学校に一人一台のパソコンは必要か

自転車の修理をしていて新しい理論を思いついた。植物の生育にチッソ・リンサン・カリが必要なように、物事を体得するためには4要件が必要であろうという画期的新理論だ。




あるいは他の誰かがすでに提唱しているのかもしれないが、別に同じことを新たに思いついてもよかろうと自分を無理やり納得させている。「自転車の話」で思いついたのは3つだったのだが新しい要件を加えた。

  • アローワンス
  • サポート
  • リソース
  • モチベーション

さて、理論ができるとそれを使って問題を解いてみたくなる。そこで学校にPCを一人一台置こうという政府の提案について考える。Quoraで出されていた問題である。

この問題を考えると「政府はまたNECやFujitsuあたりと組んで利権拡大を狙っているのでは?」などと疑って、それに添った回答を書きたくなる。そこで「反対!」となってしまうのである。だが、実際にはどうなんだろうか。理論を使って検証してゆく。

今回の理論を使うと「リソースは多いほうがいい」ので一人一台PCをおいたほうがよく、それは「壊れても構わない程度のものである」ことが好ましい。アローワンスを確保するためである。実際にはイギリス製のワンボードのPCが進化していて3,000円程度で手に入れられるものも出ている。ChromebookとAppleが教育PC市場を争っているという話もあり、実は意外と品揃えが良い市場だ。

旧来のパソコンの授業は課題を提示して「これをやってみましょう」というものだろう。言われた通りに組んで行って「あら動いた!」「あら良かった!」ということになるはずだ。これで「プログラミングをこなした」として次に進んで行くわけだ。

しかし、プログラミング実務は「正解がない」ものを組んでみて「動かない」といって直すところから始まる。最初から動くプログラムはほぼないと言って良い。つまりロジックを考えるところよりも間違い探しのほうが仕事量としては多い。だからデバッグをやったことがないプログラマーは現場で早くに立たない。

この間違える体験をするためには「思いついた時」に「思いついたこと」を試せる環境が必要である。だから個人が使える端末があったほうが有利なのであり、それは安価に手に入る。最近は3,000円から4,000円程度で使えるパソコンが出ている。5ドルコンピュータという触れ込みで作られたラズベリーパイというコンピュータがそれである。ラズベリーパイはソフトウェアだけでなくハードウェアも実習で組みたてることができる。

このフレームでは「リソース」は一人一万円程度(ちょっと多めに取った)のパソコンで、アローワンスは「まあ壊してもなんとかなる程度の気楽さ」である。

ところがここに一つ足りないものがある。それがサポートだ。やる気のある生徒(このやる気だけは外から操作できない)は自分でプログラミングを考えてやってみるだろうがプログラミングを壊してしまったり、あるいは環境を壊してしまうこともあるだろう。これを修復できる「適度なアドバイス」ができる大人=先生が必要なのだ。ただ、現在の教育現場の現状を見ていると、そもそも時間が足りず、さらにプログラミング知識(Linuxを直せる程度の知識が必要)を持った教員もいないのではないかと思う。

実はパソコンにお金をかけるのではなく教員養成にお金をかけたほうがいい。だが、これが実現しない。企業と政治家が儲からないからである。つまり人に投資しても見返りがないから投資しないというのが日本の大問題なのだ。

実際には支援する先生が足りずに「そんな面倒なことをするな」とか「言われたことだけをやっていればいいんだ」ということになりがちだ。生徒は失敗ができないのでコンピュータについて十分に学ぶことができない。これは日本の政治議論が荒れる原因にもなっている。失敗しながら学級運営を学ぶ余裕がないので自治経験がない学生が大量に排出されてしまうわけである。日本の教育が「自分で考える人材が育てられない」理由は先生に余裕がないからだ。生徒目線に立つと「支援」が少ないのである。

感情論を排して問題を分析するのは実に簡単なのだが、多分日本の政治はもうここまでたどり着けないだろう。今の日本の教育制度で育った人たちが自分で考えるのは無理である。

頭の中に「とにかく教育を利権化しなければならない」というある種の必死さがある。また、国産メーカーも個人にパソコンを売るのを諦めているので「国の力でなんとか教育現場に浸透したい」と思っている。いわば「教育版桜を見る会」ができてしまうわけである。桜を見る会で問題だったのは「不満も溜まるがリソースは常に足りなくなる」ことだった。恐る恐るこっそりと私物化をするのでどうしても出し惜しみが生じるのである。おそらく誰も満足しないシステムになってしまうのだろう。

「パソコンを一人一台」というのは政府のIT教育に対するコミットメントとしてはいいと思うのだが、経済にも政治にも余裕がない。そこで「確実に搾り取るためにはどうしたらいいか」というような議論になる。却って教育現場を疲弊させ国の競争力をそいでしまうのである。アローワンスのない社会はアローワンスのない議論をうみ、それが社会の余裕をなくす。アローワンスの縮小再生産である。余裕のない社会は余裕のない子供を育て、それが余裕のない政治家と有権者になって社会を蝕むのである。

オリンピックマラソンの札幌開催は大英断

オリンピックのマラソンと競歩を札幌でやることを決めたそうである。リーダーシップという意味では大英断だろう。これをコアコンピタンスという概念を使って説明したい。コアコンピタンスとは企業の核になる強みのことである。




ドーハでマラソンなどの大会が開かれたが深夜開催にもかかわらず棄権者が多かったという。しかし国際陸連側は改善に前向きではなかった。そこでコーツ委員長から「バッハ会長の権限で」と森喜朗大会組織委員長に申し渡しがあったということになっている。「今日中に」というところから、IOC側は日本の組織委員会のリーダーシップに全く期待していなかったように見える。緊急事態であることを強調するために「今日中に」といい、森会長に「せめて小池百合子都知事に」と譲歩させた。共同通信など日本のマスコミは合意と言っているが日本の運営陣に最大限花をもたせた表現だろう。

緊急事態であることを示し意思決定を促すというのはチェンジマネジメントの基本である。そしてその裏側にあった合理性はIOCの「競技をやるのなら選手のことを第一に考えないと」という強い意志だろう。つまり、IOCはオリンピックの価値の中核は選手であるということを知っていたということになる。オリンピックのコアコンピタンスは世界トップレベルの選手が競い合うスポーツの最高峰なのであり、バッハ会長の役割はその推進と強化である。

ここからIOCは「選手の人権」のために札幌開催を決めたわけではないということがわかる。オリンピックは世界最高峰のスポーツ大会であるというところに存在価値があるわけで、そのためには良い選手を集めてきて良いコンディションの中で走らせなければならない。つまり、彼らはオリンピックのコアになる価値観をよく知っていて必要な措置を講じたことになる。そして、強いスポンサー確保は手段であって目的ではない。

日本側の態度はとても煮え切らないものだった。森喜朗会長がリーダーシップを発揮することはなく「IOCが決めたから仕方がない」と言っていた。東京都の小池都知事などはさらにめちゃくちゃで、顔を潰されたことに怒ったのか「北方領土で開催したらいいんじゃない」と言い放ったという。

この背景には日本側のリーダーの政治的な意識も感じられる。結局主導した人がお金を出すことになるが予算膨張問題はすぐさま議会に反発される。そこで誰も「私が了承しました」とは言い出せないのである。すでに費用負担では押し付け合いが始まっている。彼らは結果だけを欲しがっており負担したり調整する意欲はない。

IOCは価値を想像しようとしているのだが、日本のリーダーには価値が作れない。だから発想が分配型になる。分配型発想では落ちてきた雨水はすべて自分のものにして絶対に誰にも分けないのがベストな戦略である。当然雨が少なくなれば奪い合いが起こる。

一方でこうした煮え切らないリーダーのもとで働くのは楽だろうと思った。一度決まればどんなに不都合が見つかってもそれが変更されることはない。いわゆる日本のインパール化はミドルマネージメントには余計な負荷がかからないし「考えても仕方がない」と言える。コアコンピタンスを理解しているリーダーのもとで働くのは大変である。目的から外れればやり直しを余儀なくされるからだ。

まとめると、西洋のリーダーは強い権限と目的意識を持っている。トップリーダーの役割はコアコンピタンスの強化と追求だ。状況が変化するとミドルマネージャーには負担がかかるが、アスリートはただ自分の記録を追求するためにベストを尽くせばいい。一方で日本の組織はお神輿型のトップリーダーを弱くすることで大勢のミドルマネージャーが楽ができるように設計されている。当然困るのは末端の人たちである。旧日本陸軍は上級ミドルマネージャーを守るために大勢の兵士が餓死した。現在は日本全体がインパール化している。

同じようなことは安倍政権でも起きている。自民党の松川るいという女性議員は台風災害について話し合う委員会で政権擁護をやり同僚や野党議員から顰蹙を買った。朝日新聞が伝えている。彼女は外務省で政権に引き立てられ2019年の選挙で議員になった。彼女は官僚にとって何が栄達の道なのかを極めて正確に知っている。それは被災者のことを考えるのではなく政権を賛美することである。

日本の組織は政権に忖度してミドルマネージャーの階段を上がれば上がるほど楽ができることがわかる。その負担を受けるのは官僚の末端組織であろうし、さらにその先には政府に何も期待できない一般の国民がいる。つまり、日本は声が届かないと考えた人からやる気を失う社会なのだ。だから日本の組織はみんなが苦労しているのに全く成果が出せなくなる。誰も止められないがなんのために仕事をしているのか誰にもわからなくなってしまうのである。

日本は何も変えないリーダーが何もしないフォロワーを生み出しておりその一部が「人でない何か」になりつつある。その裏にはやる気を失ったゾンビのような人たちや果てしなく石を積むその他大勢いるかもしれない。バッハ会長らの意思決定からその原因は「自分がマネージしている組織のコアコンピタンスを理解していない」ということだとわかる。

コアコンピタンスを理解していないリーダーを頂く組織は早かれ少なかれおかしくなってしまうのだ。

東須磨小学校の教師になってはいけなかった先生と親になってはいけなかった人の共通点はなにか

東須磨小学校で虐待暴行犯罪に加担したと見られる教師たちが言い訳のコメントを出した。「教師になるべきではない人たちだな」と思った。こういう人たちからは教員免許を取り上げるのが一番だというのが最初の印象である。




しかし、これを別の話と組み合わせて考えることでまた違った見方ができるようになるのではないかと思った。それが幼児虐待だ。「自己肯定感の低さ」と「マニュアルの不在」という組み合わせが共通しているように見えるのだ。

東須磨小学校の先生の言い訳のコメントを見ると加害側の教師たちの歪んだ現状認識が見えてくる。と、同時にこの人がなぜ重用されていたのかもかなりあからさまにわかってしまう。

加害教師の首謀者だった女性教員は、まず教師は子供達のことを書き、次に「教師をかわりがっていた」と主張している。つまりすべて他人目線で「思いやりのある私」を演じているのだ。子供の件は男性教師へのいじめとは全く関係のないのだから、無自覚のうちに好ましい教師像という仮面が張り付いてしまっていることがわかる。虐待の事実が表沙汰になった今それは自己保身にしか映らないがそれでもいい教師のフリが止められない。

考えてみれば異常な話である。男性教師は辛いカレーをなすりつけらえ泣き叫んでいる。これに対して「彼が苦しんでいる姿を見ることはかわいがってきただけに本当につらいです」と言っている。文章が理路整然としている分だけ散乱した自己認識が痛ましい。

もちろんこの文章からはそこから先のことがわからない。

「相手のためを思ってやった」という同じような供述は虐待に関与した親に見られることがある。ときを同じくして船戸結愛さんを殺害した船戸雄大被告の裁判での様子が出てきた。FNNの女性アナウンサーが記事を書いている。

加害男性(義父)である船戸雄大被告には、理想の家庭を作りたいという体面があったがことはわかる。母親の優里被告は自分の気持ちを言語化することができずただただ周囲に憐れみを乞うてか弱い女性の演技をしているようだ。

医師によると優里被告も雄大被告も自尊心が低かったということである。自尊心の低さを隠すために子供にしつけと称して支配を試みていたということになるのだが、雄大被告が自分の自尊心の低さを認識していたのかはわからないし、それを言語化できていたのかもわからない。そもそも自尊心の低さというのは何なのだろうか。

まず最初に違和感を感じるセリフは「バラバラになる」である。雄大被告は結愛さんを病院に連れて行かなかった理由を家族がバラバラになるからと説明しており、女性アナウンサーはこれを「理解できない」と書いている。実際にバラバラになるのは他人から見た自分たちと実像の乖離なのだろう。雄大被告らは大麻所持が見つかっておりさらに理想と現実が乖離していたことがわかる。すでに自己像はバラバラになっておりそれを偽りの演技だけが繋ぎ止めているという痛々しい状態になっている。

他人から見て整っていればそれでいいというのは自己保身のように見えてそうではない。そもそも他人の目無しに自己が存在しなくなっている。それは多分「自尊感情」ではなく「自己の不在」だろう。

FNNの文章を書いた女性のアナウンサーは母親に心情を重ねて「支配されていた母親が父親から逃れられなかった」と片付けてしまっている。一方、デイリー新潮は雄大被告の来歴を書いている。

父親に虐待されていた経歴のある雄大被告はもともと上場企業に勤めていたが、母親を助けるために会社を辞めて札幌に戻った。ところが子供のいる女性との結婚を母親に反対された。もともと理想が高かった雄大被告は「母親を見返す」という気持ちから子供に厳しく接するようになったのだという。

FNNの文章で「自己肯定感が低い」と簡単に書かれていた中身が少しばかり見えてくる。他人からの評価と乖離である。自己はバラバラ担っているが体裁だけがそれをまとめているという姿である。そこに子供という不確定要素が入れば、当然爆弾は破裂するだろう。

優里被告も破綻しかけた家庭で育ち自己肯定感が低かったために雄大被告の期待が言語化できず「雄大被告が望みそうなこと」を「先回りして」一覧表を作って子供に押し付けていたそうである。彼女もまた他人の気持ちを優先してしまうのだがどうやれば他人の期待に応えられるのかがわからない。つまり、母親も単なる黙認者ではなく加害者だった可能性が高いのである。優里被告も雄大被告の目を気にしている。

こうした人たちを救うためにはマニュアルを作って「理想の家族のなり方」を教えてやる必要がある。受け身型の日本教育が行き着いた極北と言っていい。自分なりの価値観が作れないのだから当然そうなってしまうのだ。

東須磨小学校の件について「女性教師は自己中心だった」と置いたのだが、実際にはそうでなかったのかもしれない。この女性教師もまた他人が期待する教師像を演じてきたのかもしれないと思うのだ。教師という職業には高い言語化能力が求められるはずだが、彼女はおそらく自己認識もできないしなぜ教師をいじめたのかが言語化できないだろう。さらに彼女は言語能力も高く前校長にも認められている。つまり女性教師は他人指向で成功してしまったが故に暴走を止められなくなってしまったのだと仮定できる。

神戸市の教育委員会は迷走していて「カレーを自粛する」としてTwitterで叩かれている。原因究明ができず自分たちに火の粉が降りかかることだけを恐れているようにしか見えない。

その裏で東須磨小学校では生徒のいじめが急増していたそうである。NHKでは教師間のいざこざが子供に伝染したのではと書いているのだが、実際にはマネージメントの不在が両方の原因の可能性もある。つまり東須磨小学校や神戸市教育委員会には学校を運営する能力も資格もないかもしれないのである。

この女性教師も「うわべだけ」が評価されていた可能性がある。実際のマネージメントはめちゃくちゃになっているかもしれないのだが、それは誰にも気づかれなかったということになる。実は解体・分析されるのは教師ではなく学校システムそのものなのである。義務教育なんだから体裁だけ整っていればそれでいいという目的を失った人間製造工場に起きた不具合なのだ。

他人の指示によって動く「考えないロボット」のような人間を大量に製造してしまったわ我々の社会は「自己肯定感」も供給し続ける必要がある。つまり「こうやったら理想的な父親と認められますよ」という認定制度や「こうやったら理想的な教師と認められますよ」という認定制度を作って、個人を監視しなければいじめや虐待を防げない。おそらく神戸市の教育委員会に健やかな教育とはどういうものなのかを考える能力はないだろうし、第三者委員会にも答えは出せないはずだ。そもそも炎上を背景にしており他人の目だけを気にしているのは明白だからである。

もちろん「他人の価値観でなく自分の価値観で生きる」という選択肢もあるはずなのだが、誰もそれを与えてはくれないし、そんなものは存在しないようだ。そればかりかTwitter上では「13年では生ぬるい」とか「実名を晒して教員免許を剥奪しろ」というような声が飛び交っている。ただ、他人を罰することしか解決策を見出せないのである。