「悪気がないから」といって全体主義の萌芽を許してはいけないわけ

先日、ある識者が「沖縄方言は標準文法と語彙が整備されなかったので独立した言語ではない」と言う論を展開していたのを見た。最初はネトウヨ目当ての記事だから目くじらを立てるのもどうかと思うのだが、しばらく寝かせていて考えを改めた。これはとても危険な試みのように思えてきたからである。

以前にアイヌ語について同じことを言っている人を見たことがあるので、こうした筋の議論はネトウヨ界隈では定説になっているのかもしれない。絡まれると怖いので原典はリンクしないが、まとめるとこんなことを言っている。

沖縄の人たちが話してきた琉球言葉は日本語と同系統の言葉だ。方言言なのか別の言語なのかといえば、独立した言語として成立するためには、文法がしっかり整備されたり、辞書が編纂されたりすることが決め手だが、そこまでに至らないまま明治時代に完全に日本に併合され本土の言葉が普及した。

この記事が許容できないのは、この考え方が帝国主義の文脈を持っているからである。

この文章は「ウーマン村本という人の妄言をただす」というようなタイトルになっており、人を教化する文脈で国際的には受け入れられそうにない主張をあたかも正解のように語っている。これをリベラルな人たちが読むとも思えないのだが、保守思想に共感する人たちに「正解」として普及し、実際にマイノリティの攻撃に使われる。そこが問題なのだ。

この主張を展開すると「ある一定の時点までに文法と語彙が整備されれば主権を持った言語として認めてもいいが間に合わなかったから方言的ステータスになる」と言っていることになる。これはある時点までに主権国家ステータスが得られれば主権国家格が得られるがそうでない国は植民地になっても構わないというのと同じ言い方になる。

「そんな大げさな」と思う人もいるかもしれないのだが、もともと言語・方言論争というのは極めて政治的な色合いが高い。多くの主権国家が国内でマイノリティを踏み台にしてから海外に出かけていったという歴史がある。彼らは出かけた先でさらに遅れた人たちを目にして「神様に選ばれた」という過剰な選民意識を募らせてゆく。この動きはイギリスやフランスなどから始まり、ドイツや日本は遅れて植民地獲得競争に乗り出した。最終的に起こったのが第二次世界大戦だ。

何が言語で何が方言かという議論に科学的な根拠はない。例えば、一般的にスペイン語とポルトガル語は別の言語だとされている。それぞれの言葉を公用語とする地域があり、これを同一言語という人はいないだろう。だが、この二つの言葉には語彙にも文法にも方言程度の違いしかない。

スペイン語とポルトガル語が兄弟のような関係にあるのに比べて、スペインの域内にあるカタルーニア語はオクシタニア・ロマンス語という別のグループに入っている。オクシタニア・ロマンス語はスペイン東部からフランス南部で話される言葉であり、一般的には「スペイン語」と「フランス語」と見なしうる言語が含まれている。実はフランス語も別のグループに入っており、フランス・スペイン圏は三つの異なったラテン語系の言語群を抱えていると言える。

シノドスにカタルーニアの独立運動についての歴史が書かれている。スペイン中央政府はカタルーニア語の使用を禁止する弾圧を行った。これが現在まで尾を引いており独立運動まで起きているということはすでによく知られている。

極めて不安定な政情の中で自治が開始されたが、それも軍のクーデターが引き金となったスペイン内戦(1936~39年)の中でついえ、内戦後に成立したフランコ独裁体制は、民族主義的な政治・文化活動はもちろんのこと、カタルーニャ語についても公的な場での使用を禁止した。

こうした複雑な事情を抱えるのはスペインとフランスだけではない。イタリア語も実際には西ロマンス語と南ロマンス語という別のグループに割り当てられる方言(あるいは言語)群から成り立っている。標準イタリア語があり文法と辞書が整備されているからその他の言語は方言にしかならないという定義をイタリア人に説明すれば、多分かなりの反発を受けることになるだろう。これはイタリアでは政治的問題化してい、北イタリアは独立こそ求めないが自治権を充実させて税金の使い道を決めたいという動きがある。

方言か言語かという話がセンシティブなのはマジョリティの側がマイノリティの言語を「単に方言だから」とみなして弾圧した歴史があるからだ。例えばフランスは特に非ラテン語系の言語を中心に弾圧した歴史がある。これについてよく知られているのが「最後の授業」である。ある年代の人たちは国語で習ったのではないか。

「最後の授業」はプロシアに占領されてフランス語が教えられなくなった教師が「ビブ・ラ・フランス(フランス万歳)」と唱え、それを聞いた生徒が真面目にフランス語を勉強しなかったことを後悔するという筋の話だ。しかし実際にはアルザス地方ではドイツ語系の言葉が話されており少年がまともにフランス語を話せないのは当たり前だった。当然少年は学校でフランス語以外の言語を禁止されていたのだろうから、少年にとっては「ドイツ語系の言葉」の解放であったはずでそれを悲しむはずはない。

この話のポイントは「フランス語こそが美しい言葉であって、ドイツ語などはくだらない言葉である」という国内向けの意識づけだ。言語を方言と貶めたりまた方言を言語化したいという欲求は民族意識と結びついている。だが、このような民族意識は一方で大きな反発を生むのである。

イギリスでもウェールズ語などが禁止された歴史がある。

アイルランドと異なり,スコットランドやウェールズは,早い段階からイギリスに併合されていた. 1536年にウェールズがイングランドに併合されると,ウェールズ語が英語よりも劣った言語と見なされ,法廷で は英語使用が義務づけられた.さらに1870 年の教育条例により,ウェールズ語使用を禁止する運動(Welsh Not )も起こり始める.同時期の産業革命の影響と相俟って,19 世紀中盤からウェールズ語話者が急激に減 少し,その後 世紀に入っても減少傾向は止まらなかった.

ヨーロッパにはラテン語系・ドイツ語系・スラブ系・ケルト系・バスク語などの様々な系統の言語があり、支配層と被支配層が異なった言葉を話していた地域も多い。

こうした同化政策は日本にも取り入れられ「方言札」を使って沖縄や南洋諸島で現地の言葉を使う人たちを辱めたという歴史がある。だから「帝国主義の文脈で語られるのはヨーロッパだけで日本は関係ない」とは言えない。日本が民族国家として主権格を求めた時に同時に行ったのが同化政策だったので、むしろ「正しく理解したが故に同化政策を推進した」という方が正しい。琉球の方言と同じくアイヌ語もこの文脈で禁止されている。前回見た「アイヌ語は言語ではない」が有害な理由は、こうした帝国主義的な歴史と関係がある。そして、それを朝鮮半島に拡大し名前を変えさせたりした。その時も強制同化策とはいわず「かわいそうな朝鮮人が希望をしたから氏を与えてあげる」とやったのだ。

さらに、現代でも日本は沖縄に米軍基地の大半を押し付けている。本土の我々がそれほど罪悪感を抱かないのは、やはり本土とは違った歴史のある特殊な地域であり、我々には関係ないと思っているからだろう。つまり、沖縄と本土の間には差別・被差別の関係があり、本土がそれを容認したままで日米同盟に依存しているというのは、残念ながら否定しがたい事実だろう。

しかしながら「言語を否定されても同化させてもらえるならいいではないか」という次の疑問が浮かんでくる。これを明確に否定するのがアーレントである。「全体主義の起源」は民族国家の中で起こった過剰な同化欲求が異物を排除する過程で「皆殺しにしてしまえ」というほどの脅威に変わってゆく姿を検証している。その脅威は国民の間から「自発的に」湧き上がっており、最終的にはその国民全体を巻き込んだ悲劇に発展した。

このことから、同化欲求や言語の序列化が無知から来るものであった方が悲劇性が高くなりそうだということだということがわかる。わかって扇動している人たちはまだ意識的にやっているのだろうからある程度で歯止めが効く可能性もある。しかし、わからないでそうした枠組みを植え付けられた人たちにそうした歯止めはない。当然のことのようにしてそれを選択しそれに慣れてしまう。そして、その先に何が起こりうるかということは考えない。

だから「ある言葉は言語であり、別のものは方言である」とか「民族として優れた文化がないから否定しても構わない」という主張はその都度潰しておく必要があるということになる。また、そうした主張は社会を滅ぼしかねないということも明確に知っておくべきであろう。

アイヌ語がないならば日本語もない

さて、二日に渡って反論に時間を取られてしまったので本題に戻りたい。先日来、ネットにある「アイヌ語などなかった」という反論について考えている。

この問題に着目するに至ったきっかけは「アイヌ語には標準語がなかったからアイヌ語は存在しない」という反論だった。この論を取ると明治期以前日本語という言語はなかったことになる。例えば薩摩ことばと会津ことばは違う言葉であり、明治期以前には標準日本語という概念はなかったからである。

単にそれはアクセントと用語のばらつきの問題だと思う人がいるかもしれないのだが、例えば福岡の言葉で「バスがこちらに向かっている」時、二つの別の言い方をする。

  • バスが来(き)とう
  • バスが来(き)よう

東京の人には同じに聞こえるかもしれないのだが、前者はすでにバス停にバスが停まっていることを示しており、後者はバスが今到達しようとしている(つまりまだ着いていない)ことを示している。たいていは副詞を伴って、もう来とうとか、いま来ようなどと表現する。

こうした言葉を学校で習うことはないので、ネイティブスピーカーは明確に分別しているわけではない。このため文法と実感はやや異なって捉えられているように思う。

  • 雨が降りよう :  雨が今降っている。今見ているからわかる。文法的には現在進行形にあたる。
  • 雨が降っとう :  雨が今降っているかあるいは降っていた痕跡がある。ただし「降っとうと」というと、今降っているのかと質問していることになり、過去に降っていたことを質問する「降っとったと」と弁別される。現在完了形に当たるのだが、実感には揺れがある。
  • 雨が降りよった・雨が降っとった : 雨が降っていた(自分が見て雨が降っていたことを知っている)が今は降っていない。過去進行と過去完了だが、いずれも過去のことなので実際には弁別されない。

つまり、福岡のことばには標準語や東京方言にはない現在完了形があるのだ。

相手の言語がないということを証明するためには言語の定義をしなければならない。そのために幾つかのツールを発明することになる。例えばそのツールを使うと実は自分たちの言語もなかったことを証明してしまうことがある。

もちろん、こうした反論が顧みられることはないだろう。「アイヌ語がなかった」という人はアイヌ語にも日本語にも興味がなく、単に「先住民族という名目でお金をもらっている人」に嫉妬しているだけだからである。だから、学問的には相手にするだけ時間の無駄だと言える。

もっとも、学術的に「アイヌ語と日本語は似ている」という人はいる。これだけでなくアイヌ語と南西諸島のことばは似ているという人もいるし、もっと南下して台湾の諸言語と似ているという人もいるそうだ。

多総合性という分析ツール

アイヌ語を見る上で言語学者が注目する特徴の一つに「総合性」という概念があるそうだ。孤立語、屈折語、膠着語という区分の他に、総合的言語と分析的言語という区分があるというのである。Wikipediaのいささかわかりにくい説明によると、総合的言語には極めて総合性の高い言語とそうでないものがあり、アイヌ語は極めて総合性の高い言語にあたり日本語はそうでない言語に当たる。

この総合性の高い言語の中には、ポリシンセティック(多的総合)という概念とインコーポレーティング(包合)という概念があるそうだ。この概念は二律背反するものではなく、ポリシンセティックでインコーポレイティングな言語もあれば、どちらか一つの性質しか持たないものもあるとされている。

この論文は総合性の高い言語のうちの多総合的言語としてのアイヌ語に着目している。ベイカーという言語学者の多総合的言語(ポリシンセティック)研究をベースにして、アイヌ語の性質をアメリカ大陸の諸言語との関係について言及しているのである。

アイヌ語の多総合性は「包合語」という概念でも語られる。これは動詞に様々な要素をつけてあたかも一つの文章であるような性質を持たせるという日本語にはあまり見られない統語方法だ。

日本語とアイヌ語を同系言語だという人がいるのだが、文法的には対極とはいえないまでもかなり違った言葉だとは言える。例えば日本語は「私は書く」というように、名詞にマーカーをつけて文法的な役割を持たせるのだが、アイヌ語では動詞に人称接辞がつく。このため「彼が言った」と「私が言った」は同じ語感を持つ別の動詞になる。逆に名詞にはマーカーがつかない。

もう一つの隣人 – 台湾諸語

ここまではアイヌ語と日本語の関係を見てきたのだが、日本の南部には台湾諸語という全く別系統の言葉がある。これは中国語とも違っているし、沖縄県で話されるうちなーぐちとも全く違っている。日本語千夜一話というウェブサイトでは台湾諸語について言及している。台湾諸語の特徴は、動詞が先にくる点、狭い範囲にお互いに意思疎通しない言葉(母音の数も言語によってかなり異なる)が混在しているという点と、接頭・接尾詞を使って言葉を増やすという点らしい。

総合性は極めて高いと言えるが、台湾諸語は包合語ではなく日本語と同じ膠着語として扱われているようだ。動詞が先にくるという特徴があり、極めて動作を重要視した言葉であると言える。一方日本語は動詞や結論は文の最後にくる上に主語が省略されるところから、極めて対象物への関心が高いという言語だ。主語が意識されないことから、発話者が思い描いた心象がそのまま特定されずに表現されると言っても良い。

それぞれの言語は異なった考え方をする

先日Twitterで「北朝鮮はアメリカのミサイルで日本がうちおとせる」という表現を目にした。学校では「〜は」は主語を作ると教わるのだが、英語的な構文にすると、日本がアメリカのミサイルで北朝鮮をうちおとすとなる。つまり、この人の頭の中には北朝鮮という対象物が想起されたのでそれを念頭に置いているということになり、それが必ずしも文法上の主語でなくてもよいということになる。そしてそれを整理しなくてもなんとなく伝わる言葉なのである。

統語法はある程度思考を支配するということがわかる。その意味では、日本語は、文法を意識して明示的に情報を伝えようとする英語や中国語とも、動作を問題にする台湾諸語とも違っているということがわかる。

古い言葉には同じような性質がありそれがモダンな言語になるに従って分析的な性質が出てくるのだという言い方もしたくなるが、それも断定的なことは言えない。もっとも、英語や中国語のように話者が増えてくると文法的な複雑さが失われ、狭い範囲で話されている言語ほど複雑な総合性が現れるという特徴はありそうである。台湾では中国語が広く使われているし、北アメリカでも英語が流通する。多分複雑な文法を持っている人たちにとっては、中国語や英語の方が簡単な言語に思えるだろう。また、より多くの人たちに通じるという意味では「より優れている」(あるいは便利である)と言えなくもない。日本語はある程度の複雑さを残しながら域内の支配言語になったという特徴があると言えそうだ。

一つだけ確かに言えること – 日本語世界の複雑さ

もちろん、近隣言語を見ただけで日本語の起源などを軽々に語るべきではないのだが、一つだけ確かに言えることがある。日本語は全く異なった言語の結節点にあるということである。よくウラル・アルタイ系とひとまとまりに扱われる膠着性の強い言語群と台湾諸語のように動詞が文頭二くるオーストロネシア語、そして、北アメリカとシベリアにつながる多総合的言語に囲まれている。さらに、後世になって孤立語的な特徴を持っている中国語から何回にも渡って単語を取り入れている。

改めて各言語との文法上の関係を示すと次のようになる。その複雑さは、あるパーツを取ると近接言語と極めて近いのだが、かといって別のパーツは全く異なっているという具合だ。これを見ていると「日本語などという固有言語はない」と言いたくなってくる。

日本語と中国語:中国語には語尾はないのでわざわざカナを発明して語尾を記述しなければならなかった。つまり、文法構成は全く異なっている。ただし、日本語が多くの言葉を中国語から借用したので、辞書だけを見ると同種の言語ではないかと思えるほど似通っている。さらに、時代じだいに異なる音を模写したので、化石のように様々な読み方が保存されており、日本語の方が中国語の古い特徴を残しているということさえ言えてしまう。日本語は中国語から単語を取り入れた経験があり、英語の単語や概念を取り入れる際にも役立っている。「〜する」とつければ英語の動詞が全て日本語として利用可能なのである。

日本語と朝鮮・韓国語:固有語の語彙は全く共通しないのだが、’文法的には極めて近く偶然では説明ができない。例えば、〜がいます・ありますという言い方があったり、「は」と「が」の使い分けがあったりする。敬語という概念も共有するが、儒教発祥の地である中国語には複雑な敬語体系はないので文化的なものではなく言語的な特性といえそうだ。しかしながら、朝鮮・韓国語の動詞の活用は三段しかなく日本語の方が複雑だ。また「は」と「が」は基本的に同じように使い分けられるのだが微妙な違いもある。さらに日本では無生物と生物を区別するが朝鮮・韓国語はどちらも同じ言葉を使う。また、敬語も絶対敬語・相対敬語という違いがある。

日本語とオーストロネシア系言語:台湾諸語を含むオーストロネシア系言語と日本語は音節が似ているという説があるのだが、実は台湾諸語の中でも音韻にはかなりのバリエーションがあり確かなことはいえない。接頭語・接尾語が豊富だったり、畳重現象という共通点を指摘する人もいる。ただし、祖語を構成するほど強い関係性は証明されておらず、主に日本国内でしか通用しない私論がいくつか見られる程度である。

アイヌ語とオーストロネシア系言語:アイヌ語も台湾諸語も日本語(南西諸島のことばを含む)よりも複雑性が高い。ただし、これが系統的な類似なのかあるいは古くからある狭い地域で話される言語に特有の特性なのかということはわからない。アイヌ語には北アメリカ諸言語との共通性がありこれが全く偶然のものとも考えられないが、オーストロネシア系の言語と北アメリカ系の言語の類似性を解く研究はなさそうだ。

いずれにせよ「アイヌ語がない」という証明をする過程で「実は日本語などない」という結論に至る可能性の方が実は高そうだ。例えば語彙の変化に着目して、日本語は中国語の一部であると言えてしまうし、文法から見ると日本語は語彙が違う朝鮮語の一亜種であるというめちゃくちゃな結論さえ導き出せてしまう。もっとも楽な結論は日本語は近隣の言葉から様々な要素を取り入れており、独自の言語体系を作り出したのではないかというものである。

かつて「このままでは日本語が滅びる」というようなテーマの本が売れたことがあったのを思い出した。家族の価値観が崩壊すると民族の誇りが……などという人もいる。しかし、その論法だと日本語は中国語にとうの昔に滅ぼされていることになる。しかし、実際には「〜する」とか「〜的な」という膠のような特徴があるせいで、中国語が日本語の一部として取り込まれただけだった。多分、日本語が滅びる論者は悪い夢を見ているか、日本語の特性を過小評価しているのではないだろうか。

日本の独自性はその複雑さにある

もちろん「アイヌ語などなく日本語しかなかった」というような暴論を考察する価値はないのだが、それを緒にして調べてみると日本語についての理解が深まることがわかる。

日本人や日本語について考えるとき「その独自性」について言及する人は多い。しかしながら、実際に感じる日本語世界の魅力はその雑多さにある。全く異なった世界の結節点にありそれらの特徴を貪欲に吸収しつつ結果的には極めて独自性が高い言語世界を形成していると言えるのではないだろうか。

日本人の政治的議論が折り合わないわけ

噛み合わない議論に巻き込まれた

先日書いたアイヌ民族についての文章に反論が来た。読んでみたのだが何が言いたいのかさっぱりわからない。最終的にはTwitterで返信をもらったのだが要領を得ない。引用はやめてほしいと言われたので、まとめると次のようになる。

「アイヌ民族などいないという文章は気に入らない」「読んでみると合意できる点も多いのだが」「やはりアイヌ民族などいないという文章は世間に悪用される可能性がある」

実際にはもっと長い文章で、散発的に二時間くらいかけて送られてきたので「こんなに短くまとめる」ことに対して反発はあるかもしれないのだが、実際の論理構成はこんな感じなのである。

最初は理解しようと思ったのだが、散発的に送られてくることもあり、途中で読むのが面倒になってきた。文章を書いた以上は話を聞く義務があると思うと反面、もうちょっと効率的に反論してくれればいいのにとも思った。

だが同時に、日本人特有のある構造がわかって面白いなとも感じた。

この人が問題にしているのは文章ではなく「周囲の評判」のようだ。この人は普段から「アイヌ民族などいないから補助金は返すべきだ」という主張について反論している。だから、このブログのタイトルにも反応したのだろう。

だが、冷静に考えてみるとこの文章を否定しても周囲にいる「アイヌ民族などない」という人たちの意見を変えることはできない。このように、対話をしている当事者と実際に問題になっている人が違うというのは実は日本人の政治議論を考える上でかなり重要なポイントなのではないかと思った。

日本人の会話が噛み合わない独特の構造

これがこの人特有の問題なのであれば特に文章を起こそうとは思わなかったと思うのだが、同じような特性は左翼リベラル系の人たちに多く見られる。

憲法第9条の<改悪>に反対している人たちに、例えば「あなたが想定する戦争とは何か」とか「憲法第9条には項目がいくつあるか」などと聞いてもまともな答えが戻ってこない。同じように共産党の支持者に「現在の労働者は株を買って資本家になれるし、正規労働者の組合はむしろ非正規を搾取する立場なのでは」などと聞いても同じような曖昧な答えが返ってくる。

どうやら彼らは対象物についてはさして興味がなさそうだ。最初は自分が部外者でリベラル村の住人ではないから「相手にされていないのだな」と思っていた。

  • まともに返事をくれないのだから、部外者扱いされてまともに取り合ってもらえない。
  • 相手に質問を理解する能力がない。
  • 実は相手は対象となっている項目に関心がない。

しかし、今回の場合、反論してきた人はトピックについて勉強はしているわけだし、まとまった文章を書いて反論してきたのだから意欲はあることになる。にもかかわらず同じような特性が見られるのはどうしてだろうか。

この人と話をしていて思ったのは、実は「あなた」ではなく「世間」が問題なのだということだ。つまり話を聞いてあげているつもりになっていても、実は最初から問題にされていないのである。

同じように憲法問題について話を聞いても、護憲派は実は話を聞いてくれない人に向けて語りかけているので、僕の顔など見えていなかったことになる。と同時に、話を聞きに来た人を説得しないのだから、いつまでたっても状況は変わらない。だから、日本のリベラル左翼の運動はあらかじめ失敗することが約束されているのではないだろうか。

何重にも世間に絡め取られている日本人

ここまでがワンフォールド(一折)である。これだけでも十分ややこしいのだがここにもう一折入る。それが日本人は個人の意見はなかったものとして考えるという特性である。例えば、人権や平和主義について考える時「私はお互いに思いやりのある国に住みたいから、人権を蹂躙するような発言には憤りを感じるのです」と言えばよいのだが、日本人は個人が意見を持つことを徹底的に嫌うので「世間はこうあるべきである」という風に課題をおいてしまう。

論の根拠というか出発点が「世間」に置かれており、さらに説得するのも「世間」なので、当事者同士で話をしても全く折り合いようがない。「世間」の意見が変容するとしても意見を変えるのは個人なので、意見変容が起こらないからだ。「Twitterの議論は無駄」という話はよく聞くが、その理由は当事者がそこにいないからなのではないだろうか。

今回も「アイヌ問題があなたにとってどう大切なのか」ということを聞いてみたのだが、やはり世間を主語にした言葉が返ってきた。さらに「何かの団体に属しているわけではなく」「世間にどんな波紋があるかわからない」ので自分の意見を発信する意味はないという言葉までが戻ってきた。

普段から「日本人は個人を徹底的に否定する」などと書いているのだから、こうしたことはわかっているつもりなのだが、実際に自発的に徹底して個人を排除しようとする姿をみるとやはり異様に思えてしまう。政治的にあるポジションにかなり強力にコミットしているのに、なぜここまで個人を消したがるのかということがさっぱりわからない。

この徹底的に個人を排除するという姿勢は「意見表明」や「情報発信」では顕著である。これは表面的に見えるのでわかりやすい。しかしその裏には意見訴求の相手としての個人も受け入れられないという側面が隠されているようだ。これが今回の一番の発見だった。

ところがここでさらにもう一折入る。個人の意見が何もないのにポジションにこだわるのは「自分の主張がどの程度受け入れられるか」ということが社会でのポジションの誇示につながるからだろう。だから、根拠が個人にない意見を表明してポジションにコミットするとそれを変えられなくなってしまう。社会ポジションを認知するのも当事者ではなく「世間」である。

さらにこの世間は個人の価値観の中にも入り込んでいる。主婦には社会的な価値はないという世間の評価を一番内在的に持っているのは主婦当事者だ。そこで「子育てをしている女は無価値である」という評判を聞くと「全てが否定された」気持ちになる。

ここまで考えてきただけでも、日本人は四重に「世間」に絡め取られていることになる。実際には個人の価値観と世間の評価の間には反響があるのではないかと思う。このようにして、世間はある蜘蛛の巣のように個人をからめとっているのではないだろうか。

憲法議論の錯綜

さて、この個人の徹底的な排除は政治議論にどのような影響を与えるのだろうか。ここではいくつか例をあげて見て行きたい。

まず手始めに憲法議論について考えてみよう。実利的な問題には落とし所があるが憲法問題は自由に決められるので却って落とし所が見つからなくなるという特性がある。

安倍首相はどうやら憲法を変えたいと思っているようだ。だが彼の成育歴を紐解くと「おじいさんのため」あるいは「お母さんから言われたから」憲法が問題になっているということがわかってくる。つまり人から言われたからそうしたいと考えていることになる。

やっとのところでそれを自分の問題だと消化したところで、今度は周囲から「勝手に憲法を変えようとしている」と言われる。そしてそれを言っているのは主に身内である。

だが、自民党の人たちが憲法を大切に考えているようには思えない。支持者を得るために急進的な人たちに近づいた形跡のある人もいるようであり、安倍首相の人気が高いから従っておこうと考えている人たちもいる。

そこで、集団でなんとなく何か変えればいいのではないかということになる。あるいは野党時代に作ったように誰が主導したのかはわからないが徹底的なルサンチマンによって成り立ったドラフトもある。この結果、自民党の憲法議論は、誰も最終的な責任を取らず撤回もされなければそれを元に議論するでもないというとても中途半端なアイディアが次から次へと浮上してくる。

さらにこれに反対する方も「議論の中身はよくわからないが」とにかく「自民党が言い出したことが気に入らない」という人たちがいて「自分の意見ではないが」「別に実質何も変わらないのなら憲法を変えなくてもよいという空気がある」などと言っている。

ここまででも十分複雑なのだが、この二つのパーティーの間の議論は実は当事者間のものではない。憲法に興味がなくなんとなくその場の雰囲気に飲み込まれて判断しそうな「一般有権者」が問題になっている。賛成派はタレントを巻き込んで宣伝すれば世間が流されるだろうと考えており、反対派は有権者は馬鹿だから軽々な判断をしないように釘をさしておこうとする。

つまり、皆が重要だと言っている憲法を本気で変えたいと思っている人は誰もいない。興味がない人がいかに自分に都合が良い判断をしてくれるかということを期待しているという人ばかりが議論に参加しているのである。

日本人が無駄な議論を繰り返しているうちに、憲法第9条の議論だけを見ても、前提条件になる東アジアの勢力図は急速に変わりつつある。ここ一年だけを見ても数ヶ月の間に北朝鮮を封じ込めるという姿勢から対話路線へと急速に転換しつつあるのだが、国内の議論がそれを織り込んだ様子はない。

「国際世論への訴求」という不毛

この「実際のキーパーソンが議論の中にいない」問題は国際問題にも波及している。例えば慰安婦問題も韓国と日本の問題のように思えて、実は当事者は「アメリカ」だろう。日本政府は、韓国や慰安婦の人たちにはさほど関心はない。このために、謝罪がとてもおざなりになものになり「日本は金で口封じをしている」という印象が韓国人の態度を硬化させる。

ここまでは主語を日本人と置いてきたのだが、実は韓国の方も日本を問題視しているわけではなさそうだ。だからサンフランシスコに銅像が立つ。韓国人の目的もまた「被害者としてのかわいそうな姿勢を世界(特にアメリカ)にアピールして「日本人の顔に泥を塗ること」なのだろう。

そう考えるとなぜ日韓合意にアメリカが関与したのかがわかってくる。どちらもアメリカに対して自分たちの立場を認めさせたいのではないだろうか。

このことから「世間を問題にする」というアプローチをとるのは何も日本人だけではないということがわかる。極めて東アジア的とも言えるしもしかしたらアメリカなどの個人主義の国にも同じようなことが起こり得るのかもしれない。

アメリカなどの個人主義の国には、世間の態度を変容させるために個人の意見を変えるというブレーキがある。日本や韓国のような集団志向が強い国ではこうしたブレーキが効きにくいのではないかと考えられる。多分アメリカは「当事者間で話し合ってくれ」というのだろうから、この慰安婦の問題が解決することはないのかもしれない。

解決策を個人を大切にすること、なのだが……

ここまで見てくると「個人の意見を重要視すれば政治的な問題は解決する可能性が高い」ということがわかる。一人ひとりの意見を変えて行けば、やがて世間も変わるからだ。だが、実際に政治的議論をやってみるとそもそも個人として問題提起するのも難しく個人としての意見を貰うのも困難だということがわかる。

もちろん、適切なモデレーションがあればそれなりに意見交換することはできるのだが、それはとても疲れる作業でもある。このためついつい「問題をなかったこと」にして異なる意見をブロックしたり、相手を人格攻撃したり嘘を並べてたりして議論そのものを無効化しようとする態度が横行するのではないかと思った。社会からはじっくり腰を据えて議論をする余裕や時間はなくなっており、気に障る意見は次から次へと流れてくる。

個人にアクセスしないかぎり政治的な問題は何も解決しない。そのうちに年収が200万円以下というアンダークラスや、政治的議論に参加する時間的余裕も精神的余裕もない中間層などが生まれて、どんどん政治や社会問題に対する関心が薄らいで行く。さらに、それがアンダークラスを増加させるという悪循環が生まれるように思えてならない。

個人の意見を大切にしないということは、実は我々の社会に大きな弊害をもたらしているのではないかと思う。