萩生田文部科学大臣の「グラウンドゴルフスキャンダル」について考える

萩生田文部科学大臣にスキャンダルが出た。グラウンドゴルフ大会に援助をしていた疑惑があるそうだ。読んでみたのだが文部科学大臣辞任と豚汁というのがいかにもバランスが悪いなあとおもった。これをどう捉えるべきかと思ったのだがこの戸惑いこそが本質なんだろうなと思い直した。




国会が終わってしまえばそれほど問題にはならなくなるだろう。マスコミは「野党の審議拒否」は伝えるが、官邸に個人的に恨まれかねない政治家のスキャンダルそのものは伝えない。国会が終わると火種が消えるのでこのニュースも扱われなくなるだろう。ちょっとタイミングが遅かった。結局「騒がれることが悪いこと」なのであり、悪いことが一律に騒がれているわけではないんだなあとため息が出るだけだ。

「利益供与」の内容なのだが、お弁当・豚汁・グラウンドゴルフの景品など「これくらい別にどうでもいいじゃないか」というものだった。おそらくこの程度のことをやっている政治家は多いのだろうが、普段はたいして問題になることはない。「俺が大臣をクビにした」と言いたい人が出てくるまで指摘されることはないのである。しかし、証拠があれば形式上はかなり厳しく判定される。証拠が上がって露見すると文部科学大臣をやめなければならないというのが「相場」になっている。実際に「この程度のこと」でやめた大臣たちが最後まで本会議にも出てくることはなかった。

全体的にとてもバランスが悪い。

かつて金権政治家は厳しく断罪された。我々が議員や大臣にある程度の期待を持っていたからである。ところが今はそうではない。「ああ、みんなやっているんだろうなあ」としか思わない。つまり、平成時代というのは議員の権威が失墜して「この程度のこと」を責めなくなった時代でもあるのだ。またため息がでる。

一方で有権者の方に問題がある。「少しの利益供与でも認めてしまうとキリがないから全部禁止している」のだから豚汁もダメということになる。ところがこれも行き詰る。今回のグランドゴルフの件でいうと、有権者たちは明らかに萩生田さんに期待しているからだ。振舞ってもらう側はダメとは思っていない。つまり日本人は「自分がおいしい思いができないこと」が嫌いなだけで、政治家の利益供与自体をいけないとは思っていない。だからなくならない。

おそらく大した饗応でもなかったのだろうが、やらないと「なんだ萩生田さんはケチだな」という話になるはずだ。みんな表向きはおねだりしないが期待を持っていてそれが裏切られると怒り出す。それが村(萩生田さんの地元は東京なのだが……)というものである。今回これが露見すると次は振る舞えない。そうすると「ああ、あの人やっぱりやっていたのね」ということになってしまうだろうし「もう役に立たなくなった人」だと思われるだろう。でもそれはそれで構わない。別の誰かを探せばいい。代わりはおそらく誰でもいいのだ。

アメリカでは自分が応援する大統領候補や議員候補を当選させるために寄付をしたりボランティアをしたりする。だから政策について勉強もするし「この人でなければ」と思う。ところが日本人は自分が応援した政治家を議会に送り込もうなどとは思わない。政治にそんな期待はもともとしていない。有権者が期待するのは「政治家がどれくらい自分たちのところに何かを持ってきてくれるのか」ということだけである。猫ならネズミを採ってきてくれればそれでいいと日本人は考える。顔の違いはわからない。採ってくるネズミの数が大切なだけで猫そのものには興味がない。

日本は民主主義が定着していないというような言い方はもちろんできるのだが、最初からそれほど期待もしていない。誰か出さなければならないならせめておいしい思いをさせてくれる人がいい。それだけである。

そもそも政治にそれほどの期待がない上に政治家に高い倫理性を求めなくなったせいで「この程度のこと」では誰も驚かない。ただ「野党に餌を与えない」くらいのニュアンスで閣僚を辞任させて隠しただけなのだ。辞任させられた菅原一秀元経産大臣などは「運が悪かった」ということになるが、代わりは誰でもよかったということでもある。菅原さんが辞めて政治が混乱したという話は聞かない。おそらく萩生田さんもそうだろう。誰か大臣という名前の人がいればいい。

国民は動かない。だから継続的に何かを与え続ける必要がある。それが大型予算である。だがそれも続きそうにない。例えば菅官房長官のホテル50カ所構想などがそれだ。Twitterではバラマキ批判が起きていた。

だがこれも実は見掛け倒しである。金を配るとは一言も言っていない。景気がいいバラマキのように一瞬見えるのだが、その内容をよく読んでみると「お金を貸す」というだけのものである。官邸がいろいろバラマキたくても財務省がOKを出さないのだろう。日本は空前の黒字超過なのでお金は余っていてその上超低金利になっている。必要なのは資金ではなく需要なのだが、政府に信頼がないので国民は未来に期待をせずしたがって誰も投資をしない。そんな中お金を貸しますよと言っているだけである。この財政投融資についてQuoraで聞いてみたがレスポンスはなかった。誰も説明できないのだ。にもかかわらずTwitterでは「バラマキだ」「亡国だ」と騒ぎになっている。つまりみんな政権批判には関心があるが政治には関心がないのである。批判する側も実は政策にはたいして期待していないことになる。

日本の政治には軸がない。このため思いつきの判断や政策が横行し、知識に基づかない非難が飛び交っている。それでも我々の国はなんとか動いているように見える。だが、もしかしたら我々は単に自由落下しているだけなのかもしれない。

神奈川県の情報流出事件と統治の危機

神奈川県で個人情報が流出する事件が起きた。データ総量は27テラバイトだったそうだが、容疑者は「3年前からやっていた」と言っている。おそらく総流出は相当なものになるだろう。この事件から何を読み解けばいいのかを考えてみたい。




第一の考察点は「最後のセキュリティホールは人間だった」というものである。この事件が起こる前の「お花見問題」ではシンクライアント方式の議論があった。情報が分散されるクラウド型やPC型よりも昔のホスト方式(今はシンクライアントと呼ばれる)の方が有利だというようなことが議論されていた。

システムが堅牢に作られていてもそれを扱う人間の問題は無視されてきた。終身雇用型・自社調達の環境に慣れた日本人は従業員は「問題なく」ルールに従うと考えてしまうのだが、その考え方はもう通用しない。

今回は富士通系のリース会社がデータを消去して廃棄会社に渡していた。つまりデータは消去されていた。ところがデータラベルを消していただけで情報は残っていたのだろう。データを復元することができてしまった。復元したのは仕事で使おうとしていたそれなりに知識のあるIT会社の経営者だったという。

次の考察点は「日本型の組織は垂直の職掌分業には向かない」というものだ。前回の文書管理の問題では菅官房長官はおそらく文書管理には興味がないということがわかった。中間の官僚は文書管理には詳しいが、彼らは表向きには内閣を補佐しているだけである。それでも成り立ってきたのは政治家の側が官僚を信頼して任せてきたからだった。ところが官邸主導の名の下これが崩れてきている。

両者に共通するのは、日本型のマネジメント慣行には実は意味があるということである。ところが日本人はこれを言語化してこなかったので、なし崩しになっても何を失ったのかを意識しにくいのだろう。

今回の問題では中途採用の正社員が入社直後の3年前からやっていたという。日本では終身雇用制がなし崩し的に崩れたために、こうした変則的な雇用体系に対応するマネジメントが育っていない。今回も「監視がなく盗み放題」だったそうだが、まさか中古のハードディスクが簡単に転売されるなどとは思っていなかったのではないだろうか。

もちろんお花見名簿破棄問題と神奈川県の情報流出問題は別物なのだが、官公庁の雇用とマネジメントという共通の課題がある。

よく「日本の政治が劣化している」と言われる。おそらく政治家の心持ちの問題を言っている人が多いのだと思う。だが、実際には現在の雇用環境に見合ったマネジメントスタイルが確立されていないという問題がある。統治哲学と言ってもいいが、政治哲学のない安倍政権が長かったせいで統治制度が劣化しているのである。

統治にとって文章管理は国の基礎である。例えば太閤検地は「戦国時代」と言われる内戦状態からの回復過程で徴税のための記録を再整備しようという試みだった。太閤検地は記録をするだけでなく記録の基礎になる単位まで作り直したと言われる。記録が乱れていくということは統治能力が失われてゆくということを意味している。現代民主主義ではこれに説明責任という全く別の責任も伴う。安倍政権は説明責任を果たしていないが、おそらく統治の根幹である記録管理もできなくなっているのだろう。

この問題は「ベンダーが悪いのか県庁が悪いのか」という犯人探しが興味の対象になっている。問題の根幹がわからなくなった時誰かを責め立てるのは常套手段なのだが、それによって問題が解決することはない。

与党も野党も頼りにならない今、こうした点に問題意識を持つ新しい政治的リーダーの存在が待たれる。さもなければ国はバラバラになってしまうだろう。

延期される憲法改正 – 日本人は意地悪なので一番欲しいものは他人には与えない

護憲派の毎日新聞社が「首相、憲法改正「20年施行」を断念」と伝えている。護憲派・毎日新聞社の高笑いが聞こえてきそうである。いわゆる読者のメシウマ感情を刺激する記事だ。事実上断念ということなので総理の口からこれが語られる事はないだろうが、読者たちはニヤニヤしながら安倍首相を眺めることになる。今日のエントリーで言いたいのはこれだけである。つまり私も村特有の意地悪根性を持っていることになる。




だが、それで終わるとエントリーにならないのでいくつかのことを考えた。

第一に安倍首相の「官邸主導」は配下にいる人を恫喝する事はできても人を動かすことはできなかったという事だ。安倍首相は「一度裏切った人を忘れない」という性格で知られているそうである。このため、二回目の政権につくと官僚と役人の人事を握って取引しようとした。官僚側の人事は今や2014年にできた内閣人事局が握っている。また公認権も党中枢が握っている。これが彼らの考える力強いリーダーシップである。

人事恫喝があるので、政権中枢・政党中枢におもねらないとよいポストが得られない。議員は一国一城の主人なので「一議員に止まる」という選択肢もあるが、官僚は人事だけが重要だ。こうなると内閣の顔色を伺い、白を黒と言われたら「それは黒でございます」と言い続けなければならない。これによって失われたものは表に出てこない。

日本型の組織では実際の知識は末端が担っている。例えば文書管理の問題ではコンピュータを使った文書管理の実際と法体系に熟知した中間的な官僚が全ての知識を持っている。ゆえに恫喝型の組織はやがて機能不全に陥る。政府の説明がだんだん「崩壊してゆく」のは知識の循環がうまく行かないからである。簡単に言えば菅官房長官はコンピュータのことも文書管理のこともわからない。彼がわかるのはお花見の名簿が表に出ると首相がヤバいということだけである。つまり、力強いリーダーシップを発揮すると日本は組織が壊れてしまうのである。

次に安倍首相は状況を作れる政治家ではないなとも思った。強引なリーダーシップが効力を発揮するのは「チェンジマネージメント」を行うときだけである。変革型のリーダーは強権を発動することがある。そして自民党には派閥闘争を経て勝ち上がってきた「政局を作れる人たち」と参謀がいた。変革の意思を失い派閥闘争をしなくなった自民党ではこの政局力が消えているのだろう。

あるテレビの政治評論家が「菅官房長官は女房型のように見えて実は状況を仕掛けて作る人ができる人だ」と言っていた。自民党は派閥闘争の歴史なのだがにらみ合いでは膠着状況に陥ってしまう。そこで状況を作り出す人が必要とされるのである。最近顔を見なくなった田崎史郎さんも「政治には勝負が必要だ」などと言っている。

小泉純一郎首相は仕掛け型の政治家だった。郵政民営化に反対する人は悪だと決めつけて選挙をやり敵対派閥を殲滅させてしまった。ビジョンを語るというわけではなく対立構造を作って膠着を打開するのである。

安倍首相は憲法改正のビジョンを語るわけではなく単に願望をほのめかして「あとは国会でお決めいただく事ですから」と言って逃げてしまった。合理的に考えれば「内閣は憲法を遵守する義務がある」ので憲法改正は言い出せないのだが、状況が仕掛けられると合理性が吹き飛び「勢い」で物事が決まってしまう。短い期間であれば安倍首相が憲法改正を強引に指導しても良かったのだ。だが、安倍首相はビジョナリーでもなければ状況を仕掛ける型のリーダーでもなかった。単に自民党延命のために担がれたお神輿だったのである。

最後に憲法改正議論というのが実は虚像だったということも分かった。

今回の「事実上の延期」に関して「左翼が邪魔をするからだ」という人は大勢いる。だが「なぜ今変えなければならないのか」を言える人はいない。これは実践が伴っていないからである。

政治は実践で、実践にしたがって憲法も変わってゆくべきなのである。ところが平和主義にもいわゆる積極的平和主義にも実践がない。平和主義の人たちが平和主義を実践しているわけでもないし、改憲派が尊敬される日本のために何かしているという話も聞かない。私も含めてそれは議論のための議論であり、したがって別に変えなくてもいい程度の話なのである。日本がリーダーシップを発揮するのは国際社会(端的に言えばアメリカ)に阿り中国に対抗するためであって信念に伴った実践ではない。

だがよく考えてみると日本の政治は何かを決めて何か行動するためにあるのではない。その人たちが一番やりたいことをさせないように監視して縛りあうのが目的なのだろう。だから野党は絶対に政権は取れないし与党は憲法を自分たちの好きに変えて国家を私物化することが許されないのだ。

日本人は論理的に考えて決めることはできないのだが、意地悪に相手を縛り付けることはなぜか阿吽の呼吸でできてしまう。おそらくは村という狭い共同体で、そういう「意地悪文化」を育んできたのだろう。