日本には自由競争は無理なのか

このところ自由競争を巡る問題が世間を騒がせている。バスの規制緩和で事故が起きたという人もいるし、スーパーが価格競争をした結果、廃棄ゴミがおつとめ品として食卓に上るようになった。

電気も自由化されたが、複数の電気事業者が品質競合するという状況にならなかった。今の所、自社製品の販促品として電気を使う業者が多い。市場そのものが縮小しつつあり食い合いになっているのだろう。

いろいろ考えたのだが、大河ドラマ「真田丸」を見た事もあり、閉じられた社会の自由競争って戦国時代に似ているなあと思った。ドラマを見る限りでは、山梨から群馬に近い長野を旅するだけでもかなり危険だったようだ。安全が保証されない世界では通商もままならいのではないかと思ったのだ。

そもそもなぜ戦国時代に武将たちは争っていたのだろうか。寄り集まって経済成長を目指した方が合理的なのではないだろうか。閉じられた世界の競争は食い合いになるはずだ。そのうち生産力が落ちて国土は疲弊するのではないか。ヨーロッパのように長い戦争と疫病で人口が減ってしまった世界もある。戦国時代も当然そうなっていたに違いない。

日本の戦国時代は応仁の乱で始まるそうだ。表面的には室町幕府の跡目争いだが、なぜ長引いたかという点についてはこれといった通説がないようだ。小氷期による経済不振が背景にあるという人もいれば、未成熟な貨幣経済が招いた悲劇だと言う人もいる。また、貨幣経済が勃興し荘園経済が崩壊したのだと考える人もいるようだ。跡目争いは京都を壊滅させて11年続いた。室町幕府は権威を失い、その後豊臣秀吉が天下を統一するまで100年以上も争いが続いた。

ところが。争乱は国土を荒廃させなかった。それどころか人口が増えて行ったらしい。いくつか原因がある。一連の戦争が武家同士の覇権争いであり、農民にはあまり関係がなかった。次に諸国が競争のために域内の産業を保護した。そして統制が緩む事で往来が促進され、各地で「市」が作られることになった。

もちろん戦争はコストなのだが、コストよりもベネフィットの方が多かったのである。

この成長の余波は江戸時代の最初の100年程度は持続したようだ。人口の増加は1700年頃まで続いた。その後の百数十年は停滞経済に陥り、飢饉などで人口が抑制されることもあったようだ。

荘園の歴史は、政府が農地を増やすために開墾を奨励したことに始まる。もともとは私有財産を認めることで経済を活性化する取り組みだったが、やがて囲い込みが始まった。国に税金を取られるよりもマシと考えて荘園に土地を寄贈する地主も多かった。税金が地元に還元されることもなかったのだろう。しかし、税金を取れなくなった中央政府が衰えて治安が不安定化した。そこで戦国期になると武将による簒奪が始まり、最終的に豊臣秀吉が太閤検地を実施して荘園制度を崩壊させるまで混乱は収まらなかった。

歴史を概観した上で「自由競争」を眺めるといろいろなことが分かる。

経済成長を是とした場合、あるべき自由競争とは、経営者(この場合は戦国武将である)がお互いに争う競争だということだ。一方で、経営者が淘汰されない経済は荘園に例えられる。荘園では競争が起こらないばかりか、農民への搾取が起こるだろう。荘園の内部で競争させられても、それは奴隷が争っているだけで自由競争とは言えない。もしくは荘園の外の荒れ地で小さな業者たちが争っていても自由競争にはならない。それは単なる食い合いに終始するだろう。

安定した経済は停滞を生み出す。荘園経済は停滞経済だし、江戸時代の後期も停滞した。安倍自民党の政策は「荘園の安定」を目指したものだ。荘園民もいくさになるよりはよいと考えている。しかし、実際にはこの選択は合理的とは言えない。荘園民は搾取されるだけだからだ。安倍政権は「荘園主にお金を渡す。荘園主が豊かになれば、荘園全体が繁栄するはずだ」と言っている。だが、荘園主には領民を豊かにするインセンティブはない。

ところが荘園民はまた騙されることになる。放り出された荒れ地でのサバイバル競争を見せられて「あれが自由競争だよ」と言われるのだ。搾取された方が、生き残り競争に巻き込まれるよりもマシな選択だと考えるようになる。

蛇足だが、よくドラマで「親方様は民の幸せのためにいくさのない世を作ろうとしておられるのじゃ」と言っているのを聞くが、あれは嘘なのだなということが分かる。多くの日本人にとって戦争とは第二次世界大戦だと思うのだが、あれは民を巻き込んだ総力戦だった。しかし、戦国武将が民と国土を消耗させてしまえば、自分たちが滅んでしまうのは自明だ。だから、そんなむちゃくちゃな戦争はしなかっただろう。適当にいくさが起こる事で地域間競争が起きていた可能性がある。加えて、第二次世界大戦は日本史上例外的な狂った戦争だったということも言えるだろう。

経営者が殺し合うと言っても命を取られてしまう訳ではない。命を取られない戦争として制度化されたのが現代の資本主義なのだと考えられる。

バス事故が増えたのは小泉構造改革のせいなのか

Twitterで「バスの事故が増えたのは小泉構造改革のせいだ」という指摘が流れてきた。グラフが添えられており、それを見ると確かにそのような印象を受ける。「日本では自由化は無理」くらいの文章を書こうと思って調べてみたのだが、どうもそんなに単純な話でもないらしい。構造改革のせいというより、高齢化が招いた事態なのではないかと思う。

元ネタになっているのは国土交通省のデータらしい。原典を当たりたい方はコチラから。

bus001添付されている図を見ると免許制が許可制に変わった平成16年頃から事故が急激に増えている。ところが下に小さなキャプションがある。事故報告の規則が変わったからなのだそうだ。

確かに貸し切りバス(車両事故除く)のところを見ると変化があるので、構造改革による影響もありそうだ。しかし、それほど劇的に多いというわけではない。改革されてからは横ばいなので、構造改革の時に騒ぎになっていてもよさそうだ。

また、レポートを読んでも「死傷者が急激に増えた」という事実はない。

 

bus002一方で、心配なデータもある。運転者の健康状態に起因する事故は増えているのである。規制緩和が起こった平成16年頃からのグラフでも一貫して増え続けている。

レポートも原因に心当たりがあるようだ。わざわざ年齢別のグラフが添えてある。高齢者の事故が多い。特にハイヤーやタクシーが目立つ。65歳以上という人もいる。タクシー業界がどのような構造になっているのかは分からないが、長年働いても食べて行けるほどの年金が貰えない可能性がある。また、年金が十分に貰えない人がドライバーに転職しているのかもしれない。

bus003このグラフを見ると「高齢ドライバーを制限するべき」という結論を出したくなるが、規制すると食べて行けなくなる高齢者の数は格段に増えるだろう。

中高年の男性が就ける職業は意外と少ない。ファーストフード店・コンビニ・スーパーなどでパートで人気を集めるのは使いやすい女性労働者だ。日本の職業環境にはテンプレートのようなものがあって、そこからはみ出してしまうと生活の保証がないのだ。しかし、これは政府の政策や規制がいけないというわけではない。

かといって年金の支給額を2倍にするなどということはできそうにない。残る手段は生活保護である。労働市場の失敗や外部化(従業員を生涯面倒を見るのをやめて負担を国に委託する)の面倒をすべて政府が見るのがよいのかというのは議論の別れるところだろう。

そのうち「健康で文化的な最低限度の生活」という規定を憲法から外すようにという誓願が国民からでる日がくるのかもしれない。

この問題の背景には高齢化がありそうだが、解決策を考えるのはなかなか大変だ。そこで「小泉構造改革が悪い」と言いたくなるのだろう。しかし、免許制に戻したとしても事故は減らないのではないかと思う。

電力自由化をめぐる窓口の混乱

電力が自由化される!ということでテレビが特集を組み、コマーシャルも流れるようになった。早速情報集めしようと思うのだが、これがなかなかうまく行かない。現場はかなり混乱しているのではないかと思う。さまざまなサービスが連携しているのだが、お互いに情報が共有されていないのだ。いわゆる「縦割り」がいたるところで起こっている。

また、今回は電力小売が自由になるだけだ。電線は地域電力会社(関東だと東京電力)のものを使う。電気に色はないので、小売段階で「原発の電気だけ取り除きたい」といってもできない仕組みになっている。だから、電力会社を切り替えても、一部の左派が主張するように、原発がなくなるということはなさそうだ。「電源構成を示せ」という人もいるが、すべて同じになってしまう。せいぜい「再生可能エネルギー発電を応援しています」という会社が現れるだけだろう。エネオスでんきは「JXエネルギーの発電所などで作られ、一般送配電事業者の送配電網を使って送られます。発電所の概要は「ENEOSでんき」スペシャルサイトでご確認いただけます。」と唄っているが「など」となっているところを見ると、地域会社と電力の融通をする余地が残っているのではないかと思う。疑う方がいらっしゃると思うので、ぜひご自分で問い合わせをしてみていただきたい。

東京ガスは「電気とガスを一緒にすると値段が安くなる」と言っている。パンフレットには4000~5000円(年間)安くなると書いてあるのだが、実際に試算すると2500円程度になることも多いそうだ。過大広告の一種だが「これくらい書かないとインパクトがない」という判断なのだろう。話がややこしいのは、ここにインターネットのサービスが付くことである。標準で15000円程度安くなるということが書いてあるのだが、ガス会社(しかもメンテナンス系の子会社だ)ではネットのことはよくわからないのだろう。「勉強中です」などというばかりである。ネットの値引きにはさまざまな縛りがあり、話が格段に複雑になる。2年縛りなどは通信会社さんの事情なので、そちらでやり取りしてくださいとのことだった。

情報を求めてネットの会社に問い合わせをしてみる。窓口には何も下りてきていないそうだ。今でもプロバイダーと回線提供会社が分かれていて、それぞれに営業をしている。どの営業窓口を使うかで、支払い方法・額・端末構成などが変わる。今度はそこにエネルギー会社が加わるのだ。東京電力と提携するというプレスリリースが出ている会社もあるが「詳細は窓口に下りてきていません」の一点張りである。その上、キャンペーンの内容が毎月変わり「来月のことはご案内できない」という。

ソフトバンクに電話をしたところ「電気のことはよくわかりません」といわれた。ソフトバンク的には電気は「東京電力さんの管轄」なのだ。現時点ではいくら値引きできるかも案内できないという。

現場は情報のないままで顧客対応している窓口は、どこも「東京電力から情報が降りてこないし、いつになるかわからない」と言っていた。自由化を決めてあわてて業務提携したものの、細かいことがつめ切れていないのかもしれない。もともと官僚的な会社なので意思決定も遅そうだ。

CMで堺雅人が「ノープラン」であると笑われていたが、本当にノープランなのだ。

電力の自由化が起こると、さまざまな業種が組み合わされて「今まで見たこともなかったサービスが生まれる」はずだった。しかし、考えてみれば終身雇用前提の日本社会が一番苦手としているのが、異業種交流だ。今後さまざまな請求書が統合されるが、内部ではたらいまわしが起こるのではないかと思う。消費者一人ひとりがどこから何を買っているのか、誰が責任を持つのかがよくわからなくなる世界だ。問題が起こらない限りは表ざたにはならないだろうが、ひとたび問題が起こると解決するのは面倒になりそうだ。

成長しない市場で、減ってゆく顧客を奪い合うというような図式になっている。しかし、情報のサイロ化が起きていてそれを「人手でなんとかする」という状況のようだ。お互いが食い合う状態では携帯電話会社が起こしたような価格情報汚染とオプションの押し売りが横行しそうだ。さまざまな手段を使って価格情報を撹乱したほうが供給元には有利だからだ。

我々はこれからも産廃ゴミを食べさせられることになるだろう

ココイチから流出した産業廃棄物が一枚80円で売られていた。マスコミは企業倫理の問題だとしているが、企業倫理頼みではこの問題は解決しないだろう。流通経路を合理化しない限り、我々はこれからも産業廃棄ゴミを「おつとめ品」として買わされつづけるはずだ。

問題の背景には消費者の嗜好と長年の商習慣を背景に成立した複雑な流通経路があるようだ。普通に考えると流通経路を合理化した方がよさそうに思えるが、単純化は未だに成功していない。

複雑な流通経路には情報隠蔽効果がある。隠蔽される情報は品質と価格の関係だ。メーカーは、シェアを確保したい新製品に有利なリベートを付けたりして傘下の卸を支配している。小売り店も安く仕入れた商品を高目に売り、目玉商品の値引きに流用したりする。こうして多階層で様々な調整が行われている。

情報撹乱が起こるために「お客のニーズに合わせた分だけ生産する」ということができない。そもそも、卸が多階層化しているために、小売店からメーカーへ情報をフィードバックするパイプもない。欠品が起こると売りの機会損出につながるので、小売店は多めに仕入れて多めに廃棄している。食品の廃棄率は50%にも昇るそうだ。誰もが無駄だと思っているが、誰も改善できない。

ただ、これだけでは「産廃ゴミ」が「お値引き品」になることはなかっただろう。

日本の流通経路は複雑だが、それでも長い間に少しずつ合理化が進んでいる。すると困るのは末端にいる卸業者(第三次と呼ばれる)だろう。実体は分からないものの、彼らはスーパーから競争を強いられている可能性がある。スーパーの担当者は常に「おつとめ品」を探しているからだ。

しかし、末端の卸業者は企業努力ができない。いくらがんばっても製造工程を合理化して安い製品を提供するということはできないし、規模が小さすぎて、IT導入で効率のよい企業運営をすることもできないからだ。

困窮した卸業者には、不正の温床がある。そもそも価格と品質の関係がよく分からなくなっている上に多階層化された流通経路を把握することができる人は誰もいない。そして、まだ食べられるのに捨てられる食品が市場にあふれ返っているのである。

教科書的には卸は一次・二次・三次と階層化されていることになっている。しかし、今回の件を見る限り、末端から末端への受け渡しが行われている可能性がある。つまり、階層関係が崩れているのではないかと思われる。生き残りを賭けた業者がお互いに「競争しつつ助け合っている」図式だ。これを「企業倫理」と「個々の企業努力」で乗り越えることができるだろうか。それは難しいと考えるべきなのではないかと思う。

さて、この問題で思い起こされるのは繊維産業の衰退だ。繊維産業は国策で作られたのだが、零細企業主体のため全体最適化が起こらず、バリューチェーンの中間が海外に流出して弱体化した。唯一成功したのが、バリューチェーンを統合したユニクロだった。

食品流通の現場でもこうした弱体化が起こっているのではないかと考えられる。そこから抜け出す為には、末端の流通業者が競争するのではなく、協業した上で、共通のプラットフォームを作る必要がある。

流通が合理化されない限り、大量の食料が廃棄され、割高なものを食べさせたられ、廃棄物が「おつとめ品」として温存される構造が変わる事はないだろう。

日本の流通経路が複雑な理由

日本の流通経路は西洋先進国と比べて複雑だと言われる。消費者の性向、長年に渡って積み重ねられた商習慣、価格情報の情報撹乱など、複雑な理由は多岐に渡る。

消費者の性向

日本の消費者は小さな店で頻繁に新鮮なものを買いたがる。痛みやすい魚が主菜だったからなのだという説があるそうだ。このため、小売り業者が寡占化しなかった。零細な小売業に対応するために、中間業者の寡占化も実現しなかった。

歴史的経緯と商習慣

一方で、流通経路の複雑さを歴史的経緯から説明しようとする人もいる。一般的に、日本の産業は多階層化することが多い。江戸時代より労働力が過剰な状態が常態化し、どうにかして隙間に潜りこまなければならなかったからだという人がいる。これが品質の高さ、徹底したアフターサービスなどのきめ細かさを生んだのだという。

この説明が妥当なのかは分からないが、日本の産業が多階層化することが多いのは確かだ。建設、IT、エンターティンメント産業など二回層化している業界は多い。大手メーカーは大手卸としか仕事をしないが、大手卸はきめ細かいフォローができないので、フォローを下請け(二次業者)に委託する傾向がある。流通業は3階層程度になることが一般的だそうだ。

多階層化を給与配分の面から説明することもできる。大手企業は年功序列制の同一賃金制だが、子会社や受注企業の給与は低く抑えられている。同一企業内で職能別の給与体系が導入されていれば、このような細分化は起こらなかったかもしれない。給与の振り分けは大卒時に決まり、一生変わらない身分制だ。最初に入った企業を脱落すると低賃金を甘受しなければならなくなるため労働力の移動が起きない。

建設・IT・コンテンツ産業では、実務を行う末端に利益が配分されない構造がある。末端事業者は「IT土方」と呼ばれたりする。アニメ産業では末端作業員は個人事業主になっており、労働基準法すら適用されないこともある。IT産業はプログラマが競争力の源泉なので、アメリカとの競争に勝つ事ができなかった。優秀な人がすべてプログラマではなく調整者になってしまうからだ。

情報撹乱

合理的に考えれば、流通経路を合理化すれば価格の自動調整が行われて消費者の便益が増すはずだ。しかし実際には複雑なリベート制度により価格情報の透明化は妨げられている。一種の情報撹乱が起こっている可能性がある。

メーカーはリベートを通じて卸を系列化している。いっけん、メーカーが卸を支配しているように見えるが実際には相互依存関係にあるそうだ。

リベートで思い起こされるのが携帯電話の複雑な料金体系だ。携帯電話会社は複雑なリベート制度で代理店を誘導している。同一企業体ではないので、その他の手段が取りにくいという事情もあるのだろう。代理店は消費者にもキャッシュバックによる価格政策を提供しているので、消費者は単純な価格比較ができなくなる。頻繁に携帯電話を買い替えて安い価格を享受する人がでる一方で、長い間同じ携帯電話を使う人が高い携帯電話料金を負担させられている。情報撹乱によって品質・性能=価格という図式が崩れるのだ。

こうした情報撹乱がメーカーやサービス提供者の便益になっているかは誰にも分からない。いったん情報撹乱が始まると、誰にも正確なことが分からなくなってしまう。だから、プレイヤーは情報撹乱をやめる事ができなくなってしまうのだ。個々の企業が作り出した空気が全体を覆うと、一人ひとりの努力で空気を変えることができなくなるのだ。

情報撹乱は参入障壁としては有効だが、様々な合理化が遅れる原因となるだろう。例えば、携帯電話メーカーはサービスによる競争を行わなくなる(そもそも顧客がどんな品質の携帯電話を欲しがっているのかが分からない)ので、結果的にイノベーションが促進されなかった。キャリアの仕様に従ったガラパゴス携帯が温存される原因となり、スマートフォンに取って代わられてしまった。情報撹乱の結果、メーカーはユーザーのニーズを汲み取って「よりよい」製品を作る機会を奪われたことになる。

消費性向

きめ細かな小売り制度があるおかげで、日本人は買いだめの習慣を身に付けなかった。細かい頻度で少量づつ多品目買う傾向がある。冷凍食品ですら製造年月日をチェックするほど新しいもの好きで、野菜のきれいさにもこだわりがある。日本人の消費傾向と流通経路の複雑さはスパイラルを形成しており、外資スーパーの参入障壁にもなっている。

こうした多品目購買傾向は例えばお弁当作りにも見られる。多品目を少しずつ詰め合わせるのが良いとされており、手間がかかる。しかし誰も「弁当を合理化しよう」とは言い出さない。冷凍食品を詰めると怒られる保育園があるという話すらある。新鮮なものほど良いという思い込みが根強いのだ。

新鮮なものを食べさせたいという「お母さんの愛情」が美しいことは確かだ。しかし、その裏には高率の廃棄食材があるのも事実だ。食料廃棄率は50%に昇るという統計もある。

複雑な流通経路の負の側面

複雑な流通経路には負の側面が多い。

卸の支配力が大きく、メーカーが小売りとの直接販売に踏み切れない。小売りの力が強くなれば、卸の営業力に頼っているメーカーはシェア維持戦略を取れなくなる可能性がある。このため、不効率な流通経路が温存される。

消費者が新鮮さにこだわるあまり、食品の廃棄ロスが多い。間に複数の中間業者が入り廃棄分が価格に乗るので、日本人は結果的に高いものを食べさせられている。

流通御者は規模が小さく、リベート制度も複雑なので業務の標準化が起こらず、IT化ができない。このため、日本の流通小売り業(またはサービス産業は一般的に)は生産性が上がらないままである。

また、小売りの現場からメーカーに情報が上がらない仕組みになっている。消費者が本当は何を欲しがっているのか、誰にも正確なことは分からないのだ。

ビーフカツロンダリング

廃棄になったココイチのビーフカツが転売されたとして問題になった。テレビ局はいつものように「企業倫理の向上が求められる」とお決まりの論評だ。しかし、この問題を企業倫理問題に矮小化してもよいのだろうか。

問題視されるべきは流通過程の複雑さだ。一部報道によると卸6社が介在していたそうだ。

卸の役割そもそも卸は何のために存在するのだろうか。教科書的には、卸は流通経路は合理化すると考えられている。5社のメーカーと5社の小売店が直接やり取りすると線の数は25本になる。しかし、卸が介在すると線の数は10本ですむ。これが品物の数だけ起こるので、卸は流通経路の合理化に役立つのである。

ところが、現実は違っているようだ。狭い日本の国土で80円程度のカツを調達するのにわざわざ6社もの卸を介在させている。もともと33円程度だったカツ(もしくは廃棄物)はこうした複雑な流通経路を経るうちに47円も中抜きされてしまった。中には2ヶ月以上かけて流通したものもあったという。

試しに5社のメーカー、5社の卸、5社の小売がある世界を考えてみると線の数は100になる。流通を合理化するはずの卸が流通を複雑化させてしまうのだ。これは日本経済の生産性を低下させる。

なぜこんなことが起こるのかを教えて人はいない。「日本の流通とはそんなものなのだ」とされるだけである。単に右から左へと品物を流しているだけの卸は生産性を向上させるのになんら役に立っていない。IT投資の遅れも不効率な流通が温存される原因のひとつだろう。小売は誰が何を作っているのかを小売が把握できないのだ。

流通経路の複雑さを考えると、インボイスが導入できない理由もわかる。中間業者は事務作業を効率化させることができないのだろう。卸の中には現金取引で伝票を残していない会社すらあったそうだ、事務作業の効率化どころか税金の補足すらできない仕組みになっている。そもそも税逃れのために伝票を残していない可能性すらある。つまり流通は地下経済化しているのである。これではまじめに消費税を払っている業者は払い損だ。

流通経路が複雑になる理由を合理的に説明してくれる人は誰もいない。メーカー本社は値崩れを防ぎたい。しかし、各部門は当期の売り上げを確保する必要がある。そこで出元がばれないように安値で商品を「処分」する必要に迫られるのではないかと思う。表向きは一定の価格で売ったことにして、安値で処分しているのかもしれない。

しかし、これは消費者便益を損なう。割高な食品を買わされることになるだけでなく、時には特売品としてゴミを食べさせられる可能性すらあるのだ。国は流通のIT化を促進して小さすぎる卸の淘汰を図るべきではないだろうか。

SMAPと五社協定

SMAPが番組に出てきて「謝罪」した。TVでは「解散しないで良かった」という「街の声」が流されたが、ネット上には批判があふれていた。前近代的な芸能事務所の有り様が批判の対象になっており、会社を辞められないサラリーマンの境遇と重ね合わせるものもあった。フジテレビは視聴者の意見を募集したが「SMAPがかわいそうだ」とか「早く逃げろ」というツイートが集ってしまい放送では使えず、自前で一般ファンを装った情報操作を行った。しかし、ネットは即座に偽装を見抜き、非難の声が上がる騒ぎも起きた。

中には「SMAPが置かれている芸能界のあり方を議論により近代化するチャンスなのではないか」と書いている人もいた。だが、残念ながら「議論」であり方が改善することはないのではないかと思う。

とはいえ、芸能界のあり方も変わらざるを得ないだろう。「議論」で状況が変化することはないだろうが、経済的な圧力が状況を変える可能性が大きい。

かつて映画界に五社協定というものがあった。映画会社の専属スターは他社の映画には出る事ができないという規定だ。映画会社を退職してしまうと映画に出る事ができなくなるので、俳優は廃業せざるを得なかったのだ。

映画会社がこうしたカルテルを組む事ができたのは、映画が寡占産業であり、唯一の娯楽だったからだ。ところが、映画界はカルテルを組んだことで近代化が遅れた。その結果として急速な映画離れが起きることになる。ピーク時に1100万人だった動員数は10年で400万人まで落ちこんだ。その後も落ち込み続けて、最終的には200万人弱で安定した。

映画が落ち込んだのは娯楽の主役を白黒テレビに奪われたからだ。しかし、劣勢になっても映画界はスターの囲い込みをやめられなかった。この時にテレビと協業していれば、映画産業の運命も違ったものになったかもしれない。

映画界のスターの囲い込みには直接の因果関係はない。むしろ重要なのはスタッフを囲い込んだ点だろう。囲い込みによってアイディアの交流が起きず、邦画は昔当たった映画のコピーやハリウッド映画の二番煎じから抜け出す事ができなかった。スタッフと同時に顧客の囲い込みも起こっていたのではないかと想像できる。古くからの映画ファンは変化を好まず「これぞ映画」というような古い類型を待望したのではないだろうか。

日本のテレビも寡占業界にあり、アイディアの交流が起きにくくなっている。このため日本のテレビはつまらなくなった。大勢の視聴者に合わせると、どうしても無難なものしか作れなくなってしまうし、既存の視聴者に合わせると保守的な番組しか作れなくなってしまう。

日本のテレビに代わるものとは何だろう。それはネットだと考えられる。光ファイバーが普及するに連れて、オンデマンド型の放送も可能になった。一方方向の放送と違い、双方向なので視聴者のプロフィールが取りやすい。視聴率というおおざっぱな指標に頼らず、受け手一人ひとりにあった広告を配信することも可能だから、より細かい作り込みができる。「万人向けの無難な作品」ではなく「特定層に向けた切れ味のよい作品」が作れるのだ。

既存のテレビ離れは、アメリカではデジタルディスラプションと呼ばれているそうだ。

放送からネットへのシフトは完了していない。故に現時点ではSMAPが放送に残る事は合理的な選択なのかもしれない。ところが報道の界隈ではすでに放送の優位性が崩れはじめている。TVはコンテンツ(SMAPに人格があるとは見なされておらず、商品として認識される)価値の毀損を怖れて、商品価値を維持する為の情報操作を行ったのだが、ネットでは懐疑的な解釈が主流になった。一部ではジャニーズ事務所バッシング(芸能事務所はブラック企業だ)すら起こっている。

一部スポーツ紙報道では「中居君たちは事務所内で干されるのではないか」という観測も出ている。これはむしろチャンスだろう。「干される」ことで、ネットに進出する動機と機会が与えられるからである。

ただ、これがSMAP本人たちにとって「良い事」であるかどうかは分からない。SMAPはもともとアイドルの衰退期にバラエティに進出せざるを得なかったグループなのだが、中年期になってもまだ「開拓者」としての役割を果たさなければならないのだ。少なくとも楽な道でないことは確かだ。

SMAP独立騒動と日本が経済成長できない理由

SMAPが解散するという報道が世間を騒がせている。NHKですらこれを「国民的なニュース」として報道する有様だ。

中でも特異なのがフジテレビだ。クーデターを起したマネージャー(匿名)に従って4人が事務所に反旗を翻したが、事務所への忠義を守った木村拓哉に説得され揺れているというようなストーリーが作られた。いわばを「飯島氏テロリスト史観」だ。スポーツ紙も基本的にこの「テロリスト史観」を踏襲している。一方、飯島氏側に立った新潮の報道はスルーされている。

この報道を鵜呑みにしている限り、日本の経済成長は望めないだろう。大げさなようだが、この騒動には日本の経済成長を阻む要因が隠れているのである。

そもそもSMAPが売れたのは、人々が「アイドル」に求めているものが変わったからだ。その頃の正当なアイドルは光GENJIだった。SMAPはアイドルとしては亜流とされており、正当なアイドルが進出しないバラエティ番組などに活路を見いだすしかなかった。だが、結果的にはこれが当たった。

ジャニーズ事務所はこの方向で多角化してもよかったはずだ。しかし、ジャニーズ事務所側はこれを認めなかったようだ。「正当な側」の人たちは、稼ぎ頭に成長した彼らを「だってSMAPは踊れないじゃない」と評価したそうである。ジャニーズ事務所にとって正当なアイドルとは「踊れる人たち」なのだ。踊りも「彼らが考える正当な踊り」である必要があるのだろう。

傍目から見れば、アイドルに求められるものは変わって来ている。だが、ジャニーズ事務所の認識は1980年代から変わっていないようだ。加えて、亜流の人たちへの嫉妬もある。Appleがコンピュータでないi-Phoneを「亜流」と考えて携帯電話事業に嫉妬していたら、今の繁栄はなかっただろう。

飯島三智マネージャーは実名で報道されず「独立クーデターに失敗」した悪人にされてしまった。逮捕される前の犯罪者の名前を出さないのと同じような扱いだ。確かに「彼女の企て」を認めてしまうと、売れたタレントたちが事務所を独立しかねない。すると、事務所の側としては「初期投資が回収できなくなってしまう」危険性がある。だから、独立を認められないのだろう。独立は事務所にとっての「テロ」のようなものだ。

しかしながら、飯島マネージャーをテロリスト扱いすることは、ジャニーズ事務所の首を絞めている。事務所は「ジャニーズの考えるアイドル」でなければならないという枷をはめているのだが「ジャニーズの考えるアイドルでいられる年齢」は限られている。40歳を過ぎるころから活動の幅は狭まってくるはずである。

だから、実力のあるタレントが幅を広げるためには自主的に辞めるしかない。最近目立つのは海外進出を狙うタレントの流出だ。本格的に俳優を目指す人たちにも困難がある。タレントが俳優業や司会業に専念したくてもCDやコンサートの売上げに貢献することが求められる。

ジャニーズ事務所には才能を持ったタレントが多数在籍している。事務所の得意分野は「踊れるタレント」のマネジメントだ。だから、それ意外のタレントを「有効活用」したければ、マネジメントを諦めるべきだ。しかしそれは「儲けを捨てろ」ということではない。投資を通じて経営に参加する道があるからだ。

より一般化して考えると、こう言い換えることができる。飯島マネージャーは「起業家」なのだ。ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏も起業家だったのだが、二代目以降は「資本家」の側に回ればよかったのだ。企業はこのようにしてポートフォリオを多角化できるはずだ。

起業家とはこれまでと違うやりかたで資本を活用できる人たちのことだ。起業が盛んな国では、こうした人たちは「リスクを取っている」と賞賛される。ところが日本では嫉妬の対象になり「クーデターに失敗した」としてテロリストにも似た扱いを受けるのだ。

ジャニーズ事務所のこの騒動を見ていると、日本が経済成長できない理由が分かる。投資文化が育っていないので、資源が古い経営に縛り付けられたままになって死蔵されてしまうのだ。成功したマネージャーに正当な評価を与える成果主義的な文化が育たない限り、日本が経済成長する道は閉ざされたままになるだろう。