新潮45を葬り去るのは実は簡単なのではないか

新潮45の問題を考えているうちに、これはヘイトではなくいじめなのではないかと感じた。クラスの中から誰かを抜き出したうえでその特徴を取り出して「劣っているもの」とラベリングする。そしてその人から正規のメンバー権を奪って嬲り続けるのがいじめである。いじめの特徴の一つに仄めかしがある。いじめられているということを仄めかしつつも決してそれを認めないのである。

今回の件は一見すると同性愛者嫌悪のような体裁になっているが、劣っているものを置いておいていたぶり続けるという意味ではヘイトというよりいじめに近い構造を持っている。だから、いじられた側は異議の申し立てはしても、あまり感情的な対応はしない方が良い。

では、真正保守と自称する人たちは、なぜいじめを繰り返す必要があるのかというのが次の課題になるだろう。この課題を解くためには安倍政権を見るのが手っ取り早い。

安倍政権は日本の政治で唯一生き残った政治勢力である。彼らは党内では政策には詳しいが闘争にはあまり熱心でなかった保守本流を駆逐した。彼らは公家集団になっていて実は大したことはなかった。実際に、かつて彼らを保守傍流と見下していた人たちは石破一派を除きすべて屈してしまった。情けないことに次の首相の座を恵んでくれないかと安倍政権に媚を売る人まで出てきた。

自民党は対外的には理想主義を掲げる左派を駆逐した。社民党は政権を取った段階で変節したとみなされ支持を失い、そのあとに出た民主党政権は日本の統治に失敗して自滅してしまった。6年もの間彼らは失敗の総括ができておらず、未だに分裂したりくっついたりしたりを繰り返している。

ゆえに安倍政権は勝利に酔い、思う存分彼らが理想とする政治に邁進すればよいはずなのだが、それができていない。国民は積極的に安倍政権を支持しているわけではないし、兵隊にと雇った議員たちは失言や舌禍事件を繰り返し引き起こして暴れまわっている。支持してくれてありがとうと振舞ったカツカレーは食い逃げされ、変な右翼思想にかぶれた幼稚園経営者や地方で学校経営に失敗しつつある友達がすがり付いてくるという具合になっている。とても勝った集団とは思えない。

憲法改正ももともとは保守本流だと威張っていた人たちが勝手に決めたのが気に入らないというようないい加減な動機で動いているに過ぎない。民主党政権下で自民党有志に憲法改正草案を話あわせたところ「選挙で負けたのは国民がバカだからだ」国民の基本的人権を制限しようということで話がまとまった。今回も「既得権益を守るために県に必ず一つは議席を確保すべきだ」という話になりつつあり、統治機構をどう改革し、そのためにどう国民を説得しようという議論は全く出てこない。首相本人でさえ「とりあえず憲法が変えられるなら自衛隊という名前を憲法に載せればいいや」と言い出している。

政治にやりたいことがないのと同じように、保守論壇にも実はやりたいことがない。ある人たちはとにかく偉そうにしている左派が気に入らなかった。そして別の人たちはとりあえず食べてゆくためにどこかの論壇で認められる必要があった。ゆえに、自称保守の人たちは絶えず敵を作り出してはそれをあげつらっている。最初の仮想敵は共産主義だったが、共産主義は実質的になくなってしまったので、中国や韓国を攻撃するようになった。そのうち民主党が敵になり、彼らが標榜していた「コンクリートから人へ」を攻撃するようになる。この「人」に当たるのがいわゆる拡張された人権である。

安倍政権が勝ったわけだからそれを支えた論壇も官軍側である。やっと自分たちの時代が来たのだから官軍らしく理想の政治を語り周りを説得すればいいと思う。しかし、彼らはそれをしない。盛り上がるのはホモやオカマには人権がないといった程度の話だけであり、ホモに人権を渡すなら痴漢だって大手を振って電車に乗っていいはずだという中学生でも恥ずかしくて書けないようなことを書いて喜んでいる。そして、それを日本で最も古い文学アーカイブスを持った会社がサポートしているという惨憺たる状況なのだ。

スポーツにもいじめの構造がある。いじめの側に立つかいじめを黙認した人はたいてい過去に勝った人だ。しかし勝利というのは実は儚い。オリンピックに出場して金メダルを取ったりチャンピオンシップでチームを勝利に導いたとしても注目されるのはほんの一時のことである。彼らが引き続き注目を得続けるためにはオリンピックで勝ち続けなければならない。だからなんでもやる。そしてその「なんでも」が社会の規範とぶつかったとき炎上が起こるのだ。

スポーツでは「勝った」という成果よりも、なぜ勝てたのかというプロセスや競争を通じて成長すること自体が大切である。だが競争が自己目的化されてしまうとそれがわからなくなる。そしてなんでもいいからとりあえず勝たなければならないとなった時に社会の規範とぶつかってしまう。

実は安倍政権も同じように破綻しつつある。ロシアの大統領は公開討論の場でわざわざ安倍首相の顔を潰して見せた。よっぽど腹が立ったのだろうが、その気持ちはよくわかる。中国やロシアは民主主義が十分に発達していないのでいつでも政権が打倒される危険性がある。そのためには本当に勝ち続けなければならない。彼らは経済成長を目指してなんでもやろうという覚悟を持っている。

あの北朝鮮ですら「核兵器開発」は体制維持のための必死の策であり、それをどう利用しようかということを現実的に考えている。だから「放棄」を仄めかしつつそれを延期させようとしている。

その真剣勝負の場所に安倍首相はヘラヘラとでかけていった。「おいしいところだけ食べさせてください」というわけだ。しかし、安倍首相が裏で中国の悪口を言っていることも、インドやオーストラリアに働きかけて「一緒に封じ込めましょうよ」とふれ回っていることも知られている。公開討論の場で殴られなかっただけでも、安倍首相は感謝しなければならないだろう。

当初この話は様々な村落的な行き詰まりを構造的に分析するようなものになるはずだった。その線で何回か書き直したのだが、いつも最後の所で行き詰ってしまう。「で、構造が分かってどうするのか」と思ってしまうのである。

行き詰って立ち寄った本屋でダイエットの本をたくさん見た。最近のダイエット本は売るのに苦労しているようだ。体の痛みがなくなるとか、痩せるとか、頭が良くなると言った具合に動機付けのワードがタイトルについているものが多い。実際に痩せてみれば気持ちが良く健康にもなれるし、外見を自分でコントロールできるのは楽しいのになと思った。

ダイエット本が売れ続けるのは痩せたことがない人がたくさんいるからなんだろうなと思ったところで気がついた。「他者をいじめる本」がなくならず、政治が嘘をつき続けるのは、多分鏡に映った自分の姿が気に入らないからなのだろう。写真を加工したり鏡を歪めれば当座はしのげるだろうが、やっぱり嘘は嘘なので、次の嘘を探さなければならない。

つまり、こうした嘘の構造は「これは嘘なのだな」と認識したら、それ以上深掘りしても意味はなさそうだ。それよりも自分たちが変わるための第一歩を踏みだすべきだろう。多くの人たちが「自分たちは変われた」という実感を持った時、新潮45のような雑誌も安倍政権のような嘘の政権は世間から忘れ去られてしまうのではないかと思ったのである。

「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」について考える

先日は新潮45の炎上について考えたのだが、今回は小川榮太郎という人の「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」という主張について考える。結論からいうと相手にしなくていいと思う。小川さんとの<議論>に巻き込まれることなく、本筋である新潮社への意思表示を継続すべきだろう。さもないと小川さんのような<議論>をする人がさらに増えることになる。

新潮45には言論の自由があり新潮社にも経営の自由がある。ゆえに言論の自由を擁護する立場からは彼らを黙らせることはできないし、すべきでもない。一方、消費者には新潮社の本を買わない自由や、新潮社を応援するスポンサー企業からものを買わない権利があり、それをスポンサーに伝えることもできるというのが前回の結論である。新潮社は経営的判断として杉田発言を掲載したのだから、当然その帰結については責任を持つ必要がある。中途半端な反省を受け入れてしまうと、結果的に新潮社の経営判断としてのヘイトを容認したことになる。

前回はあまり考慮することなく簡単に「ヘイト」という言葉を使っている。しかし、これは異質な人たちを憎悪するヘイトとは別の感情に基づくのではないかと思う。それはいじめである。実は杉田論文と称するものの正体は「普通でないもの」をあげつらうことで自分たちの優位性を確認する行為だからだ。ヘイトは対象物を遮断したり抹殺を狙うものだが、いじめは対象物をいつまでもなぶることで快感を得るという行為である。安倍政権はこうした「いじめ」を行う人たちを野放しにしているとは思うが内国民に対してのヘイトに加担しているわけではない。彼らは中国や朝鮮を憎悪の対象にすることで国内の安定を図ってきたという意味ではヘイト感情を利用しようとしたが、これは国際社会から黙殺されつつある。

今回は小川榮太郎さんの発言について考えてみる。全文を読んだわけではないのだが問題になっている点は二点のようである。第一に小川さんが安倍晋三総理大臣と近しくこれまでも政権を擁護してきたという経緯がある。その上で、小川さんの「LGBTの人権が守られるのなら痴漢の人権も守られるべきだ」としているという発言が問題になっている。中には「安倍案件だから炎上すべきだ」と主張する人もいる。だが、実際にはこの発言がどういう文脈で語られているのかということはよくわからないという状態である。

この発言の問題点は、LGBTを痴漢と同列に扱っている点にあると思う。つまり、痴漢は犯罪者なので、LGBTをそれと同列にすることで「ある仄めかし」を行っているのだ。LGBTという社会的に許容された存在とするのではなく、かつてのホモやおかまという言葉が持っていた後ろ暗い存在に貶めるために痴漢という後ろめたい犯罪行為とつないでいる。これ自体はわりとよく使われるやり方だ。サブカルチャーとしての漫画を認めず、かつての後ろ暗かったころの「オタク」と性犯罪者とを結びつけて表現の自由を奪おうとする人たちもいる。

もちろん、小川さんがいうように、痴漢の人権も守られるべきだ。彼らは痴漢という行為を行ったにせよ基本的人権は保障されるべきだ。弁護士をつけた上で再審を含めた裁判を受ける権利や社会復帰する権利は守られるべきである。さらに現在の制度では「痴漢の疑いをかけられたら仕事を失ったりする」場合もあり、この点も是正されるべきかもしれない。こうした権利がきちんと守られているとは言えないので、小川さんにその気があるのなら、痴漢の人権についての活動を始めるべきである。

さらに権利を拡張するとしたら「止むに止まれず触ってしまう癖」がある人に適切な治療や認知療法を与えるようにすべきなのかもしれない。特に男性の痴漢や児童虐待行為のニュースを見ていると「仕事を失うことがわかっている」のに衝動を抑えきれなかったというケースも多いようである。男性の性衝動にはこうした側面があり社会的な援助と理解が必要である。日本のみならず海外でもこうした権利は議論されてこなかった。人権に敏感な人は人間は理性的な生き物だと思いたいので、動物的側面にはあまり触れたくないのかもしれない。

ところが小川さんの主張は結局のところ痴漢の権利を守るべきかという点には結論がないそうである。それは小川さんが痴漢を「みっともない犯罪」として利用しているだけだからだ。痴漢犯罪者や冤罪者に対しての人権を守るべきだと考えた時、それは議論の対象になる。だが、それを単にLGBTを貶めるためにオブジェクト化して使っているという点に問題がある。つまり、この言動の問題点はLGBTの問題を矮小化するために痴漢の問題を利用したという二重の罪深さがあるのだ。

これは教室でいじめられっ子から財布を取り上げてみんなで回し合うのに似ている。この場合「人権」というのが財布の代わりになっている。明らかに相手が大切なものを失って平気で取り戻そうとしているのを笑っているのだが、それは決して認めず平然を装って財布を回し続ける。そこに快感があるからだ。

巷間言われているご飯論法の快感はそこにある。議論の真意を仄めかしつつも決して認めないことで「自分たちはお前たちには支配されない」という優越感を得ている。仲間内では差別的な目的を持った議論や私物化の議論を行い、それを仄めかしつつ絶対に認めないことで「自分たちは意思決定の側にいるがお前らは入れてやらない」という快感を得ているのだ。

最近これで大いに気持ちが良かったであろう人がいる。それは加藤厚生労働大臣だ。加藤大臣は恐らく働き方改革の調査数字がデタラメだという認識は持っていたはずだ。が、それをひけらかしつつ認めないことで「真実を決めるのは我々だ」というひけらかしを行い、「野党がどんなに騒いでも結局数で勝つのはこちらである」という優越感を持つことができる。安倍首相はそれを眺めていて、かなり爽快な気分だったのではないだろうか。特に社民党や立憲民主党の女性議員と話している時の安倍首相の顔には言葉では表現しづらい笑いが浮かんでいる。その意味では彼らにとって労働法も国会の議論も単なるおもちゃなのだろう。

スポーツでも同じように周囲のコンセンサスをとって相手を追い詰めて行く行為が見られるが、こちらはずいぶん非難され始めている。これが外の規範とぶつかりつつあるからだ。SNSで拡散されて騒ぎになりテレビが取り上げて大炎上する。すると内閣府のスポーツ庁が出てきて「許認可を取り上げ、補助金を減らすぞ」と脅すところまでがセットになっている。

スポーツでいじめがなくならないのは、この快感が抗いがたい魅力を持っているからなのだろうが、ワイドショーの側もそれを利用しているる。新潮社は実はこの罠にはまっている。つまりいじめている側だった人たちがあるティッピングポイントに達すると今度はいじめられる側になってしまい制御ができなくなる。新潮社は杉田論文を掲載し、今度はこれを擁護したことで、社会の制裁の対象になっても構いませんよと宣言してしまっているのだ。

新潮社が杉田発言を擁護したのはこの発言に商品価値があると思ったからだろう。なぜ商品価値があるかといえば、本音では「他人の権利よりも自分の方が大切」という人がたくさんいるからであろう。彼らは表立って言えないこうしたルサンチマンを本を買ってでも晴らしたいと考えている。だがこうした行動は必ずエスカレートしてどこかで外の社会の規範とぶつかる。相手をあげつらうことで快感を得ていたのだから、彼らは「社会から弁護してもらえる資格」を失っているのだが、それに気がつかない。

今回は「他人事の人権の問題」から女性全般の怒りを買いかねないところにエスカレートして炎上した。LGBTの人権は比較的新しい拡張された人権なので、人々は不快感を持っても自分ごととしては行動しないかもしれない。だが、痴漢を擁護すると受け止められかねない(実際は利用しているだけなのだが)発言を明確に否定しなかったことで、新潮社はすべての女性の潜在的な敵になるというリスクにさらされているということになる。

女性の中には常に襲われる危険やリスクに警戒をしながら通勤通学をしている人も多い。さらに痴漢の被害者になっても「男を誘うような服装が悪かった」とか「どこか隙があったのではないか」とまともに取り合ってもらえないという状況を見ている。こうした潜在的な危険が女性の心にどのようにのしかかってくるのかを男性の立場から想像することはできないのではないかと思う。

新潮社がこうした人たちの不安を逆なでしたことは実は大きかったのではないかと思う。実は安倍政権に関係しているからという理由で反対している人よりも、こうした女性たちの気持ちを踏みにじったことを新潮社は後悔することになるだろう。

さらに新潮社はこれまで他人のスキャンダルで食べてきた会社なので、自分たちが非難にさらされた時に誰からも守ってもらえない。例えば週刊文春にとって今は新潮社潰しのよいチャンスであろう。多分、新潮社はまだこのことに気がついていないのではないだろうか。

いずれにせよ、新潮社は人をいじめて商売をする権利はある。これに反論できるのはいじめられた本人たちだけである。だが、この手の行為はたいていエスカレートして抑えが効かなくなる。私たちはスポーツのパワハラ問題で散々これを見てきたが、実は社会に広くある問題行動なのだということがわかる。だからこそこの手の問題はいったん火がつくと収まらなくなってしまうのであろう。

新潮社には不買運動ではなくスポンサーへの抗議で抵抗すべし

新潮45が杉田水脈議員のバッシングを擁護する文章を載せて騒ぎになっている。会社としては最初は人権に配慮してやってきたしこれからもやって行くとしていたのだが、騒ぎがテレビに取り上げられるようになると休刊を決断した。

これも「言論の自由」の一環でありこの発言を封殺することはできない。実際に休刊に対しては「言論封殺だ」という批判もでていて、却ってこうした主張が地下化しかねない。

ただ、「一つの雑誌が思いつきでやっているわけではなく新潮社の経営陣の意図だという観測が主流になりつつあるようなので、新潮社そのものが許容されるのかという点は議論されるべきだろう。AbemTVの取材によると、社長の発言なのに「甘くなったのではないか」と他人事のように書かれている。実際には新潮社という会社があるわけではなく、雑誌や文芸という村がなんとなく共存していた様子がうかがえる。

新潮社が議論の対象になるのは多くの人が若い時に新潮文庫で文学を学んだからだろう。つまり新潮社はこうした人々の思い出を人質にとって、あまり根拠のないヘイトを撒き散らしているということになる。このヘイトは、一部の人たちが勝手に他人の価値を決めて良いという極めて傲慢な思想に基づいており、これが周囲の価値観とぶつかるのは時間の問題だった。朝日新聞によると、編集方針が変わる前から新潮45に執筆をしていた小田嶋隆は「あまりに唐突な方針転換で、このまま無事では済まないと、ある程度予想していた」という。

もう一つこの件でわかったのは、他人の人権を踏みにじることで喜びを感じる人が社会に一定数いるという現実である。津田大介のTweetからも新潮社が意図的にこうした意見を取り扱っていることがわかる。つまり、それが売れるという現実があり、私たちは無条件で人権が守られるという幻想を捨て去るべきである。

編集者一人ひとりの心情を察するとこれを指摘するのはためらわれるのだが、この件でもっとも許し難いのは文芸部門の存在である。杉田水脈議員の発言に反対の立場だったようであり、Twitterでの一連の発信が話題になった。一部で不買運動が起きているのだが「新潮社にも良心的な人がいるのだから、不買運動はやりすぎなのではないか」という人が出てくるのはそのためである。

しかし、このヘイト擁護が経営者の意思である以上、新潮社は文芸を含めて不買運動の対象になるべきだろう。もしそうでないとするならば経営者は「それぞれの雑誌の判断だ」と逃げの姿勢を示さずはっきりとこれについて語るべきだ。しかし、誰もそれをせず、結果的に新潮45はLGBTの人々を「生産性がない」と蔑んだ。中には傷ついた人たちもいたはずだが、最後まで誰もLGBTの人に謝罪をすることも、なぜこうしたヘイトが放任されたのかを説明する人もいなかった。これが集団思考の恐ろしさなのである。

新潮社はもともと新聞に対抗して「新聞が扱えない金や女」を扱うことで俗物的な人々を引きつけてきた歴史がある。新潮45の路線はこれを引き継いでさらに過激にしたものである。高齢者にはもはや女と金を追求するような欲は持てない。そこで出てきたのがこのヘイト発言だったのだろう。経営は積極的にこれを推進したのではイカもしれないが、結果的にこれを許容した。

この新潮45がここまで大きな存在になったのは週刊新潮を作り俗物主義を定着させた斎藤十一の影響が大きいようだ。Wikipediaの斎藤十一のセクションは、体が弱く吃音もあった人が戦後の左翼的な世論に反発して保守思想を強めたというような筋立てで書かれている。

ただ、現在の佐藤隆信社長の経歴を見ると東京理科大学を卒業して電通経由で新潮社に入ったことがわかる。この斎藤イズムがどの程度経営に浸透していたのかということは実はよくわからない。社内の俗物志向に取り込まれてしまった可能性もあるが、遅まきながら廃刊を決断したことから、社内の「専門家集団」に経営的な指示や指摘ができなかっただけなのかもしれないとも思う。

他人の権利を蹂躙してもよいという現代の保守思想の背景をみると、このひ弱さを持つ人が左翼思想に反発して強大な権力を思考するようになるという類型がよく立ち現れる。安倍晋三にも同じような軌跡があった。斎藤は1997年まで新潮社で影響力を持ち続けたということなので、現在の経営者たちもそのような人に取り立てられた人たちなのだろう。今回も形ばかりの謝罪で逃げ切ろうとしているようだが、この姿勢も今の政治とそっくりである。何が悪かったかということは決して言わないし、謝罪もしない。世間を騒がせたから「受け取られ方が悪かった」ということなのだろう。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

株式会社 新潮社

代表取締役社長 佐藤隆信

それでも斎藤十一は「自分たちも俗物であるのだから、俗物的な記事を書くのだ」と考えた様子が見える。つまり、ギリギリ社会に共感意識を持っていたということになる。ところが今の新潮45は「自分たちは正義と権力の側に立つ人間であり」その立場から相手の存在価値をさばいて良いのだと考えているのだろう。そして社長は「それはダメなのだ」と指摘できない。佐藤社長がよそから入ってきた「外様」であり、村生まれの「文芸人」や「ジャーナリスト」ではなかったからなのかもしれない。

巷間漏れ伝わってくる杉田擁護の文章を見ていると「よくは知らないが」と切り離した上で「彼方の出来事」を冷笑的に語っている。誰一人として責任を撮ろうともしない人たちが、読み違えたのはこの「切り離されそうになっている人々」が実は多いということだ。レイプや痴漢を擁護することによって女性全般まで敵に回してしまった。

さらに、これも言いにくいことだが、新潮社の文芸は「俗物志向」に食べさせてもらっているという苦い事実がある。文芸では食べて行けないからであろう。しかしながら俗物志向側にも一定のメリットがある。つまり文芸を置くことで「新潮社は文化的な会社なのだ」という印象が得られる。村の人たちは別の村だとみなしているかもしれないが、外の人はそうは見ない上に、実はお互い二利用し合っている。今回の社長のコメントでも「文芸出版社」を名乗っているのがその現れである。新潮45は「廃刊に近い休刊」として逃げてしまえばいいが、結果的に文芸部門が突きつけられている残酷な課題は「他人の人権を蹂躙してでも、自分たちだけはきれいごとをいって生き残りたいか」という問いである。

例えば事実上の売春行為が蔓延するようなナイトクラブで昔からの伝統芸を守っている人たちが囲ってもらっているようなものである。ナイトクラブ側は店の外での行為を黙認しつつ自分たちは「伝統的な技能者を抱えているから老舗でございます」と言っていることになる。

新潮文芸部は「文句」は言っても中からの改革は求めなかった。つまり「自分たちだけは違う」と言いたいのだろう。果たしてそのような文芸に芸術としての価値があるだろうか。それどころか文芸セクションは「炎上芝居」の片棒を担いでいるのではという観測すら出ている。確かに根拠はないが、文芸編集部Twitterの発信のタイミングをみると頷ける話である。

「世間の関心を得られない文芸が生き残るためにはそれでも仕方がない」という見方もできるのだが、逆に商業的に文芸が生き残る上でも壁になっているのではないかと思う。しかし、文芸がこれを脱却できないというわけではない。

松山の俳句集団の夏井いつきは俳句甲子園というイベントの仕掛け人の一人である。俳句甲子園は「俳句の普及」を目指した大会である。夏井は次のように語っている。

「単純な俳句大会ではダメだと思ったの。5人対5人の団体戦で、俳句のよし悪しを議論するのが絶対に譲れないラインでした。高校生にとっては、議論を通じて泣いたり、笑ったりすることが大事だと思ったのね」(夏井さん)

俳句にイベント性を持たせるということは観客を意識しているということだ。つまり俳句を閉ざされた文芸からスポーツのように観客のいるものに昇華させようとしている。これは俳句が売れなかったところから生まれた工夫なのではないかと思う。文芸にはこうした生き残り方もある。

きつい言い方なのかもしれないのだが、俗物主義とそれが劣化したヘイトに依存している限りいつまでも「どうせ誰にもわかってもらえない」文芸からは脱却できないのではないか。

一部では不買運動が始まっているようだ。本屋の中には「新潮社の本をおかない」というところも出始めているようだ。これはこれで構わないと思うのだが、新潮社が個人の買い手に依存していない以上、効果は限定的なのではないかと思う。

こうなると別の圧力の掛け方をした方が良いだろう。新潮社の雑誌に広告を出している会社に働きかけて不買運動を起こすことがそれにあたる。冒頭に述べたように、新潮社は経営的な観点から「ヘイト」で商売をする権利はある。しかし、消費者としても、新潮社の姿勢を応援する企業からものを買わない自由はあるわけ。

スポンサーの中にはオリンピックに関連しているところもあるという。このままでは世界の恥をさらしていることになる。

いうまでもないことだが、これはLGBTだけの問題ではない。国や社会が勝手に「誰が価値のある人間か」を決めて、それを一人ひとりに押し付けようとしている社会に住みたいかということだ。杉田議員はこの価値観を押し付けたい人たちの先兵になっていて、新潮社はそれに加担している。そして文芸セクションは、意図しているかどうかは別にして新潮社があたかも「良心も」持っているように偽装するための装置になっている。

新潮文庫は大正3年に創刊され日本ではもっとも歴史の古い文庫なのだそうだ。純文学好きな人は必ず1冊くらいは新潮文庫を読んだ経験があるはずだ。彼らは間接的にヘイトに加担することで、人々の大切な思い出を踏みにじっている。これを許すか許さないかの判断は一人ひとりが行うべきだろう。