日本人に蔓延する嘘とコリント人への第一の手紙

聖書の中に遠くにいる信者にあてた手紙の一群がある。後世の創作が混じっているという意見もあるそうだが、主にパウロという人が書いたものとされ、今のトルコ、ギリシャ、イタリアなどに送られている。2018年5月22日は日本の社会に嘘が蔓延しているということについて深く考えさせられる日になったのだが、聖書を読みながら、社会に蔓延する嘘をどのように評価すべきなのかということを考えた。

日大の監督が選手に犯罪行為を命じたが直接は指令せずにコーチに伝えさせた。断りきれなくなった選手は実際に行為に及んでしまうわけだが、そのあとで深い反省の念にとらわれて顔を出して謝罪した。一方で監督とコーチは一切の説明を拒み社会から逃げてしまった。後から経緯をみると、監督は末端を切れるように準備していたのではないかと思える。まずは生徒が「行き過ぎた行為をした」と切り捨て、逃げきれなくなったら今度はコーチが勝手に指示したことだと言い逃れるつもりだったのではないかと思う。

さらに首相が加計学園の問題で嘘をついていることが明白になった。安倍首相は記録を確認したがなかったと口を滑らせたが、後になって慌てた官邸側は「記録はなかった」と軌道修正した。もう嘘はバレている。しかしながら支持者たちは「もっと証拠を出せ」と騒いでいる。これも、最初から悪いことをしているという認識があったのではないかと思える。だから記録に残らないように友達を官邸に招き入れたり、ある特定の日時までは何も知らなかったと主張しているのだろう。そして嘘が露見すると、周囲を切り捨てて行く。

日本社会はこの状況をどう理解して、彼らの嘘をどう裁くべきだろうか。

現在、Twitterで枝野幸男さんなどの野党の政治家が「裁判だったら」というような論調で話をしている。これがかなり恐ろしいことだなと思った。国会議員に不逮捕特権があることからわかるように、政治は司法からは切り離されている。対立に埋没してゆくうちに野党はこのことを忘れてしまっている。

蔓延する嘘は社会に様々な悪影響を及ぼしつつある。国会は他人を断罪する場になっている。このような場所で建設的な議論ができるわけはない。日本社会で建設的な提案がなされることはしばらくないだろうし、第三者的な野党によるチェックがなくなれば、与党は倫理的に問題がある法律を平気で通すようになるだろう。

すでに野党の死は確定的だ。建設的な議論をしたい人たちが野党に集まってくることはない。彼らの元に集まってくるのは何者かを破壊したい人たちだけである。そうなると野党側は安倍政権の矛盾を通じてしか自己像を構築できなくなる。彼らは細かな党派に分かれてお互いに牽制し合うようになった。

次の問題は社会に蔓延する嘘である。法律を定める国会議員が嘘をついてもいいのだから、その法律は誰かの胸先三寸でどうにでもなる程度のものに過ぎない。その目をかいくぐることさえできればそんな法律は破っても構わないと思うようになるだろう。罰則がない努力義務など忘れてしまった方が良いことにもなる。

一部の人たちは律儀に政府の矛盾点を指摘し、時々デモに出かけたり勉強会に参加したりする。しかし日本人は表向きの対立を嫌うのでわざわざこのように言い立てたりはしない。彼らは身内の間では不正を働き、他人は厳しく罰するようになるだろう。集団で顔が出ていないと考えるならば、大勢で一人を責め立てて社会的生命を奪うことすら厭わない社会はすでに実現している。一方で、難しい社会的な問題には関心を寄せない。一人ひとりが何かをしたところでどうにもならないと感じているからである。社会的な公正や正義という意味では日本社会はすでにある種の破綻状態にある。安倍政権は統治に失敗したと言えるが、失敗したところで社会がなくなることはない。

さて、ここでコリント人への第一の手紙に戻りたい。もともとのキリスト教はユダヤ社会に現れたカルト宗教の一つである。キリスト教団はユダヤ社会の倫理観に挑戦したために教祖が殺された。それに納得できない弟子の3人が集まって「教祖は復活して俺たちはそれを目撃した」と主張して、周囲からはキチガイ扱いされてしまう。

初期のキリスト教はある意味でオウム真理教事件とあまり変わらないような経緯を辿るのだが、ここから先の展開が違っていた。弟子たちはラビたちに復讐することはなく、教えを周囲に広め始める。ユダヤの戒律は弱者への差別につながる。この時代の弱者も病気になった人や結婚システムに救済されない女性などであり、これは現在とそれほど違いはない。

周囲からキチガイ扱いされながらも、弟子たちは各地を周りユダヤ世界を飛び出してローマの支配地域に広がってゆく。ローマ領域には様々な宗教社会があり、それぞれに律法と差別があったのだろう。そこからあぶれた人たちが集まって原始的なコミュニティができた。

キリスト教からみると、世界は不誠実で道徳に反する行いが蔓延する汚れた場所である。コリントに集まった人たちは外の世界を糾弾し、また内部でも主導権争いを繰り返すことになったようだ。コリント人への第一の手紙はその様子を聞いたパウロが教団をたしなめた上で綱紀粛正をするために送った手紙なのである。

初期のキリスト教団は智恵をあまり信用しなかったようだ。ユダヤ社会が論理に支配され社会正義の実現をおろそかにしたからだろう。パウロは「外の人たちを裁くな」と主張した。代わりに「自分たちは道徳律を守り、キリストの教えを実践すべきである」と言っている。

もちろん、パウロの教えそのものが妥当だったかという点には疑問もあり、現在の教会がこれを守っているとも言えない。例えば、女性は男性の従属物だと書かれており、同性愛(男色)は明確に否定されている。このことが現在のキリスト教圏の同性愛者を苦しめている、教皇は「同性愛者はそのように作られた」として許容する姿勢を見せているが、内部には少年に対する性犯罪などの問題がある。

今回、日大の選手が顔出しで謝罪した上で釈明したのを見たとき「このように選手を追い詰める社会はまずいのではないか」と感じた人たちは多いのではないかと思われる。さらに関西学院大学の現在の2年生たちは高校生だった時にアメフト部の仲間の死を経験している。死因ははっきりしないようだが彼らは仲間の死を通じて「アメフトに対するあり方」を真剣に考えたのではないか。関西学院大学の生徒の名前は公表されていないのでこのことが表立って語られることはないだろうが、生徒たちは真剣にこの問題と向き合っている。

しかしながら、今でも日大は「生徒の勘違いだった」という姿勢を崩しておらず本質的に反省する様子は見受けられない。もともとブランド価値を維持するために経済的な理由から選手を追い詰めているようである。大人たちは自分たちがいい思いをするためにアメフトを利用していおりスポーツの倫理性を軽視しているのだが、生徒たちにとってはそれは命と人生がかかった真剣な実践の場なのである。

「嘘が蔓延する社会を放置してはいけないのではないか」と我々が考える時に頭の中では何が起きているのだろう。脳の働きだと理解することもできるし、私たちの頭の中には他の動物とは違う「霊的な何かがあるのだ」と考える人もいるかもしれない。

日本では宗教的な言論には拒絶反応があり、理性的な人たちの間で「霊的な言葉」という表現がそのまま受け入れられないことはよくわかっている。だからパウロのようには「私たちは霊的な言葉に従うべきだ」などとは主張しない。しかしながら、キリスト教がどのようにして社会的な公正をローマ社会に広げていったのか、なぜ多神教だったローマ社会がこうした社会的公正を受け入れざるをえなくなってしまったのかということを理解するのと同時に、私たちの頭の中に芽生えた「これはよくないのではないか」という気持ちが何に由来するものなのかをよく考えてみるべきではないかと思う。

いったん立ち止まってこのことを考えた上で、私たちはこのまま声高に他人を裁く道を選ぶのか、それとも別の選択肢を模索すべきなのかを考えるべきなのだと思う。

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朝鮮は植民地だったのかという<議論>

本来は日本人が議論をしたがらないしできないということを調べているので、朝鮮についての言及は最小限に止めておくべきだ。しかし、ついつい面白くで4,000文字を越えてしまった。

趣旨としては答えがないということがわかっている問題で「議論」ができるということは、議論自体には取り立てて興味がないということなのだということを書いている。

だが、調べているうちに、この朝鮮併合という事業そのものが日本人が意思決定できないというよい事例になっていることがわかった。自分自身は党派間対立には興味がなく、こうした構造を調べるのが好きなので、議論好きの日本人以外にも一人で調べ物をしている「オタク系」の人がいるのではないかと思う。ただ、そうした人たちはTwitterではあまり目立たないのかもしれない。


先日ネットで面白い議論を見かけた。それは朝鮮は植民地かという議論である。友利新というタレント医師がネットの番組で「日本は朝鮮を統治したのであって植民地化したわけではない」と主張したのをきっかけに、朝鮮は明らかに植民地だったという反発が起きている。香山リカはこう憤る。

この話を観察するポイントは朝鮮が植民地であったかという議論そのものにはない。その議論がなぜ人々を惹きつけるのかという点にある。しかしそのためにはそもそも朝鮮は植民地出会ったかという議論そのものに答えがないのだということを納得してもらう必要がある。

文字どおりの意味での植民地は資源の収奪を通じてある地域を搾取することを意味している。資源には、土地・資源・人間がある。土地を搾取して自国民を植民させたり、資源を収奪して貿易に使ったり、地元の人たちを奴隷として使役することがあるのである。だが、その他に「保護国」という全く違ったカテゴリもある。これは帝国と帝国の境目として利用する。攻撃を受けるのはこの保護国であって、保護国を盾にすることで自国の安定を保全しようとするのだ。この二つは搾取するために別の地域として区別するのだが、その他に自分の国の一部に編入してしまうこともある。北海道などがその事例である。もともと北海道の北部は日本の領域ではなかったのだが、内地と同じ法律を適用し、北海道に移住した人を戸籍上区別することはなかった。

日本は明治維新で近代化してすぐ「帝国主義」について学ぶ。清やロシアに勝ったことで幾つかの海外利権を獲得し、朝鮮半島の実質的な宗主権もその時に獲得した。正確には清が宗主権を放棄し、朝鮮半島を独立させた上で実質的な監督権を得た。のちに総督府を通じて外交を主管することになり、保護国化が進行した。

ところが、日本人は帝国主義諸国がどのような目的で海外領土を持つのかをよくわかっていなかったようだ。

日本は北海道や樺太をロシアとの緩衝地帯と考えていた。日本の内地は松前半島までで、その向こうはアイヌ民族などが住む「蝦夷地」と認識されていた。日本は南クリル(北方領土)を含む北海道全域を領土化して日本と同じ法律を適用した。つまり、日本は北海道を日本に編入したのだ。アイヌ人はその過程で1871年に日本の戸籍に平民として編入された。しかし、行政的には旧土人という区分があり、旧土人保護法が廃止される昭和時代までこの概念が存在した。

日本人は保護という美名のもとでアイヌ民族を差別してきたのだが、アメリカ先住民に習って先住民としての権利を主張するようになると今度は一転して「アイヌ人などなかったからアイヌ利権はない」と言い出す人が現れる。このように日本人の態度は一定しないことが多い。差別できるときは差別するが、その現実は認めたくないので「保護」という。しかし権利を主張し始めると一転して「そもそもアイヌ人などいないのだから差別も利権もないのだ」などと言い出すのである。

このように曖昧な態度をとるに日本人にとって、人口が多い朝鮮はさらに厄介な問題だった。当初形式上は独立国だったが、実質的には保護国だった。しかし大韓帝国の皇帝がロシアに接近を繰り返していたこともあり、大韓帝国から外交権を奪い保護国化した。それでも安心できずに日本に併合して朝鮮半島の既得権を維持すべきだという議論が生まれ、やがて実行される。

もし、朝鮮半島事情についてよく知っている人ならばこの間に起こった国内の論争を知っているはずである。これは単に朝鮮人だけの問題ではなく日本人の意識にも幾らかの動揺を与える。この過程は小熊英二の「単一民族国家神話の起源」という本にもまとめられている。朝鮮を日本に組み込むべきだという人の他に、朝鮮半島を日本に組み込むことで日本が純血でなくなり劣化してしまうという議論もあった。伊東博文ですら意見がぶれていた。併合派に反対しなかったという<事実>が語られる一方で、いずれは独立させるべきだというメモが見つかったという指摘もある。

ここから、日本が朝鮮という大きな領域を組み込むにあたって、単一民族国家であることを捨てて帝国になるのか、それとも朝鮮を搾取の対象である植民地として内地とは切り離した上で搾取するのか、それともロシアとの緩衝国として押さえつけておくのかを決めかねていたということがわかる。北海道を併合する時に曖昧にしていた問題に直面するのである。ゆえにその<統治>は中途半端なものになった。

前回日本人は意思決定ができないと書いたのだが、状況に振り回されて意思決定を先延ばしにしたままで事態だけが進行した。北海道を併合した時にはっきりと理論化しておけば良かったのだが、日本人はそれをやらなかった。大韓帝国の中にも、ロシアに接近すべきという人たちと近代化を進めるためには一度日本と併合されても構わないという人たちがいた。併合の請願が現地の一進会からなされれたのもまた<事実>である。

朝鮮半島がなし崩し的に帝国の一部に加えられたために日本は帝国として何を統合原理にするのかということを大急ぎで考えなければならなくなった。これまでのような「日本人」という民族意識は帝国の統合原理にはなりえないからである。議論の結果「天皇をお父さんにする家族なのだ」というとってつけたような議論に修練して行き、やがて第二次世界大戦で破綻した。

朝鮮半島の法整備を急ぎ朝鮮人を「平民」化して解放し。ある程度のインフラ整備も行われた。これが<統治的>側面である。それまでの朝鮮半島には奴婢制度が残っており、現地の治安を安定させるためにも彼らを解放して識字率を向上させる必要もあった。実際に学校を整備させたのは伊東博文総督で最後には帝国大学まで作られたとされる。

朝鮮半島の人たちも日本に移住しており朴春琴という衆議院議員が民族名のままで当選し二期つとめたりしている。驚くべきことにハングルによる投票すら認められていたそうだ。日本の政治に日本語以外の言語の関与があったのである。とはいえ完全に内地化されたわけでもなく、朝鮮は内地政府とは異なる総督府が管理し朝鮮戸籍という別個の戸籍もあった。(この項一部「★誰が朝鮮人なのか (朝鮮戸籍と日本国籍との関係ノート)からの」抜粋あり)

選挙権についてであるが、戦前の内地に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があった。1920の衆議院選挙では所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使し、1925の普通選挙法成立後には納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになった。また1930131日の内務省法令審議会はハングル投票有効とし、ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には諺文字(ハングル)書が配布された。32年と37年の衆議院議員選挙で東京4区から当選した朴春琴など、地方議会でも立候補した朝鮮人は当選していた。

日本には朝鮮半島出身者に対する差別感情もあり「朝鮮人に恨まれているのではないか」と考える人がいた。関東大震災で治安が混乱した時に「この機に乗じて復讐されるのではないか」という恐れもあり朝鮮人やそれに誤認された人たちを殺傷する騒ぎが起きた。

朝鮮半島を解放したというのも間違っている。東洋拓殖が現地の農民から土地を奪い取り日本人に分け与えたとしている。東洋拓殖は移民事業に失敗したが地主となり朝鮮半島が日本から解放されるまで土地を所有し続けた。土地を奪われた朝鮮人は数百万人にもなったという話もある。

両班から農民を解放したという図式を作り朝鮮人による間接統治をすれば日本人がこれほど恨まれることはなかったかもしれない。むしろ解放者として扱われていた可能性もある。しかし、直接乗り込んで土地を接収して「両班にかわる新たな吸血鬼」とさえ認識されていたとなると話は全く違ってくる。イギリスの狡猾なやり方と比べるとその稚拙さや戦略のなさが際立つ。イギリスはもっとおおっぴらに搾取したが今でもコモンウェルスという共同体を持っていて定期的に会議やスポーツ大会などを開催している。

いずれにせよ、朝鮮は内地として統治されたのかそれとも植民地として搾取されたのかという議論にはそもそも答えがない。当時の日本人もよくわかっていなかったし、朝鮮半島にも様々な認識を持った人がいた。ここから自分の好きな論拠を<事実>として抜き出すと好きな議論をいくらでも展開できる。

しかし、この稚拙さを無視して独自議論を展開してみたところで全く意味がない。その後国際的な議論があり「統治」と「植民地支配」の議論自体が無効化されてしまったからである。

それまでの帝国主義は「民族自決」の原則で解放されるべき地域と植民地として「善導」されるべき地域に区分されていたが、第二次世界大戦までの間に整理しきれなくなっていた。それが行き着いた先が核戦争の可能性だった。つまり、これ以上植民地獲得合戦を繰り返していると人類全体が広島・長崎化しかねないということになったわけだ。

しかし、帝国主義諸国がはそれを率先して整理できなかったので、日本とドイツを戦争犯罪と断罪した上でなし崩し的に帝国主義を解消しようとした。イギリスがコモンウェルスを持っており未だにイギリス王室のリーダーシップを認めているのは変異の仕方がうまかったからだろう。

いずれにせよ帝国主義そのものが否定されたのだから、民族自決の原則がすべての地域に適用されることになる。すなわち「統治だったから良いこともした」という議論は、朝鮮半島の人たちが自分たちを独自の民族だと主張する限りそもそも成り立たたない。国際的には主張できないのだから、インターネットテレビでのやり取りは単なる自己満足にすぎない。

しかし、こうした<議論>に熱中する人が多いことから、日本人が仲間をまとめ上げるためにうちわでわざわざ倫理に挑戦して喜びを見い出したり、それにわざわざ反発することに熱中する人たちがいることがわかる。保守が「スカートめくりをする男子」だとしたら、リベラルは学級会でそれを問題にする「女子」である。男子はAbemaTVで大騒ぎしているのが関の山で、その議論を国際的に展開しようという意欲はない。

こうした議論に参加するとすればそれは遊戯の範疇であり実質的な意味はない。楽しみとして参加するのはよいが、もし「こうしためちゃくちゃな意見を説得しないと今に大変なことになる」と考えているのであればそれはやめたほうが良い。その悩みに全く意味はないからである。

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日本人が政治的議論をしないしできないのはなぜか – 文化が衝突するとき

日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。

これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。

このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。

まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。

バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。

しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。

この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。

この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。

日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。

前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。

日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。

もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。

この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。

このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。

「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。

であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。

もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。

そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。

ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。

現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。

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