時代とともに移り変わるべき大嘗祭

令和に代替わりして初の新嘗祭である「大嘗祭」が行われた。Twitterで島田裕巳さんが大嘗祭を経ない天皇は「廃帝」とか「半帝」と呼ばれたと言っていたので「例外を除いては大嘗祭をやってきたのだろう」と思っていた。ところが調べてみると大嘗祭はずいぶん長い間中止されていたようである。大嘗祭ができなかったのは天皇家が徴税権を失ったからと考えられる。徴税するためには税を収めるネットワークが必要だが、日本は内戦状態にありでこれが壊れてしまったのだろう。応仁の乱以降江戸時代まで復活しなかった。




まず半帝と呼ばれたのは仲恭天皇だった。仲恭天皇というのは後付けの名前だそうだ。幼没した安徳天皇も行っていないのではないかと思ったのだが、平清盛のバックアップで行われたようである。この安徳天皇の大嘗祭からその意味合いがわかる。つまり日本人にとっての税とは神社への供え物と同じなのである。税を収める理由が天皇しかないので、その天皇に変わって「税を徴収してあげる」というのが日本の統治者の理由付けになっているということになる。

大嘗祭はかなり政治的な意味合いを持っている。日本の政治は合理的なルートで理解されてこなかったということになる。神の子孫を怒らせれば神を怒らせることになる。当然災いが降りかかるのだが神の代理以外はそれを鎮めることができない。現人神信仰である。信仰がなんとなく現実的な統治や徴税と一緒くたになっている時代が長かったということだ。第二次世界大戦までその状態は続きやがてアメリカから「カルト扱い」されて政治から無理やり切り離された。

1466年に最後の大嘗祭が行われその後中断した。復活したのは江戸時代のことだそうである。産経新聞だけを読むと「江戸幕府が天皇家に対するスポンサーシップを示すために大々的に行ったのでは?」と思える。安定の産経トリックである。

当時の幕府は、国内統治に儀礼を重視しており、1687年、東山天皇の大嘗祭の挙行を認めた。続く中御門天皇の即位の際には行われなかったが、その次の桜町天皇から現代まで続いている。

天照大御神から伝わる重要祭祀「大嘗祭」はこのように行われる

ところがWikipediaには全く違った話が書かれている。江戸幕府は二重権威を嫌い大嘗祭の復活を嫌ったが、上皇が江戸幕府の管理から外れて強行したということになっている。これをみると霊元天皇が天皇家の権威を示すために東山天皇を使って権威付けのために復活させたのではないかと思える。

貞享4年(1687年)に朝仁親王(東山天皇)へ譲位し、太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いたことに加えて、2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇が同様のことを行うことを許す考えはなかった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。

霊元天皇(wikipedia)

この霊元天皇の話を知ると、このタイミングで秋篠宮皇嗣殿下が2018年11月に「私費でやりたい」といった意味も違ったものに感じられる。27億円という政府の天皇家に対するスポンサーシップが却って政治的に利用されかねないという危惧もあるのだろう。秋篠宮の「身の丈」が何だったのかというのは今でも議論の対象になっているが、善意に解釈すれば現行憲法で切り離された徴税権(つまり統治)の議論には触れず、国の安寧を祈るという古代の役割に専念したいという気持ちの表れなのかもしれない。つまり現行憲法によって統治原則は合理化されたのだから、天皇家は合理的ではない「気持ちの部分」だけを担当したいのだということになる。これは上皇陛下が統治時代になさってきた「象徴天皇制」のあり方と一貫するものがある。

ただこのメッセージを政治側が受け取ったとは思えないし、おそらくは理解もされなかったのではないかと思う。彼らは天皇権威を利用することだけに関心があり、おそらくは祭祀の存続には全く興味がないだろう。一部の識者は、最後の男系男子が定年するくらいまでは引き伸ばせるのでは?などと言い出しているそうだ。

江戸時代には天皇家の行事として簡素に行われていた大嘗祭だが明治に入って「天皇中心の世の中を作る」という決意のもと大掛かりなものになってゆく。実際に大掛かりなものが行われたのは大正時代からなのだそうだが、昭和でも大々的に行われやがて天皇権威が軍部の正当化に利用されるようになった。今でも天皇権威を背景にして統治者気分に浸りたい人たちがたくさんいる。秋篠宮の提言はそうした思惑にかき消されてしまった。一方日本人も大嘗祭について深く考えることがなくなった。マスコミでは「古の謎の儀式」と大嘗宮の豪華さにばかり注意が集まっていた。つまり天皇家を生きて変化しつづける伝統でなく、歴史や文化遺産の領域に押し込めてしまったのである。

半島国デンマークは本当に半島なのか

Quoraで半島国家についての質問があった。韓国や朝鮮を揶揄するものなのだと思うのだが、面白そうなので答えてみた。




インド、アラブ、イタリア、スペイン、朝鮮などたいていの半島は山脈や砂漠で大陸と切り離されて独自世界を形成している。しかし実際には完全に切り離されているわけではなく時々外国に攻められたりする。朝鮮半島はその典型で中国・モンゴル・女真族などに支配されたが完全に支配されることもなく、結果的に朝鮮人という人たちの塊ができた。

ところが半島にも例外がある。それがユトランド半島とスカンジナビア半島である。ドイツとの間に山脈がないのだ。今の人口規模からみると「なぜドイツに支配されなかったのだろう」と思ってしまう。ところが調べてみるとこれは誤認だった。さらに調べてみるとそもそもドイツ人という塊がないということもわかった。あのあたりは意外と複雑なのだ。

歴史的経緯を調べてみると実は北のほうから大陸に侵攻があったことがわかる。ゲルマン人には北と西という区別がある。理由は諸説あって定まらないそうだが海から大陸をめがけて北方ゲルマン人が降りてきた。彼らはデーン人と呼ばれる。その侵攻が終わったのがデンマークのあるユトランド半島なのである。そしてユトランド半島を追われた西系の人たちが作った国がイングランドだ。玉突き的に周辺に拡大し他民族を征服するということが各地で起きている。

シュレスヴィヒ・ホルスタインからオランダにかけてフリースランドという地域がある。ここにフリジア諸語という英語に近い言葉が残っているという。英語はユトランド半島にいたジュート人・アングロ人・サクソン人がブリテン島で作り出した言葉なので、あのあたりがもともと同じような言葉を話す人たちの世界だったことがわかる。地域はのちにフランス人に支配されラテン語化が進んだ今の英語になった。

ゲルマン語という言葉はもともと意思疎通が可能な言語だったようだが、地域に広がる過程で三方言に別れ、そのうち北(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・アイスランドなど)と英語・ドイツ諸語・フリジア語などの西方言が生き残ったということのようだ。北ゲルマン語は今でもお互いに近しい関係にあるが、西ゲルマン語も共通の祖語があったのではないかという説があるそうである。

ゲルマン語は英語とフリジア語が一つの塊を作るのだが、それと並列して低地ドイツ語と中高地ドイツ語という系統があるという。説によって違いはあるようだが、全部で三系統の西ゲルマン語があるというのだ。英語とドイツ語が違う言語であるというのと同じように、低地ドイツ人と高地ドイツ人の言語は通じ合わないという話もある。

だが、ドイツは国民国家を形成する過程で「高地ドイツ語」を標準語にした。このため低地ドイツ語は単なる方言扱いされており言語としては認められてこなかったという。しかし近年では見直しが始まり低地ドイツ語を言語として認めようという動きが出てきているそうだ。

北ドイツのデンマーク語というエッセイにはその複雑さが書かれている。ユトランド半島の付け根にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州にはそれぞれのマイノリティ言語が残っているそうだ。ここでも低地ドイツ語はドイツ語とは別言語として扱われている。

言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語……

132.北ドイツのデンマーク語

朝鮮半島は行き止まりになっており南方の島から来た人たちと北方から来た人たちが混じり合って朝鮮人という民族を形成していったのだろう。韓国には三韓に由来するであろう全羅道・慶尚道方言が残っているが独自言語・独自民族であるというアイデンティティはもうない。

一方でユトランド半島は回廊になっておりスカンジナビアから大陸への通路になっている。また海に着目すれば北海とバルト海の間の回廊でもある。このため複雑な言語と民族が残っている。だからデンマークは厳密には半島とは呼べないのだ。

GHQ占領下でリベラル政権を潰したのは誰だったのか

占領下中道政権の形成と崩壊―GHQ民政局と日本社会党を読み終わった。後半の片山政権崩壊と芦田政権崩壊の部分である。




この本には二つのラインがある。一つはGHQの民政局のラインである。ケーディス民生局次長はニューディーラーであったそうだ。彼が日本の議会政治に積極介入し憲法改正を主導し片山政権を作り上げた。つまりここでいうリベラルとはアメリカ民主党のことであり、戦前の立憲政治でもソ連の影響を受けた共産主義でもない。そして片山政権はこのケーディスのラインに乗った。

ところがこの積極介入は思わぬ副作用を生んだようだ。この本には全く書かれていないのだがケーディスが昭和電工事件で汚職に関わっていた疑いが持たれているのだそうだ。それを暴いたのがG2であり、G2と吉田が近かったので「G2とGSの対立が吉田政権を作った」という評判につながったようだ。この本ではマッカーサーの使者としてアメリカに送られたケーディスが、衆議院選挙の結果に絶望して密かに職を辞したことなっているが、Wikipediaは昭和電工事件が露見しそうになったので身を引いたような書き方がしてある。

いずれにせよ、政治経験のあまりない人が議会の緊張から解き放たれて「好きなように国が作れる」となった時、舞い上がらないはずはないと思う。いつの間にか「僕の国ごっこ」になってもおかしくない。

この本では日本の憲法は日本の議会が作ったことになっている。押し付け憲法論が政治的課題になって共有される前の本なので特定の立場を強化するためにあえてそう書いたというものではないのだろう。

ケーディスは途中退場なのでそのあとの歴史検証でメディアに登場した時いささか無責任な対応をしているようだ。例えばこの古森インタビューはのちに改憲派によって好んで使われるようになった。各国の憲法を寄せ集めて突貫的に作られたという話になっているからだ。男女同権にしても若い女性のアイディアが採用されという経緯があるようだ。日本側も「この好ましい女性が書いたんだったら採用してもいい」と応じたという逸話があるそうだ。「あまりにも軽い」と考える人がいても不思議ではない。

いずれにせよケーディスは途中退場させられ民政局も縮小された。あまり日本の政治に深く関わらないようにというわけである。本国でもニューディーラーの影響力が失われて、代わりに社会主義者のようなレッテルが貼られ、最終的に「赤狩り」議論が行われるようになる。段階的な社会主義排斥運動はやがて「マッカーシズム」と呼ばれた。

ところがG2はその後吉田経由で日本の政治に口出しをしたわけではないようである。アメリカは「GHQが日本の復興プロセスに過度に関わらないように」という指示を出し、その後日本は吉田のもとで経済復興路線を歩むようになる。

アメリカの共産化への懸念が何だったのかはよくわからないのだが、アメリカ側の文脈から見ると民主党が推し進めようとしていた「社会保障・公民権・労働組合監視の撤廃」に対する共和党(企業)と南部民主党(黒人差別派)の揺り戻しだったのだと思う。つまり世界各地で労働者たちの反乱がありそれが最終的に本国の既得権益層を脅かすのではないかという懸念があったのではないかと思うのだ。

ところが、アメリカの政策変換があったからといって日本が吉田政権になった理由を説明できるわけではない。アメリカは日本の政治からは手を引いてしまうからだ。つまり、アメリカは民政局の過度の関与がなくなっただけで、日本の有権者が望めば引き続きリベラル政権が存続していたはずなのだ。ところが、有権者は一度は社会党を支持するが経済混乱は収まらず有権者は中道路線に飽きてしまう。最終的に議会が選んだのは吉田政権だった。第二次吉田内閣は民自党(のちに自由党)の単独政権だった。つまりGHQの態度変容が日本の政治を変質させたわけではない。もともとあった理想主義的な流れが取り除かれただけなのである。

吉田政権のもとで下野した社会党はこの時から迷走を始める。もともとGHQはアメリカ民主党的な社会民主主義路線は容認していたが共産化につながる過激な運動には警戒をしていた。つまり日本の社会主義者とアメリカの社会主義者にはズレがある。そのズレからはみ出した人たちが「左派」と呼ばれていた。

左派は政権からも排除され党内野党を形成する。閣外に出たことでこの対立が表面化し「大衆路線」か「階級闘争路線」かでもめたようだ。この間を取る形で大衆階級路線という理屈が考え出される。つまり中間層は遅れた階層であり、啓蒙・解放されるべき階層であるという「上から目線」の理屈を作って内向きに混乱を収めたのだ。

こののち、逆コースをたどる保守はそのうち日本を再び戦争(つまり第二次世界大戦のような戦争)に導くぞというような思い込みに支配されることになる。朝鮮戦争は現実的な危機だったのでこれが一定の説得力を持ち、安保闘争でも一定の成果をあげる。

その後は「自分たちも参加して作った憲法によって得られた平和を維持するためになんとしてでも改憲を阻止しなければならない」という護憲路線をとるようになる。一方で政権に関与することがなくなったので「極端に理想主義的な平和主義」と「大衆が社会党を選ばないのは啓蒙されていないからであろう」と独自の世界観を形成してゆく。左傾化というより浮世離れしてしまったのだ。

その後も現実路線と理想主義の間を揺れ続け村山政権が誕生するまで政権を取ることはなかった。そして現実に政権に関わったことで瓦解した。村山首相は左派だったので、左派による中道化(左派から見れば右傾化だろうが)というわけのわからない状態になり、左派も右派も離反してしまったのである。

1955年体制の社会党は自民党政治の不信任の度合いを示すバロメータにはなったが政権を期待されたことは一度もなかった。日本人は「リベラルな政治」を信じない。社会党は「既存政治へのブレーキ」としてしか機能してこなかったのだ。ブレーキはやがて磨耗し今歴史から消えつつある。だが皮肉なことに民主党系の野党に残っていてあまり意味のない軋轢を作り出している。

占領下で社会党政権をつぶしたのは有権者だった。だがそのあともブレーキとして利用され続けており、今も民主党各政党で「絶対に与党には協力しない」というブレーキの役割を果たしている。しかしブレーキとしてのみ存在しているうちに現実対処能力を失い政権奪取をきっかけになんども崩壊を辿る運命を背負わされてしまっているのである。