船戸結愛ちゃんの届かなかった叫び

目黒で5歳の女の子が殺された。警視庁が子供のメモを公開し「親が許せない」というトーンで報道されている。今回は「人が育つ・育てる」というのはどういうことなのかということについて考える。

なおこの文章は「孤立した母親が自分が理解した規範を娘に規範を押し付けている」という見方で書いているがハフィントンポストの分析だと父親が規範を押し付けていたというように読み取れる。女はモデル体型ではないといけないと言っていたのは父親だというのである。

確かにこの訴えを聞いていると両親が許せないというような感情が湧き上がる。毎日新聞に子供のメモの全体が掲載されており、ワイドショーの中にはタレントに涙まで流させて扇情的に扱ったところもあった。

ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします

だが、本当にこの話は単に扇情的に扱われて良いのかという疑問がある。結愛ちゃんの叫びは我々には届かなかった。親が子育てに失敗したという見方もできるだが、社会が母親を育てるのに失敗したとも言える。社会が人を育てるというのはどういうことなのだろうか。リベラルの識者がいうように単に児童相談所の予算を増やせば良いのだろうか。

最初、報道を見ないで考察したのだが結果的にはかなり外れてしまった。この後フジテレビの情報番組で情報を補足した。その中で見えてきたのは二つの行動原理である。夫の方は動物の基本通りに行動している。自分の遺伝子を確実に残すために邪魔な子供を消そうとしたのだ。報道によるとリーダーシップもあり仕事もできる普通の社会人だったというだけに恐ろしさが際立つ。一方で母親の方がもっと屈折しているのだが、報道では「夫の暴力を黙認した半ば被害者」のような扱われ方になっていた。

夫の方は比較的単純に分析ができる。父親と結愛ちゃんの間には血のつながりがない。このことからこれが一部の猿などで見られる典型的な子殺し案件だったということがわかる。普通の男性は何らかの理由でこれを抑え、代わりに共感と愛情を育んでゆくがこの人にはそれができなかった。「経済的に余裕がないから虐待したのではないか」と思ったのだが、年齢も離れており仕事も持っていたということで、経済的に余裕がなかったということは言えないようだ。

猿の中で子殺しをするので有名なのは、ハーレムを作るハヌマンラングールという猿だ。強いオスがハーレムを乗っ取ることがあり、前のオスの子供をすべて殺してしまうそうだ。サルの場合は子育てをしている間は発情が抑えられるので子供を「取り除いて」発情を促すという側面もあるという。遺伝子を残すという意味では合理的な行動である。だが、これは人間の世界ではやってはいけないことである。

痛ましいのは、児童相談所の摘発が転居のきっかけになっている可能性である。東京新聞によると食品会社を退職して東京に移っているのだが勤めていた会社は摘発(書類送検されたが不起訴)について全く知らず「子供のことを考えているよい父親だ」と感じてたという。しかし、結局この転居は「逃げるため」のものになった。東京ではさらに念入りに隠蔽工作が施される。結愛ちゃんについて知っている人がほとんどいなかったうえ、事情を知っていた児童相談所も結愛ちゃんに会えなかったようだ。目黒には児童相談所はなく品川などの広い区域を少ない人数でカバーしていたそうである。

問題は母親である。子供を安全保障に使っているということと夫の行動を黙認しているという点では動物的な側面を持っていると言える。だが、本当にこの人は、新しいオスに子供を殺されるだけの被害者だったのかという問題がある。

まずフジテレビのワイドショーは「支配」というキーワードを用いていた。児童相談所勤務経験のある人の証言では、虐待する母親ほど子供に執着することがあるのだそうだ。この手紙も自発的に書いたものではない可能性があるという。つまり、結愛ちゃんはこれを忖度して書かされていたことになる。忖度と言っても支配するためには直接的な暴力や言葉による罵りが行われることがある。つまりこれは結愛ちゃんの考えではなく母親の規範である。政治の忖度と同じように児童相談所にこれを見せて「子供が言っている」として正当化の道具に使う親もいるそうである。

次のキーワードは「理想の(あるいは普通の)家族」である。結愛ちゃんは近所からも隠されて「あんな子供がいたことを知らなかった」という証言があった。つまり近所には「完全な(つまり血のつながりだけで形成された)家族」を演じていたということになる。

母親は子供に「社会的規範」を移していることがわかる。手紙から伝わっているキーワードは「こつこつ努力すること」「遊びのような無駄なことをしないこと」であり、供述からわかるのは「モデルのように美しくなること」である。が、このキーワードは一体どこから出てきたのかはわからないが、コツコツ努力できなければ叩かれても良いとか、モデルのように美しくなるためには成長に必要な栄養を与えなくても良いというのは明らかに暴走だろう。

例えばこれを自分に向ける女性もいる。モデルの女性を見て羨ましく思った女性が自分に価値がないのは美しくないからだと考えて拒食症に陥ってしまうというのがその例だ。彼女はそれぞ自分には向けずに娘に押し付けていた。つまり、社会が彼女を「育て」て、彼女は娘を「育てて」いたことになる。この規範の移転も実は母親の「機能」なのである。

だが、この機能には修正装置もついている。それが社会である。この社会がなかったのなら「社会が悪い」で済むのだが、実はそうでもなかった。

人間は猿よりも寿命が長いので祖父祖母という存在がある。つまり、祖父母が間に入って介入できれば「惨劇」が防げていたのではないかと思った。だが、これ想像とは異なっていた。母親は親と同じアパートに住んでおり、新しく結婚するまでは交流もあったようだ。最後に食事にも出かけていたことから放置されていたわけでもなかった。

国も制度を持っていた。児童相談所は虐待について知っていたわけだし、それなりに心配もしていたようだ。香川では二回の虐待騒ぎが起きているから「移動させると大変なことになる」と指摘した人たちもいたという。だが、目黒ではそれがうまく行かなかった。

今でも不十分なセーフティネットだが、それが取り除かれあるべき規範意識を社会が押し付けるだけになるとどのような問題が起こるのかが予想できる。そしてその時に最大の「加害者」になるのは無批判に外的な規範を受け入れてしまう母親である。

ここに出てくる人たちは核家族という集団で規範を作ろうとしていた。ただし、核家族は拡大家族や地域社会から閉じこもる道を選び、さらにその中では家族から母娘が閉じこもる道を選んだ。この小さな集団は短い間に暴走し、最悪の結果がもたらされた。結愛ちゃんの叫びは何重にも密閉され警察に発表するまで誰にも聞こえなかったということになるだろう。

自民党の憲法草案は「あるべき家族像」を政治家が国民に押し付けても良いという考えのもとに作られている。と同時に社会はこれ以上のお金は出せないからそれは家族がお互いに助け合って何とかすべきだとも主張する。

よく「子供を戦場に送らせない」というリベラルの主張がある。この母親が特殊な人であったとしたら暴力的な社会から子供を守る母親たちが子供を守ることになる。しかし、もしこの母親が特殊でないとしたら、夫や社会の暴力にさらされた時、母親はそれを黙認するばかりか、子供を進んで危険な場所に送り出すようになるはずである。どちらが多いのかはそうなってみなければわからないが、もし悪い方の予想が当たればそれは取り返しのつかない社会の失敗になるだろう。

自民党は社会を作ることに関心がない政党である。働き方改革でも、彼らなりのビジョンを押し付けた上で「柔軟な働き方ができるように規制を取り除く」と言っているが、その労働市場がどうやったら作られるかということについては一切興味を持っていないようである。

もちろん、自民党が今回の事件を引き起こしたなどと主張するつもりはないのだが、今でも母性というのはかなり危険な状態に置かれており、家族も密室化している。社会がどう形成されるべきかという視点を持たない政治はこの状況をさらに悪いものにするだろう。

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