ病の患者が多くいる。つまり、薬があれば社会生活が送れる人たちがいるのである。うつ病だけに限っても100万人程度の患者がいるそうだ。こうした人たちをすべてキチガイの箱に入れてしまうと多くの人がキチガイになってしまう。

しかしながらうつ病の人たちはまだ診断名がついているという意味でわかりやすい存在である。BLOGOSによると最近問題になったラスベガスの銃撃犯はギャンブル依存に陥っており向精神薬の処方も受けていたようである。さらに薬そのものへの依存傾向があり精神科で薬をもらっていた可能性がある。さらに、正気の日常生活を送っており、フィリピン人の女性と交際もしていた。怪しまれずにホテルに宿泊することもできた。医者を含む人たちが彼を見ていたのだから、外見上はとても精神に異常があるようには見えなかった。このように、正気とそうでない人たちの間の線はかつてないほど曖昧になっている。銃撃した人を後からみると「なんらか精神に問題があった」ということは間違いがなさそうだが、だからといってそれを事前に察知することはできないのである。

アメリカではさらに状況が一歩進んでいる。パフォーマンスを上げるためにスマートドラッグという種類の薬を飲む人たちがいるのだ。。副作用はないということになっているようだが、現在は覚せい剤として指定されている薬も昔はパフォーマンス向上のために使われていたという歴史がある。さらに抗鬱剤のなかにもスマートドラッグ分類されているものがある。つまり、正常と異常の境界線はどんどん曖昧になっている。

小林さんが「あんなことをする人はキチガイに決まっている」という時、キチガイというのは外見からみて明らかに精神に異常をきたしている人だという前提があると思う。しかし、それはこのケースに関しては当てはまらない。実はこれがアメリカでこの事件が人々にショックを与えている一つの理由だろう、さらに、明らかに精神に問題がありそうな人がみんな人を殺すかどうかわからない。これは「精神に不調があればとりあえず閉じ込めておこう」という偏見のある日本では精神疾患を持った人たちへの差別につながりかねないという問題もある。

田原総一郎さんもかつてのように気楽な気持ちで「キチガイ」と言ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。小林さんは歌手でありそれほど社会問題についての知見は求められないが、田原さんには言論人としての経歴と責任がある。だから「アナウンサーが謝罪して終わり」にするのではなく、自らの口で説明すべきではないかと思われる。アナウンサーが「臭いものに蓋」と言わんばかりに謝罪して終わりにしてしまっては、言論人としての責任は果たせない。

いずれにせよ、民放はサザエさんのような「普通の社会」を前提としたスポンサーシップに支えられているのだが、実際にはその社会はもはやないと言って良い。これを民放の枠内で解消するのか、ネットメディアのように違った場所で解消するのかという議論派あっても良いのかもしれない。

誰が正常かというのは昔は自明のように思われた。ゆえに精神病を発症した人への差別があった。だから、いわゆる「正常な人たち」は、精神に問題がある人たちは閉じ込めておけば良いと無邪気に信じていたことになる。だから今でもテレビではこうした人たちを指す「キチガイ」は封印されてなかったことになっている。

小林旭がキチガイ発言をした番組は「ニュースを斬った」ように見せるエンターティンメントでしかない。政治ニュースですら消耗品として扱われており、そこに問題を解決しようという意欲はない。だから小林さんに期待されているのは、ぎりぎりの線を狙いつつ、本当に議論を呼び起こすような課題に触れないようにするというアクロバティックな技術なのである。一方で、田原総一郎氏の番組も言論プロレス的な要素がありこれをジャーナリズムとして位置付けて良いのかはわからない。

こうした問題が未だに議論を呼ぶのは、受け手も送り手も難しくて面倒なことはできるだけ考えたくないからだ。このため日本人はこうした厄介な問題を閉じ込めてしまいできるだけ見ないようにしてきた。隠蔽することで「自分がそういう状態になったらどうしよう」という不安を隠蔽してきたのだ。だが、こうした不調を隠蔽すると、実際に自分が同じような境遇に陥ったら社会から見放されるのだろうなという見込みが生まれる。

「テレビではこうした言葉を一切使わない」のも隠蔽の一種だ。一切見ないのだから知識も増えず対処もできない。実は、これが多くの人々を不安にさせているのではないだろうか。その意味では発言した人はそれなりの説明責任があると思う。単に謝罪して終わりにすべきではない。

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なんでもできるようにしてきた世代と何にもできなくなっていった世代

先日、バニラ・エアに「歩けない人は搭乗できない」と言われた障害者が自力でタラップを上ったというニュースについて書いた。Twitterを見る限りでは、大抵の人は「障害者を排除するのはかわいそうだ」という意見を持ったようだ。このブログはこれは障害者だけの問題ではないのではないかと書いたが、そういう意見は少数に止まるようで、概ね企業のオペレーションの問題ではなく人権問題として捉えたのだろう。

だが、Twitterを眺めていると「航空会社はダメだと言っているのだから我慢すべきだ」という意見をいくつか見つけた。当事者である体が不自由な方の意見もあったのだが、やはり若い人ほどそういう感想を持つらしい。つまり、人権問題をみると「人権屋がわがままを言っている」と思う人が多いようなのだ。こうした若い人たちの中には自民党や現政権を応援する人が多いという印象もある。一方で、年配の人の中にはいわゆるリベラルを支援する人が多い。人権は追求されるべきテーマであって、あまりそのことに疑問を持つことはないのではないだろうか。

この違いはどこから来るのだろうか。乙武さんのつぶやきだ。切り拓くというキーワードが出てくる。この辺りがポイントになっているのではないかと思った。

これを読んで、もしかしたら木島さんは「わざとやった」かもしれないなあと思ったが、若い人はここに「活動屋」の匂いを嗅ぎ取るのかもしれない。活動屋は現状を壊す破壊者であり容認されるべきではないという味方だ。

考えてみると、我々は年々いろいろなことができるようになってきた世代に育った。白黒のテレビがテレビがになり、便利なコンビニができ、海外のブランドものが買えるようになっていった。海外旅行にも行けるようになった。そのうちにコンピュータが発達し、ネットを使って色々なことができるようなってゆく。

ただし、単にエスカレータに乗っていたという感じではなく、切り拓いてきた人たちも多い。顕著な例としては女性総合職だ。もともと女性というのは男性の補助的な仕事しかさせてもらえなかった。法律ができて状況は整ったのだが、会社側の準備は整わなかったので「戦ってきた」と考えている人も多いのではないだろうか。障害者にしても家に閉じこもっていたのだが、昔に比べれば色々なところに出かけて行けてゆけるようになった。これも勝ち取ったものであると考えられる。

実際に木島さんが意地で上ったおかげで「では昇降機をつけましょう」ということになった。つまりやればよかっただけのようだ。場合によっては無理に切り開かないといつまでも変わって行かないことがあるのだが、成長する年代に育った人たちはそのことを知っているのである。

しかし、「若者は奴隷としてしつけられてきた」と切り捨てていいのだろうか。確かに、若い人たちは「会社ができないって言っているんだから、無理をいうのはわがままだ」と思っているようだ。さらに誰かがわがままを言ったとしてもリソースは限られているので、別の誰かが損をするというゼロサムの世界に生きている可能性は多いにある。彼らはバブルが崩壊した後に生まれており、以前ならできていたことがだんだんできなくなってきた時代に育っているからだ。

企業もギリギリで回しているので、一人を特別扱いしていると、余裕がなくなり全体がうまく回らなくなるというような経験をしている。つまり、もともとが我慢を強いられる時代を育ってきており、自分が頑張れば後の人たちが楽になるという体験をしていないのかもしれない。

異議申し立てというのは、それによって世の中がよくなるという経験があってはじめて正当化されるのなのだろう。Twitterには障害を利用したプロ市民だなどとい書き込みがあり、年配の世代からみると悪魔のように思えるのだが、そもそも「みんなが工夫した結果社会が少しづつよくなってゆく」という経験がなければ、そう思っても無理はない。さらに、特別扱いして欲しければJALかANAに乗れなどという人もいるが、これも「安いんだから我慢して当然」という企業や社会に対する低い期待の表れなのだろう。

このことを考えると、心からかわいそうだなあと思った。と、同時にいくらすべての人が平等に扱われるべきだなどと説いても、そもそも我慢を前提に生きている人たちには響かないだろうなあと思った。こういう人たちを説得するためには、多様性が結果的に社会の成長性をあげるというようなことを証明しなければならないことになる。それは意外とやっかいな仕事なのかもしれない。

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バニラ・エアの何が問題なのか

バニラ・エアで障害を持った人が搭乗を拒否されそうになり自力でタラップを登ったというニュースが出た。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪をし、アシストストレッチャーで搭乗できるように対応した。

この件、いったい何が問題だったのだろうか。本当に「不快にさせた」ことが問題の本質だったのか。


この件について、最初からアシストストレッチャーを装備していればよかったのか、それともアドホック的な対応に過ぎないのかがよくわからないことに気がつきました。なにかご存知の方やご指摘がありましたらご教示ください。

コメント欄に「空港側の問題では」という書き込みがあったのだが、どうやら航空会社固有の問題らしい。

今後のために、奄美空港の責任者に確認しました。
「歩けない人単独は完全NG」。「車いすを担ぐのはNG」。
「同行者のお手伝いのもと、階段昇降をできるならOK」とのこと。 このルールが認められていいんでしょうか?


確かに障害者が人並みに飛行機に乗れずに「かわいそうだ」という話があるのだが、当事者になった木島英登(ひでとう)さんがかわいそうかどうかは本人に聞いてみなければわからない。問題は多分別のところにあるのかもしれない

木島さんが搭乗を拒否されたのは、規則に合わなかったからであると説明されている。「危ないからダメ」ということなのだそうだ。確かに障害者が自力で搭乗できるように設備を改装するのはちょっと面倒だしお金もかかるように思える。しかしながら、実際にはアシストストレッチャーを使えば搭乗は可能だったのだから、あまり例外的な処理について考慮していなかった可能性の方が高い。当事者や専門家に聞かずに勝手に「面倒だから」という理由で判断していたのだろう。

当初このニュースを聞いたときには規則だからダメだといった融通の利かない現場社員が悪いなどと思っていたのだが、実際に規則の裏にある理由は理解されていたようである。ただし、そのルールがきちんと考えられていたのかと言われると「実はちゃんとした解決策があった」ということになり、組織的な問題であることがわかる。

奄美空港に行くキャリアはバニラ・エアだけではなく、格安だから仕方がないという見方はできるわけ、が、この航空会社は通常の安全対策はきちんと取っているのだろうかとか、現場や関係者の話を聞いた上で様々な対応をしているのだろうかという疑問がわく。

いちいち小うるさいかもしれないが、面倒なことをなかったことにして効率化を図るということはいろいろなところで行われており、時には大きな事故を招いたりする。それを「一人のお客さんを不快にさせてごめんなさい」というのは、残念ながら矮小化にすぎない。

いったん大きな事故が起こると「想定外だった」とか「気がつかなかった」ということになるのだが、実際には「めんどうだから考えないようにしておこう」としているだけということが多いのではないか。つまり、気がつかなかったのではなく目を背けていたにすぎないのだ。

確かに、足の悪い障害者の場合は少しでもお金をかけてちゃんとした準備が整ったキャリアを使うべきですよという論は展開できるだろうし、完全に安全が確保できないから事前に知らせておくべきだという論も間違っているとは思わない。だが、ちょっと考えてやればできたことをやらなかったというのは、実はちょっと深刻なことなのかもしれないと立ち止まって考えたほうが良い。

この件は、自力でタラップを昇る「かわいそうな」障害者のイラストがついていたせいで、わりと炎上気味になっているのだが、実際には「まさかの時の安全対策をきちんと取っていない可能性がある」ということの意味を考えるべきではないだろうか。

もっとも、まさかの時のことは考えずに安い飛行機代を優先したいという方もいらっしゃるだろうし、自分が旅行するにしてもそういう選択はするかもしれないので、そこは自己責任としか言いようがない。その辺りは一人ひとりの判断で選択すべきだろう。

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福島菌は「美しい日本」の伝統

福島からの避難者が「福島菌」と呼ばれていたというニュースをテレビで見た。これをいじめと捉えて登校しなくなった子もいるという。関連するニュースを検索して読んだところ、ちょっとした違和感を感じた。全ての関係者が「いじめはいけないこと」と言っているのだが、当事者の発言は一切ない。あたかも「いけないこと」と騒ぎ立てることで問題を隠蔽しようとしているかのように見える。つまり、日本人は何かを考えないために騒いでいるのだ。

生徒たちが福島から転校してきた子を「菌」扱いする理由は明白だ。親がそう言っているのだろう。福島県への偏見の根強さがわかる。同時に、いじめがいけないと考えているわけではなく、それを表面化させることがいけないと考えていることになる。

そもそも「菌」とは何だろうか。菌にはいくつかの属性がある。

  • 菌は目に見えない。
  • 菌に触れたり近づいたりすると伝染する。
  • つまり、保菌者に近づかなければ安全である。

菌は「穢れ」を科学的に言い換えたものであると考えられる。つまり、かなり古くからある伝統とだ。最近では、つるの剛士さんのようになんでも長ければ美しいと考える保守の人たちがいるので、彼らのいい方に習えば「美しい日本」の伝統ということになるだろう。

さて、なぜ穢れという概念が生まれたのか。それは病気などの災厄があった時、それがなぜ起きているかがわからないからだ。わからないがよくないものを「穢れ」と括って現実世界から切り離してしまう。すると残りの人たちは安心だということになるわけである。

そもそも非科学的なものを科学用語に置き換えているだけなので「放射能は移らない」などと反論してみても(実際にそのように書かれたエッセイをいくつか見つけた)何の意味もない。

放射能(そもそもこの言葉も科学的に間違っているのだが)を穢れ扱いしないためには正確な情報が必要だったのだが、最近考察しているように日本人は言語を客観的には扱えないので、これはほとんど不可能に近い。そこで一般のレベルでは「何だかわからないが厄介なもの」と括って不安を処理し、それを具体的に体現する避難者たちにぶつけていたのだろう。つまり、避難生徒はスケープゴートで、原因になったのは様々な思惑から情報を「料理」した(東京電力を擁護した人たちと逆に必要以上に煽った)人たちである。

この報道でわからないのは、なぜ先生がこれに加担したかという点だ。生徒と背後にいる親の知的レベルは奈良時代の疫病に対する理解とあまり変わりはない。疫病が起こると大仏を作って穢れを沈めたのと同じということだ。それもできなくなると汚れた都を捨てて新しい都に移って行くのが日本人の伝統だった。

だが、先生は科学的知識を持っているはずで、生徒や親を啓蒙する立場にある。考えられることはいくつもある。

「名付ける」ことによって、生徒を支配するという万能感を満たしていたという可能性がある。次の可能性はクラスを維持できておらず、生徒におもねるために生徒の間にある風俗を真似たという可能性だ。さらに先生のパフォーマンスは学級の成績で決まるから人間関係を些末な問題だと考えていたこともあり得る。最後に先生は科学的な態度を持っておらず、単に教科書をコピーするだけのマシーンになっていたという可能性もある。このような先生は聖書を与えられれば、人間が猿から生まれたなどということはありえないと教えるだろう。

「いじめはいけない」のは当たり前のことだし、子供が勉強する機会を奪われたことは人権上の問題であることはいうまでもない。ただ、それだけではこの問題は防ぐことはできない。問題はさらに悪化し「地下化」するだろう。

だらか、先生がなぜ子供を「菌呼ばわりしたのか」ということと生徒の間に蔓延していた福島からの移住者は穢れであるという間違った認識を修正しようとしなかったのか、改めて検証するべきだ。

この問題の奥に見えてくるのは「かわいそうな福島からの転校生」ではない。たかだか電源の問題で不安を感じている社会の方である。そうした不安が解消できなかったので、子供達にぶつけざるをえなかったということになる。

フライデーの罪と現行憲法

フライデーで薬物疑惑報道が出た直後、成宮寛貴さんが引退した。直後のTwitterではフライデーは許せないというような書き込みがあふれた。その多くは「成宮さんはクスリなんかやっていない」とか「心情的に許せない」などというものだ。フライデーのTwitterアカウントには非難の声が殺到しているという。

しかし、問題はそこではない。フライデーは明確に憲法違反を犯したのではないかと思われる。ここは、理路整然と追い詰めるべきだ。

問題はセクシャリティの暴露である。「成宮さんはゲイだ」といううわさはあったのだが、本人は否定しないまでも表ざたにはしてこなかった。芸能人は女性からあこがれられる必要があり、邪魔だと考えたのかもしれない。

セクシャリティの開示はプライバシーにあたる。プライバシーは憲法第十三条で守られている。すべての国民には幸福を追求する権利がありそれを侵されてはならないとされているのだ。どこまでがプライバシーに当たるかは議論があるのかもしれないが、政治的信条、出自、信仰、セクシャリティなど人格の中核にあるものがプライバシーだ。自分で選んだものもあるし、変えられないものもあるが、そこが変わってしまうと「その人がその人らしくいられなくなる」ものを暴かれてはいけないのである。

もちろん幸福追求権は別の権利とぶつかることがある。それが表現の自由である。表現の自由は政治的な信条などを自由に発言するという民主主義の基礎の一つだ。このため、政治家のプライバシーは制限されることがある。公私混同を「プライバシーだ」と守ってしまうと民主主義そのものが破壊されかねない。だが、これは極めて例外的なケースである。

成宮さんの場合、報道で得られる公益は何もなさそうだ。フライデーは記事を出すことで「薬物汚染にメスを入れる」など主張するかもしれないが、薬物使用の証拠があるのなら警察に持ち込むべきだった。実際に事務所との間ではそのようなやり取りがあったようだ。しかし、警察に持ち込んでもフライデーには一銭も入らないわけで、つまりこれは単なる金儲けである。

成宮さんはプライバシー侵害によって「役者のイメージ」を損なわれ幸福追求の権利を失ったと言える。実際の損害は1億円に上るという報道もある。

成宮さんが薬物を扱っていたかということと、プライバシーの問題は独立している。つまり、クスリをやった人はプライバシーを暴かれて人生をめちゃくちゃにしてよいということにはならない。しかし、マスコミはこの事実から逃げている。普段からフライデーをコンテンツとして引用しており依存関係にある上に、クスリの使用を擁護するのかという炎上を恐れているのだろう。

また「自称インテリ」のリベラルな人たちの間からも成宮さんを擁護しようという動きは出てこなかった。欧米だと同性愛者の擁護は人権派が関心を寄せる問題なのだが、日本人の意識はまだまだ遅れている。日本の人権派は政権に敵対することが自己目的化しており、他人の人権には実はさほど関心がないのかもしれない。

ここまで書いてくると、不倫報道はどうなのかという疑問が出てくるのではないだろうか。もちろん「アウト」ということになる。こちらは不倫とプライバシーが直接リンクされているので、基準があいまいになりがちだ。

しかし、仮にマスコミに社会的に罰を与えるという機能があるとしても(そんな機能はないのだが)、妻がいる夫の側が裁かれるはずである。実際に裁かれるのはどちらか有名な方だ。「見出しとして強い」方がフィーチャーされるということになっている。これは単なる商業主義に過ぎない。他人のプライバシーを盗んで売っているということになる。

ここで「人権というものはそこまで守られるべきものなのか」と考える人も出てくるのではないだろうか。実際、プライバシーを切り売りしている芸能人は多いし、受け手の側もそれを当たり前だと考えている。制度上、裁判を3回受けるまで罰せられることはない(三審制)はずなのだが、疑惑が出た時点で社会的に裁かれることも横行している。

つまり、そもそも人権は日本の社会には根付いていない。それでも他人の人権侵害が最低限に抑えれているのは「押し付けられた」憲法という歯止めがあるからである。憲法改正には理想を現実にひきつけて、今でも横行している人権侵害を当たり前のものにしてしまおうという堕落があると考えられる。

いずれにせよ、成宮さんは今大変な混乱の中にいる。こういう時こそ周りの人やファン、一人ひとりのつてを使ってどういう手段で制裁ができるのかという世論を作らなければならないのではないだろうか。そろそろ他人のプライバシーを侵害してお金儲けをするようなことをジャーナリズムだと呼ぶのはやめた方が良い。それはとても野蛮なことである。

一橋大学の同性愛者自殺裁判

一橋大学のロースクールで同性愛者が自殺をしたというニュースがTwitterで話題になっている。クラスメイトの男性の告白をしたところ断られた上に、告白されたことを暴露されたらしい。結果、パニック障害になったのだが、大学側は適切な援助をせず「ちゃんと授業にでないと卒業できないよ」と逆にプレッシャーを与えたというのだ。

これを受けて多くの人が「大学の対応はけしからん」と言い、被告男性を責めた。大学側は性同一性障害と同性愛の区別すらついていなかったらしく「え、そこからですか?」という驚きはある。また、告白された側の男性が「人間のクズ」であることは間違いがない。

しかし、大学や被告を責め立てたとしても問題は解決しない。

同性愛者がマイノリティとして生きて行かなければならないというのは事実だ。マイノリティにはマジョリティ以上の「胆力」が求められる。ある程度強くなければ生きて行けないのだ。だが、同時にマイノリティはそれほど珍しい存在ではない。

例えば新宿二丁目に行けば同性愛の人が大勢いて、この手の「失恋話」は珍しいことではないだろう。「かわいそうねえ」と同情してもらえることもあるだろうし「そんなの当たり前じゃない」という人もいるにちがいない。同性愛だけがマイノリティではないことを考えると、以外とありふれた存在である。

そのように考えると、この大学の特殊性が浮かび上がってくる。一橋大学のようなエリート校のロースクールに入るためには、社会勉強をしている時間はなかったのかもしれない。その上、学校関係者もエスタブリッシュメントばかりを相手にしてきたのだろう。そういう「どマジョリティ」の人たちは、同性愛と性同一性障害の区別すらつかなかったのだ。

ロスアンジェルスでは男性同士がベッド一つの家に住んでいるというのは自慢したり悲観したりするほど珍しいことではない。その人たちがオネエ言葉で話すということもないし、スカートをはいて社会生活をしているわけではない。芸能界にはオネエ言葉の弁護士などがいて、良い稼ぎをしている。そういう人たちをみて顔色を変えることは政治的には正しくない態度だと考えられている。「あなた同性愛者なのか」と聞くこともない。さらに民族的なマイノリティエスタブリッシュメント(顕著なのはユダヤ人だが、その他にイラン人のコミュニティなどがある)層が住んでいる。このような多様性が都市の繁栄を支えている。

この多様性をふまえた上で日本社会を考えると、マイノリティ問題は実は深刻な問題を含んでいる。さらに、ここがロースクールだったことを考えると、その閉鎖性は致命的だ。法律家は人権問題を扱う訳だが、人権抑圧される人は何らかの意味で少数派だ。しかし、その当事者が少数派に対するまなざしを持っていない。それどころか「マジョリティ」を偽装しなければ生きて行けないほど均質な社会なのだ。そのような社会では少数性は「単なるスティグマであって、社会のお荷物だ」という意識を生み出すのかもしれない。

実は多様性は活力なのだが、そうした視線を持ち得ないのだ。

さらに少数性への対処も遅れている。例えば教会などだと「いじめられてかわいそうねえ」などと頭をなでられることはない。教会は常に問題に接しており(中には子供を失った親などという救いのないケースもある)「強く生きてゆかなければならない」などど諭されることが多い。しかし、エスタブリッシュメントばかりの大学は日の当たる側面しか見てこなかったのだろう。

少数性は誰でもが直面する問題だ。例えば、周囲に例のない健康問題を抱えればそれだけで「マイノリティ」である。

これを指摘するのは少々残酷だが、こうした均質な環境で、自殺した本人も本当の意味でマイノリティについて考えたことがなかったのではないかと考えられる。同性愛者だからといって、自動的に他の同性愛者を受け入れているとは限らない。どのような家庭環境なのかは分からないが、もしかしたら息子が「普通でない」ことを受け入れられなかった可能性はある。

社会人経験を持っていない人がいきなり法律家になるのも問題だ。適切な休学制度などがあれば本人は閉ざされた教室から解放されていただろうし、それなりに人生を考える時間や、社会について学ぶ機会が得られたはずである。新宿二丁目か海外に出れば「同性愛者」がどのように扱われているかを知るチャンスもあったはずだ。

一橋大学でロースクールに入ることができたほどの人が、外に出さえすれば、様々な経験ができたはずで、それは社会の多様性を促進する上で大きな助けになったはずである。

人がパニックを起こすほど孤立しても、その人に代わって孤立してやることはできないし、その人のことを100%理解してやるのは不可能だ。しかし、周りにいる人は「あなただけではない」と言ってやることができるはずである。

障害者はあなたの道具じゃない

久々にかなり腹立たしいツイートを見かけた。さらに腹立たしかったのが、なぜ腹が立つかを説明しなければならないということだ。非常にばかげている。

ツイートの内容は「障害者はカナリア」というものだった。安部首相を非難する文脈なので年配の左派だと思う。最近、弱者を排除する風潮があり、津久井の事件はその文脈で起きたというようなことが言いたいのだろう。

カナリアというのは炭鉱労働者が死なないように先に死ぬセンサーのようなものだ。つまり、一般市民が死ぬのを防ぐために障害者が犠牲になったということを言っているのだ。多分意識していないのだろうが、この人は障害者を道具だと思っていることになる。これは人間のオブジェクト化である。自分の政治的な主張のために他人を利用しており、それが当たり前だと思っているのだ。

自分が息苦しさを感じているのであれば、単に「嫌だ」と言えばいい。左派は政治的な欲求が通らないという意味では弱者のだが、自分たちのことを弱者だと思いたくない。そこで弱い他人を利用しているのだ。障害者を弱い人間だとみなすことで、自分たちはそれよりはマシだといえるようになる。実に厄介で屈折した搾取なのだ。

やっかいなことに「自分を弱者の支援者だ」とみなしている人ほど、他人を利用していることに気づかない。いわゆる右派(ヘイトといわれる人たちだ)はまだ、蔑視しているという意識があるのだが、この手の人たちにはその意識はないのだ。それどころか、このような批判を受けると「私たちは弱者のためを思って言ってやっているのに」と怒り出したりする。実に厄介である。善に気が付かないのだろう。

なぜ、この国には平等という概念が全く根付かないのだろうか。怒りというより悲しみがこみ上げてくる。なぜみんな隣人から奪いたがるのだろう。

そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。

この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。

もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。

民族は曖昧で複雑な概念である。

日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。

また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。

ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。

民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。

北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。

日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。

そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。

性的マイノリティとかわいそうな政治家たち

ある地方都市の市議会議員が「同性愛者は異常な動物だ」と言いバッシングを受けた。市議は発言を「酒の勢いだった」と釈明した。今回は練馬区の議員が「やはり同性愛は日本の伝統として受け入れがたい」と議会で質問したことが問題視されている。

これについて、異端視されている「同性愛者がかわいそうだ」という指摘がある。だが、本当にかわいそうなのは、多分指摘をした政治家たちの方だ。

リチャード・フロリダの有名な著作に「クリエイティブ都市論」というものがある。2008年の発表なので、随分と古い本だ。フロリダは社会に豊かさをもたらす「クリエイティブクラス」という人たちを定義した上で、都市が競争力を持つためにはクリエイティブクラスを集めなければならないと言っている。

フロリダが注目したのが、同性愛の人たちの集積度合いである。同性愛の人たちが暮らしやすいということは、その都市がオープンであるということを意味する。クリエイティブな人たちはそうしたオープンな(フロリダは寛容なというような言い方をしている)環境を好むのだ。

東京は世界でも有数の都市なので、クリエティブクラスにとっては居心地のよい都市だといえる。だから、渋谷や世田谷といった地域で同性愛者に優しい環境づくりが行われるのは偶然ではない。有権者がそれを支持し、多様な価値観を許容する人たちが集ってくるからだ。これがスパイラルを形成する。

とはいえ、日本の性的マイノリティがおおっぴらに「私達はゲイなので、先進地域に引っ越しました」などと表明することはないだろう。表に出ている人たちは新宿あたりで商売をしている人たちか、芸能界やファッション業界などで活躍している一部の人たちだけのはずである。故に多様性と先進性の関係は表立っては語られないのではないかと思われる。

一方で、そうした人たちから見放された地域は「古くからの価値観」にことさらこだわるようになる。有権者が古い価値観を持ったヒトたちだから、新しいアイディアが地元から出てくることは期待しない方がいい。彼らは過疎化や競争力の低下などを心配するが、具体的にはどうしていいか分からない。古い人たちが考える「繁栄」とは、せいぜい地方の名産品が売れて、工業団地ができることぐらいだろう。後は自分たちがクールだと思う価値観を外国人観光客に押しつけるのも好きだ。スーツを着たおじさんたちがアニメを売り込んでも全然クールではないが、本人たちは気がつかない。

こうした地域はインドや中国などの中進国と競争せざるを得なくなる。企業を誘致するためには法人税を下げて、自国通貨をバーゲニングし、安い労働力を買い叩くくらいしか選択肢がない。まあ、それも仕方がないことだ。

地方都市の凋落は目に余るものがある。例えば、大阪市長選の状況を見ると哀れさを感じてしまう。彼らの望みはせいぜい「東京並の大都会になり、新幹線を誘致する」くらいのことだ。それすら叶わずに、大企業は市場を求めて東京や海外に流出してしまう。保守的で新しいサービスを受け付けない都市で再先端のサービスや製品を売っても仕方がない。そうした市場では、国で蛍光灯を禁止してLEDを売りつけるくらいがせいぜいだろう。

同じ事は移民にも言える。アメリカの先端都市が優秀な中国人やインド人を使って、ITのデファクトスタンダード作りに邁進していた時期、日本は外国人労働者を「社会保障制度から排除された安価な労働力」くらいにしか扱ってこなかった。そんな国に優秀な労働力が集るはずはない。事実、外国人実習生は次々と「研修先」から逃げ出している。

移民の方にも選ぶ権利がある。シリア難民ですらスマホを使って条件の良さそうな国を選択しているのである。スマホやPCすら使いこなせずNHKしか情報源のない年老いた政治家たちが「あの人たちはかわいそうだ」と思っているとしたら、かわいそうなのは難民ではなく、その政治家の方だと言えるだろう。

政治家が自分の信条を述べる事は別に構わないと思う。しかし、それが後進性のスティグマになってしまうということは考えた方がいい。多分、受け取った人は「渋谷や世田谷区と比べて練馬区って案外遅れているのだなあ」とか「まあ、東京のはずれだから仕方ないか」くらいにしか思わないだろう。

イスラム教徒の思い出

パリでイスラム教徒が自爆テロ事件を起した。ニュースでこれを見た人たちはいろいろな感想を持ったようだ。「だから移民はダメだ」という人や「この際、日本にも非常事態法が必要だ(だから憲法改正して……)」という人もいるだろう。一方「一般のイスラム教徒は平和な人たちのはずだ」と主張するリベラル寄りの人もいるかもしれない。双方とも実感がこもっているとは思えない。移民と接したことがないからだろう。

イラン系のイスラムの人と住んだことがある。最初は普通の学生のように見えたが、次第にイスラム教徒の友達を連れてくるようになった。そのうち雰囲気が怪しくなり「お前の国では複数の神様を信仰しているのだろう」と言い出した。そしてそれを理由に「一緒に住めない」ということになった。多分、イスラム教徒のルームメイトを住まわせたかったのだろう。

さらに仲間とつるんで「お前の乗っている車は良さそうだから置いて行け」とまで主張しはじめた。恐喝だが、さほど罪悪感はなかったのではないかと思う。裏返せば「車を持っている」ことがうらやましかったのだと思う。彼らは車を持てる程には裕福ではなかったのだ。

結局、部屋を出て行かざるを得なくなった。

「差別」というのを実感した初めての経験だった。上の階に住んでいたイスファハン出身者に聞くと「国の中でも南北差別がある」ということだった。肌の色が若干違うのだそうだ。そして、同じ国の出身者が「何かに染まって行く」ことに戸惑っているようでもあった。

彼らは幼い頃に英語を習得しているので、日常生活上差別されることはないはずだ。しかし、マイノリティには「見えない壁」のようなものがある。いくら上手に英語が話せるようになっても「白人と同じ」にはなれない。そこで、同じような人たちとつるみ、下を探すようになるのだ。それが同じ国の人だったり、英語があまりできない外国人だったりするのだ。

決して教育がないわけではない。他の大学の学生や医者のような専門職の人たちともつながりがあった。比較的高学歴のムスリムのネットワークがあったのだと思う。一方で、国の伝統的な宗教からは離れており、穏健なイスラム教に触れる機会はなかったかもしれない。伝統から切り離されているというのは大きな要素だと思う。

日本にも同じような例があった。「オウム真理教」だ。信者たちは比較的高学歴なのに「なぜ生きているのだろう」というような疑問を持った。しかし、日本は伝統的に「無宗教」なので宗教やコミュニティによる救いない。伝統的な仏教(オウム真理教が仏教だと仮定するとだが)から切り離されているからこそ、ラディカルな教義を持った自信ありげな教祖に「イカれて」しまうのだろう。

差別に敏感だからこそ「下に見た相手」を差別するという構造がある。そこで「万能感」のようなものを感じるのだが、それが虚飾だということに気がつくのは時間の問題だ。「世の中は間違っている」と感じてもおかしくはない。自爆テロ犯のように「天国にしか自分の居場所はない」と感じる人は極端な例だと思うが、その裏には「自爆テロ犯を利用してでも、世の中に一泡吹かせてやろう」と考える人がいる。その周辺には「そういった思想を応援しよう」と考える比較的裕福で(おそらくは教育もある)人たちがいるのだ。

だから「移民は不遇で貧しい人々」というラベリングは間違っている。

「オウム真理教」の人たちが「自分たちこそが目覚めている」と感じていたように、こうした過激なイスラム教徒は、自分たちこそが「祝福されるべきだ」と感じているのかもしれない。自分たちが祝福されないのは社会が邪悪だからなのだ。だから、伝統から切り離された人たちが、こうした闘争を「ジハードだ」と考えるようになっても不思議ではない。

かといって、これが移民問題だと考えるのも正しくないだろう。もし、欧米にイスラムの移民がいなければ、ラディカルなキリスト教徒が「世直し」と称して過激な運動を起したかもしれない。現に移民の少ない日本でも「オウム事件」が起きた。社会転覆を狙ったテロ事件だったが、移民とは何の関係もない。ジハードの代わりに「ポア」という言葉が使われた。殺人を正当化して「邪悪な人たちを救済している」と言い放ったのだ。

アメリカでは、9.11事件の後イスラム系移民が危険だということになったのだが、「ホームグローンテロリスト」という言葉ができ、マイノリティが危険視されるようになった。しかし、実際には白人の男性が頻繁に銃乱射事件を起すようになった。白人の大量殺人は「テロ」とすら呼ばれず、ありふれた殺人事件だと見なされている。

格差や差別はいけないことだ。しかし、それは「差別される人がかわいそうだから」ではない。差別は徐々に社会を破壊するのだその事が分かるのは状況が悪化した時だが、その時には個人の力ではどうしようもなくなってしまっている。もう後戻りはできない。

「外交や話し合いで解決すべきだ」という人もいる。しかし「ポア」を正当だと考えていた教祖に対して「外交が有効だ」などという人がいるだろうか。「ポア」とは他人が間違っていると感じたら命を奪っても良いという思想だ。お互いの立場が違うことが前提の「お話し合い」は通用しないのだ。

さて、こうした文章を読んで「個人の感想でイスラム系のイラン人を断定的に扱っている」という批判めいた感想を持つ人もいるかもしれない。しかし、状況はそれほど単純でもない。

前述のようにイラン人と言っても「肌の色の白さ」による区別があるようだ。さらに、トルコ系の少数民族(アゼリ人)が同居している。同じ言語の話し手の間にも差別がある。隣国にまたがって同系の言語を話すクルド人が住んでいるが、少数民族扱いになっている。アフガニスタンにもダリー語というペルシャ語系の方言を話す人たちがおり、ペルシャ人からは差別されているのだという。

一方、イラン系にもユダヤ人が存在する。イラン・イスラム革命の際にアメリカに亡命した人たちが多く、比較的裕福な住宅地に住んでいる人が多い。ユダヤ系はやっかみの対象にもなっているのだ。一方、イラン国内にもユダヤ系が残っているということである。アフマディネジャド前大統領は改宗ユダヤ系の出自だという説があり、同時にイスラエルに敵対的なことで知られていた。

つまり、イラン人やイスラム教徒だからといって、常に弱者で「差別される側」の人とは限らないということになる。