「初めての楽天モバイル」の印象は顔は劇画だが体は幼稚園児の落書きのようだった

楽天モバイルが1年間無料を実質上延長するプランを出した。4月1にからは1GB以下であれば引き続き無料で使えるという。Rakuten Miniという1円で利用できる端末もあるので申し込んで見た。結果的に「タダより高いものはない」と思い知らされることになった。と同時に三木谷さんという人は経営者には向いていないんだろうなと痛感した。

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渡部建の謝罪とテレビの中の身分制度

アンジャッシュの渡部建さんが謝罪会見をしたそうだ。正直興味が持てなかった。一応ワイドショーの後追いを見たのだが特に何かを感じさせる要素はなかった。結局のところは夫婦の問題に過ぎないので今になって考えてみればなぜあんなに叩かれたのかよくわからない。ただ、「テレビの時代」が終わったことはよくわかる。

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守屋光治

本日はライトユーザーについて考えるのだがなぜかタイトルは人名である。守屋光治という人がいる。Men’s Non-Noの専属モデルをやっているそうだ。先日この人のYouTubeチャンネルを見つけた。正確にはMen’s NON-NOのウェブ担当のようである。Men’s NON-NOのモデル中でも特に洋服に詳しく大学で服飾の勉強をしたという。今ではエディターとしてもページを持っているそうだ。モデル兼エディターという華やかな経歴である。

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Via Borgonuovo21, Milano

古着屋で夏物のジャケットのセールをやっていた。900円で売れなかったのだろう。多くのジャケットが半額になっていた。その中にGorgio Armaniを見つけた。偽物だと思われたのかもしれない。ラベルを見たら確かにBorgonuovo21という見慣れない表記が入っている。聞いたことがない。素材はリネンにシルクが混じっているようだ。触って見たらくたびれたネクタイのような手触りがある。シルクのネクタイから光沢がなくなるとこんな手触りになる。素材は本物のようである。

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「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論

大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。

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東須磨小学校の教師になってはいけなかった先生と親になってはいけなかった人の共通点はなにか

東須磨小学校で虐待暴行犯罪に加担したと見られる教師たちが言い訳のコメントを出した。「教師になるべきではない人たちだな」と思った。こういう人たちからは教員免許を取り上げるのが一番だというのが最初の印象である。




しかし、これを別の話と組み合わせて考えることでまた違った見方ができるようになるのではないかと思った。それが幼児虐待だ。「自己肯定感の低さ」と「マニュアルの不在」という組み合わせが共通しているように見えるのだ。

東須磨小学校の先生の言い訳のコメントを見ると加害側の教師たちの歪んだ現状認識が見えてくる。と、同時にこの人がなぜ重用されていたのかもかなりあからさまにわかってしまう。

加害教師の首謀者だった女性教員は、まず教師は子供達のことを書き、次に「教師をかわりがっていた」と主張している。つまりすべて他人目線で「思いやりのある私」を演じているのだ。子供の件は男性教師へのいじめとは全く関係のないのだから、無自覚のうちに好ましい教師像という仮面が張り付いてしまっていることがわかる。虐待の事実が表沙汰になった今それは自己保身にしか映らないがそれでもいい教師のフリが止められない。

考えてみれば異常な話である。男性教師は辛いカレーをなすりつけらえ泣き叫んでいる。これに対して「彼が苦しんでいる姿を見ることはかわいがってきただけに本当につらいです」と言っている。文章が理路整然としている分だけ散乱した自己認識が痛ましい。

もちろんこの文章からはそこから先のことがわからない。

「相手のためを思ってやった」という同じような供述は虐待に関与した親に見られることがある。ときを同じくして船戸結愛さんを殺害した船戸雄大被告の裁判での様子が出てきた。FNNの女性アナウンサーが記事を書いている。

加害男性(義父)である船戸雄大被告には、理想の家庭を作りたいという体面があったがことはわかる。母親の優里被告は自分の気持ちを言語化することができずただただ周囲に憐れみを乞うてか弱い女性の演技をしているようだ。

医師によると優里被告も雄大被告も自尊心が低かったということである。自尊心の低さを隠すために子供にしつけと称して支配を試みていたということになるのだが、雄大被告が自分の自尊心の低さを認識していたのかはわからないし、それを言語化できていたのかもわからない。そもそも自尊心の低さというのは何なのだろうか。

まず最初に違和感を感じるセリフは「バラバラになる」である。雄大被告は結愛さんを病院に連れて行かなかった理由を家族がバラバラになるからと説明しており、女性アナウンサーはこれを「理解できない」と書いている。実際にバラバラになるのは他人から見た自分たちと実像の乖離なのだろう。雄大被告らは大麻所持が見つかっておりさらに理想と現実が乖離していたことがわかる。すでに自己像はバラバラになっておりそれを偽りの演技だけが繋ぎ止めているという痛々しい状態になっている。

他人から見て整っていればそれでいいというのは自己保身のように見えてそうではない。そもそも他人の目無しに自己が存在しなくなっている。それは多分「自尊感情」ではなく「自己の不在」だろう。

FNNの文章を書いた女性のアナウンサーは母親に心情を重ねて「支配されていた母親が父親から逃れられなかった」と片付けてしまっている。一方、デイリー新潮は雄大被告の来歴を書いている。

父親に虐待されていた経歴のある雄大被告はもともと上場企業に勤めていたが、母親を助けるために会社を辞めて札幌に戻った。ところが子供のいる女性との結婚を母親に反対された。もともと理想が高かった雄大被告は「母親を見返す」という気持ちから子供に厳しく接するようになったのだという。

FNNの文章で「自己肯定感が低い」と簡単に書かれていた中身が少しばかり見えてくる。他人からの評価と乖離である。自己はバラバラ担っているが体裁だけがそれをまとめているという姿である。そこに子供という不確定要素が入れば、当然爆弾は破裂するだろう。

優里被告も破綻しかけた家庭で育ち自己肯定感が低かったために雄大被告の期待が言語化できず「雄大被告が望みそうなこと」を「先回りして」一覧表を作って子供に押し付けていたそうである。彼女もまた他人の気持ちを優先してしまうのだがどうやれば他人の期待に応えられるのかがわからない。つまり、母親も単なる黙認者ではなく加害者だった可能性が高いのである。優里被告も雄大被告の目を気にしている。

こうした人たちを救うためにはマニュアルを作って「理想の家族のなり方」を教えてやる必要がある。受け身型の日本教育が行き着いた極北と言っていい。自分なりの価値観が作れないのだから当然そうなってしまうのだ。

東須磨小学校の件について「女性教師は自己中心だった」と置いたのだが、実際にはそうでなかったのかもしれない。この女性教師もまた他人が期待する教師像を演じてきたのかもしれないと思うのだ。教師という職業には高い言語化能力が求められるはずだが、彼女はおそらく自己認識もできないしなぜ教師をいじめたのかが言語化できないだろう。さらに彼女は言語能力も高く前校長にも認められている。つまり女性教師は他人指向で成功してしまったが故に暴走を止められなくなってしまったのだと仮定できる。

神戸市の教育委員会は迷走していて「カレーを自粛する」としてTwitterで叩かれている。原因究明ができず自分たちに火の粉が降りかかることだけを恐れているようにしか見えない。

その裏で東須磨小学校では生徒のいじめが急増していたそうである。NHKでは教師間のいざこざが子供に伝染したのではと書いているのだが、実際にはマネージメントの不在が両方の原因の可能性もある。つまり東須磨小学校や神戸市教育委員会には学校を運営する能力も資格もないかもしれないのである。

この女性教師も「うわべだけ」が評価されていた可能性がある。実際のマネージメントはめちゃくちゃになっているかもしれないのだが、それは誰にも気づかれなかったということになる。実は解体・分析されるのは教師ではなく学校システムそのものなのである。義務教育なんだから体裁だけ整っていればそれでいいという目的を失った人間製造工場に起きた不具合なのだ。

他人の指示によって動く「考えないロボット」のような人間を大量に製造してしまったわ我々の社会は「自己肯定感」も供給し続ける必要がある。つまり「こうやったら理想的な父親と認められますよ」という認定制度や「こうやったら理想的な教師と認められますよ」という認定制度を作って、個人を監視しなければいじめや虐待を防げない。おそらく神戸市の教育委員会に健やかな教育とはどういうものなのかを考える能力はないだろうし、第三者委員会にも答えは出せないはずだ。そもそも炎上を背景にしており他人の目だけを気にしているのは明白だからである。

もちろん「他人の価値観でなく自分の価値観で生きる」という選択肢もあるはずなのだが、誰もそれを与えてはくれないし、そんなものは存在しないようだ。そればかりかTwitter上では「13年では生ぬるい」とか「実名を晒して教員免許を剥奪しろ」というような声が飛び交っている。ただ、他人を罰することしか解決策を見出せないのである。

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早いうちから囲い込みを始める日本人にはアップルもディズニーランドも作れない

最近iPhoneを買った。そのうちFOMAが停波になるという話を聞いたからである。そこでSIMを探したのだが結局諦めてしまった。今回観察したいのは「恐れ」が作る停滞である。大げさに言えば社会と協力体制が構築できないことで成長から取り残されているという現象だ。




まず問題なのか選択肢の多さである。そして一旦選択すると抜けられないようになっている。「この業界はある程度儲かる」となると過当競争が起きる。そして業界が大きくならないうちに囲い込み合戦を始めてしまうのである。

顧客獲得競争が激化すると顧客獲得コストが膨大になる。会社は一旦つかんだ金蔓からその原資をしぼり取らなければならない。こうなると顧客は気軽にお試しができなくなる。するとお客は逃げてしまうのである。だから日本の産業は成長できないのだ。

格安SIMは「半額キャンペーン」が横行している。だがそれは一年間半額とか半年間半額である。逆に言えば「将来確実に二倍に値上がりするものを買ってくれ」ということである。将来劇的に値上がりするものを買う人などいないということを誰も認識できない。日本の通信事業者はそれくらい遅れている。

さらに店はお客が選択できないように情報を撹乱する。キャンペーンの内容がコロコロ変わる上に、選択基準がバラバラで比較できないからそのうちに選択に疲れてしまう。ところが疲弊しているのは実はお客ではない。

ある店員は「SIMフリーにしないとどこの格安スマホも使えない」という。そこでNTT DoCoMoに電話するとSIMロック解除をしているかどうかは契約していない端末についてはわからないという。ところが、実際にはSIMロック解除をしなくてもキャリアが揃っていれば使えるというところが多い。このようなことが延々と続く。みんなが不確なことを言っていてその真偽を確かめているうちに疲れて選択そのものを諦めてしまう。だがそこで気がついたのは「この業界の人たちは誰も全容がつかめなくなっているのだ」という事実である。つまり彼らは手探りで延々と彷徨っている。多分賃金もそれなりにしか支払われていないだろう。

日本人は政治的な変化を求めないということを非難しながら書いてきたのだが、実際に変化が起きている現場は確かにもっと悲惨だ。日本人はお互いに協力できず小さな村を作って競い合う。変化にさらされた現場は大混乱し、それが定着してしまうのである。

こうした混乱の結果諦めの境地に達した人は多い。いろいろ質問をするとそのうちにお店の人の頭が飽和してゆくのがわかる。最終的に彼らはフリーズする。多分、同じような体験を何度もしているのだろう。迷いだした客に適切な対応ができないのである。お店の人は「アアマタカ」と思いながら手元にある電卓を意味なくカチャカチャとさせ始める。

顧客が慎重になるのは顧客もまた先の見通しが立たないからである。つまり半年後に面倒になれば解約できるようにしておかないと安心できないのだ。背景には終身雇用の崩壊という問題がある。でも余裕ができれば新しいサービスを探す。その芽があらかじめ摘まれてしまえばそれが回り回って社会の成長につながることはない。

ちょうどSIMを探していた時に停電の話を書いていた。いつもは動いているものが動かなくなっても「自分には何もできないし誰かが調整してくれるのを待とう」という姿勢が蔓延している。と同時に、政治嫌いも進行している。政治嫌いとは「公共への不信感」と「無力感」が合わさった状態だ。つまり、私一人が何かしても何も変わらないから目を背けようということである。

多分、全体がなんとなく機能しないことはわかっているが、自分一人ではどうしようもないという諦めはいろいろなところにあるのではないかと思う。

いろいろ観察してみるとエントリーレベルでは数百円のものが出ている。月々千円台なので実は気軽に始めさせてみれば案外使ってくれる人は多いのだと思う。フレキシブルにすれば二台持ちをしてもいいという人だって出てきてもいい。だが、日本の事業者は規模が小さすぎてそれができない。

そんなことを考えているとAppleが新しいサブスクリプションサービス(Apple TV+)を月額600円で出すという話を聞いた。大手は「とりあえず安い価格で使ってもらう」ことで顧客を大量に引き抜くという作戦に出るらしい。考えてみればこれはディズニーランド方式だ。定額制で全部使えますよということにして優位性を作り、プレミアムサービスや付加価値をつけて行くというやり方である。

日本の会社にはそのようなことはもうできない。生き残ってアップルになる前にお互いに足を引っ張りあって潰れてしまうからである。多分通信も黒船がやってくるまで同じような膠着状態が続くだろう。

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上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

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DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

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韓国ファッションの文化侵略

最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。




この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。

そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。

ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。

東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。

2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。

ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。

この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。

30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。

日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。

Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。

ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。

村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。

新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。

現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。

政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。

小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。

しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。

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腹筋を割る・体幹を鍛える

最近、腹筋を割ろうと思っている。だが、腹筋の割り方を書いても仕方がない。そこで近頃サボりがちだった個人の動機付けと成長について考えようと思う。人は誰でも「ああ、これは無理だな」という憧れを持つことがあると思う。だが、大抵はやる前に諦めてしまうのではないだろうか。これを乗り越えるためには「とりあえずやってみる」ことが重要だと思う。

腹筋を割ると言ってもすぐにボコボコにシックスパックが現れるということはない。今はその途中経過である。普通の状態では縦に筋が入っており力を入れると上の二つが「ああ、なんとなくここにいますよ」とわかるくらいになった。体脂肪率が15%を切らないと腹筋の形はきれいにはみえないそうなので、前途は厳しそうである。

まず、なんとなくはじめてみる

運動経験のある人いは理解しにくいかもしれないのだが、腹筋を割るというのは運動経験のない人にとってはほとんど「ロケットに乗って宇宙に行く」というのと同じくらい不可能に思えるプロジェクトだ。だから、成果がでなくても当たり前と考える必要がある。

あまり過大なことをやると失敗するので、最初は布団の中で5分ほど腹筋運動の真似事をするところから始めた。だから、いつプロジェクトを開始したのかはよく覚えていない。これが続いたのはとりあえず足を上げてしまえば運動が開始になってしまうからだ。そして、そのうちに効果が見えてきた。お腹を動かすと「ああ、ここに腹筋があるかな」くらいが見えてきたのだ。これまで全くそんな経験がなかったからこそ「これが効果だ」と思えたのだろう。昔スポーツマン体型だった人はそれくらいでは満足できないのではないだろうか。効果が出たと思えたからこそ、次に何かやってみようかなと考えることができた。そこから半年くらい経過しているので一応は定着させられたということになるだろう。

効果がなさそうでも無理しない

現在でも20分くらいしか運動していない。いくつか理由がある。あまり長い時間やると「いつまでも続けなければならない」というプレッシャーになる。成果が出ないうちから「いつまでやればいいんだろうか」などと考えてしまうのだ。だから、運動に関してはちょっと物足りないくらいのことを長く続けた方が良い気がする。

次に集中力が続かない。最初は腹筋運動を50回X2セットやっていたのだが、これでも疲れない。腹筋を長い回数やろうとすると知らず知らずのうちに余力を残そうとするらしい。集中力が続くのはせいぜい10回から20回というところではないかと思う。さらに、最初は腹筋運動が何に効くのか全くわからなかった。バカみたいな話だが、腹筋がどこにあるのかが理解できなかったからである。今では腹筋に力を入れて50秒数えることにしている。腹直筋の上の方だが、二つの大きな塊があるのでこれを2セットやっている。やってから気がついたのが、これを呼吸法付きでやっているのが「ロングブレスダイエット」だ。いずれにせよ、効果を見ながらフォームを意識しているとあまり多くの回数をこなすことはできない。

情報は毒にも薬にもなる

実際にやってみるとYouTubeや雑誌の特集の意味がわかるようになってくる。例えば、カーヴィーダンスモムチャンダイエットにはやたらと腰を振る動きが出てくる。腹筋を使ってみようといろいろと体を動かしてみると、腰を回したりしないと腹筋を別々に動かす必要はない。別々に動く必要がないものを鍛えても仕方がないということになる。つまり、あまり使わないから腹筋が割れている人が少ないということになる。だが、逆に腹筋の動きがわかると、あまり想像もしていなかった体の動かし方ができるということだ。

不思議なことにこうした動きをやると腹筋の形がわかってくる。するとまた効果が出たことに気がつけるのでだんだん面白くなってくるのである。やったことはないがゴルフを習いたての人もゴルフ番組を見るのが楽しいのではないかと思う。いろいろなことに気づけるからだ。また外国語の学習も同じだ。単語帳で聞いた単語がYouTubeから流れてきて意味がわかると無条件に嬉しい。学習というのは基本的には快楽による動機付けの延長なので、豊富な情報は大変良い薬になるのだ。

例えば長友佑都が体幹トレーニングについて様々な本を出している。普段は使わない動きなのであまり科学的なトレーニングをしない日本のコーチ達は体幹の重要性にあまり関心がなかったのだろう。だが、体幹が使えるようになると急に止まったり、敵に当たり負けしなかったりと、ちょっとしたところで差がつくことになる。ヨーロッパサッカーに触れた人たちや独自に研究した人たちはこの普段はやらないけれども差がつく筋力に注目していることになる。もともと怪我の克服のための始めたようだが、長友は体が大きな選手ではないが、それでもヨーロッパでやって行けるほど核心をついたメソッドということになる。こうしたことに気がつけるのも面白い。

腹筋運動に戻ると、実際にはトレーニングしている20分に意味があるわけではないということになる。単に目覚ましをしているだけあり、その他の時間にその部位を意識して動けるかどうかが重要だということになる。その状態で、例えばYouTubeのビデオを見ていると「ああ、これはそういう意味なんだな」とわかってくる。徐々に新しい視点が作られるわけである。

一方、情報が毒になる場合もある。多くのダイエット本は「とりあえず行動を起こしてもらう」のがどんなに大変なのかを知っているのだろう。簡単にすぐ効果が出るというようなことを書いているものが多い。そして見栄えのよいモデルを使って動きの解説をしている。だが、実際にはすぐにフィットネスモデルのようになれるわけではないので、がっかりしてやめてしまうことになる。

アメリカではモチベーションビデオというのがたくさん作られておりYouTubeに上がっている。これはジムに通うためのモチベーションを高めるためのビデオで、ムキムキのボディービルダーが出てくる。しかし、こういうものを見ると「ここまでになりたいわけじゃないし、これは無理だなあ」などと考えてしまう。これも逆効果だ。

さらに「有料コンテンツ」につなげたいために「今までのやり方は全部間違っている」というビデオも出ている。これを見ていると「もっと楽でいい方法があるのかもしれない」と思えてしまう。これもやる気を減退させるもとになる。とりあえず腹筋を200回やれば目標が達成できるとわかっていれば楽なのだが、探り探りやっているとこうした情報に惑わされがちになる。

ダイエットの本にはいいこともたくさん書いてあるのだが、これは無理だなというような要素も多く含まれている。この辺りの切り分けがとても難しい。

ガラッと変えた方がよいものもある

運動や語学学習のように反復が必要なものは「とりあえず始めて見る」ことと「物足りないくらいでやめておく」方が却って長く続けられるのかもしれないとも思う。ライフスタイル化したほうが長く続けられるのである。

しかし、その一方でガラッと変えてしまった方がよいものもある。体重を減らすためには食生活にも気を配らなければならない。今あるものを少しずつ減らすとその分だけストレスがかかる。こうしたものはガラッと変えてしまった方が楽だ。例えば鶏肉とサツマイモの蒸したものを塩などの調味料なしで食べるようにすると、あとは余計なことを考えなくても済む。少しだけカロリーや調味料を工夫する方が面倒なのだ。

ただ、この場合一回の食事量が減ってしまうために、少量の食事をこまめに取らないと「いつも食事のことばかりを考えている」ことになりかねない。最初はとにかくお腹が空く。また、食物繊維の摂取量が減ってしまうので、時にはお菓子などを活用しながら食物繊維を摂取しないと健康に影響が出てくる。この場合、あまり他の人たちと食事ができなくなるので、同じ目標を持っている人が周囲にいないなら、先に宣言して「お付き合いは週に一度にする」などと言ってしまった方がよいのかもしれない。

ライフスタイル化を目指すには「だらだらやった方がよいもの」と「ガラッと変えてしまった方が楽なもの」がある。

健康なモチベーション・危険なモチベーション

最後に「危険なモチベーション」について書く。この文章を書くためにダイエットについて調べたのだが、女性のモデルのなかには、拒食症になってしまったり生理が止まってしまう人がいるという記事を読んだ。ヨーロッパのモデル界の美の基準は痩せすぎになっており、健康を害するほど痩せていた方がよいとされているためだ。

モデル達が無理なダイエットに走るのは、目標が曖昧なのに、食べないことで痩せるという効果だけが出てしまうからだろう。その上「何が美しいのか」を決めるのは他人であって自分ではない。ゴールが明確にわからないので、ついつい極限まで食べなければいいのではないかと考えてしまうということになる。

自分の中に明確な目的があれば健全な状態に保っておくことが可能なのだが、基準が曖昧だと精神のバランスを崩してしまうことがあるということに気がつく。例えば「英語がしゃべれる人になる」という目標の場合、ただ漠然と「周りから英語が話せる人と思われたい」という目標設定は実は危険なのではないかと思う。自分で「とりあえず旅行ができるようになる」とか「料理レシピの動画を見ることができるようになる」といった細かい目標を設定すれば自己管理ができる。

つまり、自分で管理が可能で達成の見込みがある目標を設定することが大切なのではないかと思える。今までできなかったことを始めるというのは良いことだし、成長できるのは本能的に気持ちが良い。しかし、成長が呪いになってしまい苦しんでいる人も実は多いのかもしれないと思う。それは、多分目標設定の方法が間違っているだけなのだ。

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日本体操協会のゴタゴタについて勉強する

日本体操協会で揉め事がおきている。またかという気がする。

スポーツをめぐっては、内柴事件(2011年)、女子柔道(2013年)、相撲(2017年)、女子レスリング伊調馨事件(2018)、日大アメフト部特攻タックル事件(2018年)、水球女子日本代表パワハラ事件(2018年)、日本レスリング連盟事件(2018年)と数々の事件が起きているが、どれももやもやを残したままで消費されているのが実態である。

それぞれの問題には特徴があり一概に共通点を見つけることはできない。個人スポーツもあれば団体競技もある。オリンピックだけでなく興行的な色彩を帯びた相撲でも問題は起きている。唯一の共通点はどれも閉鎖空間で起きており周りの目が行き届きにくいという点である。問題は長い間放置されているのだが、一旦マスコミに漏れると大騒ぎになり「ガバナンスの問題だ」ということになるという経緯がとてもよく似ている。村の恥が外にさらされると世間の目が「酸素」のような役割を果たして炎上するのである。

今回の問題はその中でも最も複雑な部類に入るのではないかと思われる。問題の経緯が複雑で一概にどちらが悪いとは言い切れない。選手とコーチの間の暴力問題があり、それとは別に女子体操の私物化問題がある。この二つの要素が絡み合っており「悪者」が特定しにくい。

問題の発端は、宮川紗江選手のコーチが暴力問題を起こしたとして「期間を定めずに」コーチの資格を剥奪されたというものだった。これに怒った宮川選手(なぜかコーチではなく)が実名で記者会見をした。そこで宮川選手が訴えたのは朝日生命体操クラブへの不自然な勧誘行為だった。コーチも「裁判に訴える」などとと言っていたのだが、話が大きくなったことに驚いたのか仮処分の訴えを退けてしまったため、宮川選手の告発が宙に浮いた。最終的には塚原千恵子(強化本部長なのだが女帝という言葉の方がふさわしい)と宮川選手の直接対決になっている。

当初テレビ朝日が問題の沈静化を図ったので、フジテレビが宮川選手に単独インタビューを行い「対立」の構図がクローズアップされることになった。

こうした経緯がわからないとハフィントンポストの記事を読んでも何が何だかさっぱりと見えてこない。

キャラの濃い登場人物たち

日大アメフトの問題ではものが言えない選手たちと高圧的な監督という権力格差があったが、今回の場合宮川選手が告発に踏み切ったために「キャラの濃い」人たちの群像劇になっておりワイドショー的には極めて面白い。

まず宮川選手は単なる被害者ではなくかなり腹が据わった女性のようである。こういう強さがないとオリンピックで代表になれないんだろうなとは思う。だが「このコーチでなければダメだ」という思い込みも見られる。中には共依存という言葉を使って説明しようとする人もいるくらいである。つまり、表向きの強さと暴力さえも許容してしまう態度が共存してしまっているのである。

それに比べてコーチは様々なしがらみがあったのだろう。暴力癖があり感情が抑えられない上に、永久追放ではなく体操協会に従えば戻れる可能性があるということがわかると訴えを取り下げて宮川選手を見放してしまった。

さらに塚原夫妻(特に奥さんの方)は恰幅がよくワイドショーで悪役を努めるのにもってこいの顔をしている。フジテレビは彼女を悪役に仕立てるつもりのようで悪い女性の声色を使った演出を試みていた。夫の方も終始一貫しない態度が際立っている。「100%悪い」と言ってみたり「記者が指摘する意味とは違う」などと発言がコロコロ変わる。

どうやら昔から朝日生命体操センターに選手を引き抜くためにオリンピック強化プログラムを私物化していた疑惑があるようで、今回も正規の強化選手枠と塚原夫妻が立ち上げた強化プログラムの二本立てになっていることが問題になっている。正規のプログラムに従うと私物化ができないので、独自のプログラムを使って「裁量権が行使できる」ようにしていたと指摘されているのである。また谷岡学長が「伊調馨さんはまだ選手なんですかね」と切り捨てたように塚原千恵子さんは「宮川さんは最近成績が悪かった」と切り捨てるような発言をしている。小池百合子東京都知事にも言えることなのだが、女性の方が切断処理があからさまで容赦がない。これも彼女を悪役キャラに見せている大きな要因だろう。

体操協会もはっきりしない。「まだ何もわからない」としつつも「膿を出さなければならない」などと言っている。これまで「となり村で何が起こっても感知しない」というような態度だったのだろうが、世間の矛先がこちらに向かいかねないので慌てているのだろう。

この問題で唯一出てこないのは体操協会の会長だ。元ジャスコの社長で二木英徳さんという。実質的に体操には関与しておらず「体操協会の象徴」のような存在なのだろう。つまり統一的なガバナンスはなく男子と女子が「好き勝手に」運営していたのが日本体操協会なのだということになる。

自我の不形成と閉鎖集団

この問題を見ていると、自我が形成されていない人たちが閉鎖的な集団を作るとどうなるかということがよくわかる。この点では早くから入門して世間を知らずに育つ相撲とよく似ている。

体操は10代の後半から20代の前半がピークなので、自我が形成されていない早いうちから指導が始まる。そこで行き過ぎた暴力が生まれるのだが、団体競技ではないのでコーチと選手の間に親密な関係性が生まれやすい。宮川選手はPC的な観点から「暴力はいけない」などと言っているが実は家族も含めて暴力も「愛情表現がたままた行き過ぎただけ」だと容認している様子がうかがえる。プロになったりすると「自分で判断」する必要が出てくるのだ、プロのない体操では自我の不形成はそれほど大きな問題にならないのかもしれない。

さらに競技団体の私物化も行われていたようだ。当初、塚原負債が朝日体操クラブになぜ傾注するのか疑問だった。Wikipediaを読むともともと塚原千恵子コーチらが朝日生命の協力の元で立ち上げたクラブが母体なのだが、朝日生命は経営から手を引いており「協賛」という形で名前を使わせているだけのようである。つまり実態は「塚原体操クラブ」に有力選手を引き抜いて経営を安定させようとしていたということがわかる。問題は私企業の経営者が長い間体操協会の握っていたという点なのだろうが、それにしてもこうした慣行が長い間放置されていた理由がよくわからない。

だが経営能力の欠如は致命的だ。女子柔道も朝日生命体操クラブも行き詰っている。女子はオリンピックでは何大会もメダルに手が届かない。男子では塚原直也、内村航平までは選手が順調にメダルをとっていたのだが、そのあとの選手が出てきていない。リオオリンピックの団体選手もコナミスポーツが目立っているくらいである。コナミスポーツの方が組織的に運営できており選手層が厚いのだろう。こういった焦りが強引な勧誘行為につながったのではないかと思われる。有力な選手の引き抜きはかなり認知されていたようで、元選手たちも含めて「宮川さんを応援する」と言っている人が多い。中には「元朝日生命体操クラブなのだが宮川さんを応援する」と言っている人もいる。

対立に拍車をかけた偏向報道

このニュースでは当初テレビ朝日が協会側に立った報道をしていた。羽鳥慎一のモーニングショーでは、司会の羽鳥が元アナウンサーの宮嶋泰子を「この人はすごいひとなんです」と紹介したのだが、予断を与える言い方に「いくらなんでもこれはひどすぎるな」と思った。宮嶋は過去の取材経験から体操協会側の人間であることがあからさまである。背景を調べてみると、テレビ朝日がようやく獲得した放送権をめぐる事情がありそうだ。テレビ朝日は2018年10月の世界体操の放送権を持っている。フジテレビがNHKから引き継いで放送をしていたのだが、2017年からはテレビ朝日が担当しているということである。

テレビ朝日がこのようなポジションをとったので、これを好機とみたフジテレビは多分夏休み中だった安藤優子を召喚して宮川選手にインタビューを試みていた。こうして対立構造が作られてしまったのである。

ただ、選手が宮川側につき体操協会の側も「膿を出し切らなければ」ということになった途端にテレビ朝日は「やはり塚原夫妻側にも問題があったのかもしれない」などと言い出している。こうした態度が一貫しない日和見的な局が安倍政権批判をしても「結局は商売でやっているだけなんだな」ということになる。結局政権批判ごっこに過ぎないわけである。

経営のプロがいない

改めて考えてみると、体操選手出身の人たちが協会やクラブの経営を任されるという状態になっており、日本には経営のプロがいないことがわかる。経営文化という意味では町の少年野球団と変わりはない。これまでなんども見てきたように、こうした人たちが自分たちだけでどうにかしようとしているうちに状況が悪化してきてしまい、周囲を巻き込んで大騒ぎになる。

スポーツでは多額の金が動く。さらに選手の側もオリンピックに出られるか出られないかで人生が大きく変わる。つまり、もはや少年野球団の素人経営者だけでは運営ができなくなっているのだ。かといって全てに国が出て行って関与することもできないしやるべきでもないだろう。プロの経営者がスポーツマネジメントに積極的に関与する必要がある。

最近ワイドショーであまりにも同じようなパターンが繰り返されるので「政治のいざこざを忘れさせようと政府が何か企んでいるではないか」という人もいるのだが、実は外からの文化をまったく受け入れない内向きな姿勢が制度疲労を起こしているのだろうと思う。ただ、マスコミには問題解決をする姿勢は見られない。視聴者の様子を見ながら日和見的に態度を決めているだけなので、いつまでたっても「膿」が外に出てくるばかりで治癒しないのである。

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日本のテレビバラエティはなぜつまらなくなったのか

タイトルは煽りでつけたのだが、実は一通り考えてみてそれほど日本のテレビバラエティについて批判する気持ちはなくなっている。なぜならばもう見ていない上に「何をやれば解決につながるか」がわかっているからである。この辺りが正解がなく閉塞しているようにしか見えない政治議論とは趣が異なっている点だ。

今回のお話の要点はかなり短い。「説明できるものは再現できる」し「広く共感される」から「説明は重要」ということである。

YouTubeで韓国系のコンテンツばかりを見ているので、タイムラインが韓国だらけになっている。その中で面白いものを見つけた。「三食ごはん」のナPDが番組について英語で説明している。この人も英語ができるのだなと思った。これが何の集まりなのかはわからないのだが、MBAの授業などではおなじみのプレゼン形式であり、先日見たJYPを見ても明らかなように、韓国にはアメリカ流の経営理念がかなり入ってきていることがよくわかる。JYPはついにSMエンターティンメントを抜いて時価総額で一位になったそうだ。外国をマーケットにし海外からの投資を受けて入れている韓国では新しい経営理念を持った人たちが増えているようなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=47WPMgg6E2U

KBSからケーブルテレビに映ったナPDが作った「三食ごはん」は有名俳優が三度三度のご飯を作りながら田舎暮らしをするというだけのショーである。ぱっと見にはリアリティショーに見える。ケーブルテレビでかなりの視聴率を取り評判になり、続編も作られている。

プレゼンの内容は単純なものだ。この番組はリアリティショーに見えるのだが、ファンタジーであると断っている。田舎暮らしをして食事を作るだけがコンセプトなのだが、実際にこのような暮らしをしようとすると電気代などにも気を配らなければならないだろうし、近所の人たちとのお付き合いの問題もでてくる。つまり「おいしいところだけ」を切り取って見せているのである。韓国人でも「あのようなシンプルな暮らしに憧れる」という感想が聞かれるそうなのだが、実際にこれを同じ形で真似するのは難しいのかもしれない。ただ、韓国人は手が届かないアンリアリスティックなものではなく、できるだけ手に届きそうなものを求めているので、このような「いっけんリアルに見える」形になったと説明している。

アメリカでリアリティー番組が流行し、当然韓国にも流れてきた。当初は芸能人がソウルで豪華なパーティを開くような番組も作られた流行しなかったそうだ。つまり、韓国流にアレンジして国内で成功したことになる。

またナPDはイ・ソジンのことを自分のペルソナだとも言っている。つまり自分がやりたくてもやれないことを「リアルなファンタジー」としてテレビで再現している。年齢が若干違うのだが、なんとなく二人の顔が似ているのは偶然ではないのだろう。

これについていちいち日本の田舎暮らし番組と比較しようとは思わない。重要なのは、韓国人は外国語でシンプルに番組の狙いが説明できるという点に驚きを感じた。

日本のバラエティ番組ではまず司会者やタレントなどの「数字が取れる人」が選ばれることが多い。そしてその人(たち)を使って何ができるのかを考える。とはいえ最初から当たることは少なく、内容を変更しながら「数字が取れたもの」に着目する。だから、いったんフォーマットが固まってしまうとそこから動けなくなってしまう。つまり、何が受けるのかはわからないけれども、当たってしまったものがたくさんあるということになる。そして結果的に内輪ウケを狙ったものになる。まず業界の内部で人間関係ができており、それを国内の限られた層にプレゼンするからである。当然横展開はできないので限られた層の人たちに「失敗ができない」ものを提供せざるをえなくなる。政治やスポーツで散々みてきた「村が存続すると自動的に過疎化する」という図式がここにも見られるということになる。

これまで、言語化というものを文化的な違いとしてみてきた。それは、主にアメリカの個人主義と比較して日本文化を観察してきたからである。しかし、韓国は文化的には集団的で内向きな社会なので、言語化が得意なようには思えない。バラエティ番組に出てくる「職業的に訓練された」人たちとは違い、実際の韓国人は人見知りだ。加えて外国語で狙いをプレゼンできる人は限られてくるだろう。だからこそ、それができる人がいて実際に成功しているという点が重要である。つまり、文化的違いを言い訳にはできないということになる。

演者も演出者も自分たちの意図を明確に言語で説明ができるので、成功体験はきちんと蓄積する。一方、日本人は結果的に当たったものに固執することになるので、何が数字が取れるのかがよくわからないのだろう。

単純にコンセプトが説明できる番組は多くの人々にリーチする。

韓国の伝統的な生活を扱った「三食ごはん」が面白く見られるのは、なんとなく芸能人の私生活を覗き見しているような感覚が得られるからだろうと思う。見ているうちにぶっきらぼうにみえても本当は仲良しな人間関係が見えてくるのでさらに続きが見たくなる。もともとKBSのドラマである「本当に良い時代」のキャストが中心になっており人間関係が出来上がっているのである。

日本のお笑いタレントを中心としたバラエティショーは実はお笑いタレントたちの序列や背景がわからないと面白みが伝わらないようになってしまっているものが多い。もしくは「回すのに慣れた」限られた人たちがいろいろな素材を「うまく料理して」処理しているものが多い。そうなると結果的には全てが同じに見えてしまううえに複雑で、コンテクストを共有しない人が見ても面白くない。

もちろん日本でも「俳句を作る」ということだけで成立しているバラエティ番組がある。ここで俳句の査定をしている夏井いつきらによると、俳句という感覚的に見えるものが実は論理的であること、出てくる芸能人たちが俳句を通じて成長しつつ新たな側面を見せることなどが魅力になっているという。実は日本でもこのような番組は作れる。ただこの番組も当初は芸能人の査定が主眼であり、俳句はその構成要素の一つでしかなかったようである。

こうした内向きさがテレビのバラエティをつまらなくしているのだと思うのだが「いったいどうしてこうなったのか」がよくわからない。ただ「三食ごはん」みたいな番組を作ろうとすれば、新しい試みを許容して、PDに全てを任せるような文化がなければならないこ。プロパーの社員プロデューサだと安易に切るわけにはいかないのだろうし、そもそも試行錯誤する余裕がないなどいろいろな原因が考えられるなとは思った。いずれにせよ失敗できなくなると過去の成功体験に頼るしかなくなるわけで、それが却って過疎化を進行させることになる。

本来は、バラエティ番組を観察対象として見ていたはずだったのだが、ふと自分のブログについて考え込んでしまった。たくさんの記事を書いてきて当たったものを伸ばしてきたような印象がある。やり方としては日本のバラエティに近い。改めて成功する要素を抜き出してみると次のようになる。

  • 自分がやりたくても成果が出なかったものは整理する。
  • ある程度手応えがあったものは、何が成功する要素だったのかを言語化する。そして言語化された要素はチーム内で共有する。
  • 意図したことは一定期間はやりきってみる。あるいはやらせてみる。

言語化と仮説検証は移り変わりの早いコンテンツ業界ではかなり重要なスキルのようだ。もともと日本の製造業型の成功体験は職人技による暗黙知を経験で蓄積してゆくというやり方なので「言語化して共有する」のが苦手なのだろうと思う。外国文化に接した人は外国語としての言語を話すときに自分の思っていることを概念化して変換する必要がある。こうして言語化と抽象化の能力が鍛えられるのだろうなと思った。

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