自民党は何のために憲法が改正したいのか、憲法前文を見て考える

独自憲法をの制定は自民党の党是だという話がある。実際は吉田派がGHQと勝手に結んだ憲法をその当時戦犯指定されていた人が気に入らないという意味で、あまり中身とは関係のない議論だ。しかし改憲案はそれなりに整備されつつある。

ここで二つの憲法案の前文を観察する。前文をみれば彼らがどのような気分で憲法を作りたいのかが見えてくると思うからである。

この文章は改憲否定のポジションで書いている。つまり書いている人は自民党下での憲法改正には反対しているということだ。しかし、現在の護憲派はこの長々とした文章を読んで「つまらない」と思うはずである。憲法を改正したら安倍が戦争を始めるというような論調にもなっていないし、民主主義や立憲主義が否定されるという結論にもならないからだ。問題にするのは「我々」が何を意味しているかという国語の問題だ。イデオロギーなしに読めるが議論そのものはとても退屈だ。

手始めにアメリカ合衆国の憲法前文を見ておく。必ずしもこの通りにやらなければならないということはないのだが、参考にはなると思う。アメリカ憲法前文はとても短い。Wikisourceの訳文は次の通りで、憲法のオブジェクティブになっている。憲法は契約なので「何のための契約書なのか」(オブジェクティブ)を書くのが前文なのである。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。

この前文は人々がイギリスの支配を否定している。当時のイギリスには厳しい階級差があり、宗教権威が世俗権威に結びついていた。こうした社会体制を逃れて人々が自らの国を作ろうとしたのが合衆国なのである。

なおこれからあげるつの原文は適宜改行されているが、改行は削除した。2012年案は句読点が多く却って読みにくい文章になっているが、それはそのまま残した。

中曽根氏案(2005年)

我ら日本国民は、アジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。 我らは今や、長い歴史の上に、新しい国家の体制を整え、自主独立を維持し、人類共生の理想を実現する。 我が日本国は、国民が主権を有する民主主義国家であり、国政は国民の信頼に基づき国民の代表者が担当し、その成果は国民が享受する。 我らは自由・民主・人権・平和の尊重を基本に、国の体制を堅持する。 我らは国際社会において、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その実現に貢献する。 我らは自由かつ公正で活力ある日本社会の発展と国民福祉の増進に努め、教育を重視するとともに、自然との共生を図り、地球環境の保全に力を尽くす。 また世界に調和と連帯をもたらす文化の重要性を認識し、自国の文化とともに世界文化の創成に積極的に寄与する。 我ら日本国民は、大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意義を想起しつつ、ここに新時代の日本国の根本規範として、我ら国民の名において、この憲法を制定する。

中曽根案は悪名高い民族ポエムから始まる。このポエム型前文は中華人民共和国(中国の憲法はとても長い前文を持っている)や韓国(こちらは「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は」と控えめなものしかない)でも見られるそうである。だが、中国と韓国に見られる「あるもの」がない。

周縁部を統合してきた歴史がまるまる無視されているという点は極めて深刻だ。つまり沖縄やアイヌはこの民族国家の中でどう位置付けられるのかということが全く考えられていない。さらに統治・植民地支配(評価が別れるので併記しておく)の時に統合した朝鮮系(統治下では日本人だったが今でも北朝鮮籍も韓国国籍も取得しなかった人たちがいる)の扱いも不明確なままになっている。

中曽根康弘は今の「ネトウヨ保守」よりも日本の保守についてはまとまった知見を持っているはずだが、それでもこの程度の理解しかできない。戦前の日本観から脱することができなかったのだろう。

中曽根は多民族国家であるアメリカにも蔑視感情があり「知的水準発言」でアメリカ政府から反発されている。この文脈で単一民族発言も行っており、これがアイヌ系日本人に反発された。日本は明治維新のあと「日本人とは何者か」ということを考えないまま朝鮮や台湾を併合してしまったため周縁や少数者(朝鮮は人口が多かったので少数者ともいえないのだが)の扱いが極めて曖昧になっている。この曖昧さは現在にも受け継がれておりネトウヨの人たちは大和民族ではない日本人をなかったことにしたがる。彼らは実は日本をうまく扱えないのだ。

ポエムの要素の強い憲法草案だが、これはまだ日本語の文章としてはまともである。主語が「我々」でほぼ統一されているからだ。国について説明する部分のみ「我が日本国は」となっている。皮肉なことに、中曽根が日本民族=日本人=日本国民という比較的単純な日本感を持っていたために主語を揺らす必要がなかったのだ。

このポエムのような憲法前文は2012年案からは削除されている。すると実質的には何も残らない。アメリカのように建国の意義があるわけでもないし、権力者から統治権を奪取した歴史もない。つまり否定するべきものが表立っては言えないのである。自民党の憲法草案にはそうした不健全な後ろ暗さがある。

韓国や中華人民共和国の憲法には民族の伝統というような「ポエム型」の前文が見られる。その意味では日本の憲法には東洋回帰が見られるとも言える。だが、同時に中国や韓国は長い民族の歴史を前提にはしているが非継続国家であり建国の目的がある。また中国は漢民族=中国とはしておらず、各民族が中国共産党の指導の元で独立したという体裁が理論化されている。国と民族が比較的はっきりと定義されている。これが中曽根案にはなく、したがって2012年案にも見られない。

自民党憲法草案(2012年)

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

最初に目につくのは、句読点の乱用と主語の不統一だ。中曽根案では民族としての日本人が長い間国家を作ってきたということになっているが、新案では国が最初にあったということになっており、最後には国家を守ることが憲法の意味だと書かれている。これは国民主権と矛盾する。国民主権は国民一人ひとりが幸福なりWelfareなりを追求するためのものだが、目的がこっそりと書き換わっているのだ。さらに「話を尊ぶ」とか「家庭や社会が助け合う」というどうとでも取れる道徳が挟まれている。

二つ「日本国民は」と書かれたところがあるが、最初のものは国民に義務を課す条項になっている。相手の基本的人権を尊重し、和を尊び(今風の言い方をすると同調圧力に意義を唱えるなということだろう)国に頼らず家族と社会で助け合い、防衛に協力しろということを言っている。次のものは国体を維持するために憲法があるという規範になっている。

以前観察した教育勅語は天皇主権を理論的に正当化できなかったところから出発している。そこで、当時あった「わかりやすそうな」儒教的道徳観念と天皇主権を接ぎ木してできたものだった。どうとでも取れるうえに否定しにくい内容だったので、作戦失敗の責任を回避したかった軍部が若者を片道切符で敵兵に突撃させるための規範として利用された。自民党はそれをまとめた形で憲法に混ぜ込もうとしている。

いわゆる日本人の臣民化だが、天皇主権とは言えないので、全体をみるとよくわからない文章になっている。このブログでは国民主権の制限などと書くことがあるのだが、実際に行われているのは意味の無効化である。「本当は国民主権とは言いたくない」という自民党の気分が透けて見える。

このように思想的に股裂きになっているので、「我々」に至ってはそれがいったい何なのかがさっぱりわからない。これを政府と取れば政府が義務を負うことになるし、国民はとすると国民が勝手にやってくれということになる。多分書いた人にもわかっていないのではないだろうか。

中曽根案では我が日本国民(実態は少数者や移民が排除されているのだが)が省略され我々になっているという構造はわかる。だが、新案ではそれが主権を持った日本国民を意味するのか、国体があってそのサブジェクトである日本臣民があるのか、それとも民族体の日本民族であるのかが決められない。書いた人がよくわからずに書いたか、わかっていてごまかして書いたのかすらわからない。

憲法前文なので、平和主義や国民主権などいろいろなことを指摘したくなるのだが、誰のために書かれた憲法なのかということが決められないのが一番の問題だろう。この背景がどこにあるのかはわからないが、政権が否定されて下野したことと、国民から非国民のように非難されていた時代に今のネトウヨの前進になった国家神道信奉者が自民党を支えたことが影響しているのではないかと思われる。

文章を歪めて国体主義を埋めこもうとした結果、国体主権は天皇も超えてしまっている。つまり、個人としての天皇も国体に従うべきで、その国体をよく知っているのは一部の人たちなのだという気持ちがあるのだろう。先日辞任した靖国神社の宮司の天皇否定発言を見てもその気持ちがよくわかる。

このメンタリティは戦前の軍部が統帥権の名の下に暴走したのとよく似ている。現在の自民党は統計を書き換えたり、政府文書を改竄したり隠したりしている。つまり、2012年の被害妄想的なメンタリティは未だに温存されているということになる。

護憲派はアメリカの元での戦争を容認しているという説

今日はこのTweetを肴に「護憲派はアメリカの元で戦争に協力している」という主張をします。次回護憲派の人に会ったら、ぜひ教えてあげてほしいと思います。批判をすると対案を出せと言われるので対案も考えて最後に掲載してあります。「これは気に入らない」という方も多いと思うので、みなさんの考える憲法第9条草案を出してみませんか?コメント欄で募集しております。コメントにはDisqusのアカウントが必要です。

ということで英文に当たってみました。

Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce(放棄する) war as a sovereign right(国家主権)of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state (国家が交戦する権利)will not be recognized(認識しない).

日本語では戦争放棄ということになっていますが、原文には「国家主権(a soverign right)としての戦争を放棄」と書いてあります。これを主権を保持したまま戦争を自主的に放棄しているとは読めません。主権の一部を諦めて誰かに委ねるという意味になります。そのために、陸海空軍やその他の武力も持たないし、交戦する権利も認められないとしてあります。ただし放棄する主権は国際紛争を解決する手段であり、自衛についての言及はありません。

さて、これを厳密に解釈すると、日本は主権国家として、国際紛争を解決する戦争はできないが、自衛についてはよくわからないということになります。

しかし、この憲法ができた当時にはそのことを心配することはありませんでした。なぜならばそもそも日本は主権国家ではなくアメリカが日本の防衛を担当していたからです。

もっともアメリカは日本に対して「憲法を金輪際変えてはいけない」などとは言っていません。むしろ「状況が変わったら」自分たちで憲法を変えるだろうと思っていたかもしれません。日本が独立した以降の憲法改正は国家主権に関わることなので、アメリカが指示することはできません。しかし、なぜか日本人は独立しても憲法を変えるという主張はしませんでした。

この経緯から、この状況で護憲を貫くことは、被占領下の状況をそのまま受け入れるということになります。「国家主権としての軍隊は持てないのだから、指令系統を占領時の状態に戻してアメリカのスーパビジョンのもとで自衛網を整備するべきだ」としなければなりません。護憲派は解釈による集団的自衛件の行使を認めていないのですから、解釈によって日本国民が自衛について決まりを持たず、国際紛争時の軍事について国家主権を放棄していることを都合よく決めることはできません。

日本は戦争種する主権を持たないということは、誰かが日本の代わりにそれを決める可能性があるということを意味しています。戦後の経緯からそれはアメリカであることは明白です。米軍を日本から追い出してしまえば関係は切れるかもしれませんが、依然米軍は日本に駐留していますし、朝鮮戦争の後方支援部隊が日本に存在します。この点で日本は継続する戦争の当事国です。

日本国民は主権者なので国家主権を首相に移譲できますが「持っていない権利」を主張することも行使することもできません。それを持っている主体は必ずしも明確ではないのですが、占領下の状況を引き継いでいると考えると「アメリカが戦争をすると決めたら日本も参加するのだ」ということになり、それを禁止する条項も原文にはないということになります。

もし自衛隊がなければ戦闘行為を行う主体がないので従う必要はないですが、自衛隊は他国を攻撃する能力を持っているので、軍事行動も可能です。しかし、日本はそれを主体的に動かす権利を放棄しているか決めていないのです。

伊勢崎さんのTweetの狙いは「独立を回復したのだから主権を回復しなければならない」ということだと思うのですが、防衛や国のあり方に関心がない国民は意外と今の現実をすんなりと受け入れてしまうのではないかと思います。国民的な視点で日本的な憲法第9条を考えると次のようなものになると思うのですが、ご賛同いただけるものかどうか、確信は持てません。みなさんのご意見はいかがですか。

 

あの第二次世界大戦はひどいものだった。しかし、責任の所在が曖昧なので、誰がどうしてこんなことを引き起こしたのかわからない。そこで、国際問題を解決する手段としての戦争のような面倒なことは主権国家としては一切考えない。また、よその国が攻めてくるなどと考えると言霊が働き現実のものになってしまうからそれも考えないことにする。
軍隊やそれに似たものを持つと戦争したくなってしまうから、そういう面倒なものは今後一切持たない。
幸運なことに日本を守ってやると言ってくれている奇特な国があるので、ご機嫌を損ねないようにしながらその好意に頼ることにする。なにぶん大きな国なのでよその国が攻めてくることもないだろう。ご機嫌を損ねると面倒なので、とりあえず必要な人とお金はできる限り出してやることにするし、責任を取らされないことが保障されるなら海外にも出かけて行く。国際的なお付き合いも大切だからである。

憲法第9条は変えた方がトクなのかソンなのか

本日は憲法改正について考えたい。「憲法第9条は変えるべきかいなか」ではなく「変えたほうがトクなのか」という議論である。現在、三つの案が出ているのでおさらいしておこう。

一つ目の案は「憲法第9条を変えると戦争になるから絶対に変えてはダメ」という案である。主に立憲民主党・社民党・共産党などの野党が提案してる。次の案は自民党の石破茂議員らが提案している案で自衛隊の交戦権を認めて国際的な軍に格上げするというものである。最後の案はこの「間をとった」と称される案だ。提案者は安倍首相で、今までの憲法をそのままにして「自衛隊は合憲である」と書き込もうというものだ。

安倍首相は何を考えているかわからないからとにかく反対という意見もあるだろうが、首相の動機は多分「おじいちゃんがそういったから」というものだろう。岸信介首相は「吉田派が勝手にGHQ と相談して決めたみっともない憲法だ」と考えていて、それが気に入らないのである。しかし、岸信介首相には人望がなかった。本来は日米安全保障条約を改訂してから憲法に着手するはずだったのだが、説明不足から大混乱を招き、結局首相に返り咲くことはなかった。そのルサンチマンが現在まで続く「議論」の全てではないだろうか。

こうした経緯を置いて個人の意見を述べる。個人的には石破案に賛成である。自衛隊は実質的には軍隊であり国連の安全保障活動でも軍隊として行動している。にもかかわらず交戦権が認められない(あるいは曖昧)ということは、すなわち自衛隊を海外に派遣している政府やそれを黙認している国民として非常に無責任である。国連から引き上げるという手もあるだろうが、国連の活動は不安定化する国際情勢に対応するためには必要不可欠になっており、撤退するのは得策ではないしまた撤退すべきでもない考える。自衛隊を軍隊にしたら戦争になるというのは確かだが、実際にはその戦争はもう始まっている。しかしそれはかつてあったような国と国との間の争いではなく、いわばがん細胞のように広がるテロリストや不満を持った個人なのだろう。

もっともこの筋立てが多くの人に共有されているとは思わない。石破論考える集団的自衛権は多分日米同盟のことを言っており、改憲派の人たちの本音は「中国が怖いから日本の軍備を強化したい」というものだろう。

しなしながら、今回は国際情勢については考えない。むしろ考えたいのは国民にとってこれが「損なのか得なのか」である。

現在の国会答弁を聞いているとよく出てくるフレーズがある。それは「相手に手の内をさらしてしまうから何も答えられない」というものだ。国防議論はすべて答弁上は「黒塗り」になっており、これが当然のように使われている。国会議員は国民の代表なのだからこれは「国防については国民は知らなくて良いですよ」と言っていることになる。つまりあくまでも表面上の主語は「敵」なのだが、日本人は簡単に主語を転換させてしまうので、実際の主語は別のところにあるのかもしれない。

ではなぜ国民に知らせてはならないのか。三つの理由があると思う。第一の理由は日本が主体的に戦争(防衛)に関与していないために国民の理解と予算の承認が必ずしも必要がないという事情である。この意味では日本の国防というのは第二次世界大戦前と似ている。すなわち国会は軍隊を監視することはできず「統帥権」という名目で独立しているのだ。もちろん戦前と違って現在の自衛隊は内閣に参加していないので、自衛隊が気に入らないからといって内閣が瓦解することはない。また、天皇もスルーされており内閣はアメリカと直接やりとりをしている。つまり、天皇が一段下がった形になっている。それ以前の内閣はこれほどあからさまに国会を無視しなかったから、安倍内閣は日本国民は日本防衛の当事者ではないと見なしていることになる。

次の理由はこれと似ているが異なった理由である。日本はアメリカの軍隊を補完する形になっており当事者ではない。つまりそもそも情報が入ってきていないという可能性である。アメリカには独特のラインがあり軍隊と国務省は別の動きをしているようである。これを統合するのは大統領なので、外から動きを見ていても最終的に大統領がどう決断しそれを議会がどう承認するか(あるいは承認しないか)がわからない。つまり日本の防衛について最終的に決めるのはアメリカ議会なのだ。最後までわからないのだから日本政府が勝手に自分たちが作ったストーリーを正当化する議論を積み重ねることはできない。だから何も言えないのである。

ここまでの敵は例えば北朝鮮や中国だろう。つまり日本政府が憶測でものをいってアメリカの作戦を邪魔してはいけないという遠慮があるのだろう。日本人は軍事的にアメリカに依存することに対して抵抗はないので、日本人の運命を最終的に決めるのはアメリカの納税者なのだということを受け入れていることになる。

最後の理由はこれとは少し違っている。すでに国内の議論が形骸化しており、実際には憲法や法体系をかなり踏み越えた運用が行われている可能性がある。つまり、これまでの議論をオープンにしてしまうとこれまでの議論が単に「議論のための議論だった」ということがわかってしまうばかりか「憲法など最初から度外視されていた」ことがバレてしまう。すると国内左翼が騒ぎ出す。安倍政権はこれが面白くないのではないだろうか。例えば、オバマ大統領が核兵器廃絶を訴えた時日本政府の姿勢は慎重だった。国内の「サヨク」にいい思いをさせてはならないと考えたからだ。つまり「敵に手の内を見せてはならない」の「敵」とは国内政治の政敵のことなのである。

つまり、日本人は自分たちの運命を自分では決められないのだから、最低限何かに巻き込まれないようにするのがトクということになる。よく自衛隊を軍隊にして自分たちの身を守らなければならないなどと言っている人たちがいるが、それは「お花畑」であり現実を見ていないと言える。

よく、改憲派の人たちの中に「憲法第9条があっても中国が明日攻めてきたらどうするんだ」ということをいう人がいる。「そんなことはありえないだろう」などと言ってみても「100%ないのか」と言われれば言葉に詰まってしまう。これは中国との間にラインがなく相手の出方がわからないといことが背景になっている。つまり、信頼できないから備えなければならないということになる。

しかしながら、おなことがアメリカに対しても言える。「アメリカが日本を見捨てたらどうするのか」とか「自国防衛のために利用したらどうするのか」という質問ができる。中国が攻めてこないことが「絶対にない」ことはないのと同じように、アメリカが日本を見捨てないという可能性も絶対にない。アメリカ人は100%いい人なのかもしれないが、防衛という究極の状況では自分たちの身の安全を優先するだろう。

もちろん自分たちで何かができるならどうにかすべきである。しかし、問題の本質は「国民から見て政府がどのように動くかわからないし、そもそも当事者能力があるのかすらわからない」という点にある。よくゲーム理論で「囚人のジレンマ」ということが言われる。二人の囚人が意思疎通ができる場合とできない場合では最適な戦略が異なるというものである。もちろん協力して示し合わせるのが最適解なのだが、そうでない場合には自分の身の安全のみを考えたほうがよい。それは「いかなる取引にも応じず、何も協力しない」ということになる。

もちろんこれは国益を大きく損なう可能性がある。しかしその問題を作っているのは「敵に手の内を知られては困るから」といって何も説明しない政府であり、我々には何の落ち度もない。

日本の憲法第9条をめぐる議論はなぜ不毛になるのか

小川和久さんという人が朝日新聞のある記事に反論している。もともと対米追従派で安保法制制定時に「独自防衛をすると何倍もお金がかかるようになるから絶対にダメだ」というキャンペーンを張っていた人なので、反発の理由はわかる。つまりはポジショントークなのだろう。

最近の政権側のポジショントークはだんだんおざなりになりつつある。野党側が自滅してしまった上に、ほとんどの国民がそもそも興味を持っていないことに気がつきつつあるのだろう。だが、記事を読んだだけでは何がめちゃくちゃなのかがよくわからない。

最初に目につく問題は、リベラルを応援し人権擁護を訴える立場を「日本の知的エリート」と決めつけている。実際には「社会に影響力があり政権に協力的でない人たち」を叩きたいだけなのだが、そうは言えないので「リベラルは」などというレッテル貼りをするわけである。

次の問題は筋の立て方である。日米同盟が対米追従なのであれば、イギリスなどを含むアメリカの同盟国は対米追従になると言っている。NATO加盟国はソ連との対抗上「選択的に」アメリカとの軍事同盟を結んでいるのだが、日本が選択的にアメリカとの関係維持を求めたことはない。岸内閣が安保体制を維持したことを引き合いにして「民主的に選択した」と言い張ることはできなくはないが、これは説明不足もあり国民から猛反発を受けた。また、広島の上空で危険なオペレーションを行っても日本は抗議できないし、沖縄(忘れているかもしれないが沖縄は日本の一部だ)でヘリコプターが落ちて国民の財産権が侵害されても日本政府は何もしない。加えて横田空域はアメリカに占有されたままである。これは同盟そのものよりも運用や協定によって不平等な運用がなされているからである。いずれにせよ、成り立ち上からも、運用上からも、日米同盟は対等な軍事同盟とはとても言えない。ヨーロッパではこのような対等ではない契約にはなっていないようなので、半占領状態にあるといっても良い。

日本がアメリカと軍事同盟を結んでいるのは日本のためではない。アメリカの支配下に置かれることで、日本が周囲に軍事的に進行するのを抑えているわけである。小川さんは多分このことがわかっているのだが、ポジションとして日本はアメリカに大いなる協力をしているパートナーだと言い張っている。

しかし、最大の問題は実は日米同盟そのものにはない。小川さんはアメリカが喜望峰までをカバーするためには日本に基地を置かなければならないと言っている。しかし、なぜアメリカは喜望峰までを独自にカバーしなければならないのかよくわからない。もし、喜望峰までカバーする必要があるのだったら、どこか別の国と同盟を結べばいいだけの話だし、技術革新によって遠隔地からカバーする方法にも触れていない。さらに、現在では国連などの国際的協調の枠組みがあるのだから、かつてのようにプライベートな同盟関係で経済権益を守るというやり方を取る必要があるのか疑ってかかる必要がある。

喜望峰の近辺にアメリカの同盟国がないのはなぜなのだろうか。それはその近辺に旧植民地支配国がないからである。つまり、日米同盟を含むアメリカの同盟というのは実は旧帝国主義リーグなのである。

では小川さんの論がおざなりだということはカウンターの勝利を意味するのだろうか。反論されている加藤典洋という人の文章もピンとこない。こちらもなんとなく変だなという感じはするのだが、よくわからないので細かく見てみよう。

  1. フランス革命に対する反動として保守が生まれた。
  2. 保守には共通の目標が必要だ。
  3. しかし、安倍政権は保守ではない。単なる対米追従だ。
  4. 日本国家の目標は対米独立であり、安倍政権はそれを放棄しているから保守とは言えないのだ。
  5. 憲法第9条の改定も独立を装ってはいるが、実は対米追従策に過ぎない。
  6. 国難を叫ぶ’風潮は大正デモクラシーの後にも見られた。当時と現在の状況は似ているので、これを研究しなければならない。
  7. リベラルに否定的な空気があるが、これは大正デモクラシーが否定されてゆく動きと似ているので枝野さんは頑張るべきだ。

まずは、小川さんから片付けてゆくと、加藤さんの文章の「対米追従」という言葉に脊髄反射しているだけなので、特に文章に対する反論にはなっていない。一方、加藤さんの文章の言いたいのは「俺は大正デモクラシーについて研究しているのだが、これをもっと取り上げてくれ」ということなのではないかと思う。つまり、研究所の宣伝なのである。

それを我慢して読んでいると「日本の目的は対米独立なのだ」という論の展開に無理があることがわかる。なぜならば、日本とフランスの状況は異なっているからだ。つまり、日本には革命(あるいは急進的な社会変革)がないので、保守が存在しえないである。ゆえに、その後の論がすべて無効になってしまう。

加えて、現状維持を目指しているのがいわゆる日本の左派リベラルで、現状を変えようとしているのがいわゆる日本の改憲派保守だ。つまり、革命勢力は「保守の側」というわけのわからない領域に突入する。日本の保守運動を復古的な動きだとする人もいるかもしれないが、彼らが目指すところは自民党などの政党の一党独裁体制であり、どちらかといえば中華人民共和国に近い。中国は共産党の独裁になっているのだが、日本ではそれはあからさまなので「公」という概念をおき、それを守護するのが自民党だという筋立てになっている。

後半は本当に言いたいこと(つまり研究の宣伝)なので論が通っている。これに政権批判をくっつけてしまったことでやや破綻した仕上がりになっている。この蛇足部分に小川さんが反論して、おざなりで現実を見ていない日米同盟論をいつものように連呼している。

だから、この<議論>に何か意味がありますかと問われると「ありませんね」と答えるしかない。

冷静に考えてみると加藤さんも小川さんもそれで構わない。なぜならば加藤さんは本が売りたいだけなのだろうし、小川さんは対米懐疑派を潰していればそれなりに仕事が回るのだろう。だから、この手の議論は特に何かを解決しようとしているのではないということがわかる。

では、こうした論をつぶさに見てゆくことには全く意味がないのだろうか。論を観察してみると、どちらもが「国連を通じた世界的な枠組みづくり」について全く触れていないことがわかる。一方はアメリカが日本を対等な軍事同盟の相手として認めてこなかったという歴史にルサンチマンを感じていることがわかるし、もう一方はどう考えてもバカにされている相手についてゆくために「実はアメリカが成功しているのは日本のせいなのだ」という心理的合理化を図っていることがわかる。

つまり、どちらもアメリカに過剰なまでにとらわれている。だが、よく考えてみると冷戦構造が崩れ、中国やインドなどの国が大きなプレイヤーとして経済に組み込まれた状態で、アメリカとヨーロッパを中心とした連合体だけで世界秩序の維持をしつづけなければならない理由は見つからない。逆にこうした枠組みに過剰にこだわると却って分断が進んでしまうことになる。

さらに、当事者であるアメリカにも世界の警察官であり続ける意欲はないようだ。TPPのような枠組みすら国益のために脱退するという状態になっている。しかし、アメリカは世界で一番強い国で、日本はその隠れたサポーターなのだと考えているうちは、とてもこうした世界的な変化にはついて行けないだろう。

日本の第9条の議論が不毛になるのは、その前提になる「防衛と秩序づくり」の議論の参加者がアメリカしか見ていないからなのだ。

参考文献

犬について考えるついでに憲法についても考えてみた

また、犬が倒れた。老犬になるとびたびこういうことが起こるそうだ。これについていろいろ考えたついでに(考えるだけでなくやることがいっぱいあるのだが)憲法についてもちょっと考えた。関係なさそうなのだが、犬の介護くらいのことでも「社会」について考えることがあるのだ。

犬が倒れると食事をしなくなったり、歩けなくなったり薬を飲まなくなったりする。しかし、一人であれこれ考えるだけでは何も解決しない。そこでウェブサイトを検索すると歩けなくなった犬の介護用ハーネスの作り方が書いてあり、公共図書館で本を借りることもできる。つまり、悩んでいる人は大勢いて知識の分かち合いも行われているのだ。つまり、誰も助けてくれないようでいて社会と関わることがある。ただしその関わり方は様々だ。もちろん、同じことは人間にも言えるのではないかと思う。

私たちはいろいろな義務を背負っていて、同時にそれを誰かと分かち合うことができる。堅い言葉で言うと「相互扶助」という。相互扶助という考え方では「義務と権利」というものは実は同じことで、それを個人だけでやるか、社会と分かち合うかということを決めているだけということだ。

例えば教育の無償化は「教育を受ける人」には権利になるが、支える人には義務になる。が、義務を負った人も同時に権利を持つ。

「教育の無償化」というと、そうした義務を負うことなしに権利だけが得られるという間違った印象を持つ。こうして議論が歪められてゆく。これは「権力」が介在することによって相互扶助という原則が見えにくくなるからであると考えられる。ゆえに教育無償化の議論は極めて有害なのだ。

こうした歪んだ意識は様々なところで見ることができる。例えばふるさと納税などもその一例だ。本来なら「学校教育に使われる」か「俺の肉を買うか」ということになるのだが、直接還元される肉に人が殺到する。税というものが正しく理解されていないし、健全に運用されていないからこういうことが起こるのだろう。が「私たちのために使われる」という政府に対する信頼がないことが背景にあり、一概に納税者を責められない。

ただ、これは民主的な社会の話だ。支配者が「国民に与える」恩典憲法では、極端な話義務について書く必要はない。与える権利だけを記載すれば良いからである。その意味では帝国憲法は恩典的だが、その改正によって生まれた戦後憲法もGHQからの「恩典的」憲法なのかもしれない。日本憲法は権利の数が多いというが、これは実はGHQが国民に与えたという性格があるからだ。その上「民主主義はいいものですよ」というプロパガンダ的な性格を持っている。リベラルの人たちの護憲運動に説得力がないのは、それが彼らによって勝ち取られたものではないからだ。護憲・平和などと言っているが、それは上から落ちてきたものを拾っているに過ぎない。

「社会の関わりを定義する」という筋から考えると、憲法改正にはふた通りの議論があるということになる。

  1. 余力ができたりインフラが整ってきたので、社会が個人に対して新しい関わりを持つという方向性。これは社会保障インフラなどについて言える。責任を負うが享受できることも増える。
  2. 個人のリテラシーが整ってきたので、今まで社会が関わってきたことから手を引く。これは規制緩和などについて言えるだろう。責任からは解放されるが、享受できるサービスも減る。

つまり憲法議論は、個人が社会とどの程度関わりたいかという個人の考えが社会的なコンセンサスを得て成り立つのだということになる。これが「国民が主権者である」という言葉の意味ではないだろうか。つまり、リベラルは合意形成機能を持っているべきだ。日本にはこうした機能がなく、社会が引きこもりを起こすのである。

市民側からの圧力がないので、民主主義憲法を権力者である首相とカルト系宗教の支持者たちだけが社会と国民のあり方のバランスを変えたがっているというとても偏った状況が生まれている。ここから「飴」を与えて権力を奪取しようというおかしな現象が起こるのだが、結局義務を負うのは国民である。国民はこれをわかっているので「政治に何を言っても無駄」という冷めた空気が生まれるのだ。

だからといって「憲法は権力を縛るものなので指一本触れてはならぬ」というのもあまりに歪んだ議論である。憲法は国民がどう社会に関わるかということについて記述されるべきで、権力に対する重石として置いてあるわけではない。が、リベラルから改憲の動きが出てこないのは、彼らが社会についてあまり何も考えていないからなのかもしれない。

さらに、社会はくだらないものだから引きこもるということであればそれも考えの一つなので、国や社会の関与を減らすべきだという主張もできる。減税とサービスの低下が選択肢ということになる。

つまり社会が助け合いをしようという人たち(つまりリベラル・革新派)ほど権力が強くなるはずで、本来は改憲派になる可能性が高いということになる。ところが日本人の意識には恩典憲法的な価値観が残っており、この通りにはことが運ばないのだろう。リベラルは自分たちの運動で得た権利ではないので「根がない」状態にあると言える。

リベラルの人たちは(例え国防に対する考え方などが保守的であっても)まず合意形成機能を獲得する必要がありそうだ。民進党の人たちの「バラバラ感」を見ると、安倍首相の批判に熱中している時間はないのではないだろうか。

憲法改正やってみればいいんじゃないか

昨日、複雑に絡まるマダガスカルジャスミンの植え替えをしながら、Twitterでときどきやりとりさせていただいている人とちょっとしたやり取りをした。安倍政権が好き放題しているのは政権交代が起こらないからなのだが、それはどうしてなのだろうというのものだ。テキトーに考えた結果は「日本人は政権交代に懲りている」というものだった。

長い間、日本人はアメリカ流の二大政党制と政権交代に大いなる憧れを持っていた。当時の課題は金権政治からの脱却だった。そこで選挙にお金がかからなければ政治は清浄になるだろうという根拠のない期待が生まれ、政党助成金と小選挙区制が導入された。しかし、それでも不満は収まらなかった。

バブルが崩壊して「このままにすると日本は大変なことになる」というような空気が生まれた。今度は「官僚がお金を隠しているだけなので、政権交代すれば大丈夫ですよ」という政党があらわれた。自民党は緩んでしまっており大臣の失言などが止まらなかったので「もういいよ、面倒だから政権交代だ」ということになったのだが、結局その人たちはたんなる嘘つきだった。

つまり日本人は「見たことがなかった政権交代」に過剰な憧れを抱き、一回失敗したら怖くなってしまったことになる。前回ご紹介したNHKの調査では政治参加意欲そのものが低下しており、NHKはその理由をこのように分析している。2004年と2014年を比べているのだが「政権交代しても結局無駄だった」という感覚があるのだろう。

本稿ではこの背景について、①政治に働きかけても何も変わらないという意識、②前回に比べて比較的安定した経済的状況、③若い世代を中心とした身近な世界で「満足」するという価値観の変化、の3つが重なったことが要因ではないかと考察した。

さて、政権交代が問題を解決しないとなった今、政治家の関心は憲法である。つまり、憲法さえ変えれば「賢い俺たち」が政治を劇的に変貌させるという根拠のない自信があるのだろう。が、これは政治家だけの感覚ではなく若い人たちの中には改憲派が多いという記事もある。この毎日新聞の記事は「社会が変わってほしいという期待感もある」と言っている。

制度さえ変えれば何かが劇的に変わるだろうと考えるのは日本人がプロセスを無視して結果だけを求める傾向が強いからだ。が、その制度が失敗してしまうと今度は極端にそれが嫌になってしまうのである。

いわゆる一連の政治改革は結局は自民党の派閥の内紛だったのだが、憲法改正論議は自民党のパートナー政党の乗っ取りが目的になっている。結局は内紛なので議論が成熟するはずはない。だったら一度「本格的な議論」をして国民投票してみればいいんじゃないだろうか。特に教育無償化は財源を巡って炎上する可能性が高く、多分国民は憲法改正論議自体を嫌がるようになるだろう。

 

 

マスゴミは偏向しているという人に読んでもらいこと

さて、今日は「マスコミは偏向している」と考える人に読んでもらいたいことがある。教育の無償化について賛成か反対かアンケートを取ってみたい。

あなたは教育の無償化に賛成ですか?

このアンケートに反対する人はいないはずだ。教育はイイコトだし、無償化もイイコトだからだ。ちなみに戦争はワルイコトであるので良くないという人が多いかもしれない。多くの単語には色がついている。

じゃあ、これはどうだろうか。全く同じことを聞いている。

あなたが隣の子供の教育費を負担することに賛成ですか?

もし、あなたが子育て世代であれば賛成するかもしれないが、高齢者であれば反対というかもしれない。しかし、これは無償化のもう一つの側面であることは確かである。が、こういう聞き方をすると誘導であるという批判がでかねない。

さらに具体的なことを聞くと偏向度が強まる。単に具体的なことを聞いているだけなのだが……

  1. 教育無償化のために消費税増税するのに賛成です?
  2. 教区無償化のために成長の果実を使うことに賛成ですか?

これだと2を選びそうなのだが、2は「成長の果実がなければ教育予算を削減する」ということだ。

では、これはどうだろうか。

あなたは国家がすべての教育に介入することに賛成ですか?

明らかに「左翼が歪曲している」と取られかねない聞き方なのだが、実際に「国が教育を無償化する以上「フェアな形」で教育に介入すべきだ」と書いている国会議員の主張を見た。スポンサーがなんらかの形で内容に介入するだろうと考えるのはむしろ自然なことなのである。フェアという言葉が気になるが右翼の人たちにとってのフェアというのは「自分に都合が良いように」ということなので、ほぼ「国が(つまりは俺たちが)教育に介入してやるぞ」というのと同じことになる。中には「憲法は国が(すなわち俺たちが)国民に訓示するものにすべきだ」と真顔で書いている国会議員もいる。

ちなみに現行憲法はこの辺りを実に絶妙に表現している。全ての国民は教育を受ける権利があるとした上で、能力に応じた教育と、義務教育を分けて考えており、そのうちの義務教育は無償だとしている。「私学」が義務教育から廃除されるべきとは書いていない。

ところが今回の無償議論は「私学助成」を含んでいる。高等教育をここに含めてしまうと「最低限アクセスできる高等教育」にどれくらいの価値があるかという議論が生まれかねない。ゆえにこういう質問も成り立つ。義務教育の高等教育版だ。

あなたはだれでも通える大学を国が作ることに賛成ですか?

これ「わからない」という人が多いのではないだろうか。いわゆる駅前大学(県庁ごとに作った国立の大学をそういう)を想起する人が多いだろうし、いわゆるFランク校(偏差値底辺校ともいうそうだ)も該当しそうだ。つまり、選抜されない学校は就職に役に立たない可能性が高い。そんな大学を作って税金でまかなって何の役に立つのだということになる。


さて、ここまで書いてきて「政治的に完全に中立な」アンケートなど取りようがないことがわかる。単純な聞き方をすると「政府に白紙委任状を渡す」ことになる。これでは政府広報と同じである。教育無償化はイイコトだという議論のうらにあるべき制度設計が全くなされていないからである。

かといって、いろいろ疑い始めると「サヨク認定」される可能生が強まる。「民主的に選ばれた政府を疑うならお前は反日だろう」というわけだ。学校に通えない可哀想な子供の話を散々聞かされている市民団体のお勉強会などにいって「教育無償化」について聞いてみるのもいいかもしれない。多分「ムズカシイことを聞いて私たちをバカにしてる」と言われること請け合いだ。

つまり、政治的に中立なアンケートなど取りようがないことがわかる。こんな単純なことを聞くだけでも中立になりえないのだから、政治的に中立な報道などあるはずがない。すべての政治的意見は偏向せざるをえないのであって「単純な正義」などはありえないのではないだろうか。

民進党までもが教育無償化と言い始めた。もううんざりだ。

自民党や維新が「憲法改正で教育無償化を」と言っていてむかっ腹が立っていたのだが、ついに民進党も代表質問で同じようなことを言い出した。どいつもこいつも合理的思考ができないアホばかりだ……

と、釣りはこれくらいにして、今回は、少ない情報と限られたリテラシの中でどうしたら有意義な議論ができるかを考えてみたい。やることは小学生レベルに簡単で、白い紙を取り出して、企業、社会(国)、個人の立場から教育がなぜ正当化できるかを表にしてみることだ。

ここから見えることはいくつかある。

  • 教育が正当化されるルートは「投資」と「福祉」の通路があるので、それぞれ評価基準が異なるだろう。
  • 「経済成長」が、GPDを伸ばすことではないということや、「デフレ」が物価とは関係のない概念だということもわかる。

まずは図を見ていただきたい。もちろんこの図は間違っている可能性があり、少なくともラフな部分を含んでいる。一番の問題点は複雑に見えることなのだが、実は大して複雑ではない。

高度経済成長期のモデル

3つのセクター(企業、労働者、社会(国))の問題はそれぞれ連関しているようだ。なんとなく線で結んだところ、今までなぜ「教育無償化」という声が上がらなかったのかがわかる。これが国を通らない青い通路だ。この世界では企業や事業体が成長していて、自社(あるいは営利目的の学校)で社員が養成できる。正社員は将来世代の教育資金を提供できるし、教育を受けるほど給与が上がるので学校への投資が正当化できる。そして、このループに乗った人は将来給与が上がるのである。だから「借金(奨学金という学生ローンを借りる)してでもループに乗れ」ということが言えたわけである。これが起こる理由もなんとなくわかる。経済が成長すると稼げる金額も上がる。したがって、教育投資に利子がつく状態になるのである。いったんこうした効果が出始めると、自己強化が行われる。

問題は人工的に成長を作ると経済が成長し始めるという仮説の妥当性にある。経済には成長のポテンシャルがあるのになんらかの原因で妨げられている場合にはこれが成り立つかもしれない。だが、ポテンシャルがなくなっている場合にはこの仮説は成り立たない。つまり、原因と結果に正のフィードバック効果があるからといって、結果が原因を導くということにはならないのである。

社会の失敗

ところが、なんらかの影響でこの青ルートが壊れることがある。この図の中にはうまく書けていないのだが、いくつか考えられる。たぶんこれ以外にもあるはずである。

  • 企業は成長しているがノウハウがなく社内教育できず、営利目的の学校でも知識が調達できない。これは可能性としてはあり得るが現実性はあまりなさそうだ。
  • 正社員として働けるが、将来世代の教育費までは捻出できない。
  • 教育を受けないことが脱落要因になっている。つまり、もはや奴隷的労働にしか従事できず自分の家庭は営めない。これが社会を縮小させる。国からは納税者がいなくなり、企業は労働者と消費者が調達できなくなる。

これが進むと社会が縮小する。企業は経済成長できず、国民(消費者、労働者)は豊かになれない。消費するお金がないのだから、良いサービスや商品が買えない。そこで賃金も払えない。そこで企業が成長するために必要な正社員を雇えないという負のループだ。色が付いていない線は二つの例外を除いて「縮小」を示している。

2つの例外

1つ目の例外は「個人や企業は投資としての教育ができない」が「国」は正しい道を知っており、ダウンループ(ダウンスパイラル)や定常化を逆転できるという見込みがあるときである。このストーリーが正のとき、社会が教育費を捻出するということが「投資」として正当化できる。つまり、自民党が「教育費の無償化をやりましょう」と主張するのであれば、これを国民に示す必要がある。実際はこんなことは起こりそうにないのだが、発展途上国ではあり得る話である。実際に明治政府が成立した時期にはこれは正だったのだろう。

もう一つの例外は定常化の道である。企業はこれ以上成長しないのだが、パートの収入でもかつかつ食べてゆくことができるという状態だ。パートは維持できるので教育は最低レベルでよい。村の人たちも周りを見ているだけなのでそれほどの不幸は感じないだろう。これは江戸時代的だ。江戸時代の後期には経済成長もせず、寺子屋レベルの教育で社会が回っていた。これが成り立ち得たのは、多分経済が閉じていたからだろう。つまり、鎖国すれば教育はしなくてもよいというような結論が得られそうだ。もう一つ定常化社会で賄えないのが福祉だ。

つまり定常化は、土地がまかない切れる人工が決まっており、それが合理的に計測できるときにしか維持ができないのだ。江戸時代は、土地が生産できる米の量は決まっているので、それ以上に増えると「飢えて死ぬ」しか選択肢がなかった。これは福祉も、金融(外から入ってきたり海外に流出したりする)のない世界だ。

二つの例外以外は縮小につながっている

二つの例外以外は経済の縮小につながっている。だが、これまでの議論を見ていると「経済が縮小した」ということを証明するのは難しいようだ。多くの人がなんとなく「経済が長期的に下り坂だなあ」ということを実感しつつも、数字には現れないという世界である。多くの人が「デフレ」というときに表現したいのは、実はこの状態なのではないだろうか。

間接的に「縮小」がわかるのは次の点だ。

  • 給与は下がりつつある。経済学者は周期的なサイクルに乗れば「いつかは」正社員の給料が上がるはずだと言っているが、そのいつかはこない。どうやら給与削減が経営のトレンドとなっているようである。
  • パートが圧倒的に足りず、人件費が経営を圧迫する。エクストラコストを払ってまでも外国人の低賃金労働者を雇っている。正社員を投入して成長させるような新規事業が見つからない。
  • 学生の半数はローンを抱えて卒業し、ローンを返せない人もでてきている。それどころか学生のときからブラックバイトにはまり学業を諦める人すらいる。これは投資としての教育が正当かできなくなっていることを示す。

正社員とパートという言葉が乱暴に使われている点に注意が必要だ。企業に付加価値を与える人を「正社員」と言っている。将来の成長の見込みがあり、エクストラコストを投資として支払える。これが家族への投資につながる人を「正社員」と言っており、通常の正社員の概念とは必ずしも一致しない。パートはマニュアル通りに働く人で将来の余剰価値を生み出さないので、一定のリテラシのある人たちをできるだけ安く雇うのが正しいし、教育のオーバーヘッドはネグれる(無視できる)ので、必要なくなれば雇い止めすれば良い。

エネルギー系としての教育

この拙い表と限られた知識から何となくわかってくるのは次の点だ。

  • 社会はエンジンのようなもので、回してゆくためには燃料が必要だ。
  • エンジンなのだから、早くなる・そのままの状態が続く・遅くなるという3つの状態が起こり得る。
  • 状態は系なので、個別を取り出して議論しても意味はない。
  • 「教育」は実は系に知識を燃料として投下しているということになる。

なんとなく最低限の知識で効率よく回してゆくのが良さそうだが、現実的には「エンジンの回転数が下がりつつある」ことが実感できるので、なんらかのブレーキ要因があるのかもしれない。

自民党、維新、民進党への批判

自民党と維新への批判は簡単で、もし「教育によりダウンスパイラルを逆転できる」が「企業や労働者が探せていない見込み(いわゆる成長分野)」があるなら、それを提示せよということになる。企業や労働者の方が情報を多く持っているはずなので、儲かるセクターがあれば民間が先に手をつけているはずだ。だから、国がわざわざ出張ってくる必要はないのではないだろうか。自民党は同じようなことで一度失敗している。それが社会インフラの整備(つまり公共事業)である。

一方、民進党に対しての批判は少し込み入っている。まず教育を未来への投資であるとするなら、なぜ国が関与するのかという点を明白にする必要がある。先に見たように2つの通路がある。これは自民党と同じことを証明するだけで良い。

さらに福祉であれば、どれくらいの規模の余剰資金があるのか、いつまでこの状態が維持可能なのかを提示すべきである。民進党は「消費税など」を使って無償化を行うべきと提案しているのだが、どうやら消費税は所得勢や法人税の穴埋めに使われているようだ。つまりダウンスパイラルに対応する税なのである。同じことは保育にも言える。従業員に働いてもらうための投資なのか、困窮者のための福祉政策なのかが分からなくなっている。

まとめ

 

教育も何も知らない素人が、一枚お絵描きしただけで勝手なことを言うなという批判は考えられる。だが、実際にはこうしたお絵描きからわかることはたくさんある。日々の情報収集に追われているとなかなかそれを結びつけることができなくなる。一度新聞やTwitterから離れて、白い紙を広げてみるのも面白いかもしれない。

 

 

「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。

 

 

 

「憲法で教育無償化を」と叫ぶ人たち

いろいろごちゃごちゃと書いたのだが、教育が無償化されると、実質的にすべての教育は国営化されて「国鉄化」するんだろうなあと思った。


安倍首相が改憲して教育を無償化したいといっているそうだ。もともとは維新の提案であり、与野党協力体制をアピールして「国民の合意を得られた」という空気を作りたいのだろう。無料に反対する人は誰もいないわけで「改憲への拒否反応」が弱まる可能性はある。これは憲法第9条改正に対する拒否反応を弱めるのかもしれない。

しかし、これほどまでに空虚な政治的提案というものを見たことがない。それは何のために教育を受けるのかという議論がないままに「タダ」という言葉だけが先行しているからだ。

一般のレベルでは人々は競争に優位に立つために教育を受ける。教育は投資なのだ。教育無償化を喜びそうな人は「これでお金がないからといって脱落することはなくなる」と一安心するかもしれないが、競争社会を生きている人は「無料で誰にでも手に入れられるものは競争には役に立たちそうにない」ことを知っている。つまり無料で受けられるものには実は大した価値はない。

それにも増して教育の無償化は実は教育を荒廃させる可能性がある。実際に教育にかかる予算は削減傾向にある一方で、保護者の要求は際限なく高まりつつある。つまり無償化に伴って「共有地化」が起こる可能性があるのだ。共有地化はフリーライダーを増やす働きがある。すると誰も維持管理を行わなくなり荒廃する可能性があるわけである。実際には保護者のボランティアに頼って地域教育を維持しようという動きもある。主婦労働は無償だと考えられているため、介護や教育に「動員」されかねない。ちなみに家族が社会を支えるべきだという考え方も改憲に組み入れられている。

では教育の無償化は悪いことなのだろうか。

いわゆる「無償化」が成功している国は、社会が教育コストを支えるのだという意識のある社会だ。つまり「無償化」ではなく「社会化」である。納税者が教育費用を負担しているのだ。加えて日本は国債発行残高が高く、極めて納税者意識が低いという現実もある。負担はしたくないが受益はしたいという人たちが多い。「憲法による無償教育」はこのような人たちにあらぬ幻想をふりまくことになるだろう。

さらに国には「国家に忠誠を誓わせて一部の政治家に都合のよい思想を持った人たちを大量に生産しよう」という目論見があるようだ。こうした動きを支持する人が多いのは、主婦や子供などは年長の男に従うべきだという搾取思考が根深いからだろう。つまり、無償教育は余剰の教育資金を持たない国民を洗脳する装置になりかねないという危険性がある。

つまりこれは「国民を無償教育という罠に閉じ込めて都合よく搾取しようという政府の企みだ」と考えることもできるし、左派の人たちはその線で反対するのではないかと考えられる。「無料で戦争教育するのだろう」という批判はすでに行われているようだ。しかし、それすらも希望的観測というより他ない。それは、教育を受けた人たちが「戦争する意欲がある」ということを前提にしているからである。戦争は中国と戦うことではなく、企業戦士として死ぬまで働くことかもしれない。

意思がある人たちは無償でない教育を受けることになるだろうが(多分国内にはその機会はないかもしれない)意思のない人たちは国が吹き込んだ知識をそのまま丸暗記し「やることはやったからあとはなんとかしてくれ」と集団に望みをかけつつ、弱い人たちを罵倒するような未来が待っているのではないだろうか。大量の指示待ちくんが量産されるというような未来が見えてしまうのだ。

教育無償化の議論に欠けているのは、誰が社会を切りひらき、どのような貢献をするのかという意思だということが言える。