日本で新型コロナウイルスが蔓延しないという謎

世界各地で新型コロナウイルスが猛威を振るっている。アメリカではニューヨークが封鎖された。ヨーロッパではイタリアから広がりフランス・スペイン・ドイツと上がって行き最終的にイギリスも封鎖されることになった。その新型コロナウイルスが日本ではそれほど蔓延していない。政府の対応はバタバタなのになぜかそれほど蔓延していないのである。この謎について考える。

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日本人はいかにして日本の心を捏造するのか

演歌の成り立ちについて調べたことがある。日本人が伝統をどうやって捏造するのかということがわかる。おそらくネトウヨが考える日本の伝統というのも同じように捏造されたものなのだろう。「日本の伝統」にすがって自己正当化を図るのは日本人が宗教を持たないからなのかもしれない。

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延期される憲法改正 – 日本人は意地悪なので一番欲しいものは他人には与えない

護憲派の毎日新聞社が「首相、憲法改正「20年施行」を断念」と伝えている。護憲派・毎日新聞社の高笑いが聞こえてきそうである。いわゆる読者のメシウマ感情を刺激する記事だ。事実上断念ということなので総理の口からこれが語られる事はないだろうが、読者たちはニヤニヤしながら安倍首相を眺めることになる。今日のエントリーで言いたいのはこれだけである。つまり私も村特有の意地悪根性を持っていることになる。




だが、それで終わるとエントリーにならないのでいくつかのことを考えた。

第一に安倍首相の「官邸主導」は配下にいる人を恫喝する事はできても人を動かすことはできなかったという事だ。安倍首相は「一度裏切った人を忘れない」という性格で知られているそうである。このため、二回目の政権につくと官僚と役人の人事を握って取引しようとした。官僚側の人事は今や2014年にできた内閣人事局が握っている。また公認権も党中枢が握っている。これが彼らの考える力強いリーダーシップである。

人事恫喝があるので、政権中枢・政党中枢におもねらないとよいポストが得られない。議員は一国一城の主人なので「一議員に止まる」という選択肢もあるが、官僚は人事だけが重要だ。こうなると内閣の顔色を伺い、白を黒と言われたら「それは黒でございます」と言い続けなければならない。これによって失われたものは表に出てこない。

日本型の組織では実際の知識は末端が担っている。例えば文書管理の問題ではコンピュータを使った文書管理の実際と法体系に熟知した中間的な官僚が全ての知識を持っている。ゆえに恫喝型の組織はやがて機能不全に陥る。政府の説明がだんだん「崩壊してゆく」のは知識の循環がうまく行かないからである。簡単に言えば菅官房長官はコンピュータのことも文書管理のこともわからない。彼がわかるのはお花見の名簿が表に出ると首相がヤバいということだけである。つまり、力強いリーダーシップを発揮すると日本は組織が壊れてしまうのである。

次に安倍首相は状況を作れる政治家ではないなとも思った。強引なリーダーシップが効力を発揮するのは「チェンジマネージメント」を行うときだけである。変革型のリーダーは強権を発動することがある。そして自民党には派閥闘争を経て勝ち上がってきた「政局を作れる人たち」と参謀がいた。変革の意思を失い派閥闘争をしなくなった自民党ではこの政局力が消えているのだろう。

あるテレビの政治評論家が「菅官房長官は女房型のように見えて実は状況を仕掛けて作る人ができる人だ」と言っていた。自民党は派閥闘争の歴史なのだがにらみ合いでは膠着状況に陥ってしまう。そこで状況を作り出す人が必要とされるのである。最近顔を見なくなった田崎史郎さんも「政治には勝負が必要だ」などと言っている。

小泉純一郎首相は仕掛け型の政治家だった。郵政民営化に反対する人は悪だと決めつけて選挙をやり敵対派閥を殲滅させてしまった。ビジョンを語るというわけではなく対立構造を作って膠着を打開するのである。

安倍首相は憲法改正のビジョンを語るわけではなく単に願望をほのめかして「あとは国会でお決めいただく事ですから」と言って逃げてしまった。合理的に考えれば「内閣は憲法を遵守する義務がある」ので憲法改正は言い出せないのだが、状況が仕掛けられると合理性が吹き飛び「勢い」で物事が決まってしまう。短い期間であれば安倍首相が憲法改正を強引に指導しても良かったのだ。だが、安倍首相はビジョナリーでもなければ状況を仕掛ける型のリーダーでもなかった。単に自民党延命のために担がれたお神輿だったのである。

最後に憲法改正議論というのが実は虚像だったということも分かった。

今回の「事実上の延期」に関して「左翼が邪魔をするからだ」という人は大勢いる。だが「なぜ今変えなければならないのか」を言える人はいない。これは実践が伴っていないからである。

政治は実践で、実践にしたがって憲法も変わってゆくべきなのである。ところが平和主義にもいわゆる積極的平和主義にも実践がない。平和主義の人たちが平和主義を実践しているわけでもないし、改憲派が尊敬される日本のために何かしているという話も聞かない。私も含めてそれは議論のための議論であり、したがって別に変えなくてもいい程度の話なのである。日本がリーダーシップを発揮するのは国際社会(端的に言えばアメリカ)に阿り中国に対抗するためであって信念に伴った実践ではない。

だがよく考えてみると日本の政治は何かを決めて何か行動するためにあるのではない。その人たちが一番やりたいことをさせないように監視して縛りあうのが目的なのだろう。だから野党は絶対に政権は取れないし与党は憲法を自分たちの好きに変えて国家を私物化することが許されないのだ。

日本人は論理的に考えて決めることはできないのだが、意地悪に相手を縛り付けることはなぜか阿吽の呼吸でできてしまう。おそらくは村という狭い共同体で、そういう「意地悪文化」を育んできたのだろう。

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日本人はIT時代の読解力を持っていない

テレビで「日本人の読解力が急落して文部科学省が重く受け止めている」というようなニュースをやっていた。日本人の日本語力が急に悪化するわけはないのだからテストの内容が変わったんだろうと思った。つまり騒ぎすぎだと思ったのである。




これについてQuoraでいろいろ聞きまわってみて、日本人に議論ができない理由がよくわかった。そして、おそらくそれが改善することもないだろう。事態は極めて深刻だが問題を深く受け止める人はおそらく多くない。原因は「自分で考える教育」を見たことも聞いたこともないという点にある。

読解力調査では、インターネットで情報が行き交う現状を反映し、ブログなどを読んで解答を選んだり記述したりする内容が出された。文科省によると、日本の生徒は、書いてある内容を理解する力は安定して高かったが、文章の中から必要な情報を探し出す問題が苦手だった。情報が正しいかを評価したり、根拠を示して自分の考えを説明する問題も低迷した。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

教科書は読めるがネットは読めないということらしい。つまり書いてある内容をそのまま覚えることはできるのだが、それを応用することができないのである。急落については端的に指摘が出ているので、これをそのまま読み解けばいい。

OECDのシュライヒャー教育・スキル局長は「日本の生徒はデジタル時代の複雑な文章を読むのに慣れていない」とみる。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

ここでいう複雑な文章とは何だろうか。それは教科書のない世界のことである。教科書がないので自分で情報を取捨選択して刈り込む必要がある。そしてそれを人と共有しなければならない。日本人はその基礎となる刈り込みそのものができないのである。

教科書がないにもかかわらずSNSが発達しているので情報が飛び交っている。情報の取捨選択ができないということは教科書が作れないということなのだが、なぜか巷には「俺が言っていることが正解だ」と叫ぶ人が大勢いる。だがそれを共有しようという人は誰もいない。自分の教科書こそが正しいと主張し、相手の言い分を聞かないのである。おそらく日本人は誰か外国人が新しい正解を提示するまでこの教科書闘争を続けることだろう。ことによったら数世代の間そんな状況が続くかもしれない。

日経の記事は明後日の方向に行っている。シュライヒャー教育・スキル局長の言葉をスルーして「ITを活用ができていない」と言っているのだ。これは日経新聞が経済界の意向を忖度しているからだろう。先行して「学校パソコン、1人1台に」と言っている。家庭用パソコンで負けてしまったので世論の力を使って学校に売り込みたいのだろう。

産経新聞はさらに深刻だ。ITではなく本を読まないのがいけないのではという結論にしてしまっている。道徳的に「本を読む=賢い」というレベルに落とさなければ産経新聞の読者への「わかりみ」が深くならないのかもしれない。

新聞であっても日本人は情報の刈り込みができないのだから質問サイトで聞き回ったくらいで刈り込み賢者に会えるはずはない。この場合は「取捨選択ができないことが問題だ」と具体的な指摘が提示されているのだが「実際に触れるもの」を媒介させないと思考ができないのである。おそらく日本が製造業からサービス業に移行できなかったのは思考力に限界があるからなのだとさえ思ってしまう。

つまり、日本人の読解力のなさというのは子供に限ったことではない。Twitterには因果関係がめちゃくちゃな政権批判が並んでいる。情報は豊富にあるのだがここから必要な情報を「たとえ」や「実体の媒介」なしに抜き出せない。一般有権者だけでなくマスコミも政治家もこのような調子である。

問題意識を持って質問をするととてもわかりにくい長い文章が返ってくることがある。常々「何かが足りない」と感じていたのだが、考え直してみると彼らは教科書を書いているということがわかる。日本人は問題意識を共有できないので、人に何かを教える時に「全般的に使えるような」教科書を書く。万人向けだが誰にも帯に短し襷に長しになってしまうのである。

例えば歴史で重要なのはそこからどんな教訓を学ぶかということなのだが日本人はそれができない。だから年表を覚えることを歴史を学ぶことだと思い込んでしまう。一事が万事そんな具合だ。

全く訓練を受けていない人は印象に流れてしまうし専門家は教科書を書きたがる。問題意識を抽出して概念的なビジョンを作って共有ができない。今までもしてこなかったしこれからもやらないだろう。そしてそれは実は「訓練された人」ほど重症なのだ。つまり教育者が一番危ないという厄介な状況になっている。

日本人がバカだからということではなく「考えて掻い摘む」教育を見たことがないからだろう。像やキリンを口だけで説明できないのと同じように日本人に「考えさせる教育」は説明できない。

このことから、豊富にある情報の中から必要なものを抽出する「IT時代の読解力」の基礎になっているのは「問題意識」だということがわかる。これはパソコンを1人1台あてがってもどうこうなる問題ではないだろうし、英語教育を施しても使い物になる英語は身につかないだろう。道具立の問題ではない。考え方が違うのだ。

今回はいろいろ聞きまわってみて「日本人には理解が不可能なんだろうな」ということがわかった。説明不能なのだから「どうやったら成長に結びつく思考が身につくだろうか」などといちいち考察するのは時間の無駄だと思った。適当に相槌を打っておく方が楽である。

よく日本人は議論ができないなどというのだが、実際にはそれ以前の問題なのかもしれない。

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