福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

なぜ福田事務次官に女性記者をあてがってはいけないのか

お天気もよくなってきたので、Twitterをみながらファッションの記事でも書こうかと思って準備を進めてきた。こういう時はニュースもあまり見ないのだが、Twitterを眺めていると、福田事務次官が非難されるべきだとかテレビ朝日が悪いとかいうくだらない書き込みが散見される。江川紹子さんですらネトウヨのくだらない書き込みに反応していてちょっとくらい気持ちになった。

この人たちにははっきりと書かないと伝わらないんだなと思った。テレビ朝日が福田事務次官の性癖を知りながら女性記者を送っていたことには問題がある。だがそれは女性差別とはあまり関係がない。上司も女性だったという話もあるのだが、仮にそうだったとしたらこの上司も軽率だったし、上司が女性であるということも実はそれほど本質的ではない。

ではなぜ悪いのか。民主主義の根幹に関わる問題があるからだ。そしてそれがほとんど日本では理解されていないのである。

全く別の例をあげて説明したい。あなたは中小の企業に勤めている課長だ。企業のウェブを作成するのが主な仕事だが定期的な仕事も欲しいので大手広告代理店に営業マンを送っている。大手広告代理店には野心的でやり手の営業マンを送るのがよさそうだ。彼は昼夜を問わず熱心に仕事をして「代理店に大変かわいがられるように」なる。

これは喜ばしいことだろうか。

そのうち彼は「今度コンペがある。うちの体力には合わないがぜひ参加したい」と言い出す。さらに、今回は格安で仕事を受けてくれと言われたと言い出す。次にでかい仕事があるからその時に挽回できると約束してくれているなどともいう。あなたはマネージャーとしてこれを判断しなければならない。

だが、この人は十中八九大手広告代理店に取り込まれている。大きな会社に出入りして通行パスなどをもらうと「その会社の一員」になったような気がしてしまう。そこで所属企業にとって不利な提案などをするようになるのである。

もちろん「彼が取り込まれている」というのは疑惑でしかない。なぜならば、彼の提案はそれなりに理屈が通っているからだ。代理店の仕事は無くしたくないが担当を変えれば仕事がなくなるかもしれない。彼のパイプで取れている仕事も多いだろう。だが、広告代理店の言いなりになれば、リソースだけを浪費されることになるかもしれない。

彼が取り込まれているかを確かめるすべはない。彼はプライベートでも代理店と仲が良い。さらに代理店も騙すつもりでやっているわけではないかもしれない。代理店には代理店の事情がある。中で競争を抱えているので少しでも有利な条件で働いてくれるハウスを抱えておく必要があり、営業マンを「かわいがる」のである。彼らにも悪気はなく、今回だけのつもりかもしれないが、一度「美味しい思い」をしてしまえば次も頼りたくなる。そういうものなのだ。

ここで営業マンが男性か女性かというのは大した問題ではない。しかし、もし仮に女性を一人で担当としてつけていたとしたらどうだろうか。しかもその人は大変女癖が悪いということが知られている。多分「何か問題があった時」にはあなたは糾弾される。そしてあなたが男性か女性かということはそれほど問題にならないだろう。

これが問題なのはどうしてか。それは営業マンが代理人だからである。代理人とは、ある種の権限を与えて任せている人のことを指す。もし彼が企業の代表者であれば経営者としての「ソロバン」が働くだろうから、搾取されるだけになる仕事は受けないだろう。もし仮に癒着したとしてもそれはそれで仕方がない。会社が潰れても自己責任である。

同じことが国レベルでも言える。安倍首相はトランプ大統領と大変仲良くなってゴルフのラウンドを回る。トランプ大統領は「嫌なことを言わず」「忠実にゴルフに従ってくれる」し「ゴルフ場の宣伝にもなる」のでこの首相を大変気に入っているようだ。日本国民も「アメリカの大統領と近しい関係になれば優遇してもらえるかも」と期待している。だが安倍首相は利用されるだけなのでトランプ大統領は重要なことは安倍首相には相談しなくなるだろう。トランプ大統領はお金持ちなので彼のお金に群がってくる人をたくさん「いなして」いる。安倍首相はそのうちの一人に過ぎない。

もし安倍首相が日本の独裁者の家系に生まれたのならそれでも問題はない。体制に関わるようなディールには応じないだろうし、彼の国なのだからそれは彼が決められる問題である。だが彼は選挙で約束してその地位にあるに過ぎない。もし気分を良くして「自分はアメリカから日本の統治を任されているのだ」などと誤認したらどうだろう。ゴルフの間には政府高官も入らないので記録も残らない。だから、あとでチェックをすることもできない。

では日本人がこれを怖いと思わないのは何故なのだろうか。それは終身雇用のもとで「この人はずっとうちの人間だから裏切ることはないだろう」と思っているからだ。冒頭のウェブハウスの例が怖いのは新しい産業には転職があり、営業マンが相手の会社や別の会社にアカウントごと移ってしまう可能性があるからである。また代理店側にも有期雇用の社員がおり競争のために過度のダンピングを強要する場合がある。村落的な制御装置が働きにくいのだ。

これを定式化すると次のようになる。日本は村落から家業が生まれた。いったんは企業という契約・委託関係の集団を作ったがうまくゆかず、そのうちに擬似家族的に忠誠心を保証するような企業形態が生まれる。終身雇用は従業員からみた安全保障でもあるか、企業もまた従業員の忠誠を買っている。雇用関係が結べない場合には系列店を作って「公私ともに」世話をするようになった。こうした固定的な環境では村落的な慣行はそれほど害悪になることはない。しかし、近年では雇用が流動化してきており「契約」に基づいた権限の移譲が行われるようになってきた。

中高年を中心に「その会社の所属員は絶対に企業を裏切らないだろう」と思っている人は多い。なぜならば契約型の社会を知らないからだ。契約型社会では人は裏切る可能性がある。政治の世界でも同じようなことが起きている。安倍首相は日本人だから日本を裏切るはずはないと思っているのだが、それは自民党が政権を手放す可能性がなかったからだろう。現在では政権交代が起こり得る。これが裏切りの温床になるのだ。

それでも慣行を疑いの目で見ることは難しい。例えば安倍首相が金正恩と仲が良く一緒にスキーをする仲だったら何が起きているかを考えてみると良い。突然、安倍首相が「拉致問題は解決済みだ」と宣言し、北朝鮮と友好条約を結んで巨額のお詫び金を支払うことになったと発表したら国民は大反発するだろう。だが「個人の親密な関係をもとにした検証不可能な提案」という意味では、実は現在の日米関係とさほど変わりはない。違うのは文脈だけである。アメリカは良い国で北朝鮮は悪い国とされているのだが、誰がそれを保証してくれるというのだろうか。

さらにトランプ大統領が習近平主席と個人的に親密であり一対一で会合を重ねていたとしたらどうだろうか。多分トランプ大統領は中国との親密な関係が疑われて「アメリカに不利なことを約束しているのではないか」と思われるに違いない。日本も当然そう思うだろう。

さて、ここで改めてテレビ朝日の問題を見てみよう。女性記者が福田事務次官と緊密な関係を持ちスクープを連発してくるようになる。普段から性癖に問題があるとされている人だが明確な証拠はない。二つの疑惑が生まれる。一つは親密な関係を保つために福田事務次官が国の情報を売り渡しているというもので、もう一つはテレビ朝日の女性記者が世論誘導のためにリークを利用しているというものだ。おそらくは両方が疑われるだろう。

実際にこうしたことは起きている。NHKの岩田解説員は何かにつけ安倍政権擁護の極端な論を展開するという疑惑が持たれているが確証はない。ここで「時々親密に寿司を食べているらしい」という話が流れてくる。視聴者は岩田さんのいうことをどれくらい信用すべきだろうか。もしかしたら公平な人かもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは岩田さんは公平なつもりでも客観的に自分の立ち位置を見られなくなっている可能性もある。なんら保証はない。

もし仮にそれが田崎史郎さん(食事もしているしお金も渡っているのではないかという噂がある)の場合どうだろうか。田崎さんが菅官房長官と恋愛関係にあるとは思えないが、個人的な親密さが情報の信憑性を損ないかねないという意味では同じことが起きている。田崎さんに違和感がないのはテレビ局がそれをわかって代理人として使っているからなのだが果たしてそれは国民の知る権利にとってはいいことなのだろうか。

それでも「日本は昔からそうだった」という人もいるかもしれない。目を覚ませと言いたい。私たちは検証不可能な親密さが一年以上に渡って国会審議を空転させてきた状態を見ている。安倍首相は加計学園の理事長と旧知の関係だった。プロセス上は問題がなかったようだし、公式の記録からは安倍首相が直接的に関わったという証拠も出ていない。国会で追求しても確たる証拠は出てこないし、出てきたとしても最終的に追い詰めることはできない。でも多分何か不公正なことは行われているだろう。でなければ官僚が総出で嘘をついたり、あとから資料が<発見>されることなどありえない。

モリカケ問題も不透明な外交もセクハラ問題も全てつながっている。これは偶然でもでっち上げでもなく、私たちの民主主義が多分に固定的な関係に基づく村落的な面影を残しているからである。

プライベートな領域に踏み込んでしまうと後で検証ができなくなるので公私は分けなければならない。それは民主主義のプロセス全般に言える。つまり、テレビ朝日の件は「報道機関がプライベートで仲良くなって情報を取ろうとした」こと自体に問題がある。そしてそれが問題なのは権限を委託されている人どうしが第三者に対して検証不可能なことをやってはいけないからだ。

そして、それは終身雇用が崩壊しつつあるビジネス社会にも当てはまることであって、女性だからどうだといった類の話ではないのである。

福田事務次官問題で本当に大切な、そして一番難しいこと

福田事務次官のセクハラ問題を引き続き考えている。当初、この問題が新しいと思ったのはこれが村落性を越えた久々の政治議論だったである。民主党政権の失敗から政治に参画しても得られるものは少ないと考えた日本人は、自分たちが所属している村落に引きこもってしまった。これが安倍政権の安定を支えると同時に日本を停滞させてきた。変わらないことで結果的に世界的な潮流から落ちこぼれることになってしまった。年初から村落性についての議論をしてきたのはこのためだった。

政治を語るに当たってはイデオロギについて考えるのが一般的だが、日本では個人の意見が軽視されるのでイデオロギが政治に果たす役割はきわめて限定的である。さらにイデオロギは単に党派対立の道具としてしか見られていないようである。政権選択可能な二大政党制という現実的な仕組みが作れなかったことで日本人は、であれば自分たちの利得を増やすこと以外に関心を持つことをやめようと思ってしまったのではないかと思う。

しかしながら今回の問題は男性社会が女性を差別しているという女性であればだれでも経験したことがある実感と結びついたために大問題になった。これだけでは声を上げる人は少なかっただろうか、いくつかの背景があり問題が表面化した。

第一に安倍政権ではさまざまなごまかしが横行しており、安倍政権は隠蔽集団だという評価が定まっていた。個人的な付き合いから情報を引き出す記者もいたようだが、視点が面白いとか、独自の情報網を持っているという理由で情報交換ができた記者がいたということのようだ。女性は最初からこの土俵に上がることはできず二級市民か接待要員としてしか認められてこなかった。つまり、女性ジャーナリストへのセクハラは今に始まったことではないようだが、この時期に乗ったために大きな問題になったのだ。

次にMeToo運動がある。この運動はアメリカで始まったが日本では盛り上がらなかった。しかし相場観は作られてゆき「アメリカで認められているのに日本では認められないのは不当だ」というような意識ができてきた。よく考えてみればアメリカで認められようが日本独自の問題であろうが主張すべき権利は主張すべきなのだが、やはり日本人は西洋に追いつきたいという気持ちが強いようだ。逆に世界的なスタンダードですよといわれると逆らえないような雰囲気も生まれる。

さらに一度声をあげてみると男性社会からの大きな反発に遭遇した。今までは声を出さなかったので、男性がこれほどまで醜悪に既得権にしがみついているとは思わなかった人も多いかもしれない。麻生財務大臣の身勝手な言い分を聞いていると追求したい気持ちが強く湧き上がってくる。

このような特殊な事情があり運動が表面化した。逆にこうした盛り上がりがなければ「女性が自分の権利を主張する」ことができなかったということを意味している。

不当に扱われたくないという気持ちがイデオロギを越えて広がったのは良いことである。だが、この運動は収束してしまうのではないかと思う。それは、この運動の起源が外来のMeToo運動に根ざしており時流に乗っただけのものだからだ。

ではなぜそれがまずいのか。単に時流に乗ったのが軽薄だったからなのだろうか。この問題がどこに向かうかによって何がまずいのかは違ってくる。すでにジャーナリストの江川紹子さんが次のように言っている。江川さんのいうように政治家へのパフォーマンスに消費されて終わりになるかもしれない。だが、それでも構わないのなら時流に乗っただけでも構わなう。

ではなぜ利用されて終わりになる可能性があるのだろうか。それは権利の主張がビジョンを伴わないからである。男性並みになりたいといってもいくつかのアプローチがある。

旧来のフェミニストは男性社会そのものが崩壊すべきだという主張を展開してきた。これまでのジェンダーの専門家が女性の支持を得られなかったのは、女性の参画ではなく男性社会の破壊を目指す強硬な姿勢があったからではないかと思われる。フェミニストというと「男勝り」の女性というイメージがある。かつて論壇で活躍していた田島陽子さんのような存在だ。確かに派手な言動は見ていて気持ちがよいが「ああはなりたくない」と思っていた人も多いかもしれない。だが、どんなに過激に聞こえる主張でも、なぜ支持されなかったのかを含めて一応は検討する必要があるだろう。

次のアプローチはバリバリと働けるようになるというものである。しかしそのためにはワークライフバランスを無視した「男性的な」働き方が求められる。母親になっても0歳から子供を預けて働くというやり方である。それは当然母親という<一級下の>作業を誰か別の女性に押し付けるということを意味している。これは名誉男性コースなのだが、そレも含めて検討してみるべきだろう。

最後のアプローチは、男性社会が女性に合わせてスローダウンするというやり方だ。ではそれはどういう意味なのだろうか。卑近な例で言うとお弁当がある。北欧の国のお弁当はとてもシンプルで日本人から見るとこれはとても受け入れられそうにない。例えばノルウェーの弁当はマートパッケと呼ばれるそうだ。ノルウェーの弁当が質素なのは働くお母さんが料理に時間をかけられないからだろう。中華圏でも母親が料理をしないので屋台などで軽く済ませるのが当たり前だとされている。だが、このやり方はむしろ女性の方が戸惑いを覚えるかもしれない。

もちろん、女性が男性に対して女性も男性並みに扱えと主張することは問題はないし、男性側が職業慣行を変えるのは良いことだ。今回の例では分かったのは男性が作った職業慣行は個人的な関係を前提にしており、このことが却って国民の権利を侵害しているということだった。だがそれを明確にするためにはある程度の理論化が必要であり、当事者間で合意する必要がある。

時流に乗った動きがまずいのはこの合意形成ができないからである。

しかしながらこの運動が全く無意味なものになるとも思えない。日本は民主主義先進国の割には女性の地位が低い。そのことは政治的な潜在需要が極めて大きいということである。すでに野党はこれを期に支持率を上げようと考えているようだし、自民党では野田総務大臣がこれに気がついたようだ。

放送を主管する大臣が直接記者にヒアリングするというのは放送の中立性という観点からは有ってはならないことだのだが、日本人はそのような「チマチマしたこと」には関心を寄せないだろう。時代遅れの印象が突いてしまった麻生大臣はテレビ朝日に話を聞くといっているがこれは恫喝に受け止められかねない。そこでニューリーダーである野田総務大臣が女性ジャーナリストの守護者としてリーダー的地位を得れば総裁選に有利に働くのは間違いがない。

つまり男性政治家が放置してきたことで潜在的な需要ができつつあるということになる。政治は意外とそんなことで動くのかもしれない。

女性記者が福田事務次官を告発したことの本当の意味、とは何か

福田事務次官が辞任したが、まだこの問題は収まっていないらしく「テレビ朝日けしからん」というような話になりつつある。ネトウヨの人たちが朝日を嫌っているのはわかっているのでまあいいとして、リベラルの人たちも好意的な見方はしていないようだ。

昨日のエントリーではテレビ朝日けしからんというような書き方をしたのに態度を変えるのかといわれそうなのだが、みんなが朝日系列叩きを始めると、価値判断なしにこの女性記者の是非を考えたくなった。へそ曲がりと言われればそれだけなのだが、価値判断なしに何かを考えるのは実は難しい。

しばらく考えていたのだがよくわからない。そもそも、なぜわからないのだろうかと考えた。普通の企業であれば記者の稼働時間というのはコストなので情報を得るコストと価値を天秤にかければよい。だがそれができない。理由はいくつかある。

第一の理由はどこのテレビ局も同じような情報を流しており情報に価値がないからだ。極論すると政府広報と民放一局で良いのではないかと思える。あとは週刊誌が二誌あれば良い。競争が働くのでそれなりのスクープ合戦が起こるだろう。

また人件費の問題に落とし込むのも難しそうだ。日本の記者というのはオフィシャルの情報をとってくるだけではダメで私生活に食い込んで「本音の話を聞く」のが良いとされているらしい。このブログでは普段から非公式な意思決定ルートが民主主義にとって害悪であるという論を採用しているので、まあこの線でアプローチしてみても良いのかなと思った。だが、実際には「みんながやっている」ことを一社だけ降りるのは難しそうだ。

福田財務事務次官というのは、女性記者が私生活を切り売りして情報をとる価値がある相手なのかと考えた。仲良くなって取れる情報というのは「いずれは公になる情報を他社より少し早く知ることができる」か「財務省が流したい情報をオフレコと称して流す」という二つが考えられる。もしこれが株価に関係するような内容であればいち早く情報を取ってくるのは重要だろうが、そんな情報を軽々しく流すとは思えないので、結局は情報機関の自己満足か財務省のために使われるということになる。だからこの一連の取材活動は無駄だと言える。

だが、そもそも記者が私生活を切り売りしていることが報道社のコストであるなどという論調はどこにもない。これはなぜかと考えてみた。第一に記者たちが仕事時間と私生活を切り離していないという事情があるだろう。つまり「私生活に切り込んでなんぼ」と記者を<洗脳>することで報道社はブラックな職場環境を作っていることになる。ブラックでも記者というのは特権的でやりがいがある仕事とされているので「女性だから使えない」とは思われたくないのだろう。

ではなぜ報道社の記者というのは特別なのだろうか。それは報道社が特別だからだ。ではなぜ報道社は特権的な地位が得られるのか。それは記者クラブがあるからである。女性記者はフリーになるかネットメディアの記者になるという選択肢があったはずだが、いずれも記者クラブから排除されるので取材活動そのものができなくなる可能性が高い。皮肉なことに今回のテレビ朝日の深夜会見でもネットメディアは排除されていたらしい。

記者クラブが特権的な地位を得ることで、労働者である記者は隷属的な地位に置かれるのだが、それ以上の問題がある。国民は新しい視点からの情報を得ることはできないのだ。すると、財務省は「特権的な地位」の許認可権限を握っていることになる。これが報道社から便宜供与を受ける理由になる。

それなりにメディア倫理が働いていると指摘する人もいるのだろうが、普段から行状に問題がある人のセクハラすら告発できない会社が、財務省に都合が悪い情報を流せるはずはない。当然、女性記者の上司のように何かの理由をつけて自粛するはずだ。そしてそれは国民の知る権利を阻害しているということになる。

結局「記者クラブが悪い」ということになった。期せずしてわかったのはこれが単に女性や労働者の人権問題であるだけでなく、国民の知る権利に関わっているということだ。福田事務次官の「名乗り出ることもできないだろう」という強気の裏には「国民の知る権利などというのは高級官僚の胸先三寸で決まるのだ」という確証があったのではないかと思う。「報道各社も独占的に情報を得ることでおいしい思いをしてきたでしょ」ということだ。

そう考えるとこの女性記者が発したメッセージの意味は実は我々が考えているよりもっと重いものなのかもしれない。女性記者が守られるためには「テレビ朝日の配慮を」というような声があるのだが、多分テレビ朝日はあてにならない。当座は女性ジャーナリストが連携して彼女を守る必要があるのだろうが、実はフリーの記者を含めた人たちが連携して彼女を守らなければならないのではないかと思える。これは独占的に情報を占有している報道者と官僚機構の共犯意識から生まれたハラスメントだからだ。

福田事務次官辞任騒ぎにみる女性差別の恐ろしさ

先日財務省の福田事務次官について書いた。だが、ネットを見ているとそれでも名乗りでなければならないというような論調がある。例えばこの記事は「名のり出なければ福田事務次官の不戦勝になる」と言っている。真実を明らかにするためには名のり出なければならないと言っているのだが、実際にはそうはならなかった。

この記事の前提には「真実は明らかにならなければならない」という前提がある。これが間違っていると思いその筋で一本書こうと思っていた。現在の民主主義にとって「真実」などどうでもいいことだからだ。安倍政権は明らかにクロなのだが、それを認めないことで「まあ、仕方がないか」というような印象操作をしてきた。この背景には有権者の諦めがある。政権交代をしても政治は良くならなかった。だったらもう諦めてしまえという思いが強いのではないかと思う。だが、それは諸刃の刃だった。有権者が体感からこれは「クロだな」と思ってしまうと合理的な説明はきかなくなる。福田さんの件はこの最初の事例になった。政権が動かない分個人に矛先が向かうのである。「やめさせてどうなるの」と思うのだが、そんなことはもうどうでも良いと思われてしまうのだ。

女性は普段からなんとなく「自分たちは不遇な立場に置かれている」という気持ちを持っている。だが、それはなんらかの理由で証明されない。これを「ガラスの天井」などと言っている。今回はそれがたまたま「明らかに嘘つきの政権」と結びついたことで「ああ、やっぱり男社会は女を差別して嘘をついているのだ」という確証に変わってしまった。福田事務次官が何をやったかというよりも、男性社会がそれを総出でかばっているということが問題視されるのである。

もう一つ安倍政権にとって不利な状況がある。官邸側は福田事務次官の辞任に動いたのだが、安倍首相の部下であるはずの麻生財務大臣が応じなかったという。任命は内閣人事局マターのはずなのだが、これまで人事に関する問題は各省庁に答弁を丸投げしていた。これを逆手にとられて「やめさせられない」と言われてしまうと官邸は何もできなくなってしまうということがわかった。もう安倍首相にかつての求心力はない。

ただ、この問題は実はここまででは終わらなさそうだ。テレビ朝日に飛び火したのだ。テレビ朝日の女性記者が会社に訴えたものの受け入れられず、やむなく週刊誌に流したという。さらに何もしなかったことに申しひらきができないと思ったのかあとになって会社側は「財務省に抗議する」と言っている。だが、それは福田事務次官がやめてしまったあとだった。テレビ朝日の動きが辞任につながったという批判を恐れたのだろう。

このことから女性の置かれているダブルバインドが可視化された。表向きは平等ということになっているが、実際のメッセージは男性並みになることを求められる。それは女性であることを捨てて男性性を帯びるということである。男性並みに家庭を顧みずに働くことを求められ、女性を蔑視して「言葉遊びを楽しむ」特権を許容するように振る舞わなければならない。さらに母性は弱さだと認識されると子供を作ることを諦めなければならない。しかし、場合によっては女性として男性の玩具になることも求められ、それを会社に訴えても「我慢しろ」と言われる。会社にとって「女性のような弱いもの」が政治記者というスーパーサラリーマンであることは許容されないからだ。明らかに根拠のないエリート意識を持っていて女性蔑視を特権だと認識する社会が間違っているのだが、それを是認しろと迫られるのである。この状態でアイデンティティクライシスに陥らない人がいるとしたら、その人は多分すでに少しおかしくなっているはずだ。

どうやら女性記者は複数回福田次官からセクハラを受けていたようだ。しかしテレビ朝日はそれを公表せず、事態が動いたことから慌てて深夜に記者会見を行った。上司に相談したというが上司が組織的に対応したのかは明らかにしていない。多分受け皿そのものがないのではない上に、男女平等が何を意味するのかを教育する仕組みもなかったのではないだろうか。

福田さんは週刊誌と女性を訴えれば良いと思う。彼の行状が司法の場で明らかになり、テレビ朝日が組織的な対応をしなかったことは社会的に明らかにされるべきだろう。そしてそれは社会的に非難されるべきだ。しかし、実際にやるべきことは少なくとも表向きではあったとしても「男女平等」というものが「女性の男性化」でも「男と一緒になって女性蔑視のある状況で働くこと」でもないということを教える学習の機会を従業員に与えることである。

民法労連は「女性が現場から切り離されることがあってはならない」と恐れているようだが、このような嫌がらせを前提にしか情報が取れないなら、その報道自体をやめるべきではないかと思う。取れたとしてもせいぜいインサイダー情報程度で大勢には影響のない永田町と霞ヶ関の内部事情にすぎないからである。いずれにしてもこの声明も「女性が社会で働くこと」についてあまり整理がなされていないことを意味しているように思える。

いずれにせよテレビ朝日はこの状況を被害者ではなく加害者として総括すべきだろう。

福田財務事務次官更迭騒ぎ – ポリティル・コレクトネスの世界にようこそ

財務省の福田事務次官がセクハラ騒ぎで炎上している。Webに公開されたものはどうやら本人のものであることはまちがいがないらしく、3つのテープをつぎはぎしたものが出回っているようだ。週刊誌が捏造したという話もあるのだが、むしろいろいろなところで同じようなことをやっているということなのだろう。

この事件はもちろん安倍政権の末期症状の一つとしても捉えられるのだが、日本がポリティカリーコレクトな社会に入ったことを物語る最初のケースになるのではないかと考えられる。

これまで職業に入った女性は男性社会に合わせて行動するのが「正しい」と考えられてきた。名誉ある男性社会の一員として「受け入れてあげる」代わりに母親であることを諦めたり性的な嫌がらせに耐えるという嫌な経験を引き受けるということだ。だが、これからは知的な職業であればあるほど「人権に配慮した人が正しい」と考えられるようになるだろう。逆に男性は「これくらいいいじゃないか」と思ったとしてもそれを絶対に口にだすことはできない。男性は常に政治的に正しくなければならない。

もしかしたら被害者は一人ではないかもしれない。会話の様子から会話は最近のものらしいのだが、もし一人にしかやっていないなら直近の行動を調べれば該当記者が分かるはずである。「該当者は名乗り出るように」といっているところをみると「誰に言ったのか」がわからないということで、これはすなわち方々で同じことをやっているのだろうということになる。

これは政界だけの問題ではない。報道各社も彼の人格が分かっていて女性を担当者として当てていた可能性が高い。複数だとしたら複数の会社が同じことをやっているということだ。そして「情報を取る」ことを優先にして女性記者の人権をないがしろにしていた可能性が高い。「役立たずの女なんだからせいぜい女を武器にして会社に貢献してよ」というわけだ。

これについて、福田事務次官は辞任するべきだという声があり、出所の分からないテープで辞めさせられたら悪い前例になる可能性があるという声もある。確かに個人の能力と人格は別なのだがこれは辞めざるを得ないのではと思える。仮にこれが政権を貶めるための週刊誌のワナだったと仮定して「ではどうしたらよかったのか」と考えてみたのだが「どうしようもないだろうな」と思った。それは男性社会がセクハラ親父に甘いという社会通念があるからだ。その証拠に麻生大臣は「ほらやっぱり」と思われている。

さらに「詩織さん」の件がある。彼女はレイプされたという疑惑があるのだがテレビ局の立場を利用したとされるジャーナリストは立件されず、それどころか「女を武器に仕事を取ろうとしたのだろう」などとセカンドレイプされた。確かなことはいえないが政権が擁護したのではないかという疑惑がささやかれている。もしあのときに厳正に対応していれば今回ももう少し違う展開が考えられたかもしれない。

さらに、だれもが財務省は明らかに嘘をついていると思っている。今回の件も本当に何があったのかは良く分からないが、肌感覚に合致してしまった。福田さんが何をやったのかではなく、その後の男性社会の対応のほうが反発を買っている。男はトクだと「誰もが知っている」のだ。

こうした肌感覚はどこから来るのだろう。

先日駅で女性が男性にしつこく声をかけられているのを見た。お金儲けしたくないですかと言われていたが、さらにナンパも兼ねているようでしつこくLINEのアドレスを聞かれていた。彼女には何の落ち度もない。たんに女性であるというだけである。

さらにTwitterで聞いた話では女性だとエスカレータの真ん中に立っているだけで男性がぶつかってくることがあるのだという。こういう経験をしたことがある男性はいないと思うのだが、女性であるというだけでぞんざいな扱いを受けたりすることがあるらしい。

男性は気がつかないが、女性は常にこのような脅威にさらされている。そして何かあったとしても訴えることができる場所はそれほど多くなく、それどころか「自己責任論」で片付けられてしまう。こうした一つひとつのできごとが積み重なって「ほらやっぱり」という感覚になるのではないだろうか。

常識に根ざした感覚は単なる思い込みかもしれない。だが、週刊新潮側は取り立ててこれを照明する必要はない。ああやっぱりなという普段の感覚に接木されて全体が「常識」で判断される。そしてそれが森友・加計問題のようなもやもやした事件の印象と合体して「分かりやすい」印象が生じてしまうのだ。

こうなるとだれにも状況はコントロールできない。ここで「やはり冷静に人格と仕事とを分けてみては」とか「今、事務次官に辞められると政権に打撃が」などといえば、かばっているとみなされてお前はセクハラ男の味方をするのかと責められる事になるだろう。

こうしたことはアメリカでは珍しくない。日本人男性であるというだけで沖縄や女性を蔑視していると取られることはよくあることだ。日本人男性であるというステータスは変えられないのでこれも一種の差別なのだが、日本人男性はことさら女性の人権には敏感であるという態度を取ることを求められる。これがポリティカルコレクトネスの世界である。

一方で日本人は差別の対象でもあるので、白人に向かって「あなたの不愉快な態度はアジア人差別ですか」などと言ってもいけない。これは逆に白人男性であるというだけで彼らが有色人種差別者であるというレッテルを貼ることができてしまうとても重い言葉なのだ。白人男性にとってこれは社会的な死を意味する。

このためアメリカでは肌の色が見えていても「見えないフリ」をして、政治的に正しい発言をしなければならない。カリフォルニアのような先進地域だと移民に対しても差別的なことは表立っては言えない。

これまで漠然とした不満だったものが、やっぱり男性社会はいざとなったら女性を不利に扱うのだという具体的な見込みとなり、漠然とした政府の不信感につながる。もちろんそこに合理性はないのだが、いったんできてしまった連想はなくならない。

事務次官の件を放置すれば騒ぎは拡大するだろう。これを解明するためには与野党の女性議員による調査委員会などを作ってセクハラ官僚をすべてパージするくらいのことをやらなければならなくなるはずだ。大げさと思う人もいるかもしれないが「黒人差別」を疑われたスターバックスはアメリカで店舗を休業して研修会を開いている。

財務省側は裁判をするなどといっているようだが、裁判の恐ろしさを舐めている。裁判になると「被害者の会ができるんじゃないか」とされている財務事務次官の普段の言動が暴かれる上に、報道各社が「女性を武器にしてコメントくらいとってこれないのか」などとほのめかしている事実が明るみに出るかもしれない。そもそも報道各社が毅然とした態度を取っていれば女性記者(あるいは記者たち)が週刊誌を頼る必要はなかったはずである。福田さんの強気の裏には「奴らは情報が欲しいのだから訴えてこないし表ざたにもしないだろう」という安心感があったのだろう。こうなるともう政治だけの問題ではなくなる。

財務省は「裁判するぞ」と脅せば記者たちの雇用主が黙っていないと思っているようだが、実は雇用主の側も下手に財務省に加勢すると社会的に制裁される可能性があるという点が見落とされている。

その意味ではこの福田事務次官の問題は単に個人のセクハラ発言という問題ではなくなりつつある。日本が本格的にポリティカルコレクトの世界に突入した契機としてとらえられるべきである。

残念ながら原因はこれまでこの種の問題を放置してきた男性社会の側にある。差別意識がなくせないのであれば、日本人男性は本格的に建前を脱ぎ捨てられない社会を生きることになるだろう。