部分最適的な議論とニート

これまで、日本では社会主義が混合した自由主義が様々な不具合を生じさせているという議論をしてきた。当初想定していた通り閲覧時間が減っている。この理由を考えた。結論からいうとつまらないからだろう。ではなぜつまらないのかを考えた。つまり、人々のニーズに合致していないからだ。時々誰かを叩いているように見えるものを書かないと、ページビューが落ちたり購読時間が減ったりする。

最近Quoraという質問サイトに投稿している。主に答えを書くことが多いのだが、Quoraではむしろ質問を募集しているようだ。質問を作るとページが生まれる。するとそこに人が集まる。するとページビューが増える。だからQuoraは質問を求めているということになる。

だが、そこに有効な答えがつくことはほとんどない。答えにはインセンティブがついていないからである。このようにQuoraはプレゼンスを求めて答えのない質問を生産するシステムを作っている。だが、Quoraはそれでも構わない。そういうシステムなのだ。

そもそも答えが集まらない上に日本人は答えを書きたがらない。試しにアパレルと美容で専門家に回答リクエストを出してみたのだが反応がない。日本のコンサルタントと呼ばれる人たちは知識を持っているが問題解決のための智恵はないのだろう。例えば「アパレルは売れないがどうすればいいか」という質問に答えはつかない。この問題を打開した人は日本にはいないからである。彼らは「誰にも知られていない秘密のレシピがある」といって情報を公開しないことで生き延びている。しかしそれは過去の成功の寄せ集めであり根本的な問題解決にはならない。彼らもそれがわかっているから答えが公開できないのであろう。

これとは別に時事問題でいくつか質問をしてみた。防弾少年団の問題と北方領土の問題について書いた。これについてはいくつか回答をもらったが、だいたい世の中にある論と同じである。ある種の正解ができあがるとそれを述べる人が多いということになる。ここから、人々は正解を述べたがるということがわかる。この「正解を述べたがる」ということを頭に入れておくとどのような答えが集まるかがなんとなく予想できるようになる。正解に合致するように書いてやればいいのだ。

ではなぜ正解を述べたがるのだろうか。一つ目の単純な答えは学校教育が悪いからというものである。テストで正解を覚えると褒めてもらえて最後には東大に行けるというシステムでは、どうしても正解を知っている人が偉いということになる。学校教育は過去の正解を集めると褒めてもらえるスタンプラリーなのだ。

だが、理由はそれだけでもなさそうである。

アパレルの専門家はたくさんの正解を知っていて雑誌に広告を出したりフェアを開催したりして毎月の売り上げを維持しなければならない。すると情報が溢れプロダクトラインは整理されないまま増えてゆく。だがこれを整理しても専門家の暮らしはよくならない。Quoraも答えのつかないシステムを量産しなければ売り上げにならない。さらに政治家もシステムを整理して物事を単純化しようとは言えない。なぜならば彼らも売り上げを立てる必要があるからだ。

政治家は自分たちで支持者を集めてこなければならなくなった。このため地元に利権を誘致し、支持者が喜ぶような乱暴な意見を述べる人が多くなった。その度にTwitterは荒れ、野党の反発から国会審議が止まる。だが、それを整理しようという人はいない。状況を整理しても票には結びつかないからである。彼らもまた暮らしを成り立たせるためには情報量を増やして状況を混乱させることに手を化している。前回、このブログで政治について説明したところ「国会議員は選挙のことを考えず全体について考えるべきだ」と言っている人が圧倒的に多かった。だが、全体のことを考えている人に投票しましたかと質問するとあるいは別の答えが返ってきていたはずだ。

いわば人々が限定的な自由主義のもとで働けば働くほど情報が増えシステムが混乱し、自己保身のために複雑な社会主義的システムが作られ、さらに状況が混乱してという無限のループが生まれることになる。重要なのはこれが日本で「働く」ということの意味なのであるということだ。かつて日本の製造業が空気を汚さないと生産ができなかったのと同じことである。

これを整理するためにはこの枠の外に出る必要があり、それは働かないということになってしまうということになる。

先日「ブッダ最後の言葉」の再放送を見た。花園大学の佐々木閑教授が大般涅槃経を解説するというものである。宗教色を取り除くために僧侶の組織論として捉え直して紹介していた。僧侶の集合体は「涅槃に入る」ための共同サークルだが、組織を維持するための戒と目的を達するための律があるそうである。しかしそれだけでは僧侶は食べて行けない。そこで経済を支えるシステムが必要だった。それが在家信者だ。

この番組で佐々木教授は、ニートは僧侶のようなものであるといっていた。生きているということは仏教では苦痛なのでそこから解脱を目指す人がいないと人々は救われない。だが生から解脱してゆくと食べて行けなくなる。それを在家信者が支えるというのが仏教の基本的な考え方のようだ。代わりに僧侶は自分たちのコミュニティにこもるのではなく在家信者に俗世的な生きる知恵を与えるという仕組みになっている。僧侶は働かないという意味ではニートであり、例えば生産性がないという意味では基礎研究の科学者のようだとも考えられる。

基礎研究はノーベル賞などの社会法相システムがある。一方、ニートはそれぞれが孤立しており、生産セクターにフィードバックするシステムがない。だからニートはだめだと言われてしまうのである。

俗世のシステムをありのままに観察してゆくと最終的に宗教に答えが見つかるというのはとても皮肉なのだが、「生活の苦労がない科学者や政治的指導者を持つこと」が豊さにつながるというのは頷けるところが多い。例えば総理大臣は権力闘争で生き残りを図る必要があるから尊敬されず、世の中を混乱させてばかりいる。一方で天皇が戦争や災害に心を配ることができるのは、この生活を国が支えており、地位を脅かす人がいないからである。かつて政治家が尊敬されていたのは彼らがお金を集めなくても周りで支えてくれる人たちがいたからだろう。今でもそのような家は幾つか残っており「選挙に強い政治家」と呼ばれる彼らは比較的未来のことを考えた発言ができる。

しかしながら、俗世の人たちはそうも言ってはいられない。すると答えつかない質問が溢れる。しかし世の中の人たちは質問をするという面倒なことはしない。オンラインコミュニティで成功するには二つの正解から選ぶことになる。

一つはこれまであった正解を過去の成果とともに誇大に宣伝するというものである。例えばバナナを食べたら痩せたとか、聞き流していたら英語が話せるようになったというものだ。こうした情報は巷に溢れている。歴史を単純化したうえで都合の良いwikipedia記事だけをコピペしたものが保守の界隈では「立派な歴史書」としてもてはやされているそうだ。

もう一つは正解からはみ出した人たちを「わがままだ」と言って叩くというものである。豊洲が正解になったのだから、そこでやって行けない伝統的な目利きはわがままだと言って潰してしまえばいい。すると、政治家も都の職員も過去の事業の失敗の責任を取らなくて済む。また保育園に預けて働きたいというお母さんはわがままなので無視すればいい。日本は日本民族から成り立っているという正解のためには、アイヌ民族や在日朝鮮人はいないほうがいい。さらに結婚はいいものであるべきだし社会保障の単位であるべきなのだから、同性愛は病気ということにしてしまえばよいのである。

それでも不満はたまるから、時々明らかに正解を外れた人(ちょっとした法律違反や不倫などの道徳違反)の人たちを見つけてきて叩くことになる。

こうしてコミュニティは荒れてゆく。だが、多くの人たちはそれでも構わないのだ。こうして誰かが状況を整理するまでは部分最適化が進み人々はかつての正解にしがみつくためにますます過激なコンテンツを求めることになる。

日本が目指すべきは二大政党制

先日から出し惜しみ論について考えている。社会主義体制下では出し惜しみが起き産出の効率が悪化する歴史の教訓を踏まえ、日本社会は資本主義自由経済の一部が社会主義化して効率を悪化させているのではないかという仮説を置いた。

今回はこれを裏から見てみたい。つまり自由主義が残ったセクターはどうなるかという問題である。

バブル経済が崩壊し日本では終身雇用が破綻した。過去の高い給料が維持できなくなったがこれまでの労働慣行が温存され首切りができなかった。当初は新人採用を抑え込むことで賃金と福利厚生を押さえ込もうとして失敗した。そこで「専門性の高い派遣労働者」という既存の制度に目がつけられた。もともと専門職を軽んじ総合職をありがたがる組織の日本人はこれをなし崩し的に拡大することで低賃金・熟練労働に派遣労働が認められるようになった。バブルが崩壊したのは1991年ごろだが、1996年には10業種が拡大され1999年には製造業などを除いて原則解禁となり2004年には製造業も解禁された。(毎日新聞)こうして高度技能労働を低賃金で使い倒し、調整をする人たちの制度を守るという社会主義的な素地が生まれたのである。本社で企画に携わる正社員はソ連でいう官僚のような人たちであると考えられる。このチェーンは政府にまで伸びている。

日本の大企業はこれまでのように「潰れては困る」という理由で政府から保護されている。金融機関にも12兆円以上の公的資金が注入されたとされているそうだ。(コトバンク・知恵蔵の項目)また、正社員も温情的な労働組合の元既得権益として守られている。例えば連合は正社員のための労働組合なので、神津会長が独自に与党側と協議して「誰の味方なのか」と野党の反発を受けたりしている。

一方で非正規雇用はこうしたセーフティネットからははずれ、社会の保護が得られないままで放置されている。彼らは自由主義経済のもとに置かれており国や社会からの恩恵は受けられない。これは「自己責任」とされている。つまり、フリーの人たちは自由を享受しているのだから社会に貢献することは当たり前としても社会システムに依存するのは甘えだという論が一般的だ。だが重要なのは実際の生産技術を持っておりそこからイノベーションを起こせるのはこの技能労働者だという点である。彼らはナレッジワーカーなので、サービス産業主体の世界では彼らがイノベーションのキーにならなければならないのである。これが疲弊することで日本は成長ができなくなった。

彼らの勤め先は公的に保護されているのだから、社会主義的な制約が働く。つまり、リスクをとってイノベーションを起こすよりも政府の指導に従っていた方がリスクが少なくラクなのである。わざわざ先行投資をしてリスクを取る必要はない。ライバル企業もそのような「危ない橋」は渡らないからである。結果的に産業全体が低賃金労働に依存するようになり、自由主義部分はますます低賃金労働に張り付くことになる。旧共産圏流に極端な例を挙げると、日本人はトラバントを作らされることになるだろうということになる。トラバントなら新しい技能を身につけなくても作れるだろうが、やがて世界からは取り残されることになるだろう。

制度を精一杯利用しようとする働く両親がわざと保育園の当選を辞退したり生活保護を受けようとしたり、生活保護を受けようとする生活困窮者は社会や政治家から大いに叩かれることになる。生活保護受給者を叩いていた片山さつきが私設秘書と称する人が自分の名前で商売をしていも、選挙中に公職選挙法に触れるような看板を放置してもお咎めはない。制度として準備されている生活保護を使うのは片山にとっては甘えだが、自分の行動は全て正義を実現するための正当な行為として容認してしまう。

同じように豊洲市場問題では明らかな搾取が起こっている。臨海部の土地開発や新銀行の失敗は真面目に働いていた市場の人たちの犠牲のもとで清算された。だがそれを非難する人はいない。さらに、今後この市場が赤字を垂れ流しても誰も責任を取らないだろう。つまり、自己責任は非難されても組織が社会に依存することはそれほど抵抗なく受け入れられてしまうのだ。財政が破綻寸前しそうになれば救済策が議論されることになるだろう。実際に非難されるのは生き残りをかけて築地に残りたい「わがままな目利き」と都が設定したルールを守らない「一部のわがままな業者」である。

しかし、こうしたマクロ的な問題に腹を立ててみても状況は良くならない。問題は複雑に肥大化したシステムそのものにある。システム同士が複雑に絡み合い、いったいどこに問題があるのかということがわかりにくくなっている。マスコミが散発的に炎上したところで問題は解決しない。社会主義や官僚主義が悪いというわけではなく、このシステムの複雑化が問題なのではないかと考えると、やっとイデオロギー的な対立に依存せずに問題が扱えるようになる。

現在の安倍政権は保守色が強いように思える。しかし、大きな政府を志向しているのか自由主義的な政府を志向しているのかがさっぱりわからない。実際にやっているのは、社会主義化しているセクターを守り制度を複雑化させていることだけだ。そして彼らが庇護しているシステムが生産性を失うと、制度を温存したままでその恩恵を受けることができない人を増やそうとする。つまり、誰かから奪ってくることで生き残りを図ろうとしている。派遣労働のなし崩し的な拡大と海外労働者の「輸入」は一続きになっているということになる。この裏で例えば研修生がシステムから逃げ出しているが、厚生労働省の統計では「高い賃金を求めて逃げただけのわがままな外国人」である。

システム全体が守られているのだから「一部の犠牲はやむをえないのではないか」と思う人がいるかもしれない。ところが実際にはこの依存傾向は拡大しつつあるところから、システムの縮小が続いていることがわかる。成人病が進行しているのである。このままでは海外からの人材獲得競争にも製品開発競争にも負けてしまうことになるだろう。

ここから導きだされる仮説は次のようなものになる。まずは社会主義的に作られたシステムを解放し、同時に行き過ぎた自由主義的のもとにある人たちに適切な保護を与えなければならない。これを同時並行的に行わなければならないのである。「混ぜてはいけないが相互にとりくまなければならない」ということだ。これを制度的にやっているのが本来のアメリカだった。これが二大政党制の本来の意味なのかもしれない。意外とよくできた制度だったのだ。

ここで大きな問題が起こる。自民党は自由主義政党とされるが一部で過度な社会主義的な政策を実行している。地方分権的な自由主義政党であったはずの維新もやっていることは万博の誘致や教育の無償化などの保護主義的政策をとっている。一方、野党はいったんは自由主義を目指さなければならないのだが、そのバックボーンは社会主義か社会民主主義なので一定以上の改革はできない。イデオロギーとやっていること、さらにやらなければならないことが複雑に混じり合い、日本の政党政治は身動きが取れなくなってしまっているように見える。

その意味では小沢一郎らが作ろうとした二大政党制は本質的に間違っていたことになる。日本人はその制度の意味を理解せず形だけを輸入しようとする。小沢らはイデオロギー的に混乱した自民党内部の権力闘争を野党にも拡大し、そこから抜け出せないままで政治人生を終えようとしているのかもしれない。

自由主義と社会主義を混合するとどうなるのか

先日来、出し惜しみ論を考えている。理想的な自由主義社会では個人が幸福の追求をすることで社会が発展する。一方、社会主義化が進むと出し惜しみが起こり社会が衰退するという論である。当初は自由主義が行き過ぎると自己保身を図った労働者が出し惜しみをするのではないかと考えていたのだが、どうやらそうではないようだ。新自由主義で出し惜しみが起こるというような話は聞かないが、社会主義について調べていると出し惜しみの話がよく出てくる。

一見すると、日本で社会主義が進行しているとは考えにくい。もしそうなら社会民主党や共産党が大躍進しているはずである。実際に生産の現場では自由主義化が維持されている。しかし、その他の分野では社会主義化が進んでおり出し惜しみが起きているのではないかと思う。今の所出てきたのが保育のような福利厚生と賃金労働分野であるが、銀行なども国家が経営を保証することで国有企業化に近い保守的なマインドが生まれソフトな経済制約に似た状況がうまれているのかもしれない。

社会主義は失敗するがその理由はよくわからない

ソ連の誕生と崩壊は壮大な社会実験だった。ソ連の特徴は中央集権的な計画経済だ。産業発展の中期には集中的な資本投下が必要なので計画経済は著しい成果をあげるのだが、そのあとが続かない。ソ連では1960年代にはすでに問題が顕在化していたようである。恒常的な日常物資の不足が起きたのである。これについては相当研究が続いており膨大な知見があるようなのだが、実際には何が原因で生産機構が立ち行かなくなったのかということはよくわかっていないようだ。

原因の一つだとされているのがインセンティブの不足だ。つまり社会主義のもとではやる気がでないというのである。どれだけ働いても働かなくても給料は一緒なので誰もまじめに働かなくなる。起業家が一生懸命努力をしても努力をしなくても同じなので誰も努力しなくなるという。ただこの悪平等問題が社会主義を破綻させたという決定的な証拠もないということである。

これとは別にソフトな予算制約(コルナイ)ということをいう人もいる。社会主義体制下では資本主義のような倒産が起こらない。企業はできるだけ多くのプロジェクトを獲得し、投資資源を出し惜しみし、売れるかどうかに関係なく生産を行う。すると、結果的にすべてのものが足りなくなってしまうという。このソフトな予算制約説は日本にはゾンビ企業が多いから早く潰してしまえという主張によく使われており、安倍政権が登場した時にはリフレ論を攻撃するのに使われたりしていたが、その後金融改革派が衰退してしまい聞かれなくなった。

さらに官僚主義の問題を指摘する人もいる。経済が複雑化すると命令系統が長くなり肥大化する。それが非効率につながるという。命令系統の途中にいる人は失敗を恐れるようになるうえに、現場で何が必要なのかわからなくなり、全体として硬直化が起こるというのである。日本では「大企業病」などと言われる。市場というシステムと意思決定システムが切り離されて不具合が起きるのである。

適切な自由主義がうまくゆく理由

ソ連型の社会主義がうまく行かない理由はよくわからないものの「人は支持された通りには動かないかもしれない」ということと「計画を立てる人たちが肥大化する」ことがやがて生産性の低下につながっていることはわかる。このことから逆に考えると、自由主義がうまく行くのは需要と供給の決定が効率的につながっているからだということがわかる。一人ひとりの判断はわがままに見えても市場全体としては正当化されるのである。企業は利益を追求しようとして営利企業を運営し、労働者は自分の労働力が高く売れるところで就職して賃金を得るということだ。

ところが、自由主義は別の問題を引き起こす。自由主義もまた強者を生むのである。例えば企業は労働者より力が強いので労働者の自己選択は制限される。すると、企業は地位を利用して労働者を搾取するようになる。さらに大きな企業も特権的な地位を利用して中小企業を搾取するようになる。こうした地位の格差までを自由主義の一部として肯定しようというのがいわゆる新自由主義であり、格差をできるだけ少なくして自由主義をうまく回して行こうという社会民主主義があると考えられる。アメリカのように社会主義への抵抗が強い国ではリベラルなどと呼ばれたりする。

いいとこ取りは可能なのか?

このように共産主義も自由主義的資本主義も欠陥があるのだから「いいとこどり」をすればいいのではないかと思いたくなる。

日本では生産と賃金労働者には自由主義経済を割り当てている。生産者はものを作らなければならず、労働者は働かなければ賃金が得られない。ところがそれとは別に国に守られているセクターがある。中小企業は潰れるが大手や金融機関は政府に保護される。また国家プロジェクトも国二保証されている。ところが国や地方自治体のプロジェクトはいつの間にか肥大化する。

例えば豊洲新市場が移転に失敗したのも社会主義の行き詰まりで説明ができる。経営意欲も能力もない東京都が魚市場という自由主義的経済に片足を突っ込んだ結果大惨事を引き起こしたという事例だ。

築地市場が豊洲に移転したのは、築地が蓄積していた儲けを都の他の事業の失敗の穴埋めに使いたかったからである。背景にあるのは小説家出身の政治家がもっとも資本主義的なノウハウが必要な銀行事業に手を出した失敗の穴埋めという事情がある。都はその他にも臨海部の開発に失敗していた。そこで、銀座近隣にあり高く売れる見込みが高い築地の土地を処分して有毒物質が埋まっていてマンションが建てられないところに移転するという計画が建てられたのだ。

しかし、それでも建築さえうまくできればまだ見込みはあった。しかし、初期投資にも出し惜しみがあった。結果として、汚水が上がり、トイレが水浸しになり、壁にヒビが入り、床も抜けている。予算制約のある中で現場の意見を聞かずに建物を作ったのだろう。資産は搾取され、プロジェクト予算は過大に要求されるが、実際の支出は抑えられてしまう。都側は「床に穴が空いたのは業者がルールを守らなかったからだ」と言い訳をするのではないだろうか。つまり、都側の出し惜しみを利用者に転嫁し「わがままだ」と断罪するのだ。魚市場は自由主義的に作られた流通システムの一部なので誰も責任を取らず改革案も生まれない豊洲はこのままでは崩壊するだろう。だがこれを温情的に温存することによって都民はこれからも高い補填を迫られるだろう。この豊洲の問題は市場という限られた環境で起こっているので社会主義の失敗が見えやすい。

ところが、保育園の問題は全体が見えにくい。国が予算を割けば企業がそれにフリーライドする。しかし保育予算という費目ではフリーライドがわからない。実際には企業は人件費を削減し、保育という支出をどうするのかは父母の問題と考えられるからである。最終的にはかつては企業が正社員である夫の人件費として肩代わりしていた保育費用を税金で賄うということになってしまう。受益者は父母なので、消費税などの直接税で賄おうという話になってしまう。消費税を福祉目的税にという話に騙される人は多い。結局、企業が福利厚生から退出しているだけなのだが、子育てというと何かいいことのように感じられて反対しにくくなるからだ。

さらに、雇用確保のために企業を潰さないようにしようとして政府が労働市場に介入することになれば、さらに複雑な問題が起こるだろう。この上憲法が改正され高等教育が無償化されることになれば、実質的に国有産業化する。こうなると産業の発展も教育も社会主義化されることになるのだが、国が「介護に人が足りない」といえば、その労働者を育成する教育に予算が割り振られ、そこに「出し惜しみ企業」が参入し、システムが非効率化するというようなことが起こるようになるだろう。これが「弱肉強食」の新自由主義セクターと混合することにより、予測ができない事態が起こるものと思われる。それぞれのシステムについて計算する人はいるが、全体を計算する人はおらず、また「神のように万能」でない限り計算できる人もいないのである。

自由主義の一部混合で崩壊したソ連

日本は自由主義経済の一部が社会主義化しているという点で混合経済化が進んでおり、これが複合的な汚染を引き起こしている。実際に起こっているのは総合デザインなきシステムの複雑化だ。例えていえばやみくもに広がった石油コンビナートに設計図がないようなものである。どこで不具合が起きているのか誰もわからないのである。

この逆をいったのがペレストロイカだそうだ。ペレストロイカでは自由主義市場を作らないままで意思決定を分権化してしまった。このため部分最適化が起こり市場が不均衡を起こしたという。

具体的には中央計画経済が中止され何がどれだけ必要なのかがわからなくなった。その状態で企業が儲けを優先して高価格製品を中心に製造を始める。すると日用品が不足する。しかし、国営企業なので労働者が生活を維持できるだけの賃金を供給する。すると貨幣が余り品物が足りないという事態が起こり、結果的にインフレが起きたのである。

このため中国は経済を拡大する時に特区を作り地域を限定して市場経済を導入した。狭い範囲から始め、これを徐々に拡大することにより「混合による混乱」を避けたのである。ソ連の失敗から学んだのかもしれない。

現在の政治議論は日本の問題を解決できない

今回の出し惜しみ論の結論は出し惜しみは社会主義の結果であるというものだ。ここから一歩進んで「資本主義的経済と社会主義的経済を混ぜてはいけない」ということも見えてきた。人々は自分たちが関連するセクターしか見ていない上に、政治議論も「築地豊洲の問題」とか「保育所が足りない問題」など細分化されている。だから、本質的に部分最適化の議論しかできないようになっているのである。

政治家たちは自分たちは制度を作ってやっているのにこれがうまく働かないのは国民がわがままで出し惜しみをしているからだと考えている。そしてまた別の制度を作ったり、苛立ちから「人権を取り上げるぞ」などと恫喝して議論を混乱させている。

このように政治家はあてにできない。我々は一度立ち止まって現在の政治議論の対立構造から抜け出すために努力をすべきではないかと思う。

保育園にわざと落ちる「わがままな」親たち

先日は憲法改正と外国人労働者受け入れの問題から「出し惜しみ論」について考えている。この一環として日本に蔓延する「わがままな親たち」について考える。片山さつきによると「私たち」自民党は国民は義務を果たさず権利ばかり追求すると考えている。このわがままさの正体がわかれば自民党の世界観が正しいかどうかがわかるはずである。

保育園わざと落ちる問題についておさらいしておく。この現象は不承諾通知狙いと呼ばれている。東洋経済から抜粋する。東洋経済によると不承知許諾通知狙いは慢性的な保育政策の不足から起きている。

ヨーロッパの先進国では、3歳もしくはそれ以上の育児休業をとれる国も少なくありません。しかし、日本の育休制度は、あくまでも1歳までが原則で、育休延長は保育園に入れなかった場合などの救済策として設けられているに過ぎません。

このことが、実はさまざまな歪みをもたらしています。

育休は1年間は取れるのだが、それ以降2年目までは救済策として整備されている。この救済策を受けるためには「保育を申し込んだが受け入れられなかった」という実績が必要である。一歳児はまだまだ手がかかる上に、職場に復帰してしまうと「男性並み」の働きが求められるため、子育てと職場の両立に不安を持つ親が多い。だから最初から保育園に落ちたことにして不承諾通知を狙う人がいるのである。わざと人気の場所を選ぶ人がおり、選ばれても通えないからと辞退する人に多いそうだ。彼らは職場とキャリアを失うのが怖いので「彼らができる範囲で」最適な行動を取ろうとする。これが制度を混乱させている。つまり、親のわがままとは部分最適化行動なのである。

不足のある政策は部分最適化行動を生み政策の不足を助長するということになる。

ポストセブンも同じような解説をしている。

制度を作るとその制度を「有効に活用しよう」とする人が出てくる。しかしその他に自由度がない(夫は育児を手伝ってくれずその余裕もないし、職場も人手が足りず育児中の女性を特別扱いできない)うえに制度そのものも十分ではないので、その制度の中で最適化を図ろうとしてますます制度が混乱するという悪循環が生まれる。

保育園の数が十分あればこんな問題は起こらないはずである。ではなぜできないのか。これについて、以前地元の市役所に取材したことがある。予算制約があり駅前の便利な土地にたくさん保育園が作れない。統計上の数合わせのために空いた土地に作ったりするのだがそこには需要がない。無理して便利な土地に作ってしまうと今度は別の問題が起こる。今まで保育園がないからといって子育てを諦めたていた人たちが子供を作ったり、キャリアを諦めなくなったりする。すると保育園の需要が増えてしまうのである。

複雑に思えるかもしれないのだが、起こっていることは単純だ。既存の変数から計算して保育園の需給予測を立てる。しかし、保育園の数が変数になり需要を増やしてしまうという「フィードバック効果」が生まれる。だから、いつまでたっても数字が確定しない。市役所の人たちは薄々これに気がついているが理論化まではできない(そもそもそんなことを考えていても仕方がない)ので、「国が決めること」だとしてコントロールを諦めてしまっているようだ。

ここでもう一つ重要なのは「保育園の数がいつまでも足りない」ということである。計画的社会主義の供給が不足に陥ることは経験的には知られている。ソ連ではすべての生活必需品を計画生産していたが、1960年代ごろまでに破綻し「いつもモノが足りない」という状態になっていた。いくつか要因は挙げられているが、何がキードライバーなのかは確定していないのだという。個人的には社会主義にはインセンティブを与える仕組みがないからだと思っていたのだが、これが主犯だという証拠もないそうである。

日本は資本主義社会なので日用品の生産は充足している。足りないのは介護や子育てなどの福祉分野と労働賃金である。この二つの分野で社会主義化が起こっていると仮説すると状況がうまく説明できる。

政府がどのくらい市場に介入すべきかというイデオロギー的な問題は横に置いておいたとしても、政府が介入するとところでは部分最適化が起きなおかつ供給はいつまでも過小なものだろうという予測はかなり確度が高い。保育所がいつまでも足りないように海外労働者も充足しないだろうし、それは賃金の慢性的な不足という意味で日本の消費市場をじわじわと衰退させるだろう。

前回蓮舫議員のツイートを批判したのはこのためだ。つまり、蓮舫議員が「不足人員の需要を出せ」といったことが、彼らが意図した華道家は別にして計画経済的な視点になってしまっているのだ。

実は政府が計画を作ってしまうと、その枠までは低賃金労働者が供給できる可能性があるという宣言になってしまう。すると、その低賃金労働に人が張り付くことになる。実際に各産業ではこの数字を巡り「自分たちの産業にも多くの人を割り当てるべきだ」という声が出始めている。(毎日新聞)こうすると賃金を上げずに企業活動が維持できるのである。そしてそれはアパレルのゾンビ企業を温存する。これも社会主義では「ソフトな予算制約」と呼ばれる問題に似ている。

一方、対象から外れたコンビニやスーパーは、将来受け入れ対象になることをめざし、経済産業省などと協議を続ける。縫製業務などで外国人技能実習生を多く抱える繊維アパレル業界も「認定されれば工場の安定的な操業につながる。ぜひ対象に加えてほしい」(ワコール)と求めた。

安倍首相はアベノミクスで経済が成長すればその果実は地方と労働者に滴り落ちると説明してきた。しかし実際にはその果実が滴り落ちることはなく、安い賃金労働者がもっと必要だから海外から調達してこようという話になっている。野党はこのことを追求することなく「確実な需給予測を」と言っている点から、安倍政権だけでなく野党も資本主義経済についてよく理解していないことがわかる。狭い村を基本に行動する日本人はもともと計画経済志向が強いのかもしれない。だが実際の経済は一部の人が完全にすべての情報を把握できるような大きさではない。

政府が市場に関与すればするほどソ連型社会主義の「不足」の問題が出てきてしまう。だが、自民党は構造的な問題を解決することはなく「国民がわがままだから自分たちの素晴らしい計画がいつまでたっても成就しない」と考えて「天賦人権を取り上げて政府が指導すれば問題は解決するのではないか」と推論するようになってしまったのである。

数年前に「天賦人権はふさわしくない」と言い放った片山さつきは今や大臣になっている。そこでわかったのは公職選挙法を都合よく解釈して各地に大きな看板を作ったり、カレンダーを会議の資料だといってプレゼントしたり、さらには自分の名前を使って勝手にいろいろな商売をするであろう人を無償で秘書として雇ったりということをしていた。一生懸命自分のキャリアを守ろうと試行錯誤する親がわがままと言われる一方で、政治家の私物化はわがままと呼ばれることはない。

これが自民党政権を放置し続けたツケなのかもしれない。

安倍政権はどうやって国の活力を奪うのか – 出し惜しみ説序論

今回は社会主義的出し惜しみ理論というものを提唱したい。手始めに取り上げるのは自民党憲法草案と今回の海外労働者の受け入れである。共通点はないようだが根幹にあるマインドセットが似ている。

前回は2012年の自民党憲法草案を見た。これは過去の国民主権を継続しているように見えながら、実際には国体が先にあり、国民がその構成物という役割を割り当てられていることがわかった。国民は国体を継続させるための添え物であり、何かあった時には率先して国体を守るべきだと考えられてる。政治家が動員できる便利なリソースが国民なのである。

なぜ隠れた主語画政治家なのだろうか。それは君主であるところの天皇に権力を戻すべきだとはなってはいないからだ。天皇には元首という役割が与えられているものの、天皇の権能について定めらているわけでもなく、天皇から下賜されたという形式もとらない。

政治家はうっすらと、国民主権からも天皇の監督からも解放され独自の権限を持つことができるようになる社会を夢想している。つまり、戦前の軍隊のような存在になれるということである。政治家が国民から選挙されて選ばれるという点は変わらないので権威は国民に由来するはずなのだが、その権限は「公」によって制限され、その「公」は実際には国会議員と官僚からなるという込み入った回路のようなわかりにくい統治機構が想定されている。

現行憲法はアメリカの憲法を「コピペした」とされているそうで、この複雑な回路の問題はない。アメリカ憲法は「アメリカの人たちは自由な国に住みたいからアメリカ合衆国を作りましたよ」と言っているし、「日本国民は平和を望む人たちと仲良くやって行きたいから日本の憲法を作って日本という国を構成することにしましたよ」と言っている。こうすることによって国民を団結させ、理想とする社会の建設を促しているわけである。つまり、権威や権限というのは実は活力とつながっているという隠れた配線がある。

いずれにせよ、自民党が考える世界では、日本という入れ物があり、そこに入れるものとして日本国民がある(「いる」ではない)と考える。さらに政治家は国民はわがままだから制御ができないと思っている。(片山さつきの天賦人権否定発言)では、その日本を支えるもの(人ではなく「もの」である)が減ったらどうするのだろうかという問題が出てくる。

支え手がいなくなるのだから国から活力が奪われる。というより、活力が奪われているから国民が減っているのだとも考えられる。本来なら国民を動かして「自分たちのよりよい社会を守るために頑張ろう」と「みんな」が考えるというのが国の姿である。ところが国民を理不尽でわがままだと思っている政治家は誰の心も動かせない。

不況が定着しており団塊の世代が働いていた時にはまだ少子化の問題は喫緊の課題としては捉えられていなかったようだ。このころには女に無理して子供を産ませればいいんじゃないという政治家がいた。女性を「産む機械」と定義して「一人一人に頑張ってもらうしかない」と言っていた。(柳沢伯夫の産む機械発言・2007年)批判が多かった発言だが、自民党の議員にとっての人間は「もの」なので彼らにはそれほど違和感のある発言ではなかったのだろう。

ところがこの後も出生率は改善しなかった。そのうちに団塊の世代が退職しはじめ、景気も上がり始めたことから、低賃金の働き手が足りないという事態に陥っている。ここから「働き手」という機械が足りないなら外国から連れて来ればいいじゃないかという発想につながっている。貧乏なら自分たちのいうことを聞いて働いてくれるだろうということだ。これは奴隷使いの発想だが政治家は多分そうは思っていないはずだ。彼らは政治家には国民を隷属物として使役できる正当な権利があると考えているからこそ、自民党の憲法草案が書けるからである。

野党は一応反対しているが、5年間の不足の見込みを出せと言っている。これは中国やソ連がかつてやっていた産業計画の発想だ。

すると不思議なことに本当に見込が出てきてしまう。給料が改善すれば人手不足は解消するだろうし、景気が上向いたり下向いたりすれば製造業の見込も変化するだろう。しかし野党も5年の見込をだせといい、政府も数字(5年後は安倍政権ではない)が出てしまうのである。彼らは国を統計と捉え、そこにいる人たちを操作可能な何かだと考え、それがコントロール可能だし、できるべきだと考えている。そして思い通りに動かなければ統計を操作する。ついには日銀が独自に統計が出したいからソースを寄越せと要求するまでになっている。(日経新聞

ここで海外移民を入れるということを考えてみたい。一旦国体というちょっと受け入れがたい概念を受け入れてみよう。これを動かすためには低賃金の働き手が必要だがそれが調達できない。だから海外から人を調達してくるわけである。

すると日本人が明治維新以来悩んできた問題に再度直面することになる。戦前のそれは日本人を日本列島に古来から住んでいた人たちに限定するのか、それとも天皇の統治のもとにいる人たち(朝鮮や台湾人を含む)に広げるのかという問題だ。国民も装置なので海外労働者も装置だ。では日本人というのはこの装置のどの部分を指すのかという問いに答えられる政治家がいるだろうか。

戦前の日本人はこの問いに答えられなかった。列強との競争のためになし崩し的に領土を編入したがそこには生きている人がいた。それを植民地の支配民として受け入れるのか同胞として捉えるのかが決められなかった。

今度はこれを日本列島の中でやろうとしているのだから、戦前と同じ問題が起きるだろう。コントロールできないものをコントロールできると錯誤しており、その上に別の変数を加えようとしている。社会は確実に混乱するだろう。

この誰が国民で、誰が社会を支えるのかという問題が曖昧だったとして「何がすぐに困るのか」という人が多いのではないかと思う。さもなければこのような恐ろしい議論は続けられないと思う。

では、国民はどう対処するだろうかというのが次の問題になる。例えば女性はまず子供を生むことがキャリアに邪魔になると考える。さらに最近では落選前提に保育園に申し込む女性もいるそうだ。保育希望があったが叶えられないという実績があれば職場復帰が遅らせられるのだそうである。このように制度を作って市場を歪めれば歪めようとするほど(政治家から見れば制度を作って状況をコントロールしようとすればするほど)国民は「制度ができたらその枠内で一番得になるように行動しよう」と考えるようになる。

「公」を持ち出して状況をコントロールしようとしてもその通りには動かない。部分最適化が起きて、活力が奪われる「出し惜しみ」が起こるのである。実は与党も野党もそれぞれ思惑は違うのだろうが、同じ間違いの協力者になっているということになる。

「公」を持ち出して状況をコントロールしようとしてもその通りには動かない。部分最適化が起きて、活力が奪われる「出し惜しみ」が起こるのである。実は与党も野党もそれぞれ思惑は違うのだろうが、同じ間違いの協力者になっているということになる。