コンピュータの導入であなたが過労死するわけ

もう、殺すか殺されるかなのではないか。

ついに電通に強制捜査が入った。新聞社がいろいろな分析をしているのだが、なんだか的外れなのではないかと思いながら見ている。

新聞社は、電通で業務量が増えたのはインターネットが普及して環境が変化したからだと考えているようだ。いっけんまともな分析に聞こえるのだが、これ変じゃないだろうか。インターネットはITの一部であり本来生産性をあげるために存在する。だから、インターネットが普及したら労働生産性は上がり、社員の負担は減るはずなのである。

だが、日本ではIT技術の導入は生産性の上昇には寄与していない。いくつかの理由がある。まず、日本の経営者はITの導入に積極的でなかった。例えばクリエイティブの部署ではグループウェアを導入すれば業務量を減らすことができるはずなのだが、それを導入しようというリーダーシップはなかったようである。

次の理由はIT化にあわせて業務を変えなかったという点が挙げられる。代わりに複雑化した業務にあわせてカスタム化されたソフトウェアを導入した。だから業務量は減らなかった。最近では「業務フローが分からなくなったという職場も増えているようだ。

しかし、これは業務量が爆発的には増えた理由にはならない。

では何があったのか。いくつか思い当たることがある。メールの発達などでいつでも連絡が取れるようになった。そのためにいつでもクライアントからのクレームを受ける可能性が出てきた。つまり気軽に連絡が取れるようになったことで面倒な下請け仕事が増えたことになる。

次にやり直しが簡単にできるように思えるようになった。昔は手作業だったプレゼンもパソコンで修正すれば良いだけになっている。そこにあるものをちょっと動かすだけじゃないかということが主張できるようになったのである。

つまり、IT導入によって業務の合理化は起こらなかっただけでなく、面倒だけが増えたことになる。電通だけでなく思い当たる業種の人は多いのではないだろうか。

こうした事態が起こるのはなぜなのだろうか。

これを考えるためには、なぜクライアントが「決められない」のかを考えてみる必要があるだろう。いろいろ考えた挙句思ったのは「最初から決めるための基準がない」から「決められないのではないかというものだった。

広告を例に考えてみたい。広告が決められるのは決める人が何らかの基準を中に持っているからである。「センス」といってもよいかもしれない。センスがあるからこそその地位にあるといえるわけだ。

もし決める人が内部に何も持っていなかったらどうだろう。何も持っていないわけだからそもそも何も決められない。その意思決定者はなんとかして「本当は何も分からない」ことをごまかさなければならなくなる。そこで時間をかけて「ぎりぎりになるまで悩みました」ということにするわけだ。決めるのに時間がかかっているわけではない。本当は何がいいのか分からないのだ。

やり直しが簡単になったことで締め切りは延びた。業務量が増えれば、結果的には休みがなくなってしまう。これが日本がIT化した結果忙しくなる(理論的な)からくりである。つまり、価値観の源が内側にないからこそ、決められない。決められないから、仕事量が増えるわけだ。だからといってユーザーアンケートをしていも何も分からない。ユーザーも他人の動向をみているだけだからだ。

つまり、コンピュータが導入されれて便利になればなるほど、社員が過労死するリスクが高まるということになってしまう。それは意思決定者が必要なリソースを持っていないからだということになる。

さて、社員が過労死するリスクはこれだけではない。電通の社長は社員に向けて「過労死しないように業務を工夫して業務量を減らしなさい」と言ったらしい。「変だ」という声はあまり聞かれないが、かなり変である。

業務量を減らすためには業務プロセスを見直さなければならないのだが、社員にはそのための権限も知識もない。その権限を持っているのは執行者(英語でいうとエグゼクティブ)の代表である社長のはずである。その社長が社員に業務改善を丸投げするのはどうしてなのだろうか。

それは電通に業務マニュアルがないからなのだろう。実際に電通を支えているのは社員一人ひとりの「業務の工夫」のようなもので、組織的に集約されていないのかもしれない。

電通をカレー屋に例えると、スパイスを混ぜているのは社員であり、社長は何がカレーの味を決めているのかがよく分からないということになる。そこで下手に手を出してしまうと、カレーがビーフシチューや肉じゃがになってしまう可能性もあるのだろう。

高橋まつりさんは死の直前自分が何をしているのかよく分からなくなっていたようだが、多分社長も自分の仕事が何なのかよく分かっていないのだろうと考えられる。だが、社長は自分の業務を自分で決められるので過労死はしない。押しつぶされるのは組み体操の底辺にいる人なのである。

 

東京大学卒エリート「なのに」過労死したのではない

今日の話はいささか屈折している。少しショッキングな構図を作ったほうが異常性が伝わりそうに思える。しかし、読み終えても異常さに気がつかない人も多いかもしれない。

電通の新卒社員高橋まつりさんが自殺し「一生懸命勉強したのにかわいそうだ」とか「東大まで出たのにブラック企業で働かざるを得ないとはかわいそうだ」という論評が出ている。

このためネットでは「日本でも労働規制を」という署名活動まで起きた。直感的に何か違うのではと思ったのだが、それが何なのかよくわからない。

そもそもなぜ労働時間は週に40時間程度ということになったのか調べてみた。それは1日の労働時間を8時間程度にしようというムーブメントが起きたからだ。ではなぜそうなったのか。いくつかの理由があるようだ。

労働時間が40時間程度になったのは第二次世界大戦後のことなのだそうだ。それまではヨーロッパでも労働時間はもっと長かった。だがなぜそんな動きが出たのかを書いた記事は見つけられなかった。第二次世界大戦後「人権」という概念が一般化し徐々に広まったなどと書いてあるばかりである。つまり、それは当たり前のことだとされているのだ。

まったく別のアプローチから週の労働時間を削った会社がある。それがフォードだ。フォードは自分たちの製品が「余暇」によって支えれていることを知っていた。つまり消費者がいて余暇や生活を楽しむために自動車が必要だというビジョンを持っていたのだ。そのために労働者を厚遇して余剰所得を作りなおかつ余暇の時間を作ったのである。つまり、生産者が消費者でもあるということを認識していたからこそ労働時間を削ったのである。

労働時間を規制すると人生の質が上がる。すると余暇が増えて企業も潤う。労働時間は短縮されるので時間当たりの生産性を上げてアウトプットの質を落とさないようにした。これがヨーロッパを中心に起こったことである。

また、格差縮小という動機もあったようだ。オランダは失業率を改善するためにワークシェアリングを導入して平均の労働時間を下げた。労働市場からのアウトサイダーを減らすためだと説明されている。オランダではガス田が開発され製造業が傾いた。企業の投資が資源・エネルギーセクターに流れたからなのだろう。ではなぜアウトサイダーを減らす必要があったのか。それはアウトサイダーが社会の負担になるからだ。

いずれにせよ、欧米で労働時間が削減されるのは、より快適で人間らしい生活が送りたいという欲求があったからだということがわかる。逆を言うと国民の間から「人間らしい生活を送りたい」という要望が出なければ、労働改革は進まないのである。

非民主主義国ではこれが成り立たない。例えば北朝鮮には強制労働の習慣があり、多くの国民が長時間労働で搾取されている。中には食事を与えられない人もいるそうで、仲間の死体でねずみを集めるなどというようなショッキングな話すら出回っている。このほかに海外に出稼ぎにゆかされて7割を国に搾取される人たちもいるということである。

さて、日本の事例を見てみよう。実は平均の労働時間は減少しつつある。高齢者が引退の時期を迎えて非正規に置き換わっているからである。企業は正社員を育成したがらないので、正規雇用は減りつつある。日本とアメリカを比べるとアメリカの方が平均労働時間は長い。日本人が働きすぎというのは、平均値で見ると嘘なのである。

だが、これは平均の話である。非正規が増えると管理コストは増す。それを補うために正規雇用の最下層の人たちに圧力がかかる。

ブラック企業で働かされている人は2種類いる。学生なのに飲食店などで非正規雇用に従事していて学校に行けないような人たちと、名ばかり店長のように名目上は管理職なのだが実際には末端の正社員に過ぎないような人たちだ。後者は正社員ピラミッドの最下層に位置づけられている。悪条件でパートが集まらないとこの人たちが搾取されるようになる。また「非正規への転落」を恐れて長時間労働から抜け出せない人たちもいる。

北朝鮮では長時間労働は「無理やり働かされる」ことであり強制労働とほぼ同じことなのだが、日本ではやっと正社員になれた人たちが自分から進んで入る場所だという違いがある。日本では(もし生き残れれば)賃金をもらえるという違いもある。だが、24時間働くような環境ではお金を使うことはできないわけで、ほぼ同じことなのだ。

つまり「東大を出たのに強制労働まがいの職場しかない」わけではなく、東大を出たからこそそのような職場に入ったということがいえるのだ。故に日本では強制労働所入りが特権だとみなされていることになる。

日本人はかなり倒錯した感覚を持っているのだが、日本にいるとそのことには気がつきにくい。それどころか長時間労働を自慢する人さえいる始末である。

労働時間の議論は環境問題に似ている。よい空気の下で過ごしたいのは健康で人間的な暮らしがしたいからである。ではなぜ健康で人間的な生活がしたいのか。そこには理由はない。日本では当たり前の議論なのだが、中国ような国ではこれは当たり前ではない。

しかし、日本人は中国人を笑えない。かつて日本では喘息が起きるような地域に住むことが特権だった時代がある。製鉄所の煙は「七色の煙」と言われて繁栄のシンボルだとされていたのだ。

日本人が労働時間短縮に踏み切れないのは結局のところ、人間は労働だけでなく豊かな生活を楽しむべきだという認識が持てないからなのだ。国の政策もそれを後押ししている。

自民党が推進している労働改革には二種類ある。一つはパート労働者から社会保険料の免責特権を剥奪してパート労働者を調達しやすくしつつ社会保険料の担い手を増やそううとする<改革>で、もう一つは正社員の残業支払いを免除しようという<改革>だ。双方とも労働賃金の抑制を狙っている。

これは安部政権が企業を自分たちのスポンサーだと考えているからなのだが、実際には国と企業の利益は背反する。企業が賃金や社会保険料を支払いを抑制すると、社会が生活保障を賄わなければならないからである。これはオランダの議論を見ればわかることだ。しかし、日本ではこのような議論にはならずに場当たり的な対策が議論されるばかりだ。

しかし、日本の有権者は企業の側に立った政策を支持してしまう。労働者も個人の選択として強制労働のような状態を選好している。つまり、日本人は進んで死にたがっているという結論になってしまうのである。

たとえて言えば、日本には食べ物はないが空気がきれいな田舎でおなかをすかせて死んでゆくか、公害の中で息ができなくなって死んでゆく2つの選択肢しかないことになる。

なぜ電通は犯罪者集団になってしまったのか

慶応大学の広告研究サークルでレイプ事件が起きたらしい。その影響で有名なミスコンが中止になりちょっとした騒ぎになった。同じころ電通では女性新入社員の自殺事件の裁判の結果が出た。過労が原因であったと認定され、労働局と労働基準監督署が強制捜査に入る騒ぎになった。

この2つは女性搾取と隠蔽という共通する要素がある。広告研究サークルは「性行為はあったが合意の上だった」と言っていたようだ。だが、実際には無理やりであり、女性はひどいトラウマを抱えて学校に行けなくなってしまったらしい。電通でも当初は、クリスマスに自殺したのだから失恋で死んだに決まっていると言っていたそうである。女が死ぬのは色恋沙汰に決まっている。単なる補助労働力なのだから仕事で死ぬはずはないだろうという気持ちがあるのだろう。

どちらも、組織防衛のために他人の人権を著しく軽視している。

この2つの事件を無理やり重ね合わせて「だから広告というのは胡散臭いのだ」という非難の記事を書きたくなったが、あまりにも無理やりなので一度は思いとどまった。

しかし、やはり広告業界にはこういう「業」がありそうだ。広告はもともとなんでもないものに社会的な価値をつける機能を持っている。うまく活用すれば、需要を生み出して、技術革新のドライバーになるかもしれない。と、同時にそれはある種の扇動行為でもある。あるラベルを作って感情を喚起する。例えば「中国は怖い国だ」というメッセージを繰り返し与えれば、それが真実になる。

真実は作れるという認識は「自由意志」に対する感覚をゆがめるだろう。人間は情報操作できる存在であり、自由意志などありえないという感覚だ。私たちはテレビを見て新聞を読んだだけで「だまされて」生活している。

だが、他人の感情を操作しつつ自分たちだけはそこから超越するということはできないらしい。しかも最終的には弱い立場の人たちを搾取し組織で隠蔽するという卑怯な行為に結びついてしまう。内部でモラル崩壊すると、それを自立的に立て直す方法がないことがわかる。人間の規範意識はとても脆い。

もちろん、それぞれの組織を突き動かしてきた動機は異なっている。慶応大学のサークルは性欲だったが、電通は営利を追及しようとした。個人でいる分にはおとなしくしている人たちが、集団で欲望をむき出しにした。普段押さえつけている分、一度暴走すると歯止めが利かなくなってしまうのだろう。

例えば、慶応大学に入り、ミスコンイベントを主催するようになった瞬間に「俺はもてるようになった」と感じた学生もいただろうし、電通で管理職として子会社を使っているうちに「自分はとてつもなく偉いのだ」と考えるようになっても不思議ではない。トランプ候補も「テレビに出るようになってから女はやらせてくれるようになった」と語ったそうである。

どちらむ犠牲になった人やその家族がおり、とても痛ましい事件だ。しかし、それをどう防げばよいのか、よい策が浮かばない。広告業だけ規制を厳しくするわけにもいかないし、免許制にすれば表現の自由を侵害することになる。自主規制しかないわけだが、彼らに高い規範意識は期待できない。

すると残る選択肢は一つだけだ。広告は賎業であるという認識を社会が共有すればよいのだ。女性が広告代理店に就職したいと言えば親族で泣いて止め、嫁に行きたいといえば「その結婚はろくなものにならない」といって縁を切るという具合だ。これはかつて日本の芸能界が持たれていたイメージに近い。

日本には生産性という考え方がない

「ITを導入して日本の生産性を向上させよう」などという話をよく聞くのだが、そもそも日本人には「生産性」という概念がないという話を書こうと思う。そんな馬鹿なと思う人もいるだろうし、ああまた「日本人は遅れている論」なのかとうんざりする人もいるかもしれない。だが、この話過労死を防ぐためには非常に大切な概念だ。

米系の外資に面接に行くとよく「締め切りは絶対に守れ」などと言われる。話を聞いてみると日本人は「完璧に仕上げたいために」締め切りを守らない人が多いのだという愚痴になる。中には、なぜ日本人がプロジェクトを手放さないのか理解できないという人もいるようだ。アメリカには根性で資料を仕上げるという考え方がないからだろう。

もちろん、日本人が「プロジェクトを手放さない」のは、それを完璧に仕上げたいからである。こうした姿勢は「職人気質だ」と考えられ賞賛される。たとえば広告代理店で徹夜してプレゼン資料を仕上げるのは「直前まで一生懸命がんばったほうがよい資料ができる」し「同じような資料が2つあった場合気持ちの強いほうが勝つ」と考えられているからだろう。それを理解できないとはアメリカ人には情がない。

日本人がこれを理解するには生産性という概念を理解する必要がある。1つの資料を80%仕上げるのに必要な労力を80とする。それをさらに10%上げるためにはもう80の労力が必要かもしれない。大体できているわけだから、そこそこでリリースしたほうが「生産性が高い」と考えるわけだ。

同じような考え方は安全・安心の側面でも見られる。もちろん、クリティカルな事故を防ぐことは重要なのだが、トリビアルな間違いを防ぐのに大きなコストがかかるのであれば、それは保険などでまかなおうという考え方がある。つまりリスクをコントロールしてマネジャブルな範囲に収めておこうと考えると「程ほどの安全性でよい」という結論になるのだ。

一方、日本人はいったん事故を目にすると「もう絶対に100%安心でないと許せない」というような話になる。そこで莫大なコストがかかると言っても「それがどうした」という。結局、原子力発電所のようにリスクを見て見ぬふりをするか、豊洲のように有毒物質が出るのはもう何がなんでも絶対に許せないということになるようだ。

どうして日本人には生産性という概念を持たないのだろうか。第一の理由はコストという概念がないからだろう。

資料を完成させるために徹夜させれば割増料金が発生する。マネージャーはコストを管理する責任者だからこれを避けたいと考えるのである。一方、日本人は労働時間は無尽蔵な資源だと考えるので、資料作りには長い時間をかけてもよいということになる。有害物質の管理などもコストの問題だ。

一方で「完成」の考え方にも違いがあるようだ。日本人は資料をリリースすると一人歩きする傾向にある。読み手が好きなように文脈を足してしまう。ところが、これも一般的な考え方ではない。ITには「永遠のΒ版」という考え方がある。間違いは誰にでもあるから、それを見つけたらそのときに改良しようという考え方だ。そのため修正の責任者が決まっていて、修正スケジュールも決まっている場合が多い。日本人のように欠陥が見つかると「あれはもうダメだ」といって見放してしまうことはないのだ。

アメリカ系の組織にはコスト、リスク、責任の所在というような考え方があり、それを総合したのが「生産性」という考え方になる。しかし、日本人にはそのような考え方はないので、それらがすべて丸まって「気持ちの問題」ということになってしまうのだと考えられる。

ここで「日本の製造業は生産性の管理をしている」という反論が得られそうだ。確かにそのとおりなのだが、これも第二次世界大戦直後にアメリカから導入したメソッドが元になっている。これが戦後の日本の品質管理運動につながった。

このことから「日本人が劣っている」ということではなく、そもそも生産性という概念がないために、それを上げようという活動がないだけだということになる。

広告業界にITが導入されたとき、これで生産性という考えた方が広まるなあと思った。コストと成果が数字として出てしまうからだ。しかし、実際にはそうはならなかった。成果が出ないとき数字をごまかし、かつ気持ちの問題にしてしまった。

本来は「逃げ出す」と「過労死する」の間に「生産性を上げる」という選択肢があったはずで、それを管理するのが経営学だということになる。

高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。

長谷川秀夫氏はなぜ過労死を肯定するような発言ができたのか

前回の長谷川秀夫氏の記事は多くの人々に読まれた。ネットの反応を見ていると「今は時代が違うから老害は引っ込んでいろ」というようなトーンが目立つ。

この発言を理解するためには、この人がどのようなバックグラウンドを持っていたのかを知る必要がある。東芝の出身だそうだが、東芝の労働環境は悪く「東芝の労働事件」というwikipediaの専用ページまでができている。ページは次のような記述で始まる。

1960年社長となった土光敏夫は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」と宣言し、労働運動への締め付けを強めた。

土光敏夫氏はのちに行革に取り組み「質素な生活」で有名になった。土光さんといえばメザシで有名だ。だが「自分も頑張るから」という姿勢は後継者には受け継がれなかった。

東芝は長時間労働で知られていたことは間違いがない。土光氏が社長をしていた時には社員への還元があったのかもしれないが、Wikipediaにまとめられているような労働事件が2000年以降に頻発することになった。

東芝では長時間労働と弱い労働組合は「過去の成功事例」として捉えられていたようだ。経営転換に失敗した結果を労働者の長時間労働と会計操作で隠蔽するような会社になってしまったわけである。

このようなひどい会社は社会的に制裁されても当然のように思える。しかし、実際には東芝は淘汰されなかった。東芝は政府と国策に追随することで生き残りができたからだ。原子力発電事業や電力インフラ事業などが中核になっていた。

その結果起きたこともよく知られている。業績をあげるために無理なスケジュールが横行した。先には「同じ職場で2名の自殺者が出た」とあるが、スケジュールは改められなかった。さらに派閥同士で数字をよく見せる必要があり、会計操作までが行われるようになり、最終的に「特設注意銘柄」に指定されるまでになった。これは、上場廃止の一歩手前の状態だそうだ。しかし、責任を取ったのは経営者ではなく従業員だった。大規模なリストラが行われたのだ。

このように東芝は過去の成功事例から抜け出せずに徐々に倫理的な感覚を失っていった。ここから得られる教訓は「他人に生き血を啜(すす)られるなら啜る人になれ」ということだ。しかし、政府の庇護もありそれが修正されることはなかった。最終的に上場廃止寸前まで追い込まれた(もう少し規模の小さい会社であれば上場廃止されていただろう)のだ。

つまり、啜られる側の人間は最後まで啜られる側であり、一生懸命働く人が報われるというように<正義>が勝つことはないのだ。

これは失敗する組織の典型的なパターンを持っている。戦前のお陸軍は現場の突発的な判断から戦争に突入したが、明確な作戦を立てられず、派閥争いに発展する。そのために取った作戦は現場の兵士を捨石にして戦線を維持するというものだった。参謀本部には現場のことが見えていなかったわけである。かといって現場の兵士が報われることはなかった。栄誉といえばせいぜい、靖国神社に祀られるくらいのものだが、これも「参謀も現場の兵士もいっしょくたに祀られる」ことになってしまった。

東芝の事例は明らかな経営の失敗だが、当事者たちはそうは思っていないというのが今回の話の一番残酷なところである。こうした人たちが成功事例ということになり教育現場に入って「他人の生き血を啜る側の人間になれ」という人材を再生産しているのかもしれない。

「他人を搾取する側」だった長谷川氏としては、教え子と周囲の人に「100時間で死にやがって情けない」と漏らすのは自然なことだったのだろう。彼らにとって労働時間とは単なる数字であって、途中で脱落してはいけないのである。あるいは脱落を前提にして「歩留まり率(※ここでいう歩留まりとは職場の精神疾患や自殺者の数だ)」を<管理>するくらいのことは考えかねないのではないだろうか。

一人の人が大衆的な暴力で嬲(なぶ)られるというのは、非人道的に見える。しかし、そうでもしないと「これがいけないことだ」という認識が定着しないのだと考えると、とてもやりきれない気分になる。

 

 

 

長谷川秀夫氏に反論する

電通の新卒社員が過労死した問題で武蔵野大学の長谷川秀夫氏が次のように書いて炎上した。なんとなく社会圧力で発言を撤回させた形になっているが、何が間違っているかを説明できない人も多いのではないだろうか。

長谷川氏は「プロとして請け負った仕事を完遂させなくてどうする」といっている。だが、これは裁量という側面を無視している。

人が感じるストレスは裁量がどの程度あるかどうかによって変わってくる。裁量がある場合(特に顕著なのは自分で起業した場合などだ)に感じるストレスは、群れの最下層で意味合いを感じられない仕事をさせられるのと全く異なっている。これについては研究結果が出ている。

多くの公務員を数十年にわたって追跡した結果、40〜64歳の年齢層において、階層の最下段にいる公務員は、トップにいる人々と比べて死亡率が4倍にのぼることが明らかになった。

こうした研究が多いのはイギリスが階級社会だからかもしれない。だから、高橋さんが従事していた仕事に対してどの程度の納得感があったのかということが問題になる。その上、ツイートの分析からわかるのは、高橋さんが年次というピラミッドの最下層にいたという事実である。その上女性だったということも群れでの地位に影響していたようだ。裁量が全くない上に意味のわからない仕事をさせられており、逃げ場もなかったかもしれないことが問題になっている。

例えていえば人間ピラミッドを最下層で支えていたということになる。上にいる人たちより圧倒的にストレスが高いのだ。「電通の社員なのだから最下層とはいえないのでは」という反論が予想される。たしかにその通りで、このストレステストに合格した人たちは下請けの人たちをいじめる側に回る。同じことをさらに弱い人たちにするようになるのだ。

もう一つは高橋さんが置かれていた経済的な階層だ。あまり、言いたくはないが、同じ東京大学でもいくつかの階層があるはずだ。一つはお金に恵まれていて卒業時に借金を背負っていない階層の人である。次の階層は経済的な自由はないが借金を背負っていない人たちである。最後の階層は経済的な自由もなく、かつ謝金を背負っている人だ。もちろんここでいう借金とは奨学金のことだ。

確かに東大卒で電通出身ということであれば引く手数多だったかもしれないが、それは3年以上いてなんらかの実績をあげていることが前提になる。群れの最下層であるということは、実績も上げられないということであり、したがって電通から出ることはできなかったはずなのである。このようにして搾取される人は才能があっても努力し続けても搾取され続けることになる。

ということで、これは格差問題なのだということがわかる。あとはなぜ格差問題が悪いかということを議論すればよい。この格差の大半は「どの家庭にどの性で生まれたか」ということで生じているようだ。本来ならば生産性の高い分野に割り当てられるべき人たちがボロ雑巾のように使い捨てれていることが問題なのだ。

多くの人はまじめに努力したりしない。最低限の作業だけをこなし疲弊しないように体力を温存する。「国力」というものはこうして衰退してゆくものなのだろう。

これを見て高齢者は「最近の若者は覇気がない」と檄を飛ばす。そもそも若者に支えてもらえないと生きられない上に、自分たちはうまくやって勝ち抜けてきたという気分があるからではないかと考えられる。

変革の機会を失った電通と大学生の格差

電通の過労死問題で感じたのは東大の中にある格差だ。余裕のある家庭で育っていれば海外留学でもして、正当に評価してもらえる会社を探すこともできたかもしれない。外資に入った友達もいるはずで、どのように評価されるかわかるからだ。

報道によると高橋まつりさんは、一生懸命母を楽にさせてあげようと勉強して東大に入り、外の世界を知らないまま、使い捨てられてしまったことになる。最初から人的ネットワークが違っていたのだろう。この国が置かれている極めて残酷な事実だ。高橋さんが電通に入ったのはそれが「確実に親を楽にさせられる」企業だったからだろう。つまり、お金がなければ才能があってもブラック企業に使い捨てられてしまう運命から逃れることはできないのだ。

一方、電通の対応は見事だった。過労死問題ではTwitterを制限せず、ガス抜きをさせた。一方、テレビでは全く取り上げなかったので、騒ぎは1日で収まった。炎上が起こるのは初動でなんらかの対応をしてしまうからだ。

電通はネットでガス抜きさせてテレビ局に報道させないという作戦なのだなあとおもったのが、対応を間違えたようだ。フジテレビは高橋さんのTwitterを取り上げて「電通問題」を取り上げた。その後Twitterのアカウントが閉鎖させられていることが判明し「電通の圧力なのでは」と噂されることになった。

何もしなければ騒ぎは1日持たなかっただろうが、これによって騒ぎが大きくなるかもしれない。隠せば隠すほど広がってゆくのがネットだからである。

このことから電通は自己改革の意欲を持っていないことがわかる。この案件は世間で思われているような「人手が足りずに忙しすぎて起きた」事例ではなさすだ。成果が上がらない案件に優秀な人材を貼り付けた挙句に追い詰めて殺してしまったのだ。多分1日が36時間あれば、34時間程度働いていたはずである。同時期に数字を改ざんしてクライアントに報告するというようなことが起きており、電通のネット広告事業がインパール作戦化していたのは間違いがない。

しかし、ここで作戦をやめれば「負け」が確定してしまう。出口のない作戦なのだが、それを口にすることは許されない。そこで優秀な若者を犠牲にして乗り切ろうとした。戦前の陸軍と同じ構造である。

陸軍との一番の違いは敵がいないという点だ。日本陸軍の暴走を止めたのはアメリカだったが、電通を止めるGHQはいない。

今は消えてしまった高橋さんのツイートからわかるように、電通は多様性を排除している。年功性が幅を利かせていたようだが、多様なバックグラウンドを持った人は電通にはいつかないだろう。これは優秀な外国人だけでなく、留学経験のある学生などを含む。外資系では優秀な若者には破格の給料を支払う。移り変わりの激しいITマーケィングの業界に特攻志願する若者はいないだろう。

長年染み付いた慣行を中から崩すのは難しい。そこで外からの刺激が必要になる。だがそれは期待できそうにない。電通は人材には困らないが、犠牲になるのは多分、一生懸命勉強したが故に周りを見る機会がなかったような学生だろう。

電通過労死問題 – 何が問題なのか

電通に新卒で入った女性、高橋まつりさん(Twitterアカウントはこちら)が自殺した。東京大学卒業だったそうである。Twitterのアカウントが残っていて、徐々に追い詰められてゆく様子がわかる。世間の反応は概ね女性に同情的で、電通や残業100時間くらいで死ぬような労働者はいらないといった大学教授などへ避難の声があがっている。

電通の過労死事件は、一般的に人手不足による過労死問題と考えられているようだが、これは診立てが違っているのではないか。彼女のTwitterを見ると、仕事はなんらかの資料作りだったようだ。詳しい説明はないが、クライアントへの「ご説明資料」と次の打ち手対策ではないか。

ちょうどインターネット広告の成果をごまかして報告していた時期と部署がダブって見える。すると、成果が出ないキャンペーンについて「次こそなんとかなるように読める資料」を作らされていた可能性もある。

もちろん、成果が出る残業ならある程度は正当化も可能かもしれないが、最初からこれは「インパール作戦」だった疑いもある。作戦自体が無謀ではいくら時間をかけても「満足がゆく」アウトプットは作れない。目の前で崩れてゆく石塔を延々と積み上げるような作業になるだろう。

生産性の向上に寄与する優秀な人材を雇用して使い捨てていたというとになれば、特攻部員のような意味合いが出てくる。成功の見込みがない作戦に優秀なメンバーを使い捨て覚悟で「動員」する。撤退してしまえば敗戦だが、戦線を維持しているうちは失敗は問われない。

広告代理店の企業文化はさておき、クライアント企業の予算が先細る中、成果の出ない特攻作戦にリソースをつぎ込み続けるのは背任に近いのではないだろうか。対価を支払うのは結局消費者なのだ。

電通の基本モデルはテレビ局などの広告枠を買い占めてそれをナショナルブランドに売りさばくことだった。規模の経済で市場を独占していたわけだ。しかし、不況が長引き、企業は結果を求めるようになった。結果とは数字である。企業の広告の担当者は、上層部に責任を問われる。そこで資料が必要になるのだ。

電通はそのような資料を作らせるために東大生を使っていたことになる。東大生なので地頭(嫌な言葉だが)は悪くなかったはずだし、要領も悪くないだろう。その彼女が(もしくは彼女の陰にいる人たちも)解けない問題を解かされていたことになる。正解がないから上司も指導ができなかったのだろう。その結果が「土日や朝方までの」残業なのではないだろうか。

つまり、この残業は世間一般の人たちが考えるような「人手が足りないゆえの」残業ではなさそうだ。初めから無理なことをやらされているから、時間当たりの生産性が下がるわけである。しかも、それを極めて生産性の向上につながりそうな人材にやらせていたのだ。

インターネットにせよITにせよ生産性をあげるための道具だと考えられている。しかし、日本の企業は優秀な人を使っても生産性はあげられない。そればかりか、文字どおりに使い潰してしまった。つまり、日本の大企業は優秀な人材を使う能力を失っているということになる。

そればかりか周りには女性であることを理由に近寄っていた人もいたようだ。電通は新しい技術について行けないばかりではなく、人権感覚まで失っていたことになる。年次にもこだわっていたようだ。優秀な女性は外国人社員はこのような会社を就職先には選ばないだろう。このようにして日本の企業はガラパゴス化してゆく。

このことが示すメッセージは簡単だ。もし本当に優秀なら電通のような企業には行かないことだ。この過労死した新卒社員の専門が何だったのかはわからないが「クライアントの説得学」という生産性には何も関係がない学問であったとは考えにくいし、仮に生き残っていたとしても、全く使い物にならない技術を身につけるだけである。世界的な潮流からは取り残されてしまうだろう。

このことを考え合わせると、炎上しかけている長谷川某という教授の思慮のなさがわかる。分析すべきは企業の競争力の低下だ。例えば第二次世界大戦の戦況を分析するのに、兵站もないままで餓死しかけている現場の兵士に「もっと頑張るべきだ」といったところで、状況はなにも改善しない。

こういう人たちが寄ってたかって日本をダメにしているのである。