安倍首相はなぜ<嘘つき>なのか

徳知政治について考えている。もともとのきっかけは「安倍首相は徳のない嘘つきの政治家なのか」という疑問から始まった。この質問には需要があるようだ。と「安倍首相や小池百合子東京都知事は嘘つきやサイコパスである」というタイトルを立てると「読み込まれる時間」が全く異なっていることがわかるからである。全体的に安倍政治が容認されている一方で「これには我慢できない」と感じている人が増えているのだろう。

だが、今回実際に調べるのは「論語」である。小倉紀蔵という京大の先生の書いた「新しい論語」というテキストを使うので、興味のある人はぜひお読みいただきたい。この本を読んで論語は考えているよりも面白いテキストだったのかもしれないということだった。人権について知りたい人はキリスト教の哲学を一通りおさらいしておくべきだと思うが、保守政治を語る人は論語を読むべきだと思うし、知らないともったいないとさえ思った。ただしこれは論語が面白いというより小倉さんの論語解釈が面白いのかもしれない。

もともとは論語を中身を原典を読まずに手っ取り早く理解するという目的で手に取ったので最初はがっかりした。小倉先生が「これまでなかった論語の解釈をするぞ」という意気込みで書かれており、興奮気味に「これまで誰もこんな解釈をしたことがない」と書いているからである。

変な印象をつけたくないのであまり多くは言及すべきではないのだが、論語の「儀礼」の精神はむしろロックフェスや古代ギリシャの演劇祭に近いもののように思える。「動作」そのものよりもその中で生まれる一体感のような「感覚」が重要なのだというのである。

小倉先生は第三の生命という言葉を使っている。肉体的な生命を第一の生命としているのはわかるのだが、宗教的に拡張された生命を第二の生命としており、それを越える(あるいはそれとは違った)という意味で第三の生命という言葉になっているのだが、個人的には宗教であるキリスト教の世界観にそれほど違和感はないので「第三の」はしっくりこなかった。つまり、宗教的な体験とそれほど違いはないように思える。

キリスト教は教会の活動がすべてだとして聖書を一人歩きさせることを許さなかったのだが、孔子の主張はテキストが一人歩きして様々に解釈されるようになる。そこで「先生や国のいうことを聞いて死んでゆきなさい」というような道徳が生まれることになった。現在のいわゆる保守の人たちのいう「日本の国柄」というのは集団のために犠牲になれというメッセージと、その国柄は保守の人たちだけが知っているのでとにかく自分に仕えなさいというメッセージが組み合わされたものだが、もちろん孔子のもともとの主張にはこのような意図はなかったのではないかと思われる。ただし、そう曲解されても仕方がないようなテキストは残されている。

まず基本的なところを押さえておく。前回までのエントリーでは徳と仁の違いがよくわかっていなかったのだが、徳の中に仁・義・礼・智・信という五つがあるそうだ。孝悌はこの四つの徳目には入っていない。この構成も旧約聖書に昔の価値観が入っていることを考えると理解しやすい。例えば同性愛は旧約聖書では忌避されるべきものだと考えられているのだが、更新された現在の教会ではずいぶん許容されている。当時の社会常識としては当たり前だったものが、もともとの精神を殺してしまうこともあるのではないかと思う。

小倉さんの説によると、孔子が徳と考えた仁は人と人との間に立ち現れる「何か」なのだという。孔子のいた魯国は周の儀礼をよく保存していた地域なので各種の儀礼を通じて先祖や社会との間に一体感を感じていたのだろうというのである。経験的に感じられるものであり明確に定義はできないので、弟子があれこれ「仁」の定義を探ろうとするが孔子は周囲に明確な答えを与えなかった。

キリスト教ではこの徳目を「愛」と呼んでいるが、中国語での愛は個人的な感情であって、公共や社会とつながる「仁」の方が高尚だと考えていた。仁は言葉の成り立ち上、人と人との間にあらわれる「何か」を意味している。人間の中にあるものとされ、果物の核のことも仁と言ったりする。

この定義のないものを追い求めるのが儒教の基本的な実践である。一生を通じて「人の徳とはなにか」ということを学ぶのである。

学したことを時々習う。これは説(たの)しい。友達が遠くからやってくる。これも楽しい。人が知らなくても慍(いきどお)らない。これが「学ぶ」ことである。

「学」は調べたり情報を集めたりすることを意味するようで、習とは実際に練習してみることを意味するようだ。また、思いついても学しなければ危ういし、学しても思わなければ何もわからないと言われているので、単に「こうかなああかな」と思っていてもあまり意味はないということになっている。つまり、思いついたことを調べ、時々練習するということを繰り返して、徳の核心に近づいて行くのが儒教の学習なのである。

この本には出てこないのだが「智」という別の徳目も「口から出てくる矢が曰れる」ことを意味するようで「ズバリ本質をついた発言をする」という意味のようだ。つまり智はたくさんのことを知っているということではないようである。中国人が学んで実践することについてかなり細かい区分けをしていたことがわかる。

この本によると君子にはいくつかの意味合いがあるとしている。一つは学習を通じて「徳」について考える人たちである。儀礼の実践もこの学習の中に含まれるのであろう。もう一つは巧言令色な人たちである。これは当時の事情がわからないと理解できないと、小倉は主張する。

孔子はもともと山東省魯国の郷党社会の一員だった。母親は巫女だったそうである。民間習俗とされる地方の礼には詳しかったが、周の儀礼をよく保存する魯国の朝廷儀礼には詳しくなかった。しかし自ら学問に勤しみ「礼の専門家」であるとして朝廷に出入りするようになる。そこで様々なことを一から聞き直して礼を知識化してゆく。最終的には3000人ほどの教団になり周国の礼を保存してゆくようになった。周は都市の氏族社会の連合体だったのだが、やがて争うようになり、最終的には統一国家としての秦に取って代わられた。

つまり、立派な人を意味する君子には三つの意味があることになる。旧秩序の中で地域の王となれる資格を持った元々の意味の君子がいる。孔子はこの君子ではない。また、競争社会になり見た目がよく言葉が巧みな(今の言い方をするとコミュ力の高い)君子が現れていた。しかし、孔子はこうした人たちには「仁は鮮(すく)ない」として、儀礼の意味を考えながら実践してゆく君子像を作ろうとしたのである。

孔子がどう「仁」を定義付けたのかということを離れると、社会が生き生きとするためには政治家や統治者と庶民の間に「生き生きとした一体感」が必要であるとおくことはできる。すると、安倍首相は日本のトップリーダーなので「君子」的であることが望ましいということになる。優れたリーダーのために「頑張ろう」と思える時に社会に一体感が生まれるからである。ただ、もう一つおかなければならないのは「グローバル化」との関係である。グローバル化した社会で必要とされるリーダー像はまたこれとは異なっている。

周という中心国家は弱体化しており氏族社会が崩壊に向かっていた。もともと周の権威の元に地方の貴族的な有資格者がいてそれを「君子(立派な人)」と呼んでいたらしいが、混乱した実力社会に入りつつあったので「容姿がよく言葉が巧みな人」が取り立てられる傾向があった。これが「巧言令色」である。巧言令色な人には仁が鮮(すく)ない(鮮には鮮やかという意味と稀であるという意味があり、それがどう関係しているのかはよくわかっていないようである)と言っている。しかし、結局勝ったのはグローバリストだった。「秦国」という国家ができ、都市国家の集合だった周の社会はなくなってしまったからだ。

この状況が今の日本に似ているからこそ「論語は面白い」と言えるし、魯国の状態を今の日本に重ね合わせて小倉さんの論語解釈があると言える。

例えば運動会の時に苦労して一つの行事を成し遂げる。時には徹夜もして一生懸命に頑張った。多少の失敗もあったがみんなの間に笑顔が浮かんでいる。この感覚はいずれ消えてしまうだろうが連体感として一生残るであろう。「人と人との間に立ち現れる」ものというのは容易に想像ができる。これを政治に展開すると「一体感がある政治」という理想像が見えてくる。

だが、「みんなの運動会」であるはずの東京オリンピックにはこのような連体感はない。全ての行動が搾取と疑われて、イベントを私物化しているのではないかという疑いを持たれている。この冷めた感覚は「オリンピックを私物化」したい人がたくさんいるから生まれるのかもしれないのだが、そもそも「イベントを通じて一体感を味わおう」という感覚が古臭いのかもしれない。

この辺りがはっきりしないので「自民党的」な人が政治やイベントに触れるとそれはことごとく生き生きとした感じを失ってしまう。少なくとも(小倉さんが主張する)孔子的な仁とは異なっている。安倍首相は真剣な議論には正面から答えず、ご飯論法で議論を歪め、黙って官僚の書いた文字を抑揚のない調子で読んでいる。これは「生き生きとした政治」に恨みがある人が、政治から生き生きとしたものを殺している姿である。安倍首相は仁という徳目を殺すことを毎日実践しているのだ。

だが「仁ある政治」を復活させるべきかどうかはよく考えて合意する必要がある。本当に政治や社会に一体化した「あの感じ」は必要なのだろうかということである。

仁とはいきいきとしたものなので、言葉がうまく理路整然と周りを納得させられる巧言令色な人たちの間にはあまり見られない。つまり孔子は古くからあった伝統的な儀礼などのなかに定義ができない「仁」という生き生きとしたものがあると考えたのだろうというのが小倉の説である。つまり巧言令色とは合理性だと言える。周の後継国家になった秦国は、行政単位を整え、法令や度量衡制度を統一した。こうして世界を合理的に統一しようとした。儀礼を通じて何かが立ち現れるのを待つのではなく、合理性で世界を理解しようとしたことになる。ただ、人間は完全に合理的な世界には耐えられない。必ず言葉で割り切れないものが残るからだ。小倉さんの本には書かれていないが、儒教が生き残ったのはこうした事情があったからかもなのしれない。

これまで安倍首相は「空である」という論を展開してきたつもりなのだが、仏教的には「空」は最終解脱地点なのでこの定義はふさわしくなさそうだ。東洋にはゼロを表す言葉が二つある。一つは空でありもう一つは虚である。虚はもともとあった場所に何もなくなってしまったことを意味するそうだ。廃墟などという使われ方をする。安倍首相は折に触れていろいろなことをいう。しかしその言葉は「かつては意味を持っていたのだろう」が「今は虚しい」ものが多い。

官僚の書いた文章に感情が乗らないのもその中身に興味がないからだろう。目の前の問題や相手の苦境には一切関心がなく、未来への危機意識もない。やりたいことを問われると憲法改正と答える。しかし、憲法改正をして何をやりたいのかがさっぱりわからない。「戦後レジームからの脱却」とか「中国の脅威」とか「おじいさんに言われた」などと言っているが、何が本心なのかもさっぱりわからない。

「嘘」は口からでた虚を意味する。文法的には意味があり、かつては実を伴っていたかもしれないが、今は誰の心も動かさないということになる。安倍首相は嘘の政治家だという本当の意味は、この人の言っていることに実がないからであり、それが「社会を信じているすべての人」を苛立たせるのである。そして安倍首相の嘘を信じる人たちは「社会や公共」という私を越えたものを重んじず、すべては私物化の対象であると確信しているからこそ、安倍首相を指示できるのだろう。

孔子の目指したものが人々の間に時折立ち現れる生き生きとした何かであったかどうかは一冊の本を読んだだけでは確認のしようもないわけだが、少なくとも安倍首相という現象は「生き生きとしたもの」をかたっぱしから殺してゆくという意味で君子の対極にあるということが言える。そして、そうした人こそリーダーとしてふさわしいと言っている自民党はすでに終わっており、そういう終わった党にしか国家をまとめられないほど、我々の社会は行き詰っているということになる。

安倍首相のような虚の政治家が跋扈するのは、我々が村落社会に住んでいてある程度の一体感を感じていた社会を抜けて、巧言令色が支配する社会に移行する途中だからなのかもしれない。つまりどうしていいかわからなくなってしまっているのかもしれない。ただ、合理性が支配する社会ができたとしても「割り切れないもの」は残るので徳治の重要性は変わらないものと思われる。

安倍首相はなぜ空洞の国で独裁者と呼ばれるのか

Twitterで安倍首相は独裁者だというタグを見つけた。これを見てちょっとした違和感を覚えた。日本は基本的に強いリーダーシップを好まず、安倍首相にも強いリーダーシップは感じられないからである。

安倍首相が独裁者と呼ばれる理由を考えると、背景にある現在の日本のマインドセットがわかる。ここで「日本人」のと書かなかったのは、このマインドセットが変化するからである。どのように変化するのかということを観察すると「ここから抜け出すにはどうしたらいいか」や「それが適切な戦略なのか」が見えてくる。これまで民主主義と東洋思想という観点から国の統治について考えてきたのだが、いったん答えが見えるとこうした思想体系についての分析はあまり意味を持たなくなる。

実際に日本人は原理原則にはあまりこだわりがない。このブログの閲覧履歴を見ると、ニュースのディテールをまとめた記事は熱心に読まれるが、東洋的な長幼の序について書かれた記事はあまり読み込まれなかった。日本人は、周りがどう行動しているかは気にするが、原理原則にはあまり関心を持たないのである。どう逃げるかが重要であり誰と逃げるかは重要ではない社会なのだ。

これはこれまでの観察とも合致する。日本には個人の良心に基づく民主主義も、中国の哲学をもとにした保守政治も存在しない。東洋的な保守政治は強いリーダーが徳を持って政治をするのが伝統なのだが、そもそも日本には強いリーダーシップはない上に、いわゆる保守という人たちも「天賦人権はおかしい」というばかりでそれに代わるリーダーシップを提示しないことからそれがよくわかる。保守を名乗る人はそう言っておけばこの状況から自分だけは逃げ切れると考えているにすぎない。

実際に日本が1000年の歴史をもっていようが、100年の歴史をもっていようが、自称保守の人たちにとってはどうでもよいことなのである。だから彼らは科学的根拠の全くない神話を持ち出して「日本には長い歴史があるのだから個人には意味がない」というばかりである。彼らはどうやったら自分だけが逃げ切れるかということを熱心に考えているにすぎない。

この状態で東洋思想や西洋哲学について調べてみてもあまり意味はない。実際にやってみると「自分は博識である」と披瀝したい人が熱心に「自分が知っていること」を語りだす人が少なからず出てくる。これも彼らの世界観を投影して他人に押し付けていてマウンティングしようとしているだけで、実際には哲学や思想について語っているわけではない。「価値観が共有されない」ことに苛立ちを覚える人はおらず、自分だけが知っていると語りたがることから、問題解決ではなくマウンティングが主目的であるということがわかる。

今回の北海道の地震と台風21号の事後処理で、安倍首相が力強いリーダーシップを発揮して復旧に全力を尽くすように見える絵作りが行われている。しかし、安倍首相が最も関心を寄せているのは総裁選挙である。安倍首相は細かいことには興味がないが地位には強いこだわりを持っている。やりたいことはないがなりたいものはあるという人である。

これを見た一部の人たちは、NHKを独裁国家の国営放送のようだと非難しているのだが、やりたいことがないのに独裁者になれるはずはない。だから独裁者というのは周囲が作り出した幻想にすぎないのだ。中にはなりたいものがあるのだからやりたいこともあるのだろうと思う人もいるかもしれないが、もしやりたいことがあればもう実現しているはずである。

安倍首相の像が作られたものであるということは役割分担を見てもわかる。例えば関西空港が止まったことに対して謝るのは関西空港の人たちだが再開を発表したのは安倍首相である。つまり成果を安倍首相に集めることで「力強いリーダーシップ」を偽装しているのだ。産経新聞社は高らかに「安倍首相が死者は16名である」と語ったと報道しているのだが、実際には間違いだった。しかしこれを謝罪するのは菅官房長官である。「ぼーっと生きている」普通の日本人は安倍首相に任せておけば日本は大丈夫だと考え、それがごまかしである(実際に嘘のつきかたはかなりあけすけだ)と考えている人には嘘つきの独裁者に見えるのだ。

安倍首相の嘘は大勢の人たちに支えられており、それ自体が嘘である。何もやりたいことのない嘘つきを中心に据えることで、自分たちは責任を追求されなくて済むと考える人が多いのだろう。逆に周りの人たちは「議論」が起きて抜本的な解決策を模索されると困る。議論をすると課題に向き合わなければならなくなるからだ。この点、石破茂は危険である。内閣を中心に会議体を作って経済政策を行おうとしているのだという。ロイターから引用する。

経済戦争や金融市場の不安定化に対応するため日本版NEC(国家経済会議)を創設するとした。地方創生のため、「創生推進機構」を設立し、官庁や企業の地方への人材移転を掲げた。専任大臣を置く形での防災省の設置も盛り込んだ。

乱立している会議体を整理すると公言しているのだが、会議体が乱立しているのは関係者たちを満足させて責任の所在を曖昧にすることが目的である。問題解決ではなく利権の確保が問題なのだから「余計なことはしないでくれ」と思うのも当たり前なのではないだろうか。

特に小池百合子の乱を経験した東京出身の自民党関係者は石破の「危険性」をよく知っているはずだ。東京自民党は小池百合子に既得権益層であると名指しされて壊滅させられたという苦い経験をしている。そして、こうした「名指し」が単なるパフォーマンスであり問題を解決しないこともわかっている。

小池百合子はよそ者で女性というアウトサイダーであるがゆえに、既得権を攻撃して世論を味方につけるしかなかった。一方で、東京都民は彼女が「総裁選にも出た保守本流の政治家」に見えたのだろう。よそ者が権力を握るためにはインサイダーであり破壊者というイメージを持たれるしかないのだが、これは以外と狭い道である。小池はそれをやってのけたという意味では稀有な戦略家だった。

だが、これは彼女が得意とするイメージにすぎず、実際には自民党が持っているはずの政策ブレーンなどは利用できなかった。「小池党(たしか名前があったはずだが忘れてしまった)」が増えても政治経験がなく、ブレーンも怪しい人のようだ。つまり、彼らが実際に会議体などを作ってしまうと、利権が攻撃されて「めちゃくちゃ」になってしまう上に、新しくできた会議体も結局は何もできない。これで大きくこけたのが民主党政権である。素人が政治に手を出した上に未曾有の災害も起きてしまったので収拾がつかなくなり改革は3年で頓挫した。民主党政権はイメージから実務の党になろうとして破綻したが、小池都政は「政治は所詮イメージ」という徹底した思想に貫かれており未だに破綻していない。破綻が起こるのは実際に何かをしてしまった時である。オリンピックの期限が迫り、豊洲市場が運用を開始すれば問題が噴出するはずなので、そこで彼女の4年間が何だったかがわかるだろう。

逆に安倍首相は「やりたいことがない」からこそ、利権集団のまとめ役として「利用しがいがある」ということになるだろう。安倍首相には日本を統治する意欲はないので「憲法というおもちゃ」を与えて、強いリーダーであるというイメージに酔わせておけばよい。適当にやり過ごして3年が過ぎれは、その時のことはその時考えればよいということになる。もっとも利権集団が憲法を「おもちゃ」と考えているのは、書かれているものはいかようにでも解釈すればよいから実質的な意味はない考えているからだ。これが本当にそうなのかは誰にもわからないが、少なくとも平和憲法はそのように運用されてきた。

いずれにせよ、日本には細かな利権集団がたくさんあり「力強いリーダー」を祭り上げることによって外から干渉されることを防いでいる。これが日本が和を強調する国に見える基本的な原理だ。そして本当に強いリーダーシップが登場すれば、協力しない(あるいは表面的に協力する)ことで干しあげて潰してしまうのである。

だから安倍首相が周りの協力で強いリーダーに見えるとしたら、それはすなわち安倍首相がリーダーにはとてもなれないということが共通認識としてあるということを意味する。石破茂の人当たりがよいのはあまり人望がない(ゆえに周りに取り込まれていない)人が権力を奪取するために人当たりをよく見せているということを意味する。石破はその意味ではリーダーだが、多分類型としては「小池型」のリーダーだということが言えるのではないだろうか。

「不正」や「嘘」というと自動的に安倍首相が思い浮かぶ

面白いニュースがあった。石破茂総裁候補が「正直・公正」というスローガンを封印するかもしれないと言ったそうだ。党内で「今の総裁に批判的である」という批判がでたからだそうだ。

「正直、公正」は、学校法人「森友学園」「加計学園」の問題を念頭に石破氏が安倍晋三首相(63)の政治姿勢を批判したと受け止められている。しかし、自民党内では石破氏を支持する参院竹下派からも「個人的な攻撃には違和感がある」(吉田博美参院幹事長)という不満が出ていた。

だが、立ち止まって考えてみると「受け止められている」だけで、安倍首相を批判したものではない。にもかかわらず安倍首相が想起されており批判だと見なされてしまうという点にこの記事の真の考察点がある。

第一に自民党の中でさえ「安倍首相は嘘つきである」という認識が広まっており「正直」といっただけで首相批判が想起されてしまうということだ。このような組織でガバナンスが効くはずはない。自民党の中には嘘が蔓延し内部から崩壊することになるだろう。

次に、自分の内心に従って良心的な政治をするという当たり前のことですら自民党では「忖度」が必要ということだ。つまり、自民党はそれほど萎縮しているということである。

さらに、自民党の政治は支持されていると考えている野党が自民党に擦り寄ろうという気配もある。先日も玉木雄一郎という立憲民主党の議員が「老人に最低賃金は当てはめるべきではない」という極論を述べてネットで袋叩きにあった。長谷川豊という維新の候補者が暴論を振りかざすのも杉田水脈議員の「成功体験」を念頭に置いているのではないかと思う。これも彼らが「自民党のデタラメな政治に擦り寄りたい」という気持ちの表れなのなのだろう。

自民党の萎縮は「この先国が衰退してゆくであろうから、自分たちは今の政権にしがみついていなければならない」という恐怖心から来ているのだろう。自民党のガバナンスが内部から崩壊しても政権にい続けるとすれば、日本の有権者の多くがもはや政治になんら関心を持っていないか、嘘に依存しなければ維持可能ではないと考えているからなのだということになる。

こうした萎縮したマインドが蔓延した国で意欲にみちた経済運営ができるはずはない。その意味では今度の自民党の党首選はなんらかの意味での「最後の自民党総裁選挙」になるのかもしれない。

なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

安倍首相の嘘を懲らしめるためには野党はどう動くべきか

今回は交渉をテーマに書くのだが、ちょっと気が進まない。自分自身は交渉ごとが下手で「話し合うくらいならもう関係を維持できなくてもいいや」などと思ってしまうからである。戦略を立てるのが得意ではないのでゲームも苦手である。そんな人が交渉について書くのであまり説得力はない。

今回テーマは森友・加計学園問題の追求なのだが、なぜ「交渉」がテーマになるのかという点に疑問を持つ人もいるかもしれない。実は野党は有権者との交渉に望んでいるのだが、振り向いてもらえないために代わりに首相を追求している。これが森友・加計問題が進展しない理由なのである。

野党は「首相の関与を認めさせる」ゲームをしているが、これは実は彼らが求める結果には繋がらない。これが唯一にして最大の失敗の原因だ。しかも、最初から着地点がバレているのでうまく攻められないのである。


加計学園の問題と日大のアメフト部の問題を絡めて考えている。「そのままでは勝てそうにないという見込みがあると反倫理的行為が蔓延する」共通点があるとQUORAに書いたところ「アメフトが反倫理的だというのはわかるが、安倍首相が反倫理的だというのはなぜか」というコメントが入った。

この疑問に答えるために、公平性に注意しながらかなり長い文章を書いた。内部の人たちにとっては正義のための戦いであっても外の人がどう思うかはわからないという筋である。公平性を担保しないと「反政府側に偏っている」と思われて支持が得られなくなるというところに今の政治議論の難しさがある。日本人は集団の規則に従わない人をかなり嫌うのだと思った。

誰がどう考えても、あったものをなかったと言ったり、文書をごまかすことはよくないことだ。それでもニュートラルさを装わないと納得してもらえない。アメフトだと気軽に「嘘だ」と言えるわけだから、やはり権力に対する遠慮があるのだろう。「明らかな嘘」があっても、実は野党というのは最初からかなり不利な立場にある。

このことからわかるのは「国会」というステージで首相の嘘を暴くのは難しいということである。

野党の人たちは「首相が嘘をついているということが知られていないから不支持が広がらないのだ」と考えているようだ。そこで執拗に安倍首相に様々な攻撃をしかけている。しかし、すでに国民は安倍首相が正直であることに何の期待も持っていない。野党に政権を渡してしまうと「また大変なことになる」と思う人が多く、さらに普通の人は体制側に疑問を持ってはならないというマインドセットがあるので、野党の追求には支持が集まらないのだろう。

政権側は撤退ゲームを行っている。つまりあるボーダーラインを決めて<事実>を組み立てている。今回は財務省と愛媛県から新しい文書が出てきたことが問題になっているのだが「本筋には影響がなかった」と言い張るつもりのようだ。何か隠したいから文書を隠蔽したわけで、これはおかしな言い訳である。ゴールポーストは動いていて「明確な証拠がない限りごまかし通す」ということになっているので、いくら攻撃しても得点につながらないのだ。

野党側は安倍政権が作ったルールと安倍首相が置いたゴールの元でゲームを行っている。フィールドも敵地(アウェイ)である。これでは勝てそうにない。つまり、野党が勝つためには彼らが得意なゲームを設計しなければならないのである。

与党側も撤退戦なのだが、実は野党側も不毛な「言った言わない」でしか政権を追い落とすことができないと思い込まされている。追い詰めても相手は「ご飯戦法」で議論をすり替え、ゴールも動かす。そうして「絶対に勝てない戦い」を強いられている。

では、こうした状態を解決するにはどうしたらいいのだろうか。何か参考にできるものはないかと考えたところ北朝鮮とアメリカの「ディール」が思い浮かんだ。ディールは、あらゆる機会を捉えてゲームを作り出すところにその妙味がある。

トランプ大統領と金正恩委員長の間での交渉は決裂したとも言われており、実際に会談が実現したとしても非核化は難しいだろうと予想されている。日本人からみると「トランプ大統領は負けた」と思われても仕方がないゲームである。だが、これは日本人が最初から高めのゴールを設定して、そこに到達しなければ負けだと認識してしまうからである。

だが、実はトランプ大統領は負けていないという観測がある。トランプ大統領の目的は北朝鮮がアメリカに攻撃できないようにすることであるという。北朝鮮も核兵器の保持を既成事実化すればよい。つまり、交渉を始めて「ICBMさえ放棄させてしまえば」北朝鮮とアメリカにとってはWin-Winなのだ。文在寅大統領にとっても北朝鮮との間にパイプができれば独自に経済交渉などができるし、核兵器を持っていたとしても突発的な攻撃も防げる。これもいわばWin-Winである。つまり、彼らは意図的に衝突なりコンタクトを起こして「ディール」を作ることで何かをゲインするという方法をとっている。

と、同時に実際のどの程度のことを獲得できればいいのかということは最初から明かさないし、そもそも手持ちのカードを最初から全て見せるようなことはしない。だから相手もゴールを動かしてゲームを撹乱することができない。

実は野党の中でこの戦略をとっている政党が一つだけある。それが共産党だ。共産党は時々新しいデータや文書を出してくる。多分内部に協力者がいるのだろう。だが、それは表に出さない。会議の場で新しい情報が出たから、もう少し慎重に審議をしなければなりませんねといって相手を追い詰めて行く。彼らは完全にゲームを掌握しているわけでもないが、すべての手の内を見せているわけではない。共産党がこうしたゲームができるのは共産党を信頼している人が館長の内部にいるからだろう。彼らは彼らが得意なゲームを戦っていることになる。

この戦法をとるのであれば「最終ゴール」である安倍首相への攻撃はやめた方が良いと思う。それよりも周りにいる人たちを避難して相手に高めのゴールを吹きかけた方が良い。例えば加計学園や財務省など攻撃できる人たちはたくさんいるし、さらに言えば国会ではなく法廷闘争でも構わない。国会であれば安倍首相に守ってもらえるという人でも、別のステージで「守られないかもしれない」と思えば心理的な揺さぶりができるし、中には口を破る人も出てくるだろう。そこで、おもむろに本来の目的を遂行すればよい。

さらにテレビを通じて論戦をすることもできる。スタジオに与党議員を呼んで安倍首相の無茶な理論を繰り返し説明させれば良い。これを証明できないと「自民党の議員の質が問われる」とすればよいのである。そのうちネトウヨ議員が出てきて人権を無視するコメントなどを出してくれれば「追加ボーナス」だ。安倍首相の人格ではなく、自民党議員一般の資質を問題にすれば良いのだ。

さらに、獣医師会をいじめるというゲームも考えられる。加計学園で獣医学部は需要があるということがわかったのだし、新潟と京都はやりたいと言っているのだから総理の強いリーダーシップのもとでこの二校も作ってやればよい。すると獣医師会は慌てるだろう。そこで「加計学園は特別なのか」と言えばよい。

日本人がこうした交渉をやりたがらないのは「そうまでして勝ちたくない」と思う上に同質性が高く「政治というのはこうやって行うべきだ」という同意と思い込みが強いからだろう。しかしルールを設定して戦うことは「ルール無視の無法」とは違っている。ぜひ積極的に勝てるゲームを作るべきなのではないかと思う。

加計学園問題 – 嘘が嘘を呼ぶ

2015年4月2日に会議があったかなかったかで大騒ぎになっているのだが、あまりにも細かすぎていったい何が問題になっているのかがさっぱりわからなくなってしまった。加計学園は継続開削の対象なのでそれなりに追いかけているつもりだが、それでもしばらく目を離していると何が起こっているのかがわからなくなってしまう。今回の騒ぎの原因は首相が2017年1月21日まで「知り得る立場にいたのだが知らなかった」と言ったことが「嘘だったのではないか」ということが問題になっているようだ。これが嘘だとすると安倍首相と加計理事長の間に収賄の容疑が生じるとのことである。

この件は幾重にも「嘘」が積み重なってできているのだが、国民の間にはすでに一定の「真実」ができあがっているように思える。みんなが何を思っているかということが真実なのであって、実際に何があったのかというのはそれほど重要ではない。だがこれを言葉にしてみることは実は重要だ。意外と曖昧さが残っているのである。

加計学園の理事長と首相は昵懇の中である。同時に、加計学園は今治市との間で新しい学校を作りたいという計画もあった。しかし、関係省庁が反対し石破大臣も越えられそうにないハードルを設置したので首相に口利きを依頼した。首相は柳瀬秘書官を使って省庁に圧力をかけると形勢が逆転し、加計学園は獣医学部を作る事に成功した。

ところが、曖昧さも残る。加計学園がいつ獣医学部を作ろうと決めたのかはよくわからない。また最初に加計学園が今治市に話を持ちかけたのか、それとも安倍首相が積極的に制度を作って加計学園を応援したのかもわからない。また選定過程にも曖昧さがある。つまり、今治市が加計学園と政府を仲介したのか、それとも加計学園が今治市と政府を仲介したのかがよくわからないのである。

うろ覚えの知識では、戦略特区制度では地方自治体が事業者を選んで選定が進むことになっていたと思うのだが、調べてみるとこれについて明確に書いている資料は意外と少ない。国家戦略特別区域会議というものを開催するらしいのだが、これの主催者が誰なのかがよくわからないのである。

別の知識では首相が強いリーダーシップを発揮して岩盤規制を打ち破ることになっているのだが、首相がどこで力強いリーダーシップを発揮したのかはよくわからない。そもそもなぜ首相が力強いリーダーシップを発揮しなければ物事が進まないのかもわからない。

さらに同じ業種の戦略特区をいくつ作るのかということもよくわからない。今回は京都と新潟が落とされたようだということになっているが、この特区は地域を決めてから事業者を選ぶようになっているとすると新潟と京都は今治の件には関係なく特区を立ち上げればよい。今治プロジェクトが走っている間は新潟は同じようなプロジェクト提案をしてはいけないというルールはないはずだ。なぜ首相が力強いリーダーシップを発揮する特区制度をブロックするために別の大臣の作った基準が発動しうるのだろうか。考えてみると、なんらかの裏事情の想定を使って追加説明を加えないと特区制度そのものがうまく説明できないのだ。

つまり「あるべき姿」が何だったのかがよくわからなくなっており、従って何が嘘なのかもよくわからないという状態になっている。だが、攻撃する方もされる方もあまりそのことには興味がないようで、しきりに誰が嘘をついたとか嘘をついていないとか言い合っている。有権者も「嘘つき探しゲーム」に熱中しているようだ。

いずれにせよその意味では官邸が嘘を吐き続けるのは実は当然だ。ゴールは「加計学園の今治プロジェクトは決まり通りに行われた」ということを証明することなのだが、その途中で曖昧な意思決定が行われている。そこでそれに合わせてつじつまを合わせようとしているうちに誰もが大混乱に陥っている。するとどこかが整合しなくなる。この場合切り捨てられるのは中央から遠い人たちなので、彼らが文章を持ち出して「自分たちは正しい報告をした」と言いだして騒ぎが大きくなり、もはや収集がつかない状態だ。

この原因になっているのは首相の「力強いリーダーシップ」という嘘である。首相のリーダーシップがどのように発揮されたのかがよくわからないので。首相秘書官の関与もよくわからなくなっている。誰もが首相は日本で一番偉い人だからなんとかしてくれるのだろうと思っているのだが、実は何もしていないし監督もしていないということがわかってしまった。

加計理事長は2015年2月25日に加計学園理事長と安倍首相が会ったというのが記憶違いだったといっている。これは少なくとも加計学園が事業主体であり国も関与していると主張していることになる。関係としては「国」→「加計学園」→「地方自治体」である。柳瀬秘書官の説明でも「国」→「加計学園」→「地方自治体」ということになっている。加計学園が連れてきた専門家が「新しい獣医学部」について熱心に語ったことになっており、地方自治体はいたのかいなかったのかよくわからなかったことになっているからである。だが、実際には国は地域を設定してから事業者を決めることになっているはずである。いったいどっちが正しいあり方だったのだろう。

加計学園は今治市に96億円の支援を要請している。この支援自体は学校が認可されたら行われるということなので県や市の説明責任には直ちに影響はない。しかしながら実際には工事は先行して行われておりそのためにはお金が必要だったはずだ。加計学園が自己資金ですべての工事費用を調達できているのなら問題はないわけだが、加計学園には借金があり銀行からお金を借りていたはずである。つまり「まだ認可されるかはわからない事業」が担保になってお金を借りていたことになる。首相の関与には担保価値があるのである。すると「首相がいいねと言っていた」と誰かがほのめかしていたとしたら、その人は詐欺行為を働いていた可能性が高い。理事長がこれを主導していたとしたらこれは学校ぐるみの詐欺行為だし、別の人が主導していたとしたら加計理事長は使用者としてこの人を特定して告発する責任がある。

プロセス通りに許認可をしていたとしたら開学は間に合わなかったはずだ。すでに提案が間に合わないといって降りた学校があることがわかっている上に、認可が降りるかどうかまだわからない状態で借金もしなければならない。このような提案ができる事業主体はない。

もともと、戦略特区は外国に対する利益供与として設定されたという話がある。日本市場は監督官庁の既得権保護のために閉鎖的な空間になっている。アメリカが自分の国のルールで事業を展開しようとした時省庁の関与が邪魔になる。そこで首相が関与して省庁の既得権を排除しようとしているというのである。外国への利益供与のために国内産業が犠牲になることを一般に「売国」という。

嘘の追求はそれなりに続けていただいても構わないと思うのだが、野党になるのか後継の自民党の首相でも構わないのだが、この制度の問題を洗い出して問題点を国民に説明すべきだろう。背景にある問題は首相の「お友達の要求を叶えていい格好がしたい」という首相のわがままだ。ただ、実際にプロジェクトを進めようとすると臆病になってしまう上に、お友達が何をやりたがっているのかを理解しようという気持ちもないので、状況が大混乱する。この制度を温存している限り同じようなことが度々繰り返されることになるだろう。

安倍首相、内田正人前監督、小池百合子東京都知事はどうしてすぐにバレる嘘をつくのか

ニュースやTwitterを見ると日本の社会に嘘が蔓延していることがわかる。特にひどいのは嘘をついてなんら反省する様子を見せない醜いトップの人たちの姿である。


この文章は個人の生育歴に焦点を当てて書いたのですが、その後少し改良を加えて、彼らが嘘をつくのは「勝てなくなった組織では少々のごまかしや反社会的な行為は仕方がない」という気分が蔓延するからではないかという理論に行き着きました。こちらも併せてご覧ください。

嘘をつくトップのある共通点

日本のトップと呼ばれる人たちの嘘が問題になっている。小池百合子東京都知事は1952年生まれ、安倍晋三内閣総理大臣は1954年生まれ、そして内田正人前日大アメフト部監督は1955年生まれである。年齢があまり違わない。

彼らの特徴はシステムのフリーライダーだという点にある。社会は誰からリーダーシップをとって統治する必要があるのだが、その自覚と責任がないままで出世競争を勝ち抜いてきた。つまりプレイヤーのままリーダーに上り詰めてしまったことになる。このため彼らの倫理観には偏りがある。これが社会に露出することによって様々な軋轢や衝突を生んでいる。統治についての責任感と社会的な倫理に関する理解がないので彼らは人の人生を左右する地位につくべきでなかった。このため多くの人が亡くなったり、長期間拘留されたり、廃業に追い込まれたり、前途のある競技人生を諦めることになった。

古い社会からの恩恵を受けながら新しいシステムのメリットも共有している。古い社会からの恩恵は「相互信頼に基づく優しくて曖昧な関係性」であり、新しいシステムは不安定化する先の読めない環境である。ところが「フリーランチはない」という言葉通り、このスキームはやがて破綻する。私たちが見ているのはその破綻と崩壊の過程であって、嘘はその副産物とも言えるものだ。

私たちがここから学ぶべきなのは、彼らが何を間違えたかという失敗の本質であって、嘘そのものではない。嘘に着目すると却って本質的なところがわからなくなってしまうのではないかと思える。

安倍首相は古い「お友達優遇」や「曖昧さを許容する政治風土」を利用しているのだが、一方では人事権を握って官僚組織に圧力を加えていた。さらに、改革という名目で特区を創設した。現在の政治風土では、古い政治姿勢を保っていると有権者からは支持されないが、古い政治姿勢を持っていないと仲間内から離反されてしまうのである。そもそも一貫した態度は取れないのだから誰か二嘘をつく必要がある。

小池都知事の場合は、自分は新しいアイディアを持ったキャリアウーマンであり旧態依然とした政治風土を変えるのだという刷新者・改革者としてのイメージを巧みに作り上げてきた。しかし実際には周りをコンサルタントや広告マンといった取り巻きで囲み、さらに政治経験はないが自らのいうことを聞きそうな議員を促成栽培するというような「ぬるま湯的な」コミュニティも作り上げた。これが次第に露出されると有権者は小池都知事に興味を持たなくなった。

内田監督は古くからあるスパルタ式の軍隊的な組織運営をしていた。その背景にあるのは「昔の軍隊式のやり方をすれば勝てる」という幻想だ。だが、その源泉にあったのはイエスマンのコーチたちだったようだ。彼らは人事権を握られており「成果を出すために」選手を反倫理的な行為に狩り立てるしかなかった。これは日本が持っていた終身雇用による長期の安全保障とはかけ離れた雇用形態である。人事権を使った半ば恫喝的な指示は日大全体に広がっているようで教職員組合からは反発が出ている。

日本人とモチベーション

彼らは「人事」や「ポジション」を使って人心を掌握するという手法をとる。これは日本人がどのようにモチベーションを維持するのかという点に理解がないからだろう。日本人がチームに期待する点は実は二つしかない。それは、長期の安全保障と勝てる競技への没頭だ。勝てる競技を行っている限り日本人を特に動機づける必要はない。だが、勝てなくなると不満が噴出し日本の組織は空中分解する。これは多くの大企業が崩壊と身売りの過程で経験していることだ。

日本人が内向きの倫理を守るのは長期的な安全保障からはみ出さないように内部の対立を避けているからである。そして外向きの倫理を守るのは勝てる環境を維持しようとするからだ。チームと個人の利益が一致している場合、このスキームはうまく働く。ところがこれが乱されると日本人は反倫理的な行動に追い込まれることになる。

例えば、官僚組織は情報の隠蔽を働くようになった。しかしながら「自らの安全保障」のために書類を「手控え」として残していた。上司への信頼というのは表向きのものであって、官邸は所詮「よそ者」である。日本人はよそ者を信頼しない。日大の場合は「反則行為をやらされるがチームは守ってくれない」ことがわかったので、今後選手たちはコーチのいうことを聞かなくなるだろうし、高校のレベルで日大への志願者は激減するのではないかと思われる。

ここからわかる点は信頼というのは実は道徳的価値として守られているのではなく、実利的な効果がある通貨のような存在であるということだ。だから、信頼が毀損されるとそれを元に戻すことはできない。その意味で嘘をつく日本のリーダーは社会全体から信頼という無形の資源を盗んでいることになる。

政治の場合はある程度重層的な人材システムがあるので安倍首相がいなくなれば信用通貨は価値を取り戻すかもしれない。しかし東京都の場合は歴代の都知事が積み上げてきた嘘がありいったん信頼が毀損してしまえば回復は難しいのかもしれない。

さらに日大に至っては回復不能のダメージを生むことになるだろう。学生を犯罪行為に走らせる監督やコーチにはそれほどの責任意識がなかったことがわかった。内田監督は忙しい中「何気なく」コーチを追い詰めるのだが、これが切迫感を持ったコーチによって増幅され、選手には犯罪へのほのめかしにしか聞こえないように伝達されたようだ。このような体制では、選手はチームを信頼することはできない。

西洋と日本の違い

信頼という曖昧でパーソナルな通貨を使わなくても契約と約束によって社会の公平公正を担保すれば良いのではないかと思う人がいるかもしれない。確かに西洋型の社会ではそのようになっている。個人には個人の目標があり、それが集団と合致した時に契約が結ばれて、権限の一部が移譲されるという社会である。この契約は重層的に積み重なっていて、最終的には国の法律や憲法に行き着く。法律を破ると司法が介入してきて交通整理をするという順番になっている。

ところが日本人はこうしたやり方をしない。日本人は勝てる競技を行い安全保障をしてくれる集団を最初に選ぶ。そこにあるのは信頼という見込みだけである。この中で責任は曖昧にされている。これはその時々に「柔軟に」判断ができるようにするためである。集団の中で人々は個人的な信頼によって結びついた私的な関係と公的な構造という二本立ての世界を生きることになる。このプライベートな関係が崩れるとそれを公的な仕組みで補完することはできないのである。

フリーライダーたちはどんな社会で育ったのか

フリーライダーたちが生まれた時期は日本の動乱期が終わったころだった。朝鮮戦争特需が起こり高度経済成長が始まる。彼らが生まれた時期に当たる1956年には「もはや戦後ではない」という有名な宣言が出された。さらに、10歳の時には新幹線や東名高速道路が開通して東京オリンピックも開催された。つまり、彼らが物心ついたころにはすでに高度経済成長が始まっていたことになる。この頃の日本人は右肩上がりの経済成長を実感しており「努力すれば報われる」という言葉を素直に信じることができた時代だ。

大学を卒業した時代はまだ高度経済成長期であり彼らは終身雇用制度に守られながら企業人として生きてゆくことができた。安倍首相が神戸製鋼所に入社したのは1979年だそうだ。バブルが崩壊した時安倍首相は30代の後半だった。企業であればエントリーレベルのマネジメントを卒業してミドルクラスからトップのマネジメントになるくらいの年代であろう。

1979年の日本人は海外から「ジャパンアズナンバーワン」などと言われておりその自信はピークに達していた。カイゼン運動に学んでアメリカも品質向上を目指すべきだという意見もあった。もともと日本人はアメリカから品質管理技術を学んだのだが、モトローラが「シックスシグマ」品質管理運動の熟達者を柔道に習って「黒帯」と褒め称えた1980年頃にはすっかり日本人が優秀だから品質管理が良いのだと思い込むようになっていた。

前の世代がバカに見えたのではないか

一方で、政治の世界には戦後の処理に奔走した人たちが残っていた。戦前に大蔵官僚になった宮沢喜一はバブル崩壊時には60歳であり、今の安倍首相らと同じ年代だった。この人たちはバブル崩壊の意味を理解できず、従って適切な対応もできなかった。

安倍晋三の父が亡くなったのは1991年、内田正人が名将と呼ばれた監督のもとで甲子園ボウルで優勝したのが1990年、小池百合子が日本新党に参加したのが1992年だそうである。

政治の世界では金権政治家が次々と地位を失っていった。戦前の「情にばかりとらわれる遅れた政治家」の代表が田中角栄などである。政治改革世代の安倍晋三や小池百合子の目に彼らがどう映っていたのかはわからないが「情けないアジア的な政治を排除して、もう少し合理的な政治を実現できる」という自己認識があったのではないかと思われる。こんな中で彼らが「信頼」という通貨の実利的な価値を軽視していた可能性がある。

その統治原理を明確な言葉にするような文化はなかったので「上司の背中を見て覚えた」世代である。彼らは日本流の組織統治を理解した上で西洋流の合理的な統治システムと融合させたと認識していたのかもしれない。彼らは「戦前の人たちの中には不合理な日本人性が残っているが、我々は西洋流の進んだ気風がある」と考えることでき、その結果優秀な日本人は高度経済成長を達成して本家の欧米人に羨ましがられることになったと思うことができた世代である。

嘘つきのトップリーダーの共通点 – イメージ依存と失敗からの逃避

信頼を食い尽くし、自分のものではないかもしれない成果をあたかも自分たちのもののように宣伝しているうちについに彼らはトップリーダーになってしまう。しかし、実際に自分で組織を作ったわけではないので、組織をどうモチベートし統治してゆくのかということはわからない。そこで失敗を隠蔽するために嘘が横行することになる。するとコントロールされる側の組織にも嘘が横行しやがては組織全体が取り返しのつかない機能不全を起こすことになった。

日大の場合は少し違っている。追い詰められた選手が特攻することでチームの信頼は壊滅的に破壊された。のちにわかったことだったのだが、相手のチームは仲間を亡くしており、アメフトには命の危険があるということをわかっていた。つまり、相手の意識はすでに変質していたのである。追い詰めた監督は軽い気持ちで「関西学院大学も汚いプレーをやっていたから自分たちも少しくらいはいいだろう」などと考えていたようだ。

しかし、これをトップリーダーだけの責任にするわけには行かない。成功や失敗にはそれなりの原因があるはずである。ところがこうしたプロセスは無視され表面的に成功を達成したとされる人だけが褒められ、失敗したとされる人が罰せられて出世競争から脱落してしまう。

きれいなところばかりを歩いてきた人たちは失敗から逃げてきたので、失敗から何かを学び次に生かすということはできない。勝てているうちはそれでもいいのだろうが、勝てなくなってくると失敗を誰かに押し付けて逃げ切る人がトップに立つことになる。ただこれができるのもしばらくの間だけだ。小池百合子も内田正人も逃げ遅れており、世間のバッシングにさらされている。しかしこれまで失敗から学んでこなかった彼らは問題の対応ができない。安倍首相の場合はこれがさらに進んでいて「周りを抱き込みながら社会ごともろとも堕ちて行こう」としている。

内なる倫理と外側の倫理が両方とも欠如している

彼らは日本流の信頼に基づく通貨をうまく理解できなかったが、その一方で西洋的な社会的責任という概念もうまく理解できなかった。西洋での社会的責任は日本の個人間の信頼と同じ機能を持っている。違いはそれが個人的な関係に基づいているか、社会全体で共有しているかの違いだけである。このため彼らの「西洋流」にはどこか自分勝手な解釈が見られる。

安倍首相のいう力強いリーダーシップとは部下にすべての面倒ごとを丸投げして、自分は最後の演説をするという意味だ。責任を引き受けて自ら率先して部下にビジョンを示すということはない。

小池百合子都知事のアウフヘーベンは本来は二つの対立する概念を別の視点によって解決することだが、彼女の理解しているアウフヘーベンは「まあまあ・なあなあ」という日本的ないい加減さの言い換えにすぎない。

内田監督の「相手が潰れたら自分たちが得」という発言からは、個人主義に基づく成果主義の概念が歪んで捉えられていることもわかる。相手を潰すのは選手だ。監督は自分が傷つかないような安全地帯を作った上でリスクを指導すべき選手に負わせて「自分たちの得」といって成果だけを受け取ろうとしている。

現代的な成功の理論の上澄みだけをすくい取り、泥臭いところを人に押し付けた上で、不都合があると他人を切ってきた。このことが多くの人の反感を買っている。

私たちは彼らを糾弾すべきなのか

彼らの世代は古い日本の資産を食い尽くし、かといって新しい概念も理解しなかったという点にあった。しかし、これを批判して社会的に抹殺するだけでは問題は持ち越されるだけである。つまり、それに続く世代も同じような間違いを繰り返す可能性があるのだと思う。

私たちができることは、彼らの失敗から何を学ぶかだろう。

嘘つきの安倍首相が教えてくれること

玉木雄一郎議員が予算委員会で「安倍首相は嘘つきだ」と指摘して議会が騒然とした。安倍首相は「人を嘘つき呼ばわりするということはそれなりの証拠を示さなければならない」という。だが、安倍首相が嘘をついていないなどという人はもう誰もいないだろう。

首相官邸で今治市職員が面談をした時のメモが流出している。かなり具体的なことが書かれており全くでたらめだとは考えにくい。その上、愛媛県知事はわざわざ記者会見を開いてメモを書いた人を確認したと表明している。

安倍首相は常々「人を嘘つき呼ばわりするならそれなりの証拠が必要だ」とうそぶいてきた。証拠が出てきたのだから今度は安倍首相側が「反証」する責任が出てきたということになる。しかしながら、安倍首相側は反証ができていない。柳瀬唯夫首相秘書官(当時)は記憶がないと言っており、安倍首相は柳瀬唯夫首相秘書官(当時)がなかったといっているのだからそれを信頼していると言っている。官邸側が明確な否定ができない理由は二つ考えられる。いろいろなことを隠蔽しすぎて何が現実なのかがわからなくなっているか、それとも実際に今治市の職員を呼びつけているかのどちらかである。

一方の当事者である今治市・愛媛県側は具体的な証拠を出してきているのだが、もう一方は記憶がなく記録も残っていないと言っている。どちらを信頼すべきかという話になるのだが「具体的な記録と記憶を持っている側」が正しい可能性が高い。加えて、安倍官邸は「首相の関与」を隠さなければならない動機があるが、愛媛県側には話を隠蔽する必要はないように思える。

状況は変わり始めている。太田理財局長は枝野議員とのやり取りで森友学園側の弁護士とのやり取りをほぼ認めてしまっている。枝野さんは「口を割らせる」ようなことはせず、淡々と話を進めていた。太田さんは「首相の顔色を伺って名前は出せないが、かといって隠そうとも思っていない」ということになる。太田さんは多分官邸の「チーム隠蔽」が怖いのだろう。怖いから彼らのストーリーには逆らわないが、かといって言われていないことはやらないという姿勢が見受けられる。彼らは法的には当事者なのだが、実際には官邸というアンオフィシャルな人たちの指示で動いている。

「チーム隠蔽」は総理(首相の側近は「首相」という言葉を使わないのだそうだ)のご意向を背景にかなり強引なことをやっていたようだ。今回の隠蔽の筋書きを書いているのは彼らなのだろう。首相秘書官が玉木議員にヤジを飛ばすというシーンがあった。秘書官らの「本当に国を動かしているのは自分たちだ」という思い上がりがある。彼らにとっては議会というのは単なる小うるさい追随機関であり「黙って俺たちのやっていることを追認すればよいのだ」と考えているのではないだろうか。モラルやルールよりも首相の意向の方が大切なのだということがわかる。

こんな中で別の本音も見られた。決済文書をいちいち見ていないと言い放った官僚がいた。それについて感想を求められた麻生財務大臣は「そういうこともあるでしょうね」と追認した。

これに対する財務省・太田充理財局長の答弁はこうだ。

「本人に確認しました。『責任はありますが、正直に言うと、そこまでちゃんと見ていなかったので、覚えてませんでした』というのが、彼の正直な発言です」

彼らはまた別のポジションにいる。彼らは「オフィシャルな意思決定権者」であると同時に「傍観者」でもある。

これらのことからいろいろなことわかる。

  • 日本ではリーダーが暴走を始めるとそれを止めるのは難しくなる。しかし、リーダーが機能不全に陥ったからといって国全体が機能停止することはない。なぜならば実際の意思決定はアンオフィシャルな現場の権限のもとに行われているからである。そしてリーダーは細かいことは知らず、むしろ暴走を追認する立場にある。
  • 実際に暴走しているのはリーダーではなくリーダーの権威を背景にしたチームだ。彼らはモラルやルールを無視する傾向がある。モラルやルールよりも自分が所属している集団の影響力を重要視するからだろう。今回の非公式のチームは「官邸」と呼ばれており、経済産業省という経験を共有した人たちの集まりのようである。彼らは次第にアンオフィシャルな意思決定ルートを形成しようとするのだが法的な権限がなく、かつ実際の意思決定はアンオフィシャルな「現場の権限」によって運営されている。そこで、次第に圧力を強めて行く。彼らはアンオフィシャルなので法的な責任を負わないし、チームで動くので誰がどんな意思決定しているのかよくわからない。しかし、彼らの使用者であり黙認者は細かいことを知らないので、こちらも法的な責任は取らない。
  • 一方でオフィシャルな意思決定ルートは単に非公式な決定を追認するにすぎない。そう期待されているし、実際にそうなっている。彼らは形式上の責任をとるとされているが、実際には何も知らないし何も決めていないので何もしない。
  • つまり、最終責任者、公式の意思決定者、非公式の意思決定者は情報と責任を分担しあっており、誰も責任を取らない。後になって情報を追ってみても何もわからないのは責任が上手に分散しているからである。

責任が分解されているので状況がわかりにくい。そしてこうした状況を作っているのは安倍首相である。ある時は官邸の意思決定者として振る舞い、別の時には公式の意思決定者として答弁するので話が複雑化している。しかし実際にはどちらも情報を持ってはいない。そして情報を持っている人には意思決定もしないし権限も持たない。この使い分けは憲法議論でも行われている。昨日の答弁では憲法について自民党総裁として答えていた。左派野党にはお答えできないと言っているのでダブルスタンダードなのだが安倍首相にとっては単なるゲームなのだろう。この立場の使い分けが国会を混乱させているという認識はないようだ。

今回の件からわからないのは「実際に国会議員が権限に基づいて組織マネジメントをしようとするとどうなるか」ということだ。これが顕著に弊害として現れたのが民主党政権だ。官僚が切り捨てられるリスクを冒してまでも自民党政権を守ろうとするのは多分「それでも意思決定に直接介入してくる民主党政権よりマシだ」と考えているからだろう。今回は小野寺防衛大臣がため息をつきながら「自衛隊が日報を隠蔽しようとするような習慣は民主党政権時代になんとかしてくれていれば起こらなかったのではないか」とほのめかしていたのだが、おそらくはごまかしではなく彼の実感であったという気がしてならない。それほど一次情報を「編集」する文化が横行しているのかもしれない。一次情報にこそ本音が隠されているからだ。

首相が複数の新聞で嘘つき呼ばわりして何も決められなくなっている国で誰もそのことを心配したりはしない。日本人は「リーダーは本質的に何もしないし何もできない」という合意形成があることになる。つまり、誰も何も決めないし何も決められないのが日本なのである。「文書」はもともと何の意味もない公式な意思決定の過程を記録しているにすぎないので特に重要な意味を持たない。一方で重要な意味を持っているのは一次資料である個人のメモである。

前回の寺子屋の議論で日本人はゼネラルマネージメントを学ばないと書いた。日本の企業で総合職が最初にやらされるのは議事録の作成である。議事録をまとめるに当たって重要なのは「何を残し、何を捨てるのか」を体で学ぶことである。つまり欧米のマネージャーたちが問題解決の方法を学んでいる同じ時期に、日本人は調整を学んでいるということになる。

面白いのは(真面目に政治を見ている人には面白くないかもしれないが)これが決めたがる民主党政権の揺り戻しとして起きているということだ。決めることは権力の源泉であると同時に官僚にとってはやりがいだったのだろう。これを奪われそうになり3年にわたって抵抗した結果、民主党政権は自滅した。この経験から官僚組織は様々な手段を使って安倍政権を支えることにしたのだろう。だが、その結果として首相の意向を背景に暴走するチームが生まれて手に負えなくなった。

こんな中自民党は文書管理のチームを作ったそうだ。一次情報が掌握できれば官僚組織が掌握できる。これを行っているのが次期首相候補の岸田さんのチームであるというのは興味深い。しかしながら、官僚は一次情報が権力の源泉であるということを理解しており、なおかつ一次情報を手放して政治家に意思決定を任せると政府が混乱することはわかっている。これが上手く行く可能性は高くなさそうだ。

ということは今の政府は「実際に何が起こっているのか」を十分に把握しないままで混乱している可能性が高いという推測もなりたつ。

安倍首相の嘘はどういう経路で国を衰退させているのか

本日は安倍首相が嘘つきであるという前提で文章を書く。なぜ嘘つきなのかという証明はしない。嘘を嘘と認めることが重要だと考えるからである。誹謗中傷だと取られても構わないが、人格攻撃が嫌いな人は別の言葉で置き換えても良い。

安倍首相は嘘によって政権を維持しようとしている。昨日の決算委員会を見て、嘘を認めるときにも嘘をつくことに驚きを感じた。今回は太田理財局長の答弁をきっかけにTwitterで「太田さんが嘘を認めたぞ」というようなつぶやきが流れ、ほどなくして新聞の記事になった。あまりにも嘘が多すぎるのでそれを認めるのに長い時間がかかり、本当のことを言ったというだけでニュースになるのだ。

この件NHKが「抜いて」、西田参議院議員が指摘し、太田さんが認めたという流れなになっている。ニュースでは西田さんが太田さんを罵倒したところが多く使われたのだが、空々しいにもほどがあると思った。たぶん隠し切れなくなったか佐川理財局長にすべてをかぶせるという落とし所が見つかったのだろう。野党が指摘して見つかると「彼らの得点になってしまう」という気持ちもあったのではないかと思う。しかし、マスコミの人たちもこれがお芝居だということを知っているはずで、知っていて「財務省が嘘を認めた」と言っているのである。異常としか言いようがない。

嘘がいけない理由を倫理的に説明することもできるのだが、ここではPlan/Do/Checkというサイクルで説明したい。計画を実行してチェックすることで学びを得るという一連の流れだ。意思決定がすべて正しいということはありえない。もともと思い切ったことをしているのだから、時々見直せばよい。ことわざ「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるのだから間違えること自体は悪いことではない。

しかし安倍政権はこのチェックのサイクルを無視している。チェックすることによって万能感が損なわれるのが嫌なのだろう。

例えば、観察したように北朝鮮を巡る会談から除外されているのに、自分たちのおかげで交渉が進展したのは嘘というより現実否認である。しかし首相が現実否認するとそのあとの議論が一切許されない気分が作られる。それどころか、事実を隠蔽することまで日常的に行われるようになった。自衛隊の日報改竄は霞ヶ関で作った嘘がばれないように後世の教訓になりそうな日報をなかったといって捨てていたという問題だ。首相が過ちを認めて改めないので、その下にいる人たちは間違いを隠蔽して認めないようになってしmったのだ。

安倍政権は学ばないので自分たちの自分たちの政策がどんな影響を与えるのかを予測できない。これが嘘の最初の副作用だ。

現在の保守政治家は学ばないことを怖がらない。すべての教訓はすでに経験によって獲得していて自分はすべて知っていると考えているからなのだろう。西田議員と彼に続く自民党議員たちの質問を見ていて彼らhが学ぶ必要がない理由がわかった。西田議員はある意味選挙で何が一番重要なのかを正しく認識している。有権者は経済が成長しない理由を取り除くことなど望んではいない。彼らが欲しがっているのは当座の仕事である。

今回の質疑で西田さんは「どんどん鉄道を作ればよい」と主張し、プライマリーバランスの改善などどうでもいいと言い出した。経済成長すればプライマリーバランスはおのずと改善するのであって今は経済成長を再び起こすことが重要なのだという。多分念頭にあるのは世銀からお金を借りて新幹線を作ったように借金で鉄道建設を促進することなのだろう。新幹線ができてから経済成長が始まったという明確な経験が元になっているのだろう。これは戦争で破壊された生産設備が現代的な形で復活したので借金が役に立ったという点をまるで無視しているのだが、彼らにとってはそんなことは些細でどうでもいいことなのだ。

とにかく景気が良くなるまでお金を使えという話なので特に学ぶ必要はないし推移を注意深く見る必要もない。経済成長しないなら使い方が足りないといって騒げばいいのである。

これに対して政府側は議論せず「国際的信用も大切だし、地方にもお金を回したいし」というあいまいな答弁をしていた。足元では情報の改竄が恒常的に行われているのですでに自分たちが何をしているのかが分からなくなっており何も決められなくなっているのかもしれない。

だがさらに深刻なのは野党側だ。政府与党が小出しに嘘を回収するので、嘘を追及することが存在意義になってしまっている。政権運営の経験が乏しいかほとんどないので対案を出したりチェックしたりということができないのだが、嘘をついているのだろうと糾弾することはできる。小西ひろゆき議員は数まで数えて執拗に「安保法制が違憲だということになったら総理をやめますか」と質問をしていた。安倍首相がそれを認めるはずはないのだが、森友問題で旨味と達成感を学んでしまったのだろう。

本来ならこうした野党議員は淘汰されてなくなるはずなのだが、安部政権がこまめに嘘をついてくれるおかげで仕事ができてしまっている。こまめな嘘と隠蔽は野党に対する安倍政権の雇用対策でもある。

さらにマスコミは明らかに嘘だと分かっていることでも、政府が公式見解を出すまではなかったこととして報道する。そして政府が嘘を撤回するたびに恭しく「認めた」と伝えるのだ。マスコミが政府のお芝居にお付き合いするのは自分たちが責任を追求されたくないからだろう。「誰かが言っている」と書いている限り、自分たちの責任が追及されることはない。

日本は強い中央政府が協力に産業を推進することで成り立ってきた国だ。だから官僚機構の政策立案能力の低下は国の成長を著しく阻害する。すべての官僚がチェックではなく嘘のためにリソースを浪費しているので、経験から学びながら政策立案能力を磨くことができなくなっている。そして議員にはそもそも政策立案の意欲はない。

最初に安倍首相が嘘つきであるという前提で議論を始めたのは嘘つきであるということを証明することに時間を割かれると経験から学ぶことができなくなってしまうからである。このままでは日本は何も学べないどころか、今どこにいて何をしているのかすらも分からなくなってしまうだろう。すでにそうなっているかもしれない。

嘘という価値判断を含んだ言葉が嫌いであれば「現実から学ばない」と言い換えてもらっても良い。学ぶつもりがないというのは恐ろしいことなのだが、「全てを知っている」と思っあがっているとその恐ろしさもわからなくなってしまうのである。

安倍首相が嘘をついても誰も気にしないのはなぜなのだろうか

松田公太さんという参議院議員が怒っている。文章を読んでもよく事情が分からないのだが、原発政策に反対していた同僚議員が、そのサブセットである核燃料サイクルスキームを維持する法律に賛成していて「支離滅裂だ」というのだ。

この主張は普通の日本人にはなぜか奇異に見えるはずだ。では何が奇異なのかと考えてみてもよく分からない。いろいろ考えを巡らせると、日本人の「はい」の使い方と英語の「Yes」の使い方の違いという点に行き着いた。

「あなたは学生ではありませんか」と聞かれると、日本人は「はい、私は学生ではありません」と答える。当たり前だ。あなたの言うことが「正しいか」ということが問題なのであって、私が学生かという事実はその次になる。ところが英語では「私が学生かどうか」という点に焦点があるので「いいえ、私は学生ではありません」となる。単に事実が問題になっているからであり、それ以上の意味はない。

しかしこれを日本人が聞くと「私が否定された」と感じる。「お前は間違っている」と言われたように思うのだ。実際にこれで立腹する人が出てくる。

英語話者は「事実」を中心にコミュニケーションを組み立てているのに対して、日本語話者は「あなたが正しいかどうか」という関係性を中心にコミュニケーションを組み立てていることになる。松田氏が怒っているのはそこだ。多分、対象物を見ているのっだろう。ところが同僚議員は「どのように対応すれば、ノーと言わずにすむか」ということを基準に意思決定している。これがお互いに「デタラメ」に見えるのだろう。

安倍首相は有権者や支持者たちに「ノー」を言わない。有権者や企業が税金が払いたくないと言えば「そうですよね」と言い、財務官僚が財政規律が大変だと言うと「そうですよね」と言う。そこで全体の論理が破綻し、立腹する人が出てくる。だがそれは「敵」なので言うことを聞く必要はない。頂点がそうなのだからフォロワーである議員たちの言っていることもめまぐるしく変わる。その場に応じて都合のよい「事実」をパッチワーク的に当てはめてゆく。

英語でいうアカウンタビリティ(日本語では説明責任と呼ばれる)という言葉が日本で成り立たないのは、そもそも説明する事実が存在しないからである。あるのは関係性だけなのだ。

厄介なのはそれに反対している人も状況に応じて「ノー」を言っているだけということだ。消費税増税に賛成だった民進党が「増税延期せよ」と言い出すのは、それは敵対者が「増税を実行する」と言っていたからであり、それ以上の意味はない。つまり両者は全く違うようで、実は車の両輪なのだ。関係が変われば「何がイエスか」も違ってきてしまうのである。

両陣営はお互いに「整合性がない」と罵り合っているが、それはお互いの文脈から外れているからだ。

では、日本にいる人たちは全て「関係性重視」のコミュニケーションを目指すべきなのだろうか。それはそうとは言い切れない。二つの明らかなデメリットがある。

一つ目のデメリットは状況をフォローしていないと、何が賛成すべきで何に反対すべきかが分からなくなってしまう。松田さんの文章では、なぜ野党側が今回の法案に「反対しなかったのか」がよく分からない。透明性がなくなり多様な意見が受け入れられなくなる。それはつまり解決策が限られるということになる。

明らかに間違った進路を進んでいる場合にお互いを忖度して進路を変えなければどうなるだろうか。最終的には崖にぶつかるか、海に落ちてしまうだろう。このような態度は「グループシンキング」の状況を生み出しやすい。いわゆる「集団無責任体制」という奴である。日本の歴史で一番顕著なグループシンキングは大量の餓死者と都市空爆を許した第二次世界大戦である。

ここから我々は何かを学ぶことができるだろうか。それはもし問題解決したければ「コンテクストベース」の議論をやめて「事実ベースの議論」に集中すべきだということになる。つまり、人格と事象を切り離して考えるべきなのだ。コンテクストベースの現場で状況を変えるのは不可能に近いし、残念ながら日本人は訓練や強い危機感なしに事実ベースの議論ができない。

次善の策は何もしないで、帰結を受け入れることだ。日本人の最大の防御策は意見の対立があり、状況が膠着することだ。意思決定や変更ができないのだから、動かないことが最大の防衛策なのだ。状況が破綻するのは「強いリーダーシップ」とやらを発揮して無理に動いてしまった時だろう。