家産共同体を軸に保守とリベラルを整理する

杉田水脈の妄想とも言える議論をきっかけに日本の社会について考えている。妄想のなかには日本人が持っている社会観をよく表しているところがある。それは共同体に「役に立つ人間」と「そうではない人たち」がいるという視点である。民主主義国家では受け入れられない概念だが日本人の中にはうっすらとそう思っている人も多いのではないだろうか。

この二つの考え方は日本語の中に書き言葉の漢語とやまと言葉の二つがあるのに似ている。普段日本人が政治について語るときにはこの二つを使い分けているのだが、いわゆる保守と呼ばれる政治家の中には整合性が取れなくなっている人がいる。稲田朋美議員は護憲派を新興宗教呼ばわりして問題になった。憲法は書き言葉であり、彼女たちが内輪で話をしている「第9条原理主義者」という差別的な言い方は話し言葉に当たる。稲田議員はSNSで身内に話すつもりだったのだろうが、SNSの発言は世界に向けて発信された。だが、これは仏教を厳密に守る人たちと神道と混交した仏教を信じる人がいるのに似ている。表向きでは僧侶のふりをしているが、中には神殿があって教義のない宗教を実践しているような感じだ。だが、表で柏手を打ってしまうと「ここは寺である」と非難されるのである。

前回、見るのは、国家と産業の関係だ。その一端として、家業・企業・国の間にある労働力の取り合いという図式を見た。これは国家が企業や家業のライバルになっているということを意味している。保守の人たちにとって国家は福祉や社会保障の単位ではなく、それ自体が営利集団なのだ。そして自民党政治家は当然そこから利益をつまんでも構わない選ばれた人たちなのである。

もともと日本は家業中心だったのだが明治維新以降「国」という概念が整備された。例えば武士の世界には国や社会という概念はない。だから藩は武士に土地を分け与えて家族や使用人に耕作させていた。家業は産業でもあり社会保障でもある。だから、江戸時代の武士の階級は所有地の「石高」で図ることができる。江戸時代には国が産業を育成して外国に製品を得るという国家重商主義のような仕組みはなかった。日本はこの仕組みを改めて短い期間に国家と企業が連携した産業連合体を作ることで近代化に成功した。戦争が国の一大事業になるとこの主体は国に移った。

もちろん乱暴な議論なのだが、これを整理すると保守とリベラルという構造をイデオロギーなしに理解することができる。保守という態勢はなんとかして家庭を中心としたピラミッド構造を国家まで結びつければ良い。つまり国家社会主義的な体制を再構築してその単位として家を位置づければ良いわけである。そのためには「家業」という具体的な事業が必要であり、家業は国家事業に結びつけられなければならない。国家社会主義はドイツ語でNationalsozialismusと呼ばれるそうだ。その省略形がナチズムである。ドイツの場合、周辺国に「取り上げられた」失地を回復するのがナチズムの目的だった。ただ、その道のりは困難を極め、内側ではユダヤ人の虐殺などが起こった。日本の場合は国家社会主義的な体制を満州で実験するのだが、その過程で多いに現地の人たちの恨みを買った。これは民族国家という体制が「内と外」を作ってしまうからである。保守の人たちが盛んにいう「反日と中国の脅威」はこれに呼応する。

杉田議論で誰でも引っかかるのが「生産性」とか「役に立つ・立たない」といった漠然とした曖昧な評価基準である。日本ではすでに個人主義が一部導入され、終身雇用も実質的には破綻しているているために、国家や企業などの集団が個人の価値を定義するということに反対意見が多い。この生産性とは「国家・企業連合体」の生産活動が前提になっている。生産活動に寄与する人が役に立つ人であり、そうでない人は支援されるべきではないと言っている。現代民主主義においては間違った考え方だが、口語的に使用される「政治」においてはよく用いられる表現である。この口語を持ち出してきて「国家が」「効率的に」役に立たない少数者の排除を始めると、それがナチズムに見られたユダヤ人や障害者の虐殺になる。

杉田議論が愚かなのは、保守がどこから来たのかということが全く理解できない上に考えようともしないからなのだが、発想自体は日本人の口語的政治世界をよく体現している。個人の考えや事業というものが基本的に存在しない日本では、個人はなんらかの生産集団の一員であるべきだと考えられる。だから「役に立つ」かどうかを国が決められると思い込んでしまうのであろう。

このことは個人に置いても重要である。つまり多くの人が「生き甲斐が見つからない」と感じるのは「生まれながらにしてなんらかの生産集団に属しているわけではない」ということを意味している。だが、現代民主主義国家においては、それは選択的に見つけ出すものであって、誰かに与えられるものでもなければ、自然と湧いてくるものでもない。これも文語的政治が理解されていないことを意味している。

だから、日本人が保守と呼んでいるあの奇妙で漠然とした何かを取り戻すということは、日本がイデオロギーによらない生産主体としての集団をどのような形で復活させることができるのかということにかかっている。自然な形で復活させられれば外に敵を作る必要はない。一方で、リベラルという人たちはここから脱却して国が個人や企業を支える主体になるように社会変革をすれば良い。

その意味では枝野幸男が国会で不信任同義で語った「保守観」は間違っていることになる。枝野はフランス革命を引き合いに出し急激な社会の変化に争い漸次的な変化が保守だと言ったのだが、そもそもイデオロギーを前提としない日本人にはそれほど意味のある議論ではなさそうだ。

ナチズムに対するアレルギー的な反応を傍において、ここで本当に議論すべきなのは「そもそも集団が一生にわたって個人の生活を保証できるだけの事業を提供しうるのだろうか」という課題である。産業の変化が激しい現代ではこの数十年の間にも「IT」といった全く新しい産業が生まれる一方で、自動車産業は内燃機関を放棄して家電のような存在になりつつある。このような時代に生きる現代人はもはや一生の間に食べるに困らない産業も持てないし、これさえ覚えれば食いっぱぐれがないという技術もありえない。国家が指導的な役割を果たして一大企業「日本株式会社」を経営することは不可能ではないだろうが、政治家が家業として政治を行っている状態ではとても最新の変化について行くことはできそうもない。基本的には計画経済的な共産主義が破綻したのと同じ構造で行き詰まるはずだ。

日本においてリベラルであるということは、国家や企業集団が生産の主体であることを放棄するということなのである。生産体だった日本では杉田議員が言うように「誰が役に立つ人間か」ということを決めていたのだが、民主主義社会ではそれは国民が決めることであって、政治はそのサポートをするにすぎない。民主党政権はそこで中央集権的な官僚機構に頼ったために改革に失敗したのだ。

日本の政治は「家業政治家」によって支えられている。これは日本の支配構造が未だに家業ピラミッドであるということを意味している。自民党の政治家は未だに県を「藩」だと思っているので県から代表がいなくなると地球が終わるかのような大騒ぎをする。実際に地方の自民党の支持者たちは家業を中心としたピラミッドを形成しているのだろう。さらに、すでに家業を失った人たちの中にも古いイエ観が残っている。嫁ぐということは家に入るということであり、男性が苗字を変えただけで「養子に入ったのね」と言われてしまう。

日本の保守政治は国民の思い込みに支えられているので、これを継続することを決めたとしても国民に意識改革を迫る必要はない。だが、実際の生産体系はすでに彼らの思い込みを支えることはできなくなっている。さらに地方からは人口と資金が失われつつある。彼らのお城は立派かもしれないが、今にも崩れそうな砂の上に立っているのである。もし保守政治家が「日本を取り戻したい」とすると、彼らはどのように生産体を復活させるかという議論をしなければならないことになる。ナチスのような悲惨な末路にならないためには「敵」を持ち出さずにこれを定義する必要があるが、そもそも地方経済すら維持できないのに国家について語るのは難しいのではないだろうか。

一方のリベラル側の政治家は現状に即した福祉態勢や社会体制を西洋諸国からコピペすればよい。ただ、リベラル側の人たちは国民の意識を変革する必要がある。これは意外に難しい。ファックスさえ手放せない人たちが容易に近代型の価値観を受け入れるとは思えないからである。

いずれにせよ、現在の保守・リベラルの議論は膠着しており出口が見えない。だが「こうあるべきだ」という思い込みを捨てて見ると、状況がかなり簡単に整理できることがわかる。現在の議論の根源はバブル期に起きた「修正日本型資本主義」の破綻なので、この先「先に進むか戻るか」を決めれば良いということになる。

日本の家族制度はなぜ崩壊させられなければならないのか

さて、先日来杉田水脈議員の妄言とも言える「ゲイは生産性がない」という議論を考えている。いろいろ寄り道をしつつ「同性愛者も子育てに動員されなければならない」というところまで来た。そのためには、前回は従来の両性の合意のもとに作られる家族制度は邪魔なので解体されなければならないと考えた。今回はこれを反対側の観点から見てみたい。つまり、家族制度は存続しなければならないという視点である。

マウンティングにしか興味がない自称保守の人たちに代わって日本の家族制度を弁護してみよう。保守の言っている家族という価値の尊重はなかなか複雑な過程で作られている。もともと日本の家族は「家業」と呼ばれる事業体を支えるための作られた制度がもとになっている。東洋的な目上尊重という文化は残っているが違いも大きい。メンバー間の権力格差はそれほど大きくないし、血縁にもさほどこだわらない。が、西洋式の個人主義とも違っておりあくまでも家族という集団が一つの単位になっている。つまり、日本の家制度は中国より柔軟で融通がきく制度であり、西洋のように個人が社会に放り出されることもない優しい制度であると言える。

家業においては職業と再生産(つまり子供を産んで育てること)が不可分である。だからイエには事業体(表)と再生産のための主体(奥)という二つの側面があった。これを拡大解釈して、祭祀のための存在に過ぎなかった天皇にまでつなげたのが明治維新である。明治維新は徳川家のようなイエが頂点になかったのでそれに変わる統治原理が必要だったのだろう。こうして一部一神教的な世界観を入れつつ保守の人たちが考える人工的なイエ制度ができてゆく。西洋のように理論化を試みる動きはその過程で萎縮してゆく。現在のTwitterの政治議論を見てもわかるように、日本人は議論ができない。戦前の日本ではこのために仮説のつぶしあいと弾圧が起こった。天皇機関説事件が有名である。

Wikipediaを見てもわかる通り天皇機関説事件はもともとは政党間の非難合戦だったのだが、これが美濃部達吉の個人攻撃に変わった。美濃部は反論を試みるが炎上して貴族議員を追われてしまう。この事件のおかげで「国家に関する研究をすると炎上しかねない」という空気が蔓延し、その後は「日本は天皇を中心にした家族なのでみんなで仲良くして、戦争があったら協力して死んで行こう」というような当たり障りのない説に収斂してゆく。この過程は小熊英二の「単一民族神話の起源」にも書かれている。

このため日本は単一民族国家から帝国に至る過程で周縁を統合できなかった。すでに観察したように数があまり多くなかったアイヌ民族をなんとなく統合することには成功したが、朝鮮人をどう扱って良いか分からなかった。内地では参政権を与えハングルによる投票も許したのに、外地では植民地として土地を種脱するといったちぐはぐな動きが起きた。こうして日本は短い帝国期を終えてしまい、後には不毛な議論だけが残った。今でも在日差別やアイヌ民族などいないという議論にこの影響が残っている。統合できなかったので「なかったこと」にしたがるのである。背景には他者に脅威を感じて生きるのも嫌だし、かといって支配者として嫌われるのも嫌だという日本人の気弱な心もちがある。このためこの文脈で語られる家族は「和気藹々としてお父さんが尊敬されている」家族である。いわゆる「サザエさんシンドローム」だ。

日本で保守と呼ばれる人たちは家族という序列が復活すれば自分が他人から尊敬されるという見込みがあるのだろうが、そもそもしり切れとんぼで終わっている上に幻想に支えられた議論なので理論化ができない。唯一胸を張って「これが日本の伝統だ」などと言える議員は杉田水脈や三原じゅん子など限られた人たちである。後の人たちはさほど議論には興味がないので「俺が父親として威張れる家族が復活すればいいな」と考えているのであろう。自分は強制したくないが周り(つまりh女性である)から言われると気分が良いのだ。

このように詳細に見てゆくと議論する価値すらなさそうだが、もう少し辛抱して家族の復活について考えてみよう。家族が復活されるためにはまず土台になるものを復活させなければならない。それは家業である。日本は戦後この家業に少し変更を加えて男性が主な稼ぎ手となって家族を支えるという制度を作った。企業という殿様に仕える武士が正社員だとしたわけである。企業は社宅を整備して専業主婦である妻と子供を支えることができる程度の給与を支払い企業年金で老後の面倒を見た。いわば終身雇用制は日本の公私が一体になった家族制度を支えていたことになる。

この制度は国家としては一度破綻している。職業軍人制度により近代化した侍を維持していたのだが「弾」が足りなくなると徴兵制に移行する。これは民間や家業から労働力を収奪して戦争に割りあてるという乱暴な制度だ。しかし食料調達などの兵站が作れなかったので、収奪された労働力の多くは餓死した。この時に作った年金制度が発展したのが今の年金制度だといわれているそうである。国はいったんは奪った労働力の面倒をみようということまでは考えたのである。

つまり、もともと日本には、家業、企業、国家の間に労働力と福祉・再生産機能を奪い合う構造がある。国民、企業、国家が一体の時にはこの制度でもうまく行くのだが、いったん不信感が芽生えると内部留保が起こる。国は独自の事業を行い利益を政治家や官僚が山分けするようになり、民間は海外への資金逃避や内部留保によって蓄える動きが出てくる。企業と国が協力関係にあった時にはなんとなく分担ができていたのだが、これが崩れたので国が国民の面倒を見るためには国家として家業がなければならないということになってしまう。だがそれは戦争かオリンピックくらいしかない。

すると取り残された国民が困窮する。国民の唯一の抵抗手段は費用を抑えることである。とりあえず今食べて行かなければならないので未来の投資を減らす。だから子供が減り、教育にお金が回らなくなるわけだ。極めて合理的に「少子化」が進行している。そしてその結果去年は37万人が日本から消えた。

終身雇用制度がどうして崩壊したのかはわからないものの、現在の企業は家庭を丸ごと雇っているという気分ではいないであろうことは想像に難くない。さらにバブルの後始末に失敗してから企業は国や社会を信頼していない。だから自分の手元にお金を残そうとしており、金融機関すら信頼されていない。人件費の削減は、今まで企業が持っていた再生産機能の保持を外部化しようという試みだ。賞味期限が切れてしまい家庭が維持できなくなったのだからこうした企業は解散させられるべきなのだが、日本は雇用などを企業に丸投げしているためにこれは難しい。

このように冷静に整理すると問題のありかはわかってくる。子育てにはお金がかかる。この費用を誰かが出さなければならない。かつての封建制のもとでは収益の源は家族だったのだから家族が子育ての費用から教育費までのお金を出していた。ところが戦後になって収益の源が企業に移るとこの責任も企業に移転した。企業がこうした責任を果たさなくなったということは、それよりも大きな単位である国がこの責任を持つか責任を企業に戻すべきだということになる。かつて国が国民の面倒をみようとした時には戦争という事業があったが今は事業がない。それでも国は国民の面倒を見るべきなのだろうかという議論になる。

もし保守と呼ばれる人たちが従来の家族制度を復活させたいのであれば、企業と話をして家族に十分な支出をするように説得するか法律を作ってこれを是正すべきである。もはや個人を主体として民主主義・資本主義とは言えず「日本型」の社会制度を新しくつくるということを意味する。やってやれないことはないだろうが、発明する部品は多くなるだろう。このやり方の欠点は日本人が議論ができないということである。現在のネトウヨが成立しているのはそれがリベラル叩きを主目的にしているからだろう。問題解決の議論が始まれば相手の人格攻撃が始まり議論は萎縮し「安倍首相を中人にみんなで仲良くしましょう」というような結論に終始するはずである。さらに杉田議論を見てもわかるように「役に立つ・立たない」という議論が出てくる。彼女はこれを生産性と言っていたが、生産性が議論になるためには国が事業体でなければならない。彼女の議論は「人権無視」というコンテクストで叩かれているのだが、日本的な文脈で見ると「家業なき集団」の問題なのである。

世界に目を転じてみると、先進国は企業ではなく社会が責任を持って再生産の費用を分配しようとしているようにみえる。いわゆる社会民主主義という制度である。よくリベラルの人たちがモデルにしている北欧は国が再生産の費用は国が出すという仕組みで運用されている。スウェーデンなどでは職業訓練などもしてくれるようだが、企業も簡単に潰れるし、首も簡単に切れるという話がある。産業の移り変わりが激しいので一企業が社会的責任をすべて追うことはできないという認識があるのだろう。このやり方はコピペで済むので議論はあまり必要ではない。が、議論を見るとわかるように、国が生産集団だから国民の面倒を見ているわけではない。個人主義なので社会の相互協力という認識ができる。もともと集団性の強い日本では経済主体が成員の面倒を見るのでこうした社会の相互協力という概念が育ちにくいのだ。

日本は「災害レベルの人口減」に見舞われているという認識があってはじめて、保守やリベラルの人たちがソリューションを模索することができるのだが、今回の議論にはそうした兆候は見られない。みんなまだ「なんとかなる」と思っているからなのだろう。

雇用システムはいち早く脱日本化してしまったのだが、家族の意識はそれほど大きく変化していない。夫が妻の姓を選択すると「婿養子に入った」と言って笑われ、妻が夫の姓を選択すると「入籍した」として家族と一体になることを強制されるといった状態が続いている。お盆になると旧来型のイエの価値観を押し付けられた嫁が一斉に発言小町に「もう夫の実家には帰りたくない」という投稿をすることになる。

こうした問題が起こるのは発言小町的には「舅姑理解がない」か「夫が優柔不断」か「嫁の我慢が足りない」からなのだろうが、実際には家の制度と社会システムのズレが問題なのである。

もはや災害レベルの人口減少と徳を失った国会議員たち

杉田水脈の「生産性問題」について考えている。国民を国会議員が支配する対象のようにみなして選別しようとする発言が非難されているという話だった。ここで杉田発言を非難するのは簡単だが、もっと重要な問題が見過ごされてしまう。一緒に騒ぐことによって政治ショーに加担するのは実はとても有害なことなのである。

杉田水脈発言は「伝統的な家族という価値」が復活しさえすれば日本の活力が戻るという信仰に支えられている。そしてこうした言動を支持する人たちは伝統的な家族が復活すれば自分が家庭に君臨できるという根拠のない自信を持っている。だが、実際にはそんなことを言っていられないほどの変化が起きている。日本人が壊滅的な勢いで減っているのである。

Twitterで2020年に人口が毎年50万人減ってゆくという記事が流れてきた。こういう記事を見た時にはまず「嘘だろう」と思うことにしている。そこで検索してみると2018年には人口が37万人も減っているという記事が見つかった。つまり、人口減は現在も進行しているのである。

37万人というと3年で100万人以上の人口が消えることになる。つまり3年で千葉市や北九州市以上の人口が消えてしまうことになる。鳥取県は2年を待たずになくなる。東京23区で人口30万人から40万人規模というのは新宿、中野、北、品川と同じくらいだそうだ。これが一年で消えてしまうというのが今の日本なのである。

最近よく「今までにないレベルの災害」という言葉を聞くようになった。豪雨災害が増えているので「今までの常識で大丈夫だった」からといってこれからも無事でいられるとは限らない。同じような言い方をすると、かつてないレベルで人口が減ってゆくのだから、これまでとは違ったレベルの警戒が求められるということになるのだが、こちらは日常の出来事なので災害という印象が持たれにくい。

日本の人口は均一的に減ってゆくのではないので、まず地方経済が壊滅的な影響を受けているようだ。高齢者は地方に住み続けるが、子供達は都会に出て行ってしまうからである。相続の際に高齢者の資産が都市に流れそのあとは戻ってこないという記事を見つけた。

これからの金融資産は人とともに都市部に集まる。野村資本市場研究所が人口減や高齢化、相続に伴う資産移転の影響を試算したところ、30年までに金融資産が増えるのは東京都と埼玉、千葉、神奈川、愛知、滋賀、奈良の6県だけだった。

日経新聞は「銀行のビジネスモデルを再構築すべきだ」と言っているのだが、アベノミクスにより地方の銀行は儲けられないので、もはや利子による収益は見込めない。地方銀行が潰れるということはその地方の経済が潰れてしまうということを意味するのだが、産業界が安倍政権を支えているので日経はそこまでは書けず、「合併で持ちこたえるべきだ」という意見を出しているのみである。そもそも地方からお金が蒸発するのだから合併したところで収益が上がる見込みはない。

問題は徐々に広がるので地方の有権者も議員たちも問題の大きさには気がついていないようである。鳥取・島根、高知・徳島は合区になった。この県に一人づつ代表を置こうと「憲法改正」を目指したのだが、参議院選挙までに間に合わないということがわかると強引に比例代表制度を変更してしまった。つまり彼らは憲法などに興味はない。興味があるのは自分の議席だけなのである。しかし、どんな選挙制度を作っても根本的な問題解決にはならない。今後も地方の人口は減少してゆくからである。

杉田議員は「まだ余裕がある」と考えているのだろう。そこで生産性の議論を持ち出してマイノリティをイジっている。目的は自分の議席の確保とマウンティングだろう。だが、実際にはそんなことをしている余裕はないほど日本は追い込まれているのである。

こうした問題は新聞を少し検索しただけで出てくる程度の情報の組み合わせでしかないが、自民党から聞こえてくるのは、これからも自分たちが独占するであろう内閣が国民に指図ができるように基本的人権を制限するアイディアや、自衛隊を軍隊にして中国に対して威張れるようにしたいというようなアイディアばかりである。前回「理念なき国」についてみたのだが、国から理念が消えてゆくと「どうやったら自分が利益を独占できるか」ということで頭がいっぱいになってしまうようだ。すると、国全体の問題が見えなくなってしまうのだ。

災害レベルの人口減少なのだから今まで通りの戦略で人口を増やすことはできない。まず伝統的な結婚観や家族観は今すぐ放棄すべきだろう。

結婚しないと子供を作れないという今の制度は効率が悪すぎる。同性愛だからといって子供を育てられないということはないのだから養子制度を充実させて子育てに協力してもらうべきだし、芸能人の結婚報道で「妊娠しておらず予定もない」などという報道は偏見を助長するので法律で禁止すべきだろう。よく児童相談所の職員を増員しろなどという意見も聞かれるのだが、これも考えものである。子供を虐待して減らしてしまうような余裕はないので、問題が露見したら「親権」などとは言わずに子供を育てたい人に育ててもらうべきなのかもしれない。

文句をいう人は出てくるだろうが、もはや「非国民」と言って良い。もはや結婚制度と子育てをリンクできる余裕はこの国にはない。「順番を重視しろ」などとカッコいいことは言っていられないはずなのである。

このような議論を始めると変化を恐れた人たちが「変えないための議論」をやりたがるのだが、毎年30万人以上が減ってしまう状態にどんな選択肢があるのかを逆に聞いてみたい所である。

安倍首相は西日本豪雨災害の時に引きこもって選挙対策をしていたようだ。目の前で「人口減少」という災害が起きているのだが、特に何も手を打っていない。総裁選挙で頭がいっぱいになっているのである。

いずれにせよ杉田議員は国会議員にはふさわしくない。本来ならば国家を総動員して子育てをしなければならないのだが、不用意な発言で同性愛者の人たちを自民党の前に集めるだけで終わってしまった。そして自民党の人たちは杉田議員に問題を指摘できないようだ。安倍首相の派閥に属しており下手なことをいって自分たちの地位が危うくなることを恐れているのではないかと思う。

国会議員たちもまた国が衰退しているという実感を持っているのだろう。だが、自分だけが逃げ切れば良いと考える人が多い。問題を「伝統的な家族がなくなったからなので人権が悪い」とごまかそうとする国会議員もいる。一方で、国民と一緒にこの問題に取り組もうという人はそれほど多くなさそうだ。日本の政治家は徳を失っているのである。

杉田水脈を非難する人はすべて死刑廃止論者でなければならないと思う理由

このところ、オウム真理教の問題と杉田水脈議員の問題を考えている。前者は国家が人を殺してもいいのかという問題であり、後者は生産性のない人間は生きていても仕方がないのかという問題だった。どちらも命の選別を扱っている。この両方を一緒に考えることで日本人が西洋とは違った世界を生きていることがわかる。敬語世界を生きている上に、絶対神がいないので人間がいろいろなことを決められるのである。

オウム真理教の問題でジャーナリストの江川紹子が面白いことを言っている。江川さんは自身も被害者(事件化はされていない)なのでオウム真理教に対して処罰感情があるようだ。教祖の死刑は仕方がないことだと考えている。だが、命令を下したのは教祖一人でその他の人たちは別だとも考えているようである。彼女は麻原彰晃元死刑囚は処罰されるべきだと考えているので正気に戻った教祖に事件について聞くべきだったと主張する人に感情的とも言える反応を示す。

だが、一方で弟子たちについては真相究明に役に立つと考えているようである。

面白いのはこの議論のもとになった森達也という映画監督の人も江川さんも「役に立つ人は死刑を執行しないで調査を進めるべきだ」としているという点である。田原総一郎も同じようなことを言っているところをみると、これは日本人に共通する態度らしい。

つまり、役に立つ人と役に立たない人を峻別して、役に立たない人は先に執行しても構わないと江川さんは考えており森さんも「役に立つことがあるのだから」という点を論拠にして死刑をやるべきではないと考えている。この論争だけを見ると彼らは対立しているように思えるが、実は同じ立場に立っている。

ヨーロッパの死刑廃止論もかつては犯罪抑止や冤罪の回避などの機能論によっていたようだが、実際に死刑が廃止されてしまうと「国家は人の命を奪う権限を持ち得ない」というイデオロギーにとって代わられる。ドイツ政府は「死刑は野蛮だからやめるべきだ」と言っている。いったん社会的了解ができてしまうと「死刑を行っている国は遅れている」という感覚が生まれる。これはかつてあった仇討ちが禁止されてしまうと「それは前近代的だ」という感覚が得られるのに似ている。だが、武士社会においては「家族の心情や伝統はどうなる」という反発があったであろうことが予想される。つまり、日本は未だに国家が国民にかわって「仇討ち」をする制度を温存していると言える。

日本人は「その判断が正しいならば、他の人間が命を奪っても構わない」という社会を生きていることがわかる。これを杉田問題に展開すると面白いことになる。杉田さんは「生産性のない人間に補助をすべきだろうか」という問題を提起した。また別の自民党議員も限定的人権論に立っている。

これを広く捉えると次のような定義が得られる。それは、生存を許されるのは社会に許容された人たちだけであって、誰が生きて良いのかは私たちが決めるということである。Twitterや新聞ではこれに対する反対記事がたくさん出てくるので、国民の間に反発があることがわかる。

だが、人々は何を反発しているのだろうか。

死刑判決を受けた人の中でも「役に立つ人間は生かしておいて利用すべきだ」という論に反対する人はあまり多くないのだが「自分が役に立たないと認定されたら殺されても構わない」という人はそれほど多くない。これは日本人が「限定的肯定感」の世界を生きているからであろう。

だが、これを「絶対神的世界」を生きている人が同じことを考えると、「他人にそういうルールが設定されたのだから、自分にもそのルールが設定されても文句は言えない」ということになる。日本人のように意思決定を保留しておいてその時に都合の良いように考えようとは思わないからだ。

だがその肯定感は限定的なので「生産性がない」と「世間から」認定されたら姥捨されかねないという恐怖感は芽生える。だから、自分には生きてゆく正当性があるということを証明しなければという気分になってしまうのだろう。

Twitterで「寝たきりになった人であっても世話をしている誰かに給与が支払われているから生産性がある」と主張するTweetをみかけた。これはGDPへの貢献を「生産」と見なしており、生産性と生産を誤認しているのだが、その裏にあるのは、役に立たないと認定された人であっても役に立っているとみなされるべきだという止むに止まれぬ気持ちなのだろう。ただ、これを受け入れてしまうと、経済効率性があげられるように効率的に世話されなければならないということになってしまう。人間の価値はGDPへの貢献で決まるということを受け入れてしまっているからだ。介護される人はものではないのだから、ちょっとこれは受け入れ難い議論であろう。

この議論から抜け出すためには「どんな人であっても生存権や人権などが奪われてはならない」という前提をおかなければならない。つまり、限定条件をなくしてやる必要がある。

だが、絶対神の概念を持たず、人間が恣意的に条件を決める日本人にはなかなかこの点が認識し難いのかもしれない。

基本的人権を受け入れた人たちはおのずと死刑の廃止論に傾くのではないかと思う。そうしないと自分の生存権も限定的なものだということを受け入れざるをえなくなり、いつまでも不安がつきまとうからである。

新潮45と中年の危機

先日来、杉田水脈さんの差別発言から日本の政治の問題を考えている。多様性を許容できない人たちが「差別できるような自分より下の存在」を探しているという問題だと考えた。ここでは視点を変えて新潮社の立場からこの問題を見て行きたい。最終的に見えてくるのは「アサーティブネス」と「新潮45の読者が抱える問題」の対比である。アサーティブネスは自分の意見をしっかり持ちそれを他者に伝える技術のことだった。

新潮社はもともと小説の出版社だった。日本の小説は私小説がメインストリームだった時代がある。実生活では自己実現できない人が夢の世界で物語に耽溺するというのが普通の小説だとすると、それも叶わずに鬱々とした感情をそのまま伝えるのが私小説である。戦後になって新潮社は週刊誌を成功させた。1956年だそうである。新聞がカバーできない領域をカバーするのが週刊誌の役割だ。その後バブルの時代にFOCUSを成功させる。これはきらびやかな芸能界の表向きの姿の下にある芸能人の赤裸々な私生活を暴いたものでありこれも「裏メディア」だった。もともと新潮社はエスタブリッシュが取り損ねた人たちを狙った「傍観者向けの裏的」な位置付けの会社だということがわかる。そして、当事者たちが作る本格的なサブカルが出てくると衰退してしまうメディアを抱えている。そこで、新しい「弾」を準備して生き残るという戦略である。

例えば今私小説が流行らないのはTwitterをみれば十分だからだろうし、FOCUSよりも刺激的な記事はネットでいくらでも見つかる。が、新潮社としては次さえ見つかればそれで構わない。問題は新潮社が次の弾を見つけられなくなっていることくらいだろう。

この中で45歳以上をターゲットにした雑誌が新潮45だそうだ。Wikipediaには最初から「保守・反人権」的な立ち位置だったと書いてあるのだが、保守が反人権と結びつくとは考えにくいので「変化を拒む守旧派」を狙った雑誌だったのだろう。これも政治問題の当事者というよりは傍観者を狙った雑誌だ。一時は女性を取り込もうとセックス特集などを増やしたが成功せず「ジャーナリズム路線」に戻ったのだという。

では彼らがターゲットにする45歳以上とはどのような人たちなのだろうか。現在の45歳といえばちょうどバブルに乗り遅れた世代である。大学時代までは右肩上がりの経済成長が(少なくとも見かけ上は)続いていたのだが、それが蜃気楼のように目の前で消えてしまったという体験をしている「失われた世代」だ。

日本の終身雇用は若い時の丁稚奉公があとになって報われるという仕組みだ。だが、この世代の人たちには下がいない。さらに上の人たちは老後の不安を抱えておりポジションを手放さない。直近の先輩たちは「バブル世代に雇われた無能な」人たちなので尊敬はできない。成果をあげろとは言われるが経済成長期のようには行かないし、後輩も入ってこないので役職にもつけず、マネージメント経験もできない。これより下の世代はそもそも経済成長を知らないので会社に過度な期待はしないから自分のためにならなければついてこない。

50歳にもなれば諦めてしまうのだが、まだ諦めきれないが自分の人生が何だったのかよくわからないという年齢域である。他人から良いと言われた進路を真面目に選択したのにちっとも報われないという人が「自分の人生って何なのだろうか」と考えることを「中年の危機」と呼ぶ。つまり、新潮45が今回たまたま掘り当てたのは「真面目なのに認めてもらえず達成感も得られなかった中年の危機にある人たち」の受動攻撃性だと考えられる。

今回、同性愛の人たちが杉田発言に抗議行動を起こそうとしているのだが、これに対して冷笑的なコメントがついている。問題を認めないし何もしないという態度なのだが見ていると「受動攻撃性」という用語がぴったりなのだ。表面上は穏やかなのだが悪意と攻撃性に満ちている。

ハフィントンポストに受動攻撃性に関する記事があるので、対処方法などを見て行こう。

時にして誰もが受動的攻撃行動をとってしまうことがあるのだが、そこでしなくてはならないことは、あなたが最後に“ノー”と言いたかったのに“イエス”と答えてしまった時のことについて考えることである。受動的攻撃行動をする傾向がある人の中にはいくつかのタイプの人間がいる。衝突を避けたり怖がったりする人々は、自尊心が低く自信がない人ほど受動的攻撃性格になる傾向があり、ブラント博士によると、そういった人々は「感情、特に怒りの感情を持つことを許された経験がない」のだという。

つまり、自分が本当にやりたかったことをやらずに妥協をしてしまったことに憤っているのだが、それを怒りとして表出できない。そのために誰か代理で叩く人を見つけようとするのである。

ハフィントンポストの記事はこうした人たちに対処するためには「毅然と対応すべきだ」と書いてある。つまり、彼らがマイノリティを見つけ出して叩くことを決して許してはいけないということだ。つまり、もし当事者であれば「そのようなことは許されない」と毅然と対応すべきだ。

ただ、例えば同性愛の場合「この人生で納得している」という人は毅然と対応しやすいだろうが、そうでない場合には「承認されたい」という気持ちから弱腰の対応をしてしまうかもしれない。前回見た乙武さんの「自分で選んだわけでもないかわいそうな人生」という自己像は極めて危険である。こうした構造は学校でのいじめにもよく見られる。一見先生に従順な良い子が裏で弱い子供を執拗に攻撃するというケースである。そして、いじめられる側はなんらか自己肯定感の問題を持っているケースが多い。

さらに、今回の杉田発言に関する反論を見ていると「自分たちも見捨てられ不安を持っており」「このままでは大変なことになる」と慌てているようなものが多い。つまり非当事者が進んで獲物として議論に参加しているということになる。こうした感情の揺れは彼らを利することになってしまう。

この「世代論的理解」は意外と重要なのではないかと思った。この風潮を日本社会全体の風潮とみなしてナチスドイツと同一視するような考察がある。野党政治家の中にもそのようなほのめかしをしている人たちがいる。確かにアイデンティティクライシスの側面はあるのだがそれが全体に広がっているとは考えにくい。ドイツの場合は帝国が領土を失ったことにより民族全体に危機意識が芽生えた。さらに民主主義の体験が乏しかったために議会政治が無効化されることになってしまった。だが、日本にはそうした喪失経験は見当たらない上に、それなりの議会運営の実績がある。日本の近代議会運営の歴史はアジアでは一番長い。

ある年代に限ってみると、確かにナチスと重なる側面はある。だが、それが全体に広がることはないだろう。逆に「このままでは日本社会全体が大変なことになるのではないか」と怯えることは、彼らの感情的な餌になる。

個人的に興味深かったのは「村落共同体」との関連である。日本社会を概観するときに「村落共同体」的な構造が抱える問題と、村落がなくなってしまったが多様性に踏み出せない社会という全く異なった二つの問題がありこれが統合できなかった。だが、これを逃げ切った60歳台の人たちとその下の掴み損ねた人たちの問題と考えるとわかりやすい。掴み損ねた人たちは新しい行動様式を獲得する時間がなかったために「自分の権利を主張する」という非村落的な行動様式を獲得できなかった。だから怒りを誰かよそに向けるしかないのである。

受動攻撃性は自分の欲求を外にうまく伝えることができないために起きている。これを解消するのがアサーティブさである。改めて、杉田発言に抵抗する人たちを見ていると、ゲイの差別に同調するというよりは「あまり騒ぎすぎるとためになりませんよ」とか「そんなことより建設的なことを考えましょうよ」などと問題を無視したがるような発言が目立つ。多分、彼らは普段からそのようなことを言われており、自分たちの欲求が抑圧されているのではないかと思われる。

多様性社会へようこそ

先日、杉田水脈という人の発言について考えた。下を向いて生きて行きたい人たちが犠牲者を探すという物語だった。杉田さんの発言には商業的価値があるとされ、自民党もある層に訴求力があると考えて杉田さんを「泳がせて」いるのだろうということもわかった。つまり、下を見つけたい人たちがたくさんいて、お金を払ってでもあの手の話を読みたいと考えているという事実がある。新潮社が週刊誌では政権を叩き、別のところでは差別を煽っているところをみると、会社全体としてはかなり追い込まれているのではないかと思われる。かつて戦争の荒廃から立ち上がるためにいち早く文化の風をと思っていた日本の出版社も今や国民の劣情にすがって日銭を稼ぐしかない。実は彼らも役割を見失いつつあるのだろう。

その意味では日本のエスタブリッシュメントとされた政党から差別を助長する発言が繰り返され、言論や文化を牽引していた会社から差別的な書物が発行されるということには大きな意味がある。

この荒れ果てた状態で、マイノリティと呼ばれる人たちが誰かから承認してもらえる可能性はそれほど高くない。杉田さんの発言が反発されるのは「自分が見放される側にいるのかもしれない」という恐れがある程度共有されているからだろう。つまりそれは従来のマイノリティとは違って「いわゆる正常域」から外れることがそれほど珍しいことではなくなっていることを意味する。裏返すと「正常」と呼ばれる人生を生きている人でも、それに確信が持てないので、異常を探し出して叩きたくなってしまうのだ。

よく、今の日本をかつてのナチスドイツと重ねる人たちがいる。帝国が崩壊しつつあったドイツ人がアイデンティティクライシスに陥った時によりどころにしたのがマイノリティの排除である。今回も同じ動きがあるのだから、日本人もアイデンティティクライシスに陥っていることになる。ではそのクライシスとは何なのだろうか。

かつての日本には望ましい人生というものがあり、その人生に乗っているだけである程度承認欲求が満たされた。男性であればいい会社に入ってお嫁さんをもらい子供を作って子育てと家のローンの返済で一生を終えるというようなコースだ。女性の場合は三年ほど腰掛けにお勤めした後でそこそこの相手を見つけて結婚して子供を作り自分の趣味などを諦めて子育てに専念するというのがよい人生とされていた。男性の場合は演歌を聞いていれば承認欲求は満たされたし、女性の場合もテレビドラマなどが「あなたの人生はこれで良かった」と慰めてくれた。

だが、人生の選択肢が増えた現在では人生の価値は自分で決めて行かなければならない。しかし自分で何かを決めたとしても誰かが承認してくれるわけではない。これが正解だからと考えて人生を選択した人が焦り出すのも実はとても自然なことなのである。

積極的な承認が得られないから、コースを外れたとみなされる人たちをみて「まだ自分は安心なのだ」と考えたい人たちが多いのだろう。そこに杉田さんの「あの人たちの人生は異常だ」という指摘に「目から鱗だ」などと考える人たちがでてくるわけである。

すべての人たちが自己承認を求める現代、待っていても自分の人生が正当化されることはないということになる。よく「多様な価値観を認めるべきだ」ということが言われるのだが、実は自分たち自身が多様な価値観を認めることができていないのかもしれない。と、同時に多くの人が実はいろいろな選択肢のある人生を生き始めている。つまり、我々はすでに多様な社会を生きている。

SNSが発展したこともあり自分が誇れることをインスタグラムあたりで自慢してみるのもよいかもしれない。いいねの数はある種の承認になるし、あるいはお金を払って特別な体験をしてみるのもよいかもしれない。自己承認を求めることはそれほど不自然なことでもいけないことでもない。しかし「自分の欲求をあからさまにしてはいけない」という教育を受けている人たちはそのようなことはできない、でああれば黙っていればよいのだが、他人を叩いて「ああ、自分は正常だった」などと考えてしまうのだ。

他人から承認をもらう前に、まず正常でなければ自分の人生を認められないという偏見を捨てるべきであろう。なぜならば厳密に正常などと言える人生はもはやないからだ。多くの人たちは「あるべき人生」と自分の人生がどれだけ違っているかということを基準にして自分の人生を裁きつづけるかもしれないのだが、それをあなたがやらなければならないということはない。さらに、正常な人生から転落したという一種の喪失感を持つ人もいるだろうが、嘆いたところでその正常は戻ってはこないし、本当にそれほど素晴らしいものだったかは実はよくわからないのではないか。

余力があるのなら社会正義のために動いても良いのだろうが、もしそうでないならまずは自分の人生を承認できるように、一人ひとりの場所でできることをやるべきなのだろうし、その上で余力があるなら他人の人生をあるがままに承認してゆけばよい。こうした人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしやすくなる。

待っていても誰も承認してくれないということは自分で自分の権利は主張すべきだということになる。先日来「自分の意見を他人にいうことにためらいを持つ」ということについて考えてきたのだが、もうそんなことを言っていられるような社会ではない。何しろ政権政党が徳を失いあの状態なのだから、社会全体がどうなっているのかは推して知るべしである。すでに変化してしまったのだからあとはそれに対応してゆくしかないのである。

杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。