マスゴミは偏向しているという人に読んでもらいこと

さて、今日は「マスコミは偏向している」と考える人に読んでもらいたいことがある。教育の無償化について賛成か反対かアンケートを取ってみたい。

あなたは教育の無償化に賛成ですか?

このアンケートに反対する人はいないはずだ。教育はイイコトだし、無償化もイイコトだからだ。ちなみに戦争はワルイコトであるので良くないという人が多いかもしれない。多くの単語には色がついている。

じゃあ、これはどうだろうか。全く同じことを聞いている。

あなたが隣の子供の教育費を負担することに賛成ですか?

もし、あなたが子育て世代であれば賛成するかもしれないが、高齢者であれば反対というかもしれない。しかし、これは無償化のもう一つの側面であることは確かである。が、こういう聞き方をすると誘導であるという批判がでかねない。

さらに具体的なことを聞くと偏向度が強まる。単に具体的なことを聞いているだけなのだが……

  1. 教育無償化のために消費税増税するのに賛成です?
  2. 教区無償化のために成長の果実を使うことに賛成ですか?

これだと2を選びそうなのだが、2は「成長の果実がなければ教育予算を削減する」ということだ。

では、これはどうだろうか。

あなたは国家がすべての教育に介入することに賛成ですか?

明らかに「左翼が歪曲している」と取られかねない聞き方なのだが、実際に「国が教育を無償化する以上「フェアな形」で教育に介入すべきだ」と書いている国会議員の主張を見た。スポンサーがなんらかの形で内容に介入するだろうと考えるのはむしろ自然なことなのである。フェアという言葉が気になるが右翼の人たちにとってのフェアというのは「自分に都合が良いように」ということなので、ほぼ「国が(つまりは俺たちが)教育に介入してやるぞ」というのと同じことになる。中には「憲法は国が(すなわち俺たちが)国民に訓示するものにすべきだ」と真顔で書いている国会議員もいる。

ちなみに現行憲法はこの辺りを実に絶妙に表現している。全ての国民は教育を受ける権利があるとした上で、能力に応じた教育と、義務教育を分けて考えており、そのうちの義務教育は無償だとしている。「私学」が義務教育から廃除されるべきとは書いていない。

ところが今回の無償議論は「私学助成」を含んでいる。高等教育をここに含めてしまうと「最低限アクセスできる高等教育」にどれくらいの価値があるかという議論が生まれかねない。ゆえにこういう質問も成り立つ。義務教育の高等教育版だ。

あなたはだれでも通える大学を国が作ることに賛成ですか?

これ「わからない」という人が多いのではないだろうか。いわゆる駅前大学(県庁ごとに作った国立の大学をそういう)を想起する人が多いだろうし、いわゆるFランク校(偏差値底辺校ともいうそうだ)も該当しそうだ。つまり、選抜されない学校は就職に役に立たない可能性が高い。そんな大学を作って税金でまかなって何の役に立つのだということになる。


さて、ここまで書いてきて「政治的に完全に中立な」アンケートなど取りようがないことがわかる。単純な聞き方をすると「政府に白紙委任状を渡す」ことになる。これでは政府広報と同じである。教育無償化はイイコトだという議論のうらにあるべき制度設計が全くなされていないからである。

かといって、いろいろ疑い始めると「サヨク認定」される可能生が強まる。「民主的に選ばれた政府を疑うならお前は反日だろう」というわけだ。学校に通えない可哀想な子供の話を散々聞かされている市民団体のお勉強会などにいって「教育無償化」について聞いてみるのもいいかもしれない。多分「ムズカシイことを聞いて私たちをバカにしてる」と言われること請け合いだ。

つまり、政治的に中立なアンケートなど取りようがないことがわかる。こんな単純なことを聞くだけでも中立になりえないのだから、政治的に中立な報道などあるはずがない。すべての政治的意見は偏向せざるをえないのであって「単純な正義」などはありえないのではないだろうか。

民進党までもが教育無償化と言い始めた。もううんざりだ。

自民党や維新が「憲法改正で教育無償化を」と言っていてむかっ腹が立っていたのだが、ついに民進党も代表質問で同じようなことを言い出した。どいつもこいつも合理的思考ができないアホばかりだ……

と、釣りはこれくらいにして、今回は、少ない情報と限られたリテラシの中でどうしたら有意義な議論ができるかを考えてみたい。やることは小学生レベルに簡単で、白い紙を取り出して、企業、社会(国)、個人の立場から教育がなぜ正当化できるかを表にしてみることだ。

ここから見えることはいくつかある。

  • 教育が正当化されるルートは「投資」と「福祉」の通路があるので、それぞれ評価基準が異なるだろう。
  • 「経済成長」が、GPDを伸ばすことではないということや、「デフレ」が物価とは関係のない概念だということもわかる。

まずは図を見ていただきたい。もちろんこの図は間違っている可能性があり、少なくともラフな部分を含んでいる。一番の問題点は複雑に見えることなのだが、実は大して複雑ではない。

高度経済成長期のモデル

3つのセクター(企業、労働者、社会(国))の問題はそれぞれ連関しているようだ。なんとなく線で結んだところ、今までなぜ「教育無償化」という声が上がらなかったのかがわかる。これが国を通らない青い通路だ。この世界では企業や事業体が成長していて、自社(あるいは営利目的の学校)で社員が養成できる。正社員は将来世代の教育資金を提供できるし、教育を受けるほど給与が上がるので学校への投資が正当化できる。そして、このループに乗った人は将来給与が上がるのである。だから「借金(奨学金という学生ローンを借りる)してでもループに乗れ」ということが言えたわけである。これが起こる理由もなんとなくわかる。経済が成長すると稼げる金額も上がる。したがって、教育投資に利子がつく状態になるのである。いったんこうした効果が出始めると、自己強化が行われる。

問題は人工的に成長を作ると経済が成長し始めるという仮説の妥当性にある。経済には成長のポテンシャルがあるのになんらかの原因で妨げられている場合にはこれが成り立つかもしれない。だが、ポテンシャルがなくなっている場合にはこの仮説は成り立たない。つまり、原因と結果に正のフィードバック効果があるからといって、結果が原因を導くということにはならないのである。

社会の失敗

ところが、なんらかの影響でこの青ルートが壊れることがある。この図の中にはうまく書けていないのだが、いくつか考えられる。たぶんこれ以外にもあるはずである。

  • 企業は成長しているがノウハウがなく社内教育できず、営利目的の学校でも知識が調達できない。これは可能性としてはあり得るが現実性はあまりなさそうだ。
  • 正社員として働けるが、将来世代の教育費までは捻出できない。
  • 教育を受けないことが脱落要因になっている。つまり、もはや奴隷的労働にしか従事できず自分の家庭は営めない。これが社会を縮小させる。国からは納税者がいなくなり、企業は労働者と消費者が調達できなくなる。

これが進むと社会が縮小する。企業は経済成長できず、国民(消費者、労働者)は豊かになれない。消費するお金がないのだから、良いサービスや商品が買えない。そこで賃金も払えない。そこで企業が成長するために必要な正社員を雇えないという負のループだ。色が付いていない線は二つの例外を除いて「縮小」を示している。

2つの例外

1つ目の例外は「個人や企業は投資としての教育ができない」が「国」は正しい道を知っており、ダウンループ(ダウンスパイラル)や定常化を逆転できるという見込みがあるときである。このストーリーが正のとき、社会が教育費を捻出するということが「投資」として正当化できる。つまり、自民党が「教育費の無償化をやりましょう」と主張するのであれば、これを国民に示す必要がある。実際はこんなことは起こりそうにないのだが、発展途上国ではあり得る話である。実際に明治政府が成立した時期にはこれは正だったのだろう。

もう一つの例外は定常化の道である。企業はこれ以上成長しないのだが、パートの収入でもかつかつ食べてゆくことができるという状態だ。パートは維持できるので教育は最低レベルでよい。村の人たちも周りを見ているだけなのでそれほどの不幸は感じないだろう。これは江戸時代的だ。江戸時代の後期には経済成長もせず、寺子屋レベルの教育で社会が回っていた。これが成り立ち得たのは、多分経済が閉じていたからだろう。つまり、鎖国すれば教育はしなくてもよいというような結論が得られそうだ。もう一つ定常化社会で賄えないのが福祉だ。

つまり定常化は、土地がまかない切れる人工が決まっており、それが合理的に計測できるときにしか維持ができないのだ。江戸時代は、土地が生産できる米の量は決まっているので、それ以上に増えると「飢えて死ぬ」しか選択肢がなかった。これは福祉も、金融(外から入ってきたり海外に流出したりする)のない世界だ。

二つの例外以外は縮小につながっている

二つの例外以外は経済の縮小につながっている。だが、これまでの議論を見ていると「経済が縮小した」ということを証明するのは難しいようだ。多くの人がなんとなく「経済が長期的に下り坂だなあ」ということを実感しつつも、数字には現れないという世界である。多くの人が「デフレ」というときに表現したいのは、実はこの状態なのではないだろうか。

間接的に「縮小」がわかるのは次の点だ。

  • 給与は下がりつつある。経済学者は周期的なサイクルに乗れば「いつかは」正社員の給料が上がるはずだと言っているが、そのいつかはこない。どうやら給与削減が経営のトレンドとなっているようである。
  • パートが圧倒的に足りず、人件費が経営を圧迫する。エクストラコストを払ってまでも外国人の低賃金労働者を雇っている。正社員を投入して成長させるような新規事業が見つからない。
  • 学生の半数はローンを抱えて卒業し、ローンを返せない人もでてきている。それどころか学生のときからブラックバイトにはまり学業を諦める人すらいる。これは投資としての教育が正当かできなくなっていることを示す。

正社員とパートという言葉が乱暴に使われている点に注意が必要だ。企業に付加価値を与える人を「正社員」と言っている。将来の成長の見込みがあり、エクストラコストを投資として支払える。これが家族への投資につながる人を「正社員」と言っており、通常の正社員の概念とは必ずしも一致しない。パートはマニュアル通りに働く人で将来の余剰価値を生み出さないので、一定のリテラシのある人たちをできるだけ安く雇うのが正しいし、教育のオーバーヘッドはネグれる(無視できる)ので、必要なくなれば雇い止めすれば良い。

エネルギー系としての教育

この拙い表と限られた知識から何となくわかってくるのは次の点だ。

  • 社会はエンジンのようなもので、回してゆくためには燃料が必要だ。
  • エンジンなのだから、早くなる・そのままの状態が続く・遅くなるという3つの状態が起こり得る。
  • 状態は系なので、個別を取り出して議論しても意味はない。
  • 「教育」は実は系に知識を燃料として投下しているということになる。

なんとなく最低限の知識で効率よく回してゆくのが良さそうだが、現実的には「エンジンの回転数が下がりつつある」ことが実感できるので、なんらかのブレーキ要因があるのかもしれない。

自民党、維新、民進党への批判

自民党と維新への批判は簡単で、もし「教育によりダウンスパイラルを逆転できる」が「企業や労働者が探せていない見込み(いわゆる成長分野)」があるなら、それを提示せよということになる。企業や労働者の方が情報を多く持っているはずなので、儲かるセクターがあれば民間が先に手をつけているはずだ。だから、国がわざわざ出張ってくる必要はないのではないだろうか。自民党は同じようなことで一度失敗している。それが社会インフラの整備(つまり公共事業)である。

一方、民進党に対しての批判は少し込み入っている。まず教育を未来への投資であるとするなら、なぜ国が関与するのかという点を明白にする必要がある。先に見たように2つの通路がある。これは自民党と同じことを証明するだけで良い。

さらに福祉であれば、どれくらいの規模の余剰資金があるのか、いつまでこの状態が維持可能なのかを提示すべきである。民進党は「消費税など」を使って無償化を行うべきと提案しているのだが、どうやら消費税は所得勢や法人税の穴埋めに使われているようだ。つまりダウンスパイラルに対応する税なのである。同じことは保育にも言える。従業員に働いてもらうための投資なのか、困窮者のための福祉政策なのかが分からなくなっている。

まとめ

 

教育も何も知らない素人が、一枚お絵描きしただけで勝手なことを言うなという批判は考えられる。だが、実際にはこうしたお絵描きからわかることはたくさんある。日々の情報収集に追われているとなかなかそれを結びつけることができなくなる。一度新聞やTwitterから離れて、白い紙を広げてみるのも面白いかもしれない。

 

 

「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。