不景気と失われた20年の歴史

ふと思い立って「不景気の歴史」を時系列で並べてみることにした。基本的にはアメリカで貿易不均衡がありそのバランスを取る為に各国にしわ寄せが来るという形になっている。




一方で、多くの国が基軸通貨国アメリカに依存しており、この体制からぬけだすことができない。2013年現在、アメリカ連邦政府は法律で定められたぎりぎりまで借金をしている。プラザ合意のような国際協調が再び行われるかもしれないが、ヨーロッパにも日本にもそのような余裕はない。

合わせて、派遣法やサラリーマンの給与についても書いた。派遣法は景気が良いときに改訂されている。

給与の水準の変化は政権交代と大きく関係がある。つまり、このまま低水準で平均給与が変わらなければ政権交代にまでは発展しないかもしれないが、下がれば政治の不安定化を招くだろう。また、給与水準の変化は、日本の政策というよりは海外の需用の変化に影響を受けている。つまり、海外の不調は直接日本の政権を揺さぶるのである。

一方で新しい不安要因もある。それが少子高齢化だ。1997年をピークに労働人口は減少に転じた。これを解決する為には労働・生産人口を増やす必要があるのだが、具体的な策を論じる人は少ない。

プラザ合意を経て円高不況

1985年のプラザ合意でドルの価格が235円から150円台にまで急激に下落し、日本の製造業は不況に陥った。背景には日米の貿易不均衡があった。日本では所得税減税などが起こり、余剰資金が土地に流れた。日本から見たアメリカの土地の価格も値下がりしたために、アメリカの資産を買う動きも起きた。

資産バブル(日本)

1986年〜1991年。強い円を背景にしてバブルが起こる。ちなみに最初の派遣法ができたのは1986年、バブルの最初の年にあたる。1987年まで中曽根政権だった。バブル崩壊の直接のきっかけは、大蔵省の「土地関連融資の抑制について」だとされる。バブル崩壊の後「非自民」の連立で細川政権が誕生した。バブル崩壊の後1993年まで宮沢内閣。

また非正規労働者という言葉が一般的ではなく、労働調整は「リストラ」を中心に行われた。

IMF危機(韓国)・アジア通貨危機

1997年からアジア各国で通貨危機が起こる。震源地はタイで、1997年7月だった。アメリカのヘッジファンドの空売りが原因とされる。急速な経済成長を背景に海外から資金が流れ込んでいた。韓国はIMFに支援を要請し、代わりに構造改革と経済の自由化を受け入れた。労働市場改革なども含まれる。タイ、インドネシアでも通貨が下落しIMF管理体制に入った。

日本の給与のピークは1997年。バブルが終ってもしばらくは平均給与は上がり続けていたらしい。終身雇用の為、業績に関係なく給与は上がり続けている。名目GDPもこのころまでは上がり続けている。つまり、資産バブルが崩壊して、日本の経済が低迷したというのは正しくない印象のようだ。1997年からGDPデフレータは下落を続けており、今も改善されていない。

GDPデフレータと消費者物価の間には無視できないずれがある。消費者物価指数には企業の設備投資などが含まれていない。例えばIT関連の設備は性能が大幅に上がっても価格が下がるというようなことが起こる。つまり、企業の設備投資の主役が工場からIT設備に移ると、景気に与えるプラスの影響も小さくなるというわけだ。

なぜ「デフレ」が進行しているのかという点を国際状況のみからは説明できない。強いて挙げるとすれば、労働人口の減少だ。1997年ごろが労働人口のピークになっている。その後、安定状態を経て2002年ごろから減り始めた。年金生活に入れば支出を抑えるのは当然だ。

加えて、男性の正社員が減少し、それを女性(男性に比べると平均給与が低い)やパートなどに置き換わって行く。すると国内市場が冷え込み、さらに給与が下がって行くというスパイラルがあることが考えられる。すると子育てがしにくくなり、さらに少子化に拍車がかかる。また、若年層も生涯給与の伸びが期待できないため、生活水準を抑えてしまうといったことが考えられる。ただし、1997年の時点では非正規雇用は限定的で、専門分野に限られていた。

インターネットバブル

1990年代末期から2000年まで。IT企業への投資熱が高まる。日本ではIT景気とも言われる。エンロンやワールドコムの粉飾決算が問題になり、その後の企業倫理向上への関心が高まることになった。エンロンは1980年代から粉飾会計に手を染めていたとされている。

2001年から小泉政権。

BRICs

2001年に次世代の経済を牽引する国として挙げられた、ブラジル、ロシア、インド、中国を指す。ゴールドマンサックスが使い始めた。2011年には南アフリカが加入した。中国は2002年ころから経済成長期に入った。

住宅資産バブル(アメリカ)

2003年ころ。2005〜2006年ころにピークを迎えた。アメリカでは住宅の価値が値上がりするので、転売するたびに資産が増えた。住宅の価格も担保にしてお金を借りることができたために、消費が活発だった。

アメリカや中国の景気が好調なのを背景に日本の名目GDPは少し持ち直した。しかし平均給与は減り続ける。2004年に派遣法が改正されて、製造業の派遣が認められるようになった。背景には中国とアメリカの好調な需要があったのだから、派遣法の改正は、人材をリストラするために行なわれたのではなく、供給する為に行われたのだということになる。

日本の景気は持ち直したものの、実感なき好景気などと言われた。また、団塊の世代が定年を迎え、生産人口が減少し始める。

Next Eleven

2005年にゴールドマンサックスが使い始めた用語。韓国、バングラデシュ、エジプト、インドネシア、イラン、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、トルコ、ベトナム、メキシコを指す。

2006年9月まで小泉政権。そのあと、安倍、福田、麻生と一年ごとに政権が変わる。2007年のサブプライムローン危機を受けて景気が悪化したためだ。企業の儲けは給与に反映されなかったが、景気が悪化すると給与が急速に下がった。この時点では失業率の悪化にはつながらず、失業率が悪化するのは2008年ころからだった。ワーキングプアという言葉は『ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない』(2006年7月23日)ごろから注目された。

サブプライムローン危機

2007年ころから住宅価格よりもローン残高の方が割高になり、住宅を手放す人が増えた。いったん住宅市場が冷え込むとローン利率が跳ね上がり状況を悪化させた。しかし、住宅を差し押さえても銀行はローン金額を回収できない。金融市場は複雑な金融工学の上に成り立っており、クレジットデフォルトスワップ(CDS)などの金融商品の格付けも信頼できなくなった。

このころから日本の名目GDPは落ち込み始め、それが給与の減りに直結した。こうした不満が自民党の政権交代の直接のきっかけになっているものと思われる。これがリーマンショックにつながり、ヨーロッパに飛び火したことが2013年現在の状況につながっている。高い成長率を維持したのは中国のみだった。

リーマンショック

2008年9月15日に、リーマンブラザーズが破綻した。2007年にサブプライムローンが不良債権化したことが発端になっている。このころからPIIGSという言葉が使われるようになった。統合されたEUでは国単位での財政規律が問題になり、ユーロの信用を大きく毀損した。ヨーロッパでは若年層の雇用問題が深刻化し、今も収まっていない。

この時にQE1が始まり、2010年まで続いた。その後、2010年11月からQE2が開始され2011年まで続く。QE3は2012年9月に開始された。市場から住宅ローン担保証券(MBS)などを買い取って、大量にドルを供給した。このため、ドルが安い状態(すなわち円が高い状態)が継続することになる。アメリカの失業率は思ったほど改善しておらず、政府は限度額ぎりぎりまで借金をしている。このために強制的な財政赤字の削減が予想される。

ちなみに日本の給与の底は2009年。この後、わずかながら上昇していた。衆議院選挙の結果民主党が政権をとったのもこの年。マニフェストが流行語となり、国政も冷静に「エンジニアリング」すれば刷新できるものと信じられていたが、約束は実行されなかった。

欧州ソブリン危機

2009年にギリシャが財政を粉飾していたことを認め、危機がヨーロッパに広がった。ソブリンリスクとは国家がデフォルト(つまり倒産)してしまうリスクを指す。2010年ころから顕在化しはじめ、今に至っても解決していない。

2009年6月1日にゼネラルモーターズが連邦倒産法11章の適用を申請した。

2011年3月11日に東日本大震災が起きた。原発事故の処理にいくらかかるのかは分からず、日本の景気のどのような影響があるのかもよく分かっていない。後の円安の影響もあり、エネルギー調達コストが増大している。

アベノミクスと中国の景気減速

2012年末に安倍首相が発表した金融緩和政策の結果、株価が上がり、極端な円高が是正された。2012年までの不調は「民主党の政策運営が悪かったからだ」と解され、自民党への高い支持率に結びつき、現在に至る。金利の上昇が懸念され、消費者物価(エネルギーと食料)のみが値上げされるのではないかという懸念もある。

同時期に中国経済が減速している。ヨーロッパ経済が不調で輸出が伸び悩んでいるためだと考えられているが、富裕層の預金が地方開発に向かっており、これが回収できない可能性がある。シャドーバンキング問題と呼ばれている。影響は限定的とする専門家とバブルが崩れるのではないかという人で意見が分かれている。

ヒトラーの思想はいかにして生まれたのか

今回は多様性について考えている。英語やドイツ語では健康な状態を「whole」という単語で表現する。これを日本語にすると「まっとうな」だろうか。ここから何かが欠落すると流れが失われる。流れが失われると何が起こるのかというのが今回のテーマだ。極めて単純にいうと、暴走が始まるのである。

ヒトラーはオーストリアで生まれた。父親は私生児(つまり、祖父が誰だということが分からない)だったのだが、その事は後に問題になる。画家を志すが挫折し、ウィーンの底辺で生活する。このころに様々な「思想」に触れる。当時、ドイツ民族はそのアイデンティティを模索中であり、ロシアでは社会主義が姿を現しつつあった。ヒトラーが身につけたのは、そうした知識の寄せ集めだった。今で言うと、ネットで集めた知識を元に偏った思想を強化してゆくのに似ている。

ヒトラーが寄せ集めの知識から思想をでっちあげる

ノーマン・デイヴィスは、『ヨーロッパIV 現代』の中で、白人に共通の気質を見つけようという取り組みを「有りもしないもの」と一刀両断にしている。つまり、アーリア人というのは科学的事実ではなく、思想(あるいは幻想)であるということだ。

ともかく、ヒトラーはそうした知識を寄せ集め、「思想」を作り上げた。ドイツをドイツ人の手に取戻すということと、そのためにはドイツの東側に生存のための領域が必要だというのが、その主旨だ。

いったんはクーデターのような形で政権奪取に失敗した後、大衆を煽動することに成功した。ここから彼は民主主義のルールを一切破らずに、ドイツ全体に君臨することになる。

でっちあげられた思想が現実を変えようと取り組む

『ヨーロッパIV』を読み進めると、いささか気分が悪くなってくる。思想が寄せ集めなので、冷静に考えれば論破できそうなものなのだが、ドイツ国民はヒトラーを支持した。第一次世界大戦にも負けて、多分「考えるのを止めた」のではないかと思う。唯一この狂気を説明できる論理は次のようなものである。

思想が寄せ集めの場合、現実との間に差違が出てくる。すると普通は「ああ、思想が間違っているんだな」と考えるだろう。しかし「現実が有るべき姿ではないのだ」と考えることも可能である。つまり、現実から「有るべきでない姿」を切り取ってしまえばいい。

ヒトラーに率いられたドイツ人はまさにそれを実行した。ポーランドの知識層を殺し、近隣諸国に攻め入り、ユダヤ人や障害者などを「効率的に」抹殺しはじめた。今もって何人のユダヤ人が殺されたのかは分かっていないものの、だいたい400万人から600万人が殺されたそうである。

現実をいくら変えても、出発点が間違っていては、幸せになれない

しかし、ヒトラーはそのことで幸せにはなれなかった。極秘裏の調査の結果、自分の祖母がユダヤ人らしい家庭に奉公していたことを突き止める。確かな証拠はないものの、自分がユダヤ人の血を引いているかもしれないのである。部下に命令を出し、故郷の村を爆破する。

ヒトラーは「全ての権威あるものが自分の価値を認めている」と主張しつつ、言いようのない自信のなさにうちひしがれる。ソ連軍が検死した時には「自分で自分を去勢しようとしたのでは」という疑いがかけられたそうだ。自殺する直前まで結婚をしなかった。『ヨーロッパIV』では自分が父親になることを怖れた可能性が仄めかされている。

一言で表現すると「狂っている」で終ってしまうのだが、ヨーロッパ全体がこの狂気に巻き込まれたというのはまぎれもない事実である。民族や国民国家という概念が急ごしらえで作られていた、この当時のヨーロッパには「それぞれの価値観を持った人たちが、共存する」という多様性は失われ、純粋さを取戻すという名目で、大規模な殺人が効率的に行われることとなった。

多様性が失われたことでこうした暴走が起こったというよりも、実は健全な状態には多様性が含まれていると考えた方が分かりやすい。状況が不健全化すると「純化しなければ」という運動が起こり、自身を攻撃し始める。これが「多様性を損なう」ことになるということだ。そこで起こるのは成長どころか、自身の破壊である。

また、現在の欧米人のエリート層はこうした歴史を学んでいるというのも重要な点だろう。だから「国民国家」という概念に対して懐疑的な見方をするだろう。それを考えると、日本人の手に日本を取戻すというような主張が、どのように響くのかということがよく分かるのではないかと思う。

ハイル・ヒトラーの意味

多様性について考えている。前回までに、多様性は「動きのある状態」だと考えた。異なった価値観が同じ場に共存するというようなイメージだ。まだ、それがどのような意味合いを持つのかは分からないのだが、取りあえず、違った価値観がぶつかると新しいアイディアが生まれ、それが豊かさにつながるのだと、いささか功利的な説明をしている。

この「多様性」を考えるに当たって、対極にある「排他性」を考えてみることにした。最初はユングあたりを読んで、ヒトラーについて言及しようと考えたのだが、『エッセンシャル・ユング』などのユング研究書はナチズムに関する言及を避けているように思える。(実際にはユングはナチズムについて発言をしているらしい)また、ユングは曼荼羅を書いて「ああ、今日は心が乱れているなあ」とか「今日はよくできた」などと観察している。その関心はもっぱら自分の心の中を向いているようだ。

ハイルというドイツ語は「完璧な状態」を示す

その代わりに見つけて来たのが、「ハイル(heil)」という表現だ。普通「ハイル・ヒトラー」は、ヒトラー万歳と訳される。しかし、この単語は英語ではwholeを意味する一般的な形容詞なのだそうだ。Google翻訳を通してみると、heilは「ヒール」すなわち「癒す」となる。どちらかが誤訳というわけではなさそうだ。つまり、英語やドイツ語では「完全な、全体である」という用語と健康な状態を同系統の単語で表現するようなのだ。英語の辞書でwholeを引くと「健康な」という定義が最初に来る。つまり、全体性を回復する動きが健康になる、癒されるというイメージである。これが「完全な」というイメージにつながる。

また、ナチス式の敬礼は「ローマ式」だと考えられているらしい。これを理解するには、少し歴史を見る必要がある。西ローマ帝国が崩壊してかなり経ったあと、ローマ教会は神聖ローマ帝国を後継に選んだ。これが徐々に「ドイツ人の帝国」を形成する。実際には1つの国ではなく、他民族を含んでいた。この神聖ローマ帝国は、「フランス皇帝」ナポレオンの時代に崩壊した。神聖ローマ帝国の皇帝はローマの権威とは関係がない「オーストリア皇帝」になり、ハンガリーと合邦してオーストリア・ハンガリーを形成する。

つまり、ドイツ人は、ローマ人の後継だという漠然とした自負はあるものの、現代的な意味での「ドイツ人意識」というものは持っていなかった。そもそも「ドイツ人」という言葉が何を意味するのかという明確な定義は今もってない。長い間神聖ローマ帝国の人たちは「ドイツ人」意識を明確に持つ必要がなかったのかもしれない。言語としては明確に他者と区別されるドイツ語を話しているのだし、指導者層として役割も明確だったからだ。しかし、その自意識は結局の所、ローマ教皇に与えられたものであり、自分たちで作り出したものではなかった。

アドルフ・ヒトラー(オーストリア出身)が台頭し、カール・グスタフ・ユング(スイス人)が「人格の統合」について取り組んでいた時代のドイツ人たちは「自分たちがどのようなアイデンティティを持つか」という点について確かな見解が持てない、とても不安定な時期にあったのだということが言える。

古い枠組みがこわれ、急ごしらえのアイデンティティが作られる

ここから徐々に作られるのが「アーリア民族」という意識だ。ヨーロッパの中のドイツ人という位置づけから、世界を指導するインド・ヨーロッパ系の正当な代表だという意識が無理矢理作られる。そして、インド・ヨーロッパ系ではないユダヤ人が排除されるようになるのである。インド・ヨーロッパ系を広く指す「アーリア民族」とそもそも定義のはっきりしないドイツ人はイコールではない。そこで「〜ではない」人たちを置く事によって、自分たちの優位性と純粋さを証明しようとする。

排除すべき他者ができると、社会の弱くてみにくいところを「ユダヤ人」に押し付けるようになる。しかしながら、なぜそうした思想を持つようになったのかはよく分からないし、それがどうしてドイツ人に広く受け入れられたのかも、なんだか分からない。

つまり、最初から細部の整合性を欠いた思想であり、それが行動に移る事で、さらに支離滅裂な単なる大虐殺へとつながって行ったのだと考えられる。

ドイツは結局第二次世界大戦に破れて、長い間分断していた。これが戦後再統合されて、ヨーロッパの中のドイツ人という新しい意識を作り出したのだった。

多様性が失われるのは、その社会が危機にあるからだ

100x100興味深いのは、このようにめちゃくちゃになった状態で、人々が陶酔しながら「全体」とか「健康な状態」を意味する言葉を叫んでいたという点だ。つまり「全体の調和が乱れて、不健康な状態であったから」こそ、このように叫び続けなければならなかったのではないかと考えられる。つまり、純粋さや均質さに対する指向というのは、逆にバラバラになりつつあるという危機意識の裏返しに過ぎないのである。

この「多様性を認めない時代」の分析から分かるのは「多様性がある状態とは、あるまとまりが包括的にスムーズに流れている状態健全な」ということだ。

「ヘイトスピーチ」が危険なのは、極論すれば、攻撃対象になっている人たちが「かわいそう」だからではない。それは「ヘイトスピーチ」を叫んでいる人たちがバラバラになりつつあり、それに気がついていないからだといえる。彼らはもしかしたら「異物の排除」に成功するかもしれないが、それでも問題は解決しないに違いない。いったん気が抜けたようになり、更なる獲物を求めてさらに過激な行動に出るしかない。

アイルランドのジャガイモ飢饉

図説 アイルランドの歴史によると、経緯は次の通り。1841年当時、アイルランドは連合王国の植民地だった。1800年頃の人口は400万人だったのだが、40年で人口が倍の800万人に増加した。ベルファスト以外に都市がなく、工業はほとんどなかった。故に、ほとんどの人たちが農業に依存している。歴史書によってはこれを「政府の不始末」としているものもある。

本来、穀物は基本的な農作物で、余剰農作物が海外に輸出される。しかし、アイルランドは植民地であり価値のある農作物はイギリスに輸出された。アイルランドでは兄弟が土地を平等に分ける習慣があり、小分けにされた土地で自分たちのために作れる作物はジャガイモしかなかった。歴史書にはなぜ40年の間に人口が倍増したのかという記述はないのだが、少なくともジャガイモだけ食べていればなんとかなる状態だったらしい。

 

しかし、1845年にジャガイモにウィルス性の病気によって収穫の1/3がだめになってしまう。その年には貯蔵があったのでなんとかなったのだが、1846年も同じように不作だった。不作はその後5年間続いた。

1846年にはイギリス政府からトウモロコシ公共事業が与えられた。しかし、その後政権交代が行なわれ、地方のことは地方でやるようにという自由放任政策が取られ、福祉政策は後退した。地代を払えなくなった小作たちは地主たちから農地を追い出され、アイルランド中をさまよう事になった。

その間もアイルランドからブリテン島に向けて食料は輸出され続けたのだが、中央政府はアイルランド人には冷淡だった。「野蛮で遅れており、怠け者だから」こういう事態に陥ったというわけだ。ノーマン・デイビスの『ヨーロッパIII 近世』はこのあたりちょっとおもしろおかしく書いており、「ジャガイモを食べていれば、踊ったり、密造酒を飲んだりすることができた」と言っている。

結局、アイルランドでは下層階級を中心に100万人が死に、残りの100万人は国を逃げ出した。その後、海を渡った親類を頼った移民が相次いだ。行き先はアメリカやオーストラリアだ。その後も流出傾向が続き、1930年までに移民の数は400万人になった。

船の旅は決して楽なものではなかった。1/5が途中の船の上で亡くなったそうである。しばらくの間彼らはアメリカの下層階級を構成していたが、第二次世界大戦後になってケネディが大統領にまで登り詰めた。

この飢饉の結果起こった人口流出は結局回復しなかった。現在のアイルランドの人口は南北あわせて600万人程度だという。このジャガイモ飢饉の評価は立場によって議論が別れる。非支配階級の人びとが亡くなったり流出したことは確かで、純粋なケルト語話者は大幅に減り文化も失われた。

類似点と相違点

日本との類似点と相違点を洗い出してみよう。

まずは類似点から。閉鎖的な経済圏でイノベーションが起こりにくかった。資本も不足していたとされる。農民達は土地を所有できなかったから生産性を上げようと言うインセンティブも少なかっただろう。現代の日本には農奴はいないから相違点のようにも見える。しかし非正規労働者が1/3というのだから、状況は同じようなものだろう。

まがりなりにも暮らしてゆける手段があり、多くの人が同じようなものに依存するようになっていた。

中央政府は問題を解決するために、やる気やイノベーションといった複雑なプロセスを取らず、手っ取り早い手段に訴えた。これがトウモロコシ公共事業だ。

急激な変化が起きてその産業が破壊されると地域経済がパニックに陥った。

 

次に相違点だ。

日本が戦後海外との貿易で資産を蓄積しているのに比べ、アイルランドは植民地なので搾取されるだけの存在だった。日本では国民は選挙を通じて自分たちの代表を選ぶことができることができるようになっている。

一方、アイルランドには受け入れ先があった。長年の植民地支配を通じて英語を習得していた。またアメリカは多くの労働力を求めており移民の受け入れ先になることができた。日本人の海外移民は難しい。外国人との接触にすら慣れておらず、中国語にせよ英語にせよ最初から習得しなければならない。

また「失われた10年」とか「20年」とかいわれるようにじわじわと進む日本と違って、アイルランドの飢饉は5年という短い期間に起こった

結果

当初、アイルランドの飢饉は1年限りのものと思われていた。その場しのぎの福祉政策が取られたが、翌年にも同じことが起こったので「自己責任」の名の下に、福祉政策は切り捨てられてしまう。その間も穀物はアイルランドから本国に送り続けられていたが、これを農民に与えようという人たちはいなかった。

一方、農民の側も自分たちでなんとかしようという気持ちにはならなかったようだ。自力で資本を持つ事ができなかったことが大きいように思われる。その証拠に危険を顧みず渡ったアメリカでは成功者もあらわれている。中央政府は、その場しのぎの福祉政策に頼ろうとしたのだが、経済回復の見込みが得られず、結局支えきれなかった。結果、多くの人が国を捨てることになったのである。

アメリカでは、アイルランド人の中にも成功者はいた。しかし本国では怠けた人なのだから困窮しても仕方がないと考えられたのである。

2013年1月31日:書き直し