多様な働き方というのは企業と安倍首相の嘘なのか

さて、国会審議は依然紛糾している。実質的には経団連と連合の代理戦争であり、経団連の主張が潰せれば野党の勝利となる。だから、多様な働き方とか裁量が何かということが議論されることはないだろうと思われる。

こうした議論は一般の労働者や消費者には不毛であり、日本の生産性議論にとっては悪いことだ。だが、なぜ悪いことなのかと問われると説明はなかなか難しい。問題になっているのは「相互不信」ではないかと思う。労働組合と経営者の対立はそれを示している。表立って対立はしないのだが、裏で蹴り合いをしているという意味では冷戦構造と同じなのだと言えるだろう。

しかしながら、経営者と労働者は違うのだからそもそも妥協など出来るはずはないのではないかという疑問も浮かぶ。そこで、今回は本当に「多様な働き方」が単に企業と安倍首相の嘘なのかということを考えて行きたい。

企業は労働者が自主的に働き方を決めてほしいと考えて「多様な働き方」を推奨している。裁量労働制も労働者から見ると「企業が都合よく人材を使い捨てられる制度」と思われがちだが、経営者はもっと労働者に自立してほしいと考えているだけなのかもしれない。特に高度経済成長期を記憶している人は正社員が「将来の経営者だ」という意識を持って一致協力していた時代を懐かしんでいるかもしれない。今では信じられないことだが、かつての新入社員はそう考えていたのである。

かつての終身雇用は成り立たなくなり、企業は従業員の一生をまる抱えすることができなくなった。だから、経営者は労働者が企業にべったり張り付くのではなく「オーナーシップを持って仕事に取り組んでほしい」と思っているはずである。誰でも自分のことだと一生懸命になるが、言われたことをいやいややっているだけでは単に時間を潰して終わりになってしまう。つまり、企業がこの制度を通じて持ち込みたいのは「従業員の自主性」だと言えるだろう。

経営者は「労働者がだらだらと働くだけ」の状態を苦々しく思いつつ何をどうしていいかわからない。そこで政治への期待が高まる。そこで、「主体的な労働者の多様な働き方」というメッセージが生まれたのではないだろうか。

ところが大企業の考える理想の働き方という姿はすでに成り立たなくなっている。大企業ではかろうじて成り立つかもしれないのだが、中小企業に広がっているのはいつ終わるともしれない低成長に対する疲弊感だ。毎日新聞に有期雇用の無期雇用転換を迫られた苛立ちに関する記事が紹介されていた。この記事を読むと人件費を抑制して生き残るしかないと考える追い詰められた企業経営者と有期雇用で下に見ていた人たちに自分たちの福利厚生や特権が侵食されてしまうのではないかと恐れる正社員の赤裸々な姿がわかる。

これに輪をかけて「支援者のいうことを聞いてやるから票をよこせ」というこれまた主体性のない政治家が加わり、泥沼のような共依存関係が生まれていると言えるだろう。経営者は社会が変わってくれることを望んでおり、労働者は今まで通り会社にしがみつきたいと感じている。そしてビジョンを失った政治家は、なんでもいうことを聞いてやるから票をよこせと言っているのだ。

この議論のさらに厄介なところは、やる気だけあっても主体的な態度は生まれないという点にある。つ日本の企業は現場教育は得意だが経営者になるための教育を行って来なかった。これまでの延長から新しい提案が生まれることはない。経営者は現場を離れて経営教育を受ける期間を設ける必要があったのだが、そんなことをしているうちにポジションがなくなってしまうという恐れから現場を離れることができなかった。

多くの企業は、とにかく目の前の状況に合わせて明日の売上をあげなければならない。負け続けている状況に長時間耐えられるほど人は強くない。彼らにとっては意識の高い労働者が経営者と団結して自らの活路を切り開くたというのはおとぎ話にしか聞こえないだろう。

このように追い詰められた状況のもと、議論は楽な方に転がり始める。それは自分以外の誰かの安定性を犠牲にして明日を生き残ろうという議論だ。

例えば、派遣労働は専門職向けに例外的に作られた制度だがなし崩し的に広がってしまった。この前例があるので「残業代0法案」もいったん例外を許してしまえばなし崩し的に拡大するだろうという見込みがたつ。だから「何も触らせない」という議論担ってしまうのだろう。

政府に当事者意識があれば労働者と経営者の間にある意識の乖離を埋めて調停するようなことが起こっても良い。しかし、現在の政府は「経営者の言う通りに法律を変えてあげるからあとは現場でなんとかやってください」という態度に終始している。問題を収拾する意欲がないばかりか問題の認識すら面倒な様子である。

今度は介護現場で人が足りないから外国から調達するなどと言っている。これも現場の声なのだろうが、一方で「移民は嫌だ」という支援者の人たちがいるので、家族は呼び寄せられず、福祉対応はせず、一定期間で帰ってもらう制度が提案されつつある。制度としては完成するだろうが、海外からの人材を引きつけることはできないだろう。優秀な人ほど移民政策がしっかりした国に移りすみたがるだろうし、そうでない人たちも帰国して一から生活を立てなおさざるをえない出稼ぎ労働に出かけるとは考えにくいからである。

今回の議論は安倍首相の国会運営のまずさと稚拙さにばかり目が向いているのだが、実際に怒っているのは、労働者と経営者の間にある冷たい対立である。これがわからないで政局を見ていても単に混乱しているようにしか見えない。しかし、これがわかってからこの騒ぎをみるとどちらも日本の将来に責任を持とうとしているわけではなく、支援者に向けて歌舞伎芝居をしているということが見えてしまう。

この騒ぎの後ろにあるのは主体的に国が運営できるという自信と見込みが持てなくなった人たちの惨めさなのかもしれない。

裁量労働制議論でサンドバッグ状態の安倍首相

生産性革命とか働き方改革と銘打った労働法正義論がどこか怪しい方向に向かっている。いろいろな情報が錯綜してわかりにくいので、自分のために整理してみることにした。

今の状況

アメリカのいうことを聞いて平和安全法制を通した安倍首相だが、今度は経団連のいうことを聞いて労働者をいろいろな形で使い倒せる法案を準備している。しかしそれでは受けが悪いので「生産性に革命が起こりますよ」とか「多様な働き方を選べるようになりますよ」と説明した。このうち残業代なしで労働者が使えるようになるのが裁量労働制だ。労働者と企業の間の関係は平等ではないので労働者は法律でかなり慎重に守られている。これを岩盤規制と位置付けて取り払ってしまおうというのがもともとも目論見である。背景には国際競争力を失いつつある現在の日本の状況がある。

法規制を撤廃すれば矛盾が噴出することは明らかだ。その対策を迫られるのは政府である。しかし、現在の政府は自分たちが支援者の言いなりになって問題が起きるということを全く想定していないようだ。答弁からは何の問題意識も感じられない。

そこで政府は「裁量労働になると勤務時間は短くなりますよ」という謎の統計データを調査方法を明らかにしないままで提示して2015年から使い続けてきた。しかし、数字のつじつまが合わないので野党が精査したところ、そもそもそんなデータはないということがわかった。そして厚生労働省も社会から非難されることを恐れたのか、野党の事情聴取に応じて情報を流し始めている。財務省が安倍首相を守ってバッシングされたことが聞いているのではないかと思われる。

しかし、安倍首相は「調査は根拠がなかったが、法案自体は良い法案だ」と開き直り、加藤厚生労働大臣は「裁量労働制をうまく使いこなしている企業もあるから、調査なんかしなくても大丈夫」という説明を繰り返している。確かに政府は長時間労働の是正を目的にした仕組みも準備するようだが、そもそも間違ったデータで説明をしていたほど不誠実な政府がこうした対策をまともにとってくれる保障はどこにもない。

一方、国民からの支持が得られない野党もここぞとばかりに過労死の被害者を国会に呼び涙ながらに「私たちは命を守ろうとしているのです」という歌舞伎風の質問をした。野党は連合の支援を受けているのでもともとこの法案には反対だし、手元には過労死した遺族の情報がかなり入っているのだろう。しかし、狙いは「経団連に失望させる」ことなのではないかと思う。人件費の抑制は経団連にとって大きな要望なので、これが安倍首相の稚拙な運営で潰れてしまえば、経団連は別の人を首相に据えようとするだろうからだ。安倍首相もそのことがわかっているから「調査をします」とは言わないのだろう。

ニュースではきれいに編集されていると思うのだが、これが現在の国会である。どちらもそれなりに必死なのだろうが、見ているとある種の絶望感さえ感じられてしまう。

そもそもなぜ裁量労働制なのか

まずは議論の動機から見て行きたい。自民党は残業代0法案を推進したがっているのだが、これは経団連が長い間推進している政策であり、今急に安倍首相が思いついたものではない。

裁量労働制の提案者は経団連だろう。あまり表立って報道はされないが経団連はこれを隠しているわけではなく、インターネットでも公開されている。規制改革の今後の進め方に関する意見(2015年)安倍首相の「多様な働き方」という説明そのものが経団連の意図に従っているのだろう。

意欲ある若者や女性、高齢者を含む国民誰もが、活き活きと働くことができる環境を整備することは、喫緊の課題である。高度プロフェッショナル制度の創設や裁量労働制、フレックスタイム、短時間勤務、地域・職種限定正社員、テレワーク、在宅勤務等、多様な働き方を可能とするための柔軟な雇用・労働基盤を確立すべきである。先の通常国会に提出された労働基準法の改正案を早期に成立させるとともに、労働者派遣法についても、労働政策審議会の建議のとおり、労働契約申込みみなし制度やグループ企業内派遣規制など、2012年改正の内容について見直す必要がある#10

もちろん企業側が自分たちに有利な主張をするのは間違ったことではない。だからといって全て企業の言いなりになってしまえば労働環境はめちゃくちゃになってしまうだろうし、高齢化が進み労働者調達が難しくなった社会では却って企業にも害があることになる。さらに、連合を支持基盤とする民主党系の政党が反対するのは当たり前の話である。

長妻議員は「営業などのチームプレイでは裁量労働は成り立たない」と言っている。これについては過去に書いたように、必ずしもそうなるとは言い切れない。チームが明確なジョブディスクリプションを元に業務を分担すればこの限りではないからだ。日本のようにチームの役割と責任が曖昧になりやすい企業文化では長妻さんが言っていることの方が正しい。急民主党は労働組合が支持基盤なので現在の労働者の状況が集約されているのではないかと思われる。

本来なら、裁量労働制やその他の多様な働き方を正しく機能させるためには企業が変わってゆく必要があり、政府は企業を導いてゆく責任があるはずだ。

資料は捏造されたのか

野党は「政府は野党を騙そうとした」と言っているが、これは「歌舞伎的な」芝居も入っているものと思われる。実際の経緯はもう少し複雑だ。安倍首相が嫌っている朝日新聞が経緯を書いている。これに今回の国会答弁を重ねると次のようになる。

  1. 第一次安倍政権が裁量労働制の対象拡大を画策した。記事には書かれていないが経団連の要望を叶えようとしたものと思われる。
  2. 厚生労働省に適当な資料がなかった。そこで監督時に聴取したデータなどをもとに、一般労働者と裁量労働にについて別個の資料を作成した。担当者がでっち上げたという類のものではなく、当時の部長と課長が決済した。記事には書かれていないが、今回の答弁で加藤厚生労働大臣は「塩崎大臣には報告が上がらなかった」と主張している。もともとは資料によるとなどと言っていたのだが、間違いがわかったので「役所が勝手にやった」と言い出したのだ。
  3. 内容は労働時間を比較したものではなく、それぞれの長時間労働の是正について議論をするための個別の資料だった。目的も違っているし、資料の関係性も今の使われ方とは違っていた。
  4. 野党が「残業代0」だと騒いだために、議論は2年たなざらしされた。こちらも記事には書かれていないが連合が反対したのではないかと思われる。つまり法案を精査して修正したのちに提出しようなどという機運はなかった。
  5. 与党は今回は「多様な働き方」と表書きを変えて、経団連の主張通りに残業代を支払わずに労働者を使役できる法案を紛れ込ませようとし、予想通りに野党から反発された。
  6. 今回はなぜか別個の資料が「労働時間を比較したもの」という文脈で安倍首相の答弁に引用された。安倍首相がどのようなつもりで答弁したかわからないが、今回の国会答弁では「報告通りに読んだだけで、いちいち細かいところまで理解できるはずはない」と開き直っている。
  7. 記事には書かれていないが、加藤厚生労働大臣はこの資料の根拠が薄弱だということを知ってから資料を引き合いに出さなくなった。その間も安倍首相はこれを使い続けた。つまり、資料が違っていて虚偽の答弁になっているということを数日の間知っていたことになる。
  8. この後「隠蔽するつもりはなかった」とか「だますつもりだったんだろう」という議論になり、収集がつかなくなりつつある。対立する理由のない維新もさすがに「調査をしなおしては」と提案しているが、安倍首相は応じるつもりがなさそうだ。
  9. 自民党は当時のデータを厚生労働省がそのまま持ってきたと説明し、厚生労働省のミスであるとの印象を与えようとしている。一方、厚生労働省はそもそもの資料の目的と今の使われ方は違っていると野党やマスコミに抗弁し始めている。

もちろん政権側の運営はデタラメなのだが、一方で政権が「騙そうと考えて」資料を準備していたという説も成り立ちにくい。そもそも当時の厚生労働省は裁量労働制の優位点を強調するために調査をしたわけではなかったのだが、当時の数字を「うっすらと覚えていた」安倍首相が「自分勝手な解釈をして」答弁した可能性が高い。いずれにせよ、安倍首相は支援者のいうことは何としても聞かなければならないと思い込んでおり、議会は単なる儀式として取り扱われているのだが、野党もこれに慣れてしまい型通りの歌舞伎芝居を続けている。

しかし、こうした議会を軽視したやり方はついにここまでひどい国会運営に成り下がったのである。

日本人は議論の際に何を重要視しているのか

このセクションは蛇足だが、与野党の姿勢には面白い特徴がある。働き方の議論ではなく、どっちが信頼できる人なのかという議論が延々と行われているのだ。もちろん与党は信頼してくれというだろうし、野党は信頼できないという。議論が決して交わらないのはこのためである。そしてそれが日本で二大政党制が根付かない理由になっている。政権交代が可能な状態ではどちらも政局に夢中になってしまうのである。

この件が「炎上」することを恐れた自民党は冒頭で申しひらきの時間を作った。これはとてもおざなりなものだった。質問に立ったあべ俊子氏は多分このことに興味がなかったのだろう。型通りに状況を聞いてから「だますつもりはなかったのだから良いではないか」と言って切り上げようとした。も自分の利益団体(看護)のための質問時間が「くだらないことで」削られるのが嫌だったのだろう。その後「地方の病院には国費をつぎ込むべき」という自説を述べて質問を終えた。多分、自民党の議員は選挙のことで頭がいっぱいで「自分には関係がない」政府が何をやろうとしているかには興味がないようである。「結論は決まっているのだから私が何かしてもしかたがない」と感じているのかもしれない。これはとても恐ろしいことのように思えるが、与野党が派手に対立している現在、こうした無気力さを気にする人はほとんどいないようだ。

一方、野党側は’首相が逃げているという印象を作りたがっている。安倍首相は「厚生労働省が間違ったデータを報告してきたのだ」という形を作ろうとしており説明を全て加藤厚生労働大臣に押し付けている。これがわかっている長妻さんら野党は大げさに「総理に聞いているんだよ」と歌舞伎のように言って審議を度々中断させようとした。多分テレビ向けの演技なので、安倍首相は早くこのスキームに気がついた方が良いと思う。

いずれにせよ、自民党は「自民党は良い政党なのだから、悪いようには取り扱わないだろう」と考えており、野党は「自民党は悪い政党なのだから、全て嘘である」と言っている。議論の参加者も見ている方も、対象物ではなく関係性と人間性に強い関心があるのである。

 

 

国会の裁量労働制議論が馬鹿げているのは何故なのか

前回は「素敵マーケター」について考えた。「こういう人たちが嫌いなんだな」と思ってもらえればそれで良いのだが、今回は国会で議論されている裁量労働制の問題に絡めて考えてみたい。与党は裁量労働制を取り入れれば時間短縮につながると言っており、野党は残業代0法案だから過労死が増えると言っている。

野党びいきなので、この法案は「残業代0法案」と呼びたいところなのだが、そこはこらえて「なぜ議論が噛み合わないのか」を考えてみたい。そもそも問題を解決するために国会での議論が役に立つだろうかということがわかるかもしれないし、仮にそこまで至らなくてももやもやの原因は少しスッキリするだろう。

問題に飛びつく前に前提条件を整理したい。日本は労働時間の割に生産性が低いと言われている。これを改善すれば企業には二つのメリットがある。給与支出を減らすることができ、余暇ができた分だけ消費が伸びる。労働者はきっちりと休む時間を取れる上に、仕事以外に何かに取り組む時間ができるだろう。

しかし、統計データだけを見ていても問題の所在がどこにあるのかよくわからない。そこで個別の事例として出したのが前回の素敵マーケターなのである。

前回見たように、日本のデザイナーのお仕事はお客さんの気まぐれに締め切りまで付き合うことである。なぜそうなるかというと「何をしたいのか」ということが誰にもわからないまま締め切りがやってくるからだ。しかし、これはクライアントの担当者が無能だとばかりは言い切れない。担当者の裏には多くの決められない大人がいて締め切りまで(あるいは締め切りが終わっても)いろいろなことを言ってくる。

アメリカではマーケターと外注デザイナーの間に文書化された契約があり、聞き取りの結果作られた仕様をデザイナーが提出してサインをしてから先に進むことになっている。アメリカ人のデザイナーが仕事を自分でコントロールできるのは実はこうしたプロセス管理があるからなのだ。

これが成立するためには条件がいくつかある。

  • 作業プロセスが明文化されていること。
  • プロセスの明文化の前提として、それぞれの役割と期待される成果についての取り決めがあり、それがチーム全体で共有されていること。
  • 成果を上げるためにそれぞれの専門家がプロジェクトにフィードバックができること。そしてフィードバックされた結果を採用するかしないかを決める責任者が明確になっていること。

ここまで来て勘の良い方はお気づきかと思うのだが、この「それぞれの役割」が裁量なのである。実は「働く時間を決められること=裁量」ではないのだ。改めて言われるとなんでもないことのようなのだが、国会の議論でこれを踏まえて会話をしている人は一人もいないと思う。だから、その先の議論が全ておかしくなってしまう。

今回、裁量労働制の国会議論は「裁量労働するようになったら時短が進んだ」という前提を元に議論を進めようとした与党と裁量労働制といっても裁量を持っているのは企業であるという野党が噛み合わない議論をしているのは、実は裁量の定義が決まらないままで、アメリカにある制度を持ち込もうとしているからなのだ。説得材料になる資料を持ってこいと言われた厚生労働省がまともな数字を持ち出せなかったのは多分そのためではないかと思う。企業の中には裁量労働ができているところとそうでないところがあり、外形的には見分けがつかないのではないだろうか。

もし与党の側の立場に立って数字を集めるならば、アメリカ型の裁量労働がうまくいっている職場の数字を実測するか、あるいは経営学者の論文を引用すべきだった。

ここで情報を整理してみたい。もしそれぞれが自分の裁量で仕事ができるようになれば、時短が進むはずである。素敵マーケターのところで見たように、デザイナーの時間が浪費されるのはプロジェクトに参加している人たちが明確なゴール意識を共有していないからだ。ただでさえ混乱しているのに好き勝手に「私らしさ」を持ち込むと話が複雑化する。とにかく「決めて」さえしまえば「ああでもないこうでもない」と逡巡する時間はなくなる。代わりに成果を測定して反省会をして次に進めば良い。これも時短に貢献するだろう。

裁量労働制を取り入れている会社であれば、裁量労働制が時短に結びつき生産性が上がるだろうというのは多分間違った議論ではない。

しかし、実際の経験上、日本で明確なジョブディスクリプションを元に作業をしているところはそれほど多くない。外資系であれば「ウェブを作る」ならば責任担当者にプレゼンをすれば良い。外資のやり方を導入している日系企業もなくはない。この場合、どこか別のところで実績を積んだ現場の責任者とハンコをついて根回しをするシニアマネージャーが分かれていることもある。日系と外資的な文化を接ぎ木しているのだと思う。しかし、世界的な大手企業でもそうなっていないケースがある。例えばソニーのある事業所のケースではプレゼン内容を全てビデオテープに取られていたことがある。担当者が決めているような体裁になっていたが、多分後で偉い人がみて「ああでもないこうでもない」とやっていたのだと思う。

このため、日本のIT産業はインハウス化が進んだ。誰も決められないから文書で取り決めて次に進むというやり方が取れないので、チームごと取り込んでだらだらと残業させながらひたすらやり直しをさせるというやり方が残ったのである。

ITの現場を知っている人は「ITは土方だから仕方ないだろう」と思うかもしれないのだが、実は上流工程のコンサルでも同じような現象が起きている。経営者が金曜日に会議をし「やっぱり決められないな」ということを決めてしまい、慌てて土日で資料を作り直すのである。最終的には「今のままで大丈夫」というのを難しい理論で固めたようなポンチ絵と呼ばれる絵がいっぱい入ったパワーポイントの資料ができるのができるのだが、これを現場に投げて終わりになるというケースが多い。

日本の企業は「誰も責任を取らず」「誰も何も決めない」まま「それぞれの思い込みでプロジェクトが進む」ので「みんなだらだらと仕事をする」ことになってしまう。誰も何も決めないということは誰も裁量を持たないということなので裁量労働制が成り立つ余地はない。議論をしようにもそのやり方しか知らないので「裁量労働制は残業代0法案ですね」ということになってしまうのだろう。

「裁量労働」を導入してもが「それぞれの役割分担を明確にして生産性をあげろ」という命令としては機能しないのだから、だらだらと仕事をしている会社が残る限り裁量労働制が時間短縮と生産性向上に寄与することはないだろう。労働環境を悪化させるだけだから労働法制を変えるべきではないということになる。だが、それでは生産性は低いままである。

本来ならばこうした議論をした方が良いとは思うのだが、与野党ともにそもそも労働環境や生産性には興味がなさそうだ。最終的に「誰が統計数字をごまかしたんだ」という議論が政局に利用されて終わりになってしまう。

確かに首相の答弁撤回というのは前代未聞なので、これについてあれこれ指摘したくなる気持ちもわかるのだが実際の問題解決にはほとんど意味がない。そもそも「裁量ってどういうことなんだろう」という疑問すら出てこない状態というのがとても危ういことなのだが、議論の推移を見ていると、多分そこまで行き着く前に「強行採決」で終わりになってしまうのではないだろうか。

素敵マーケティングと豊洲新市場という悪夢の組み合わせ

久しぶりに昔の友人にあったような出来事があった。

豊洲移転反対派の識者がいつものように豊洲新市場移転について異議申し立てをしていた。今回は、小池さんがブロガーたちを雇って広報戦術を繰り広げようとしているというのだ。彼らはこれを「刺身ブロガー」と呼んでいる。お刺身を振舞われて提灯記事を書くのかというのだ。

しかし、実際に刺身ブロガーが書いたものは彼らには理解ができなかったようだ。それはまるで金星人と火星人の会話のようになっている。

このディスコミニケーションはなぜ起こるのかということを考えていて、かつてあった生産性の低い「ウェブのおしごと」を思い出した。あの生産性の低い「ウェブのおしごと」がインスタグラムの時代に入るとこういうことになるのかと思ったのだ。

そこにあるのは、女性たちが考える「私らしい素敵さ」のなかにぽっかりと浮かび上がった異質で無味乾燥なイベント告知である。「私らしさ」を追求してゆくと「私が消えてゆく」という、日本の村落特有の矛盾もある。この議論を進めてゆくと日本の生成が低くなり、モノが売れなくなったもう一つの理由がわかるように思えた。今回は国会で繰り広げられている労働時間の問題も絡めて考えてみたいと思っている。

アメリカでインターネット業界が立ち上がった時、建築のメタファーで広まった。一級建築士のような人が全体を設計し、インテリアデザイナーのような人たちと協力しながら作って行くのがウェブだという世界観がある。構造設計をやる人はいまでも「アーキテクト」と呼ばれているはずである。また、ウェブの情報のまとまりのことを「ウェブサイト」という。

だが、日本人はなぜかこれが理解できなかった。日本でウェブデザインに入った人たちはもともと広告業でチラシを作っていた人たちだった。そもそも日本の広告には全体のプロジェクト設計という概念はないようだ。広告はマスを使った広告かダイレクトマーケティングである。後者を代表するのがチラシである。

村落構造を考えるときに、日本人は環境の構造そのものに興味を抱かないと考察してきた。このため、マーケティングでもウェブでも全体構造に関心を持つ人はいない。今ある代わり映えのしない所与のものを小手先の目新しさで売るのが日本人にとってのマーケティングであり、そのためにチラシを作るのがウェブのおしごとなのである。

こうした環境で最終的に残るのは「インプレッション」という概念だ。チラシの要点はとにかく郵便物や電話を送りつけて反応を稼ぐことだ。古くから顧客接点(チラシ制作とコールセンター)は契約社員やフリーランスが支えている。炎上でもしない限り彼らの声が開発担当者にフィードバックされることはない。例えて言えば底引き網のようなもので、とにかく魚群を見つけてそこに網を入れるのがマーケターのおしごとである。

だが、ここで問題が起こる。マーケターは流行に敏感でセンスに定評のある人たちだ。だから「誰が作っても代わり映えのしない」ものでは満足ができなくなる。そこで彼女らは「私らしさ」を追求しようとし始める。しかし、全体設計には関われない(そもそもそんなものはないかもしれない)ので、それはどうしても細部へのこだわりになる。いわゆる「わたしらしいセンス」を実製作者に押し付けるのである。

要件定義がなく「発注者の私らしいこだわり」を満足させるために間際のないやり直しが繰り返される。欧米系はエージェンシーがクリエイティブブリーフを作りそれにサインをさせてから次に進むというやり方をとっているので欧米系のデザイン事務所はデザイナーも仕事の量をコントロールして休ませることができる。一方で、日本の代理店はこうしたブリーフを作らずに感覚的におしごとを始め、残業を強いて「私が納得行くまで」やり直しをさせる。だから日本の下請けデザイナーは休めない。

さらに「わたしらしい」こだわりは角があるので市場で受け入れられることはない。そこで私らしさは社会的に受けがよい無個性なものに変わってゆく。

すると代わり映えのしないどこかで見たようなものが量産されることになる。フックもないので効果も上がらない。効果測定しないから「どれくらいの時間をかけたらどれくらい価値があるものが生まれるか」というノウハウがたまらない。だから下請けの賃金は安く抑えられることになる。また、作らされる方もいつまでたってもノウハウはたまらない。意味がわからないまま「クリエーター」たちのわがままに付き合わされるからだ。ただし、締め切りがくるとリリースされるのでデザイナーはなんとかごまかしながら嵐が過ぎるのを待つしかない。実際に締め切りがくると次の嵐が車で風はおさまる。

しかし、こうした仕事をする彼女たち(顧客に近い感性を持っているというのが前提なのでたいていは女性なのだ)が優秀でないというわけでもない。ある程度の品質でポイントを抑えた文章やイラストが量産できるようになる。だんだん個性が削られて行き「意味がないということに気がつくことができず」に「どこにでもあるようなひっかかりのない」ものが作れるようになるのがプロなのである。

この点は男性の方が実は厄介だ。仕事にこだわりと面子を持ち込みたがる上に、時間をかけて働く俺に陶酔したりする。こういう広告代理店のクリエイティブディレクターに絡まれると大変である。もしかしたら徹夜で修正を頼まれ、それをのらりくらりかわしていると事務所に現れて「意思疎通が足りないから一緒に徹夜しよう」などと言われる。

日本の広告のプロはどこにでもあるありふれた作者不詳のものを最低限の労力で量産できる能力が求められる。今回の豊洲市場移転のインスタグラムにある文章はまるでPRの人が書いたようなソツのない文章だったのはそういう流れがあるからだろう。外注するのもお金がかかるから「刺身でも食べさせて安くPRさせて10%の管理料だけ取ろう」ということになったのかもしれない。結婚してノウハウはあるが企業を離れた素敵女子がインスタ世界にはたくさん生息しているのではないだろうか。

しかし、この環境はますますものを売りにくくしている。第一の問題はすでに述べたように顧客接点から情報が入ってこないということである。しかし、それだけではなさそうだ。

そつのなくひっかかりのない文章を書くようになって「東京のすてきなおしごと」を引退した彼女たちは、やがて結婚して「誰もが羨むそつのない暮らし」を手に入れる。それをフォローする人は「いつかは私もこんな素敵な暮らしを手に入れたい」と考えるようになる。素敵暮らしはこうして日本中に広まる。それはイオンモールのような無個性な「素敵さ」かもしれないが、その中身は多分我々が想像しているよりもずっと複雑なディテールの細分化が起こっているに違いない。嘘だと思うなら流行のパンケーキについて官女たちと論争してみればよい。単なる小麦粉と卵の組み合わせのはずのパンケーキについての会話にすら、きっとついて行けないはずだ。

彼女たちの背景にあるのは、全体構造に対する徹底的な無関心と過剰な細部へのこだわりである。こうした人たちが政治や環境に関心を持つとも思えないので、豊洲がガス工場の跡地に作られようとそれほど気にしないはずである。彼女たちが気にするのはそれが「素敵」かどうかなのだが、ではいったい何が素敵なのかに答えられる人はいないだろう。それは「彼女たちが理解可能」でなおかつ「みんなが素敵だと言っていること」である。誰かが決めているようで誰も決められない。ある意味日本の村落の究極的な形である。にもかかわらず何が「素敵」なのかみんなが知っているというような世界である。

もはやこうなると、東京のおじさんたちには理解ができない。だから彼女たちが買うものは作れない。景気が悪くなり「正解以外のものを追いかける余裕」もなくなった彼女たちは「無個性な私らしさ」を追求できるものにはお金は使うだろうが、それ以外のものはいくら「品質が良い」とか「便利だ」などと訴えても買ってくれないだろう。

だから、そもそも彼女たたちが魚市場に関心をもつとも思えない。動いていて頭のある「おさかな」は気持ちが悪いと思うのではないだろうか。彼女たちが考える「おさかな」はお皿に盛られたお刺身か、パックに入ったサケ・マグロ・イカ・貝などだろう。イカなど日本人には関係ないと思うかもしれないが、冷凍シーフードの一部としてインスタ映えのする洋風料理に使われている。

そうなると築地市場は汚らしいだけで、立派な外観の清潔そうな豊洲市場が、たとえそれがガス工場の跡地に作られていようが素敵に見えるのかもしれないと思った。現にイオンモールが素敵なショッピングモールに見えているのだから、それに似た外観の豊洲が立派に見えてもそれほど不思議ではないのではないだろうか。だが、彼女たちはおさかなにはさほど興味を持たないだろう。それはインスタ画面のほんの一部分を構成しているだけの脇役にすぎないからである。