炎上を誘う心理学

日本人は公というものに関心を持たなかった。しかし自分の利益にかかわる集団には並々ならぬ関心を持っている。そこで自分の利得が揺るがないように社会を監視し、代わりに参加料を支払うというのが一般的だった。あからさまに強いリーダーがでることはなく、表向きは平等な社会を形成した。

しかし、社会が縮小を始めると、すべての人に利益を分配できなくなる。そこで本音と建前を分離して、利益から人を排除する動きが出てきた。ルールは一部の人たちにとって都合が良いように組み立てられた。しかし、表向きには誰もが反対できないルールが採用される。これが建前だ。

例えば安保法制は軍事費の削減をしたがっているアメリカの肩代わりをし、さらに軍事費を利権化したいという本音のもとに組み立てられている。しかし、建前として「石油を安心に運び、半透から逃れてくる日本人のお母さんと子供を守るため」という理屈が使われた。本音と建前の分離はあからさまだったが、それを押し通したのだっった。一方で野党側はなんとかして与党を否定したかった。そこで平和な国日本を守れという建前が使われた。

一方で子育てや介護のような事業には投資されない。それは政治家の懐を潤さないからだ。建前上は「介護離職をなくす」ということになっているが、本音は「お前らが頑張ってしのげよ」ということでしかない。未来に投資しないのは稲籾を食べているようなものなのだが「大衆に分けていると自分の分がなくなる」という危機感が本音としてあるのだろう。

政党助成金などの制度は、小規模政党を潰すために設計されたが、表向きは「お金のかからない選挙を実現すること」が目的になっている。実際には幾つもの穴があり、例えば金額の記載のない領収書も認められており「自由な会計操作」が可能だ。

この本音と建前の分離を突き崩すことは難しい。ほとんどの人がそれに依存しているからである。多くの人たちは意思決定から排除され、理不尽な建前に苦しめられることになる。誰もが「こうしればよくなるのに」とわかっていたとしても、そのようには動かない。日本社会は建前の奴隷になっている。

ところが、誰も自分が奴隷になっているとは考えたくない。一方で、多くの人が建前を利用すれば世の中は簡単に動くということを学習しつつある。近年ではインターネットを通じて匿名の人たちがリスクを冒すことなく世論を形成することができる。これを利用して人や会社を破壊するのが「炎上」である。

一方で炎上がなければ解決できない問題もある。炎上は個人では社会を動かせない人たちが羊として狩られないぞ、自分たちこそ主人だぞと主張する最後の手段になっている。

痴呆が進みつつある老人に過剰な保守契約を押し付けたPCデポの問題は道義的にはひどい話なのだが商業契約としては成立している。日経新聞などはこれを新世代の旗手としてもてはやしさえしていた。これが見過ごされてしまうと、PCデポは儲けることができるし、クライアントは泣き寝入りである。かといって政治は何もしてくれない。これが炎上しなければ、消費者は弱者として搾取されるだけの存在になっていただろう。

こうした問題が起きた時、政治がリーダーシップを発揮して商法を見直そうという機運はない。リーダーシップのなさのために炎上だけが抵抗の手段になっていると考えることができる。

一般的には何かを考えることと行動を起こすことの間には大きなギャップがある。しかしながら、いつも「何かが動かない」という苛立ちを持っていると、行動が後押しされる。社会正義の実現に参加したと考えられるからだろう。加えて「自分が動いただけでは大事にはならないだろう」という気分も動機付けになり得るかもしれない。さらに多くの人が公に興味がないにもかかわらず、社会問題に関心を持ち始めている。社会問題に関する情報が飛び交っているからだ。

皮肉なことに、Twitterを社会化したのは政治家だった。インターネット上での政治運動が盛んになり、政治家が参加するようになってから、一気に「堅苦しい」メディアになった。潜在的な不満が蓄積している上に、半匿名だったことで、気軽に社会問題が論じられるようになった。

炎上の「本音」は何かを破壊することだ。縮小する社会は椅子取りゲーム状態なので、誰かを沈めれば自分が沈められる可能性が低くなるように感じられるのである。しかし、あくまでも強調されるのは建前だ。法律に触れているとか、道徳的に如何なものかとかそのような理由付けがされる。

長谷川豊氏の追い落としに使われたのは「かわいそうな人を侮蔑すべきではない」という建前だったが、それがどれほど本質的な理由づけだったかは疑問だ。豊洲問題の動機は「利権を得た人を罰したい」という感情だろうが、表向きは「組織ガバナンスと安全・安心」の問題ということになっている。

もう一つの理由は創造にはリーダーシップが必要だからだろう。コアのない活動は破壊しかできないのだ。

この炎上の興味深い点は炎上が明確な中心やリーダーを持たないところである。日本人はどのような場合でも強いリーダーシップを嫌う。一方で、中心を持たない組織は暴徒化する。もともと日本人が中空の権力構造を発明したのはこのことを知っていたからだろう。リーダーは起きたくないが中心のない組織は暴走する。日本社会はそれを一から学び直ししつつあることになる。

集団の暴動は多くの先進国で見られるありふれた現象だが、日本が違っているのは表向きはおとなしい人がネットなどの匿名の世界で凶暴な素顔を見せるという点である。日本人は表向きには「社会問題にかかわるべきではない」という了解があるからだろう。これが市民が権力を担うという社会的合意のある共和制国家と違っている点だ。皮肉なことに「表立っては社会参加しない」ということが、無責任な炎上を助長している。

壊れた電話ボックス・社会正義の暴走・公共

家の近所で電話ボックスが壊れていた。この壊れた電話ボックスからいろいろなことを考えた。キーワードだけ拾うと、日本人と公共、自民党の憲法改正案、社会正義の暴走、そして衰退してゆく国の姿などだ。タイトルにするなら自民党の憲法改正案かなあと思う。本文を読まずに「いいね」してくる人がいるかもしれない。

家の近所で電話ボックスが壊れていた。ブルーシートがかかっており、ガラスが散乱したままで2週間ほど放置されていた。事故にあったようだ。危ないのでNTT に電話したところすぐに回収されたようだ。ところがガラス片は道路に散乱したままだった。

そこでNTTに再度電話した。しかし、このままでは解決しないなあと思ったので今度は「警察に行きます」と言ってみた。相手は慌てた様子だった。「警察沙汰」という言葉には無言のプレッシャーがある。加えて「安心・安全」というキーワードを織り交ぜてみた。最近よく聞く言葉で、自然に口から出たように思う。

結局、これを交番に引き取ってもらった。単に危ないとは言わなかった。「この手の人たち」にいうことを聞いてもらうためには、許認可責任とか、管理責任という言葉を使うとよい。単なる建前なのだが、公職の人たちにはこういう言葉が「効く」のだ。ちなみにテレビ局の人たちに「効く」のはスポンサーを脅かすことである。

「地域の安全・安心を損なっている上に、事故が起きてたら、知りながら放置したことになりますよね」と仄めかしてみた。女性の警察官はピンときていなかったようだが、男性警官は何を言っているのかわかったようだ。裏には「何かあったらあんたたちには責任取れないだろ」という恫喝めいた含みがある、割と暴力的な言葉なのだ。

自民党憲法草案の重大な問題

まず考えたのが「公共」についてだった。地域の人たちは(警官も含めて)地域の危険というものに対してそれほどの責任感を持っていないことがよく分かる。これは電話ボックスが大きな通りに設置してあるということが関係している。小さな通りであれば自治会が騒いでいたかもしれない。「自分たちの縄張り」にあるものには関心が向くのだ。

一方で「公共」にあるものは、お上がなんとかしてくれるだろうという意識を持つのが日本人なのである。日本人は公共に対して受動的な意識を持っている。クラスで先生の話を聞くようなもので、受動的に言われたことだけを儀礼的にこなすのが日本人としての正しい姿なのだ。

この「私に関係があるか」ということは集団主義の社会では割と明白に区別されている。

そこでいつも思うのは自民党の憲法草案である。憲法で国民に訓示を与えて、国というものを明確に意識させることになっている。「本来の正しい日本人は国に忠義を尽くす」というような説明がされるのだが、実際の日本人は国や地域というものに何の関心も持たない。自民党が国や家族というものにことさら関心を寄せ、国民に訓示を垂れたいと思うのは、実は日本人が公共に対して関心を寄せないことの裏返しなのであり、GHQの陰謀ではない。

そして、この手の人たちが国にことさらの関心を寄せるのは「国を私物化できる」という確信があるからだ。それは「公」とは対極にある国家観だ。

正義の暴走

さて、次の考えたのは「正義の暴走」についてだ。最初は自転車で走っていて「ああ、危ないなあ」と思っただけなのだが、きっちり処理されないということに腹が立ち交番に行った。つまり「なんで俺の言うことが聞けないんだ」という苛立ちがある。つまり「こうあるべきだ」という姿があり、それに従わないNTTに腹を立てていたことになる。時間を作って電話までしており、問題にコミットしてしまっている。すると問題が解決するまで「気になってしまう」のだ。

しかし、なんらかの理由でNTTは動かない。そこで出てくるのが「安全・安心」という最近よく聞くキーワードだ。安全はリスクを含んで計算される概念だが、安心は主観的で感情的な言葉だ。つまり、いくら危険が除去されたとしても、その人が「安心だ」と思わなければ、安心は実現できない。「安心・安全」が強調されるのは潜在的な危険をいつも感じているからだろう。そして「NTTは地域の安心を脅かしている」ということは、日本では重大な問題になり得るが、それを除去するコストは考慮されていない。一度脅威を感じてしまうと「それが気になって仕方がなくなる」からである。

ネットで様々な騒ぎの原因「正義の暴走」によるものである。今回の場合は交番で名前と電話番号を聞かれているので匿名というわけには行かなかった。それでも「モンスター化する気持ちもわかるなあ」という実感を持った。自分の主張が通って人が動くというのはそれなりの快感を伴う。しかも、ネットではこれが匿名できてしまうので、自分の考える正義を思う存分暴走させることができるわけだ。

正義はなぜ暴走するのか

正義が暴走するためには、動かない問題があるという前提がある。この場合はガラス片を放置していたNTTが悪ということになるだろう。逆に言えば「悪」がなければ正義の暴走はありえない。

もう一つの構成要素は「建前」の問題だ。この場合「管理責任」というタームだ。警察は危険を知っていながら放置してはいけない建前で、NTTは地域に貢献する会社であるべきだというのが建前になる。

正義の実現は難しいが、建前に沿って物事を動かすのは実は簡単だ。これがわかると物事がスムーズに動き、そこに快感が生まれてしまうということになる。

例えば、長谷川豊氏が仕事を失った時「企業に苦情を言えばよい」ということになった。目的は長谷川氏を困らせることだが、体裁としては「社会正義」を使ったのだ。みんな「組織は問題解決しないが建前の保持にはことさら気を使う」ということをみんなが知っているのだ。これが暴走を生み出すのである。

問題は一向に解決しないのに、フォーマットに乗ってしまうと社会は容易に動く。これが「暴走するネットの社会正義」を作るメカニズムである。豊洲の問題でも同じような構図が見られる。ここでは「安全・安心」が使われているが、実際には右往左往する人を見て楽しむという側面があることは間違いがない。つまり、コミュニティに対して影響を与えたいという社会的な動機があるのだ。

衰退する日本

さて、NTTが電話ボックスを放置したのは、人手が圧倒的に足りなかったからのようだ。つまり、放置せざるをえなかったのである。放置しているうちに「まあいいや」ということになってしまったのかもしれない。

誰が処理をしたのかはわからないが、受託業者だったのではないかと思う。言われたことさえできれば「あとはどうなっても関係がない」という人たちだ。逆にいうと無駄に気を遣ってもお金にならない。このせいで危険が放置されるのだ。

結局ガラスの後片付けをした人は、地域を担当する苦情処理係だったようだ。電話はまず複数県を管轄する故障窓口につながる。そこから地域の係に連絡が行くようだ。この人は盛んに謝っていたが「お客様から連絡がないと動きようがない」と言っていた。確かに故障の発見はできないと思うのだが、故障した電話ボックスがあることはわかっていたはずだ。しかし、状態を内部で把握している様子はなかった。中の人たちは情報を共有する仕組みがないようだ。

日本人は公共心を持たないが、チームで問題を解決するという気持ちもない。たいていの問題は逃げ遅れた個人が背負うことになる「自己責任責任社会」である。豊洲でも見られた「情報を共有しない」組織が、問題解決を難しくしている。かといって、その人に情報を分けてあげようという気持ちも働かないのだ。そもそも公共心がない上に、情報共有しても自分の得にならないからだ。

では、なぜNTTは公衆電話の保守をそれほどないがしろにするのだろうか。実は公衆電話事業は1995年以降赤字が続いているようだ。携帯電話が普及したせいなのだろう。それでもNTTが公衆電話を止められないのは法律で「一定間隔で電話を置くように」と決められているからだそうだ。赤字の原因は散らばって設置されている電話機の保守整備費用だ。

公衆電話は災害に強いという特性があるので「いざとなった時に困るかもしれない」と言われるとなんとなく廃止しづらい。「いざというときのため」にはお金をかける必要があるわけだが「それは公がなんとかしてくれるだろう」と考えているのかもしれない。しかし、実際には誰かがいやいやこなしている。

このような気持ちでいると「自分も社会正義のために誰かを動かしてみたい」という気持ちになるのかもしれない。これが結果的に次の社会正義の暴走を生むのだ。

長谷川豊氏はなぜ仕事を失ったのか

「透析患者は死ね」と書いた長谷川豊氏が大阪でのレギュラー番組を2つ失った。なぜ、彼は仕事を失うことになったのだろうか。そして、それは「良い」ことだったのか考えてみたい。

氏が指摘するように日本の医療福祉制度は崩壊しつつある。それは社会主義化が進んでいるからだ。政治家も有権者も制度の不具合に気がついていないか、知っていて見ない振りをしている。ということで何らかの形で医療に触れた人なら誰でも警鐘を鳴らしたくなる。しかし、普通の形で警鐘を鳴らしても誰も振り向いてくれないので、ショック療法に頼りたくなる気持ちもよくわかる。ある種のリーダーシップがそこにはある。

だが、実際に問題になっているのは、形式にさえ合致していればいくらでもお金を引っ張ってくることができる制度そのものにある。医師も食べて行かなければならないので、効果が出ようがそうでなかろうが、形式に合わせることを優先させる。最近の分析によれば、医師は「関東軍化」しているということになる。

ここでいう「関東軍」とは、専門性はあるが社会からは無視されている存在である。その場にあった最適解を模索するのだが、視野が狭いので全体解は持たないし、リソースがないので最適解があっても実現できない。かといって専門家がいないとオペレーションは成り立たない。故に専門家の暴走は全体のシステムを破綻させることになる。

医師の場合、診断をしないで、いくつかある累計の中に人を押し込めることがある。累計に合わせて申請書を書けば、補助金が貰えることもある。問診が客観的な数値に基づくもの(最近ではメタボリックシンドーロームなどが有名だ)であれば躊躇なく機械的に振り分けて薬を処方するし、主観的なものなら「例外」を無視して診断を下すことも珍しくない。また、チューブにつないでいつまでも延命させるということも行なわれている。これもガイドラインに沿った対応なのだろう。

「関東軍」の暴走の背景には2つの原因がある。

1つの問題はジェネラリストの消失だ。日本人は他人に興味がないので、最初から他人を作らない企業制度を作った。それが数年おきに専門を変えさせる「正社員」である。正社員が成り立つためには終身雇用がなければならない。終身雇用が崩壊したので、ジェネラリストがいなくなり、従って専門家が「暴走」するようになった。よく「就社ではなく就職」と言われるが、それは日本人をよく知らないからである。日本人はチームワークが嫌いなのだ。ジェネラリストがいなくなると急速に部分最適化が起こる。

また、日本陸軍のようにジェネラリストが「管理や作戦の専門家」になっってしまい暴走することもある。正社員が維持できなくなったということもあるが、非正規雇用が増えると正社員は「自分たちには関係ない」と考えるようになり、結果的に企業の崩壊を招くのだ。陸軍の場合は末端の兵士は徴兵される非正規雇用であり、最終的には無理な責任を負わされ食料を補給してもらえずに餓死することになった。

もう1つの問題はリーダーシップの不在だが、もともとリーダーを要請するという考え方がないので、専門家の問題として捉えることができる。責任者ではなく調整する専門の係になってしまうのである。

医療問題の解決が難しいのは、それが命の選択の問題に直結するからだ。例えば、これ以上全ての高齢者の延命治療ができないということはわかっているが、誰が選別するのかという問題が出てくる。ルールメーカー(国会議員)が手をつければ高齢者や家族に恨まれるし、医者もその責任を負いたくない。結局「制度が崩壊してからみんな騒ぐんでしょうね」ということになる。お金で判断するということもできるが、これも「金持ちだけが長生きするのか」という批判に晒されるだろう。

長谷川氏は自身のブログで「自分は問題を見たが、構造には気がつかなかった」ということを開陳してしまっている。医療が破綻する原因はわがままな生活を送っていた糖尿病患者にあると結論付けてしまった。それは当然「そういう人もいるがそうでない人もいる」ということになってしまうし、そもそも糖尿病患者を全て抹殺しても医療の構造的な問題は全く解決しない。

問題は解決しないのだから、警鐘は役に立たない。それは単なるノイズである。故に仕事を失っても何ら不思議はなかった。最初からキャスターとしては不適格だったのだ。もともと他人が書いた原稿を読むだけのアナウンサーだったわけだが、原稿の裏にある問題を意識しないで原稿を「ただ読んでいた」のだろう。それは必ずしも悪いことではなかったかもしれないのだが、ジャーナリストにはふさわしくない。

よく考えてみればこれも専門職の暴走である。長谷川さんの考えるアナウンサーの仕事は誰かが書いてきた原稿を面白おかしく騒ぎ立てることだったのだ。だから自分で全てを担うことになったときに「騒ぎを起こさなければ」と考えたのだろう。それが彼の勘違いだったのかどうかはわからない。テレビ局の役割は社会をよくすることではなく、騒いで視聴率をあげることだったということがありそうだからだ。

テレビ局は「世間を騒がせた」罪で長谷川氏を排除したわけだが、多分「うまく切ってくれれば問題はなかった」と考えているのではないだろうか。世間が騒ぐというのは単なるアウトプットの問題なのだが、テレビはそれが全てなのだろう。つまり日本では問題を騒ぐことをジャーナリズムだと考えていることになる。テレビは騒ぎが大きくなれば視聴率が稼げるという因果関係で「成果」を調整する。これは基本的には医師(全てのとまでは書かないが)が「レッテルを貼って薬を処方さえすればどこかからお金がもらえる」というのと同じ構造である。

書くことは癒しなのか凶器なのか

先日来、書くということについて幾つかの記事を読んだり情報に接したりした。一つ目の記事はタイトルだけだが「日本人はレールを外れるとブロガーくらいしか希望がなくなる」というもの。次はヘイト発言を繰り返す池田信夫氏のツイートや、透析患者は自己責任だから死んでしまえという長谷川豊氏などの自称識者たちの暴力的な発言だ。

これらを考え合わせると、これからの日本では、経済的自由を得るためには他人を貶めたり権利を奪ったりしなければならないという結論が得られる。

確かに、他人を傷つける記事には人気がある。タイトルだけでも他人を攻撃するようなものをつけるとページビューが数倍違うことがある。しかも、検索エンジン経由閲覧している人が多い。そのような用語で<情報>を探し回っている人が多いということになる。ニュースサイトをクリックするわけではなく、わざわざ探しているのだ。それだけストレスが多いのだろう。

一方で別の書く作業も目にした。乳がんで闘病中の小林麻央さんが自身のブログを開設したのだ。病状はあまりおもわしくないようで、本人もそのことを知っている。これは、小林さんががん患者であるということを受け入れたということを意味しているのだろう。日常生活が中断されて茫然自失の時間があり、ようやく現状を受け入れようとしているのだ。書くことがセラピーになっているということもあると思うのだが、再び「書き出す」ということが重要なのだろう。人間には誰にでも回復しようとする力が備わっている。そうやすやすと「完璧な絶望」の中に沈むことはできない。

二つの「書く」という作業にはどのような違いがあるのだろうか。

第一に、池田さんや長谷川さんの意識は外に向いている。一方で内側には不調は起こりえないという暗黙の前提がある。池田さんは自らが「純血の」日本人だという意識があり、その外側にいる人たちを攻撃している。また、長谷川さんは自らは節制していて、絶対に糖尿病にはかからず、従って透析の世話にはならないと考えている。こうしたことを考えているうちは自らの中にある不調を考えなくても済む。

テレビは常にネタを探している。ネタは、オリンピック選手などの活躍をもてはやすか、他人を貶めることしかない。職業的に書いている人たちはこのうち貶めるべき他人を探すかかりというわけだ。うまく盛り上がったネタ(平たく言えばいじめなのだが)があれば製作会社が仕入れてテレビに売り込む。

他人の不幸をネタにすればいくらでも稼げそうだが、実際には自分の信用度を担保にしている。なんらかの問題解決に役立てば何倍にもなって帰ってくるかもしれないが、逆に自分の信頼を失うこともある。そのうち「騒ぎを作ろうとしているのだな」と考えられるようになれば、その人はテレビ局から見ればもう用済みだ。

もともと識者たちは専門分野から解決策を提示したり、多様な意見を出してコミュニティに資することがその役割のはずだ。皮肉なことに今回挙げた二人はどちらもテレビの出身だ。テレビ局には報道が問題解決などできるはずはないという強い信念ががあるのだろう。また、自分たちはいい給料をもらいながら、他人の不幸を取り上げても、決して自分たちの元には不調は訪れないし、あの人たちは自己責任なのだという間違った確信があるのかもしれない。

一方、小林さんは自らに向き合わざるをえない時間があり、その結果を書いている。つまり、その意識は内側に向いている。どうにもならないという焦燥感がある一方で、それでも生きていて、子供を愛おしいとかごはんがおいしいと思ったり、「また情報発信したい」と思えるということを学んだにちがいない。どうしようもない絶望があったとしても、人は少しづつ回復するし、何もしないで生きてゆくということはできないものなのだ。生活の自由度が狭まっても書くことはできるわけで、書きたいというのは、新しく歩み始めるための最初の一歩になり得るのである。

「書く」ということは、毒にもなれば、薬にもなる。正しく使えば癒しを得られるし、見知らぬ他人の助けになるかもしれない。一方で、自分の評判を削りながら陥れる他人を探し続けるという人生もあり得る。