コンスタンティノープルからカラコルムに行くには何日かかったのか

ムガール帝国への興味からモンゴル人がどのように移動したのかを調べている。面白いことに中世の旅行だけを研究した本というものが出ている。誰が読むのだろうなどと思うのだが、たまに物好きな人がいるのだろう。

さてこの本の中に「アジアの旅」というセクションがあり、モンゴルへの旅について書かれている。1245年にイノセント四世が使節団を派遣した。この命令を受けたフランシスコ会のギヨーム・ド・リュブリキは1253年から1255年までモンゴル帝国を旅行した。

リュブリキは5月7日にコンスタンティノープルを出発し5月21日にクリミア半島に到達した。6月に旅行が始まり、7月20日ごろにドン川を渡った。8月5日にはボルガ川に到達し、9月27日にはウラル川(カザフスタンを通過して黒海に注ぐ)を通過する。途中有力者のテント(幕屋と書いてある)に逗留しつつ1254年の4月にカラコルムに向かったと書いてある。

当然パスポートなどはない(そもそも外交関係もない)ので有力者に旅行許可をもらいながら旅をしたということを考えても2年で帰って来れるというのはかなり意外である。

リュブリキは2年かけて往復しているのだがその距離は15,000キロ以上を旅しているそうだ。試しにGoogle Mapで検索してみたが、カラコルムからオデッサまでゆき、そこからフェリーでイスタンブールに行くと1320時間かかるそうである。1日8時間歩くとして165日だそうだ。ユーラシア大陸はかなり広大に思えるのだが、実際には半年かければ歩けるわけでやってやれないことはないような気持ちになる。

実際にユーラシア大陸を歩いて横断した人がいるようだ。この人のウェブサイトには、2009.1-2010.8ユーラシア大陸徒歩横断約16000キロと書いてあるので2年くらいかければ歩けるということになる。

アダムの旅 – 人類はどのように移動したか

ムガール朝のムガールがモンゴルだと聞いて驚いたという話の続き。ここで気になったのがジンギス・カンがどれくらいかけてモンゴルからイランあたりまでたどり着いたのかということだった。感覚的には10年くらいかけないと歩いてたどり着けないような気がするのだが、実際には数年で到達しているのだという。よく考えてみると国境検問所などもなく、イギリス人が持ち込んだ武器によって周囲の治安が極端に不安定化しているということもないわけだから、昔の方が旅行がしやすかったことになる。ちょっと複雑な気がする。

歩いて行くのは難しいのだろうが、馬を使うと意外と簡単にいけるということだ。しかしながらジンギスカンが走った土地は決して見知らぬ土地ではなかった。なぜならばそもそも人類は西から歩いてモンゴルまで到達しているはずだからである。

途中で騎馬技術を身につけたのではと思えるのだが、農業が始まったのは23,000年前ごろの話らしい。さらに、牧畜は農業に付随して始まったようなので、当時の人たちが馬に乗って前進したとは考えにくい。

モンゴルが中央アジアを支配するのはかなり簡単だったようである。あまりにもあっけなく征服で来てしまったので勢い余った人たちが各地で暴れまわったという話がある。モンゴル人が現地の人たちが持っていない優位性を持っていたということになるのだろう。


そんなに簡単に行き来できるのだったら、アフリカを出てからモンゴルや中国にくるのも簡単だったのではないか。そこで「アダムの旅」という本を読んでみた。現代では遺伝子解析から人類がどのように広がっていったのかということはおおよそわかるのだそうである。この本はY染色体(つまり男性側)からみた広がりについて書いてある。

50,000年前にアフリカを出た人たちは複数の経路をへて東へと向かった。もっとも早い集団は海沿いを伝ってオーストラリアまで出て行く。海産物を追いかけているうちにオーストラリア近辺までたどり着いたわけである。いわゆるアボリジニやパプアニューギニアの原住民などはこの系統だと考えられる。彼らは今でも狩猟・採集に依存した生活をしている。これは農業が始まる前にホモサピエンスが広がり始めた証拠になるのだという。

もう一つの系統は45000年前にアラビア半島へ進出しそこでヨーロッパに向かった人たちとイランに別れた。イランからインドに進出した人たちと北に向かった人たちがいる。また、35000年前には狭いルートを通って中国に進出していった人たちがいた。ここで進路が別れたのは天山山脈などに阻まれて東進が難しかったからだそうである。

この本の中にジュンガルギャップという言葉が出てくる。キルギスとタジキスタンのあたりは山になっているのだが、雪解け水が谷に溜まった湖が点在している。急峻な山道を越えて湖を伝って行くと、現在は中国領になっているカラマイという街に行き着く。この辺りがジュンガル盆地と呼ばれているので、これをジュンガルギャップと呼んでいるのだろと思われる。ここを越えてゆくとやがて米の農業に向いた温暖な地にたどり着くわけだが、確かによほどの物好きではないとここに到達するのはあまり容易ではなさそうだと思える。

現在農業の最も古い遺構は23000年ほど前のイスラエルで見つかっているらしい。すなわち人間はしばらくは獲物を狩るためだけに広がっていったことになる。牧畜も農業に伴って発達したようだ。

アフリカには食べ物が豊富にあったためにわざわざ定住して農業などというしんどいことをする必要はなかった。環境が変わるかあるいは食べ物があまりない土地に行き着いたからこそ腰を据えて農業を行う必要があったことになる。そもそも、サハラの環境が悪化したことにより獲物が少なくなったからこそ新世界へと広がる必要があったことになる。その後砂漠化が進行すると今度はサハラは障壁になってしまう。

いったん中央アジアに止まった人たちの中には30000年前にヨーロッパに向けて西進した人たちととシベリアに行った人たちがいたようである。シベリアに行った人たちは寒さに耐えることを覚えた。シベリアは寒いがマンモスなどの大きな哺乳動物がおり、いったん獲物を仕留めればそのあとは比較的楽に過ごすことができる。このシベリアに行った人たちの顔は寒冷地適応のために平たくなりいわゆるアジア人っぽい顔つきになった。最後のマンモスは紀元前1700年ごろに北極海上の島で狩猟されたという説があるそうだ。人間が狩りつくしたか、一緒に連れてきた家畜からの伝染病がうつって滅びたという説が有力だそうだ。

人類は気候が悪くなって獲物が取れなくなると遠くに出かける必要が出てくる。しかしながら、気候が良いからこそ移動ができる。そして気候がまた悪くなり砂漠化や寒冷化が進むとその場所に閉じ込められる。こうして広がったり孤立したりを繰り返しているうちに「人種」が固定したのだろうと考えられているようだ。

気候変動によって孤立したり定住が起きると集団が生まれる。それがある程度のまとまりをつくると同じような言葉を話すまとまりが作られる。一方で、いったん狩猟採集を捨てて農業を覚えた後で、さらに移動しながら遊牧をするようになった人々もいる。彼らは遊牧で移動しながら、ユーラシアの東西で生まれた発明や技術を別の地域に持ち込んだ。

例えばモンゴル人が中央アジアを席巻した時には乗馬と製鉄技術を持っていたのだが、製鉄技術はもともと小アジアのヒッタイトで生まれたものだと考えられているそうだ。もともとは国家で秘密裏に管理していたのだが、国家が衰退して周辺国に広がった。これが中央アジアを経てモンゴルまで伝わったということは、この頃に遠距離を移動する技術と通商経路があったということになる。逆に火薬は中国から西に伝えられたようだ。これも短い間にヨーロッパにまで広がったと考えられる。

人類の移動を阻んだのは山脈や裁くだけではなかった。ヨーロッパにホモ・サピエンスが入るには時間がかかったが、いったん中央アジアで農耕などの技術を蓄積した後で進出しているということはなんらかの地理的ではない障壁があったからである。本の中にはネアンデルタール人との競合について書かれている。

こうした人類の足跡は遺伝子によってたどることができるのだが、ある程度言語とも関連があるそうである。例えば、いったん中央アジアからヨーロッパに行った人たちが話しているのがいわゆるインド・ヨーロッパ語族である。一方で、ヨーロッパには少数ながら孤立する言語を話す人たちが残っている。例えばイベリア半島にはバスク人がおり、ジョージアの険しい山脈の南北にはコーカサス諸語を話す人たちがいる。海を伝ってパプアニューギニアやオーストラリアに渡った人たちは少人数だけが理解できるお互いにあまり系統だっていない諸言語を話す。どちらかといえば後から集団で渡った人たちは系統だった言葉を話し、先に行った人たちは孤立している言語を話している。面白いことに孤立した言語を話す人たちの集団はそれほど大きくならない。「国」のようなまとまりを作るためにはある程度大型の農業を通じて社会を形成する必要があるからだろう。

さらにモンゴル人やトルコ人は定住地を持たなかったのでインド・ヨーロッパ語族の人たちとは違った民族的な広がりを持っている。例えばトルコ系の言語はアナトリアから新疆ウィグル自治区にまで広がっているが比較的お互いの意思疎通が簡単なようだ。これが文化を繰り返してお互いに意思疎通ができなくなったインド・ヨーロッパ語族とは異なっている。

日本というのはまた別の意味で極めて特殊なようだ。北方、東方、南方経由でアジアにやってきた人たちが最後に集まるのが日本列島である。その人たちが話す言語もバラバラだったはずだ。しかしながら、現在日本列島には語族は二つしかなく、大多数は日本語族のいずれかの言語を話す。こうした雑多な人たちがお互いの要素をなんとなく許容したままで溶解してあたかも一つの民族のように振る舞うようになった。

一方で、大規模な農業経験を持たなかったアイヌの人たちはどの語族とも関係性が見つからない孤立した言語を話し、小さなコミュニティにわかれて住んでいた。サハリンにはニブフというこれもまた孤立した言語を話す人たちが住んでいる。

モンゴル人はどこからインドまできたのか

ムガル帝国関連の遺産の写真を見ているうちに、ムガル帝国がモンゴルという意味だと知った。もともとフェルガナ盆地で生まれたバーブルが紆余曲折を経てインド北部まで降りてきたのである。そこで、どのような経路を伝って降りてきたのかを調べてみた。

バーブルはまずサマルカンドに行く。そして、そこからカブールを侵攻し、そのあとでデリー近郊まで降りてきてインドの豊かさに驚いたとされる。その途中経過はよくわからないが、現在の道を伝って行くとだいたいえんじ色で書いたような経路が浮かんでくる。

ポイントになっているのはアムダリア川である。この川が北方にある世界とその南側を分けているそうだ。近代になっても、北部はソ連が支配し、南部はイギリスが支配した。この川を超えてソ連が侵攻してきたことでアフガニスタン情勢は泥沼化し現在に至る。

バーブルはカブールからまっすぐ故地には帰らず、ヘラートに寄り道をした。厳しい山道だったという記録が残っているようだ。ヘラートをまっすぐに進むとペルシャに出る。現在、アフガニスタンの治安は極端に悪化しているがそれでもカブールからマザリシャリフを経てヘラートにゆきそこからイランに行った人の記録があった。アフガニスタンは内戦で荒れており厳しい山岳地帯が続くので飛行機で移動するのが一般的なのだそうである。

なんとなくものすごく寒そうな地域なのだが、実際には東北地方くらいの緯度に当たる。ここより南に行くと乾燥が進み、北に行くとステップになってしまうという絶妙な地理条件の地域である。各地の勢力が支配者になりたがる気持ちもわからなくはない。現在でもウズベキスタンでは、米・小麦・大麦・とうもろこしなどが取れるようだ。ただし、綿花栽培のために大量取水を行ったために水がアムダリア川を流れなくなり、アラル海が縮小した上に塩害がひどいことになっているそうだ。

この地域に雨は降らない。インド洋からの雨は山岳地帯にぶつかってしまうのだろう。だが、山に積もった雪が川になって流れることで、この地域が潤い農業に適した土地が広がっているのである。

この地域より北にはカザフスタンが広がっているのだが農地の70%は牧草地として利用されているそうである。

この地域にはキリギスとタジキスタンがあるのだが、山岳地帯のようでこうした民族の経路とは外れている。なおタジキスタンに住んでいるタジク人はペルシャ系だ。モンゴル人が侵入してきた時に山岳地域にいた人たちが残ったのかもしれないと思った。

さて、なぜそもそもこの地域にモンゴル系の人たちが住んでいたのだろうか。チンギスハンについての項目を読むと、和平を求めて現在のシムケントまでやってきた使者が現地の支配者に殺されたのが直接のきっかけのようだ。シムケントが入り口になっているということになる。この地域を席巻し、さらにアムダリア川を遡りウルゲンチあたりまで遠征しているようだ。

では、チンギスハンがどこから来たかというと、もともとはバイカル湖の付近にいた人たちだということである。ここよりも寒い場所にいて寒地適応のために平たい顔になったのだが、それが南下してモンゴル高原にゆき、そこから南下して中国を支配したり、西進してロシア、ヨーロッパ、ペルシャ世界を席巻したことになる。

このようにしてみると農業を生業としている人たちはそれほど遠くに行かなくても食べて行けるわけで、世界帝国を作ろうなどという野望を持たないのかもしれない。モンゴルの人たちは厳しい条件を移動するために馬を乗りこなしたりしていたために、軍事的に差がついたのだろう。

しかし、遊牧の人たちはわざわざその地域で腰を据えて農業をやろうなどとは思わず現地とそれほど同化せず、現地の文化になんとなく影響を与えつつ同化して行ったのではないだろうか。

デリー・アグラ近辺のイスラム建築の写真を整理する

いつもの政治経済ネタとは全く関係がないのだが、昔行ったインドツアーの写真を整理することにした。このブログに掲載したのは単に他にハコがないからである。だから政治ネタに興味のある人は読み飛ばしていただきたい。

航空券とホテルの一部だけを予約して行ったのだが、ツアーは現地のものを利用した。英語のツアーがたくさん出ているので、ツアーを見つけるのにはそれほど困らない。ついでにインドは安宿も多いので宿泊先に困ることもそれほどない。ただし、長距離鉄道は安いので予約が埋まりやすい傾向にある。事前の予約をお勧めする。

現地のツアーを利用したのは良かったのだが、ムガル朝の歴史に詳しくないためどれも同じに見えてしまい、帰ってからどこに行ったのかがわからなくなってしまった。そこで時系列に整理することにした。もしかしたら日本に外国人にとってはお城もお寺も同じように見えるかもしれない。お墓も御所も同じように見えるのではないか。整理できるようになったのはグーグルのイメージ検索のおかげだ。写真をアップすると場所を特定してくれるのである。

整理してみると、意外にムガル朝の歴史を網羅していることがわかる。知らないって怖いことなんだなと思った。市内ツアーは200円で1日がかりのアグラツアーは2,000円弱(朝飯と昼飯付き)である。それほど高くはない。現在の価格を調べてみたがそれほど値上がりはしていないようである。

ムガル帝室はこの地域に進出してから、アグラとデリーの間を行ったり来たりしている。アグラとデリーの間は230kmほど離れているのだが、どちらもヤムナ河沿いにある。この両都市にジャイプールを加えるとちょうど一辺が200km強の三角形になり一週間程度で回れるコースができる。地図で調べるとヤムナ河とガンジス河に囲まれた地域が平原になっており、農業に適した土地だったのではないかと思われる。ムガル帝国はこの地域に目をつけたのだろう。

ムガル帝国

中央アジア出身のバブールによって成立した。父親はモンゴル系のチムール朝の王族で母親はテュルク・モンゴル系の遊牧民族だった。バブールは中央アジアからインドに移ってインドで帝国を作った。ムガル朝はイギリスに滅亡させられるまでの間、モンゴル系統のチムールの末裔を主張していたとのことである。ムガルはモンゴルの意味を持つペルシャ語系の他称だそうだ。

バブールが生まれた地域は現在のウズベキスタンに当たり、ムガル朝はよそから来た他民族王朝だったことがわかる。ただしその系統は複雑である。前身であるチムール朝はモンゴルの後継だったが、言語はすでにトルコ語化していた。これをチャガタイ・トルコ語と呼ぶそうである。しかしながらムガル朝はフマユンが一時ペルシャに逃れたこともあり建築などにペルシャ様式を残した。だからムガル帝国の公用語はペルシャ語だった。さらにチムール朝の前身はチャガタイ・ハン国だったが、これはトルコ・イスラム化したモンゴル系国家だった。チャガタイ・ハン国のイスラム化は徐々に進展した。

つまりムガル朝時代のインドはモンゴルの伝統、トルコ系の伝統、ペルシャ系の伝統が複雑に入り混じってできたものだと考えられる。今でも中央アジアにはイラン系の白人とトルコ系、モンゴル系のアジア人が入り混じった他民族国家が多くある。

インドとイスラム

インドというとヒンディ語という印象があるのだが、ムガル帝国の歴史を見るとわかるように史跡はほとんどペルシャの影響を受けたイスラム様式である。ただし、イスラム教そのものはペルシャ経由ではないという複雑さがある。一方、デリー近辺にいるヒンディ語を話す人たちにも「ヒンディ人」という民族意識があるわけではなく、単に言語によって民族を規定しているような状態になっているそうだ。彼らはムガル朝より前にペルシャあたりから東進・南下してきたアーリア系の子孫が現地の人たちと混血してでき他民族だと考えられる。この混血具合が違っており、現在の複雑なカスト制度ができている。

デリーで最初に宿泊した土地にはモスクがあり早朝からコーランがスピーカーで鳴り響いていた。朝の暗いうちからお祈りで出てくる人がおり、彼らを目当てにチャイとトーストを振る舞う店がある。インドはイスラム系のパキスタンとヒンズー系のインドにわかれたのだと教科書で習っただけだったので、これは少し意外だった。

重層的なデリーの街

デリーは古くからイスラム系勢力の支配地域だった。その最初は「奴隷王朝」という聞いたことがあるような名前の王朝だ。しかし勢力は安定せず帝国と呼べるような国は出なかった。

デリーとその近郊には緑豊かな平原が広がっている。これはガンジスとその支流のヤムナによって作られたものである。山がなく緑が多いので農業に適した土地が広がった豊かな場所だったことがわかる。ここから200km西に行くとラジプタン州になるのだが、ここは砂漠地帯である。しかし、さらに南進するととても暑い地域が広がっており、さらにガンジスの下流域では洪水なども起こったのではないだろうか。

さらに、ペルシャや中央アジアからインドに来ると必ずこの地域を通るので交通の要衝でもあったのだろう。そのため度々他民族から侵攻された。

幾つかの小さな王朝が攻防を繰り広げた後、最終的にムガル朝の本拠地となる。イギリスが支配を始めた時の中心都市はコルカタだったがやがてデリーに移ってインド支配を本格化させた。イギリス時代の建物はムガル朝の首都よりやや南にありニューデリーと呼ばれている。ただしニューデリーができたのは比較的新しく20世紀に入った1911年のことだったようである。

旧デリー市街はゴミゴミと活気のある町並みなのだが、ニューデリー地域は広々とした空間に建物が広がっている。この写真では向こうの方にかすかにインド門が見える。

かつては地下鉄網が発展していなかったために空港から市街地に出るのは一苦労だった。ガイドブックには「市街地に行くのに騙されないようにするにはどうしたらいいか」というページがあったほどである。のだが、最近では地下鉄が整備され旅行が安全になった。ニューデリー駅の近くには安宿が点在しており予約なしでもそこそこのホテルに泊まることができる。ただし、女性には性被害が頻発しており昔よりは一人旅が難しくなっているかもしれない。

フマユン廟

ムガル帝国2代皇帝フマユンの墓として作られた。フマユンはいったんペルシャに逃れた後、北インドに戻りデリーとアグラを征服したのち1556年に亡くなった。

ペルシャの王朝はサファヴィ朝でありもともとはトルコ系だったということである。サファヴィ朝は、その成立過程で宗教的に先鋭化し、スンニ派からシーア派になった。その後イランは今でもシーア派が主流の地域になっている。そしてその影響を受けたムガル帝国もシーア派化した。ただし、現在のパキスタン・インドのイスラムはスンニ派だということなので、帝室の伝統は必ずしも現地のイスラム教の伝統とはならなかったようだ。

このお墓はアクバル大帝の時代になってペルシャ出身の皇帝母によって建築されたのでペルシャ式になっている。この頃からムガル帝国はペルシャ語化してゆく。

1857年にムガル帝国が崩壊した時、最後の皇帝パハドゥル・シャー二世がフマユン廟に逃げ込んだところをイギリス軍に捉えられ帝位を剥奪された歴史もあるそうだ。

フマユン廟は地下鉄駅から離れているのでツアーを使ったほうがよさそうだ。近くにハズラト・ニザーム・ウッディーン(ハズラト・ニザムディン)駅という国鉄の駅がありアグラに行く新しい急行列車ガティマン・エクスプレスが出ている。

通常、アグラやジャイプールに行くにはニューデリー駅からのシャタブディ・エクスプレスを使うのだが、朝が早いのでこちらのほうが時間的には便利なのかもしれない。(写真はニューデリーを出発してジャイププールジャンクション駅に着いたシャタブディエクスプレス。この後、アジメールまで向かうのでアジメール・エクスプレスと呼ばれる。)

急行列車はかなり人気なので、チケットは前もってとったほうが良い。数日の余裕をもって行動したほうが良さそうだ。なおインドには特急というクラスはないようで、すべてエクスプレスと呼ばれているようだ。

アグラ城塞(アグラ城)

デリーからアグラへ遷都するのに皇帝アクバルが築城し1573年に完成した。その後3代、シャー・ジャハンまで皇帝の居城だった。シャージャ・ハーンの息子アウラングゼーブが重病(催淫材の多量服用が原因とされるそうである)の父親を幽閉したのちデリーに移った。

今でもアグラ城からタージマハルを眺めることができる。

門には文字が書かれているのだが多分コーランなのではないかと思う。お墓に経文を彫るようなものなのだろう。

アグラ城塞とタージマハルは駅(アグラ・カントンメント)から離れているので、ツアーを使ったほうが良いように思える。アグラ城とタジマハールも若干離れている。デリーから出発する日帰りのツアーも探せるし、特急を使えば1日で帰ってこれる距離である。

シカンドラのアクバル廟

アクバル1世はフマユーンの子供として生まれたのち、宰相から権限を奪い皇帝権を確立した。日本でいう徳川三代将軍みたな感じの人らしい。

帝国領域が拡大し非イスラム教徒が増えたため人頭税を廃止して税制を改革した。この後ムガル朝の最盛期になるのだが、アウラングゼブが再び人頭税を復活させた後、治世が安定しなくなり崩壊に向かった。

アクバルは1605年にアグラで亡くなった。ちょうど関ヶ原の合戦のころの人ということになる。

なおこの建物はアグラ中心部から10kmほど離れたシカンドラという街にある。アグラは公共交通が発達していないので現地でツアーを利用したほうが良いと思う。

ホールのボタニカルな文様は鮮やかで見ごたえがあるが、墓室そのものは質素なものだ。

タジ・マハル

シャー・ジャハンが妻のムムタズ・マハルのために建てたお墓。タジ・マハルは建物の名前ではなく皇妃の名前が省略されたものだそうである。

1632年に着工して1653年に完成した。ムムタズ・マハルは14人の子供を産んで36歳で亡くなったということである。夫が元気だったので大変だったのだろう。

シャー・ジャハンは放蕩の末、息子に幽閉されて居城からこの墓を見ながら亡くなったという。丸屋根の高さは53mだそうだ。周囲の尖塔は42mということで遠くからでもはっきり見ることができる。

この建物の向こうにヤムナ河が広がっており、河を挟んでシャー・ジャハンの墓を作る計画があったそうだ。

レッドフォート(ラール・キラ)

別名はラール・キラー。ムガル帝国五代皇帝シャー・ジャハンがアグラから遷都してデリーに居城として築いた。1639年に着工し、1648年に完成した。シャー・ジャハーンは重病となりアグラに帰り、その後息子(アウラングゼーブ)に幽閉された。

最初の写真が城門にあたり、次の写真が皇帝が謁見した建物だそうである。

アウラングゼーブ帝は父親のように幽閉されることはなかったが、晩年自分も同じように息子から廃位されるのではないかとか、息子たちが争うようになるのではないかと思い悩むことになる。

その予想は半ばあたり、息子たちが争うようになる。この後ムガル帝国は緩やかに衰退してゆくことになった。

レッドフォートは珍しく地下鉄駅が近くにある。バイオレットラインのラール・キラ駅が最寄りだが、チャンドニ・チョウク駅からも歩いて行けるくらいの距離だ。チャンドニ・チョウク駅からはジャマ・マスジッドにも行くことができるくらいの距離感である。この地域はオールド・デリーなどと呼ばれている。