犬について考えるついでに憲法についても考えてみた

また、犬が倒れた。老犬になるとびたびこういうことが起こるそうだ。これについていろいろ考えたついでに(考えるだけでなくやることがいっぱいあるのだが)憲法についてもちょっと考えた。関係なさそうなのだが、犬の介護くらいのことでも「社会」について考えることがあるのだ。

犬が倒れると食事をしなくなったり、歩けなくなったり薬を飲まなくなったりする。しかし、一人であれこれ考えるだけでは何も解決しない。そこでウェブサイトを検索すると歩けなくなった犬の介護用ハーネスの作り方が書いてあり、公共図書館で本を借りることもできる。つまり、悩んでいる人は大勢いて知識の分かち合いも行われているのだ。つまり、誰も助けてくれないようでいて社会と関わることがある。ただしその関わり方は様々だ。もちろん、同じことは人間にも言えるのではないかと思う。

私たちはいろいろな義務を背負っていて、同時にそれを誰かと分かち合うことができる。堅い言葉で言うと「相互扶助」という。相互扶助という考え方では「義務と権利」というものは実は同じことで、それを個人だけでやるか、社会と分かち合うかということを決めているだけということだ。

例えば教育の無償化は「教育を受ける人」には権利になるが、支える人には義務になる。が、義務を負った人も同時に権利を持つ。

「教育の無償化」というと、そうした義務を負うことなしに権利だけが得られるという間違った印象を持つ。こうして議論が歪められてゆく。これは「権力」が介在することによって相互扶助という原則が見えにくくなるからであると考えられる。ゆえに教育無償化の議論は極めて有害なのだ。

こうした歪んだ意識は様々なところで見ることができる。例えばふるさと納税などもその一例だ。本来なら「学校教育に使われる」か「俺の肉を買うか」ということになるのだが、直接還元される肉に人が殺到する。税というものが正しく理解されていないし、健全に運用されていないからこういうことが起こるのだろう。が「私たちのために使われる」という政府に対する信頼がないことが背景にあり、一概に納税者を責められない。

ただ、これは民主的な社会の話だ。支配者が「国民に与える」恩典憲法では、極端な話義務について書く必要はない。与える権利だけを記載すれば良いからである。その意味では帝国憲法は恩典的だが、その改正によって生まれた戦後憲法もGHQからの「恩典的」憲法なのかもしれない。日本憲法は権利の数が多いというが、これは実はGHQが国民に与えたという性格があるからだ。その上「民主主義はいいものですよ」というプロパガンダ的な性格を持っている。リベラルの人たちの護憲運動に説得力がないのは、それが彼らによって勝ち取られたものではないからだ。護憲・平和などと言っているが、それは上から落ちてきたものを拾っているに過ぎない。

「社会の関わりを定義する」という筋から考えると、憲法改正にはふた通りの議論があるということになる。

  1. 余力ができたりインフラが整ってきたので、社会が個人に対して新しい関わりを持つという方向性。これは社会保障インフラなどについて言える。責任を負うが享受できることも増える。
  2. 個人のリテラシーが整ってきたので、今まで社会が関わってきたことから手を引く。これは規制緩和などについて言えるだろう。責任からは解放されるが、享受できるサービスも減る。

つまり憲法議論は、個人が社会とどの程度関わりたいかという個人の考えが社会的なコンセンサスを得て成り立つのだということになる。これが「国民が主権者である」という言葉の意味ではないだろうか。つまり、リベラルは合意形成機能を持っているべきだ。日本にはこうした機能がなく、社会が引きこもりを起こすのである。

市民側からの圧力がないので、民主主義憲法を権力者である首相とカルト系宗教の支持者たちだけが社会と国民のあり方のバランスを変えたがっているというとても偏った状況が生まれている。ここから「飴」を与えて権力を奪取しようというおかしな現象が起こるのだが、結局義務を負うのは国民である。国民はこれをわかっているので「政治に何を言っても無駄」という冷めた空気が生まれるのだ。

だからといって「憲法は権力を縛るものなので指一本触れてはならぬ」というのもあまりに歪んだ議論である。憲法は国民がどう社会に関わるかということについて記述されるべきで、権力に対する重石として置いてあるわけではない。が、リベラルから改憲の動きが出てこないのは、彼らが社会についてあまり何も考えていないからなのかもしれない。

さらに、社会はくだらないものだから引きこもるということであればそれも考えの一つなので、国や社会の関与を減らすべきだという主張もできる。減税とサービスの低下が選択肢ということになる。

つまり社会が助け合いをしようという人たち(つまりリベラル・革新派)ほど権力が強くなるはずで、本来は改憲派になる可能性が高いということになる。ところが日本人の意識には恩典憲法的な価値観が残っており、この通りにはことが運ばないのだろう。リベラルは自分たちの運動で得た権利ではないので「根がない」状態にあると言える。

リベラルの人たちは(例え国防に対する考え方などが保守的であっても)まず合意形成機能を獲得する必要がありそうだ。民進党の人たちの「バラバラ感」を見ると、安倍首相の批判に熱中している時間はないのではないだろうか。

憲法改正やってみればいいんじゃないか

昨日、複雑に絡まるマダガスカルジャスミンの植え替えをしながら、Twitterでときどきやりとりさせていただいている人とちょっとしたやり取りをした。安倍政権が好き放題しているのは政権交代が起こらないからなのだが、それはどうしてなのだろうというのものだ。テキトーに考えた結果は「日本人は政権交代に懲りている」というものだった。

長い間、日本人はアメリカ流の二大政党制と政権交代に大いなる憧れを持っていた。当時の課題は金権政治からの脱却だった。そこで選挙にお金がかからなければ政治は清浄になるだろうという根拠のない期待が生まれ、政党助成金と小選挙区制が導入された。しかし、それでも不満は収まらなかった。

バブルが崩壊して「このままにすると日本は大変なことになる」というような空気が生まれた。今度は「官僚がお金を隠しているだけなので、政権交代すれば大丈夫ですよ」という政党があらわれた。自民党は緩んでしまっており大臣の失言などが止まらなかったので「もういいよ、面倒だから政権交代だ」ということになったのだが、結局その人たちはたんなる嘘つきだった。

つまり日本人は「見たことがなかった政権交代」に過剰な憧れを抱き、一回失敗したら怖くなってしまったことになる。前回ご紹介したNHKの調査では政治参加意欲そのものが低下しており、NHKはその理由をこのように分析している。2004年と2014年を比べているのだが「政権交代しても結局無駄だった」という感覚があるのだろう。

本稿ではこの背景について、①政治に働きかけても何も変わらないという意識、②前回に比べて比較的安定した経済的状況、③若い世代を中心とした身近な世界で「満足」するという価値観の変化、の3つが重なったことが要因ではないかと考察した。

さて、政権交代が問題を解決しないとなった今、政治家の関心は憲法である。つまり、憲法さえ変えれば「賢い俺たち」が政治を劇的に変貌させるという根拠のない自信があるのだろう。が、これは政治家だけの感覚ではなく若い人たちの中には改憲派が多いという記事もある。この毎日新聞の記事は「社会が変わってほしいという期待感もある」と言っている。

制度さえ変えれば何かが劇的に変わるだろうと考えるのは日本人がプロセスを無視して結果だけを求める傾向が強いからだ。が、その制度が失敗してしまうと今度は極端にそれが嫌になってしまうのである。

いわゆる一連の政治改革は結局は自民党の派閥の内紛だったのだが、憲法改正論議は自民党のパートナー政党の乗っ取りが目的になっている。結局は内紛なので議論が成熟するはずはない。だったら一度「本格的な議論」をして国民投票してみればいいんじゃないだろうか。特に教育無償化は財源を巡って炎上する可能性が高く、多分国民は憲法改正論議自体を嫌がるようになるだろう。

 

 

マスゴミは偏向しているという人に読んでもらいこと

さて、今日は「マスコミは偏向している」と考える人に読んでもらいたいことがある。教育の無償化について賛成か反対かアンケートを取ってみたい。

あなたは教育の無償化に賛成ですか?

このアンケートに反対する人はいないはずだ。教育はイイコトだし、無償化もイイコトだからだ。ちなみに戦争はワルイコトであるので良くないという人が多いかもしれない。多くの単語には色がついている。

じゃあ、これはどうだろうか。全く同じことを聞いている。

あなたが隣の子供の教育費を負担することに賛成ですか?

もし、あなたが子育て世代であれば賛成するかもしれないが、高齢者であれば反対というかもしれない。しかし、これは無償化のもう一つの側面であることは確かである。が、こういう聞き方をすると誘導であるという批判がでかねない。

さらに具体的なことを聞くと偏向度が強まる。単に具体的なことを聞いているだけなのだが……

  1. 教育無償化のために消費税増税するのに賛成です?
  2. 教区無償化のために成長の果実を使うことに賛成ですか?

これだと2を選びそうなのだが、2は「成長の果実がなければ教育予算を削減する」ということだ。

では、これはどうだろうか。

あなたは国家がすべての教育に介入することに賛成ですか?

明らかに「左翼が歪曲している」と取られかねない聞き方なのだが、実際に「国が教育を無償化する以上「フェアな形」で教育に介入すべきだ」と書いている国会議員の主張を見た。スポンサーがなんらかの形で内容に介入するだろうと考えるのはむしろ自然なことなのである。フェアという言葉が気になるが右翼の人たちにとってのフェアというのは「自分に都合が良いように」ということなので、ほぼ「国が(つまりは俺たちが)教育に介入してやるぞ」というのと同じことになる。中には「憲法は国が(すなわち俺たちが)国民に訓示するものにすべきだ」と真顔で書いている国会議員もいる。

ちなみに現行憲法はこの辺りを実に絶妙に表現している。全ての国民は教育を受ける権利があるとした上で、能力に応じた教育と、義務教育を分けて考えており、そのうちの義務教育は無償だとしている。「私学」が義務教育から廃除されるべきとは書いていない。

ところが今回の無償議論は「私学助成」を含んでいる。高等教育をここに含めてしまうと「最低限アクセスできる高等教育」にどれくらいの価値があるかという議論が生まれかねない。ゆえにこういう質問も成り立つ。義務教育の高等教育版だ。

あなたはだれでも通える大学を国が作ることに賛成ですか?

これ「わからない」という人が多いのではないだろうか。いわゆる駅前大学(県庁ごとに作った国立の大学をそういう)を想起する人が多いだろうし、いわゆるFランク校(偏差値底辺校ともいうそうだ)も該当しそうだ。つまり、選抜されない学校は就職に役に立たない可能性が高い。そんな大学を作って税金でまかなって何の役に立つのだということになる。


さて、ここまで書いてきて「政治的に完全に中立な」アンケートなど取りようがないことがわかる。単純な聞き方をすると「政府に白紙委任状を渡す」ことになる。これでは政府広報と同じである。教育無償化はイイコトだという議論のうらにあるべき制度設計が全くなされていないからである。

かといって、いろいろ疑い始めると「サヨク認定」される可能生が強まる。「民主的に選ばれた政府を疑うならお前は反日だろう」というわけだ。学校に通えない可哀想な子供の話を散々聞かされている市民団体のお勉強会などにいって「教育無償化」について聞いてみるのもいいかもしれない。多分「ムズカシイことを聞いて私たちをバカにしてる」と言われること請け合いだ。

つまり、政治的に中立なアンケートなど取りようがないことがわかる。こんな単純なことを聞くだけでも中立になりえないのだから、政治的に中立な報道などあるはずがない。すべての政治的意見は偏向せざるをえないのであって「単純な正義」などはありえないのではないだろうか。

民進党までもが教育無償化と言い始めた。もううんざりだ。

自民党や維新が「憲法改正で教育無償化を」と言っていてむかっ腹が立っていたのだが、ついに民進党も代表質問で同じようなことを言い出した。どいつもこいつも合理的思考ができないアホばかりだ……

と、釣りはこれくらいにして、今回は、少ない情報と限られたリテラシの中でどうしたら有意義な議論ができるかを考えてみたい。やることは小学生レベルに簡単で、白い紙を取り出して、企業、社会(国)、個人の立場から教育がなぜ正当化できるかを表にしてみることだ。

ここから見えることはいくつかある。

  • 教育が正当化されるルートは「投資」と「福祉」の通路があるので、それぞれ評価基準が異なるだろう。
  • 「経済成長」が、GPDを伸ばすことではないということや、「デフレ」が物価とは関係のない概念だということもわかる。

まずは図を見ていただきたい。もちろんこの図は間違っている可能性があり、少なくともラフな部分を含んでいる。一番の問題点は複雑に見えることなのだが、実は大して複雑ではない。

高度経済成長期のモデル

3つのセクター(企業、労働者、社会(国))の問題はそれぞれ連関しているようだ。なんとなく線で結んだところ、今までなぜ「教育無償化」という声が上がらなかったのかがわかる。これが国を通らない青い通路だ。この世界では企業や事業体が成長していて、自社(あるいは営利目的の学校)で社員が養成できる。正社員は将来世代の教育資金を提供できるし、教育を受けるほど給与が上がるので学校への投資が正当化できる。そして、このループに乗った人は将来給与が上がるのである。だから「借金(奨学金という学生ローンを借りる)してでもループに乗れ」ということが言えたわけである。これが起こる理由もなんとなくわかる。経済が成長すると稼げる金額も上がる。したがって、教育投資に利子がつく状態になるのである。いったんこうした効果が出始めると、自己強化が行われる。

問題は人工的に成長を作ると経済が成長し始めるという仮説の妥当性にある。経済には成長のポテンシャルがあるのになんらかの原因で妨げられている場合にはこれが成り立つかもしれない。だが、ポテンシャルがなくなっている場合にはこの仮説は成り立たない。つまり、原因と結果に正のフィードバック効果があるからといって、結果が原因を導くということにはならないのである。

社会の失敗

ところが、なんらかの影響でこの青ルートが壊れることがある。この図の中にはうまく書けていないのだが、いくつか考えられる。たぶんこれ以外にもあるはずである。

  • 企業は成長しているがノウハウがなく社内教育できず、営利目的の学校でも知識が調達できない。これは可能性としてはあり得るが現実性はあまりなさそうだ。
  • 正社員として働けるが、将来世代の教育費までは捻出できない。
  • 教育を受けないことが脱落要因になっている。つまり、もはや奴隷的労働にしか従事できず自分の家庭は営めない。これが社会を縮小させる。国からは納税者がいなくなり、企業は労働者と消費者が調達できなくなる。

これが進むと社会が縮小する。企業は経済成長できず、国民(消費者、労働者)は豊かになれない。消費するお金がないのだから、良いサービスや商品が買えない。そこで賃金も払えない。そこで企業が成長するために必要な正社員を雇えないという負のループだ。色が付いていない線は二つの例外を除いて「縮小」を示している。

2つの例外

1つ目の例外は「個人や企業は投資としての教育ができない」が「国」は正しい道を知っており、ダウンループ(ダウンスパイラル)や定常化を逆転できるという見込みがあるときである。このストーリーが正のとき、社会が教育費を捻出するということが「投資」として正当化できる。つまり、自民党が「教育費の無償化をやりましょう」と主張するのであれば、これを国民に示す必要がある。実際はこんなことは起こりそうにないのだが、発展途上国ではあり得る話である。実際に明治政府が成立した時期にはこれは正だったのだろう。

もう一つの例外は定常化の道である。企業はこれ以上成長しないのだが、パートの収入でもかつかつ食べてゆくことができるという状態だ。パートは維持できるので教育は最低レベルでよい。村の人たちも周りを見ているだけなのでそれほどの不幸は感じないだろう。これは江戸時代的だ。江戸時代の後期には経済成長もせず、寺子屋レベルの教育で社会が回っていた。これが成り立ち得たのは、多分経済が閉じていたからだろう。つまり、鎖国すれば教育はしなくてもよいというような結論が得られそうだ。もう一つ定常化社会で賄えないのが福祉だ。

つまり定常化は、土地がまかない切れる人工が決まっており、それが合理的に計測できるときにしか維持ができないのだ。江戸時代は、土地が生産できる米の量は決まっているので、それ以上に増えると「飢えて死ぬ」しか選択肢がなかった。これは福祉も、金融(外から入ってきたり海外に流出したりする)のない世界だ。

二つの例外以外は縮小につながっている

二つの例外以外は経済の縮小につながっている。だが、これまでの議論を見ていると「経済が縮小した」ということを証明するのは難しいようだ。多くの人がなんとなく「経済が長期的に下り坂だなあ」ということを実感しつつも、数字には現れないという世界である。多くの人が「デフレ」というときに表現したいのは、実はこの状態なのではないだろうか。

間接的に「縮小」がわかるのは次の点だ。

  • 給与は下がりつつある。経済学者は周期的なサイクルに乗れば「いつかは」正社員の給料が上がるはずだと言っているが、そのいつかはこない。どうやら給与削減が経営のトレンドとなっているようである。
  • パートが圧倒的に足りず、人件費が経営を圧迫する。エクストラコストを払ってまでも外国人の低賃金労働者を雇っている。正社員を投入して成長させるような新規事業が見つからない。
  • 学生の半数はローンを抱えて卒業し、ローンを返せない人もでてきている。それどころか学生のときからブラックバイトにはまり学業を諦める人すらいる。これは投資としての教育が正当かできなくなっていることを示す。

正社員とパートという言葉が乱暴に使われている点に注意が必要だ。企業に付加価値を与える人を「正社員」と言っている。将来の成長の見込みがあり、エクストラコストを投資として支払える。これが家族への投資につながる人を「正社員」と言っており、通常の正社員の概念とは必ずしも一致しない。パートはマニュアル通りに働く人で将来の余剰価値を生み出さないので、一定のリテラシのある人たちをできるだけ安く雇うのが正しいし、教育のオーバーヘッドはネグれる(無視できる)ので、必要なくなれば雇い止めすれば良い。

エネルギー系としての教育

この拙い表と限られた知識から何となくわかってくるのは次の点だ。

  • 社会はエンジンのようなもので、回してゆくためには燃料が必要だ。
  • エンジンなのだから、早くなる・そのままの状態が続く・遅くなるという3つの状態が起こり得る。
  • 状態は系なので、個別を取り出して議論しても意味はない。
  • 「教育」は実は系に知識を燃料として投下しているということになる。

なんとなく最低限の知識で効率よく回してゆくのが良さそうだが、現実的には「エンジンの回転数が下がりつつある」ことが実感できるので、なんらかのブレーキ要因があるのかもしれない。

自民党、維新、民進党への批判

自民党と維新への批判は簡単で、もし「教育によりダウンスパイラルを逆転できる」が「企業や労働者が探せていない見込み(いわゆる成長分野)」があるなら、それを提示せよということになる。企業や労働者の方が情報を多く持っているはずなので、儲かるセクターがあれば民間が先に手をつけているはずだ。だから、国がわざわざ出張ってくる必要はないのではないだろうか。自民党は同じようなことで一度失敗している。それが社会インフラの整備(つまり公共事業)である。

一方、民進党に対しての批判は少し込み入っている。まず教育を未来への投資であるとするなら、なぜ国が関与するのかという点を明白にする必要がある。先に見たように2つの通路がある。これは自民党と同じことを証明するだけで良い。

さらに福祉であれば、どれくらいの規模の余剰資金があるのか、いつまでこの状態が維持可能なのかを提示すべきである。民進党は「消費税など」を使って無償化を行うべきと提案しているのだが、どうやら消費税は所得勢や法人税の穴埋めに使われているようだ。つまりダウンスパイラルに対応する税なのである。同じことは保育にも言える。従業員に働いてもらうための投資なのか、困窮者のための福祉政策なのかが分からなくなっている。

まとめ

 

教育も何も知らない素人が、一枚お絵描きしただけで勝手なことを言うなという批判は考えられる。だが、実際にはこうしたお絵描きからわかることはたくさんある。日々の情報収集に追われているとなかなかそれを結びつけることができなくなる。一度新聞やTwitterから離れて、白い紙を広げてみるのも面白いかもしれない。

 

 

「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。

 

 

 

「狂った世界」の道徳と憲法に関する議論

木村草太先生が道徳の教科書について怒っている。現在の組体操は憲法違反だが、道徳教育上有効として擁護されている。学校は治外法権なのかというのだ。木村氏は道徳よりも法学を教えるべきだと主張する。最後には自著の宣伝が出てくる。

Twitter上では「道徳教育など無駄だ」という呟きが多い。この点までは氏の主張は概ね賛同されているようだ。ただし、この人たちが代わりに法学を学びたくなるかは分からない。また、組体操についての懐疑論もある。「全体の成功の為に個人が犠牲になる」というありかたにうんざりしている人も多いのではないかと考えられる。

また、一般に「道徳」と言われる価値感の押しつけは「一部の人たちの願望である」という暗黙の前提があるようだ。その一部の人たちが押しつけようとしているのが、自民党の考える「立憲主義を無視した復古的な」憲法だ。だが、それは一部の人たちの願望に過ぎない。人類の叡智と民意は「我々の側にある」と識者たちは考えているようである。

これらの一連の論の弱点は明確だ。つまり「みんなが全体主義的な憲法を望み、それが法律になったときに木村氏はそれを是とするのか」という点である。すると道徳と法学は違いがなくなってしまうので、問題は解消する。すると法学者はけがの多い組体操を擁護するのだろうか。

考えられる反論は「人類の叡智の結集である憲法や法が、軽々しく全体主義を採用するはずはない」というものだろう。木村氏は「革命でも起こらない限り」と表現している。民意はこちら側にあると踏んでいるのだ。

このような反論は護憲派への攻撃に使われている。「憲法は国益に資するべきであり、現状に合わない憲法第九条は変更されるべきだ」というものである。天賦人権論や平和憲法は自明ではなく「アメリカの押しつけに過ぎない」という人もいる。国会の2/3の勢力を狙えるまでに支持の集った安倍政権は「みんな」そこからの脱却を望んでいると自信を持っているはずだ。

護憲派は第九条や天賦人権論を自明としているので、これに反論できない。哲学者の永井先生は木村氏を擁護し、木村氏はこう付け加える。

安倍政権は「憲法改正を望むのは民意だ」と言っている。木村流で言えば「真摯な民意」が憲法改正を望んでいるということになってしまう。選挙に行かないのは「真摯でない民意」だから無視して構わない。デモを起して騒ぐのは論外である。「選挙にも行かないくせになんだ」ということになる。

この一連の議論が(もちろん改憲派も含めて、だ)狂っているのはどうしてだろうか。「道徳」を押しつけたい側は「昔からそうだったから」と言っている。この人たちは「右」と言われている。そして護憲側は(この人たちは「左」と言われる)も「世界では昔からそうだったから」と言う。そして「みんな」の範囲を操作することでつじつまをあわせようとするのだ。

普遍的真理は大変結構だと思うのだが、それは常に検証されなければならない。もし検証が許されないとしたらそれは中世ヨーロッパと変わらない。カトリック教会は「神の真理は不変だ」といっていた。ただし民衆は真理に触れることはできなかった。ラテン語が読めないからだ。

多分、議論に参加する人は誰も検証のためのツールを持たないのだろう。にも関わらず議論が成立しているように見えるのが、この倒錯の原因なのではないかと思う。ラテン語が読めない人たちが神の真理について議論しているのである。

「普遍的真理」というのだが、実は民主主義国は世界的に例外に過ぎない。イギリスのエコノミストが調べる「民主主義指数」によると、完全な民主主義国は14%しかなく、12.5%の人口しかカバーしていない。欠陥のある民主主義まで含めると45%の国と48%の人口が民主主義下にあることになる。普通とは言えるが過半数にまでは達しない。

どちらの側につくにせよ、それを望んでいるのは個人のはずだ。しかし、日本人は学術的に訓練されていても、徹底的に「個人」を否定することになっている。個を肯定しているはずの「左側」の人たちにとって見るとそれは受け入れがたいことなのではないかと思う。

さて、個人が政治的意見を形成するのに使われるツールがある。それは「哲学」とか「倫理学」と呼ばれる。ちなみにこの議論で出てくる永井先生は哲学の先生だ。日本語では道徳と言われるが西洋では倫理学だ。

どちらも「善し悪しを判断する」ための学問だが、日本の道徳が答えを教えてしまうのに比べて、倫理学は考える為のツールを与えるという点に違いがある。

倫理学教育が足りないと感じている人は多いようで、数年前にマイケル・サンデルの白熱教室が大流行した。もちろんサンデル教授は独自の意見を持っているが、白熱教室でどちらかの意見に肩入れすることはない。記憶によるとサンデル教授は判断基準のことを「善」とか「正義」と呼んでいたように思う。

日本の政治的風土は「自分で考える」ことを徹底的に避ける傾向があり、価値観の対立に陥りがちだ。どの伝統を模範にするかでポジションが決まってしまうのだ。ところがこれでは外部にいる人を説得できない。

しかしながら、外部にいる人たち(いわゆる政治に興味のない人)も「選挙に行かないのは人ではない」くらいのプレッシャーを受けている。そこで「科学的で合理的な」政治に対する説明を求めるのだろうと考えられる。しかしそのためには、受信側も送信側も考えるためのツールを持たなければならない。

故に、学校では道徳を教えるべきなのだ。ただし、安易に答えを押しつけてはいけない。道徳の目的は答えに至るプロセスを学ぶ機会だからである。

個人主義は利己的でわがままなのか

現行憲法はアメリカから押しつけられた個人主義をもとにしているから、日本人は戦後利己的でわがままになったと主張する人がいる。つまり、個人主義は利己的でわがままだというわけだ。これは本当だろうか。

中国人と仕事をしたことがある人はよく「中国人はわがままで個人主義的だ」という。ところが国際的な企業文化を調べたオランダの学者ホフステードによると中国は集団主義の国なのだという。集団主義社会では自己は「我々」と表現され、集団に忠誠を尽くす傾向があるとされる。確かに中国人は自分の集団には忠誠を誓うが、会社は単なる金儲けの場に過ぎないと考える。そこで、企業にいる中国人がわがままに感じられるのだろう、と考えられる。

公共の概念が発達しにくいのも集団主義の国の特徴だ。街中で行儀が悪いと言われる中国人観光客だが、これは公共圏を自分たちで管理しなければならないという感覚が薄いからだろう。韓国も集団主義的な社会だが、電車の中に読み終わった新聞紙をくしゃくしゃに丸めて捨てて行く「わがまま」な社会だ。

中国人や韓国人は血族が集団の基礎になっている。そこで権力者が血縁者に利益誘導を図ったり、血族単位で蓄財をしたりすることがある。日本人から見ると「わがまま」な行為だが、家族は安全保障の単位なので、彼らの論理に従えば当たり前のことだ。

これらの事例を読んでも、それは単に中国と韓国が文化的に劣っていて「民度が低い」のでわがままなだけなのではないかと思う人がいるかもしれない。

個人主義のアメリカ人も日本人が「わがままだな」と思うことがよくあるそうだ。現代の日本人は横に忙しい人がいても手伝わない。これがアメリカ人から見るとわがままに見えるそうである。いわゆる「縦割り」が進んでいて、自分と違うチームに属している人に協力しようという気持ちにならないのだ。この傾向は今に始まった事ではない。戦時中の日本人を観察したアメリカ軍の記録の中にも「隣の部隊が忙しそうに仕事をしていても暇な部隊が手伝うことはない」という記述があるそうである。(現代ビジネス

個人主義でわがままに見えるアメリカ人だが、代わりに「チームワーク」や「リーダーシップ」を発達させた。さらに個人主義の度合いが高まるほど、公共圏を自発的に維持する仕組みが整う。どうしてこのような傾向が生まれるのかはよく分からないが、一人ひとりの考えで動く事ができる社会の方が自律的な調整機構が働きやすいからではないかと思われる。

もし本来の日本人が強度の集団主義者だったら、日本人は時代にあった集団を自らの手で作り出す事はできなかったはずだ。すると、長州や土佐から脱けだした人たちが主の意思に背いて独自の同盟を築くことはできなかっただろう。また、企業のような仮想的家族システムも作られなかったかもしれない。

日本がアジアで唯一自力での近代化に成功したのは、この国が中庸な個人主義社会だったからだということになる。