自民党主導の憲法改正にはノーを言おう

さて、憲法を改正すべきだという勢力が2/3を超えるということが話題になっている。そこで、憲法改正を政治的なアジェンダにしようという人たちがあれこれ言い出した。維新の(現在の正式名称は何だったろうか)の馬場さんという方は「第九条は除いて、各党が案を出すべきだ」と言っている。自民党磯崎議員はTwitter上で「新しい憲法は国民に国柄を示すべき物だ」という運動を展開した。

まあ、よく考えてみれば護憲政党は社民党と共産党しかないわけだから、2/3はとうの昔に超えている。単に内部で利害調整が進まなかっただけの話だ。日本人は空気に弱いなとつくづく思う。

昨今の「立憲主義運動」は、憲法は国民が政府を縛るものと説明する。ではなぜ国民が望んでもいない憲法改正を政治家が主導したがるのだろうか。国会議員は縛られるのが好きという仮説も成り立つがそうではあるまい。多分、彼らは憲法について「法律と同じように国民を縛る物だ」と考えたがっているのだろう。

これはいろいろな意味え間違っている。そもそも立憲主義は国民が政府を「縛るために」作られたわけではない。これは我々全体が従うべきルールを双方の合意のもとで取り決めたものである。と。同時に法律は国民を制限するために政府が与えたものではない。これも取り決めだ。つまり、憲法も法律も「ミューチュアル(相互的・お互い様)」なものであって、どちらかがどちらかを支配するという性質のものではないのだが、ミューチュアルというのは日本人には受け入れがたい概念なのだろう。

特に、自民党憲法草案には問題が多い。国民が従うべき規範(これを国柄と呼んでいる)を与えるという意図があるのだが、これは戦前の国体運動の残滓を拾い集めた物だ。「人間は家族を大切にしなければならない」と始まり「日本は天皇を中心に頂く家族である」となる。結論は「だから日本人は天皇を父親のように敬わなければならない」と続くのである。

いったん事の是非は置いておく。

憲法は合意形成のプロセスを「みんなで」取り決めたもので、国民から政治権力に対しての要請という形を取っている。一方、国柄の提示は天皇から国民に下賜されるものである。故に、憲法に訓示的な要素(家族を大切にしましょう)と入れるのは原理的に正しくない。もしこれを実行するとしたら、天皇の政治権力を復権させるか、日本を自民党が指導する一党独裁国家であるという規定をしなければならない。その上で憲法とは別建てに規範集を作る必要がある。そうしなければ、どれが法律を縛る拘束力を持ち、どれが訓示的な取り決めなのかが分からなくなってしまう。おのおのの条文に「これは規範だ」とか「これは絶対だ」と書いているわけではないからだ。

世論の反発が強まったので、磯崎さんは「あれは単なる議論のたたき台の草案であって、あれがそのまま国会議論に乗る訳ではない」と言い出した。しかし、問題は項目の内容にはなく、コンポ員的な設計思想に関わる物だ。

規範集のような性質の物を提示しておきながら、国民主権は遵守するし、立憲主義は守ると言っている。嘘をついている可能性もあるのだが、実際には自分たちがどのようなものを出したのかよく分かっていないのではないかと思われる。こういう人たちは実に厄介だ。繰り返し話を蒸し返してくるからだ。

もちろん憲法に訓示を書いては行けないという取り決めはないのだが、そうであればそのことを明確にすべきだろう。議論の根本が揺れ動けば、それに続く議論がすべて揺れ動いてしまう。

もっとも「自民党改憲案にノーといおう」という論は、憲法を時代に合わせて変えて行くべきだという考えに基づいている。憲法改正案は最終的に国民の信任が必要だ。議論が錯綜して反対意見が増えれば「よく分からない」という人は「とりあえずノー」と投票するだろう。いったん失敗が確定してしまうと、その後の憲法改正がうまく進まなくなる可能性が高い。

その点、憲法第九条擁護派は気が楽だ。とりあえず改正議論全体を拒否すればよいからである。自衛隊の存在を無視しさえすれば(あれは軍事組織ではなく、あくまでも災害復旧ボランティアなのだ)平和に暮らして行くことができるからである。

それにしても「法律のプロ」であるところの自民党の人たちが集まって、根本的な設計思想がはっきりしないものを作ったのは何故なのだろうかという疑問がわく。そう考えると現在の国会は立法府としての機能を失っているのかもしれない。

 

なぜ国体というものが真剣に追求されたのか

国体について調べていると面白いことがいろいろと分かる。

日本人は明治時代に「西洋もやっているしかっこいいから」という理由で憲法を導入したのだが、それだけでは国を統治することができなかった。外国とのやりとりを通じて激動していた時代だったので、状況も刻々と変化して行く。そこで出されたのが「詔」である。天皇のお言葉を文章にして国民に心構えを伝えたものだ。玉音放送も詔の一種なのだそうだ。詔を書いたものは詔書と呼ばれ、細かいものは勅語と呼ばれる。教育勅語が有名だ。これをまとめて詔勅と呼んでいる。

日本の思想界は、天皇を中心にした国づくりを正当化するために、思想を体系化しようとした。外国を意識したものと思われる。ところが途中で詔勅が発布されるとそれを織り込まざるを得なくなる上に、細かなところまで考え抜かれているわけではないために「これはどういう意味だろう」という類推が始まる。

面白いことに、日本の思想家たちは思想体系を組織化しようとは考えなかった。それどころか様々な国体論が出ると派閥に分かれて論争が始まった。また、最初のころの詔勅には世界と対峙する日本という視点はなかったのだが、戦争などを通じて世界を意識しだすと、思想的な齟齬が生じることになる。そこで新しい理論が作られたり、詔勅が出されたりした。

西洋流でかっこいいからという理由で立憲主義を柱にしたのだが、天皇は国の機関だという説がでると「面白くない」と思う人が出てくる。天皇機関説を否定したことで、結果的に立憲主義は否定された。天皇が主権者だということになってしまった。かといって天皇に政治的・軍事的な実権があったわけではなかった。結局天皇は第二次世界大戦への参戦を止められなかった。全く一貫性は見られないのだが、誰も気に留める人はいなかった。

もともと日本の思想は海外から流れ着いた物を混ぜ合わせて作られている。仏教はインド由来だし、儒教は中国のコンテクストから作られた物だ。そこに西洋由来の唯一神的な思想が入り込み「国家的に統一的な思想を作るべきだ」などという思い込みが生まれてしまった。

例えは悪いがTwitterで流れてくる様々な思想を混ぜ合わせて自分の妄想を膨らませるのと同じようなことをまじめにやっていたのである。そして、それをTwitter上の人たちが「いや、お前は間違っている」と罵り合うのが日本の思想界だったわけだ。それでも協力してなにかを作れればよかったのかもしれないのだが、お互いに「議論」と称して、お前は間違っている、いやお前がいうなというようなことが大真面目に行われていた。

日本人は誰にでも受け入れられるような単純な理論を尊ぶのだが、中心ができるのを極端に嫌う。天皇は詔勅を発するところまではやるのだが、それ以降の議論にはいっさい関わらないし、周りのひとたちも「じゃあ、本人に聞こう」とはならない。単に忖度してお互いに牽制しあうのだ。

もともとこの問題を考えるきっかけにになったのは、磯崎議員の「自民党は新しい日本国憲法について日本の国柄を示す物にしたいと思っている」という発言なのだが、実際にはこれは憲法ではなく詔勅によって行われていたものだ。戦後、天皇の政治的機能を極端に制限したために、それを代替しようというのが(磯崎さんの主張によれば)自民党の考え方だということになる。本人たちが気がついていないのが痛々しい。そもそも価値観の押しつけは憲法の機能ではないのだ。

磯崎議員のいう「自民党」が目的を達成するためには、天皇の地位を復旧して国事行為としての詔勅を認めるべきだということになる。しかし、それはその時々の文脈の影響を受けたものにならざるを得ない。鎖国するならそれでもよいのかもしれないが、外部とは文脈を共有しないので、問題解決は難しくなるだろう。

このように揺れ動くものを中心に据えていたために、日本のイデオロギーは完成しなかった。それでも海外の民族を統合する論理が必要になり、新しい理屈が作られた。それが八紘一宇である。天皇は世界の中心であり、諸民族は天皇秩序のもとで仲良く暮らさなければならないというような話だが、実際はキリスト教を布教して諸民族を文明化してやらなければならないという思想の焼き直しになっていることが分かる。

仮にこれが「諸民族を西洋から解放して豊かになる」という思想であり、実際に説得力があったなら状況は変わっていただろう。しかし、思想では状況は変えられなかったし、実際には諸国民を武力で蹂躙しただけに終わった。理論が実際に役に立つことはなかったわけだ。それどころか、自国民に対しても最終的には「お前、天皇が父だと思うなら、死ね」というような単純化された思想になり、終戦で否定されてしまった。

自由民主党というのは、戦後の自由主義・民主主義というイデオロギーを実現するために結党された。しかし、2009年に国民から否定されたためにやけを起こし、かつて破綻した理論を引っ張りだしてアイデンティティ・クライシスに対応しようとした。真剣に憲法議論をやり直せば、この破綻した理論と向き合わなければならなくなるはずだ。

なぜ磯崎議員は「家族を大切に」というのを国柄だと言っているのか

最近、政治の現場で「国体」とか「国柄」という言葉が無自覚に乱発されるようになった。

まずは「国体」だ。最近では天皇が退位していまうと、国体がむちゃくちゃになると言っている人がいた。すぐには意図が分からなかった。

国体とは「天皇を中心とした国の秩序」というくらいの意味だろう。天皇が退位すると国体が損なわれるのは、それが国体学の起点になっているからではないだろうか。それは地動説で「地球が動く」ことが認められないのと同じくらいの衝撃を与えるのだろう。

キリスト教は地動説から脱却するのに長い時間が必要だった。しかし、地動説が否定されても宇宙が崩壊することはなかったし、キリスト教の地位も転落することはなかった。故に、天皇が絶対的な起点でなくなっても、日本が崩壊することはないだろう。多くの日本人が天皇制を支持するのは、今上天皇が平和を希求し震災被害者に寄り添っておられるからで、その存在が宇宙を支配する秩序だからではない。

憲法学者たちは憲法を聖典のように捉えている。それが部族社会の秩序を作っているからだろう。故に現行憲法が変えられてしまうとこまるのだ。同じように国体学の人たちも国体の中心が動いてもらうと困るのだ。その意味では両者は共通している。このように右派と左派は対極のように見えて共通項の方が多いようだ。

そもそも「国体」が学問として真剣に議論されるようになったのはなぜだろうか。それは明治に入って西洋文明に触れたからに他ならない。西洋文明は原理原則がはっきりしている。キリスト教は神様と人間の契約という体裁を取っており、契約は文字で書かれている。そこで日本でも「西洋に引けを取らない理論化をしよう」と思った人たちが多かったのである。

そこで、「国体」についての模索が始まったのだが、ついには体系化することができなかった。例えば神話の存在である神武天皇がいつ生まれたのかというような議論が行われた。

日本人を悩ませたのは「君主主義」と「民主主義」をどう折り合わせるかという問題だった。天皇の権威の正当化と民主主義の正当化が同時に起ったようだ。つまり、それまで外国に対して説明する必要がなかったということになる。日本には説明すべき他者がいなかったのだ。

当時の人たちがたどり着いたのは「家族が仲良く」などという、誰にでも受け入れられるような話だった。天皇を中心にしてみんなで家族のように仲良くしようという主張だ。これも変な話だ。日本のイエは「事業体」としての色彩が強く、みんなで仲良くするための単位ではなかった。しかし、他の国の家族を研究していなかったので、自分たちのことがよく分からなかったのかもしれない。

国体原理主義者が憲法に「家族は仲良くしましょう」などと入れたがるのは。これが国体運動にルーツを持っているからなのだろう。そこに「美しい秩序」を見ているのと同時に難しい議論よりも単純なメッセージのほうが残りやすかったからだろう。これが磯崎議員が「憲法は国が国民に訓示するものにすべき」という主張のもとになっている。あまりにも時代錯誤的なので「家族に介護を押し付けるつもりなのだろう」などという陰謀論まで生まれている。

この「天皇と国民は家族」という、いっけん誰にでも受け入れられそうなモチーフは後にずいぶんと悪用されることになる。例えば、若者を飛行機に乗せて片道のガソリンだけで送り出すときにも「父である天皇の為に死ね」と言われた。実際の若者は「おかあさん」などと叫びながら亡くなっていったし、言ったほうも「自分の息子」にこのような仕打ちをするとは思えない。軍部も当事者も誰も信じていなかったのだろうが、無理矢理作られた概念が悪用されるようになった。

そもそも日本の神道はこれといった聖典を持たなかった。神様の種類も多岐にわたる。例えば、太陽、月、北斗七星、岩、山などである。仏教由来の神も加えられた。七福神には外来の神様と国産の神様が同居している。そもそも「まとめる」という発想すらなかったのだ。無理矢理にまとめたために、それが悪用される素地が作られた。なかなか救いようのない話だ。

聖書の中には、外来の神様を拝む人たちに対する怒りがちりばめられている。モーゼは自分たちの民が異教の黄金像を拝むのを見て、神様との約束が書かれた板を割ったりしている。砂漠の宗教は「あれもこれも」を嫌う分離指向を持っている。一方、日本の宗教は流れ着いたものはとりあえずお祀りしておくという抱合的な指向を持っていた。このおおらかさが本来の日本の国柄だろう。

例えば英語には主語がある。まず、思考の主体が誰であるかを明確化した上でないと話ができない。しかし日本語には主語がない。このため普段の会話の中でも「私が言っているのか」「私たちが言っているのか」ということが曖昧になったりする。日本人は普段の会話で自分と他者を明確に区別する必要のない精神世界をいきていたことになる。

だから、日本人は構造が崩れたり原理原則が失われたからといって大騒ぎすることはない。ところが、意思決定のプロセスから排除されることは絶対に許せない。西洋文明が明確なルールや構造によって保たれているのと違い、日本人は同質である(べき)「我々」の間の複雑なコミュニケーションがその代わりを果たしているのだと考えることができる。

家族の遵守規定というものを持ち出して構造の安定化を図ろうとしている人たちがいるのは、その人たちが意思決定プロセスから排除されかけているからなのだ。口では「アメリカが押し付けた規範から脱却する」などと言っているが、実際には西洋流の契約をその他大勢に押し付けようとしているということになる。そして、急ごしらえで作られた原理原則はその後悪用される可能性が高いのだ。

いわば「時代遅れの妄想」のようなものなので、これに振り回されるのは時間と政治リソースのムダである。国会議論でこの妄想が排除できないのなら、そもそも議論をすべきではないだろう。

「では自衛隊と憲法の矛盾を放置するのか」という異論が聞こえてきそうだ。

日本人はそもそも絶対的な文書による契約を嫌う傾向がある。これを憲法に当てはめると、憲法は時代を経るごとに空文化するということになるだろう。平たく言うと「ま、いいんじゃね」ということになるのだ。

天皇制のもとになったのは、天皇がアポイントメントする官僚機構がもたらす秩序と、税の徴収機能だった。どちらも時代を経るごとに空文化した。残ったのは地位を与えることができるという機能だけだったのだが、地位そのものが空文化した上に、実際の地位のアポイントメントは武士が行うようになった。天皇は単なる「生きたハンコ」として機能することになってしまったのである。

憲法議論はさておき、自分たちの民族性を知るためには、他者について理解することが重要だ。日本の国柄という議論がおかしくなりがちなのは、他人を見ないで鏡ばかりを見ているからだろう。意外とよいところがあるということに気がつかないのである。

護憲派の愚かな間違い、とは何か

護憲派の人たちに話を聞きに行くと、たいてい「憲法第九条が改悪されてしまうと、日本は再び戦争ができる国になる」という。しかし、それはとても愚かな間違いだと思う。なぜ、それは愚かな間違いなのだろうか。

一発で世界を破壊しかねない核兵器が開発され国連という枠組みが作られた現代では、世界大戦は起りそうにない。仮に日本で軍隊ができて武力で問題を解決できるようになったとする。日本が参加するのは、主に国連を中心とした世界秩序に反抗する国に対する治安維持活動のようなものになるはずである。この中には日本に石油を運ぶ航路の治安維持といった我が国の経済活動に直結したものもあるだろう。

さて、では憲法を改正して自衛隊を軍隊として認めるべきなのだろうか。そうはいいきれないのがこの議論の複雑なところだ。そもそも「なぜ憲法を改正したいのか」という意図に問題がありそうだ。

まずは簡単なところから始めたい。民進党の長島昭久議員は「まずは地方自治からはじめてみては」と提案している。どのような意図があるかは不明だが、地方自治が推進されると地方の意識が強まると仮定したい。多様性が生まれて経済が活性化する。

しかし、現在の地方議会は国からおりてくる補助金をどのように分配するかを決める場になっている。東京ですら利権の分配機関だ。地域住民もをそれを是認していて、大したチェック機能は働かせない。意識が変わらないのに憲法で地方自治を推進するとどうなるだろうか。多分、権限を与えられた(代わりに中央からの補助金は減り自分で稼げと言われる)地方行政は大混乱するだろう。

つまり、順序としては、地域に地方自治に対する意欲が高まり、それが運動化した上で、憲法議論に結びつくという形が望ましいことになる。マインドセットは憲法を変えうるが、憲法はマインドセットを変えない。特に民主党は2009年に地方分権を掲げながら結局何もしなかった過去がある。つまり「憲法を変える」ことが自己目的化しており、そのために口当たりのよさそうな条項を探しているという倒錯した状況が起きている。

自民党はさらにひどい。自民党が目指しているのは憲法の空文化である。普通の法律でいうところのいわゆる「骨抜き」だ。例えば、表現の自由や人権に「公益に反しない限り」という前提条件をつけたり、法律を厳しく縛るはずの憲法に「規範」を加えようとすることがそれにあたる。もしくは、治安維持を前提にして国会の機能を停止させる緊急事態条項もその一つだ。

さらに姑息なのは極端な草案を持ち出して国民を恫喝し「じゃあ、落としどころはどこなの」と取引を持ちかけるという手法である。今や有名になった「ほら、対案だせよ」というものだ。すると「対案なんかない」となってしまう。つまり、話に乗らず、何もしないのが最善ということになるわけである。泥棒が家にやってきて「100万円よこせ」とやってきて「じゃあ、いくらなら払えるんだ」というのと同じだ。

現在の常識から考えると(この文章を読めているということは、一般よりはやや高めの読解力と、まとまった文章を読む時間的余裕を持っているということだが、それが一般的とは言えないのかもしれないのだが……)民主主義の常識を逸脱する憲法草案など受け入れられるはずはない。だが、実際には国民の「大多数」が民主主義の逸脱を求めることがある。それは民主主義がきわめて面倒な手続きとそれなりの知識を前提としているからだ。民主主義が大衆が持っている「一般常識」に合わないことがある。「よくわからないので嫌」とは言いたくないので、そこに「伝統的な価値観」が持ち出されるのだが、実態は「お父さんの小さいころはこうだった」くらいの<伝統>でしかない。

こうした大衆の要請をもとに「状況の打開」が試みられることがある。例を挙げる。日本軍はアメリカなどの包囲網をかいくぐろうとして中国大陸に進出し大衆の熱狂的な支持を得た。ヒトラーはドイツ民族の正統性を訴えて東方に進出した。アメリカはイラクに大量破壊兵器があると主張し国民に支持された。ルワンダではラジオで煽動された人たちが民族の伝統(実は西洋人に捏造されたものだったのだが)をもとに隣人を殺した。イギリスではEUが諸悪の根源であり離脱すれば全ての問題が解決されるという説明がなされた。そしてエルドアン政権はクルドや一部のイスラム主義者が治安を脅かしていると説明して国民からの信任を勝ち取った。政治経験のないトランプ候補は「ムスリムとメキシコ人が全て悪い」と良い、共和党の大統領候補になってしまった。

ここに共通するのは、問題を解決するために複雑な話し合いを避けて物事を単純化しようという動きだ。イギリスのように暴力を伴わず民主的なプロセスで行われる場合もある。全てに共通するのは敵と見方の峻別である。敵を作ることで、大衆の支持を得るのだが、これはきわめて分かりやすく感じられる。

その末路には何が待っているだろうか。第二次世界大戦の例2つを除いて起きているのは、国民の分断である。イギリスでは移民に対する風当たりが強まっているというし、アメリカやトルコではテロや大量殺人が横行している。敵を作っても問題が解決するわけではなく、問題点が先鋭化されやすいのである。

民主主義を骨抜きにしようという「非立憲主義的な」憲法改正議論と敵の設定は同根だ。それは国家に程度の違いはあれ国内分断や内戦状態を作り出すのである。その他の「前向きな」憲法改正議論も結局それを手助けしているに過ぎない。憲法議論というのは、現在起きている動きのほんの一部にしか過ぎないとも言えるだろう。

改憲派は決して「戦争ができる国づくり」を指向しているわけではない。単に複雑さに疲れ果てて物事を単純化したいと考えているだけである。だが、それは結果的に国民を分断し、問題を放置することで国家を分断させるように作用するということになる。

さて、ここまで辛抱して読んだ人たち(いないかもしれないが)は立憲主義者の過ちに気がついただろうか。それは「敵を対立させ国民を分断する」言質にまんまと乗っかって「アベ許さない」としたところだろう。そもそも「白か黒か」というのは作られた対立構造であり、本質的な意味はないのである。

つまり、安倍政権は「戦争ができる国づくり」を目指しているわけではない。国家の統合を毀損し、内乱状態を作り出そうとしているということになる。そして、それは既に始まっている。

国民は自民党の指導のもとで団結すべきである、という革命思想

自民党の先生が面白いツイートをしている。自民党改憲草案の家族規定は「訓示規定だ」というのである。辞書によると、訓示規定とは罰則を伴わない指示のことだという。

特に罰則を設けないから安心しろと言っていることになる。これで納得する人は誰もいないのではないかと思う。辞書の説明によると、訓示規定とは行政府や裁判所に対して国が「指示する」ことだ。このベクトルは当然だ。主権者が代表を出して法律を作っており、税金を使って組織を運営しているわけだから、指示するのは当たり前である。

さて、憲法だ。そもそもなぜ憲法に訓示規定を設ける必要があるのか。設けるとしたら、それは誰が誰に対して訓示するのかという問題が出てくる。

憲法は権力者を縛るために存在する。ベクトルは主権者から国家権力に対して向いている。この場合は行政府や裁判所(司法)である。ところが、この規定のベクトルは国家から国民に向いている。国民を主権者とするとベクトルが逆なのだ。本来なら、これをあれこれと証明しようと理論をこねくり回すところだが、その必要は全くなかった。ご本人からメッセージが来たからだ。

つまり、自民党は憲法を国民が権力を縛る立憲主義から、国が国民に対して「国柄」を提示するべきだと考えているのだ。これは立憲主義を大きく逸脱するが、議論としては成り立つ。疑問はいくつかある。

  • 第一に国民はいかなる理由で一度手に入れた主権を放棄し、誰かが作った「国柄」に従う必要があるのか。
  • 次にその国柄は誰がどのような権能を持って提示するのか。
  • なぜその誰かが自民党でなければならないのか。

このように考える権力者は珍しくない。例えば中華人民共和国は中国共産党が示す規範に国民が従うべきだと規定している。同じ考え方は北朝鮮にも見られる。その意味ではとても「東アジア的」である。自民党の改憲草案はいわば「上からの社会主義革命」だ。もし形式的に国民議論の体裁を取っているとしたら、国民の一部がその他の国民の主権を簒奪する行為と言える。中国共産党が国民党を追い出して全土を統一したのと同じことだ。

今日も安倍首相が「価値観を同じくする国」という表現を使ってフランスのテロについて言及していたが、すくなくともフランスは「一党が国民を指導すべき」などとは考えていない民主主義国だ。安倍首相は中国に対してこの形容詞を使わなければならない。

このツイートの恐ろしいところは、主語が「自民党」になっているところだろう。全ての自民党の人たちが、立憲主義はこの国には合わないと考えているということになるのだが、とてもそうは思えない。そもそもこの議論を理解していない議員も大勢いるのではないだろうか。

しかし、選挙で勢力が拡大しただけで、ここまであけすけに主張を明確化できるものなのだろうかと考えると驚きを禁じ得ない。

と、同時に自民党の一部の人たちが考える「国柄」が何を表しているかが分かって面白かった。この人たちは法ではなく規範で国家が運営されるべきだと考えており、力の向きは国家権力から国民に向いているのだ。

法治主義というのはきわめて個人主義的な概念だ。状況から文脈(誰が誰に)を除いて抽象化・透明化することによって、誰でもが法律に従うということにしているのだ。この抽象化のことを「法のもとの平等」と呼んでいるのだろう。一方で規範には文脈がある。中国が「人治主義」と言われるのは、文脈によって判断が変わりうるからだ。

その意味では磯崎憲法観はきわめて人治主義的だと言える。憲法というのは規範集を含み、単なる法体系ではないということになる。十七条憲法のようなものと言えるかもしれないし、教育の分野では教育勅語のようなものだろう。

憲法学者と自民党の意見が合わないのは、憲法に対する基本認識が違うからだろう。憲法学者は憲法を「国民が権力を縛るものだ」と規定し、法というのはできるだけ文脈から自由であるべきだと考えている。しかし、自民党(磯崎先生の主張が確かなら、だが)はそもそも立憲主義も法治主義も埒外なのだろう。

議論の本質は「国民が主権者であるべき」か「誰かからが提示する規範に従って生活すべきか」という点だといえる。その意味では、個別の条項について議論しても意味がないのだろう。もし、国民の主権が制限され規範に従うべきだ(罰則規定はないが指示はする)などという人たちが2/3もいるのだとしたら、もうこの国の民主主義は壊れてしまっているとしか言いようがない。

自民党は覚悟がない革命勢力

さて、天皇退位問題が面白い展開を見せている。まずは陛下に近いところからリークがあった。それを政府側が否定した。否定しきれないとなると「憲法があるから無理だ」と言い出している。

突っ込みどころはいくつもある。アメリカに圧力をかけられると、憲法を曲げてでも集団的自衛嫌の行使ができると「曲芸的な」解釈を見せたのだから(そもそも自衛隊が曲芸なのだが)陛下の意思も忖度すべきだろう。しかし、それはやらないのだ。今上天皇よりもアメリカのほうが恐いということになる。「我が国固有の伝統を取り戻す」などと言っているが、ちゃんちゃらおかしい。

自民党のコアな支持者たちは「天皇中心の国家を作りたい」と考えているようだ。国民の主権を制限するためには便利な言い訳だ。しかし、天皇を元首に戴く言っても、政治的な権能を与えるつもりは全くなさそうだ。世界で最も古い君主の家系であり、政治的な機能を持たないというのが便利なのだろう。

生前退位をみとめてしまうと、いくつかの問題が出てくる。まずは退位が政治的な意思表明になってしまう可能性がある。つまり何も言えなくても「印鑑だけは押したくない」ということができてしまうのだ。天皇に拒否権(生涯で一度しか使えないが)が生じる。また、経験者が2名ということになり「神聖性」が薄れる。これは、ローマ法王の時にも問題になった。さらに、単なる皇族になった上皇には憲法の縛りがなくなる。皇族が政治的な発言をすることを禁止する法的根拠はない。この状態で「平和を希求する」などとやられると困るのだろう。

例えて言うと、第二次世界大戦の参戦に参加したくない昭和天皇が退位するということができる。昭和天皇にはそんなオプションはなかった。極端な言い方をすれば、ただ国民を抑圧し兵士を無駄死にさせるためのお人形として周囲に利用されたという見方もできるのだ。

いっけん天皇を敬っているように見える改憲勢力だが、実は天皇制度を便利に利用したいと考えているだけであって、陛下ご本人を敬おうという気持ちはこれっぽっちもなさそうだ。自称愛国者と呼ばれる人たちは権力を国民から簒奪したいと考えているだけであって、愛国心などみじんもないのだろう。

もし仮に天皇を慕うのであれば、総理大臣などは単なる臣下に過ぎないのだから、すぐに馳せ参じてご意向を伺うべきだろう。それもしないで「報道は承知しているが、何もしない」と言っているわけで、これ以上の不忠はない。なぜ君主が臣下の事情を忖度しなければならないのか、という話になるし、そもそも皇位は国民の総意で天皇に下賜したものではないので、退位は君主の自由であるべきだろう。

つまり、自民党と改憲主義者は革命勢力なのだ。

革命が悪いとは言わないのだが、自民党には「独裁してでも国を良くしたい」という気概はないようだ。せいぜい都議会のように利権が欲しいと考えているだけの人が多数なのであろう。「神武天皇は実在した」という妄言を吐いた議員もいたが、歴史について真剣に考えたことなどないのだろう。

その意味では自民党の改憲案は立憲主義を否定しているだけでなく、そもそも統治行為の正当性がどこから来るのか、独裁を維持するのにどんなコストが必要になるのかさえ理解していないのだ。なぜ、そんな人たちに振り回される必要があるのだろうか。