高校生の政治活動届出制について

今度の選挙から18歳以上に選挙権が認められるようになる。自民党は当初、自党への支持が広がると考えていたようだ。しかし、SEALDsなどの台頭を受けて「高校生の政治活動参加は届出制にするべきだ」という議論が出てきた。過去にも学園闘争が高校生に波及した例があり、過激な活動を警戒しているのだろうと思われる。実際に大学では政治活動が過激化して、授業が継続できないことが起きた。

だが、これはなかなか不思議な議論だなと思った。

政治結社の自由や集会の自由は憲法で守られた最も基本的な権利のひとつだ。もし仮に、高校がデモに参加した学生を退学処分にしたら何が起こるだろうか。多分、主権者たる高校生は「思想信条の自由を侵されて不利益をこうむった」として高校を訴えることができるはずだ。これは明確な憲法違反だ。だから、学校から許可が得られなかったからといって何の意味もない。

そもそも、これは議論になるほうがおかしいのだ。逆に「じゃあ一度退学処分でも出してくれますか」とお願いしてもいいくらいだろう。

同じことが校内でも起こるはずだ。共産党(あるいはなんらかの過激な思想でもかまわない)の支持を訴える学生が退校処分になったら「言論の自由が奪われた」として高校を訴えることができるだろう。

こんなことが書けるのは、基本的人権に制限がかかっていないからだ。学校や文部科学省のお役人は高校生を脅かすことはあっても実際の処分はしないだろう。彼らは馬鹿ではないので、実際に強権を発動したら何が起こるかをよく知っているはずだ。政治家たちは憲法の人権条項の強力さを知っているいるからこそ「公共の福祉」を拡大したがるのである。拡大さえすれば「道徳的におかしい」などという理由をつけて主権者を縛ることができるからだ。

18歳以上の高校生も主権者として差別されることはないはずだ。憲法に「高校生の主権は限定的だ」などと書いた条項はない。ただし、これは国や地域の意思決定に加わるということを意味する。それに伴う責任の大きさには心を留める必要がある。だが、それなりに情報収集して政治的な意見を持っているのだから、そんなお説教はしなくてもよいのだろうとは思う。

むしろ、やたらと「あいつらはわがままなやつの人権は制限されるべき」だという普通の主権者のほうが危険だろう。誰がわがままかを決めるのは一般国民ではなく権力者だからだ。だが不思議なことにそう思っている一般国民も多い。気分の上だけでも正義の側にたったつもりになれるからかもしれない。

治安維持法の必要性を叫ぶ人がいる

Twitterのタイムラインを見て久々に愕然とした。「彼らには治安維持法が必要」と言っている人を見つけたのだ。この問題はぜひ「民主主義は大切だ」と思う人に時間をかけて読んでもらいたいし、内容を理解した上で、自分の意見を拡散してもらいたい。

彼らとはSEALDsのことらしい。文脈は不明だし、どれくらい真剣に「治安維持法が必要」と言っているのかもよく分からない。

「治安維持法」を知らない人がいるかもしれない。第二次世界大戦中に言論弾圧のために用いられた法律だ。もともと共産主義と天皇制批判を取り締まる為の法律だったのだが、後に拡大され全ての政府批判が封じられたのだ。当時、第二次世界大戦は聖戦だと信じられていたので、それに疑問を持つ事は許されなかった。

拡大しつつあった戦争に対する庶民の反発を怖れた政府は投票権を拡大し普通選挙の実施に踏み切った。自分たちの選んだ政治家が決めたことならば多くの国民が従うと考えたからだ。一方で国民の政治意識が体制転覆に傾く事を怖れた政府は、普通選挙の実施と同時に治安維持法を成立させた。当時の脅威は共産主義の台頭だった。選挙権がない人が政府転覆に傾くのを怖れたのではないかと考えられる。関東大震災の際に発布された治安維持に関する緊急勅令なども参考にされた。

いったん作られた法律は後に拡大解釈されることになる。これが現在の憲法改正反対派が危惧している日本の歴史だ。決して単純に被害妄想を膨らませている訳ではない。

これが「問題だ」と思うのはなぜかを説明したい。現在の左派は安倍政権さえ倒せば戦争法案の危機は去り、立憲主義が守られると信じている。しかし、実際にはそれはあまりにも単純なものの見方と言わざるを得ない。「民主主義への疑い」を持っている一般国民は意外と多いのだ。この人たちを説得しなければ民主的なプロセスで国民の権利を制限する法律が通りかねないのである。

だが、現在の左派にそうした危機感はない。国政レベルでは「一致団結して安倍政権を倒す」などと格好のいい事を言っているが、地方ではまったくまとまりがなく、民主党が自民党を含む体制派の応援をするなどということは珍しくない。

ではなぜ治安維持法が必要という人が出てきたのだろうか。もともとは日本をアメリカが主催する「国際警察団」に引き込みたかった「ジャパンハンドラー」と言われる人たちがきっかけになっている。彼らは「中国が日本を狙っている」というイメージを植え込む事で、日本人たちの「目を覚まさせよう」としたのだ。実際に尖閣諸島を巡る争いが起きたので、これを最大限に利用した。

同時に、当時の民主党政権に対して「中国・韓国の意を汲む在日政党だ」という印象操作が施された。この結果右派雑誌には「このままでは日本は民主党によって中国に売られる」というような言説が見られるようになる。これを阻止するためには、憲法第九条を改正して軍隊を持たなければ、中国に侵略されると考える人が出てきたのだ。

治安維持法や緊急事態条項を支持する人たちが出てきたのは、このようなバックグラウンドによるものだと思われる。彼らは国内での争乱は中国や韓国の影響を受けた人たちの陰謀だと考えているのだろう。あれは民主的なデモではなく売国的な争乱行為なのだ。

だが、彼らを説得するのは難しい。実際に中国は野心を持っているからだ。ただし、彼らが挑戦しているのは日本ではなくアメリカを中心とした国際秩序だと考えられる。いわゆる「ジャパンハンドラー」はこれをアメリカの問題ではなく、日本の問題に転移することに成功したのだ。

しかし、アメリカは「梯子はずし」を始めた。防衛省に近いシンクタンクは、中国が尖閣諸島を侵略した際にアメリカが「巻き込まれれば」アメリカ本土へのサイバー攻撃を含めた反撃があるだろうと考えている。「わずか5日で陥落する」とレポートは結論づけている。だから放置しておけというわけだ。アメリカとしては日本の「ナショナリズム」が刺激されるのは好ましくないと考え始めているのだ。

ジャパンハンドラーとしては「中国の胸囲を煽れ」と推奨しているだけなので、特に結果責任は取らない。日本政府も仄めかしているだけだ。しかし、それを真に受ける人たちが出ているのだ。こうしたメッセージは1世代をかけて流布したので、すぐさまに修正することはできない。かといって真に受けて中国に喧嘩を売ると、防衛した自衛隊員だけが殺されて「日本の判断で決めたことだろう」と言われかねない。特に安倍政権だけを非難しているわけではない。野田政権が尖閣諸島を国有化した際に、中国の意向にあまりにも無頓着でアメリカ当局を呆れさせたという話も出ている。

この問題が深刻に思える点は、中国への脅威論の矛先が、国内の同胞(彼らは「反日勢力」だと思われているのだろうが)に向かう所ではないかと思われる。外国の干渉が国内の民主主義を蝕むというのは、多くの植民地で見られる現象だ。さすがにジャパンハンドラーたちが「国民の分断」を画策したわけではないと思うのだが、結果的にそのようになってしまう。

その結果、90年前に政府に押しつけられた法律を自ら欲しいと願うような人が表れるのだ。植民地の悲劇としか言いようがない。

特攻隊とジハードの自爆テロ

百田尚樹の『永遠の0』の中に「特攻隊と自爆テロ」に関する議論が出てくる。どういう議論だったかは忘れたが、特攻隊は自爆テロとは違うという結論になっている。まあ、当然と言えば当然である。

前回のエントリー「日本人の政治的態度」について検討した際に、国家神道について調べた。一連の議論の中に「国家神道は宗教なのかそうでないのか」という議論があるそうだ。明治政府は信教の自由を認めているので国家神道は「宗教ではない」ということにしたのだ、とWikipediaには書いてある。だから神社には葬式のような宗教行事がないのだそうだ。現在、葬式でお坊さんに来てもらうのにはそんな理由もあるようだ。

ところが、国家神道はやはり宗教だったという説がある。教義がないから宗教ではないという人もいるが、そのような宗教はいくらでもある。聖戦・英霊・顕彰の三点セットが認められ、人類学からみた宗教の類型に合致するのだという、菱木政晴という人の説が紹介されている。プロフィールを見ると護憲派の僧侶のようだ。

この説に従うと先の第二次世界大戦は聖戦だったということになる。イスラム教的に言うとジハードだ。

ジハードには2種類あるそうだ。一つはイスラム教の精神を外れないように努力する「内なるジハード」であって、もう一方は外敵や堕落したイスラム教徒に対する戦い「外向きのジハード」である。

イスラム国やアルカイダのいわゆる「自爆テロ」は、原理主義的なイスラム教徒から見た外向きのジハードの呼び方だ。コーランによると、自分の命を差し出すことによって天国での地位が約束されるのだ。ジハードに参加した戦士はムジャーヒド(ムジャーヒディーン)と呼ばれるのだそうだ。逆に外敵に背を向けるものは地獄に堕ちるのだという。

政府に属さないイスラム国やアルカイダは単なるならず者に過ぎないが「カリフ国を実現しよう」という意味では、ヨルダンやサウジアラビアなどのイスラム国と変わりはない。闘争がジハードと認定されるためには宗教権威者がジハードを宣誓し法的根拠を与えることが必要なのだそうだが、イスラム国やアルカイダの指導者が宗教的な指導者であるかどうかが、彼らの活動がジハードなのかそうでないのかを分ける基準になるのだろう。

国家神道には天国という概念はないが、代わりに靖国神社に祀られる事になっている。これは先祖霊と同一になるということを意味する。神から地位を与えられるということはないが、国体(家族や日本民族のことと思われる)が護持されて先祖供養してもらえる。聖戦を認定しているのは、現人神である天皇の権威だ。

第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦詔勅は「欧米が国際秩序を押しつけようとしている」という前提で書かれているという。欧米が押しつける秩序をはねのけて世界を安定させるのが、神の加護(天佑)を受けた日本の役割だ。その為に「国際法(すなわち欧米が押しつけたルール)」による宣戦布告にはなっていないのだそうだ。大東亜戦争は異教徒から世界を守る防衛的聖戦であり、その為に特攻して死んだ人たちはムジャーヒディーンなのだ。

故に特攻隊とイスラム原理主義者の自爆テロは同じ構造に基づいているということが分かる。

この結論を感情的に攻撃することは容易だ。現代の日本は西欧陣営に属している。西側の視点からみるイスラム国やアルカイダは世界平和を乱す単なるならず者にすぎない。彼らは地元住民を弾圧し、女性をレイプする。アフリカでは「ジハード」と称して、女性に爆弾を括りつけて市場に放り込んだりもする。日本軍の兵士は(多分)そんな卑劣なことはしなかったし、独立国に正規に雇われた兵士だった。

ただし、共通点もある。70年前の日本はグローバルスタンダードに異議を申し立てて神の加護の元に戦争を始めた。現在、同じような活動をしているのはイスラム原理主義者である。

70年前、日本は当時のグローバルスタンダードから脱却しようと戦争を始めた。そして今「戦後レジームからの脱却」と称して同じような挑戦をしている。しかし、何から脱却しようとしているのか判然としない。また、西洋と異なる国家体制にしても西洋諸国に受け入れてもらえるとは思えない。

現代の日本では国内に向けたジハードが進んでいる。右派政治家の中には国民が現状に甘んじた堕落した衆愚に見えているのだろうなあと思う人たちがいる。雄弁に「改革」を唄い、外向きのジハードを戦っているようだ。演説を見ると心理的にはすでに戦闘モードなのだろうなあと思う。

だが、政治家たちは自分で爆発したりしない。もっと弱い立場の人たちを見つけて彼らが前線で戦うように促すのだろう。そして他人が犠牲になっても「自分たちにはなすべきことがある」と言い訳するのだ。オウム事件では多くの実行犯が逮捕されたが、首謀者はサティアンの中に隠れていた。扇動者とはそうした人たちなのだ。

国家神道は長い間タブーとされてきた。そのため、従来の神道との関係が語られることはなかった。極端に美化されるか狂信として退けられるだけだったのだ。もともと海で大陸から隔てられていた日本には外敵に対峙することがなかったので、確立した教義も聖戦のような外敵排除の概念は必要がなかった。なぜ、聖戦を戦い抜き、同胞の命を差し出すというような教義が生まれたのかについては、もう少し研究をした方がよいのかもしれない。

民主主義や立憲主義はなぜ守られるべきなのか

安倍政権が暴走し「立憲主義」への危機感が強まっている。しかしながら、国民の多くは自民党を支持している。「国民は立憲主義などどうでもいい」と思っていることになる。そこで「立憲主義や民主主義は守るべきか」「守るべきだとすればそれはなぜなのか」という問題を考えてみたい。

話を簡単にするために「法律は中立である」という前提を置きたい。理屈さえ整えば法律学者は一切の価値判断をしない。国の目的は経済を発展させることとする。経済で政治体制を正当化するのだ。

民主主義と経済の関係

雑誌エコノミストの研究機関が出した民主主義指数というものがある。これを見ると「完全な民主主義国」は人口の12.5%しかカバーしていない。国数はわずか24カ国だ。つまり「完全な民主主義国」は普通の国とは言えない。守らなくて良いなら「立憲主義」はワールドスタンダードかもしれないが、あまり意味がない議論だろう。ちなみに日本は今の所「完全な民主主義国」だ。完全な民主主義国はアジアには2カ国しかない。日本と韓国である。ともにアメリカとの関係が強い。

米州からは北米2カ国(アメリカ・カナダ)、ウルグアイ、コスタリカがランクインしている。太平洋州からはオーストラリアとニュージーランド。残りは西ヨーロッパである。

このことから分かるとおり、完全な民主主義国はお金持ちの国ばかりである。試しにGDP(IMF/PPP)を掛け合わせてみると、人口の12.5%が世界のGDPの37.5%を占めている。統計を加工し終わってから思ったのだが、PPPではなく為替で調べるべきだったかもしれない。PPPは実質的な値であり、合計が意味を持たないからだ。PPPベースだと中国が米国を抜いて世界一のお金持ち国になる。GDP統計の中にパレスティナ、キューバ,ビルマ、北朝鮮が入っていない。

GDP合計 GDP割合 国数 人口
完全な民主主義国 40585.5 37.52% 24 12.5%
欠陥のある民主主義国 28892.72 26.71% 52 35.5%
混合政治体制 6911.81 6.39% 39 14.4%
独裁政治体制 31790.72 29.39% 52 37.6%

この数字をどう見るかは意見の別れるところである。もともと西ヨーロッパとアメリカなどの同じ価値観を持った「お金持ちクラブ」が富を独占しているだけだという可能性もある。

これより少しまともな答えは民主化した国から産業革命が起こったというものだ。経済的に成功した市民層が民主化を促進した。この2つが相乗効果を発揮した結果が現在の世界の富の配分だと考えられる。分厚い市民層が民主主義国の成長力の源泉なのだ。

この極端な実例の一つとして挙げられるのが韓国と北朝鮮だ。もともと北朝鮮が工業国で韓国は農業中心だった。北の方が豊かだったのだ。しかし今では北朝鮮のGPDが400億ドルしかないのに比べて、韓国は1兆6000億ドルだ。人口は北が2500万人で南が5140万人なので、人口のせいとは考えられない。勝負すら呼べない程の差がついてしまった。

北朝鮮の人民は経済成長を達成する動機がない。がんばってもどのみち搾取されてしまうだろう。であればだらだらと働いた方がよい。結局人は自分の暮らしをよくするためにしか努力しないのだ。南では私有財産が保証されている。これが違いを生んだのだと考えられる。もちろん、南側に豊かな国との経済的アクセスがあったことも見逃せないだろう。

この違いを民族性で説明することはできない。どちらも同じ民族で歴史を共有していたからだ。韓国も軍事独裁政権を経験しているが、豊かになり情報が広がるにつれて国民の民主化欲求を押さえられなくなった。逆に北朝鮮では民衆が疲弊しているので、民主化要求を行うほどの体力はないだろう。

独裁国の時代?

「民主化万歳」というまえに、悪魔とも相談してみよう。表を見れば独裁体制の国が富の約30%を占めているではないか。もしかしたら独裁の方が儲かるのではないか。安倍政権も独裁を目指せば国も良くなるのだろうか。

実は独裁国の中には多くの産油国が含まれる。クエート、ナイジェリア、カタール、UAE、サウジアラビアなどである。もし日本から油田が見つかれば、自民党の皆さんは、石油の富を適当に国民にバラまいて王様気分が味わえるかもしれない。下請け仕事はすべて移民(市民権は与えられない)が賄ってくれるだろう。

しかし、これだけでは説明ができない。独裁国の中にはロシアと中国が含まれる。台頭しつつある国だ。急進国のうちインド、ブラジルは「欠陥のある民主主義国」に当たる。中国の強みは国内格差だ。安い労働力を地方から呼び寄せることができる。これは国内に植民地を抱えているようなものだろう。ロシアは石油やガスなどの資源で支えられている。アフリカ一の経済発展を続けるナイジェリアも独裁国だ。

つまり、民主主義体制は「お金持ちクラブのノーム」ではなくなりつつある可能性もあるのだ。

民主主義のメリット

完全な民主主義体制のメリットとは何だろう。それは世界から才能のある人たちを引き寄せることだろう。才能のある人たちは自由を求める。それは経済的な自由だけではないだろう。生き方の自由も含まれるに違いない。例えば才能のあるゲイは、同姓結婚が認められる国や都市を好むはずだ。人が経済成長の源泉になると考える国は、域内の政治を透明で自由なものにしようとするだろう。才能は比較優位だ。つまり、個人が幸福を追求することが全体の幸せに貢献するという考え方である。

民主主義が維持できなくなる時

資源もなく、民主主義も守れない国はどうなるのか。大抵は国の中で富の奪い合いをしている。機会あるごとに軍がしゃしゃり出てきて「民主主義の失敗」を武力的に調停する場合もある。工業といってもたいがいはお金持ちクラブの下請けである。自由と民主主義を享受する人たちをもっと富ませるために働くのである。国民は保証を求めて社会主義的な体制を支持したり、軍に期待を抱くようになる。

西ヨーロッパの中には完全な民主主義国に至らなかった(あるいは民主主義が後退した)諸国がある。ベルギー、イタリア、ポルトガル、ギリシャだ。

ベルギーは国内のオランダ系とフランス系がまとまらず、首相が出せない混乱状態が長く続いた。イタリアは多党体制で連立の組み替えが頻繁に起こる。状況によっては首相が選出できないこともあり、政権が安定しないとのことである。

ポルトガルとギリシャは状況が異なる。ポルトガルは独裁体制のあと反動から社会主義路線を取った。植民地依存経済から脱却できずヨーロッパの成長から取り残された。ギリシャはアメリカの支援を背景にした軍事独裁政権が長く続き、後に社会主義化した。人口の多くが公務員といういびつな産業構成になり後に経済破綻した。

民主主義没落国のケーススタディとしてのアルゼンチン

さて、不景気が民主主義を壊した例もある。アルゼンチンは民主主義を体験したあと、軍事独裁や社会主義的体制(アルゼンチンではポピュリズモと呼ばれる)を揺れ動いた。

1880年代のアルゼンチンは自由主義経済路線を取り多いに発展した。食料の一大供給地になったのだ。すると民主化を要求する急進主義者が台頭したために、妥協の為に民主化が促進された。しかし、1929年に大恐慌が起こりアルゼンチン経済は崩壊した。すると、1930年には軍事クーデターが起き不正選挙の伝統も復活してしまう。

その後、ペロン大統領がポピュリズム政治を行ったが、第二次世界大戦で獲得した外貨を使い果たしてしまう。ペロンの治世は1955年まで続いたが、軍事クーデターが起きてペロンは亡命を余儀なくされた。その後も軍事クーデターなどが頻発し、政治は安定しなかった。アルゼンチン経済は復活せず、2001年と2014年にデフォルトを経験した。

民主主義を手放しつつある日本

このようにいろいろな事例を見てみると、立憲主義や民主主義を正当化するのは経済だということが分かる。経済が順調になると人々は自由を求める。自由が広がると経済も発展する。民主主義を維持しなければならないのは、民主主義が崇高なものだからではないのだ。

と、同時に経済が不調になると民主主義を維持できなくなる。人々は社会主義的な保証を求めるようになり、軍隊が民主主義の失敗を帳消ししてくれることを期待するようになる。

故に、バブルの崩壊で自信を失ってしまった日本では、自民党を支持する経済的に弱い人たちが、強い軍事力と立憲主義を否定するのはある意味当然のことなのだ。政治家はそれに追随しているだけと言えるか
もしれない。

と、同時に自由民主党の政策が社会主義的だということも分かる。

自由を失った国からは優秀な人が去って行く。強い経済は自由を求めるからだ。

歪んだ憲法議論 – 集団主義と個人主義の間で

人間には個人で達成できないことを集団で達成する「協力」という能力がある。そのアプローチは2つある。個人主義と集団主義だ。

  • 個人主義:個人を動機づけることでチームワークを達成する。個人を説得し目的を共有する。エンパワーメントと呼ばれる。それができない場合には報酬を組み合わせる。これを「成果主義」という。いうまでもないが、個人主義はわがままを意味するわけではないし、個人主義の人たちが協力しないということはあり得ない。
  • 集団主義:集団が個人を保護することを通じて、帰属意識を高める。保証は一生に渡るが、個人は集団を選べない。

学校の組体操の目的はチームワークの習得なのだが、目的は見失われているが、行動は自己目的化している。やっかいなのが集団による陶酔感だ。先生の支配欲求を満たされるらしい。しかし、効果を正当化できないほどのリスクがある。半身不随になっても学校は一生面倒を見てくれるわけではない。

集団行動から合理性が失われても、そこから逃げ出す事はできない。異議申し立てには同調圧力が働くからだ。だから、個人の合理的な判断でそこから抜けることはできない。

この「教育」の結果、子供たちは次のようなことを学ぶ。やがて大人になり、この姿勢は再生産される。

  • 集団作業の意味はわからない。
  • 個人が意見を言っても、集団を動かす事はできない。
  • だから、自分がエンパワーできることだけやっていたい。
  • 集団は守ってくれない。問題は「なかったこと」になる。問題が起これば「運が悪かった」とか「不注意だった」とか言われる。
  • 抜け出すやつがいれば、多数で圧力をかければいい。

国力が低下したので集団の力が弱まり構成員をかばいきれなくなっている。個人が集団から得られる利得は少ないので、協力が得られなくなる。かといって個人主義も発達しておらず、個人の判断で合理的な対応もできない。

すると「まとまらない個人」に対していらだちを募らせる人たちが出てくる。そこで「集団への参加を強制」したいという動機が生まれる。

そこで持ち出されるのが「道徳」だと考えられる。しかし、道徳は完全ではない。強制力がないからだ。そこで「法律」を作ろうとする。しかし、法律は壁に阻まれている。それが西洋的な(個人主義の伝統に基づいている)憲法である。そこで「憲法を変えてしまえ」という動きが生まれる。現行憲法への懐疑心が高まったのはバブルがはじけてからだ。集団が個人を守りきれなくなり、自己責任が叫ばれた時期と重なる。

もともとの出発点が違うのだから、憲法を変えても「日本の美しいこころ」が戻ってくる訳ではない。憲法をいじるよりも行動心理学の本を読んだほうが手っ取り早いのではないかと思う。

「狂った世界」の道徳と憲法に関する議論

木村草太先生が道徳の教科書について怒っている。現在の組体操は憲法違反だが、道徳教育上有効として擁護されている。学校は治外法権なのかというのだ。木村氏は道徳よりも法学を教えるべきだと主張する。最後には自著の宣伝が出てくる。

Twitter上では「道徳教育など無駄だ」という呟きが多い。この点までは氏の主張は概ね賛同されているようだ。ただし、この人たちが代わりに法学を学びたくなるかは分からない。また、組体操についての懐疑論もある。「全体の成功の為に個人が犠牲になる」というありかたにうんざりしている人も多いのではないかと考えられる。

また、一般に「道徳」と言われる価値感の押しつけは「一部の人たちの願望である」という暗黙の前提があるようだ。その一部の人たちが押しつけようとしているのが、自民党の考える「立憲主義を無視した復古的な」憲法だ。だが、それは一部の人たちの願望に過ぎない。人類の叡智と民意は「我々の側にある」と識者たちは考えているようである。

これらの一連の論の弱点は明確だ。つまり「みんなが全体主義的な憲法を望み、それが法律になったときに木村氏はそれを是とするのか」という点である。すると道徳と法学は違いがなくなってしまうので、問題は解消する。すると法学者はけがの多い組体操を擁護するのだろうか。

考えられる反論は「人類の叡智の結集である憲法や法が、軽々しく全体主義を採用するはずはない」というものだろう。木村氏は「革命でも起こらない限り」と表現している。民意はこちら側にあると踏んでいるのだ。

このような反論は護憲派への攻撃に使われている。「憲法は国益に資するべきであり、現状に合わない憲法第九条は変更されるべきだ」というものである。天賦人権論や平和憲法は自明ではなく「アメリカの押しつけに過ぎない」という人もいる。国会の2/3の勢力を狙えるまでに支持の集った安倍政権は「みんな」そこからの脱却を望んでいると自信を持っているはずだ。

護憲派は第九条や天賦人権論を自明としているので、これに反論できない。哲学者の永井先生は木村氏を擁護し、木村氏はこう付け加える。

安倍政権は「憲法改正を望むのは民意だ」と言っている。木村流で言えば「真摯な民意」が憲法改正を望んでいるということになってしまう。選挙に行かないのは「真摯でない民意」だから無視して構わない。デモを起して騒ぐのは論外である。「選挙にも行かないくせになんだ」ということになる。

この一連の議論が(もちろん改憲派も含めて、だ)狂っているのはどうしてだろうか。「道徳」を押しつけたい側は「昔からそうだったから」と言っている。この人たちは「右」と言われている。そして護憲側は(この人たちは「左」と言われる)も「世界では昔からそうだったから」と言う。そして「みんな」の範囲を操作することでつじつまをあわせようとするのだ。

普遍的真理は大変結構だと思うのだが、それは常に検証されなければならない。もし検証が許されないとしたらそれは中世ヨーロッパと変わらない。カトリック教会は「神の真理は不変だ」といっていた。ただし民衆は真理に触れることはできなかった。ラテン語が読めないからだ。

多分、議論に参加する人は誰も検証のためのツールを持たないのだろう。にも関わらず議論が成立しているように見えるのが、この倒錯の原因なのではないかと思う。ラテン語が読めない人たちが神の真理について議論しているのである。

「普遍的真理」というのだが、実は民主主義国は世界的に例外に過ぎない。イギリスのエコノミストが調べる「民主主義指数」によると、完全な民主主義国は14%しかなく、12.5%の人口しかカバーしていない。欠陥のある民主主義まで含めると45%の国と48%の人口が民主主義下にあることになる。普通とは言えるが過半数にまでは達しない。

どちらの側につくにせよ、それを望んでいるのは個人のはずだ。しかし、日本人は学術的に訓練されていても、徹底的に「個人」を否定することになっている。個を肯定しているはずの「左側」の人たちにとって見るとそれは受け入れがたいことなのではないかと思う。

さて、個人が政治的意見を形成するのに使われるツールがある。それは「哲学」とか「倫理学」と呼ばれる。ちなみにこの議論で出てくる永井先生は哲学の先生だ。日本語では道徳と言われるが西洋では倫理学だ。

どちらも「善し悪しを判断する」ための学問だが、日本の道徳が答えを教えてしまうのに比べて、倫理学は考える為のツールを与えるという点に違いがある。

倫理学教育が足りないと感じている人は多いようで、数年前にマイケル・サンデルの白熱教室が大流行した。もちろんサンデル教授は独自の意見を持っているが、白熱教室でどちらかの意見に肩入れすることはない。記憶によるとサンデル教授は判断基準のことを「善」とか「正義」と呼んでいたように思う。

日本の政治的風土は「自分で考える」ことを徹底的に避ける傾向があり、価値観の対立に陥りがちだ。どの伝統を模範にするかでポジションが決まってしまうのだ。ところがこれでは外部にいる人を説得できない。

しかしながら、外部にいる人たち(いわゆる政治に興味のない人)も「選挙に行かないのは人ではない」くらいのプレッシャーを受けている。そこで「科学的で合理的な」政治に対する説明を求めるのだろうと考えられる。しかしそのためには、受信側も送信側も考えるためのツールを持たなければならない。

故に、学校では道徳を教えるべきなのだ。ただし、安易に答えを押しつけてはいけない。道徳の目的は答えに至るプロセスを学ぶ機会だからである。

憲法議論 – 矛盾と倒錯

「法的安定性は関係ない」でおなじみの自民党の磯崎陽輔議員がTwitterで左派の人に絡まれていた。その人によると、磯崎議員が書いた文章を読んで、議員が立憲主義をないがしろにしている理由がよく分かったとのことである。磯崎議員は当然これを否定していた。「よく読めば分かるはずだ」というのだ。

スクリーンショットが貼ってある。議員が書いた文章を抜き出したのだろう。そこでは「立憲主義とは市民の権利の誓願だ」とした上で、それは国の根幹をなす法体系の一部に過ぎないと言っている。もっと大切なのは「国柄を定める事だ」と主張する。

いろいろと香ばしい。

もともと憲法とは、君主の権限を制限したものだ。臣下が君主に忠誠を尽くす代わりに、君主の権限にも制約をつけたのだ。民主化や君主制の廃止などが相次ぎ、最終的には、国民が国家権力を縛るために憲法を利用するようになったものと考えられる。これが立憲主義だ。日本が近代国家であると主張する限りにおいては、立憲主義は憲法の一部に過ぎないなどという主張はとても受け入れられないだろう。

安倍首相は「立憲主義は王権時代の名残なのだからもう必要ない」というような国会答弁をしているそうだ。

安倍首相がこのような憲法観を持つのも無理はない。日本は自由主義諸国とは違った歴史的経緯で憲法を導入したからだ。自由主義社会の影響拡大を怖れた君主主義の国が「恩典」として憲法を与えることにしたのだ。これを専門用語で「外見的立憲主義」というそうだ。外見的立憲主義では、国民が権力を制限するのではなく、君主が臣民に権利を与える。

さらに、近代国家という体裁にさえこだわらなければ「立憲主義じゃなければダメ」ということもない。サウジアラビアの最奥法規には「憲法はコーランとスンナだ」という取り決めがあるそうだ。聖典が憲法なのだ。「北朝鮮は金日成創始した主体思想に基づく国家だ」と規定した北朝鮮憲法は「国柄」を規定している。北朝鮮の憲法の中には労働時間の規定(8時間だそうだ)もある。政府に実行力がないが、憲法で見る限り北朝鮮は理想国家だ。日本人の中にも「政府に市場の失敗をすべて規制して欲しい」と考える人は多いのではないだろうか。

アメリカは戦後日本に民主的憲法と立憲主義を「押しつけた」が、自民党の中には異論が多いのだろう。自民党の憲法案は「国民の国家に対する義務」の多い恩典的なものになっている。故に自民党の憲法案は復古的である。

だが、安倍首相はこれを「立憲主義など昔の異物だから古くさい」と言っている。これもある意味で正しい。こうした考えを持った人たちを革新主義者と呼んでいた。人民を代表する人たちが人民の生活を豊かにするために尽力するいう考え方だ。北朝鮮の憲法は「革新的」だ。実際に在日朝鮮人と配偶者の中には「地上の楽園」を信じて国に帰った人たちがいたが、北朝鮮の試みは失敗した。現在の北朝鮮は誰が見ても独裁国家だし、韓国との経済格差は明らかだ。

自民党の政策は「国家社会主義的」で、国民も概ねそれを受容してきた。だから、彼らが考える憲法が「国家が経済を主導して民族の栄光を確保する」というものになってもなんら不思議ではない。自民党は親米社会主義政党なのだ。ところが、自民党は親米政権のため「恩典的憲法」へ回帰しようとか「革新化」を目指そうとは主張できないのだろう。その為に出てくるのが、国柄という別のアイディアなのかもしれない。

ところが「なぜ国柄をわざわざ憲法で規定しなければならないのか」という疑問に答えてくれる人はいない。

北朝鮮は中国とソ連に接しているので「独自の社会主義」路線を取らざるを得なかった。2国に吸収される可能性があったからだろう。「独自の民族だ」と言ったところで、独立が侵される可能性は捨てきれない。どちらも多民族国家なので「独自民族」など珍しくもなんともない。

しかし、日本は、沖縄と北海道を除くとほぼ大和民族が作り上げた国だ。その国域も地理的に区切られた日本列島なのでほぼ自明である。「独自の国柄」をわざわざ憲法で規定する必要はなさそうだ。

北朝鮮の連想から考えると、自民党政権はアメリカに飲み込まれることを怖れているように思える。つまり「我が国独自の資本主義路線」というものを取らないと、アメリカに飲み込まれてしまうと考えているのではないかと思う。アメリカというより、自由主義というものの持つ不確定さについてゆけなくなっているのかもしれない。日本は戦後70年間アメリカに追随していたが、ついには自由主義というものが理解できなかったのだ。

憲法草案成立前後の状況を鑑みると、政権を剥奪された(とはいえ選挙で負けただけなのだが)政党が慌てて自分探しをしたようにも思える。存在理由「政権政党」という拠り所を失って自分探しをしたが何も見つからなかった。唯一の拠り所が自明であるところの「日本性」だ。国民から裏切られたように感じて国民を「悪い日本人だ」と考えることにしたのかもしれない。

さらにややこしいことに、国家神道の影響を受けた人たちが議論に参加した。神道には聖典がないので「聖典としての憲法」を求めたのかもしれない。彼らが「国柄」と聞くと、日本民族と列島の歴史を美しく賞揚したものを連想するだろう。神道が聖典を持たなかったのは、異なる民族に対して差異を示す必要がなかったからだが「国柄を規定する必要がある」と考えたとしたら、原理主義化していることになる。その意味では、自民党の憲法案はサウジアラビア的でもある。「国の最高法規は神道の聖典(ただし、そんなものはない)」と書きたいのかもしれない。

ここまで見てくると、自民党の憲法案が様々な考え方を持つ憲法のつまみ食いをしていることが分かる。また、自己像と本当に求めているものに乖離がある。

  • 恩典憲法(国が国民に恩典を与える)
  • 立憲主義(主権者である国民が政府に権力の一部を委託する)
  • 国家社会主義(党が指導して国家事業を成し遂げる)
  • 聖典

普通に考えれば、国民の主権を制限すれば、その主権に依存する政権は正統性を失うように感じられる。恩典憲法に復帰するのであれば、主権を天皇に返納し「貴族階級」に参議院明け渡すのが筋だろう。しかし、北朝鮮のように「自民党が日本人を代表する」としてしまえば、その矛盾は解消する。すると、自民党は革命を指向しているということになる。

問題はそれを「自由主義政党」を自任する自民党の政治家が受け入れることができるかという点だ。恐らく国民を騙しているという意識はないのではないだろうか。そもそも自分たちを騙しているのだ。

もっとも、磯崎議員の議論はそれほど複雑なものでもない。彼の「ホームページ」を見ると、安保法案に関する自己弁護が延々と書いてある。要約すると「運転のことはドライバーが一番良く知っているから、速度規制や交通信号はなくしてドライバーに任せて欲しい」と言っている。制限速度はその都度違っていいのである。だから法的安定性など関係ないのだ。もしドライバーが警察でこんなことを言ったら「狂っている」と思われるだろう。彼は歩行者や他の車のことを忘れているのだ。

現在、日本の政治状況は「是が非でも改憲したい自民党」に対して「絶対憲法を変えたくない野党」が反発するという構図になっている。反対している側も「正義を貫きたい」という強い動機があるのだろう。しかし、反対されるとつい意見を押し通したくなるのも人間だ。するとこうした矛盾が隠蔽されてしまう。自省する機会を失ってしまうのである。

それよりも彼らの言い分とロジックを受け入れた上で、掘り下げてゆくとよいのではないかと思う。多分、説明しているうちに深刻な自己矛盾に到達するはずである。

立憲主義を擁護するといいながら、実際は立憲主義を逸脱している。
未来を指向するといいつつ過去回帰を求めている。
自由主義的価値感を共有するといいつつ社会主義を標榜している。
国体は自明なものだと主張しつつその持続性に不安を持っている。
法治国家を自任しながら人治国家を指向している。

この問題、さらに深刻なのは対峙する左派ではないかと思う。そもそもねじれているものに対峙しているのだから、その主張がさらにねじれているのは当然のことだ。しかし、左派の議論を見ても何がねじれているかは分からないだろう。なぜならばその矛盾は外来のものだからだ。

自民党は実は「左傾化」している。野党も左傾化しているので、実際に彼らが見ているのは同じ目標なのだ。そうなると彼らは自身の存在意義を見いだせなくなってしまうので、レッテルを貼る意外のことができなくなってしまうのだろう。

感情的で演劇的な、自民党憲法案への評価

参議院選挙で自民党の大勝が予想されている。次の争点は憲法なのだそうだ。そこで自民党の憲法案について考えなければならないのだが、そもそも考慮に値するものなのかという点に疑問が残る。これが保守を保守の総括と呼ぶのなら、戦後保守の歴史は退廃の歴史だったということになってしまう。

自民党の新憲法案の主導者たちによると、日本国民は天賦人権という西洋の思想に毒され、甘やかされているのだそうだ。確かにこの主張は傾聴に値する。最近の日本人は、伝統的な美徳である大和魂を持たないわがままな輩が多い。中には、中国や朝鮮にすり寄った売国的な思想に染まる者すらいる。偉大な民族の存続にとっては有害なことだろう。

一方で疑問もある。国民が主権者としてふさわしくないのであれば、国民に選ばれた国会議員の権威は何によってもたらされるのだろうか。

確かに、与党自民党は日本を敗戦から立ち直らせた功労者と言える。しかし、ここ20年以上は他の先進国の後塵を拝している。これは勤勉な日本人が堕落したからなのだろうか。恐らくそうではあるまい。本来ならば、偉大な民族を牽引すべき政治の指導力が落ちているせいなのではないだろうか。偉大な民族は偉大な指導者がふさわしい。

いずれにせよ、国民が主権者であることに疑いの目を向けるのであれば、その国民によって与えられた権威も返上されなければならない。幸いなことに我々には、世界に例のない血脈を持った指導者の家系を頂いている。

自民党の憲法改正案は権威の源泉をどこにおくかという統治の原則に関する視点を欠いている。国家観がないのだ。国民の主権には制限を設けようとする一方で、本来の権威者に対しての敬意もない。「元首と呼ぶのは恐れ多い」と尤もらしい理由をつけて、その権威を無視しようとすらしている。そこに権力の空白が生まれ、今の政府を運営している者たちがその椅子に居座ることができるという姑息な計算があるのだろう。結果的に国体をないがしろにしているのだ。

確かに彼らは戦後日本を牽引してきた功労者かもしれないが、たまたまアメリカの権威のもとに政権を取った政党に過ぎない。政治家としての家系を誇るものもいるが、もとを辿れば、戦前の官僚や石炭屋の子孫に過ぎない。東西冷戦期には彼らの存在にも意味はあったのだろうが、それも過去の話となった。そして今、国の権威という根本的な問題を曖昧にすることで、権力者の地位を僭称しようとしているのだ。

これは保守の退廃を意味するのだろうか。恐らくそうではあるまい。保守は確固たる国家観を持ち、権威にこびへつらう事を良しとしない。確固たる意志を持たなければ、先祖たちが連綿と築き上げてきた国と民族の歴史を守ることができないからだ。

まことに残念なことだが、政治家たちは既得権益に浸りきり、本来の日本人としての美しいこころを忘れてしまったのだろう。

書き終えて

左派が「立憲主義が……」というと、ネット右翼がおもしろがってそれに反対するという構図ができている。そこで「国家観がない」という評価をしてみた。現在のいわゆる「保守」は、体制と一体化することで自尊心を保とうとしている人たちなので、やや過激な民族主義思想には馴染みにくいものと思われる。そこで「自分たちは孤高の存在なのだ」という自己評価を与えている。

学問的に考えれば、国民主権の存続か天皇主権への回帰かという二択なので、素直に天皇に主権を返納すべきという主張にしたいところなのだが、さすがに「天皇」という名前を直接書くのははばかられた。「GHQの自虐史観」に洗脳されているせいなのかもしれない。

ただ、こうした文章を書いているだけでも「自分は偉大な存在なのだ」とちょっとした陶酔感が感じられるので、ネトウヨと呼ばれる人たちの陶酔感はかなり甘美なものかもしれない。実際に、青年期に反戦デモに参加した人が後に右派に転向するという事例も聞く。

もっとも、左派ナショナリズムとか民族主義左翼というカテゴリーも存在するらしい。自民党の主張は国民主権を制限するが、君主の政治的権利は剥奪したままというものなので、よく考えると社会主義独裁者のそれに近い。経済政策も護送船団方式だし、福祉政策も国民皆保険・年金を推進しているので、社会主義正当に近い。

日本の政治勢力はこの勢力と対応する形で作られているので、なんだか分類が不可能な状態が作られているのかもしれないと思った。

自民党の考える非常時大権は危険

野党が総崩れする中で、憲法改正が現実味を帯びてきた。本来は憲法第九条を変えたいらしいのだが、それでは国民の支持が得られないと考えたようだ。代わりに出てきたのが「地震などの非常時に国会の承認を得ずに内閣が法律を制定できるようにする」という条項だ。この条項であれば「国民の理解が得やすい」と考えているようである。

第一にこの提案は筋が悪い。非常時大権はヒトラーが「合法的に」民主主義を骨抜きにするために使われたという記憶から「民主主義の敵」と見なされている。反対派は安倍政権をヒトラーになぞらえることが多いので、これは憲法改正反対派の勢いに油を注ぐ結果になるだろう。

第二にこれは危険な提案だ。人はパニックになると理性を失う。理性を失うのは国民ばかりではない。政治家も人の子なのだ。むしろ大きな責任に直面するという意味では政治家のパニックの方が危険だろう。

実際に東日本大震災の時に何が起こったのかを思い出してみよう。それは統治経験もなく(おそらく統治の覚悟もなかった)市民運動家が権力を握ってしまった為に起きた悲劇だ。

地震の直前民主党では菅下しが起きていた。党内で孤立していたと考えてよい。福島で事故が起こると、理系出身で「原子力に詳しい」と自任していた首相は、福島第一原子力発電所に乗り込んだ。それでも飽き足らず今度は東京電力に出かけていって本店の職員たちを恫喝した。この件が現場の作業にどのような影響を与えたのかは分からないが、少なくとも彼らを萎縮させたのは間違いがないだろう。

萎縮した現場は情報の隠蔽を図る。彼らはSPEEDIの情報を開示しなかった。後に首相が「知らされなかった」と釈明したように、現場から情報が上がってこなくなったのだろう。そこで首相は東京電力、原子力安全・保安院、原子力委員会などへの不信を募らせて、専門家を次々と招集した。この結果、組織が乱立して原子力行政が混乱した。

首相は具体策がないままで「原子力は悪だ」と決めつけて、法的な裏付けなく浜岡原発の停止を求め、多くの国民を困惑させた。そんな中、東京電力も自己防衛に走り、計画停電を実施した。「原子力がなくなると、不便が続きますよ」という恫喝の意志があったのではないだろうか。東電はこのまま反原発の空気が広がるのを怖れたのだろう。理性的に考えるとこれはよいアイディアではなかった。国民の間に「電力の地域独占がまずいのではないか」という空気が広がり、東電は既得権を失ってしまったからだ。

現場が混乱し、不安が広がっても、民主党政権は国民に正確な情報を提供しなかった。米軍が家族を退避させるなか、枝野幸男官房長官は「直ちに人体への影響はない」と繰り返した。「直ちに」がどの程度なのか誰も分からなかった。現場からの情報も上がってこなかったという側面はあったかもしれないが、それよりも「後で責任を追求されたくない」という気持ちが強かったのではないだろうか。結局、枝野さんいは権力を預かる覚悟がなかったのだろう。

枝野官房長官の言葉は、結果的には「民主党は信頼できない」という印象につながった。その印象は今でも払拭できていない。「民主党には統治能力がなく」「情報も隠蔽する」という印象だけが残った。

こんな中で内閣が「緊急事態」を宣言したらどうなっていただろうか。そもそも菅直人政権は民主党からも見限られていた。だから首相は体制維持のために国会の議論をすべて(つまり与党も野党もなく)無視するはずである。首相は側近への依存を強めるが、現場はそれぞれが自己保身に走り情報を上げなくなる。統治不能になった政府はさらに自己保身を強めて国民に情報を渡さなくなるだろう。非常時大権がある中で不安定さが増せば今度は何をしただろうか。NHKや新聞社の報道統制くらいは考えたのではないだろうか。

自民党政権は「自分たちが政権を握るのだから、こんなことは起こるはずはない」と考えているのだろう。しかし、国民がいつも自民党政権を支持するとは限らない。そもそも緊急事態なのだから何が起こるか分からない。地震は1,000年に一度なのかもしれないが、不意に核ミサイルくらいは飛んでくるかもしれない。

前回の議論で見たように、自民党の憲法案は政治権力が誰に由来し、誰が最終責任を取るのかをぼかしている。独裁の覚悟があるなら「自民党が国民を指導する」くらいのことを書いてもよいはずだし、天皇主権にするなら「天皇を元首として拒否権を持たせる」くらいのことをすべきだ。その一方で、国民が「天賦人権を持っているのはおかしい」などと言っている。議論に疲れている様子だけは伝わってくるが、かといって独裁の覚悟もない。こういう国家観は却って危険である。権力を握る覚悟のない「市民の味方」の方が独裁者に近いかもしれないのだ。

非常事大権というと、ヒトラーのように破壊衝動を持っている人が国をめちゃくちゃにするという印象が強い。しかし、東日本大震災で起きたことから類推すると、アマチュア政治家の権力への過信と現場の自己保身が国をめちゃくちゃにする公算の方が強いのかもしれない。

最悪の事態に対する想像が働かないのは、政治を巡る議論が「自民」対「反自民」の戦いになっているからだろう。一度、現在ある対立から目を離して考え直した方がいい。政治に対する議論を読む時に「こいつはどちらの味方なのだろうか」などと考えるのは危険だ。

立憲政治という幻想

左翼勢力によると次回の参議院選挙は立憲対非立憲の対立なのだという。しかし、よく考えてみるとそもそも日本人は立憲主義を支持しないのではないだろうか。

そもそも、立憲政治とは「国民が政治の流れを決める」という制度だ。それは、君主や宗主国に頼らずに自活するということを意味している。日本の場合「アメリカ軍に頼らずに自衛する」ということでもある。しかし、どれくらい多くの日本人が自分たちで話し合って自分の国を守りたいと考えているだろうか。できれば「アメリカ軍か職業(非)軍人から成り立つ自衛隊に国を守ってもらいたい」と考えている人が大多数だろう。

日本が立憲主義を取り入れたのは「それがかっこ良かった」からだ。日本は明治維新以降「近代国家っぽく見える」制度をいくつも取り入れた。立憲政治は、背広を着たり、髪の毛を短く刈ったり、夜に社交ダンスを踊るのと同じレベルにある。

立憲主義を取り入れたものの、国民は主権を持たなかった。成立期には議会もなく「国民を政治に参加させるべきだ」という意志もなかった。議会ができたあとも、2つある議会の半分は貴族が占めていた。議会は軍隊をコントロールできず、「軍隊が膠着した状況を打開してくれる」と淡い希望を抱いて議論そのものをやめた。

戦後、形の上では立憲主義が貫かれたが、自民党政権は70年かけてもその意味を理解できなかったようだ。新しく作られた憲法草案には国民を縛る項目がいくつも作られた。現行でも国民説得は単なる儀式に過ぎないが、それですら面倒だと考えているようだ。だから「何かあったときには、手続きが面倒なので議会を無効化させてくれ」と提案している。

災害時の非常事大権は危険だ。たまたま「民主党のような」政治のアマチュアが政府を構成していたらどうするつもりなのだろうか。その政権が永続して、国が大混乱することは目に見えている。試しに菅直人政権が5年続いたらどうなっていたのかを考えてみればいい。

自民党政権の憲法案には矛盾がある。彼らは自分たちの権威が「天賦のもの」と考えており、国民を支配できる正当な権利があると考えている。その意識が表れた憲法案は、憲法というよりも幕府が発布した「御法度」に近い。

ところがその権威は国民に由来する。もし自民党が軍事的な政権(もしくは軍事的に日本を占領したアメリカからのアポイントメント)だったのであれば、彼らはためらいなく「自分主権」を唱え「御法度」を導入することができる。自民党の憲法改正案が成就すると、自民党はこの矛盾と対峙することになるだろう。

自民党政権はいくつかの自己矛盾を抱えている。アメリカが成立させた政権であるにも関わらず、脱アメリカで自主憲法を作るべきだと主張している。しかしながらアメリカ軍の庇護の元から離れるつもりはなさそうだ。そして、その権威は少なくとも形式的には国民から与えられているにも関わらず、国民の権威を否定しようとしている。

この矛盾を隠蔽するために、自民党政権は「自分たちの権威は天皇から与えられている」と偽装している。しかし、天皇に発言力を与えることにもためらいがあるようだ。そこで一部には「日本の歴史そのものに主権がある」という「論理」を作り出してしまうのだ。確かに「歴史」は自民党政権に口出しすることはないだろう。

さらに、国民が自分たちの与えられた権利を手放すはずはない。民主主義は既得権だからだ。そこで「災害時のように国民が感情的になれば、権利を委譲してくれるはずだ」などと言い出すのである。貧しい老人に3万円払えば既得権を譲ってもらえるかもしれない、とまで考えている。

さて、では自民党に代わって現在の野党連合が政権を取るべきなのだろうか。彼らは「立憲主義」を徹底させるべきだと訴えている。これは「国民主権」を徹底させるべきなのだと考えているようだ。これはこれで立派な態度だと言えるだろう。しかし、問題もある。

この問題を突き詰めて行くと「自分たちの財産や国を自分たちで守る」という結論に達する。それは最終的にアメリカの軍隊と決別するということだ。野党連合は(それが政治家であったとしても、市民であったとしても)この大きな変化を国民に説得しなければならない。が、多分彼らはそこまで考えていないし、隣人を説得するつもりもないだろう。

唯一「自主独立」を唱えているのは共産党だ。それはそれで立派なことだが、彼らのもともとの目的はソ連の庇護の元に入る(あるいは台頭な立場で同盟を結ぶ)ことだったのだろう。だが、ソ連はいまや存在しない。

そもそも立憲主義が根付いているとは言いがたい上に、「自分たちのことは自分たちで決める」という民主主義の原則すら守られていない状態にある。政府をことさらに攻撃する前に、隣にいる政治に興味のなさそうな人たちと対話することから始めたほうが良いのではないだろうか。