韓国語の固有数詞

韓国語はとても不思議な言語だ。漢字由来の言葉と文法はとても似ている。このためある程度までは勉強がスムーズに進む。だが固有語になると事情が変わる。日本語と全く似ていないのである。特に困るのが固有数詞だ。99まで全く法則性が見えない。いろいろ調べて見たのだがそもそも語源についてはよくわからないことが多いらしい。ハングルが登場するまで読み方を確定する方法がなかったので歴史的な経緯が見えないのである。それほど固有数詞には意識を向けてこなかったのだろう。だが固有数詞は意外と重要だ。年齢は全て固有数詞を使い物の数を数えるときにも固有数詞が使われる。つまり固有数詞が覚えられないと生活に支障が出てきてしまうのである。

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顎のラインのきれいな男性はモテる – ただし欧米では

男性モデルになれる条件にはいくつかある。一つは身長である。6フィート(182cm)くらいが下限とされているようだ。もう一つが顎のラインである。チークボーン(頬骨)が浮き出していて顎のラインがきれいでないと「美しい顔」と思われないようである。

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戦後に生まれた肉じゃがはどのようにして伝統の国民食に昇格したのか

肉じゃがはおふくろの味という思い込みがある。だが、実際にいつ頃から登場したのかはよくわからないのだそうだ。これを真面目に追求した本を図書館で見つけた。国民食の履歴書という本だ。日本の伝統がテレビによって捏造された様子がわかる。我々を洗脳したのはテレビである。高度経済成長期はテレビが我々に偽の伝統を植えつけた時期だったのだ。

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Via Borgonuovo21, Milano

古着屋で夏物のジャケットのセールをやっていた。900円で売れなかったのだろう。多くのジャケットが半額になっていた。その中にGorgio Armaniを見つけた。偽物だと思われたのかもしれない。ラベルを見たら確かにBorgonuovo21という見慣れない表記が入っている。聞いたことがない。素材はリネンにシルクが混じっているようだ。触って見たらくたびれたネクタイのような手触りがある。シルクのネクタイから光沢がなくなるとこんな手触りになる。素材は本物のようである。

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ダイエットの仕上げにさつまいもがいいのはどうしてか

最近、あれと思うことがあった。ちょっときつくて捨てようかなと思っていたパンツが入るようになったのである。これらのパンツはどれも股上が深い。ヒップで合わせるパンツは28インチか29インチなのだがこれだとウエストがきついと感じるものがあった。つまり内臓脂肪が溜まっていたわけである。これを解消した食材は意外なものだった。さつまいもである。

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ジンの歴史とボンベイ・サファイア

最初のきっかけは「高級な(プレミアム)ジンが再流行している」という記事だった。缶酎ハイが市場を席巻しているのでその反動があるのだろう。そもそもジンというお酒にあまりいい印象を持っていないので調べて見たのだが、そもそもジンを扱っている店が少ない。ファミリーマートがなぜかボンベイ・サファイアを扱っているのだが一瓶が税込で1,000円以上もする。一ヶ月以上迷って結局買わずにいた。

10月に入ってやっと購入した。

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Core 2 DuoのMacとCore i3のMacを比較する

気晴らしにウィンドーショッピングでもやろうということになりヤフオク!をみた。Core i3のiMacが売りに出ていた。1円とか1000円とかそれくらいの捨値で売られている。最新OSが入らなくなったので安くなってきたんだろうなあと思った。だが、それでもこういうのは10,000円くらいになっちゃうんだろうと考えた。「どうせ落札できないだろう」と5,000円で入札した。おそらく誰かが競り落とすだろうと思ったのだが誰も競り落とさなかったようで翌日落札されていたことを知った。ものによっては4000円くらいで落札されるものもあるようだ。

無駄遣いだ、と思った。

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「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論

大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。

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氷川きよしの転身と自分らしさ

氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。




まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。

何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)

限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」

報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。

こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。

興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。

日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。

セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。

ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。

よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。

氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。

氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。

今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。

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ブルゾンちえみが環境問題について言及し叩かれたのはなぜか

ブルゾンちえみという芸人がフォーブスの授賞式で環境問題について取り上げたという。これについてサラリーマン向けの新聞であるゲンダイが論評を書いている。論評というか批評というか批判というか「これは何なんだろうか」という感じの文章である。




これについて最初に知ったのは小島慶子さんのTweetだった。だが、どうも分析が一面的というか面白くない。環境問題や人権問題という理想について語ると叩かれるのは日常茶飯事なので当事者たちがアレルギー反応を起こしていることだけはわかる。そして彼らはそれと戦うことを決めたようだ。

小島さんは意識が高い人を邪魔するなと言っている。では「意識が低いゲンダイ」はいったい何に反発しているのか。意識が低いとはどういうことなのか。

まずゲンダイは「私の意見」としてこの文章を書いていない。なんとなくネットの噂について取り上げていて「みんなが言っているよ」と言っている。これは集団主義から抜けられず自分の意見が持てない人たちの常套手段である。

次に「ブルゾンちえみは最近お笑いに手を抜いていて環境(エコ)ビジネスに進出しようとしている」のではないかと言っている。つまりエコは本業ではないだろう?と言っているのだ。

これについてQuoraで聞いたところ面白いヒントをもらった。人に聞いてみるのは大切なことだ。まずこの人は芸人だから黙っていろというのはけしからんと怒ってきたので松本人志について聞いてみた。芸人がテレビ局を代弁する形で「個人の言っていることですよ」と偽装しながらテレビ局や芸能事務所のポジションを代表することは世間では容認されていますよねと持ちかけてみたのだ。

すると「西野亮廣も叩かれる」という答えが返ってきた。西野さんといえばお笑いという本業があるのに「疎かに」して絵本作りをしてテレビ依存を脱却してしまった人である。彼が叩かれるのは組織を離れても自分の力で生きて行けるからだが、映画化まで来てしまうと叩かれなくなる。ここでなんとなく布置されるものがあった。小島慶子さんもそういえばフリーランスだなと思った。

  • 日本では集団の意見を代表した個人の意見は叩かれない。
  • 日本では個人が意見を言ったり、本業以外のことをやろうとすると叩かれる。

この価値体系はサラリーマンの価値体系である。サラリーマン社会で発言権を得るのにはとても時間がかかる。サラリーマンは個人と集団の境目が溶けてなくなるところまでサラリーマン社会にどっぷりつからないと発言権が得られない。ここに馴染んでしまうと個人の意見は言えなくなる。

さらに、個人は集団に依存する本業を持っている時だけしか評価されない。つまり松本さんの行動が正当化されるのは吉本興業とテレビというスキームに依存してお笑いをやっているときか個人という体裁で集団の意見を代表している時だけである。つまり、タレント(演者)としてコメンテータをやっているときは叩かれないが、個人の意見をいう人は容赦なく叩かれてしまうのである。

これはある意味武士のマインドセットとも言える。武士は藩に仕えると評価されるが脱藩すると浪人扱いになる。これは武士としては不完全な状態である。ゲンダイを読んでいる人たちの中にもそういう武士のマインドセットが生きていると言える。

一方、個人が自分の才覚で新天地を探そうとすると容赦なくバッシングされる。西野さんはそれでも「とても才能があった」のだろう。生き残って絵本作家をやったり自分のプロジェクトを立ち上げることができるようになった。ブルゾンさんは芸人として環境問題に関わろうとすると「本業が面白くなくなったからだ」とか「金儲け目当てに何か企んでいるに違いない」と足を引っ張られてしまう。まだ経済的に成功していないからだ。成功者は何も言われないが、今から成功を目指そうとする人は叩かれる。

この件について書こうと思ったのは、日本の政治の行き詰まりについてソリューションのない悲観的なエントリーを書いたからである。つまり、日本では価値の源泉が損なわれていて新しい源泉を探さなければならない。それができるのは自由に行動する個人だけである。

ところが実際に個人が新規開拓を目指そうとすると寄ってたかって潰そうとする人たちが出てくる。つまり新しい芽を潰しているのだ。いったんは武士のマインドセットと書いたので「格好の良いこと」のように聞こえたのかもしれないが、藩が機能しているからこそ武士のマインドセットは生きてくる。藩が機能していないのに新規開拓者を叩くのは奴隷が逃亡奴隷に石をぶつけているのと同じことである。

だが、ゲンダイには新しいものを潰しているという自覚はないようだ。今回もこの「構造」を探すのは以外と大変だった。つまりサラリーマン向けの新聞は本能的に「脱走奴隷」を許さない構造を持っているのだが、あまりにも日本人の心情に深く根ざしていてそれを抜き出して分析することすら難しい。

さらに分析を難しくしているのは主語の置き換えである。読者はおそらくゲンダイに主語を託し、ゲンダイもまたライターに「ネットの噂ですよ」と言わせている。日本人の奴隷制の根幹にあるのは「誰も主体者として責任が取りたくない」という責任回避の意識である。

おそらく、ゲンダイこの記事に共感した側の人たちはなぜ自分がこれに共感したのかはわからないだろう。彼らは自分たちに向き合わなくてもこの記事が読める。新聞側も「これが受ける」ということはわかっても「なぜ受けるのか」は説明できないのではないだろうか。

だがここで起きていることは明白だ。かつては武士だった奴隷が逃亡者を罰しようとしているのである。

最後に小島さん側の反発についても考えてみたい。今回のフレームでは、小島さんは奴隷が脱走奴隷を叩くことに反発をしているということになる。ただ後ろを振り返ってしまっては奴隷状態からは抜け出せない。実際脱走した人たちがやることは後ろを振り返えることではなく、前を向いて次の機会を探すことだけである。違いはそんなに大きくない。単に前を向くか後ろを振り返るかだけなのである。

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大河ドラマとしては正確だが、不正解だった「いだてん」が終わった

宮藤官九郎作の「いだてん」が終わった。最初の方は「NHKの忖度でしょ」などと思ってバカにしていて見ていなかったのだが、最後の数回だけを見た。学徒出陣のエピソードをみて「あれ面白いぞ」と思ったからだ。途中学徒出陣で戦地に行った仲野太賀がなくなるところを飛ばしてあとは結局全部見てしまった。




面白さの原因は屈折からの解放だろうと思う。オリンピックが成功する前史として選手2人だけの初参加・戦争による中断・有望な選手の戦死・田畑政治の失脚など様々な困難がある。こうした絶望を積み重ねてゆくのだが基底に宮藤官九郎の子供っぽさがあるので絶望はあっても暗くはならない。

最後の数回というのはこうした屈折が回収されつつ解決されてゆくという段階に当たる。つまり最後のおいしいところだけをつまみ食いした感じになっているのである。おそらく視聴率が悪く「前のお話を見なくてもわかりますよ」とばかりに回想を増やしたのもよかったのだろう。おいしいところだけ抜くというのが、そもそも大河ドラマの見方としては間違っているかもしれない。

よく「宮藤官九郎の作品はじっくり見るべきだ」というような評論があるのだがそうでもないように思える。落語のネタと物語を掛け合わせてつないでゆくというようなライン一つを取っても、短いスパンできれいに決まってゆく。その場その場で見ても十分に楽しめる展開になっていた。却って一年もこれを見せられると疲れていたかもしれない。後で調べると、落語の話はかなり込み入った物語の一つのエピソードのようだが、単体でも十分に楽しめる仕上がりになっている。

宮藤官九郎って面白いなあと思った。

オリンピックが戦争からの復興であるというラインは戦争を語らないと描けない。しかし、戦争を正面からまともな作家が描くとおそらくもっと凄惨で暗いものになっていたはずである。さらに「戦争はいけないことです」「我々はそこを乗り越えて経済的に成功したのです」というような正解を見ても面白くもなんともない。最近大河ドラマを見なくなったのは正解を押し付けられるのにうんざりしていたからである。

NHKの誰が発案したのかはわからないが「正解」を徹底的に避けるために、貧相で屈折してはいるがそこを振り切って明るくみえる宮藤官九郎で乗り切ったというのがすごいところだなあと思った。そういえば3.11も宮藤官九郎だった。「あまちゃん」にも救いのない津波でレールが寸断された鉄道の話が出てくる。おそらく東日本大震災を描くためにあの作品はアイドルを扱ったのだろう。今回も、暗い面を逃げずにきちんと捉えつつ落語というお笑いを使うというのはかなり練られた作戦だったのだろう。エンターティンメントは絶望を癒すためにあるからだ。

徳井義実の大松監督も大成功だった。途中でスキャンダルを起こしてテレビから消えかけている徳井だが物語の中では全く気にならなかったし、途中で「あれ?この人じゃなきゃダメなんじゃないの」とすら思えた。問題を抱えながらも自分たちの理想のために突っ走る人たちの群像劇だからこそ徳井は浮かなかった。大松監督は今でいえばセクハラパワハラの極みだが、実際には「選手個人が好きでやっている」が「マスコミからの重圧も感じている」という屈折が物語を前に進めるのに大いに役立っている。その意味では正解を押し付ける最近のお笑いはつまらない。人生に何の瑕疵も破綻もない人の笑いが面白いはずがない。

麻生千晶という人が早い段階で「いだてんに落語はいらない」と書いているがおそらく落語は今回の話の中核にある。この麻生さんの感想が「視聴率が上がらなかった」理由を端的に表しているのだろうと思う。つまり正解である美男美女のヒーローがいないことと歴史を正解として書かなかったことが「いだてん」のテーマだったのだろう。時代遅れを体現してくれているという意味では、麻生さんはよくぞネットにあの文章をさらし続けてくれているなあと感心する。

例えば松坂桃李が美男美女に囲まれた武将の役で出てきたら、おそらく大河ドラマとしては面白かったが松坂自体は埋もれていただろう。個性的な人物の中に配されることで「あれ、この人は演技派俳優なんだなあ」という印象になる。「二枚目」は最初に出てくる看板では本来はないのかもしれない。

ここで問題になるのは「これは大河ドラマとして一年間かけてやるような話なのだろうか」という点だ。おそらくもっとコンパクトにまとめてもそれなりに面白くなった作品だった気がするし、麻生の言うように美男美女が出てくる物語にしたほうが視聴率は取れただろう。

一方で。これだけのキャストを集めて作品を作れる場所が殆ど無くなりかけているんだなあと気づかされる。つまり「いだてん」は大河ドラマにはふさわしくないが、あの枠でしか作れなかった。日本はおそらく貧乏になっている。これは大変不幸なことである。

大河ドラマは「自分たちのご当地の英雄を取り上げろ」というプレッシャーにさらされている。地域振興に役に立つ物語を作れというわけだ。すると当然ヒーロー・ヒロインを否定的に描くわけには行かなくなる。教科書的な正解を道徳的な枠組みで描かざるをえなくなるのだから当然ドラマとしてはつまらなくなる。

今の日本人は面白い解放感のあるドラマではなく教科書的な正解を見たがるしそれを他人に押し付けたがる。そうやってドラマはどんどんつまらなくなるがドラマに期待しない老人は満足する。それは日本ドラマの衰退と死である。論評を見る限り「面白くない正解」に傾くんだろうなあと思える。東洋経済も6月の時点で「ああ、これはダメだ」と言っている。

最後に嘉納治五郎の「これが世界に見せたい日本なのか?」という問いかけが出てくる。何が正解なのかはわからないがとにかく疾走感たっぷりに走り抜けたというのは歴史としては田畑政治の「ドタバタ」が正解なのだろうが、老化した日本人にとっては正解ではない。そして、日本人はこれからつまらない正解を志向するようになるのだろう。

おそらく今の東京オリンピックが恐ろしく盛り上がりに欠けるのはそこなんだろうなあと思った。嘉納治五郎の問いかけに対して動かない人たちが寄ってたかって「自分たちが見せたい正解」を押し付けるというのが今のオリンピックだ。だから実際に動く人たちが誰もついてこないのである。

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三食ごはん(旌善編)の村はどこにあるのか

最近AbemaTVで2014年から2015年に放送された三食ごはんを見ている。人気になったシリーズのオリジナルでまだ荒削りな部分が目立つ。厳しい環境の中に追い込まれた芸能人が田舎暮らしをそれなりに楽しんだり、俳優仲間との交流を楽しむ様子が面白い。特にイ・ソジンはこの番組でバラエティータレントとしての才能を開花させた。

この番組を見ていると、江原道という行ったこともなければこれから行くこともないであろう地域に住んでいるような気分になる。なんとなく場所を知りたくなり旌善郡の場所を調べてみた。

旌善郡はオリンピックの開催地で鉄道や高速道路が開通した平昌郡の南隣の山向こうにある。最近ではオリンピック関連施設の存続の是非がニュースになることがある。中央日報によると旌善郡にもスキーリゾートを開発したがあまりうまくいっていないようである。

ソウルからは高速道路を東に向かって終点近くで降りる。国道35号線を南下し42号線に乗り換えると旌善邑に行き着く。ここら旌善郡の中心地のようである。ソウルからは清涼里駅から観光電車がでているそうだ。ソウルからの所要時間は3時間から4時間で、地理的には東京から群馬の山沿いか新潟あたりが近いイメージかもしれない。

米で有名な新潟とは異なり、旌善の名物はソバととうもろこしで農業にはあまり向いていない土地のようだ。番組の中にも「もともとは流刑地だった」とか「農業の専門家にもあまり良い土地ではないと言われた」というエピソードが出てくる。日本でも有名になったウォンビンの出身地としても知られているという話もある。旌善邑はイソジンらの買い出しで多く登場し、夜関門を買った市場もドンシクの金物屋もこの街にある。

ところが三食村を探そうとすると途端に難易度があがる。最初のヒントはエピソードの中にでてくるトンネルだ。トンネルの名前で検索すると旌善邑の南東に伸びる59号線につながるバイパストンネルがあるのがわかる。さらに韓国語で玉筍峰(江原道)で検索すると大体の場所もわかった。59号線からデチョンギルという道がでており、この奥に玉筍峰民泊とハヌルセッコム(空色の夢)民宿という二つの民泊がある。どうやらハヌルセッコムの方がロケで使われた施設のようである。奥さんが教育庁に勤めている人が貸したという話がでてくる。Googleマップの航空写真を見ると今でもテギョンが作ったハート型の畑が残っているのがわかるのだが、指摘されないと探せないだろうなあと思う。旌善の中心地からは5kmくらいしか離れていない。

韓国語で玉筍峰民泊を検索すると「テレビのロケ地に行った」というブログがいくつかあるが、人が大勢押しかけているにもかかわらず特に見所がなくがっかりしたという感想が多い。航空写真をみると、あの石でできた橋も確認できる。近くでウォンビンが結婚式を挙げたというブログがあったので、テレビ局はウォンビン経由でこの場所を知ったのかもしれないなと思う。

番組の現代は삼시세끼である。漢字はよくわからないが、三試三食の意味ではないかと思われる。試行錯誤という意味合いがあるのだろう。イ・ソジンはこの番組と「花よりおじいさん」で新境地を開きバラエティに進出した。旌善編では不満タラタラで田舎暮らしなんかしたくないと言っていた彼だが、この後「海辺の牧場編」などの続編にも出演しているようだ。この番組の中でチェ・ジウとお似合いだという話になっていたがチェ・ジウはその後一般人と結婚した。芸能ニュースの中に「3年間付き合っていた」という話が出てくるので、この番組への出演の前後には付き合っていたことになる。イ・ソジンがあまり結婚したくなかったのではという憶測記事も見つかった。

日本では全く知られていないが脇役として有名なキム・グァンギュは2017年に夜関門というお茶のCFに登用されたという。番組の中の地味な姿とは打って変わってノリノリで夜関門のお茶のCFソング(なぜか「開けゴマ」という題名の歌である)を歌っていた。かなりの年配のように見えるが実は1967年生まれであり、1971年生まれのイ・ソジンとそれほど年齢は違わない。俳優になる前には釜山でタクシー運転手をしていたという苦労人だそうである。

日本でも有名な2PMのテギョンはこの後兵役に就き現在服務中である。これまでいた事務所を離れて俳優の個人事務所に移籍したようだ。2019年まで兵役が残っているそうだが、この後順次2PMのメンバーが兵役に入りメンバーが完全に戻るにはしばらく時間がかかる。中でドラマの準備をするシーンが出てくる。Assembryという国会を舞台にしたシリアスドラマだったが視聴率はあまり良くなかったようである。

韓国のバラエティ番組は面白いなと思ったのだが、放送局はケーブルテレビなどを中心にした局であり韓国としても新しいスタイルだったようだ。アメリカのサバイバル番組を韓国風にアレンジしたのか「罰ゲーム」のような趣があるのだが、特に脱落者がでるわけでもなくゲストは「嫌になったら帰って良い」というゆるさがある。

さらに、韓国の伝統的な食文化がわかって面白い。割となんにでも唐辛子とニンニクが混ざった「タレ」と呼ばれるものがでてくる。また、年長者を「ヒョン」や「ヌナ」と呼んだり、年配者を「先生」と呼んで尽くすなど日本とは違った文化が見られる。年齢による上下関係とは別の関係性も見られる。キム・グァンギュはイ・ソジンからヒョンと呼ばれているのだが「マンネ(末っ子)」として使われるという年齢によらない序列もでてくる。

すでに大御所感が漂い、ソウル出身でニューヨークへの留学経験もある「都会派」のイ・ソジンの乱暴な言い方が嫌味にならないのは裏表がなくちょっとした優しさも見せてくれるからだろう。また年配者には尽くしておりテキパキと動いているので「単に嫌な人」にならないのである。

イ・ソジンのバラエティの才能を見出したナ・ヨンソクPDについてはすでに調べている人がいた。KBS出身でケーブルテレビに移って数々の番組をヒットさせた凄腕だそうだ。イ・ソジンと言い合いをするシーンが度々でてくるが1976年生まれで年下なのだという。

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学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

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日本語、韓国語、英語の「エ」について

このところYouTubeにはまっている。なぜかはわからないが、日本のテレビは報道という名前がついた何かに占拠されていて、一日中スポーツの不正とか政治の問題ばかりをあつかっているからかもしれない。逆に夜のバラエティーやドラマにもなんとなく閉塞感が漂う。コンテンツの大半がいじめか転落である。

YouTubeには世界各国のコンテンツが集まっていてこうした息苦しさが少ないのだ。

最初は東映などの昔のコンテンツとか英語のHowToものを見ていたのだが、最近はK-POPも見るようになった。歌番組もあるのだが、英語か日本語で字幕が付いたバラエティを見ているとタレントの人となりもわかる。とはいえ、言葉がさっぱりわからないので韓国語をなんとなく勉強しはじめた。日本語とよく似ているという人がいるのだが、実際にはほぼ一言も理解できない。

さて、韓国語には文字上で애と에という二つの「え」にあたる母音がある。現代の韓国語では区別しないとか、最近の若い人は区別しないなど諸説があってよくわからない。どんな音なのだろうと思っていたのだが、最近「ああ、あれかな」と思うことがあった。

スーパージュニアのドンヘという歌手が自分の名前を叫ぶ「ダサカッコイイ」떴다오빠という曲がある。辞書上は「浮かび上がったお兄ちゃん」という意味だそうだが、Yahoo!知恵袋によると有名になったという含みがあるそうだ。内容は特になく「世界中で大人気のお兄さんたちがやってくるよ」みたいなことをダサ明るく歌っている。この中で最初に自分の名前を叫ぶのだがこの「エ」の音がなんとなく東北弁っぽい。ああ、これが애なんだなあと思った。ということは韓国人の中にもこの二つの音を区別する人がいるのではないかと思って調べ始めた。

この애の発音が東北弁のように聞こえたので、まずは東北弁のエの音を調べた。ちょうど山形県で線状降水帯ができていてインタビューが流れていたのを聞いたばかりだったのである。ところがこれもなかなか複雑だ。東北にはɛとeの両方が使われている地域もあるらしい。標準日本語の「え」はeになるがナマエのようにaeがɛとなる地域があるそうだ。wikipediaの秋田県の方言の項目を読むと秋田県は6母音地域なのだそうだ。日本語にも5つ以上の母音を発音する方言があるのだ。いずれにせよ東北方言の「訛ったエ」の音がɛであることは間違いがなさそうである。애はɛと同じ音なので「あの音」が애なのは間違いがなさそうだ。

このドンヘ(東海)の出身地を調べてみると全羅南道の木浦の出身ということなのだが、全羅道の方言はエは애と発音するらしい。また京畿道の言葉でも애と에は区別しないとか、区別はしないが微妙な変化があるなどと人によっていうことが違っている。韓国語は蟹と犬が개と게であり「弁別はできるが普通は気にしない」という同音異義語扱いになっているようだ。

すると、音韻的に区別されているということではなく「方言である」のかもしれない。韓国語がきちんと読めればダサカッコイイ曲の中では実は方言が使われているなどということがわかって面白いのだろうが、さすがにGoogleTranslate頼りではそこまではわからなかった。かろうじて見つけたのは標準語で괜찮아요(クェンチャナヨ・大丈夫ですよ)という単語が南部の人には発音ができないという話だ。クェがケになってしまうので、ケンチャナヨになるのだが、そうすると文中では濁音化して「ゲ」になってしまうのだそうだ。日本人の耳にもクェは聞き分けられないので「ケンチャナヨ」と発音する人が多い。同じようなことが国内でも起きていることになる。

ここまでだらだらと書いてきた。何が言いたいかというと、実は日本人でもɛとeが区別できているということだ。東北弁が訛って聞こえるというのは標準語との違いを認識できているということを意味する。ただ、早い時期に文字を習ってしまうので周囲の音を全て「え」に吸着してしまうのだろう。

では日本語の「え」はどんな音なのだろうか。実は「い」と「あ」は一つの線の上に並んでいる。この並びは「い」「ɛ」「e」「あ」となっている。ところが、日本語の「え」はこの「ɛ」と「e」の中間なのだそうだ。厳密にはeに補助記号をつけて表している。ちなみに英語のbedのeは「ɛ」であり、catの「a」はæという音だそうだ。æは「あ」と「ɛ」の中間音だというので、この線状に並んでいる音には連続的な変化があり、それを言語によっていろいろ聞き分けていることがわかる。

英語でも同じような状況があるようだが、こちらはさらに複雑である。イギリスには容認発音と呼ばれる標準化が存在し、それによるとEの標準発音はɛ(日本人から見るとややぼやけた感じのエ)が標準なのだそうだ。だが、米語には標準発音そのものが存在しない。そもそもローマの言語(5母音)を前提にしたアルファベットは英語の複雑な「え」の揺れを捕捉できない。このため英語は国際記号より前に作られた発音をそれぞれの辞書が「工夫して」使うことになっている。辞書によりバラバラな発音記号が存在するのである。多分「ɛ」(日本語の「え」よりぼやけている)のだが、文字では捕捉できないので、ローマ字の常識にとらわれずビデオなどをみて真似したほうが早い。小学生や幼稚園児のほうが発音が良い理由がよくわかる。

日本人が英語を話すときカタカナの音に吸着され、それを離脱しても英語の発音記号の揺れに悩まされるという可能性がある。子供の頃に正しい発音ができていたのにローマ字を覚えてしまったためにわからなくなる人もいるかもしれない。日本の本がどのような発音記号を採用しているのかはわからないが、その道の権威が持ってきた米語の学派の一つをとって権威化しているかもしれない。そうなると、実情とずれていても気がつかないということになりかねない。

実際には弁別ができているのに、文字や学習に引っ張られてわからなくなってしまうということが起きているのかもしれないと思った。こうしたことは英語と日本語という二つの言語だけを比べてみてもよくわからない。早いうちからいくつかの言語を「かじって」おけば、英語の習得も楽になるのかもしれないなと思った。

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共立てのケーキと別立てのケーキはどちらが作りやすくかつおいしいのか

共立てのケーキと別立てのケーキはどちらがおいしいのかが議論になる。初心者向きには別立ての方がよいとか、パティシエは共立てが多いなどの情報が錯綜しており定説がない。

結論からいうと「共立てができるなら共立てにした方が良い」と思う。共立だとコツさえ覚えれば簡単に泡だつ。ハンドミキサーも不要で意外と簡単なのだ。

今回は卵一個を使ってケーキを焼いた。最初はスポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚えるの指示通りに焼こうと思っていた。

「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」は共立てである。まず卵液を温めた上でハンドミキサーでかき混ぜてシロップを混ぜる。さらに小麦粉を入れて独特のやり方でよく混ぜるのある。実は卵液を温めるというのがポイントだ。鍋でお湯を沸かせて沸騰させてその上で卵をかき混ぜればよい。このやり方だとハンドミキサーを使わなくても十分に泡立てることができる。

あとは本に書いてある通りに「小麦粉を入れてからツヤが出るまで混ぜる」のを実践した。こねないで「の」の字になるように混ぜる。実はここでしっかり混ぜないと焼き上がりが硬くなり気泡が出る。バターは入れても構わないが入れなくても膨らむ。

手順さえ守ればきちんと膨らむ。要するに卵をよく温めて混ぜればよいのである。

後日同じ分量で別立てを作ってみた。卵黄だけでは水分が足りない。そこで卵白を入れるのだがこの泡は犠牲になってしまう。ということで共立ての1/2くらいしか膨らまなかった。過去の経験からべちゃっとしたケーキになるのかなと思ったのだが、口当たりはふんわりしていて口どけも悪くない。もし膨らませたいなら卵黄を入れた側に牛乳などの水分を足さなければならないのではないかと思う。

卵白だけの場合には砂糖さえ入れれば簡単にメレンゲのできぐあいがわかるので(力強く混ぜてボウルをひっくり返しても垂れてこないようにすれば終わりである)別立ての方が分かりやすいのだと思う。

卵液をきちんと混ぜることさえできれば、コーンスターチを入れたり、ベーキングパウダーなどを加える必要はない。別のウェブサイトにはレモンを入れろと書いてあった。この方が泡立ち易いのだそうだ。しっとりさせるためにはシロップを入れた方が良いようだが、これもふわふわなケーキを作る要件ではない。

スポンジケーキは単純な材料だけでできているのだが意外と奥が深い。いったんできてしまえば単純で簡単な作業の連続なのだが、そこに行き着くまでが意外と難しいようだ。

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