アフガンに小麦を実らせる

テレビで、アフガニスタンで小麦農家を支援する日本人を紹介していた。

内戦が始まる前、アフガニスタンは小麦が豊かに実る土地だった。しかし、内戦で小麦農業は完全に破壊されてしまった。アメリカは復興支援として小麦を送ったのだが、この小麦は乾燥したアフガニスタンの気候には馴染まず、収穫は従来の2割程度にしかならない。日本の研究機関は、50年前のアーカイブからアフガニスタンで小麦を見つけ出して故郷に送りかえした。8か月かけて小麦を育てて、確かに収穫があったことも確認できた。これを出発点にして、品種改良をして行こうという計画である。

アフガニスタン復興にとって小麦農家の支援はとても重要な意味がある。現在は輸入に頼っている小麦を国内で栽培できれば、貧しい人にも行き渡るだろう。次に小麦が栽培できなければ農家は麻薬の材料になるケシなどを育てざるをえなくなる。さらに、援助依存に陥っているアフガニスタン経済を復活させるためにも産業を根付かせることはとても重要だ。経済活動が滞れば不満分子があらわれて治安を悪化させる可能性が高い。

内戦の結果、国内に張り巡らせていた灌漑施設も大きな被害を受けた。こちらの復興も急がれる。日本は農業支援に関して豊富なノウハウがあり、こちらの支援も期待されている。

さて、このニュースを見て気になったことがあった。なぜ、アメリカはアフガニスタンの気候に向かない小麦を送り、その後平気だったのかという点だ。アメリカはアフガニスタンから撤退できずにいて、そのために多額の出費を強いられている。つまり、アフガニスタンに農業を定着させて「トクする」のはアメリカの側なのだ。

ニュースではその点についての言及はない。

援助は援助にしかすぎず、それがどう活かされているのかということはあまり気にならないのかもしれない。その意味で「アメリカ人はおおざっぱだから」支援がうまく行かないといえる。アメリカの小麦農家も自分たちの小麦の「販路」さえできればそれで満足なのだろう。さらに「自分たちの国のものは無条件に世界最高なのだ」と考える人もいるかもしれない。つまりアメリカで実っている小麦がアフガニスタンで栽培できないのは「アフガニスタン人がうまくやっていない」からなのだ。

一方で、日本がこうした支援に熱心になるのは、それが「国策」だからではない。アフガニスタンの高齢の人たちは、幼い頃に農作業の手伝いをしたことを覚えているらしい。これを長年の内乱ですっかり荒れ果ててしまった田園風景に重ね合わせれば、彼らの心情がよくわかる。水田もしばらく耕作しないで置くと荒廃する。つまりアフガニスタンと日本は「灌漑農業」体験を共有しているのである。

そもそも、日本人がアフガニスタンの小麦のアーカイブをしていた点にも、農業に対する執念のようなものを感じる。50年前 – まだ日本がそれほど豊かではなく、海外旅行もそれほど一般的でなかっただろう時代だ -に小麦の由来地調査のためにアフガニスタン以外の国からも多数の小麦を集めている。日本が「米作を国の基」と考えているように、アフガニスタンにとって小麦は重要な産業だ。国旗にも小麦があしらわれているくらいなのだ。

キリスト教文化圏とイスラムはお互いに対抗意識があり、両国に深刻な対立を引き起こす。しかし日本はキリスト教国ではないのでこうした対立もない。さらに「日本の農業のやり方が優れているから」といっておしつけたりもしていない。あくまでも「一緒に作って行きましょう」という姿勢で臨んでいるようだ。これはアフガニスタンと日本がそこそこ離れているから成り立つ関係性なのではないかと考えられる。

「アメリカより日本の援助の方が優れている」ということを意味しないが、その国が持っている「文化」はとても重要な意味を持っているようだ。

日本は、国際社会の要請に対してアフガニスタン支援をしてきたのだが、実際にはアフガニスタンに駐留している国際部隊の支援をしていると言ってよい。そしてその方法は西洋人の文化や考え方に基づいた軍事的な支援だった。西洋諸国は被支援国が独自のやり方で安定するかという点にはあまり興味はなさそうだ。自分たちと同じような民主主義国ができて、同じような資本主義経済圏が根付けば、それでおおむね満足なのだ。そして「うまくやりさえすれば」こうした社会が定着するのだと無条件に考えている。

このように「援助する側」に非西洋圏の国が入っているということには大きな意味がある。それがあまりにも自然なので、改めて考えるまでその重要性に気がつくのが難しいくらいなのだ。

文明の衝突と日本

「文明の衝突」は、東西冷戦が終わりアメリカが唯一の覇権国家になった直後、1993年に提唱された概念だ。アメリカが超大国であることには変わりないが、それに敵対する可能性のある地域大国があり、地域には2番手の国があると考えた。イスラム圏のように地域大国がない世界もある。その中で東アジアは特異な地域だ。地域大国は中国なのだが、地域の2番手の国である日本は、中華圏を含めどの文明とも共通点がない独自の文明だとみなされている。
今回は2000年に出版された『文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)』を読んだ。日本向けに書かれたダイジェスト版と言える。

このフレームワークは、アメリカ中心の視点で書かれている。「イスラム対キリスト教」という対立が念頭にある。アメリカは当然「西方キリスト教的世界」の中に位置づけられている。

この図式は当時とは大きく変わった。2012年の大統領選挙では、イスラム教徒を父親に持つ候補と、アメリカで生まれたキリスト教系の新興宗教を信奉する候補が対峙することになったが、今の所「文明の対立」とか「宗教の対立」だとは考えられていない。つまりアメリカは純粋に「西方キリスト教的」とまでは言えない。

また「超大国であるアメリカの本土」が直接イスラム世界から攻撃されるという事件も起きてはいなかった。

毎日の問題を見ていると、一つひとつの問題がとても大きな脅威に見える。また、別の問題は日本から遠く離れた所で起きており全く関係ないと感じられたりする。こうした大きなフレームワークの利点は、こうした混乱に満ちた世界を整理して眺めることができる(眺める事ができるということは、対策を立てることもできるということだ)という点だろう。

このフレームワークは、アメリカの内部から世界を眺めているのだが、実はアメリカが持っている「新世界的な」側面をあまり重要視していないように思える。それは旧世界の秩序から脱却して、新しい動きを作るための原動力になるという側面だ。その後「グローバリゼーション」が引き起こした様々な問題点を考えると、諸手を挙げて賛成するわけにも行かないのだが、それでも貢献も大きかったのではないかと思う。

同じ事が日本にも言える。日本を内側から見ると、自分たちの文化圏を過小評価してしまいがちになる。アメリカと中国に挟まれて、独自性が乏しく「物まねに過ぎない」というのが一般的な評価なのではないかと思う。ところが、世界的に見ると「日本はやはりどことも違う」というのが一般的な評価だ。ただし、海外に出かけた日本人は出先の文明に融合してしまうので、どの国ともつながりがなく「孤立している」というのもやはり一般的な見方である。

古くからの国の成り立ちを見てみると、日本はかつて東アジアの中で多分に「新世界的な」要素を持っていたらしい。だからこそ南中国や朝鮮半島から新しい機会を求めた人が押し寄せた。「文明の衝突」が前提にしている「西洋文明と非西洋文明は衝突するはずだ」から「新しい秩序を作り出せる文明が必要だ」という主張は、日本人から見るととても不思議に思える。日本ではこの2つの価値観は「なんとなく」折り合っているからだ。多分これはアメリカにも当てはまるのではないかと思う。非西洋系の移民たちは、なんとなく東洋的な価値観を受け継ぎながらも、西洋社会にとけ込んでいる。いわゆる「新世界人」的である。

ここで問題になる点はいくつかある。まず日本の指導者たちは日本の国が持っている「優位性」を資産だとは感じていない。さらにこうした資産を使って世界に貢献しようという気概はない。さらに目の前の問題を見て右往左往しており、もうすこし広い視野で物事をみようとはしない。

さらに、日本ではこうした「違ったものを折り合わせる」行為はあまりにも当たり前に行われていて、取り立てて他人に説明しようとするのが難しい。多分、日本流のやり方をすれば「とりあえず、二階に住んで、盗んで覚えろ」というような言い方になってしまうのではないかと思う。多分「黙っていれば相手に伝わる」という点が、周囲から理解されにくいという特性を生んでいるのではないかと思う。

最後に日本人は西洋文明に対して卑屈さを覚え、近隣の東洋文明に対しては尊大に振る舞う傾向がある。相手によって自分の価値までが変わってしまうわけで、冷静に自分たちの資産を評価する妨げになっているのではないかと思う。

渡来人のいない世界

日本の南には台湾があり、そこをさらに下って行くとフィリピンに行き着く。南方から入ってきたとされる人たちはこの道筋をなんらかの手段で北上したと考えられるのだが、台湾からこのルートを南下した人たちもいる。

九州と同じくらいの面積を持つ台湾には「原住民」と呼ばれる少数民族が40万人ほど住んでいて、同じ系統の言葉を話す。同じ系統とはいっても、谷ごとにお互いに意思疎通ができない程度の違いがある。この言語の豊富さから、彼らは「充分に長い間」この島に住んでいたことがわかるのだという。

彼らと同じ系統の言語(オーストロネシア語)を話す人たちは、マダガスカル島からハワイやニュージーランドまで広範囲に住んでいる。インド・ヨーロッパ語族と同じような分岐型の人たちだ。今では彼らの故地が台湾島あたりだと考えられている。台湾からフィリピンに島伝いに渡り、そこから各地に拡散したのだろう。

小さな地域に多彩な言語を持った「民族」が暮らしているのは、1億人以上が同じ言語を話す日本人からみると特異に言える。さらに同じような言語を話す人たちが「拡散していった」ことから見ると、自分たちの言語を長期間保存していることとつじつまが合わない。

どうやらこの人たちは、農地が少なくなると徒党を組んで他の島に移って行く習慣があったのではないかと思われる。しかし一方で狭い地域では、お互いに干渉を最低限にとどめ独自性を保っていたらしい。こうした状態を「平衡」と呼ぶ。できるだけ自分たちの習慣やアイデンティティを守るために同じ民族間で固まって住んでいて、お互いの言語が理解不能になるまで分化したのではないかと考えると双方を無理なく説明できるからだ。

台湾では「異民族間」で結婚が行われている。また、身分社会であり「貴族」と「平民」層があったようだ。つまり、狩猟生活をしていたからといって「平等でヒエラルキーのない」社会があったわけではなさそうだ。

一方で「税金や中央政府」というような概念は発達しなかった。民族というのはかなり人工的な概念だ。日本人が同じ言語を話すからといって人種的に均一とは言えないのは「我々が日本民族である」という認識があとから作られたからだ。こうした概念があるのは、日本人が「国家」という発明品のある社会に住んでいるからだ。部族的な社会では、人種的に大きな差がなくても、別言語を話す民族だという認識が生まれる。

どうして「中央政府」という概念が発明されたのかは良くわからない。「全く外見が異なり、何をやるかまったく見当も付かない他者」が存在しないところでは、小さな違いを乗り越えて「自分たちは同一である」という意識は生まれにくいのかもしれない。従って、自衛のために中央集権的な政府を作り、他者に立ち向かおうという意識も生まれにくいのだろう。

日本列島には、朝鮮半島や中国大陸から入り込んだ人たちが「中央集権的な」国家を作り上げるのだが、台湾ではオランダ人が来るまで「政府」がなかった。オランダ人が台湾を統治し、その後オランダ人が連れてきた中国系の人たちに乗っ取られる。
オーストロネシア系の人たちは台湾ではオランダ、中国、日本に支配されるのだが、フィリピンやマレーシアではネグリトと呼ばれる「原住民」を山地に追いやった。その後それぞれヨーロッパの支配を経て徐々に独立を果たし「多民族国家」を形成した。インドネシアでは「インドネシア語」が発明されたりしている。

現在の台湾には「古くからいる中国人(本省人)」と「新しく入ってきた中国人(外省人)」の間に意識の違いと対立がある。この対立が始まってから70年弱が経過した。外省人は、中国大陸の政情に強い関心を持っている。わずかな違いの方が重要に感じられるのだろう。彼らは別の国を作って別々に台湾を統治しているわけではなく、同じ国の中で政権交代や世代交代によって対立している。つまり渡来系といっても一様ではないわけだ。

例えば、「台湾人」という言い方があるが、これは外省人にとっては受け入れがたい概念だ。自主独立ではなく、大陸からの切り離しを意味するからだ。また大陸側の政府からみても「中国固有の領土である台湾」が切り離されるというのは政治的には受け入れがたい事実だろう。清(うるさいことを言えばツングース系の政権なのだが)が台湾を自国に編入したのは1683年だし、共産党は台湾を統治したことは一度もない。

日本列島に渡来人が入って来た時、列島がどのような状況だったのかはよく分からない。

「既に均質な先住民がいた」ことになっているのだが、台湾の状況を見ると、彼らが「同一言語を話していた」かどうかはわからない。台湾原住民と同じように狭いアイデンティティを保持しつつ小集団で暮らしていたかもしれないし、お互いに緊密な交流があったかもしれない。つまり、日本語がいつ成立したのかはよく分からない。

渡来人の側には「民族意識」があったかもしれない。一様ではないとはいえ、少なくとも「国」の概念を持ち込んだ人たちは、母国とある程度のつながりを感じていたかもしれない。彼らが一波ではないとしたら、母国のアイデンティティと対立構造を持ち込んだまま、小競り合いを繰り返しつつ、徐々に母国への関心を失ってしまったのではないかと考えられる。特に、大陸側に日本語と同系統の言語がないことは説明が難しい。大陸側の言語が消えてしまったのか、あるいは日本で溶けてなくなってしまったのか、よく分からない。

その後の史料を見ると、日本は大陸から「精神的に独立」し、その後日本史といえば列島内部で起きた出来事を指すようになる。

『最後の授業』の誤解

『最後の授業』という感動的な短編がある。

アルザス地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやらフランス語の先生が、プロシア人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。フランス語の先生は「フランス語は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年はフランス語を習得できなかったことを恥るが、もう二度とフランス語を勉強することはできないだろう。小説は「フランス万歳!(Vive la France)」という言葉で締めくくられる。

この話の教訓は「国語というものの力強さと素晴らしさ」で、一時期、国語の授業では必ず教えられていた。今40歳代の日本人であれば誰でも知っている話だろう。勉強する機会は充分にあったのに、勉強させなかった、という先生の後悔の念が語られ、フランス語をろくに習得できなかった(動詞の活用ができない)生徒も悔しさをにじませる。

これを日本語と中国語の関係に置き換えてみよう。もちろんこんな史実はない。だから中国語を英語に置き換えてもらっても構わない。しかし何語に置き換えても「かなりショッキング」に聞こえるのではないかと思う。どちらも異民族支配をにおわせるからだ。

沖縄地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやら中国語(あるいは英語)の先生が東京人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。中国語(あるいは英語)の先生は「中国語(あるいは英語)は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年は中国語を習得できなかったことを恥じる。小説は「中国万歳!(あるいは英語万歳!)」という言葉で締めくくられる。

アルザス地方に住んでいるから、この人たちは「フランス人だろう」と、私達はついそう思ってしまうのだが、実際に住んでいるのは「アルザス人」だ。アルザス語はドイツ語の一派である。(Wikipediaにはドイツ語の方言と書かれているのだが、これはことの本質に影響する問題だ)小説の中に「フランス人だと言い張っているが、フランス語もろくにしゃべれないじゃないか」という言葉が出てくるのだが、これは当たり前である。アルザス人にとって、フランス語は学校で習わなければ覚えることができない「外国語」(という言葉が適当でなければ、別系統の言葉)なのである。

この状態は実は現在でも続いている。フランスにはバイリンガルな人たちが相当数存在する。
この話のもう一つのポイントは「アルザス人」と「プロシア人」の関係だ。この頃にはまだ「ドイツ人」という概念はなかった。例え話の中で「沖縄」を出したのはそのためだ。現在の沖縄人は標準語をきれいに話すし、琉球方言が日本語と同系統にあるのは間違いがない。しかし、これを「琉球方言」と呼ぶか「沖縄語」と見なすかは、実は大きな問題だ。「独立したアイデンティティ」と見なすことも可能だし「日本人とは違う」という差別の温床にもなる。日本人としてのアイデンティティを持っている大阪府在住の沖縄人(例えば金城さんや仲村さん)を「差別するのか」という問題になりかねない。

フランス留学時にこの話に接した日本人は「ああ、民族にとって言葉は大切なのだなあ」と純粋に感動してこの話を持ち帰ったのだろう。しかし、実際には複雑な背景持ったお話なのだ。だから、最近ではこの話は教科書では教えられなくなってしまった。

アルザス地方にはこうした複雑な背景があり、天然資源や軍事拠点の問題からドイツとフランスの間で領土争いが続けられてきた。現在フランスでは「地方語」を大切にしようという運動があり、アルザス語の他にも南フランスのラテン語、サルジニア語、カタロニア語、バスク語、ケルト系の言語などを保存しようという動きが起きている。フランス語は大言語なのでこうした複雑なことが起こるのだろう、と思いがちだが、フランスの人口は6500万人だ。母語としてフランス語を話すのは7200万人なのだという。

アルザス語話者は「書き言葉としてドイツ語を使い、日常言語としてはアルザス語を話す」ことがあり、その意味では「ドイツ語の方言」ともいえる。これは九州地方の人が日常会話で九州方言を使い、学校で標準語の習うのに似ている。

日本人は「日本語は一つしかないに決まっている」と考える傾向がありそうだが、1億人以上が話す言語なので、それなりの多様性がある。しかも学校では方言の文法を教えないので、扱いが曖昧になることがある。

例えば、西日本方言には共通語にない特徴があるのだが、学校できちんと習わないために、使い方が曖昧になる傾向がある。例えば「買いよー(今、買っている)」と「買っとー(既に買ってある)」は違う意味なのだが、きちんと説明できる人は少ないのではないかと思う。「雨が降りよー(今降っている)」と「雨が降っとー(雨が降ったあとがある)」も違う状態だ。

また「しゃべれる(この人は英語がしゃべれん)」「しゃべりきる(外人とはようしゃべりきらん)(この原稿は長すぎるけん、時間内にすべてしゃべりきらんばい)」は同じ能力を現す表現なのだが、能力的に可能なのか、その意欲や余裕があるのかという違いがある。つまり方言は文化的に下位にあるからといって機能的に劣った言葉であるとは言えないし、日本語の各方言が同じ文法的構造を完全に共有しているわけでもない。

定義や独立した政治意識がないので「九州方言を九州語と呼ぼう」という動きもなければ、どこからどこまでが「九州語」なのかも分からない。例えば瀬戸内海沿岸で話される言語が「九州語を基底にしているのか」「中国地方の言葉を基底にしているのか」「そもそも西日本諸語は一つの言葉なのか」はそれぞれ議論の余地がありそうだ。

琉球方言を例に挙げたので、それだけが特別なように見えてしまうのだが、実は日本語の中にもそれぞれ特徴が異なった言語層がある。それを意識しないで使い分けている。

この「民族の問題」は、頭の体操レベルなのだが、実際の問題を考えるうえで役に立つのではないかと思う。

現在、尖閣諸島、竹島、北方領土など「辺境地域にあるのに、国家や民族のアイデンティティにとって大切な」地域の問題がクローズアップされている。大抵の場合「中国」「日本」「韓国」「ロシア」という国家領域の問題なのだが、ついつい民族問題として捉えてしまいがちだ。民族というのは複雑な概念だ。『最後の授業』では、フランス=フランス人と捉えることで、ドイツとの競争を有利にしようとした。このように、対外的に団結するために「民族=国家」という人工的な概念を作り上げることがある。

よく「我が国固有の領土」という言い方がされる。「北方領土は我が国固有の領土」という言い方は、確かに合理的な正統性があるのだろう。しかし、実際には「アイヌなどの北方民族の地」なのではないかという見方もできる。できるだけドライに「政府が合法的に手に入れたか」を問うべきだと思うのだが、ウエットな感情なしにこれらの問題に肩入れできる国民が果たしてどれくらいいるのか、少し疑問に思ったりもする。つい「日本人の土地を返せ」と感じてしまうのである。

日本国=日本人=日本列島という国に住んでいると「民族」「国家」といった問題はかなり自明のものに映る。しかし「日本語」や「日本人が何なのか」という概念は、実は私達が考えるように自明のものではない。そして対峙している国の中には、ロシアや中国のように多民族の国もある。また韓国のように、1つの言語を共有する民族なのに、3か国によって呼び方が異なる人たちもいる。

「爪はぎ魔女」の正体

北九州市八幡東区の病院で、認知症の老人の爪を剥ぐ「残忍」な看護士が捕まった。告発状がきっかけだった。彼女は裁判にかけられる。関係者やマスコミは「どうしてそんなことをする必要があったのか」とに関心を持った。警察の捜査で浮かび上がったのは、彼女がストレスを抱え込んでおり、そのストレスをはらすために、老人の爪を剥いでいたということだっだ。告発状のおかげで、虐待を訴えることができない「かわいそうな」お年寄りは救われたが、ストレスの多い現場環境の改善が望まれる。
これだけを聞けば、この看護士を糾弾し、ストレスが多そうな介護現場の改善を訴えたくなるのではないだろうか。しかし、この看護士は第二審で無罪判決を勝ち取った。第一審の頃から「爪はぎ」という事実すらなかったのではないかという証言も多く集った。専門家たちによれば、これは「爪はぎ」ではなく「フットケア」だったからだ。
つまり問題は、なぜこの看護士が訴えられ、第一審で「執行猶予付きの有罪判決」を受けてしまったのかということだ。
看護課長がいた部署は、短い間に何回か責任者が変わっている。訴えられた看護課長は、その任についたばかりだった。彼女の行為が「ケアではない」と考えたスタッフもいたようだが、意識が低かったのはスタッフの方だった。老人の爪は折れやすく、処置の際に血がにじむ事もある。むしろ放置しておいた方が危険ということもあるのだった。この「意識の低い現場」と現場を改革したいと考えるマネージャーの対立は時に深刻化することがあるだろう。特にトップマネジメントの関心が薄ければ、問題はカプセル化され、内部では軋轢が生まれるのではないかと想像できる。
病院トップマネジメントの関心の薄さと専門知識のなさが魔女裁判の最初のきっかけになった。多分、市の担当者は細かな介護現場の事情は知らなかったのだろう。そして、市の側も「調査に時間をかけていて、身内をかばおうとしているのではないか」と批判されたくなかったのではないかと言われている。この「事件」の前に京都である事件があった。派遣の看護助手が患者の爪を剥いでいたのだ。
この「仕事には厳しいが、同時によき母親でもある」看護課長を取り調べた側は、ギャップを埋めるために「ストレスが溜まって、弱者いじめに走った」というストーリーを創り出す事になる。いわゆる認知的不協和を埋める必要があったのだろう。取り調べて疲れ果てた看護課長はふらふらと取り調べ調書にサインしてしまった。「サインしなければ一日が終らない」からなのだと説明している。地裁はこの調書に従って判決を出したのだった。
裁判が始まってから、看護課長の無実を訴えかける証言が相次ぎ、日本看護協会も「これはケアであって虐待ではない」という支援表明をした。にも関わらず、地裁は「執行猶予付き」の判決を出した。調書を否定すれば「取り調べが間違っていた」ことになってしまうからだ。この「事件」を防ぐためには、調査委員会が早くから専門家の意見を求めていればよかったのだろう。また、医師が「看護士にケアを依頼」していれば、「ケアか虐待か」という疑念も生まれなかったに違いない。看護の現場にとって、この「事件」の影響は少なからずあったのではないかと思う。「ケアか虐待か」という極端に判断が別れるケースが頻発すれば、多忙な看護現場は回らなくなってしまうだろう。
誰が告発したかはよく分かっていないのだが、現場のやっかみから始まったのかもしれない。これにマネージメントの知識のなさと「事なかれ主義」が加わる。さらに、警察、検察、裁判所が作った物語が加わると、簡単に「現在の魔女裁判」ができ上がってしまう。(※この構造分析も「想像による」ということを、念のために付け加えておく。)
マスコミはこれをセンセーショナルに報道するだけで、関係者の言い分を取材したりはしなかった。「事実」が報道されたのは、第二審で看護課長が無罪判決を受けた後だった。「爪はぎ魔女」は実はシゴト熱心なよい母親だったと申し訳程度の追加報道がなされた。テレビ局の中には、今度は「えん罪事件」として、警察・検察当局を批判する番組を流したところもあった。この裁判は3年以上かかり、無罪判決が出たあとしばらくの間北九州市はこれを「虐待」だと認定したままになっていた。
私たちは、最初の「爪はぎ事件」について短くコメントした後、この事件を忘れてしまった。センセーショナルな事件は次から次へと報道されて「視聴者を飽きさせない」ことになっている。私たちが持っている「社会正義」とは多くの場合「エンターティンメントのスパイス」のようなものだということは知っておいても良いだろう。

ヘルムホルツ錯視とボーダーのシャツ

ついに科学的に証明された

かなり経験的に書いたのだが、ついにボーダーは細く見えるという研究結果が発表されたようだ。

まとめ

  • ボーダーのシャツは縦長に見せる効果があり、背が高く見える。これはヘルムホルツ錯視といわれる。
  • しかし、太った人が着るとお腹のふくらみが強調され逆効果だ。
  • また、背が高い人がこのテクニックを使うと、却って不自然に見えるだろう。
  • この他にも縦長に見せるテクニックはいくつかある。例えばミュラー・リヤー錯視などが有名だ。Vゾーンを強調したり、Yの形を作るとよい。
  • 洋服が部品化しているので、アイテムやブランドに惑わされず全体を揃えよう。

背を高く見せるためには横縞のシャツ

さて、背を高く見せたいときに、縦縞のTシャツと横縞のTシャツ、どちらを着ればいいのだろうか。服だけを見ると、横縞は横のラインを強調して太って見えると思うかもしれない。一方、縦縞は縦の線が強調される。だが、これは間違っている。

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答えは単純。背を高く見せる為には、縦のラインを強調する横縞のシャツを着るべきなのである。理由はいくつかある。

左の図には2つの縞があり、縦縞は横に長く(つまり太って)見える。これをヘルムホルツ錯視と呼ぶ。これををハードウェア(つまり網膜の動き)からは説明できない。脳の学習の結果、錯覚が生じるとされている。いわばソフトウェアの不具合なのだが、なぜこうした違いが生まれるのかはよく分かっていないそうだ。

次にこのコーディネートではパンツからボーダーのシャツまでひとつながりの流れが作られているのがわかる。すると縦の線が強調され、背が高くまとまって見えるのだ。服は全体を構成している。

ただし、ストライプには体の線を際立たせる効果がある。太ってお腹が出ている人が横ストライプのTシャツを着るとふくらみが強調される。このふくらみは横縞の方がより強調されるから、太ったお腹を隠したい人は、横縞のTシャツを着ない方が良い。

だからといって、全体を横縞模様にしても、背が高くは見えない。人間の体は縦に長い長方形だ。長方形では縦ラインを作った方がすっきり見える。つまり正方形のように「一瞬どちらが長いかが分からない」場合には、ヘルムホルム錯視が成立するのだが、明らかに長さが違っている場合には、流れの方が強調されるのである。いずれにせよコーディネートは重要だ。

その他の錯視で縦長ラインを作るには

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コーディネートで使える錯視はこれだけではない。ミュラー・リヤーと呼ばれる別の錯視もある。横棒の付き方によって長さが違って見えるという錯視だ。長さや角度によって効果に違いあるそうだ。時々、セーターやシャツの模様としてY型のラインが付いているものがあるが、これはミュラー・リヤー錯視を利用したものだ。このように錯視はデザインの一部として様々に利用されている。

視覚効果を学ぶには

コーディネートを勉強する上で視覚効果を知るのは重要だ。『錯覚の世界 – 古典からCG画像まで』のように錯視を扱った本も出ている。また錯視を特集したウェブサイトもあり、どのような基本的なテクニックがあるかは簡単に調べる事ができる。

ファストファッション全盛だからこそ、テクニックが重要

背を高く見せるテクニックにはいろいろなものがあるが、そもそもこうしたテクニックが必要とされるのはなぜなのだろうか。

かつて、こうしたテクニックは大した意味を持たなかった。例えば、「スーツそのもののシルエット」は選べなかった。かつて、バブルの時代にはみんなゆったり目のスーツを着ていた。今では「なんとなくヘン」な格好だが、当時疑いを持つ人は多くなかったのだ。

ところが、消費者がそれぞれ好きな形を選んで服を着るようになると、さまざまな要素の中から、自分にあった服を選ぶ必要が出てくる。加えて、最近の洋服は体の線を出すようにデザインされているものが多い。こうした背景から、最近のファッション雑誌の中には、錯視などのグラフィック要素を使って体型の補正の仕方を取り上げたものが出始めている。

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伝統的なファッション雑誌は、製品に合わせてモデルの体型を変えている。パンツの形をきれいに見せたい場合、足の長いモデルを使うといった具合だ。だから、ファッション雑誌を真似しても「期待通りに見えない」といったことが起こる。

Tシャツの特集などでは、それぞれ体型が異なったモデルが、めまぐるしく変わるいろいろな模様のTシャツを着ている。見ている側は、統一的なルールが分からなくなり「ああ、きれいだな」とか「このモデルたちは格好いいなあ」と思って終わりになる。洋服屋に行っても錯視について知っている店員は少ないので、どんなTシャツに体型を補整する効果があるかどうかは良くわからない。一方、新しいファッション雑誌は、できるだけ読者層に近い体型のモデルを使うようだ。出来上がりが予想できるので、失敗が少ないといえるだろう。

アイテムやブランドに惑わされず、全体を揃えよう

錯視といっても、それをどこの部分にどれくらい使うかによって効果が異なる。つまり、さまざまな錯視を網羅しただけでは、的確なコーディネートは作れない。部分ではなく、全体が大切だということになる。また、幾何学模様は完璧でも、色がバラバラだったり、素材感がめちゃくちゃだったりすると、やはりファッションコーディネートとしては使い物にはならない。部品にだけ着目せず全体を意識するのが重要だ。

共感について考える

先日のエントリーでは、傷を負った社会が、どのようにそこから回復したかということを観察した。傷を負った地域を「切り離す」ことで、これをなかったことにしようとする一方、被災した地域と「そこに援助してあげる地域」という上下関係ができ始めているように見える。敏感な人たちが「絆」という言葉にちょっとした違和感を感じるのは、こうした治癒が必ずしも根本的な不安の解消につながらないからだろう。
こうしたエントリーを書いたのは、コフートの『自己の修復』を読んだからだ。
心理学者はコフートを安易に集団心理に適用したりはしない。そもそも一生かけて書いた三部作なので、1時間くらい読んで「はい、分かりました」という類いのものでもない。まず、この点をお断りしておく。
コフートはフロイトの心理学を受け継いで、さらに「自己心理学」という体系を作った。三部作の二作目に当たる『修復』にはいくつかの症例が出てくる。患者は共感の薄い母親を持って傷ついている。その後、父親を理想化しようとするのだが、父親の方はうまく対応できない。子どもはなんとか成長するのだが、ある時点で言葉にはできない無力感のようなものを感じるようになり、精神分析を受けにくる。
コフートの心理学の目的は、獲得しそこねた「共感」と傷を再確認することによって、患者が正常な状態に戻るように援助することだ。そして、いつ「治癒が終了するのか」(つまりは、何が正常なのか)という点についてしつこく考察している。子どもの時に獲得できなかった共感が治療によって得られるわけではない。つまり、傷がなくなるわけではない。
あるエピソードでは「言語的に優れていた父親」との関係を取り結ぼうとして失敗した男が著述業を職業にしている。つまり拒絶されたと感じたことを職業にして乗り越えようとするわけだ。ところがある時点でこれに満足感を感じられなくなって治療を受ける。治療が進むにつれてこの男は「学校」を作る事を思い立つ。自分と同じように「言いたい事をうまく言語化できない」人たちを手助けしようと考えたのだという。極めて個人的な動機に基づいているのだが、自分と共通する悩みを持った人たちを手助けするためにより創造的な分野へと進出して行くのである。
もちろん自己愛性人格障害に悩む人が全て「創造的」になるわけではないだろう。と同時に、個人的な不安が他人のニーズを汲み取ったソリューションの提供につながる可能性があるのも確かだ。コフートは共感を酸素のような存在だと考えている。つまり生きて行くのに必要不可欠の要素だ。
コフートの時代には「共感」がどうしてうまれるのか、それが人々の生育になぜ必要なのかということはよく分からなかった。脳の中に、共感と関連していると考えられるミラーニューロンのようなシステムがあるということが分かったのは1996年なのだそうだ。
他にも分からないことは多い。どうして母親の共感が損なわれるのか(器質的に損なわれているのか、心配事などがあり一時的に損なわれているのか、それとも共感が育ち損ねたのかということだ)ということは分からない。そして父親がどうして子どもの期待に応えられないのかも不明だ。父親の能力が欠けているからなのかもしれないし、子どもが父親の能力を超えて成長するからこそ「応えられない」のかもしれない。つまり、成長しつつある社会ではこうした「物足りなさ」は珍しくないのかもしれない。怖れや怒りのようなネガティブな気分が共感を損なうのではないかと思えるが、これも特に問題にはなっていない。
今回考えているラインは「共感を獲得し損ねる」「自分についての価値を感じられない」「気力や生きる意味を感じられなくなる」という感情について「自分は共感を得るのにふさしい存在だということを認識する(つまり自己愛を再獲得する)」ことで「成長が再開され」「共感を通じて、自分を愛せるようになるのと同じくらいに他者をも愛せるようになる」というシナリオだ。あらためてこうした苦痛を意識化することで、自然に共感を体得した人よりも深い自覚を得るだろう。つまりセルフ・プロデュースは「共感を得るのにふさわしい自分」を再認識するために使われる道具立てに過ぎない。
自己の修復には別のパスもある。どちらかといえば新興工業国では賞賛されてきた態度だ。母親と死に別れ、父を頼る事もできなかった青年が「寝ないで働き」お金を貯めて起業する。自分が克己したからという理由で従業員とも同じ文化を共有しようと考える。しかし、これが「過労死」を招く。ある人はこれを競争社会の成功例だと考え、別の人はこれを「ブラック企業」と呼ぶ。従業員を過労死させた同じ企業が福祉分野にも進出している。こうした人たちを「良い人」「悪い人」と単純に区分することはできない。福祉分野で働いているうちに従業員が過労死ということもなくはないし、これで助かった人がいるのも事実だろう。多分本人は自分のことを「共感力のある優しい人間」だと考えているのではないかと思う。
コフートの時代まではカウンセリングによる治療が一般的だった。時間がかかる上に高額な治療だ。こうした「贅沢」な治療は、その後投薬治療にとって代わられる。これで救われた人も多いだろうが、そもそも「薬で症状を押さえ込んで、今いる戦闘部隊に復帰させること」が正常化だとされているのも確かだ。「今やっていることに意義を感じられない」のは、失敗ではなく成長の証かもしれないのだが、極度まで効率化された社会からの離脱は贅沢であり、許されないこともあるわけだ。
つまり、効率的で洗練された上に、力強い社会が「成長」を妨げている可能性もあるのではないかと思う。

流行のメカニズム

ファッションの社会学を読んだ。この本によれば、流行ができる理由は明確らだ。閉鎖されていてメンバーがお互いに影響し合っているコミュニティがある。彼らは、財産や時間が余っていることを誇示して労働者階級とは違うということを示す必要がある。また、仲間内で全く同じ格好はしたくない。この結果、こうしたコミュニティには自律的な「トレンド」のサイクルが生まれる。ファッションの流行サイクルは自律的であり政治や経済の状況には影響されないのだそうだ。

ただし、これだけではファッションの流行は仲間内だけのものになってしまうだろう。

これを摸倣したいと感じる層が別に存在する。当初自律的にファッッションを決める階層は貴族だったのだが、中産階級に引き継がれ、さらに映画俳優やスポーツ選手などが担うようになった。その内に巨大な発行部数を誇るジャーナリズムが介在するようになり「消費」の対象になる。

ファッションジャーナリズムは情報の通り道に過ぎないのだから、憧れの存在を見つけ出すことはできても、ないものを作りだすことはできないはずである。デザイナーは勝手にトレンドを作り出すのではない。過去のアーカイブやミューズになりそうな対象物、またはコミュニティを参考にしつつ、新しい何かを提案しているということになる。

これとは別の観察もある。ジンメルは「外では共同体に隷属している」している弱者が、はけ口として、まずは見た目から刷新しようとファッションを利用する、というようなことを言っているのだそうだ。現代でも女性のファッションでは、常に「解放」がテーマになっているという観察がある。トレンドの発信源は「上流階級」なのだが、実際にトレンドを発信するのは「その中でも弱者」ということになる。現代でも、女性ファッションのテーマは「解放」であるという観察がある。男性が、背広という比較的安定した形を手に入れたのに比べて、女性のファッションは見られて、選ばれることを前提にしている。ここから解放を試みているという観察だ。

流行は「区切られた見せびらかしの時間と空間」を持っている集団によって作られ、摸倣されるものだと定義できる。

  • 同調:あるコミュニティのメンバーとして認められたい。
  • 摸倣:そのコミュニティのメンバーでない人が、コミュニティを摸倣したい。
  • 区分:そのコミュニティの中から、半歩抜きん出たい。
  • 解放:隷属するコミュニティの規範から解放されたい。

ファッション業界が目下悩んでいるのは、昔のような規範集団が残っているのかということだろう。オートクチュールは既に衰退しつつある。一方で、中国のように新たに消費に加わった国には、フランスやアメリカのブランドに対する熱烈な購買意欲がある。不況とされた2011年だが、ブランドの売上げは好調だったそうだ。中国人がブランドモノを「熱烈歓迎的」に買うのは、エルメスのバッグの高級さゆえではなく、フランス人のような生活がしたいからだろう。「品物の良さ」を品定めできるようになるためにはさらに時間がかかるのではないかと思われる。

ファッション雑誌を読むと「今年のトレンド」がどこからか湧いて来たような印象を持つことがある。またマーケターが自分が売らなければならないモノに集中しすぎるあまり、それがどのような来歴で作られたものかという視点は消えがちだ。しかし人々が本当に摸倣したいと思っているのは「モノではなく人」「人よりもコミュニティ」だ。つまり裏側に人が透けて見えなければ、ファッショントレンドは意味を持たないのだ。

ファッションに見る、消費者の誕生

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が果たしていた機能を代替している。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。ある人は宗教はそんなに軽薄なものではないと思うだろうし、ある人は宗教のように訳のわからないものではないと感じるだろう。

これはおもしろい問題だと思う。なぜなら、本来、消費は儀礼行動ではないので、儀礼空間が持っている機能をすべて満足させることができないからだ。では、いったい何が欠けているのだろうか。
かつて宗教と買い物の間にははっきりした垣根があったはずだ。ファッションの歴史(下巻)を参考に見て行きたい。ファッションの近代化は1815年頃から始まった。背景にはアメリカが綿の生産地になったこと、テキスタイルの機械化が進んだことがある。1829年にバルセルミー・ティモニエがミシンを商業ベースに乗せる。その後、アイザック・シンガーがミシン業界を席巻した。工程の分業化が進み、デパートで注文服を受け付けるようになる。

しかし、一番重要な点は「中産階級」が生まれたことだ。チャールズ・フレデリック・ワース(シャルル・フレデリック・ウォルトと書いている文献もあるが同じ人だ)が、予めデザインを作り、それを売り込むことを始めた。これを「オート・クチュール」と呼ぶ。1851年、第一回ロンドン万博が開かれた年だ。最初は中産階級向けに商売をしていたのだが、メッテルニッヒ公爵夫人に服を売り込んだ。これがパリ中で評判を呼び、ついには海外からの観光客を呼び寄せるまでになった。(ちなみに、トーマス・クックにより鉄道による団体旅行が行われるようになったのは1839年から1841年頃だった。)

ファッションデザインアーカイブによると、1868年にフランス・クチュール組合(サンディカ)が作られ、1911年にパリのファッションショーが開始される。プレタポルテが出てくるのはこれよりずっとあと、第二次世界大戦後だそうである。つまり、19世紀の後半にはファッションショーはなかった。

デパートが生まれ、服が産業として成立したのは、産業革命の後「消費に回す金がある中産階級の人たち」が生まれたからだ。彼らは「労働とは別に消費をする場所と時間」を持っていた。もともとこうした時間や空間を持てたのは土地を持っている貴族だけだったのだが、経済が成長し、層が厚みをましたのだと考えられる。『共産党宣言』が刊行されたのが1848年だそうだ。プロレタリアート(無産階級)という言葉が発明された時点で、彼らは資本家であり、ブルジョワだという概念が発明されたことになる。「資本主義」という言葉が成立したのもこのあたりではないかと思う。

この頃の市民はまだ宗教に影響を受けた生活をしていたはずだ。神様が死んだり(ニーチェ)、無意識という言葉が発明されたり(フロイト)するのはまだ後のことだ。なぜ消費の担い手が貴族から中産階級に広がると消費が始まるのかという疑問は残る。身分が自明でなくなった分、支出によって身分を証明したり、価値観を共有する必要が出て来たということなのではないかと思う。消費の現場にいなければ、流行に関する情報を得る事はできなかっただろう。

ワースがオートクチュールを始めるまで、ファッションデザインといってもそれほど突飛なものはなかった。消費者が「生地を買い」「装飾品を選び」「仕立て屋に行き」「お針子に仕立てさせる」という作業を行っていたのだ。つまりコミュニティに流行があり、その流行に沿ったものを消費者が選んでいたということだ。男性服からは顕著なファッション性は消えていたが、女性服の流行はめまぐるしく変化しつづけていた。

今とは情報の伝達の仕方が逆になっている。現代では、出来合いの服を選択し、それをどう組み合わせるかで「モテるかどうか」が決まる。つまり、自分が所属したいコミュニティに所属できるかどうかが決まる。さらに、コミュニティがどのような「モテ」を選択するかには明確な決まりはない。「自分にあった服を着ればいいんじゃないですか」などといいながらも漠然としたラインは存在する。コミュニティの移動も可能といえば可能だ。高校時代オタクだった子が、東京に出てくるのをきっかけにPopeyeや「脱オタクファッションガイド」を片手に服を探すということがあり得る。

しかし、消費者が出て来た時代には、それなりのコミュニティがあり、規範が決まっている。どのような服を着るのかということはメンバーに知られていて、それに従って職人が服を作る。消費階級がふくらみ、上流階級のコードを伝達するうちに「モード」が生まれ、やがて、発信源が「デザイナー」に取って代わられるようになった。

こうした流れはやがて、人々に「自分は何者か」という問いを突きつけるようになる。まず科学が発展し、自分たちが聖書をベースにして作り上げて来た世界観が「実は正確でない」ことに気がつき始める。国際分業と植民地獲得競争が激化するにつれて「国民」という概念が組み上げられるようになる。930年代のドイツやオーストラリアの人たちのように「ドイツ性」や「ドイツ語圏を生きるユダヤ人性」というやっかいな問題もうまれた。やがて、ウィーンに上京して来た画家志望の青年が、都市のコミュニティから排除されたのち「崇高なアーリア性」を崇拝するような時代がやってくるのである。ヒトラーがウィーンで美術学校に受け入れられていたら、現在のヨーロッパは今とは違った形になっていたかもしれない。

 

消費は祝祭になり得るか

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が担っていた機能を代替しているようにさえ見える。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。

消費は祝祭ではない。だから祝祭空間が持っている機能をすべて満足させることができない。いったい何が欠けているのだろうか。
かつて宗教と買い物の間にははっきりした垣根があった。ファッションの歴史(下巻)を参考に見て行きたい。

ファッションの近代化は1815年頃から始まった。背景にはアメリカが綿の生産地になったこと、テキスタイルの機械化が進んだことがある。

1829年にバルセルミー・ティモニエがミシンを商業ベースに乗せる。その後、アイザック・シンガーがミシン業界を席巻した。工程の分業化が進み、デパートで注文服を受け付けるようになる。
しかし、一番重要な点は「中産階級」が生まれたことだ。チャールズ・フレデリック・ワース(シャルル・フレデリック・ウォルトと書いている文献もあるが同じ人だ)が、予めデザインを作り、それを売り込むことを始めた。これを「オート・クチュール」と呼ぶ。

1851年、第一回ロンドン万博が開かれた年だ。最初は中産階級向けに商売をしていたのだが、メッテルニッヒ公爵夫人に服を売り込んだ。これがパリ中で評判を呼び、ついには海外からの観光客を呼び寄せるまでになった。(ちなみに、トーマス・クックにより鉄道による団体旅行が行われるようになったのは1839年から1841年頃だった。)

ファッションデザインアーカイブによると、1868年にフランス・クチュール組合(サンディカ)が作られ、1911年にパリのファッションショーが開始される。プレタポルテが出てくるのはこれよりずっとあと、第二次世界大戦後だそうである。

産業革命の後「消費に回す金がある中産階級の人たち」がデパートへ買い物に行くようになった。彼らは「労働とは別に消費をする場所と時間」を持っていた。もともとこうした時間や空間を持てたのは土地を持っている貴族だけだったのだが、経済が成長し、層が厚みをましたのだと考えられる。『共産党宣言』が刊行されたのが1848年だそうだ。プロレタリアート(無産階級)という言葉が発明された時点で、彼らは資本家であり、ブルジョワだという概念ができた。

この頃の市民はまだ宗教に影響を受けた生活をしていたはずだ。神様が死んだり(ニーチェ)、無意識という言葉が発明されたり(フロイト)するのはまだ後のことだ。なぜ消費の担い手が貴族から中産階級に広がると消費が始まるのかという疑問は残る。身分制度が揺らぐと支出によって身分を証明したり、価値を共有する必要が出て来たということなのではないかと思う。消費の現場にいなければ、流行に関する情報を得る事はできなかっただろう。

ワースがオートクチュールを始めるまでは、消費者が「生地を買い」「装飾品を選び」「仕立て屋に行き」「お針子に仕立てさせる」という作業を行っていたのだ。つまりコミュニティに流行があり、その流行に沿ったものを消費者が選んでいたということだ。男性服からは顕著なファッション性は消えていたが、女性服の流行はめまぐるしく変化しつづけていた。

現代では、出来合いの服を選択し、それをどう組み合わせるかで「モテるかどうか」が決まる。つまり、ファッションで自分が所属したいコミュニティに所属できるかどうかが決まる。さらに、コミュニティがどのような「モテ」を選択するかには明確な決まりはない。「自分にあった服を着ればいいんじゃないですか」などといいながらも漠然としたラインは存在する。コミュニティの移動も可能といえば可能だ。

消費者が出て来たばかりの時代には、それなりのコミュニティがあり規範が決まっていた。どのような服を着るのかということはメンバーに知られていて、それに従って職人が服を作る。消費階級がふくらみ、上流階級のコードを伝達するうちに「モード」が生まれ、やがて、発信源が仕立て屋からデザイナーに取って代わられるようになった。

こうした流れはやがて、人々に「自分は何者か」という問いを突きつけるようになる。まず科学が発展し、自分たちが聖書をベースにして作り上げて来た世界観が「実は正確でない」ことに気がつき始める。国際分業と植民地獲得競争が激化するにつれて「国民」という概念が組み上げられるようになる。このブログで何回か取り上げた、1930年代のドイツやオーストラリアの人たちのように「ドイツ性」や「ドイツ語圏を生きるユダヤ人性」というやっかいな問題もうまれた。やがて、ウィーンに上京して来た画家志望の青年が、都市のコミュニティから排除されたのち「崇高なアーリア性」を崇拝するような時代がやってくるのである。ヒトラーがウィーンで美術学校に受け入れられていたら、現在のヨーロッパは今とは違った形になっていたかもしれない。

現在の銀座はコミュニティの要件を欠いている。何の情報もなしに銀座に行っても、誰もその人を仲間に加えてはくれない。自分の活動は自分で定義する必要がある。ヒトラーほど極端な人が出てくるかは分からないが、阻害された後に多いに立腹する人も出てくるだろう。

消費が宗教的な祝祭空間にならないのは、消費するだけでは何かに所属している気分が味わえないからだ。逆に消費が所属欲求を満たす仕組みさえ作れば、消費は祝祭になり得る。