杉田水脈を非難する人はすべて死刑廃止論者でなければならないと思う理由

このところ、オウム真理教の問題と杉田水脈議員の問題を考えている。前者は国家が人を殺してもいいのかという問題であり、後者は生産性のない人間は生きていても仕方がないのかという問題だった。どちらも命の選別を扱っている。この両方を一緒に考えることで日本人が西洋とは違った世界を生きていることがわかる。敬語世界を生きている上に、絶対神がいないので人間がいろいろなことを決められるのである。

オウム真理教の問題でジャーナリストの江川紹子が面白いことを言っている。江川さんは自身も被害者(事件化はされていない)なのでオウム真理教に対して処罰感情があるようだ。教祖の死刑は仕方がないことだと考えている。だが、命令を下したのは教祖一人でその他の人たちは別だとも考えているようである。彼女は麻原彰晃元死刑囚は処罰されるべきだと考えているので正気に戻った教祖に事件について聞くべきだったと主張する人に感情的とも言える反応を示す。

だが、一方で弟子たちについては真相究明に役に立つと考えているようである。

面白いのはこの議論のもとになった森達也という映画監督の人も江川さんも「役に立つ人は死刑を執行しないで調査を進めるべきだ」としているという点である。田原総一郎も同じようなことを言っているところをみると、これは日本人に共通する態度らしい。

つまり、役に立つ人と役に立たない人を峻別して、役に立たない人は先に執行しても構わないと江川さんは考えており森さんも「役に立つことがあるのだから」という点を論拠にして死刑をやるべきではないと考えている。この論争だけを見ると彼らは対立しているように思えるが、実は同じ立場に立っている。

ヨーロッパの死刑廃止論もかつては犯罪抑止や冤罪の回避などの機能論によっていたようだが、実際に死刑が廃止されてしまうと「国家は人の命を奪う権限を持ち得ない」というイデオロギーにとって代わられる。ドイツ政府は「死刑は野蛮だからやめるべきだ」と言っている。いったん社会的了解ができてしまうと「死刑を行っている国は遅れている」という感覚が生まれる。これはかつてあった仇討ちが禁止されてしまうと「それは前近代的だ」という感覚が得られるのに似ている。だが、武士社会においては「家族の心情や伝統はどうなる」という反発があったであろうことが予想される。つまり、日本は未だに国家が国民にかわって「仇討ち」をする制度を温存していると言える。

日本人は「その判断が正しいならば、他の人間が命を奪っても構わない」という社会を生きていることがわかる。これを杉田問題に展開すると面白いことになる。杉田さんは「生産性のない人間に補助をすべきだろうか」という問題を提起した。また別の自民党議員も限定的人権論に立っている。

これを広く捉えると次のような定義が得られる。それは、生存を許されるのは社会に許容された人たちだけであって、誰が生きて良いのかは私たちが決めるということである。Twitterや新聞ではこれに対する反対記事がたくさん出てくるので、国民の間に反発があることがわかる。

だが、人々は何を反発しているのだろうか。

死刑判決を受けた人の中でも「役に立つ人間は生かしておいて利用すべきだ」という論に反対する人はあまり多くないのだが「自分が役に立たないと認定されたら殺されても構わない」という人はそれほど多くない。これは日本人が「限定的肯定感」の世界を生きているからであろう。

だが、これを「絶対神的世界」を生きている人が同じことを考えると、「他人にそういうルールが設定されたのだから、自分にもそのルールが設定されても文句は言えない」ということになる。日本人のように意思決定を保留しておいてその時に都合の良いように考えようとは思わないからだ。

だがその肯定感は限定的なので「生産性がない」と「世間から」認定されたら姥捨されかねないという恐怖感は芽生える。だから、自分には生きてゆく正当性があるということを証明しなければという気分になってしまうのだろう。

Twitterで「寝たきりになった人であっても世話をしている誰かに給与が支払われているから生産性がある」と主張するTweetをみかけた。これはGDPへの貢献を「生産」と見なしており、生産性と生産を誤認しているのだが、その裏にあるのは、役に立たないと認定された人であっても役に立っているとみなされるべきだという止むに止まれぬ気持ちなのだろう。ただ、これを受け入れてしまうと、経済効率性があげられるように効率的に世話されなければならないということになってしまう。人間の価値はGDPへの貢献で決まるということを受け入れてしまっているからだ。介護される人はものではないのだから、ちょっとこれは受け入れ難い議論であろう。

この議論から抜け出すためには「どんな人であっても生存権や人権などが奪われてはならない」という前提をおかなければならない。つまり、限定条件をなくしてやる必要がある。

だが、絶対神の概念を持たず、人間が恣意的に条件を決める日本人にはなかなかこの点が認識し難いのかもしれない。

基本的人権を受け入れた人たちはおのずと死刑の廃止論に傾くのではないかと思う。そうしないと自分の生存権も限定的なものだということを受け入れざるをえなくなり、いつまでも不安がつきまとうからである。

上川法務大臣はいったい誰に向けて説明(いいわけ)をしたのか

死刑廃止議論についてインプットをいただいた。ヨーロッパではフルの人権の一つとして捉えられているということである。つまり、人間には自分の命は自分のものであるという考え方があり、たとえ犯罪者であってもそれは変わらないというのだ。

この意見はよくわかるのだが日本では理解されにくい議論であるとも言える。が「日本では理解されないだろう」というのが「俺は理解しないけどね」と取られたのかもしれない。すこし情報交換が続いた。

「人間には間違える可能性があり」「自分の命というのは神様に許されて存在している」というキリスト教の漠然とした了解が基礎にあるので、死刑がいけないことであるのは明白である。その論点から見ると堕胎もいけないことということになる。アメリカでは「プロライフ」という。個人的にはキリスト教の実践者ではない(教会に通っていない)のだが、なんとなくこの了解に従って自分の意見を決めている。だから個人的には死刑には反対である。法的な言い方をすれば「冤罪の危険性が排除できず、その間違いを補償できる人がいないから」反対ということになる。再審請求が受け入れられて無罪が確定した事例は実は少なくない。また袴田事件のように再審請求は棄却されたものの再収監されないというケースも出てきている。結局「よくわからない」という事件も多いのだ。

かといってこうしたキリスト教的な心情を日本で吐露しようとは思わない。神社で「神様は主のみなので手を合わせない」というようなことは、かつて言っていたがいまは言わない。と同時に書き物をするときにも、日本的な心情を合わせて書くようにしている。そうしないと意外と反発が起きる。

その立場から見ると日本人がキリスト教的な人権意識は持っていないというのも確かだと思う。日本人には絶対的な神というものをおかないどころか、絶対的な権力者という存在スラ理解しない。代わりにムラが了解すれば村人を断罪して命を奪っても構わないという心情があるように思える。ある意味極めて民主的な社会である。人権なき民主主義国家と言っても良い。

だから、今回の死刑論争を人権問題だと捉えるといろいろと無理が生じる。今回の死刑論争を見ていると「切り離し論」がかなり見られる。切り離し論とはは宗教的な価値観というよりも衛生概念だ。モチがカビてしまったらカビのある場所を切り離すかカビたモチをすべて捨ててしまうべきだというようなイメージだろう。例えば「ヨーロッパが死刑を廃止するというなら、麻原を輸出するからそちらで引き取ってくれ」というような反論を見たことがある。これも切断願望の一つであろう。

これを切断処理だと見ると、国民は「衛生上の問題」を国家に押し付けているとも言える。生ゴミを出したらそれをどう処理するかを考えるのは誰か他の人の仕事なのである。この考え方は西洋流の死刑の議論からするとかなり倒錯している。人間を「異常なゴミ」とみなされており、その処理について誰かに押し付けていると言えるからである。日本人の中で少数者の人権について考えている人から見れば猛烈な講義の対象になるだろう。試しにこれを「障害者」に置き換えてみても良い。社会からこうした人たちをなくせば社会が効率化すると考えている人は多いが、そう書いただけで「お前はヒトラーの意見を支持するのか」という抗議が寄せられても不思議ではない。

いずれにせよ「犯罪は穢れ」であり、社会復帰という文脈では捉えられない。そしてこうした考え方はヨーロッパなどの人権先進国では受け入れられないが、日本では割と当たり前に語られてしまう。西洋が先進世界だとすると「遅れた」考え方だと言えるし、多様な世界観があるとすると「特異な」考え方である。

このように概観すると別の視点が見えてくる。日本人は概ね犯罪者は処罰されるべきだし、それは被害者の処罰感情に照らしても当たり前だと考えている。にもかかわらずヨーロッパでは反対意見が多い。反対というより「野蛮な行為」と見なされる。では国はいったい誰にたいして言い訳をするべきなのかという問題だ。

江川紹子の主張を読むとこのことがなんとなく見えてくる。この人はオウム事件については被害者であるので「加害者は処罰されなければならない」と考えた上で、教祖と弟子を同時執行すると神格化が進みかねないと考えている。敵を利すると言っている。そんな江川さんの文章に次のような一節がある。

なぜ、そこまで急いで、かつての幹部をまとめて処刑する必要があったのか、はなはだ疑問だ。法務省は、麻原と共に執行した6人を選んだ基準について、きちんと説明する必要があると思う。

バラバラに処刑が進めば長引きかねず外国からの反発が予想される。一週間ずらして行ったとしても数ヶ月の間「今週は誰が執行されました」というニュース速報が国内外に垂れ流される状態が続く。かといってすべてを同時執行してしまえばジェノサイドという別の批判も生まれる。そこで数をなんとなくバラしたのであろう。その上で執行をマスコミにリークし「オウムはこんな悪いことをしましたよ」というプロパガンダを行い「国民はこうした人たちが社会から取り除かれるということを支持している」という空気を作ろうとした。

ただ「厄介な問題は誰かの手によって適切に処理されるべきだ」と考えている国民にとっては、順番のような面倒なことは考えたくない。だから「国が勝手に決めてくれよ」と思っているはずだ。そもそも実際に誰が最初に死ぬべきかなどという順番を人間が決めることができるはずなどないので「一応の理屈」はつけられても、アカウンタビリティという意味での説明などできるはずがない。どんな説明をしたとしてもヨーロッパ的な価値を持った人たちは納得しようがなく、国民は興味がない。江川さんはことがわかってこう書いているのか、それともそれに対して無自覚なのかということはわからない。

このことを考えていると国は執行者としてヨーロッパの批判の矢面に立つのでそれなりの準備をして死刑執行に臨んだことがわかる。もちろん前日に上川さんを呼びつけて酒盛りをしたそうだから安倍首相がどう思っていたかはまた別問題だが、ヨーロッパ旅行を控えたタイミングで執行を許しているので何も考えていないのではないかと思う。すると気にしているのは外務省か法務省であろう。

その意味では実際に執行する人たちの方が国民よりも死刑の意味を意識せざるをえないということになる。巷で言われているように、権力者が死刑について無自覚であり国民はそれを憂慮しているという図式は実は成り立たないのかもしれない。

死刑は世界的には野蛮な行為である。日本人の感覚からすると、市民の武装による自衛や仇討ちと似たような感じなのだろう。日本人が死刑について同じ感覚を得るためには仇討ちを正当化してみれば良いと思う。これは日本の伝統であって、遺族の心情に照らし合わせれば正当化ができないこともない「情のある刑罰」だ。だが、日本で仇討ちを正当化しようという人もいないだろうし、復活させようという人もいないだろう。

その意味では上川法務大臣が「死刑には国民の理解と支持がある」という主張は「仇討ちも武士の心情を汲んだ尊いものだから」という程度の説得力しかない。ついでにいえば「抑止力がある」としながら「まだ重大犯罪が起きている」という主張をしており、上川論法には論理的な矛盾がある。抑止力があるなら重大犯罪はなくなっているはずだからである。さらに死刑をなくしたら重大犯罪が増えるという統計もない。だが国内からは異論が出ない。

さらにアメリカ人の武装について擁護してみてもよい。アメリカでは市民の武装が許されているために銃による犯罪がなくならない。最近では報道機関まで襲われた。日本人はこれを野蛮だと思うだろうが、アメリカ人にそれを指摘すると「内政干渉だ」という話になる。彼らにとっては独立の精神という情の話だからだ。中には「銃が悪いのではなく使う人が悪いのだ」という人もいるのだが、これは屁理屈にすぎない。

死刑論だけを見ると「それが正当なのか、それとも正当ではないのか」というような議論が技術的には成り立ちうるのだが、これをすべて総合して「人が人を殺していいのか」という問題に置き換えてしまうと、そうしたことは一般的になくしてゆくというのが潮流なのだということが明確になる。しかし、各論で技術的な反論が成り立っているように見えるのは、私たちが必ずしも論理性だけで議論しているわけではないからである。それぞれの現状というものがありそれを正当化しようとしている。つまり文明の衝突の一環なのである。

当然ヨーロッパはこうしたことを理解しているだろう。自分たちの国でもかつて同じような論争があり、当然心理的な抵抗もあったはずだからである。このためヨーロッパは「世界は今こうなっていますよ」ということを繰り返し主張するに止まっている。そして自分たちのコミュニティに迎え入れるためには同じ価値観を持ってもらわなければ困りますよと主張するのである。

こうした主張の結果死刑を廃止したのがトルコである。だが、彼らはヨーロッパに加えてもらいたいから態度を変えたように見せているだけだ。EUへの加盟は絶望的であり魅力も薄れており、現在では死刑復活論も出ているという。ヨーロッパ的な資本主義社会の魅力が薄れれば同じような揺り戻しも増えてゆくと考えられ、日本が人権や民主主義から外れてゆくのもその動きの一つなのかもしれない。

死刑廃止議論

オウム真理教の関係者が1日で7名死刑執行された。ヨーロッパでは死刑は非人道的な行為だと見なされており「死刑制度に反対する」という声明が出された。

良い機会なので議論を喚起するという意味合いが強いのだろうが日本人の中には「内政干渉するな」という強い声があったようだ。多分、明治維新期に死刑廃止運動があればすぐさま応じていたんだろうなと思う。日本はこれまで伝統として持っていた「仇討ち」をあっさりと禁止しているからだ。今の日本に西洋並みになりたいという欲求はないので死刑廃止運動が日本で盛り上がることはなさそうである。とはいえ、日本の伝統だから仇討ちを復活させろという運動もない。この運動に意外と合理性はないのだ。

死刑廃止について、オウム真理教をずっと追っていた江川紹子が面白いことを言っている。江川は自身もオウム真理教のターゲットになっているが事件は起訴されなかったという経歴があり、それなりの処罰感情を持ったポジションの人だと思う。

いずれにせよ、死刑を廃止したい人たちは「真相解明といういっけん合理的な理由」を探し出して反対していると指摘している。つまり、西洋のように「非人道的だから」という理由では死刑廃止運動が維持できなかったのだろう。

麻原は

弁護士にも協力しなかったために裁判そのものが維持できなかった。裁判を受ける権利はあったがそれを自ら放棄してしまった。麻原は真相解明に協力することはなかったし、これからもないであろうことが予想できる。死刑制度が維持されている以上は死刑にしないで放置しておく合理的な理由はない。また、すべての計画に関与していることは周りの証言から明らかなので最初から合理的な判断ができなかったという弁護もできそうにない。合理的な理由を探ってもなかなかそれを維持するのが難しいのが死刑廃止運動なのだろう。

ではなぜ死刑廃止論者は「真相解明」しか拠り所を持てなかったのだろうか。そこで死刑廃止を求めるヨーロッパの主張を見てみたところ「死刑は人道的でないから」という以外に論拠がないようだった。キリスト教的な世界観では裁くことができるのは神様だけなので、人間が代わりに命を奪うことができない。自分で死刑廃止の論陣を張ることを考えてみたのだが、やはり人知には限りがありすべての人を「正しく裁くことなどできない」し、同じ人間が他人の命を奪う権利などないということを論拠にすると思う。つまりこれはキリスト教的な価値観だ。

ドイツが死刑を廃止した理由はなんとなくわかる。国民の間違った処罰感情で多くのユダヤ人が財産を奪われた上に虐殺されてしまったからだ。一方イギリスでは冤罪事件が議論の契機になっているようである。つまり人は「間違えて人の命を奪ってしまう」可能性があるということを彼らは知っているのである。フランスは例外的に選挙と議論によって死刑を廃止したが、フランス革命の際に大勢の処刑者が出ておりこれを恥ずべき歴史だと考えている人も多いようだ。だが、いったんヨーロッパの主流国が廃止に舵を切ると「人が人の命を奪うことはできない」という比較的単純な議論に落ち着いているようで、今ではEUの加盟条件にもなっているそうだ。

日本では説得力を持たないであろうことも容易に予測できる。日本人は権力者に同調的でありどちらかといえば自分が権力を持っている前提で他人の問題を論評したがる。サッカーの論評は監督目線で行われ、人間ピラミッドの問題では最下層目線で論評する人はいない。自分が「下」であることを嫌う社会なので人権の観点からではなく権力者の立場に立って治安維持について語ってしまうのだろう。

ヨーロッパにあった絶対王政は民衆の支持を必要としない。異民族の場合には持続性も問題にならない。単に好き勝手に自分の利益のみに従って政治を行えば良いし、治安が維持できなくなれば撤退すればよいのだ。だが、ヨーロッパも権力者の上に仮想的な絶対権力者である神を仮設することによってしかこの理不尽さを抑止できなかった。

だが日本にはここまでの絶対権力者はでなかった。日本では権力者もまた列島に閉じ込められてしまうために被征服層と共存せざるをえない。実際に神話を見ると征服者として入ってきた人たちが現地の人たちと妥協した様子が伺える。神話には天津神という外から入った人たちと国津神というもともと列島に住んでいた人たちの分別が見られるからである。外から入ってきた人たちは多分大陸から押し出された少数派なので、現地の人たちと妥協しなければ安定した政治が行えなかったのだろう。逆に列島にいた人たちは外から入ってくる技術などを求めていた。ここが他民族支配が一般的だったヨーロッパとの違いである。

だが、世界の潮流が死刑廃止なので、死刑廃止論者は難しい理論を準備する必要はない。仇討ちと同じ理由で禁止を主張すれば良い。仇討ちが禁止されるのはそれが野蛮だからだ。世界標準は単に「人は限られた知識に従って他人の命について裁くべきではない」という主張をしているにすぎない。ドイツのユダヤ人虐殺やイギリスで冤罪事件が死刑廃止運動につながったのがその好例である。

多くの反安倍派の人が懸念しているように権力者は死刑制度を利用できる。民衆が政権に反対している時にストックしてあった死刑囚を殺せばある程度彼らの溜飲を下げることができるうえに誰が支配者かをわからせることができるからだ。これが死刑のメッセージ効果である。日本政府が国家を模倣したオウム真理教を潰し幹部を殺したのは「国を治める」ことが政府の特権だと考えているからだろう。

アムネスティの調査によると死刑が行われているキリスト教国はアメリカとベラルーシしかない。民主主義国ではない中国の死刑が多いのは民衆の選挙によって選ばれていない政権が市民の不満を反らす必要があるからだろう。同じ非民主国(こちらは形式的には民主主義国ではある)の北朝鮮では実情がよくわかっておらず1000人が処刑されたという情報もある。軽犯罪者を見せしめ的に処刑して住民に「誰が支配者なのか」ということをわからせている。イランも処刑者が多い国だが、民選の政府の上にイスラム教勢力がおりこれが王政の代替手段になっている。この体制に挑戦すると「反革命的」とみなされ再審なしで裁かれる可能性があるそうだ。このように死刑というのは体制維持に使われることが多い。

死刑制度についての議論を見ていると、言葉が通じない絶対権力者に徹底的に蹂躙された歴史のない日本人にとって西洋流の民主主義を受容することは意外と理解が難しいのかもしれないと思う。