教室でのインシュリン注射を禁止した先生は説明責任を果たすべき

朝日新聞デジタルに教室でインシュリン注射を打つことを禁止した先生の話題が出てきており話題になっている。先生は、教育という事業を保護者から委託されているエージェントであり、そのために必要な権限を保護者から委任されている。「教室で注射を打つな」というのはその権限の行使であると考えられる。つまり、先生の行為には説明責任が生じる。教育現場であることも考えあわせると自主的に説明責任を果たすべきだろう。

この先生の判断は「インシュリン注射は危ない」という事実誤認に基づいているように思える。保健室で打たせるというのは、清潔で安全な場所で打てという意味合いで、まだわからなくもない。しかし、あまり清潔でないトイレでの注射を指示したということは「自分の視界から消えてくれ」という意味合いが強かったものと思われる。

他人が注射をしているところを見ると自分も痛いような感覚に襲われることがある。これは人間に共感能力が備わっているからだ。こうした感覚的なものは、当人も十分自覚していない可能性があるので、じっくり話を聞く必要があるだろう。

さらに、先生が「インシュリン注射は危ないのでは」と考えた時、周囲のサポートや情報があれば間違った判断をしなくて済んだかもしれない。だが、日本人には協力し合う文化がないので、間違った思い込みがそのまま温存されてしまったのだろう。つまり、何か問題があった時に周囲と話し合いをするという文化を学校が醸成することも実は大切なことなのだろう。

なぜ、隠れて注射させることがいけないのだろうか。それは、隠すことによってインシュリン注射が異常で恥ずかしいことのような印象を与えてしまうからだ。本人はインシュリン注射さえあれば普段通りの生活が送れるのだからできるだけ平常に過ごさせるべきだ。これはメガネは遺伝的な欠陥であり恥ずかしいものだから、人前では装着しないようにと指導するのに似ている。

記事の中で生徒は「将来このような無理解から注射する場所が確保されなくなるのではないかと不安を感じている」と考えていることが紹介されている。先生が与えた心理的プレッシャーは実はとても大きい。

さらに生徒は「インシュリン注射は安全である」と説明している。生徒は自分の健康状態に自分で責任を追っているだけで、その行為をとやかく言われる必要はない。にもかかわらず、先生は他人の行動を制限し、なおかつ話すら聞かなかったのである。

さて、このブログでは日本には説明責任という言葉がないと考えてきた。これは先生に説明責任を理解させるのが難しいということだけを意味するのではないようだ。学校側も単に「世間を騒がせて新聞ネタになってしまい申し訳ない」というようなことを考えている可能性もある。また受け止めたTwitterの反応も「実名を晒して社会的に制裁せよ」という声が大きい。

説明責任のような外来概念は理解されないのだが「和を乱したから制裁せよ」というような問題解決はそれよりも理解度が高いものと考えることができるだろう。村人が掟を破った人を制裁するのに似ている。村の場合は関わり合いをなくして、社会的に制裁するのだが、Twitterでは実名を晒して石を投げるのが制裁になっている。

社会的な制裁が説明責任に優先されれば、学校側は萎縮してしまい、インシュリン注射に対する正しい理解は進まないだろう。一方で、エピペンを禁止すると社会的に制裁されると考えた人たちがそれについて何も言わなくなる可能性はある。

このようにして、社会的制裁を通じて問題解決をするというのが日本人のやり方なのだろうから、それなりに尊重されるべきなのかもしれないのだが、いったんここから開き直って「問題そのものが存在しない」という、菅官房長官語法を使われると、問題があったことの証明に話が入り込み、社会を苛立たせるだけに終わってしまうといえるのではないだろうか。

こうした問題には意外と本質的な怒りが含まれている。

  • 組織が周囲と協力しつつ新しい知識を取り入れることができないため、社会的な偏見がいつまでたってもなくならならず、間違った知識が温存される。
  • 力や立場が弱い人が一方的に我慢させられる。
  • 責任の追求を恐れて問題そのものがなかったことになってしまう。

こうした不毛な議論をなくすためにも、教育現場なので、より正確な知識に基づいて、個人が説明責任を果たせるようにするべきなのではないかと考えられる。多分、一番深刻なのは知識を更新する役割を担った学校が偏見を温存して改める気がないという点なのだろう。

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須藤凜々花に説明責任がないわけ

AKB48の須藤凜々花が総選挙で結婚宣言をした。今回はこの行動に説明責任があるのかを考えてみたい。

前回、説明責任について考えた。説明責任とはエージェントの手がける事業について投資者に説明をすることだと定義した。その行動の裏にはなんらかの契約があるはずなので、契約について考えればよい。

では須藤さんの契約とは何なのだろうか。実は、恋愛禁止というのは暗黙のルールであって、契約ではない。そもそも契約はないので、果たすべき責任もなく、ゆえに説明責任もないことになる。この話は以上で終わりになる。つまり須藤さんには説明責任はない。果たすべきか、果たさなくてもよいかということではなく、そもそも責任がないので説明責任が追求できないのだ。

この件について須藤本人は「オタクは夢に投資しているから見返りがないからといって誰かを非難すべきではない」と言っている。つまりオタクが勝手にやったことであり、契約はないと言っている。ゆえに説明責任は生じないのだ。

では、恋愛禁止とは一体何なのだろうか。それは「原子力発電所が事故を起こさない」というのと同じような取り決めだと考えられる。原子力発電所が事故を起こすかもしれないという前提をおくと様々な責任が生じ、対応策を取らなければならなくなる。しかし「そもそも事故は起こらないのだ」ということにしてしまえば、対策は取らなくてもよいし、誰も責任を問われることはなくなる。かといって、事故は起こらないとみんなで思い込んでも事故はなくならない。

AKB48グループは取り立てて歌がうまいわけでも、踊りが上手なわけでもない女性の集まりである。売り物は疑似恋愛だ。そのことは売り手側も狙っているだろうが、実はファンもなんとなく了解している。そこで「恋愛はないことにしよう」と取り決めている。こう取り決めることで恋愛があった時のことは考えずに済むので丸く収まるのだと考えられる。

しかし、これを実際に契約にしてしまうと、複雑な問題が生まれる。一番厄介なのは憲法や各種労働法制上の問題だろう。なので、雇用者であるプロダクションやプロデューサーたちもこれをルールですよとは言わない。なんとなくほのめかしている。

この問題の面白いところは、誰も契約を定めていないのだから、誰も法的な執行を行わないということだ。つまり「エンフォースメント」に当たる概念がないことになる。そのため、実質的には野放しになっていて、ばれなければ恋愛をしてもよいということになっているのではないだろうか。ファンの中には純粋に「恋愛は禁止されている」と考えているものもいるだろうが、一方で「それなりのことはしているだろうなあ」と想像している人もいるだろう。

にもかかわらず、この取り決めが「全く存在しない」とはいえない。実際にメンバーは「AKB48は恋愛禁止です」と言っているし、この取り決めを破ったという理由で制裁されたメンバーもいる。峯岸みなみは、丸坊主になりAKB48から降格させられた。指原莉乃は博多のグループに左遷させられた。単なる機体なのだが、その期待が裏切られればそれなりの怒りが生まれるので、その怒りがグループ全体に及ばないように、自己責任という名目で私刑にしてしまうのだ。これはファンへのメッセージになっているだけではなく、同時にメンバーへの見せしめになっており、誰も責任を取らない約束を守らせる動機として機能している。

だが、須藤さんのようにいったん脱退することを決めてしまうと、特にこのルールの有効性は失われる。もともと法的な根拠など何もないのだから「ごめんなさい」で済んでしまうのだ。面白いのはAKB48の少女たちがこれをきちんと理解しているという点である。総選挙のスピーチを聞くと、彼女たちはまともな知的能力を持っているとは思えないのだが、それでも自分の処遇となると正しい判断ができるのだ。これは空気による暗黙の強制が日本人の行動にかなり早いうちから備わっていることを意味する。

空気は個人の我慢によってなりたっており、集団社会で生きてゆく上ではとても大切な取り決めである。芸能人だけが空気に縛られている話ではなく、会社勤めをする大人や官僚も空気に支配されている。そもそも我慢をしないで輪を乱したという理由だけで左遷したり降格したりするというのは、サラリーマン社会が原型になった一種のパロディーになっている。

空気による制限と私刑は日本人の行動様式に最初から備わっているので、すべての用語が日本語で片付く。空気、みせしめ、まるくおさまる、わ、我慢というのはすべて大和言葉か漢語である。我慢のように本来とは全く異なる使い方をされる用語もある。一方でアカウンタビリティに関係する言葉はすべて英語であって政治家のような人たちですら理解ができない。

須藤さんが掟破りをしたのを起こったのはファンだけではなかった。実際には恋愛禁止のルールを押し付けられた側の人たちの方が強い拒絶反応を持ったようだ。中にはインスタグラムを通じて無言の圧力を送った元メンバーもいた。これも我慢を強いる空気が相互監視的な圧力を強めて行くのに似ている。一番苛烈な例は第二次世界大戦下の日本だろう。息子を兵隊にとられて殺されたような一番の被害者が「あの人は浮かれている」などと言って、普通の市民を告発したりしたのである。

なお、この話は週刊文春に須藤さんの恋愛話が乗ることを予測したスタッフが「だったら結婚話にして話題を提供すればよいだろう」と演出した可能性があるという話が飛び交っており、秋元康が仕組んだに違いないなどと尾ひれまでついている。

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