多分変われないであろう日本の運命を決める1日が始まる……

先日は日本は近代法治国家を偽装した村落共同体の集まりであると書いた。その真ん中には巨大な真空があるのだが、安倍政権は自らがプレイヤーとなることでこれを毀損してしまったという分析だった。

ゆえに、安倍政権は崩壊して日本は法治国家を真に理解した国家に生まれ変わるべきだと書きたいのだが、どう考えてもそうそうはなりそうにない。逆に安倍政権は「村落的優しさに包まれて」後退してしまうのではないかと思える。つまり、今までのように決められる政治から決められない政治に逆戻りしてしまうのではないだろうか。

日本人の法治主義に対する理解は極めて限定的だが、政局になるとマスコミもアクターである政治家も急に生き生きしだす。現在も二階幹事長が張り切って動いているようだが「自分の損得」で動くという日本型の村落主義の方がみんなに理解されやすいからだろう。

この中で切られそうになっているのは、どうやら筋を通そうとして頑張ってしまう麻生副総理らしい。日本人らしい「助け合い」が理解できない人だ。逆に村落性を意識して動いてきた安倍首相が下されるという兆候はない。日本の村落が筋を通すことよりも人間関係の貸し借りに敏感であることがわかる。安倍さんは「それが自分の手柄だ」と増長しだしたために「お灸をすえる」必要があると判断されたのだろう。菅さんのように身内の話を聞いているだけではダメで、これからはみんなの言うことをよく聞きなさいよということだ。

一連の動きを見ていると、この政局は日本が近代民主主義を取り戻す機会にはならないだろう。むしろかつてあったかばい合いを前提にした村落の温情主義が際立ち、日本は村落社会へと一歩後退することになる。それは、既得権を守るために何も変えないで、結果的にドロップアウトした人たちを見捨てるという社会である。

思い返してみると、日本はこうした村落型の社会を脱却して「決められる社会」を目指したはずだった。その行き着いた先が安倍政権であるということを考えるとこの動きはとても皮肉なものに感じられる。

バブル経済が崩壊した後、日本人の多くは利益共同体である村落を失い「難民」となった。多くの都市住民にとってそれは正規雇用を意味した。また、別の人たちは地域の商店街が崩壊することで利益集団をなくしてしまった。この象徴になっているのが例えばイオンモールだ。商店街の代わりにできたイオンのショッピングモールは非正規の人たちによって運営されている。かつてあった商店街のような生業(なりわい)ではないし、多くの従業員はイオンにとっては使い捨て労働者である。

こうした人たちが、既存の利益集団に敵対意識を持ち生まれたのが小泉政権の「自民党をぶっ潰す」というスローガンだった。小泉首相がターゲットにしたのは特定郵便局という既得権益だ。そもそも自民党が派閥という村落の共同体なのだが、派閥を潰すことで「指導力のある近代国家」を目指したのが小泉主義だったと言える。

小泉政権は同時に派遣労働者を増やす政策をとった。表では既得権をなくして皆様の政治を行いますよと言っていたが、裏では既得権を守るために「余分な労働者」を企業共同体から排除したのである。つまり、小泉政権がやったのは既得権からの脱却ではなく、自分たちの既得権が延命できるように他者を潰すことだった。だから小泉政権は日本が村落共同体を脱却した後の統治の仕組みを考えなかった。

村落というのは自らの損得のために個々人がそれぞれに動くというある意味では極めて民主的な仕組みである。ただし、損得というのは限定的・局地的な情報しか持たないので、その共同体がある程度以上に大きくなる可能性はない。日本が集団として大きく変われないのはそのためだろう。日本人は所与の仕組みの中でどう立ち回るかとうことは考えられるのだが、仕組み自体を変えることはできない。例えば憲法も「県という枠組みを温存して既得権を復活させよう」という議論と「例外を作って絶対的な縛りを脱却しよう」という二本立ての議論にしかならない。自民党の村落共同体は人権という絶対的な概念が気に入らない。人権はその場その場の判断とぶつかる可能性があるからだ。自分たちの利益をどう守るかは自分たちが知っているのであって、人権のような絶対的な縛りはその邪魔になると考えるのが、村落的民主主義なのである。

そのために憲法の解釈が変わったり、決済文書にバージョンができるのは彼らにとっては極めて自然なことなのだろう。例えば決済文書を書き換えることは犯罪だがそれは検察のさじ加減でいかようにもなるわけだし、逆に決済文書を守ろうとして筋を通そうとすれば、官僚の立場が危うくなるかもしれない。そこは「柔軟に」対応したいわけである。だから麻生財務大臣のように「筋を通したがる人」は排除される必要がある。面倒くさいからだ。

いずれにせよ小泉政権が「脱村落」を訴えたのに、その統治機能を作らなかったので続く勢力は混乱した。結果的に自民党で三代、続く民主党で三代の首相が交代した。その間に起こったのは、内部からの情報リークと仲間同士の罵り合いだった。麻生降ろしで国民はかなりうんざりしたが、その後の民主党政権ではその罵り合いはさらにひどいものになり、現在でも続いている。そもそも権力を持って変えることが目的だったはずなのだが、決めたことに対して内部から様々な異論が出てくる。そして決めた方も間違いを決して認めようとせず地位にしがみつく。こうして政治不信が強まっていった。日本人は変われなかったし村落的民主主義を脱却することがどういうことなのかよくわかっていなかった。

そして自らで枠組みを作れるかもしれないと感じて暴走を始めた。枠組みづくりには仲間同士の協力と言葉による契約が必要なので、所与の環境で自分の利益をどう最大化するという計算が効かない作業だったからだ。

これが表向き収まったのが安倍政権だ。安倍晋三は「私について行けば間違いがない」といい、仲間をかばい、ポストを派閥に分配した。やっていることは村落政治そのものだが、表向きは「決められる民主主義社会のリーダー」として振る舞った。つまり、決められる政治を偽装することで枠組みを定めたということになる。この枠組みの中で自民党の派閥政治家たちは再び安心して利益誘導ができるようになったのだ。

表向きの顔と裏にギャップがあるのだから、安倍政権は多くの事実を歪める必要があった。憲法の解釈も歪められたのだが、日本人は気にしなかった。日本人はそもそも人が決めたルールを信頼しないし、法治主義主義は「儀式」としての役割しか期待されていない。さらに、以前の6年間の混乱を知っている。安倍政権は「安心・安全」の装置として機能しているということになる。

現在起きている動きはあたかも「政治の手続きの歪み」が正されることであると思っている人も多いようだが、実際には「国民一人一人が不都合で面倒な事実に向き合わなくて済むように、政治の辻褄があっているように見せられるか」が大切なのかもしれない。

政治家がそろって「大丈夫だ、何も問題がない」とさえ言ってくれれば、人々は生活困窮者の問題、人口減に苦しむ地方、基地負担や原発事故に苦しむ地域の問題を考えなくても済む。そうした問題は「政権によって適切に管理されており」「不満がある人は、どこか個人的な問題があるか何かをしくじった人なのだろう」と思えるからである。仮に野党のいうように、人々が政治に関心を持ち常に関しなければならないとしたら、こんなに面倒なことはない。監視して他人の苦痛を知ったとしても重苦しくなるだけで何の得もないからである。

個人的には今日1日の目覚ましい野党の活躍が日本の膿を出しきってくれることを期待している。だが、同時にあまり期待をすべきではないなとも思う。いずれにせよ、今日の一連の動きが単なる儀式に終わるのか意味のある1日になるのかはこの時点ではわからない。

期待と不安が入り混じってしまうのだが、経過を冷静に見守りたいと思う。

森友事件に忖度などなかったのではないだろうか

さて、先日面白いTwitterのまとめをみた。森友学園事件で籠池理事長が外国人特派員協会に招かれた。そこで忖度という言葉が訳せず、そのままSONTAKUと訳されて報じられたというような筋だ。最初に書こうと思ったのは「日本は集団主義で主語が曖昧だから忖度のような独自概念が生まれる」というような内容だったのだが、ちょっと頭の中で転がしていて「そもそも忖度なんてなかったのでは」と思い始めた。

忖度とはある人が別の人の気持ちを汲み取って行動することを意味するので、直訳するとReading between the lineということになる。こうした表現は英語にもあり、実際に外資系では忖度が行われることもある。マネージャーが部下を雇うのでマネージャーに嫌われるとクビになってしまう可能性があり、日本よりもシビアな忖度が行われる。普通のアメリカは個人主義文化なのでボスはなんらかの手段で基本的なルールを示しているはずだが、イタリアマフィアのように集団主義が進むとこれが薄まるので、普通のアメリカ人はsontaku is yakuza’s ruleのように捉えるはずである。

日本で忖度が行われるのは周りの人々が同じ空気を共有しているからだ。つまり忖度の裏側には、長年非言語的に蓄積された経験とか共有された人間関係の認識などがある。超能力者でもない限り人の心は読めないわけで、暗黙知の共有度合いが高いほど「類推があたる」可能性が高くなるわけだ。つまり忖度は暗黙知的なコミュニケションが円滑に行われているということを意味する。

あるいは安倍首相は日本会議からの支持を期待して日本会議の主張を具現化するような教育に肩入れしていた可能性もある。これは、expectationとdealであり、その場合は官僚になんらかのプレッシャーをかけていた可能性がある。これは忖度ではなく不当な指示であり英訳には困らないし、忖度のような非言語的な一体感で不可解さを説明する必要はない。

だが、森友事件の場合、籠池理事長との関係が露呈すると安倍首相はその関係を切り捨ててしまった。また森友夫妻も「神風が吹いた」とか「素人がわからないまま政治に関与すべきではない」というようなことを言っており「よくわからないけど官僚の態度が変わったので、だれか有力な先生がなにかしてくれたんだろう」という感触を持っていたことがうかがえる

少なくとも安倍首相にはそれほどの思い入れがなかったことが想像できるので、官僚は(暴走する昭恵夫人や安倍首相との関係を騙る籠池理事長のせいで)勝手に誤解していたこととなる。もし官僚がちゃんと忖度できていたとしたら、このような危険な(少なくとも財政上は破綻する可能性が高かった)ディールには肩入れしないように安倍首相と夫人に報告できていたはずだ。

安倍首相は人事権を握り官僚を恫喝しているので、官僚との間にコミュニケーション上のディスコネクションができていたことが想像できる。するとこれは忖度ではなくディスコネクションの問題ということになり、これも英訳可能である。小池晃議員は「指示もないのに勝手にやったってことになるんですか」と質問しているのだが「そうだった」ということになる。

背景がわからない外人に説明しようとすると説明不能な箇所がいくつもでてきてしまうのは、我々が実はこの問題がわかっているつもりになっているが、本当はなにが起きたのかよくわかっていないということを意味する。すると不協和が発生するので「官邸と官僚が阿吽の呼吸でなにかしたにちがいない」というブラックボックスをおいて、不協和を解消しているだけということになってしまう。それが忖度なのだ。

それを助長しているのは実は情報を秘匿している官邸サイドなのだが、多分彼らはそれに気がついていないだろうし、気がついていても引き返せないほど騒ぎが大きくなってしまっている。

つまり、外人に向かって「日本人にはお前たちがわからない複雑なコミュニケーション様式があるんだよ」などと考えてしまうと、却ってことの本質がわからなくなる。官邸と官僚組織の間には、お互いのことがよくわかっていて忖度できる関係ができていたわけではなく、Because of Abe’s poor communication skill, beaurocrats misunderstood his will and lost their mindあたりが正しいのではないだろうか。つまり、忖度などなかったのだ。

背景には安倍首相の一貫しない指示があるのではないかと思う。民主主義を尊重して中国に対抗すると言ってみたり、日本を戦前の価値観に戻すと言ったりしている。すると周りにいる人々は安倍首相の意思を合理的には読み込めなくなるので、籠池さんのような気違いじみた教育理念を持った人が近づいてきても「あるいはそういう人に肩入れしているかもしれないなあ」などと考えて、不当な土地の値引きなどをやってしまうのかもしれない。考えてみれば国民に人権があるのはおかしいといい、国会で私人を吊るしあげようというきちがいじみた人が国会議員をやっているのだから、そう考えてもなんら不思議はない。彼ら日本会議系の国会議員は普段から官僚を恫喝しているのだろう。

つまり野党が心配すべきなのは忖度できるほどの濃密な関係ではなく、寸断されたコミュニケーションなのではないだろうか。つまり、安倍首相は官僚機構をコントロールできなくなっている可能性が高いのだ。つまり「忖度がなかった」ということを証明するのは安倍首相を支持するものではなく、逆に総理としての資格がないということを証明することになるのだ。

安倍首相と籠池理事長に学ぶ危機管理

両陣営に別れた議論はいろいろあると思うので、できるだけニュートラルな立場から、国会での籠池理事長の吊るし上げと安倍首相の危機管理能力について考えたい。この件で、安倍官邸はいくつかの明確な間違いを犯しているからだ。反安倍人たちは安倍政権のグダグダぶりについて再確認できるが、安倍首相を支持される方も、組織の危機管理についての洞察が得られる。

もともとこの話は土地の不正取得の件が問題になっている。しかし、籠池さんとの関係を保ったまま「関係はあるが違法行為はない」といえば終わっていた程度の問題だった。だが、安倍首相のちょっとした行動の間違いから大炎上してしまった。この意味では安倍支持派の言っていることは正しい。忖度は犯罪ではないし、忖度を問題にしている限りは野党は何もできなかったはずだ。ちなみに蓮舫さんの認識はこの程度だった。

第一に、安倍昭恵さんがセキュリティホールになっていたことは明確だ。安倍首相は夫人をコンロールできていない可能性がある。夫人は私人か公人か曖昧な上に政府の情報にアクセスしている。だが、安倍昭恵さんは安倍晋三さんと暮らしているので「黙らせる」ことができる。まずかったのは野党の追及を恐れてつい「私人である」と閣議決定してしまった点だろう。すると私人が国家公務員を私物化して調査させているという議論が成り立ってしまうのだ。正直が一番の策であるという点も忘れられている。これは倫理的な問題ではなく自由度が増すからだ。文脈をコントロールできないのにストーリーを作ると選択肢が限られてゆく。

それでもいったん秘密にしたのだから、なんとしてでも隠し通す必要があった。

そもそも安倍首相は籠池一家を嫌いだったようだ。だから関係そのものを隠そうとしたのだろう。安倍首相が健全な支持者に囲まれていたならこうような胡散臭い危険な人と付き合う必要はなかったといえ、安倍首相と夫人は大変危険なゲームを行っていたといえるだろう。夫妻はどちらも良家の子女であって、こうした人たちと対抗するような喧嘩のスキルはなかったはずである。なぜ、表沙汰になると困るような人たちと付き合っていたのだろう。

安倍首相は朝日新聞の報道を受けて騒ぎが始まってから籠池理事長とのコミュニケーションラインを「こんな人は知らない」と言って一方的に断ち切ってしまった。もともとあまり親密でなかった関係を断ち切ってしまったことで、その後籠池理事長は疑心暗鬼になり、もともとセキュリティーホールであるうかつな安倍昭恵さん経由でつながっているにすぎず、安倍側から籠池理事長がどのような行動に出るかがわからなくなった。

加えて安倍首相は「関係や介入があれば首相をやめる」とまで言い切ってしまった。ここで野党は「籠池さんの関係を証明さえすれば、安倍さんは辞めてくれるんだ」と受け取ってしまった。しかも、部下である議員たちは安倍首相や昭恵夫人から詳細な情報を取れなくなった。詳細に話が聞けたなら、もう少し具体的な反論ができたはずだが「ない」という前提のために詳細な話が聞けなかったのだろう。西田議員は「夫人から直接話を聞いた」と言っているようだが、長い時間をかけても籠池さんの人格否定と「ここで嘘をつくと偽証罪になるんだぞ」という恫喝だけしかできなかった。これは不遜な印象を与えるだけでなく、攻撃材料がない(つまり具体的なことを聴取できていない)ということを露呈してしまっている。

本来なら籠池理事長の人格を貶めてしまえば「あの人の話は信頼できない」となって終わったかもしれないが、もともと怪しい人物にもかかわらず証言の一つひとつが妙に具体的なのでひょっとしたら真実が含まれているのではないかというような印象になっている。なぜこんなことが起こるかというと事前に籠池さんの人格を貶める印象操作をやっていたからだ。印象操作が裏切られてしまうと逆に「あれ、話と違う」という疑念が生まれるのである。

自民党側は「お金がないのになぜ学校を建てられたのか」とか「安倍首相の名前を騙って寄付金詐欺をしているのでは」などと攻撃しているのだが、それは公知であり特に驚きはない。「であればどうしてそんな人たちに学校の認可を与えたのか」という反論になる。これはそもそも籠池さんに聞くべき問題ではない。これが最後の問題だ。つまり、自民党の議員にはそもそも質問を組み立てる能力がないのだ。維新の党も質問ができずに籠池さんを恫喝していた。

なぜこんなことが起こったのだろうか。普段は無茶苦茶な官邸のリクエストを官僚が寄ってたかってサポートしているのだろう。しかし今回は官僚が疑われているので籠池さんの追求に加われなかったのではないか。もし追求に加わろうとすれば当事者に話を聞く必要がある。しかし忖度はなかったことになっているので当事者から話が聞けなかったのだ。

今回質問に加わったディフェンダーの国会議員は民主主義の基礎さえ理解していない。これは偶然ではなく関係者(西田、葉梨、下地)は日本会議国会議員懇談会の所属なのだ。つまり、国会議員は官僚のサポートなしにはまともな質問さえできず、民主主義や人権を軽視しているということが露見してしまった。つまり日本会議から脱会した人を日本会議の人が公開で恫喝するという宗教裁判のがあの数時間の正体なのである。

安倍政権には安倍首相のコミュニケーション下手という大きな欠点があるのだが、つまり安倍首相が部下や周辺に規範を示すことができなくなっているということがわかる。私人である夫人が国有地の売却に関与し、官僚は首相の顔色を伺って国有地を不公平に払い下げている。さらに日本会議は国会を使って背教者を晒し者にしている。これらはすべて私物化である。国民は政治には関心がなく、この脆弱性は放置されるだろうから、安倍政権そのものが日本の危機管理上の弱点であるという結論が得られる。

 

森友事件これまでのまとめ

もともと土地の不正取得疑惑だと考えられてきた瑞穂の国小学院の問題。Twitter上ではこれまでさまざまな論点が出てきた。これを思いつくままに並べてみた。

国民感情と政権の監視

憲法改正、第9条の強引な骨抜き、社会保障の実質的な改悪、TPPでの公約破棄など様々な問題が指摘される政権が本筋では全く支持率に影響を与えなかったのに、ワイドショーネタにしかすぎないようなこの問題が大騒ぎになるのはなぜか。

違法性は全くないということになりそうなのだが、これが有権者にどのような影響を与えるのか。

なぜ既存のマスコミはフリーの物書きに掻き回されることになったのか。これは健全な民主主義の維持にとって良いことなのか。それとも既存のジャーナリズムが責任を果たしていないからなのか。もし役割を果たしていないとすればそれはなぜなのか。経済的な悪化が理由なのかそれとも他に理由があるのか。もともと問題を「発見」した朝日新聞はこれをどうハンドリングするつもりだったのか。

信条の自由と社会投資

愛国教育や教育勅語を教える幼稚園や小学校を作ってもいいのか。キリスト教や仏教の私立学校が許容されるならば許されるのか。それとも憲法違反の恐れの強い教育勅語は教育から排除されるべきなのか。排除されるとしたらそれはどのような根拠に基づくべきか。問題のある教育に公的な支援をしてもよいのか。よいとしたらそれはどういう根拠に基づくのか。

役所(大阪府と国)はどうして籠池理事長の「詐欺まがい」の補助金申請を見抜けなかったのか。横の連絡が取れていなかったのか。それとも知っていて見逃したのか。こうした行為は教育界に蔓延しているのではないか。

公平性

籠池理事長が学院内に神社を作ろうとしたのはなぜか。宗教法人に税制上の優遇を見越したからなのか。それは公平なことなのか。

小学校を作るにあたって大阪府が規制緩和し、借金があっても学校が作れるようにしたのは妥当だったのか。規制緩和は政権が特定の有権者の利益誘導になっているのではないか。イノベーションを促進するために規制緩和は重要だが、それが阻害される恐れはないのか。それは社会の公平な発展を阻害するのではないか。松井知事や橋下元知事には責任はあるのか。あるとしたらどういう責任なのか。

格安の土地の賃借や売買は法律に触れているのか、それとも合法だが倫理的に不当だっただけなのか。それは国民の利益という観点から妥当だったのか。かつても土地売買をめぐる優遇はあったはずだが、今回の件とかつての土地売買は同じ種類のものなのか。それとも著しく違っているのか。

私人だから参考人招致しないと言っていたのに、総理が侮辱されたから証人喚問だと息巻くのは公平性の点から問題はないのか。で、あれば公人である元理財局長などを招致しないのはなぜか。そもそも学校がなくなったら失うものはなくなるわけで、何の身分保障もしないのに籠池理事長が黙ってくれると考えたのはどうしてか。見込みが甘かったのではないか。

組織の知識(ナレッジ)マネジメントと組織のリスク管理

何でも記録を残したがる役所がこの件に関しては一切記録を残してとされるのはなぜか。持っていて隠しているのか。それとも非公式のネットワークで非公式のコミュニケーションが行われているだけなのか。もしそうだとしたらその利点と弱点は何か。小学校を作るにあたって行われた数々の役人の便宜は誰かの指示で行われたのか、それとも忖度によるものなのか。忖度だとすれば、なぜ忖度する文化が作られたのか。それは安倍首相が作り出した空気だったのか、それとももともと役人文化にあったものなのか。

豊洲、南スーダンなど「持っている記録を廃棄した」とか「忘れた」というのが流行のようになっているが、これは民主主義にどのような害をもたらすのか。害があるとすればどうすれば防ぐことができるのか。

Twitterが発達してコンテクストを限定した発言はできなくなっているはずなのに、仲間内で文脈をを作って情報統制しようとするのはなぜなのか。文脈が崩れてしまった時のリスクとは何か。それはどのような帰結を招くのか。

政治への支援

法的な違反がないにもかかわらず、安倍家や稲田家が籠池家との付き合いや資金援助を隠そうとするのはどうしてなのか。日本会議や右翼人脈と安倍内閣の強い関係は公知にもかかわらず一般にこうした印象がつくのを恐れているだけなのか。それとも別の理由があるのか。こうした「右翼人脈」と安倍政権や大阪の政権(維新政権)が強い結びつきを持っているのはなぜか。思想的に共鳴したのか、他にめぼしい支援団体を見つけられなかったからなのか。もしそうだとしたらそれはなぜか。こうした右翼系団体は昔と同じなのか、それとも違っているのか。違っているとしたらどうしてその違いが生まれたのか。

籠池さんと政治家たちは「愛国的な思想」で親密に結びついていたはずなのに、世間が批判的な論調になった途端に彼らが「転向」してしまったのはなぜか。もともと愛国的な動機はなかったのか、それとも社会に打ち出す自信がないだけなのか。

菅野完氏はなぜうさんくさいジャーナリストと呼ばれるのか

立派なジャーナリストの田崎史郎さんがさまざまなワイドショーで菅野さんのことを「あの人の信頼性は……」と揶揄している。田崎さんは安倍さんの寿司トモとして知られており、安倍さんをかばっていることはかなり明白である。だが、報道機関の出身なので立派なジャーナリストとして通る。だが今日は田崎史郎さんのうさんくささではなく、菅野さんのうさんくさについて考えたい。

菅野さんは自分で情報の入手過程などを実況している。普通のジャーナリストは情報の入手過程をつまびらかにすることはなく、あくまでも第三者的な立場で情報の信頼性を確保する。「伝える側」と「伝えられる側」の間に線を引いているのだ。線が引けるのはジャーナリストの生活が確保されているからだろう。ジャーナリストは専業でやってゆけるから、政治のような面倒なことに関わらなくても済む。

菅野さんが自身をどう定義付けているのかはわからないのだが、政権の存続に関わるようになったので自動的にジャーナリストという文脈で語られることになった。しかし、彼は客観的な伝え手ではなく、信条がありアクターという側面も持っている。故に「伝える」役割のジャーナリストの範疇には入らない。これが、伝統的なジャーナリストである田崎さんから見て菅野さんが「うさんくさく」見える原因だ。もちろん、見ている我々も「菅野さんは嘘をついているかもしれない」と思う。それは菅野さんが客観的な語り手ではなく、意図を持っているからである。可能性としては嘘をつく動機がある。

さて、ここで疑問が湧く。田崎さんは報道機関出身という肩書きを持っており「解説」という立場から第三者的なコメントができるキャリアがある。ではなぜ一線を踏み越えて安倍首相のエージェントとして機能しなければならないのかという疑問だ。

なぜこうなってしまったのかと考えるのは興味深い。報道機関の収入源が先細りリタイア後の収入が確保できなくなってしまったのではないかと考えた。同じことは東京新聞内で闘争を繰り広げられる長谷川氏にも言える。自分のポジションを持って組織と対立している。これは組織を忖度する日本社会ではなかなか考えられないことである。

はっきりとはわからないものの、デフレがジャーナリストをアクターにしてしまっているのではないかと考えられる。裏で政権と繋がっていると噂されるマスコミの実力者は多いが、表舞台にしゃしゃり出てくることはなかった。NHKなどは政権との影響が出るのを恐れてか、同じく寿司トモの島田敏男解説委員を日曜討論の政治の回から外しているようだ。

つまり「うさんくさいジャーナリスト」が出てくる裏には、ジャーナリズムの弱体化があると考えてよく、フリーランス化という背景があるのではないかと思えてくる。つまり(たいていの二極化と同じように)これも同じ現象の表と裏なのだ。

だが、こうした動きは他でも起きている。それがYouTuberの台頭だ。もともとブログライターは顔出しせずに記事を書いていたが、最近ではブログライターさえ「タレント化」することが求められているようだ。切り込み隊長のように本当にタレントになった挙句にネタになってしまうこともある。スタティックな文章ではなく動画の方が好まれるのだ。その内容を見てみるとバラエティー番組にもできそうにないような身近なネタが多い。

テレビ局はYouTubeコンテンツをバラエティの出来損ないだと考えるのだろうし、YouTuberたちはタレントになれなかった胡散臭い人たちに思えるかもしれない。しかし、小学生くらいになるとバラエティ番組は退屈で見ていられないと考えるようだ。彼らにとってはスタジオで制作されるのは退屈な作り物で、番組ができるところまでを含めてリアルで見ていたいのだろう。また視聴者のフィードバックが番組に影響を与えることもある。つまり視聴者も制作スタッフ化している。

「既存の番組がくだらなくなったからYouTubeが受けるんだ」という見方もできるわけだが、視聴者の習熟度が上がり、なおかつインタラクティビティが増したからこそ、新しい形態のタレントが生まれ、今までジャーナリストとみなされなかった人が政権に影響を与えるようなことすら起きていると考えることもできる。視聴者が生産技術(安価なビデオカメラや映像編集機材)を持つことで、世代交代が広がっているのである。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)で書かれたことが現実に起きているわけだが、日本では組織的なイノベーションが起きないという思い込みがある。意外と何が創造的破壊なのかというのはわかりにくいように思える。

つまりうさんくさいのではなく次世代なのである。これは映画から見てテレビがうさんくさかったのとおなじような見え方なのだろう。田崎史郎さんは伝統的なやり方で「大きな組織」を頼ってフリーランス化したのだが、別のやり方でフリーランス化した人もいるということなんだろう。

ただし、菅野さんの存在が無条件に賞賛されるということもないだろう。新しい形態は倫理的な問題を抱えてもブレーキが効かない。YouTubeでは著作権を無視してネットを炎上させたり、おでんに指を突っ込んで訴えられるというような事例が出ている。報道に必要な基本的な知識がないわけだから、これも当然と言える。

常々、日本人は変化を拒んでいると書いているのだが、変化は意外なところで起きているのかもしれない。

森友事件と政権の死 – 日本型組織は誰が動かしているか

昨日は森友学園問題でワイドショーは1日大にぎわいだった。「安倍を倒せ」と息巻く人も多かった。これだけ盛り上がった背景には安倍政権を取り巻くもやもやとした雰囲気があるのだろう。ドラマが盛り上がるためにはその前段にもやもやがなければならない。

どんなに追求しても「誰が責任者なのか」がよくわからない。だから安倍首相の責任が確定することはなく、したがってのらりくらりといろいろな法律が通って行く。結果には責任を取らないで、また嘘をつく。みんな「なんとなく騙されている」ことはわかっているのだが、具体的な証拠は出てこない。こうした不満が溜まっていたからこそ、みんなが籠池爆弾を見て興奮したのだろう。だが、言っていることは「学校が潰れたのは国のせいだから賠償しろ」ということと「私人である安倍昭恵さんから寄付をもらった」ということだけで、冷静になってみるととりたててたいした話ではない。

騒ぐべき問題はいくらでもあった。だが憲法問題、国際問題、経済問題、税のあり方などが人々の関心を集めることはなかった。形がなく「ピンとこない」からだろう。しかし「胡散臭いおっさんが得したらしい」というのは私たち日本人に「ビビッと」引っかかる。それは日本人が村落共同体に住んでいて、誰が得して損したかということをいつも気にしているからである。逆にいうとそれしか関心事はない。村落共同体は比較によってのみ成り立っているのだ。

森友学園問題への安倍首相の公式な関与は見つからないだろう。寄付をしたという証拠が出てきてもそれは違法ではない。そもそも最初から距離を置いていたようで領収書のいらない金を昭恵夫人にもたせていた(あるいは夫人が夫の名前を使って勝手にやっていた)ようだ。

財務省は安倍首相の指示で便宜を図ったのではないのではないかという観測が出ている。ダイヤモンドオンラインの「なぜ財務省は森友学園に通常あり得ない厚遇をしたのか」という文章だ。消費税増税で失点を抱えてしまった上に安倍首相とパイプを持たない財務省は、進んで安倍首相に便宜を図りつつ、長州の保守人脈を通じて安倍首相とのパイプを作ったのではないかというストーリーである。

話の詳しい筋はリンク先を読んでいただくとして、ポイントはいくつかあると思う。一つ目は日本の組織は表向きの組織図では動かないという点である。財務省と官邸には組織図上の関係があり、すべては法律で決まっているはずである。しかし、そんな組織ですら非公式の関係づくりが重要であると考えられており、公式の関係はそれほど重要視されていないどころか全く顧みられていないようにさえ思える。だから、公式のルートから何を掘っても何も出てこない。こうした非公式のルートに参加できた人だけが「美味しい思い」ができる。安倍政権はそれを強化することで、官僚を競争させて成功を手にした。これはこうした非公式の関係をぶった切って失敗した民主党政権の失敗から学んだのではないだろうか。

日本人は「どうありたいか」という理想(これまでイデオロギーと書いてきた)では動かないしまとまらない。内心には「この人は信頼できる」とか「この組織にいれば得ができる」などというような計算があり、それが「信条」になっている。こうした非公式のネットワークが張り巡らされているので、柔軟性があるが変化には弱い。人の内心は急には変わらないし、だれがどう変化するか読めないからだ。

ではなぜ公式のネットワークができないのだろうか。それは組織を動かすための資産が非公式に保持されているからではないだろうか。

組織を動かすために資産 – それは知識である。官僚は財務的な知識を持っているので、例えば消費税をあげればどうなるかということがよく分かる。しかし、国会議員には知識がないので、それを目下であるところの官僚に頼らなければならないのだ。文章の中では「稲田朋美大臣を籠絡する番官僚」の話がでてくる。その知識の中身は何かはわからないのだが、極めて文脈依存度が高いことが想像できる。つまり財務の学説などの公式の知識ではなく、組織を動かすには誰を説得すべきかとか、誰が政策の実行に必要な知識を持っているかという非公式の知識であると考えられる。つまり日本の下部組織は必要な組織を人質にとることで自己防衛を図るのである。

つまり、日本の組織は鍵がバラバラに個人の心の中だけに埋蔵されているというような極めてわかりにくい構造を持っているので、後になって公式の議事録と公式の権限だけを取り出しても「何がなんだかわからない」状態になってしまう。

このことは、非正規雇用問題を語る上では重要な視点だと思われる。現場の知識を持っている人が正規雇用から切り離されると「資産を人質に取られる」ことになる。逆にマニュアルだけに頼るようになると新しい知識が入ってこない上に、非正規雇用の人たちは単に使いたおされるだけの人材になってしまう。

森友事件を見ていて面白いなあと思うのは、日本人がこの辺りを割ときっちりと捉えているという点である。つまり、見ている方も「公式の意思決定がどうであったか」などということにはまるで関心がないのだが、「誰が得をしたか」とか「誰が忖度したか」とか「どんな友達に囲まれているか」などということには極めて敏感に反応する。つまり、そうした非公式の積み重ねで損得が決まるということをよく知っているのだ。人によっては籠池さんってなんとなく嫌いだから安倍さんも嫌いになったという人さえいる。

籠池理事長(辞めると言っていたがまだ辞めていないらしい)が何を言うか(あるいは前言を撤回していわないか)はわからないわけだし、それが真実かもわからない。ゆえに安倍首相が責任を取って辞めるということはほぼないのではないかと考えられる。

しかし国民が見ているのはそこではなく「筋の悪いお友達に便宜を図ってやった」ということは「安倍首相もあんなにとんでもない思想を持っていて、ヒトラーのように子供達に崇拝されたがっているんじゃないだろうか」という印象だけなのだ。それだけで十分なのである。

同じようなことは稲田大臣にも起きている。今後、彼女の言うことを説得力を持って聞いてくれる人はいなくなるわけで、これは政治家としては死んだも同然だ。にもかかわらず彼女はこれからも国会で嘘をつき続けなればならない。何かいえば野党から罵倒される。

本当ならここで議事録が出てきて、誰がどんな権限で不自然な便宜を図ったということがわかった方がよいのだが、それは出そうもない。すると国民は「なんだかわからないが胡散臭い政権だ」という印象を持つことになる。単なる風評被害ということも言えるのだが、風評だけが人々を動かすのかもしれない。

菅野完さんに学ぶ「人を動かす」方法

菅野完さんがワイドショーの主役になった。事件そのものは冷静に考えると今後どう転ぶかはわからないのだが、フリーランスとして幾つか学べる点があるなと思った。一番印象に残ったのは「人を動かす」手法である。

「人を動かす」は、戦前に書かれて高度経済成長期にベストセラーになった本だ。今でも文庫版(人を動かす 文庫版)で読むことができる。肝になっているのは「相手のほしいものを与えてやる」ことで影響力を与えることだ。盗人にさえもそれなりの理があり、話を聞いてやるだけでなく相手に必要なものを与えることが重要であるということが語られる。作者のデール・カーネギーは貧しい農家に生まれ、紆余曲折を経てコーチングの講師として成功した。

古い本なので複雑な現代社会には有効でないと思いがちなのだが、意外と現在でも通用するようだ。多くの人が(マスコミによると怪しいジャーナリスト・ノンフィクションライターであるところの)菅野さんの主張に動かされて右往左往している。

人を動かすというと相手を説得したり強制したりすることを思い浮かべる。自民党の右派にはこうした考え方を持つ人が多いようで、憲法に国民を訓示する要素を加えたいなどと真顔で語る人もいる。他人に影響力を与えたいから政治家になるのだ。だがカーネギーは「相手を変えることはできない」という。変えられるのは自分だけだという主張だ。

菅野さんは立場としては籠池さんを追い詰める側にいたのだが、インサイダーになって話を聞く方が自分の仕事に有利だと思ったのだろう。そこで取った行動は「相手にじっくりと話を聞く」というものだった。つまり、自分の欲しいものを手に入れるために、自分を変えて相手が欲しているものを与えたのだ。それが結果的に籠池理事長の信頼を得ることになる。

これはなんでもないことのように思えるのだがマスコミから悪者として追いかけ回されて、細かい話のつじつまを突かれることに辟易していた籠池理事長がもっとも欲しがっているものだったのだろう。だから数日で籠池さん一家の「籠絡」に成功してしまった。

もう一つのポイントは、多分菅野さんがお金儲けを目的にしていたことではないだろうか。ご本人も含めて「政府に狙われる可能性があり危険でリスクがあるから儲けにはならない」と否定されるかもしれないしwikipediaを読むと政治運動に傾倒しているようだが、実際の菅野さんには(本人の自覚はともかく)政治的なこだわりはなさそうだ。左右の振れ幅が大きい。

実はこれが良かったのではないかと思う。大義や信条にとらわれてしまうと「敵か味方か」に分かれてしまうことが多い。すると、自分の考えや立場に固執して自分を変えることができなくなってしまう。相手を動かすためにはこれは有利ではないのかもしれない。

菅野さんにはこのような「守るべきポジション」がなく、相手に合わせて変わることができたようだ。つまり政治的信条ではなくお金儲け(あるいは生きてゆくこと)にフォーカスしているからこそ、柔軟な態度を取ることができた。

もちろん、籠池・菅野両氏が嘘をついているかもしれないし、今後「証拠が出てこない」ことで両者が嘘つきとしてワイドショーで消費されてしまう可能性はある。さらにあまり好ましくない行状もTwitterでは指摘もなされている。つまり、人格的に信頼できるかということは全く未知数だ。だからといって人に影響力を与えるという菅野さんの技術が無効ということにはならない。学べるところは学ぶべきだろう。

菅野氏は単なるお人好しではなく「ティザー」という手法を使うことでマスコミやTwitterの耳目を集めることに成功している。情報を一元管理して小出しにすることで期待感を煽って注意を引きつけるという手法を使っている。これがティザー(じらし)だ。なんとなく調べ物をすると「知っていること」や「考えたこと」などを全部言ってしまいたい衝動にかられるから、情報発信者がティザー手法を使うのはなかなか難しいことなのではないかと思う。だが人々は隠されるとより知りたくなる。ポジションや組織がない人は相手が何を欲しがるのかを知っている必要があるが、情報をを全部出してはいけないのだ

さらに菅野さんはマスコミを分断することに成功した。NHKにだけ情報を与えたといい横並びで情報を欲しがるマスコミに「いい子にしていたらあなたにだけ情報をあげますよ」と言っている。すると相手は競って言うことをきくようになるかもしれない。分断するだけでなく餌をもらうにはどうしたらいいかという条件を提示しているのだ

さらに情報ソースは1つしかないにもかかわらず、事前に聞いたことを小出しにしてあとで本人から語らせることによって、あたかも複数ソースから情報が出たように見せかけている。いろいろなところで情報を聞くと「第三者に裏打ちされている」ような印象が残るので信頼性が増すわけだが、実際には一人の話を聞いているだけな。籠池理事長は当初「言うことは全部言ってしまいたい」と思っていたのだろうが、それだと反発されるだけなので「言わない」ことを決めたのだろう。すると不思議と人は聞きたくなってしまう。籠池理事長もまた変わることで相手に影響を与える方法を学んでいるのかもしれない。

さらに貧しいライターがやっとありついたネタを(淀川を電車で渡るお金がなく十三大橋を歩いたそうだ)高給取りだか何もしないマスコミに手柄を横取りされかけているというストーリーを作ることで同情を引きつけるような演出も行っている。田崎史郎氏が早速「菅野さんは信頼できない」という発言をしていたが、これは却って菅野さんの同情論につながった。マスコミは明らかに劣位におり菅野さんから情報をもらいたがっている。菅野さんは勝っているのだがそこでガッツポーズをしてはいけないのである。

このように幾つかのテクニックは使っていらっしゃるようだが、かといって「人に影響力を与える」という手法の技術と価値が失われるわけではない。組織の裏打ちを持たない人は、菅野さんの手法に学ぶべきだろう。

相手が欲しいものにフォーカスするのは重要らしい。個人的には、このところ特に自分が書いたものに関して、相手の言うことを聞かないで言いたいことばかりを押し付けがちだったなあと大いに反省した。実はみんな作者の言いたいことには関心がなく、それをどう読んだかということを伝えたいと思っているだけなのだ。多分、自分が書いたものでさえ自分のものであり、読みたいと思った相手の動機がすべてなのだろう。

新しい籠池理事長は何度でも出てくるだろう

ちょっとショックな話を耳にした。前回、小学校では自分を大切にすることを教える前に大義だけを教えると自我が肥大した子供が育つのではないかと書いた。だがこれに対して「日本の小学校は自分を大切にしなさいとは教えない」という人がいたのだ。

結露だけを書くと、これからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろう。また、民主主義を理解しない安倍首相の出現は当然の帰結ということになる。それは民主主義の基本がこの国では全く教えられていないからだ。

にわかには信じがたいのだが、これを教えてくれた人は、日本の学校では自分を抑えて相手に合わせろとしか習わなかったという。いくらなんでもそれは極端なのではと思って他の人の意見を募ったのだが、誰も応じる人はいなかった。黙っているのは意見がないか、言いにくいが概ね賛同していることを意味しているはずだ。従って日本の小学校では「自分を大切に」とは習っていない可能性が高いことになってしまう。ということは家庭で習わなければ一生習わないということになる。

例えば、一人ひとりの大切さを象徴する歌に「ビューティフルネーム」がある。だがこれも英語に堪能なタケカワユキヒデが作り、外国人が参加したバンドが歌っている。そのあとに出てくるのは「世界で一つだけの花」だが、こちらは性的マイノリティの人が作ったどちらかといえば多様性をテーマにした曲だ。つまり自尊心とは外来概念なのだ。

だが、「日本人は自分が大切だということを学ばない」という意見を受け入れると腑に落ちることが多いのもまた確かだ。まずネトウヨの言っていることがよくわかる。他人の権利を尊重することは「自分が我慢すること」につながる。確かに、自分が大切にされないのに、他人の権利ばかりを守れと言われても反発して当たり前である。だからネトウヨの人が言っていることは正しいということになる。

さらに籠池理事長や日本会議が言っていることももっともだ。

自分を大切にするから自ずと相手のことも尊重するというのは西洋式の民主主義の基本になっている。これを天賦人権という。だがこの基本をすっ飛ばしたままで民主主義を受け入れているということは、GHQが天皇に変わる権威だから受け入れたということになってしまう。であれば、選挙という戦いに勝てば自分たちが作った権威の方が正しいということになる。現在の安倍政権は選挙で民主的に選ばれているのだからこれが最高権威なわけで、権威側について都合のよいルールを(自分たちが押し付けられたように)押し付けても構わないという図式がなりたつ。

民主主義を権威主義的に受け入れたという可能性を考えたことがなかったので、かなりショッキングだったが、これでいろいろなことに説明がついてしまうのも確かだ。憲法や平和主義も権威主義的に受け入れている可能性があり、憲法第9条が聖典のように扱われているというのも説明がつく。国連第一主義という権威主義の一種なのだろうということになってしまうが、小沢一郎のいうことなどを思い返すとそれも納得できる。アメリカ中心主義と違う基軸を作るのに国連を持ち出しているのだ。

普通の人は「学校で先生から民主主義だと習ったから民主主義を採用している」ということになる。であれば学校で教育勅語を習えば天皇のために死ぬことを選ぶということになる。権威をめぐる争いなので誰かが正しいということは誰かが間違いということになる。闘争であって議論ではないので、折り合うことなどありえない。

さらにショックなことに日本型民主主義が話し合いでなく、誰が多数派かということで決まってしまうというのも説明できてしまう。数が権威だと考えられているのだろう。

じゃああんたは自分を大切にしろと小学校で習ったのかと反論されそうだが、実は習った。ミッションスクールなので状況が特殊だ。キリスト教では人間は神様に許されて存在しているということになっている。神という概念が受け入れられなければ「自然があるから生きていられる」という理解でも構わないと思う。つまり神の恩寵があるから人間は存在していられるわけだ。同じように他人も神から許されて存在するので大切にしましょうということになる。

ただ、ミッションスクールは聖書の価値観を押し付けない。自発的に信仰心を持たなければ意味がないと考えるからだと思う。聖書研究みたいな課外授業もあるのだが、信徒になれとは言われない。同級生の中には神社の息子もいたので、信仰による差別もないはずだ。実際に特に洗礼を受けようという気にはならなかった。

自分を大切にしましょうと教える宗教はキリスト教だけではない。仏教でも「どんな人にも仏性(ぶっせいではなくぶっしょうと読む)がある」というような教え方をするはずで(調べてみると原始仏教にはなかった概念だそうだが)、仏性を個人から大衆に広げてゆくというような考え方があるはずだ。

このようにするするといろいろなことがわかってくるのだが、分からない点もある。日本人が自尊心を持たないという理論が正しければ日本人は他者に盲従して相手に常に従うはずである。だが実際にはそうなっておらずTwitterに人の話を聞く人はいない。あるいは他人が書いたことの筋を無視して自分のいいように勝手に解釈する人がとても多い。つまり、これほど自分好きな人たちもいないという印象がある。自尊心がないのにどうしてこれほどまでに自分好きなのか、それが何によって裏打ちされているのかがさっぱりわからないのだ。

いずれにせよ「自分を大切にしない」限り天賦人権が理解できるはずはないので、日本人には民主主義が理解できないことになる。接木をしたバラみたいなもので根元からノイバラのように出てくるのが、教育勅語に代表される権威主義的な考え方なのかもしれない。

もしこれが正しいとすると、自分自身で剪定はできないはずで、誰かに刈り取ってもらわなければならないということになる。つまり、西洋世界の指導と監視がないと世界で振る舞えないということで(国際村ではそれがルールだから従っておこうかくらいの気持ちなのかもしれない)、それがなくなれば民主主義は容易に崩壊するだろう。

ということでこれからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろうし、日本会議が多数派工作をして、これといってやりたいことがない二世の政治家を担いで日本の民主主義を骨抜きにするということは起こるだろうという結論になる

籠池理事長に伝える教育勅語が悪い理由

籠池理事長がカメラの面前で「教育勅語がなぜ悪い」と開き直っていた。現代社会を生きる大人ならなぜ悪いかをきっちり説明できるべきだと思う。あなたは、なぜ教育勅語が良くないか説明できるだろうか。この際、戦後GHQが教育勅語を否定したとか憲法に違反するからという説明は脇においておく。憲法は人間が決めたものなのでいくらでも変えられるからだ。

籠池理事長によると教育勅語には12の徳目が並べられているそうである。この徳目は悪くない。問題はそれが安易に天皇崇拝につながる点である。親を敬いなさいというのは否定できないわけだが、天皇は親だとなり、だから親のために死ぬべきだとつながる。

だが、天皇が悪いというわけでは必ずしもない。

実際には教育勅語を持ち出す人は必ずしも天皇を崇拝しているわけではない。ここには隠れたもう一つの論理がある。彼らは「自分たちは天皇の代理だから自分たちのために命をかけなければならない」といっている。

戦前の軍隊は「天皇のために命をかけて戦え」と言いながら、実際には自分たちの失敗を糊塗するために多くの兵隊を見殺しにした。もし本当に「兄弟を大切にしなければならない」のなら多くの兵隊を餓死させることはなかったはずである。沖縄などはさらに悲惨で大本営の自己保身のために捨て石にされた。実際には準植民地のような扱いをされていたからだ。

なぜこのようなことが起こるのか。それは、大きなもののために身を捧げろといいながら、その大きなものを自分たちが勝手に決めているからである。自分がまず身を捧げるなどという人はまずいないのだ。

しかしこれ以上のことは西洋流の教育原理を見てみないと分からない。西洋流では自分の欲望は大切だと教わる。と同時に相手も自分と同じ欲望を持っている。自分も大切なのだから相手も大切であるとなる。そこで初めて相手への尊敬へとつながるのである。さらに協力し合うことでより大きな目標を達成することができるということになり、大義へとつながってゆく。

ここから分かるのは「自分を大切にすること」という概念で、これを自尊心と呼んでいる。健全な自尊心を持っているからこそ相手や社会を大切に思うことができるわけである。

ところが最初に教育勅語や大学を教えてしまうとこうした自尊心を育てる前に「大義のために身を捧げる」ことを覚える。そこで自己犠牲の精神を発揮すればよいのだがそうはならない。

普通の子供は、自分の意思が必ずしも社会に通らないことを学ぶ。自分も相手も一人の個であって等しく尊重されなければならないし、主張してみたところで実力が伴わないかもしれない。このようにして自分というものが形成される。これを仮に自我と呼んでおこう。

ところがいきなり大義に触れてしまうと自我を制限なしに肥大させることが可能になる。自分は省みられる価値もないつまらない存在だが、大義の代理人となることで相手を平伏させることができると考えてしまうのだ。肥大する自我の背景には自分のことが尊敬できないという気持ちがあるわけで、自尊心がないのに相手を尊敬できるはずなどないのだ。

いわゆるネトウヨという人たちが匿名で他人の権利を侵害したがるのはこの自尊心のなさの現われだといえるわけだが、籠池理事長の場合、経歴の「ちょっとした」変更や名前の変更にそれが現れている。大学卒の立派な学歴で県庁に就職できたにも関わらず、自分を大きく見せるために自治省出身だといっていたそうだ。これは自分ががんばったことを否定しているのと同じことなのだが、本人も周囲もそれをあまり分かっていないのだろうか。

籠池さんは、つまらない自分を大きく見せないと相手にしてもらえないと感じてしまったようなのだが、有力政治家の名前をちらつかせることで役人を平伏させることができたのだから、本来の自分自身として振舞うことなどできなくなってしまった点は理解できる。つまり、実力ではなく経歴や所属などの背景を重視する日本は自尊心が育ちにくい社会なのだろう。

その背景には「自分は大切なのですよ」とか「努力は尊いのですよ」ということを教わる機会を逸したまま、権威によって自我を膨らませてきた哀れな社会の姿があるように思える。

教育勅語を現代教育に取り入れたいと考える人は、その権威を背景に相手を平伏させることができるという見込みを持っているのだろう。だがそれは間違いなのではないだろうか。実際には、自尊心を持たないまま大義に触れて、自分を見せびらかしたり、相手を従わせようとする大人が増殖する可能性が高い。

複数の籠池さんが「俺こそが天皇の使いである」と言いながら罵り合っている姿を想像すると実感が得やすい。実際に高齢になっても平和への思いから突き動かされるように行動される天皇を尻目に、私利私欲のためにアフリカの難民の苦境や自衛隊の苦悩を省みない政治家を見ていると、実際にはもうそのような世界を生きているのかもしれないとさえ思うのだ。

 

自民党が籠池理事長らの参考人招致なんかできるはずがないだろうと思う訳

Twiterでは安倍首相が疑念を持たれないためには籠池理事長を参考人招致すべきだという声がある。しかしそれは無理だと思う。そんなことをしたら自民党そのものの自己否定になってしまうからだ。

自民党はある意味宗教政党だ。明文化された教義はない。では自民党は何を崇拝しているのだろうか。これをテレビやソーシャルメディアで知るのは難しいのではないだろうか。

ちょっと前に地元の市議会議員に話を聞きに行ったことがある。自民党の現役の先生は相手してくれなかったのだが、先代が話をしてくれた。きっと暇だったのだろう。千葉市は東京圏から家を求めてやってきた人に土地を売って潤った歴史があり、不動産売買は政治家の大きな利権だった。

それでも売れ残るような評価額が低い土地は市に買い取らせた。例えばゴミ処理場とかモノレールの基地などは浸水しやすい場所にある。もともと地元の人たちは高台に住んでいて、川沿いの田んぼに耕作にでかけていた。火山灰が降り積もってできた土地なので、水に削られた谷があるのだ。そこを造成して住宅地にした上で「〜台」という名前をつけて売るのだが、それでも浸水するところが出てくる。公共工事で治水対策をし、それでもどうしようもないところはできるだけ高い金で市に買わせるのだ。「いかに知恵を絞って高く土地を買い取らせるかが腕の見せどころだった」そうである。

先代はこれを「自慢げに」話していた。高度経済成長期なので国や地方自治体にはお金があり、人口も増えていたので将来の税収に困ることもなかった。自民党はイデオロギーベースの政党ではなく既得権を持った利権集団の集まりなのでこういうことが「自慢」になるのだろう。おじさんがバブルを自慢するのと同じようなメンタリティなのかもしれない。

つまり、自民党の宗教は高度経済成長だったということになる。

こうしたマインドセットはその後も変わらなかった。民主党が政権を取り「公共事業はいけないことだ」という雰囲気になった時にも、自民党の人は、みな判で押したように「公共事業にはいい公共事業もある」などと言っていた。その調子は「政治なんか知らない素人のあんたに教えてやろう」というような調子だった。同じような顔の人をソルトレイクシティで見たことがある。モルモン教徒の人も「お前は無知だから神の道を知らないのだ」と言っていた。

かつての成功を懐かしむ気持ちもなんとなくわからなくもないのだが、自民党が推していた市長が収賄容疑で逮捕された時期だった。それでも公共事業と土地を回して潤うことを否定されるのが許せなかったのだろう。土地への強い執着がわかる。

そう考えると、森友学園が自民党議員に働きかけて土地を安く手に入れるなどということは、別に今までもあったことなのだろう。そもそも土地の取得に違法性がないということからわかるように、いろいろな制度は自民党に都合よく作られているはずだし、そこから政治家にキックバックするというのもそれほど珍しいことではないのではないだろうか。

森友学園の話を「倫理的でない」とか「違法ではないが不適当」と認めることは、共産党がマルクスが間違っていたと認めるのと同じようなものだ。これに群がっておいしい思いをした人もいるはずで、つまり国民も一方的に犠牲者とは言えないということになる。

だが、これはかなり悲劇的な状況だ。自民党はもともと高度経済成長期に最適化した政党なのだから、その存在意義も失われたということだ。そこで新しい教義を作ろうとした結果が戦前回帰だったのだ。既存の高度経済成長という宗教に取って代わったのが森友学園に代表される狂った宗教だ。

しかし、自民党だけを責める訳にも行かない。そもそも日本そのものが高度経済成長に代わる価値を見つけることができなかった。だからいまだにありもしない教義にしがみつかざるをえない。民主党は自民党の公共事業という宗教を否定したが、それに代わる宗教を見つけられなかった。いまだに原発のない国という宗教を教義に加えるかどうかで逡巡しているようだ。

それでは新しく自民党が見つけた宗教は何なのだろうか。それは「公」を語りつつ人々を従わせて搾取するというのがその教義だ。

政府の言い分では「学校は公共性が高いから」という理由で土地売却を急いだということになっているが、実際には国有財産の私物化と個人的な滅茶苦茶な価値の押し付けを「公共性が高い」と堂々と宣言しているにすぎない。かつての古い自民党が公共事業を推進していた時には、曲がりなりにも地域が発展するという名目があった訳だが、自民党の考える「公」はここまで劣化した。自民党は新しい憲法でこの「公」が個人の人権を凌駕すると言っているのだが、彼らが言う「公」とは実際には仲間内の利益でしかないわけで、その意味でも「国家の略奪」を堂々と宣言していることになる。

それでも日本人は民主党の失敗を懲りており「まがい物でもいいから宗教に頼って生きていたい」と考えているのだろう。