バベルの塔に住む日本人は民主主義を理解できない

荒れる学校について考えているうちに、そもそも日本語には民主主義に関する用語の理解が欠けているということがわかってきた。これについて考察しているブログは多いのだが、議論そのものがあまり注目されてこなかった。例えば責任とResponsibilityという用語で検索するといくつかの文章を読むことができる。

今回は「先生が体罰という抑止力を失ったために学生がやりたい放題になった」という投稿をきっかけに、荒れる学校について考えている。この問題を解決するためには、まずコミュニティをどう保全するのかを話泡なけければならない。しかし、話し合うための言葉すらないうえに問題を隠蔽したがる人たちもいる状態では話し合いすらできない。

先生や保護者が協力して適切な監視体制を作ったり生徒に自主性を持たせれば暴力を使わなくても問題は解決するのだが、日本人は民主主義社会が持っているはずの協力に関する用語を持たないためにお互いに意思疎通ができない。これはバベルの塔に閉じ込められた人たちが協力して塔を建設できないのに似ている。

前回のエントリーでは学生か先生に権限を与えるべきだと書いた。ところが日本語でこの議論を進めようとするとややこしいことが起こる。権限と責任という二つの言葉だけを見ても、これを好きなように定義する人たちが現れるからだ。「日本人がバカだから民主主義が理解できない」という言い方をしても良いのだが、英語の表現を漢字語に置き換えた時に生じた問題が修正できていない。

例えば先生の権威を認めるべきだと主張すると、権威という言葉から絶対王政の権威のようなことを想像する人が出てくる。これは言葉に「威」という漢字が含まれているからだろう。畏れて従うというような意味がある。しかしこれを英語で書くと先生の権限を認めて委譲すべきだという意味になる。権限も権威も「オーソリティ」の訳語である。この言葉はラテン語からフランス語を経由して英語に入った。元々のラテン語の意味は「増える・増やす」ということのようだ。これが「書く」という意味になり、書かれたものを引用して「誰もがそうだな」と思える概念を「オーソリティ」と呼ぶようになる。ここから派生して、権限を裏書きして認めることも「オーソリティ」と呼ぶようになった。

つまり、民主主義的な用語では「社会的な合意のもとに先生に学校を管理する権限を認めること」を先生に権威を与えるべきだということになる。だが漢字に「威張る」を思わせる言葉が入っているので「先生は偉いから逆らわないでおこう」という意味に取る人が出てくる。逆に先生は税金で雇われているだけであり、自分たちの使用人だから威張られるのはたまらないと考える人も出てくるだろう。

「権限」を「威張ること」と考える日本人は多い。例えば日本レスリング協会は「自分たちは選手を選抜して指図する正当な権利がある」と考えており問題になっている。パワハラが認定されたあとでも間違いを認めない上に、スポーツ庁には平身低頭だが選手に対しては「威張って」しまう。これは権威を間違えてとらえている一例といえる。このように何かを遂行するために権限を与えてしまうと人格そのものが偉くなったと考える人が多い。「権威」とか「権限」の裏にある契約や権限移譲という概念がすっぽり抜け落ちてしまうからだろう。

そんなの嘘だと思う人がいるかもしれないので、英語の定義を書いておく。慣習的に認められた権威はあるが、最初に書いてあるのはendorse(裏付け)である。語源の「書く」という概念がそのまま受け継がれているように思える。

: to endorse, empower, justify, or permit by or as if by some recognized or proper authority (such as custom, evidence, personal right, or regulating power) a custom authorized by time

続いて責任という言葉についても考えてみよう。責には「咎める」という意味合いを持っているので、どうしても「何かあったときに責められる役割」というように思ってしまう。だから責任を取るというのは叱られることか辞めることを意味することが多い。これも英語の意味をみてみると、元々の意味は法的な説明を求められたときに反応ができるように準備をしておくという意味になる。だから反応する・対応するという言葉の派生語が使われているのである。

例えば日本語ではよく自己責任という言葉が使われる。これは何か悪いことがあったらそれはお前のせいだから俺たちは知らないというような意味合いで使われる。これは自己を責め立てるという言葉の響きのせいだろう。しかし英語で検索すると「生命は治療のために必要な力を全て持っている」という意味しか出てこない。ある界隈で使われている特殊な用語でしかない。そもそも他人に説明するという意味の言葉なのでそれが自己に向くことがないということなのではないかと思う。連帯責任という言葉もレスポンシビリティの訳語にはならない。これにはグループで連帯的な法的責任を負うという意味でライアビリティが当てられることはあるようである。英語と日本語ではこれほど違いがある。

語源を調べてみるとわかるのだが、これらはすべてラテン語を経てフランス語から英語に入った概念だ。それを日本人が取り入れる時に「法律で定めてはっきりさせておくこと」「記録を残して説明できるようにしておくこと」「役割を明確にして説明できるようにしておくこと」をすべて一括して「何かあったら咎め立てをすることだ」と理解してしまい「〜責任」という用語を当ててしまったことがわかる。つまり法的な契約の概念がなかった当時の日本には「咎め立てる」という概念しかなかったのだろう。現在はここから「では咎められなければ何をやっても良いのだな」という自己流の民主主義の理解が広がっている。

生徒が責任を持つべきだと英語でいうと、生徒が自分たちの意思でクラスの運営を決めてその結果にも責任を持つという意味になる。このためにどんな権限が必要なのかということが議論されることになるだろう。だが、これが日本語になると、何かあった時に生徒をグループで叱責するという意味に捉える人が出てきてしまうのである。

ついでなので他の「責任」についても見てみよう。

説明責任という言葉がある。accountabilityという。もともとは「数える」だが、これは借金などの記録をしておくことを意味していた。つまり貸し借りを数えた帳簿を作っておいていざという時に説明・証明できるようにしておくことを意味している。これがビジネス全般に広がり、何かあったときに説明できるようにビジネスの詳細を記録することをaccountabilityというようになった。これも「説明系」の言葉であり、説明に失敗したら叱られるという意味ではない。また、相手の疑念に答えずに言葉遊びでごまかすことも説明責任とは言わない。問題は相手の疑念であり、その背景には相手が権力を移譲しているという前提がある。現在の安倍政権が説明責任を果たさないのは民主主義が一時的・条件付きの権限移譲であるということを理解していないからだと考えられる。

こうした契約意識の希薄さは国会議員を交えた政治議論にも多く見られる。

国民は天賦人権ばかりを強調するが国を守る義務を負うから自衛隊に入って叩きなおすべきだという意見がある。権利と義務が非対称でありその間のつながりが一切説明されていない。これは権利と義務を個人的な「貸し借り」概念に置き換えて、これだけ貸してやっているのだから借りは兵役で返すべきだというように解釈した上で、都合よく「俺に従うようになるようにお前の根性を叩き直している」という主張に利用しているからだろう。

この権利義務関係は「税金を払って恩を売っているのだから、当然あるべきサービスを受け取れる権利を持っている」という貸し借りの概念に置き換えられている。途中のプロセスが抜け落ちてしまうので、過剰な権利意識と呼ばれるのだろう。

契約概念に置き換えて「権利・義務」を厳密に使うと、「日本国民は私有財産を持つ権利があるから同時に他人の財産を尊重する義務がある」のように裏表概念として用いるべきだということになる。父兄は子弟に教育を受けさせる権利があるのでそれが行使できるように適切な努力を払うか誰かに権限を移譲して環境を整えてもらうべきだということになる。また父兄は自分たちが持っているのと同じ権利を他の子弟の父兄にも認めるべきだからお互いに協力して他人の権利を遵守する義務を負うということになる。過剰な権利意識にはつながらないし当たり前のことであり「日本人には天賦人権などおかしい」という話にはなりようがない。つまり「天賦人権などおかしい」と言っている人はそもそも権利・義務という概念をよく理解していないのだろうということになるだろう。

学校の問題は「自分たちの権利を行使するためには他人の権利を守る義務もあるということなのですよ」というだけの単純な話なのだが、権利だけを主張するわがままな人が増えたからみんなに兵役の義務を課して自衛隊にぶち込んでしまえなどということをいう人がいては却って問題は複雑化する。本来は法律について理解すべき国会議員が却って議論を混ぜかえしているという残念な状態にあるのだ。

こうした問題が起こるのは、封建的な政治意識しか持たなかった日本人が契約概念を理解しないままで英語を適当に訳してしまったことに原因の一端があるようである。

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安倍政権を倒してもバラまかれた種は消えないだろうという話

暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? を改めて読み直した。短い文章なので全部読んでもらったほうがよさそうなのだが、論旨は次の通り。

先生が怒っても最終的に体罰がないことがわかっているので真剣に捉えない子供がいる。 怒られるのも嫌なので隠すがバレても反省しない。これがエスカレートして行き、全てではないが性的な嫌がらせや犯罪といえるものに行き着くこともある。 彼らにひどいことをされた人は先生と社会に不信感を持つようになる。 良かれと思って抑止力をなくした結果、学校はもっと耐えがたい場所になった。

それに対する感想も読んだ。書いたのは先生だそうだ。懲戒がないのは懲戒の実行が面倒だからなのだそうだ。現在の学校システムは普通の子供が損をする仕組みになっていると指摘する。

今回はタイトルを「安倍政権が蒔いた種……」にした。しかし、実際にはこのような風潮があるから安倍政権が生まれたのか、安倍政権がこうだから学校現場が荒れたのかということはわからない。安倍政権が学校システムを悪くしたのは学校への支出を減らし(あるいは不足を黙認している)からなのだが、先生と生徒が書いたものをみると問題点をあえて言い出す人はいないようだ。明らかな嘘をついていても認めないのだから潜在的な問題点を認めるはずはない。従ってこの問題はさらに悪化するものと思われる。このため安倍政権が蒔いた種は今後政治の規範として残り続けるのではないかと思う。さらに無責任教育が蔓延する中で道徳教育にまで手を出してしまったのだから混乱はますます広がることになるだろう。すでに先生の思い込みを正解とみなしそれ以外の意見を排除する道徳教育が行われているという指摘もみられるようになった。

原因や対策をあれこれ考えた。原因はなんとなくわかったが、対策を日本語で書くのは難しそうである。

対策は先生に権限を与えて学校を立て直すか、生徒に自主性をもたせて自律的に問題を解決することなのだろうが、日本語にはこの類の「民主主義用語」が著しく欠けている。今回「権限」「説明」「責任」「義務」「法的責任」といった言葉が出てくるのだが、裏付けがあまりにも貧弱であり一つ一つ個別にみてゆくとかなり時間がかかりそうである。

日本が国際社会において「民主主義社会の一角」とみなされつづけるためには自主的なコミュニティの運用ができて当たり前の社会にならなければならない。

抑止力がないとコミュニティが健全に保たれないという概念を国際社会に当てはめると抑止力としての軍事力や核の脅しがなければ世界の平和は保てないということになる。日本は平和憲法を持っていると言っておきながら、実際には「押し付けられた平和を嫌々守っている国」ということになってしまえば国際社会からは「反省なき国家」だとみなされることになるだろう。70年も平和憲法を抱えていたのに反省していないのだから、日本は常に監視しておかければ何をしでかすかわからない国ということになってしまうだろう。中国や韓国が責任あるアジアの大国になれば日本は用済みである。

さて前置きが長くなった。まず取り掛かりとして「なぜ学校が生徒を懲戒しなくなったのか」を考える。今回引用した先生の感想文を読むと懲戒を実行するといろいろと面倒だからだそうだ。ではなぜ面倒なのか。

高度経済成長期の学校は「先生には従うべきだ」という意識で運営されていた。これは高度経済成長期の子供達の親が今よりも権威主義的な時代を生きてきた戦中世代だからである。なんとなく先生には従うべきだという規範意識が残っていたのだろう。当時の学校には理不尽で厳しい校則があった。例えば地元の福岡県には中学生になったら丸坊主にするという校則を持った中学校があった。

ところがこうした理不尽さは徐々になくなってゆく。それは民主主義意識が進展していったからだ。この民主主義というのは保守派に言わせれば「権利ばかり主張し義務を果たさない」悪い制度である。しかし実際には見返りばかりを主張するが責任を果たさないと言い換えた方が良い。そしてこの責任という言葉が日本では極めて曖昧に使われている。

しかし、学校を健全に保つためにはなんらかの権威は必要である。天賦の権威はなくなったのだから、誰かが契約をし直して権威付けをやり直す必要がある。だが、日本はこれをしてこなかった。

一つ目の選択肢は学校というコミュニティを運営する責任は学生にあるのだから学生に任せて規範的な運営を行うべきだというものである。これが民主主義型の解決策である。学生をエンパワーメントして権威を与えるということになる。

もう一つの選択肢は生徒にはまだ判断力がないのだから先生に権限を移譲するというやり方がある。つまり先生の権威を認める「契約」を交わせば良いということになるだろう。

ここで、責任とか権限という言葉が出てきた。権限は英語でいうとオーソリティで権威とも訳される。権威というと日本語では「王様の権威」というように天賦である印象が強い。ところが英語のオーソリティはオーサーが語源になっている。なぜ作者が権威になるのか、そして合意を得ることを「オーソライズする」というのか、日本語で生活していると答えられないのではないかと思う。実はこの概念は全てつながっている。そして、英語のオーソリティには天賦のという意味はない。だから王様の権威という言い方は実は間違っている。

先生の感想に戻ると「権限も委託されていないし、それどころかどんな権限があるのかすら明確ではない」人たちが集まってもソリューションを提示することができない。だから次第に面倒になり野放しになってしまう。さらに予算が少なくなった上に消費者化した保護者から過剰な要求を突きつけられると、先生は「面倒に関わっていては自分に課せられた課題が果たせず、悪い学校に飛ばされてしまう」という意識を持つようになる。つまり、先生には権限が与えられていないどころか過剰な要求ばかりが課せられており、これが見て見ぬ振りを生んでいると言える。

もう一つの問題は生徒に話し合わせて解決策を導き出すというやり方なのだが、これは時間と手間がかかる。この解決策の一番の問題点は自治を行う学生に自由度がないということがあるのではないだろうか。例えば「私はこのように荒れ果てた学級に参加するのが嫌なので授業の時だけ来ます」と決めたとしても、それが認められる可能性はない。実行するためには予算も必要になるだろう。つまり、生徒は管理責任だけを押し付けられて権限が与えられないということになる。これも実は生徒が責任を果たすために十分な権限がないということを意味している。英語だとエンパワーされていないので責任を果たさないということになる。これも実は権限移譲の問題なのである。

問題はこればかりではない。問題行動が起こす生徒がいると保護者たちはこれを「学校の破綻」と捉えるようだ。これまで数回で見てきたように日本人は「普通は問題のない円満な状態だ」と考える。先生が書いた方の文章には、先生に必要なサポートが与えられていないという一節がある。このサポートが何を示すのかは不明であり、ここに問題の一貫があるといえるだろう。さらに次のような一節があり、その深刻さは想像以上だ。

教員も保護者も「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」ものなのでした。「学級経営はうまくいっていませんが、最大限努力します」と言おうものなら、保護者は「わが子のクラスがそんな状態になっているなんて」と卒倒しそうになり、逆上して烈火のごとく怒りをあらわにします。

つまり、普通の学校はうまくいっているはずなのに、自分の子供が通っている学級だけが問題を抱えているということで「損をしている」ように思えてしまうのかもしれない。そもそも、解決策がない上に問題そのものが認知されない。するとますます問題が温存される。すると普通の学生は「誰かが上から力で押さえつけない限り人々は自制的に行動しないはずである」と考えるようになるのだろう。

こうした人たちは次世代の有権者や消費者になるのだが、関わりを最小化して自分たちが得られる見返りばかりを主張するようになるはずである。また、監視や罰則がない政治家や官僚が嘘をついても「世の中はこんなものだろう」と思うようになるはずだ。

実際にTwitter上ではこうした議論が多く見られる。ということは、学校の見て見ぬ振りはもっと前から横行していたことになる。話し合うための共通の素地がないというのがいかに恐ろしいことなのかがわかるが、これについては次回以降考えたい。

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なぜ少女は髪の毛を染めることを強要されたのか

生まれつき髪の毛が茶色い生徒が髪染めを強要され最終的には登校拒否に追い込まれた挙句、学校を提訴した。

学校を訴える以外に解決方法がなかったところをみると、教育委員会などからの調整はなかったのだろう。さらに、学校や関係者の間には外見上の理由をもとに学業の自由を侵害するのは人権侵害にあたり憲法問題であるという認識がなかったことが伺える。だが、それとは別にこの問題にはなぜ学校側が追い込まれていったのかという背景がある。学校がなくなるという危機感があるが、どう対処していいかわからず、外見を取り繕おうとしたのである。つまり、体裁を守ることの方が生徒に必要な教育を施すべきだという理念や目的に勝ってしまったということだ。

問題になった学校は羽曳野市にある府立の懐風館高等学校だ。口コミサイトを見ると市内にある二つの学校が合併してできた学校のようで、偏差値が45であることがわかる。平均点を50とすると平均よりやや下の学校ということになる。

生徒が口コミを書き込むサイトを見ると積極的に入るというよりは、入れるから入ったという学生が多いようだ。制服はかわいいと評判が高いが、その一方で髪型や服装の検査は厳しかったのだという。外見に力を入れていたことはわかる。

大学進学はできないことはないが、あまり手助けをしてもらえなかったという声が散見される。が、高校受験で思うような成果がでなくても、思い直して勉強し近畿圏で名前が知られた私立大学に行くことはできる。先生が相談に乗ってくれたということを書いている生徒もいた。

しかし、どちらかというと専門学校に行く生徒も多いようだ。懐風館は専門や就職なども多く、進学を目指してる方はやめておいた方がいいという情報があった。一方で、専門学校に行きたいと言ったところ嫌味を言われたという人もいる。

口コミサイトには、一定以上の大学に入る人は面倒を見てもらえないという情報があり、また定員割れだったから入ったという情報が複数ある。また、先生が指導したにもかかわらず盗難が多い学年があったそうだ。羽曳野高校時代は野球部が有名だったので、今でも野球部の活動に力を入れているらしいが、学生の方はあまり熱心ではないらしくうちはほとんどがクラブに入ってないですねみなさんバイトや遊びの方を優先してますという評判もある。

つまり、外見の保持には厳しいが、その教育内容はまちまちであることがわかる。さらに、学校全体で取り組む行事がない。羽曳野高校時代には野球部が有名で、文化祭もそれなりの規模だったがそれが縮小されたという書き込みがあった。学校が一丸となって何かを成し遂げるということがなく、それが内面での風紀の乱れに及ぶことがあるということである。

中でも気になった書き込みは以下のものである。

ひとり学校で一番偉そうにしている先生がいる。みんなその先生を恐れているように見える。その人の言うことは絶対。間違っていても言うことを聞く。先生が言っていることは絶対。先生同士のほめあいなれあい、見ていてしんどい。

伝統的な神学校のように「伝統を守ろう」という共通の目的がないために先生の間でまとまりがないのかもしれない。まとまりがないから「皮膚がボロボロになる生徒がいるから例外措置をみとめてはどうか」という調整ができなかった可能性があるのではないだろうか。さらに不登校になったがどう処理していいかわからず、名簿から名前を決して、周囲には「いなくなった」と説明したようだ。マスコミの取材がTwitterに流れてきていたが「裁判で判断してもらえばいい」という他人事のような教頭の言葉だった。あまり、当事者意識もなさそうだ。

確かに多くの生徒はそれなりに学校生活を楽しみ、そこそこの進路を見つけて卒業してゆくのだろう。しかし「規格」にはずれた生徒は大変だ。名前が通った大学に行きたいといえば支援してもらえないし、髪の毛が茶色だと染髪を強要される。

今回の学生は母子家庭に育っているという。さらに肌に合わないのか髪の毛を染めて皮膚がボロボロになった。それで染髪を止めたいと言ったところ、それでは学校にこなくても良いと言われ、過呼吸を起こし、実際に登校できなくなった。

ここまでを読むと「学校の管理責任」を問いたくなるし、多分マスコミが取材をするときにも学校を責めるようなトーンになるのでは無いだろうか。だが、学業もそこそこで先生や生徒にもそれほどのやる気はないし、場合によっては窃盗も発生するというような学校で「生徒の品質」を守るためにはどうすべきだろうか。

一番良いのは、やる気のない生徒を退学させて良い生徒を集めることなのだろうが、そもそも学年によっては定員割れを起こすような状態なのでそれはできない。だから、外見を整えて「きちんとしようとしている」ように見せることが優先されるのだろう。このようにして少しでもよい学生を集め、企業からの評判を保とうとしている様子が浮かんでくる。

つまり、どうしていいかわからないから、間違った方向に努力が進んでしまったということになる。背景にあるのは先生のリーダーシップの問題なのだが、先生も「成果」によって、やりがいのある進学校に行けたり、どうしようもない底辺校に飛ばされるわけだから、それなりに必死だったのではないだろうか。

しかしそのリーダーシップが行き着いたのは人権侵害である。が、いったんモラルとモチベーションがなくなってしまった状態では「これはいけないからなんとかしよう」と言い出す人はいなかったのかもしれない。

結果的にうまくいっている学校はやり方のノウハウを意識的に持っている(つまり形式知によっている)か伝統という形で暗黙知的に持っている。前者ならふわふわなケーキを作れるノウハウをレシピ本にして持っているか、美味しい味噌ができる味噌蔵を抱えているということになる。どちらにせよ、美味しいケーキ屋さんやうまい味噌屋さんになれる。すると大勢のお客が集まり、店員にもやる気と熱意が生まれる。

しかし、それが失われたところではとりあえず店内をきれいにして、そこそこのケーキや味噌を売るしかない。そこに形の崩れたケーキや味噌があってはならず「規格外品」としてはじき出されてしまうのである。

こうした問題が起こっているのは何も学校だけではないのではないだろうか。「憲法問題だから人権は守られなければならない」という人が多いが、実は人権侵害の裏にはもちべーしょんの低下がある。つまり、どうやったら競争できるかがわからなくなると、組織は集団による弱いものいじめを始めてしまうのだ。

学校側には多分生徒をいじめるなどという意図はなかったのだろうが、結果的には生徒を育てるという最優先すべき問題を「とりあえず外見を取り繕う」という問題のしたにおいてしまったということになる。さらに、社会も当事者たちもそのことに全く気がついていない。

このような状況にある人が多いのだろう。多くの人の共感を集めた。しかしながら、これに共感する人たちもまた何が悪いのかがわからないので「憲法上の人権問題だ」と騒ぐだけだ。だから、逆に「だったら憲法から人権条項を取り除こう」などと言い出す人が現れる。

我々の社会が、意欲が低下したかなりまずい状態にあるということがわかる。

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