安倍首相の「静かな環境で」とはどういう意味なのか

安倍首相の今回の演説では咳と「静かな環境で」という言葉が目立った。これ、どういう意味なのだろうか。考えてみた。

この言葉は「まずは静かな環境で憲法議論を進めたい」というような使われ方をする。ここでの「静かな環境」とは憲法審査会のことらしい。

安保法制の議論は、自民党が野党の時代を含めて「静かな環境’」で行われていた。右翼界隈は空が蔑視している中国の台頭に不安を抱いていた。中国の台頭というのは彼らが捏造した世界観であって実際には日本の衰退だ。しかし、それを認めることができないので「米国に追随すれば中国を追い払える」という歪んだ仮説が生まれた。アメリカに追随するためには憲法第9条が邪魔なのでそれを無力化しようとしたわけだ。

だが、この物語が作られた頃には状況は変わりつつあった。民主党が政権を取りジャパンハンドラーは主流派ではなくなった。さらに戦費が膨大になりつつあるので、撤退戦が進行することになった。しかし、日本はこの文脈を共有できなかった。

彼らの仮説は彼らが共通に持っている幻想が源になっている。文脈を共有しているからこそ「静かな環境」が作られるということになる。

しかしながら、この静かな環境は破られることになった。日本らしかったのはこれが別のコンテクストとぶつかったことだ。反対する勢力は「安倍は戦争をやりたがっている」という物語を作り上げて事実を布置した。コンテクストとコンテクストがぶつかったので、話し合いは不可能になった。静かな環境に干渉する動きはノイズのように感じられただろう。

ゆえに狭義には「静かな議論」というのはサヨクに邪魔されない場所でという含みを持つ。彼らは何でも反対なのであって議論など無効なのだ。

さて、安保法制の実際の危険性は何だったのだろうか。実はアメリカも一般国民のレベルでは日米同盟が片務的で日本は義務を果たしていないという思い込みを持っている。ゆえに日本が当局に尽くしても「もっとよこせ」といってくるだけで、日米同盟の強化には役に立たない。このようにアメリカが心変わりした時に使えるプランBは存在しない。つまり、閉じられた空間で作られた「静かな議論」は集団思考に陥りやすいということがわかる。

次にこの議論には一貫性がない。今度はロシアとの平和交渉と言っている。頭の中には日露平和条約を成し遂げた偉大な首相というレガシー作りとロシア利権の構築という実利があるものと思われる。一見良さそうだが、アメリカが権力継承期にあり権力の空白ができている間隙を縫って、欧米が作ろうとしているサンクションを破ろうとしているというリスクは考慮されていないようだ。支持者たちは多分「アメリカとは話がついているのだろう」と考えているはずだが、それも集団思考かもしれない。いずれにせよ、日米同盟の深化という話とロシアへの接近は違う文脈で語られる。利権構造が別なので仕方がないことなのだが、世界地図上では繋がっている。

いずれにせよ日本人の議論は(少なくとも集団で行う議論は)集団思考から抜け出すことができない。広く知られているように反対する勢力も平和憲法さえ守っていれば大丈夫という集団思考が見られる。これは日本人が幼児期から文脈を読み合うことを覚えるからではないかと考えられる。すると、その文脈外の問題はすべて「想定外」ということになってしまうのだ。

こうした共同の幻は至る所に見られる。古くは原子力発電で物語がつくられていた。彼らは利益共同体であり、原子力村と呼ばれた。

さて、憲法の場合には「日本人は一丸となって自民党の指導に従った美しい国づくりを目指すべきだ」という物語があるものと思われる。これが維新の「大阪に利権を引き込むためには権力への擦り寄りが必要」という意図と合致したのだろう。

だがこの見込みは間違っている。まず、大阪組だが大阪は高度経済成長から取り残されたのは「大阪がうまくやらなかったからだ」という思い込みがあると思うのだが、実際には違っている。政治の課題は不利益の分配に向きつつあるのだが、それが理解できていないようだ。

自民党側の誤算はさらに深刻だ。日本人は実利があるとき、あるいは面倒なときに綺麗的に組織や社会に従うだけであって、利益の配分がない限り他人には無関心だ。第二次世界大戦で国民が国に従ったというのも幻想で、緊急事態にいやいや巻き込まれただけというのが正しい。ゆえに憲法を改正しても日本人の心象を変えることはできない。

その上自発的な活力は失われ「とりあえず大きいものに従っていれば楽」という認識が一般化しつつある。しかし、それは「私が中心人なって引っ張って行こう」というような積極的なものではなく、フリーライダーの発想に近い。「大きなものに頼ってできるだけ消耗しないようにしよう」というものだ。

静かな環境はその共同の幻から疎外された人たちの反対に合うだろうが、実際に問題になるのは「それが自分たちの生活には関係がない」と考える人たちなのだ。

日本型破綻の特徴

小池都知事が豊洲移転の「犯人捜し」の結果を公表するそうだが、「誰が盛り土を最終決定したのか」見つからなかったのだという。マスコミは主犯の不在に驚いて(あるいは驚いたふりをして)いた。

日本人のコミュニティには幾つかの特徴がある。これはアメリカとは異なっており、中国などとも違っている。東洋的でも西洋的でもない日本人に独特のものだ。

  • 日本人は個人の意思決定を尊重せず、強いリーダーシップを敬遠する傾向がある。強いリーダーは自滅するか排除される。このため中心が空洞な組織が作られる。
  • 日本人はチームワークを嫌がり他者からの干渉を嫌う。逆に他のチームが困っていても助けない。

リーダーシップを忌避する傾向は幼い頃には完成する。国際的に見ると、先生には従うがそれは綺麗的な傾向があるのだという。おとなしくしているのは周りから問題児だと見なされたくないからであって先生を尊敬しているからでもそれが良いことだと考えているからでもない。こうした態度は社会に出てからも継続してみられる。いっけんおとなしいが、乳幼児を連れた親に道を譲らずにスマホを見ながら我先に行こうとするというような社会ができる。他人に興味がなく干渉もされたくないというのが日本人だ。

これだとプロジェクトは破綻しそうだが、その代りに周囲の状況を読む能力を発達させた。一般に「コンテクスト」とか「文脈」とか言われる。それを「読み合う」のだ。代わりに日本人はあまり言葉を信頼しない。契約や約束はその場の雰囲気を悪くしないために使われるのであって実質的な意味は持たない。題目は作られるが誰も反対ができないものが選ばれる。

コンテクストを読むために必要なのは共通の経験だ。同じような人たちが同じようなことをするからコンテクストを読み合うことができる。日本人が急速な変化を嫌うのは、コンテクストが読めなくなってしまうからだ。だから外から新しいアイディアが入ってきてもそれが取り入れられることはない。序列すら曖昧なので「いつ入社(入省)したか」ということがとても重要だ。

このようにして日本人は縄張りを中心に居心地の良い空間を作り出してきた。しかし、これが破綻することがある。全体的な責任者がはっきりしないので、問題が起きても止まって考えたり、作戦を変えたりできないからだ。

第二次世界戦では「防衛ラインを踏み込まれたらどうするか」という統合的な戦略を持たなかった。兵站なしで兵士を派遣して多くの餓死者を出し、沖縄を犠牲にして本土を守ろうとした。いわば時間稼ぎをしようとしたわけだが、時間稼ぎをしている間にプランBを考えるというようなことは一切しなかった。ドイツにはヒトラーという責任者がいたが、日本の裁判でわかったことは「この戦争が特定の責任者がいないにもかかわらず粛々と進行した」ということだった。第二次世界大戦は全体的な作戦(どうするかはよくわからないが、根性だけで本土だけは必死で守る)が破綻してもとまらず、広島と長崎の犠牲者が出てはじめて止まった。

東京オリンピック招致でも同じ問題が起きた。甘い見積もりで招致したあとで各部署が予算を膨らませて一括で東京都に請求することにした。その額は3兆円だそうだ。驚いたことに予算を監督する人は誰もいないそうだ。案の定「責任者を置くべきだ」という話になっているが、森喜朗会長はそれを拒否する構えだ。都から干渉されたくないのだろう。IOCは都と国が財政バックアップをするからという理由で開催都市を決定しているのだから、誰も責任者がいないことを知れば大いに驚くだろう。そもそも、誰も責任者がいないのに意思決定できていたのはどうしてなのだろうかという疑問が湧が、それでもなんとなく物事が決まってしまうのが日本人のすごいところなのだ。

豊洲の問題にも似たところはある。有害な土地を食品を扱う場所にふさわしい安全基準にすることはできなかった。安全基準は「絶対に誰も責任を問われることはない程度」に高く設定されるが、土地の造成は「予算が許す限り」に低く設定される。誰かがリーダーシップを取ってリスクコントロールするという発想はない。「何かあった時に責任が取れない」と考えるわけだ。結果的に合わて具体的な建物ができたところで、今までの説明が違っていたということがわかり計画が破綻した。ここでも活躍したのは現場の人たちだ。彼らは必要な予算を請求し、無理難題とされる「安全設計」はしなかった。彼ら建築家たちは現在「関東軍」と言われている。

注目する人は少ないが、医療費の高騰問題も起きている。患者に必要な治療費は言い値でいくらでもでてくる。これも患者が悪いというわけではない。専門性を持っていて外から規制を受けない医師が「関東軍」になっていて、無制限のお財布にお金を請求するからだ。厚生官僚の中には5年で破綻するという人がいるが「実際に破綻するまでは国は何もしないだろう」と言っている。形式上の責任者は総理大臣なのだが、問題の把握すらしていないようだ。この構造のため「甘えている患者が悪い」など言い出す人も出てくる始末だ。

このリーダーシップの不在と専門家の<暴走>という図式は至る所で見られる。このため日本の産業は触れるものだけが得意で、触れないもの(例えばITのような)ものは苦手だった。流通やサービスなどの無駄を全体的に最適化させるようなこともできなかった。一方で触れるものだけはなんとか間にあわせることができていたわけで、豊洲やオリンピックの問題は、私たちの社会が形のあるものすら作れなくなりつつあることを示している。

この構図は文化に根ざしたもので簡単に変えることはできない。この経験は数年後には地域社会と医療の崩壊という形で顕在化するだろう。

維新の馬場さんの狙い

国会で維新(現在の政党の名前は何というのだろうか)の馬場さんが、大阪へのリニア新幹線誘致を推進し、大阪に万博を誘致すべきだというような趣旨の質問をした。安倍首相はそれに応える形で大阪万博誘を決めたらしい。

確かにイベントの誘致には経済的なメリットがありそうだが、現在の状況をみるとデメリットの方がはるかに大きそうだ。だが、この疑念を系統立てて証明するのはなかなか難しい。

最近、豊洲の問題を見ているのだが、問題の根本には土地開発の失敗があるようだ。都はバブルの崩壊を経験したあと湾岸エリアの開発に失敗し多額の含み損を抱えた。これが表面化するのを恐れ築地の一等地を売ろうとしたようだ。しかし、積極的に高値が付くように動いた形跡はなく「カジノでも作りゃ外国からの観光客がバンバン来るんじゃないの」程度の認識でいるようだ。外国のグループが高値で買ってくれればいいや程度に思っていたのかもしれない。

もともと台場地区は都市博を呼び込んで「民間資金による開発」を目指した経緯がある。青島都知事がこれをストップしたことで計画が頓挫した。

この副作用は甚大だった。もともと築地を中心とし魚食文化は大手流通に押されて崩壊寸前だったようだが、都政はそれを解決できなかった。さらに有毒な土地に拠点を移行することでブランドの崩壊を招くところだった。豊洲に移ってから問題が表面化すれば、日本の魚は放射能と有毒物質に冒されているという評判を得て崩壊していたかもしれない。

海外からカジノが誘致できていたとしても土地を書いとるのは中国企業だろう。中国には売りたくないといえば土地は売れない。つまり計画は早晩潰れていたのではないかと思われる。逆に銀座近くの一等地が中国を「シナ」と蔑視していた石原都知事のもとで中国に明け渡していたかもしれない。

万博の誘致には「もう開発型の経済成長はやめよう」という概念的に反対するのは簡単だ。しかし、現実の政治で見られるのは見通しのずさんさだ。民間事業者は企業の存亡をかけて土地開発を行うわけだが、政治家にも都職員にもそのような必死さはない。そのため計画が極めてずさんなものになる傾向にあるようだ。

信じがたいことだが、日本のエリートたちは集団になると「カジノやイベントなど一般庶民に受けることをやればなんか儲けれるんじゃないの」という程度の認識しか持てなくなるようだ。いわば集団白痴化が起きている。イベントそのものにあるわけではなく、インプリメンテーションにあるということになる。「武士の商売」が問題なのだ。

この武士の商売に対して大阪の経済界には「参加協力を拒否したい」という声が起きているという。東京五輪で学習した住民はこの計画には賛成しないだろう。「コンパクトに収めますよ」という約束は破られることになる。

馬場さんの発言には「含み損の隠蔽」という側面があるのかもしれない。大阪湾岸の開発も失敗しているのだが、何らかの開発計画があれば清算を先延ばしにできるからだ。何か動いているうちは失政が露呈しないので、なんらかの「夢を見せておく」ことが重要なのだ。これも東京やその他の大都市に似ている。つまり、バブルの清算が終わっていないということになる。

おおさか維新(今の政党の名前が思い出せない……)の狙いは、権力の中枢に入り込むまで維新府政の失策を露呈させないためなのかもしれない。

この朝日新聞の記事を読むと大阪府でも「イベントで民間から金を出させて、その後カジノをやろう」という見込みがあるそうだ。東京でも大阪でもこの程度の経済成長計画しか立てられなくなっている。経済界から政治の世界に転身するのは難しいので、民間の知恵が道入できないのかもしれない。職業政治家ばかりにしてしまったつけがここにも表れているようだ。一方、日本は衰退するだけでもはや成長産業をカジノ以外に見つけられなくなっているのではないかという危惧さえ感じられる。

朝日新聞の「東京ガスは悪くない」論

豊洲移転問題についていろいろ書いているのだが、正直何が起こっているのかよく分からない。当初は「東京ガスが有毒な土地を都に売りつけて、政治家の一部にキックバックがあった」というようなシナリオを勝手に描いていたのだが、それは違っていたみたいだ。週刊誌2誌と女性週刊誌1誌を読んでみたが「東京ガスは土地の譲渡を渋っていた」と書いている。なぜ渋っていたのかはよく分からない。

週刊文春が仄めかすのは、石原都政下では外郭団体の含み損が表面化しつつありそれを整理する必要があったというストーリーだ。5000億円の損が累積していたが築地の土地を売れば都には莫大な資金が入るというのだ。しかし、他の媒体はそのような話はでてこない。文春の妄想なのか、独自取材の賜物なのかはよく分からない。さらに、東京都は真剣に一等地を売って儲けようという意思は無さそうだ。

誰も書いていないが、wikipediaを読むと石原氏は単式簿記をやめて複式簿記を採用したと書いてある。土地などの資産が認識されるので良さそうな方法だが、複数機関で借金しあったりしているとひた隠しにしていた問題が浮上することになる。同時期に銀行の貸し倒れが問題になっていて(こちらは普通の銀行が課さない中小企業に気前よく融資していた)その損金をどう処理するかが問題になっていた。

もし、築地を高値で売りたいならいろいろな計画が浮上していてもおかしくはないのだが、跡地はオリンピック巨大な駐車場になることになっている。後には「カジノを誘致したい」などという話ものあるようだが、公園(たいした儲けにはならない)を作ってくれという地元の要望もあるようである。もし都営カジノができれば、オリンピックで作った宿泊施設も含めて巨大なリゾート地が銀座の近くにできるわけだが、具体的な計画はなく、幼稚園児のお絵描きのような稚拙さが滲み出ている。政治家の考える「ビジネス」というのはそういうものかもしれない。

もともと、都が累積損を抱えたのはお台場湾岸エリアの開発に失敗したからだ。失敗したのは都市博で人を呼べば他人の金で開発ができ、お台場の土地が高く売れるぞという目算があったからだろう。今回は都市博がオリンピックに変わっただけなのである。ずさんさというか、商売っ気のなさがある。

その中で異彩を放っていたのは朝日新聞の経緯のまとめだ。これがどうにも怪しい代物だった。最初に書いてあるのは「東京ガスは土地を東京都には売りたくなかった」ことと「誰もあの土地が有毒だとは思わなかった」ということだ。東京ガスが土地を売りたくなかったが浜渦副知事がゴリ押ししたというのは半ばマスコミのコンセンサスになっているようだ。浜渦さんは時々殴り合いの喧嘩をする曰く付きの人物だったとwikipediaには描かれている。

いずれにせよ「読者にわかりやすく書かれた」豊洲市場移転問題のまとめ記事では誰も有毒物質のことは知らなかったが、あとで調査をした結果土地の汚染が判明したというストーリーが描かれている。これを素直に読むと「誰も悪くなかったが運が悪かったね」ということになる。日本人の「優しさ」によるものだが、これが集団思考的な問題を作り出しているということには気がついていないようだ。都政担当は記者クラブの中でインサイダー化しているのだろう。

朝日新聞の記事を読んで一瞬「ああ、そうか」などと思ったわけだが、その交渉過程は黒塗りだったという記事がTwitter経由で飛び込んできた。新しい情報が得られるというのはTwitterの良いところだなあと思う。この記事によるとどうやら「あの土地には何か有毒物質があるらしい」ということは知られていたようだ。土地を売る上では不安材料になるだろう。もともとエンジニアたちはあの工場が何を生産していて、副産物として何が産出されていたかは知っていたはずである。東京ガスが全く知らなかったということはありえない。

朝日新聞の記者も東京ガスと都の交渉記録が黒塗りだったことは知っているはずだ。これは「のり弁」資料と呼ばれ問題になっているからである。であるならば、朝日新聞の記者が書いた記事の目的は明らかだ。都当局は炎上中なのでもう抑えられないが、東京ガスに避難の矛先が向くのを抑える「防波堤」の役割があるということになる。東京ガスはマスコミにとっては巨大スポンサーなので非難が向くのは避けたいのかもしれない。

いずれにせよ油断ならない話である。どの媒体も信じることができず、各雑誌・新聞を読み比べた上でネットの読み物まで読んで総合的に判断するしかないということになってしまう。いずれにせよ黒塗り資料が表沙汰になってしまえば、誰が嘘をついていたかが明らかになってしまう。すると大型防波堤でせき止めていた洪水が一挙に街を押し流すようなことになってしまうのではないかと思う。

多分、現在豊洲問題が炎上しているのは、マスコミが「優しさ」故に問題を直視してこなかったからである。にもかかわらず一旦炎上するとそれを商売にしようとする業を持っている。よく倫理の教科書で問題になる「近視眼的な視点が長期的な問題を生み出す」という実例になっているように思える。

国会議員は2期でお休みにすべきでは

国会が始まったらしいのだが、全くもモニターしていない。明らかに無意味だからだ。アジェンダとして上がっているのは、補正予算による景気浮揚、TPP、憲法改正だと思うのだが、どれも意味がない。補正予算はカンフル剤にしかならないだろうし、明らかに新しい産業が成立する邪魔になっている。民主党と共和党が揃って反対するTPPは発効しないだろう。

安倍首相の周辺からは「北方領土交渉で政治的成果をあげて支持基盤を磐石にしたい」というような希望的観測が流れる。ロシア側から見れば「お土産」を渡してロシアの国益を追求する絶好の機会だ。すでに交渉に負けていると言ってよい。

何のために憲法を改正したいのかよくわからないが、足元では深刻な変化が起きている。深刻な格差拡大が起きており、企業の生産性や労働者のやる気も低下している。地方には自治体を維持できないところもできており、東京にも波及しそうだという。巨額な年金資金が市場に流れ込み資本主義を根本から破壊している。

だが、政治家はそのような変化に気がついていないようだ。

最初のうちは「問題を無視しているだけだ」などと思っていたのだが、本当に気がついていないのかもしれないなあと思う。なぜなんだろうと考えたのだが、常に政局の中におり、まとまって資料を読んだり、ものを考える時間がないのかもしれない。

民進党にいたっては(そういえば最近は減ったが)始終Twitterに張り付いて「あれは問題だ」などと息巻いていた。これでは「今どのような変化が起きているか」を考える時間はないだろう。

ということで考える時間を作るにはどうしたらいいのだろうか。2期程度働いたら立候補しないのがよいのではないかと思う。その間の生活は党が支えればよい。ずっと当選していないと「政界でのプレゼンスがなくなってしまう」と考えるのが一般的だとは思うのだが、これは一般国民が仕事から離れられないのと同じ理屈だろう。

現在、安倍首相の総裁任期を延長する議論が進んでいるということなのだが、多分任期が長くなれば長くなるほど、近視眼的になってゆくだろう。

豊洲移転問題と関東軍

peekいつものようにアクセス解析を見て驚いた。突然アクセスが跳ね上がっているのだ。何か炎上したのかと思い緊張した。

色々調べるとミヤネ屋で「豊洲市場移転チームの技術屋は関東軍だ」という説明があり、関東軍がなんだかわからない人が調べたらしい。テレビの影響って怖いなあと思った。YouTubeを見ると確かに関東軍という見出しになっているが、関東軍についての説明はほとんどない。

関東軍とは

関東軍は「専門家が暴走した」比喩として用いられる。満州の防衛を担っていた陸軍の組織で、関東とは満州のことで、日本の関東地方とは全く関係がない。関東軍が有名になったのは、第二次世界大戦は陸軍が勝手に起こしたもので、天皇も国民も知らなかったという説明に用いられるからである。

関東軍が中国大陸で「暴走」していた時期はちょうど大恐慌の時代に当たる。政府は経済運営に失敗したが政争に明け暮れており解決策を提示しなかった。陸軍本部も東京で内輪の出世競争をしていた。そこで現場は「どうせ、東京には中国大陸の事情はわからない」と考えて、勝手に中国の要人を殺し、戦線を拡大した。

しかしながら、東京側は陸軍を罰せず、作戦を追認した。国民の圧倒的な支持があったからだと言われている。当時の大手新聞社もこれを煽ったのだ。国民が支持したのは軍部が戦線を拡大したことで日本の景気がよくなったからだ。中国大陸に植民地ができたことで需要が喚起され、余剰の労働力が吸収された。この結果、日本の景気はいち早く回復した。

しかし、この回復は出口のない戦略だった。中国の利権獲得を狙ったアメリカと衝突して外交的な緊張関係に陥る。資源輸入を制限され国民生活は窮乏する。結局日本は挑発に乗る形で真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦ののちに中国利権を失った。

関東軍と豊洲移転チームの違い

関東軍と豊洲移転チームには共通点がある。本部が無能でありプロジェクトを管理する能力がない。別の事象に夢中になっていて現場に関心もない。現場には特有の危機感があり、リソースはないが問題を解決する能力を持っている。すると、状況をよく考えずにプロジェクトが始まってしまうのだ。いわゆる「出口戦略」がないので、いずれ状況は破綻する。専門家には多様な視野がないからだ。

一方で違いもある。関東軍は「勝手に暴走した」わけではない。もちろん最初のきっかけは暴走なのだが「結果を出した」ことで政府や国民の信任を得ることになる。国内の政治は二大政党による政争だったのだが、戦時体制に組み込まれ「一致団結」する道を選んだ。これが後になって翼賛体制と批判されたが、当時は「話し合いではないも解決せず行動あるのみ」という空気があったのである。

楽譜の読めない人を指揮者にしてはいけない

豊洲移転問題の要点は「楽譜の読めない人を指揮者にしてしまった」ことにある。当時の東京都政の喫緊の課題は予算の膨張を防ぐことだった。石原都政は銀行経営に失敗しており、都の金を使っって後始末したばかりだったからだ。

有毒物質を産出していた土地で食べ物を扱うわけだから「100%の安全」のために万全の対策をとれば金がいくらあっても足りなかったはずだが、石原慎太郎は判断の間違いを認めず、現場になんとかさせようとした。

そこにコストカッターと言われる市場長がやってきて「どうせお前達は無駄ばかりしているのだろう。費用は削れ。でも安全は確保しろ」などと言われれば、現場はどう思っただろうか。その中でもできるだけのものを作ろうと思った善意の人はいたかもしれないが、微妙で技術的なことを言ってもわかるはずはない。

これは作曲家が「若者に受けてSNSで爆発的にヒットするが、万人に理解される音楽を作れ。ただし楽隊の編成は最低限にしろ」などと言われているようなものだ。いろいろ作ってくるかもしれないが、発注者は音楽にさして興味がない。クライアントに言われたことを調整せずに垂れ流しているだけだからである。煮詰まった作曲家は三味線だけで演奏できる演歌を作って持って行く。しかし、発注者は楽譜が読めないので何が書いてあるかわからないのだから「知らなかった」と言って受け取ってしまう。クライアント会議でお披露目した席で「私は騙された」というのかもしれないのだが、それは作曲家が悪いのだろうか。

冒頭に書いたように「関東軍」は、現場が勝手に暴走した際に使われることが多いレッテルだ。含みとしては「議会と都知事は悪くなかった」という総括であり、実際には何も解決していない。しかし、豊洲の場合には図面や契約書には嘘はない。すべての報告は技術的には上がっている。これを「理系が暴走した」と説明してしまうのは、ものすごく乱暴だ。そもそもの原因は「予算はないが100%の安心安全を目指した施設を作れ」という都側の指示なのだ。

ただ日本テレビも番組制作プロダクションが何か問題を起こしたとき「私たちは知らなかった」などと言いそうだなあとは思った。いつも「予算はないが、クライアントが満足できて視聴率がどーんと取れるものを作れ」などと言っているのだろう。そこでプロダクションが安全管理を怠っても「プロダクションが暴走した」などといって済ませてしまっているのではないだろうか。

これをあろうことか「理系(関東軍)の暴走」という表現をしている。「理系」とは一般人にわからないようにわざと難しいことばかりいっている人という意味なのだろう。一般人は難しいことを理解しなくてもいいし、無理難題は専門家に押し付ければいい。日本人が理系離れするのは当然かもしれない。

先の第二次世界大戦の教訓は関東軍の暴走を国民が黙認したことにある。遠く離れた土地の出来事なので多くの国民は「自分には関係がない」と考えて黙認した。戦後も多くの日本人はこれを軍部の暴走と総括して反省しなかった。プロセスには関心を寄せず長期的な視野も持たず、単に結果だけをみて一喜一憂している。日本人だけの悪癖だとは思わないが、同じような失敗が繰り返されていることは間違いがないだろう。

共産主義化が進む日本経済

先日、NHKで「人口が縮小してゆく社会」という特集をやっていた。深刻な内容だが、前半と後半が分離していた。

前半は豊島区で若年層の貧困化が進んでいるという内容だ。公共事業の増加を背景にして、建設業が主要産業になりつつある。建設業は雇用を創出するが増えているのは非正規雇用ばかりだ。家庭を作ることができないので、将来的には国が面倒を見る必要が出てくる。大阪で見られるような南北問題が東京にも波及しつつあるようだ。

後半は地方自治体が機能を果たせなくなり住民サービスを削減しているという話だ。生産年齢の人たちが都市に流出しており、税収がなく住民サービスが維持できない。そのため、住民がサービスを肩代わりしている。また、地域が蚕食されてしまうために集約化が必要になってきている。中には移動しただけで亡くなってしまう高齢者もいるそうだ。

いずれにせよ、一生の見通しが立つような働き手を抱えられる産業が日本から急速になくなりつつあるらしい。このままでは、住民は税金を納めることもできないし、新しい家庭を作ることもできない。そこで実質的に国が雇用主になって従業員である国民を支えるという姿が整いつつある。従業員には定年があるが、住民は定年しないので一生抱える必要がある。そこで働いてもらいましょうということになる。ただし、その労働が賃金で報いられるかどうかはよくわからない。住民サービスの代替えなどの無償労働が含まれるからだ。

かつてはJapan Incと呼ばれた日本社会だが、労働市場という側面から見ると、急速に社会主義化が進んでいることになる。

実は資本の面からも社会主義化が進行している、日経新聞によると東証1部上場企業の4社に1社の実質的な筆頭株主となっているということだブルームバーグの記事ではメジャーな金融機関は国が筆頭株主なのだそうだ。

日経の記事は「価格が分かりにくくなる」ということを心配している。だが、もっと深刻なのがガバナンスの低下だ。国が筆頭株主になってしまうと経営者を監視する人がいなくなるのだ。GPIFが「もっと配当をよこせ」と企業に迫ることはないだろうから、企業の収益力は悪化するだろう。企業は株主からのプレッシャーがあるからこそ新しい事業への投資を試みるのだ。

このプレッシャーがなければ集めた資金は死蔵されるか、既存の(ゆえに収益力の落ちた)事業に追加投資されることになる。さらに病状が進めばその企業を潰さない為に「政策的な」投資が続けることになるだろう。民間需要がなくなれば、国で需要を作ることになる。

誰も意図しないうちに、国が従業員を支え、企業を支配し、需要も国で作るという図式ができつつある。国家の共産主義化だ。これに計画生産と配給が加われば完璧だ。

いろいろ考えるところはあるのだが、憲法なども考察のテーマになりそうだ。現在の憲法は復古的だと言われている。明治期に復帰するというよりは戦中体制への復帰に見える。戦争という緊急事態だったので一時的に政争がなくなり「天皇のもとで政治が一致団結していた」唯一の時代だ。いわば、国が戦争という唯一の事業を行う為に共産主義化していた時代と言えるだろう。そう考えると、あの憲法草案は自民党の指導のもとで国が一大事業を行う為の共産主義憲法に見えてくる。これを未だに行っているのが北朝鮮だ。

一方で民進党は配分だけを意識した政党だ。こちらもアプローチは違うが社会主義化を志向している。自民党の憲法草案は個人の財産権を制限しているのだが、こちらは自発的な明け渡しを要求する。一方で資産課税も民進党の特徴だ。資産には課税できないので、資産を使った時に課税する。これが消費税だ。

このように考えると共産主義というのは理想から生まれるのではなく、資本主義の死の形態なのかもしれない。